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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数688件
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前作『眠れぬイヴのために』は追う者と追われる者の物語だったが本書もまたその構成は同じである。『眠れぬ~』では逃亡した精神分裂症患者をそれぞれの事情を抱えて複数の人物が追い求めるという構成だったが、本書も娘を監禁した誘拐犯がその離婚した両親、娘の元彼氏、娘の父親と親しい刑事に追われる物語になっている。
つまりこの2作は実に似通った作品だといえよう。 精神異常者が主要な登場人物として扱われていることもまた同じだ。『眠れぬイヴ~』では追跡者であるマイケル・ルーベックは精神分裂症患者だったが、本書では被誘拐者のミーガンが情緒不安定でセラピーを受ける人物になっている。 そして誘拐者で敵役のアーロン・マシューズもまた小さい頃に父親から虐待を受けており、神父でありながらも殺人を厭わない残忍さを兼ね備えている。 このアーロン・マシューズという敵役は実に凶悪で底知れぬ恐ろしさを兼ね備えた人物だ。十代の頃に父親を凌ぐ説教を行う神父の卵として数々の信者から篤い信仰を得、さらに独学で心理学の書物を読み漁って無免許のセラピストとして開業もしている。そのため無敵なまでの腕力を誇るわけではなく、相手の心理を読み取り、信頼感を抱かせる声音を使って、追跡者を出し抜き、あの世へ送るサイコキラーなのだ。どんな人間も心の弱いところを突かれると冷静さを失い、いつもの自分の実力の半分も出せなくなる。 アーロンは人が持っている心の弱い部分を探り、その隙を上手く突いて相手の一枚も二枚も上に行くのだ。通常の作品であれば残るべき登場人物が次々と一人、また一人と彼の手によって抹殺されていく。従来の連続殺人鬼のイメージを刷新するキャラクターだ。 そんな相手に対峙するのがかつて敏腕検事として鳴らしたミーガンの父テイト・コリア。彼はそのあまりに弁が立つため、その切れ味の鋭さからかつて陪審員を見事に誘導させて無罪の人間まで死刑にまで持っていった苦い過去を持つ。 つまり相手の心理を読み、説得し、納得させることに関しては一流の男なのだ。人間の情理を操る2人の男の対決が本書の読みどころだ。 しかしもっと掘り下げて考えてみると、無実の罪の男を死刑に追いやるほどの説得力を持つ検事もまた、乱暴な云い方をすればある意味殺人者と云えるだろう。 つまりテイト・コリアとアーロン・マシューズは表裏一体の存在なのだ。しかもお互いがお互いの正義に従ってそれを成しているところが共通している。 検事であったテイトは法の名の下、犯罪者を死刑にするため、弁舌を揮う。 牧師であったアーロンは神の名の下、信者が自ら死を選ぶよう、人の心を揺さぶる声音で導く。 それぞれが善を司る職業に従事しているだけにこれは怖い。 そしてこの類稀なる頭脳を持った人間同士の戦いという構図は後のリンカーン・ライムシリーズの萌芽を感じさせる。そういった意味では本書が後のディーヴァーマジックの源泉と云えるのかもしれない。 彼アーロンがなぜテイトの娘を誘拐し、生贄に捧げようとするのか?その理由は実はかなり前からエピソードとして読者の前に提示されている。 テイトが自らの弁舌で死刑に追いやった青年が実はアーロンの息子であったのだ。アーロンは息子の敵を取るため、神の言葉に従い、テイトの娘ミーガンを誘拐したのだった。 しかし彼は幼い頃から誰にも愛されなかった経験ゆえに、唯一の理解者で話し相手だった息子が恋人に取られてしまうのに焦燥感を持ち、彼の恋人を殺してしまう。その罪を数ある証拠から息子本人に被せてしまったという皮肉な過去があった。このことからも実に利己的な孤独な男としてアーロンが描かれているのが解る。 しかし本書は『眠れぬイヴのために』の冗長さを感じさせない物語巧者としてのストーリーテリングの上手さが光る。上にも書いたようにアーロンが次から次へ追っ手を葬り去る手際といい、セラピストとしてミーガンの両親であるベットとテイトに直接対峙する綱渡りさえも見せる演出といい、サスペンスの盛り上げ方の腕が上がったように感じた。 しかし不幸なことに本書はディーヴァーの名を日本の読者に知らしめた『静寂の叫び』の後に刊行されたため、さほど話題にならなかった。逆に云うと『静寂の叫び』を未読の私にとってどれほどの出来栄えなのかが実に愉しみではある。 さて本書の原題は“Speaking In Tongue”という。解説の児玉清氏によればこれは「神の言葉を話す」という意味のイディオムらしい。 実に物語の性質と言葉を駆使するアーロンとテイトという2人の人物を捉えている題名だ。しかしこれを上手い邦題に訳すのは難しいだろう。 確かに邦題が示すように「監禁」が主題なのだが、これではあまりに素っ気無さ過ぎる。もっといい題名を考えてほしかった。 しかし追う者と追われる者というプロットといい、悪役の設定、精神を病んだ人物が出てくるあたりといい、実にクーンツの匂いを感じてしまう。前にも述べたがこの売れない時期、ディーヴァーはベストセラー作家であるクーンツにあやかろうと彼の作品をつぶさに分析し、自家薬籠中の物としようとしていたのではないだろうか。 しかし既存作家の翳を感じるようではまだオリジナリティがあるとはいえない。ディーヴァーが現在ミステリシーンを代表する作家となったその瞬間に早く立ち会いたいと思う。 それはもうそんなに遠くは無いはずだ。 |
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クイーン版ミステリ歳時記後編。題名が示すように7月から12月に亘って起きた事件について綴られている。
7月は夏の暑いさなかに起こった「墜落した天使」。 エラリイが犯人を特定するのに7月の独立記念祭に使われる爆竹が手がかりとして挙げられる。 7月なければならなかったというほど強い根拠ではないが、アメリカの祭りの特徴が上手く事件に使われている。しかしクイーンのロジックを堪能するには弱いかな。 8月はある探検家から依頼が来る「針の目」だ。 財宝探しと殺人事件を絡めた意欲作。しかし前者の宝探しの暗号は読者の推理する時間を与えぬまま、エラリイはすぐさま看破してしまう。 そしてそれが依頼人エリックスンの懸念、姪と自分ら2人が姪の夫とその父によって殺されるのではないかという疑念を現実に変えてしまうという、2つを融合させた作品だが、エラリイのロジックが冴え渡るというよりも自分の推理をまくし立てるエラリイの舌先に乗せられたまま、事件は解決してしまったように感じ、ミステリのカタルシスを感じるとまでいかなかった。 しかし月長石は作中で語られるオウガスタス・シーザーの月、つまりは8月という記述の意味は解らなかった。月長石は6月の誕生石らしく、作中にも月長石は出てこないので、単純に8月に結びつけるアイテムやイベントが浮かばなかったのでクイーンが苦し紛れにこじつけたように感じた。この辺からもなんとなく坐りの悪さを感じる作品だ。 9月の事件「三つのR」はアメリカはミズーリ州にあるバーロウ大学で起きた。 9月は新学期が始まるということで、大学を舞台にした事件が扱われている。本編は『犯罪カレンダー<1月~6月>』に収録されたある作品と趣向は同じ。 10月のアメリカの祭りといえばハロウィン。「殺された猫」はハロウィンの最中に起きる殺人事件の話だ。 パーティの最中の殺人ゲームが本当の殺人に発展する。なんともありきたりな話ではある。 そしてエラリイはその当事者の一人なのに、暗闇でうたた寝をしてしまい、その瞬間を思い出せないという失態を演じてしまう。 話の演出としては実にオーソドックスだが、前半パーティに興じるエラリイとニッキイの2人で交わされる、散らかり放題の部屋の中であちこちに身体をぶつけ、難儀する会話が最後の犯人特定に大きな要因になるのは実に見事。こういうさりげない伏線というのに私は弱い。 しかしクイーンは最後の一行で犯人が判明する演出が本当に好きな作家である。その演出に拘るため最後のあたりはどうしても不自然に思えてしまう。 11月の行事といえば日本では馴染みのない感謝祭がある。「ものをいう壜」は感謝祭の前日に起きた事件だ。 感謝祭に纏わる話からインディアン―今ではネイティヴ・アメリカン―の話に及び、そこから発展してその子孫の働くレストランに至って、そこで麻薬密売の端緒に触れるという先の読めないストーリー。 本書でも触れられているが、この作品はチェスタトンのブラウン神父シリーズの中でも一、二を争う名作「見えない男」のオマージュである。 クイーンがなぜこの事件を11月のメインの行事、感謝祭の前日に設定したのかは最後の一行で判明する。この台詞をどう受け取るかで作者クイーンの評価が分かれるだろう。私はちょっとあざといなと感じた。 最後の12月はやっぱりクリスマス。「クリスマスと人形」はクリスマス・イヴに起きた盗難事件を扱っている。 なんと最後を飾るのはクイーンの手によるエラリイ対怪盗という頭脳対決。しかも本編に登場するコーマスは作中でも述べられているように、ルパンの継承者とも云える凄腕の怪盗だ。つまり本書はエラリイとルパンの対決譚と云ってもいいだろう。 前作『~カレンダー<1月~6月>』で久々に初期の知的ゲーム的面白さを堪能でき、本書においても同様の愉悦を期待したが、いささか失速感があるのは否めない。作品に瑞々しさがなく、作者クイーンの息切れが行間から聞こえてきそうだ。 本書でも前作同様、それぞれの月に関係して事件が起こるが、本書では一部こじつけめいたものを感じた。 まず7月に起きた事件を扱った「墜落した天使」では独立記念祭に使われる爆竹がエラリイに犯人のトリックを看破する手がかりとなっているのはよい。 しかしその次の8月の「針の目」は月長石がオウガスタス・シーザーの月だから殺人が起こるというはいささか無理を感じる。月長石は6月の誕生石の1つだし、おまけに月長石は作中には出てこないのだから、なんとも苦しい。 9月は新学期ということもあって「三つのR」では舞台が大学内となっている。10、11、12月の短編「殺された猫」、「ものをいう壜」、「クリスマスと人形」はそれぞれアメリカで有名な行事であるハロウィン、感謝祭、クリスマスがテーマだ。その中でも「ものをいう壜」は感謝祭そのものよりも最後の一行の台詞のみそれを感じさせるのだが。 そしてこの両短編集は趣向的、内容的にも対を成しているように感じた。 それぞれの短編が発表された年はまちまちであり、恐らく1月から順番に発表されたものではないだろうが、後半の本書は前半の作品を下敷きにした発展型のように感じた。しかしそのためにシンプルさに欠けており、ロジックの妙を前半よりは楽しめなかった。 あえて個人的ベストを挙げるとすると「殺された猫」か。クイーン作品の特徴であるストーリーに溶け込ませた何気ない描写が最後に犯人特定のロジックの決め手となるという趣向があるが(例えば『Zの悲劇』の死刑執行シーン)、これはそれを堪能できる作品。まさか散らかり放題の部屋でエラリイとニッキイがあちこちにぶつけ、文句を云い募るスラップスティック的なシーンが推理の材料になるとは思わなかった。こういう無駄のない作品を読むと本格ミステリの美しさを感じる。 しかし上にも書いたようにミステリの趣向としては『~<1月~6月>』の各編に類似しているため、二度同じような話を舞台を変えて読まされたと感じてしまった。評価の星の数は一緒だが、こちらは7ツ星の下というべき位置づけ。 クイーンが意外とヴァリエーションのないことに気付かされた、ちょっと寂しい読後感だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書はある家で何が起きたのかを残された手がかりで解き明かす男女2人の物語。しかしその家には女性の失われた過去が関係している陰惨な事件が隠されていた。
一枚一枚皮を捲るかのように散りばめられた手がかりによって次第にその家で何が起こったのかが明かされていく。その過程は非常にスリリングだ。 読書というものは不思議なもので、こちらが意図していないのに同じようなテーマを扱った作品を続けて読む、そんな不思議なことがよくある。まるで神の導きによって吸い寄せられているかのような錯覚を覚える。 本書もそんな奇縁を感じることがあった。というのもこの前に読んだ篠田氏の『原罪の庭』で取り上げられていた幼児虐待がテーマとして扱われているからだ。 虐待はそれをする親が過去に虐待をされていた経験を持つという負の連鎖から沙也加は自分が実の娘に虐待めいた酷い仕打ちをするのは自分も虐待の経験があるのではないかと疑い、自分が小学校以前の記憶が一切ないことに愕然とし、その記憶を辿るために亡き父が残した地図に示された場所に向かうというのが本書の発端だ。 以前も書いたがこの90年代というのは“自分探し”というのが一つのブームになった時期でもある。 “自分探し”というのは文字通り自身の足跡を辿り、自分がどんな人間なのかを探ることも指すし、心理テストを行い、自分の願望や性格をその結果から客観的に知るという手法もまた自分探しの一環であった。当時『それいけ!!ココロジー』に代表される心理ゲームの番組が非常に流行っていた。 そして東野氏もこの頃人間の心をテーマにした謎に関心があり、『宿命』、『変身』、『分身』など人間の心理もしくは人間そのものの存在をテーマにした作品を著している。 本書はその一連の作品群の中の1つといってもいいだろう。 しかし失われた記憶を取り戻した暁には常に苦い思い出だけが残る。知らないままにしておいた方がいいこともある、一連の作品で東野氏はアンチミステリとも取れる宣言をしているかのように思える。 なんとも謎めいた題名『むかし僕が死んだ家』。 アイリッシュに「わたしが死んだ夜」という短編があったが、あれに比肩する魅力的な題名だ。 しかしこの内容はロジックで得心するものではなく、感情に訴える観念的な意味が込められている。 成長する過程で誰もが何かを失っていく。それは知らないでおればよかったものとも云える。 本書を読み終わったとき、結城昌治氏の『幻の殺意』を思い浮かべた。今まで生きてきた人生とはなんとも危ういバランスで成り立っており、それは一種の幻のようなものなのかもしれないとその作品では語られているが、本書の底に流れるメッセージも共通している。 今までの作品でも東野氏の作品は読後何か苦いものを残していたが、本書ではそれがいっそう濃く感じた。感情の層のもっと深いところにある部分をテーマに持ち出した作品、そんな風に感じた。 300ページ足らずの佳作だが、心に残る思いは思いの外、苦かった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『灰色の砦』は栗山満春と桜井京介との邂逅の話だったが、今回はシリーズ当初から謎にされていた蒼と京介との邂逅が語られる。本書で蒼の本名がようやく明らかになるわけだ。
そしてこの蒼と桜井との邂逅の話をもってシリーズの第一部終了となる。 その事件が薬師寺事件。それは1986年白金の薬師寺家の温室で起きた陰惨な虐殺事件だった。 薬師寺静とその妻みちる、そして静の連れ子深堂華乃が天井から逆さまに潰され、それぞれ人相も判らぬほどの惨たらしく傷つけられ、さらに館の主人美杜みすずは寝室で睡眠薬過剰摂取で死んでいた。そして温室には香澄が骨董品のチェストに1週間閉じ込められており、手にはみすずが飲んだ睡眠薬と同じ薬品が握られていた。温室内は被害者達の血で塗り立てられ、ガラスについた血の手形や足跡は子供のそれしか残されていなかった。つまり全ての状況は薬師寺香澄が犯人であることを指していた。 この薬師寺香澄が後の蒼となるわけだが、彼にこれほどまでに過酷な過去があったとは思わなかった。事件のショックで言葉を失った彼がいかにして蒼となるのかが本書では語られる。 また有名な建築が作品の舞台、モチーフとなるのがこのシリーズの売りだが、今回は英国王立キュー・ガーデンにあるガラス張りの温室パームハウスを模した美杜邸の温室が惨劇の舞台となっている。 しかし本書では温室内で起きた4名もの被害者と一人の幼き生存者との間で何が起こったのかが焦点となっており、その建築的特徴が前面的に出るわけでない。 本書でテーマになっているのが幼児虐待。 今ではもう一般的になったが単なる暴力による虐待のみでなく、上手く愛情表現が出来ない親の体罰が実は虐待なのだということ。またネグレクトという育児放棄などが語られる。 特に蒼が経験した虐待はそれらをひっくるめた虐待のフルコースといったような感じだ。親の経営する病院で親の息の掛かった医者達に自閉症と診断され、学校に就業するのは不可能とされて自宅での監禁生活を強いられ、愛し方の解らない母親に虐待と同義の扱いをされていた。 蒼という人物に厚みを与えるためとはいえ、よくもまあ、これだけの仕打ちを考え、詰め込んだものだ。 しかしそんな篠田氏は折に触れ推理小説批判とも取れる発言を登場人物にさせており、本書でもそれは見られる。 今回は顔をズタズタにされた死体が出てくるが、本格ミステリでよく用いられる入れ替わりトリックについて案外辛辣に批判している。現代の検屍技術が発達した現代では顔を潰したり、指紋を焼いたりしただけではごまかせたりしないと述べている。 篠田氏のミステリに対するスタンスは斯様に建築探偵という建築物に込められた関係者の思いを推理する探偵を配し、それに纏わる殺人事件はその過程で解かれるという、本来謎の焦点となるべく対象を微妙にずらしていたりと、他の本格ミステリ作家と比べると一歩引いた冷めた視座に位置しているように思える。それがゆえに謎解きのレベルとしてはいささか低く感じるのが仇になっている。 つまり篠田氏が書きたい建築物に絡めた物語を語るのに、本格ミステリという手法が最も適していた、そんな風に思える。 従ってミステリに対して他の作家ほど知識が浅薄なのか、そのため迂闊な記述があるようだ。 例えば本書では第一容疑者である香澄を二重人格者と神代教授が疑うことについて、京介がいまどき多重人格というネタは今では古臭い手だと一蹴する場面があるが、作中の時代は主題である薬師寺家事件が起きた1986年の3年後の1989年である。 巷間で多重人格者が話題となるきっかけとなったダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』が訳出されたのが1992年。つまり作中年よりも3年も後のことで、この作品以降多重人格物がドラマ、映画、小説、ノンフィクション、マンガなどあらゆるメディアで取り上げられるようになった。この記述は篠田氏の明らかな調査不足であろう。文庫化の際にこれは修正してほしかった。 篠田氏の作品の結末はいつも苦い物が残る。それは登場人物たちが自虐的なまでに自己犠牲精神が強いからだ。 本書でもそんな人間達が揃っているし、何しろ探偵役の桜井京介が自己犠牲的であり、破滅型思考の持ち主だ。 本書は桜井の意味深なメッセージで物語が閉じられる。このシリーズの先行きはある不幸に向かっていくようだ。決して明るくないであろうその前途に魅了される物を感じるからこそファンがいるのだろう。 あいにくと私はそこまでこの世界に耽溺できないが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クイーン版ミステリ歳時記ともいうべき短編集。本書は1~6月までの事件が収録されている。
まず先鋒を切るのは「双面神クラブの秘密」。 ミッシングリンク物でミステリの興趣をそそる内容。即ち秘密クラブのメンバーの各人に共通する鍵があるというものだが、これを解き明かすのは日本人には辛いものがある。しかし知的パズルゲームとして純粋に面白い作品だ。 次の「大統領の5セント貨」は収集家がエラリイの許へと集まる奇妙な幕開けから始まる。 これも非常にアクロバティックな論理展開が面白い作品だが、推理の鍵となるのがやはりアメリカの歴史とジョージ・ワシントンの性癖という日本人には解りにくい鍵だったのが残念。 3月は「マイケル・マグーンの凶月」だ。 事件の真相よりもこの作品には当時アメリカミステリシーンで台頭していたハードボイルドを揶揄する表現が多々出ているのが読みどころ。 チャンドラーしかり『マルタの鷹』しかり。 マイケル・マグーンは彼らが描く私立探偵の流れに沿う人物として書かれているが、ダサい服装に冴えない風貌と、読者の幻想を打ち砕く容貌である。そして彼がエラリイ・クイーンの許へ事件解決の依頼に来るという展開はハードボイルド探偵ではパズラーは解けないとあからさまに云っているように思えた。 次の「皇帝のダイス」は最後に至ってなるほど、4月の物語だと思わせさせられる。 これは最後の一行の為の作品。 恐らくカーが得意とするオカルト趣味的本格ミステリを目指した作者がこの頃ミステリシーンを席巻していたハードボイルド小説におけるリアリティについて最後の最後で意識が芽生え、このような結末になったのではないかと勘ぐってしまう。 5月の最終月曜日は南北戦争の戦没将兵記念日。従ってそれに関係する「ゲティスバーグのラッパ」がこの月のお話。 クリスティの『ABC殺人事件』から着想を得たのではないかと思われる作品。 アトウェル(A)、ビゲロー(B)、チェイス(C)の3人の関係は南北戦争の生き残り。そして彼らには隠した財宝があり、最後の生き残りがその全てを手に入れることが出来る。最初に死んだのはA、次に死んだのはC、最後に死んだのはBとこの順序がエラリイの推理の鍵になるのだが、ここではさらに捻りが加えられている。 作品の雰囲気、最後のロジックはなんだかチェスタトンを思い起こさせる。 6月といえば梅雨を思い浮かべるが、それは日本だけの話。西洋ではそんな陰鬱なイメージではなく、華やかなイベントがある。ジューン・ブライド。本書最後を飾る「くすり指の秘密」は結婚に纏わる悲劇が語られる。 シンプル・イズ・ベスト。 たった一言、しかも正に誰もが気付いたであろうある事実が見えない犯人の靄を晴らすロジックの冴え亘る作品。 クイーンのいるところ犯罪有り。本書は1年を通じてその月に起きた事件を綴った短編集。各編はその月の出来事に関連している。 1月の「双面神クラブの秘密」は大学の年次会が行われる1月1日(これはアメリカの大学ならば通例なのかは判らないが)。 2月の「大統領の5セント貨」はワシントンの誕生日があることからワシントンに纏わるお話が。 3月の「マイケル・マグーンの凶月」は確定申告の〆切で申告書を盗まれた探偵の依頼が。 4月の「皇帝のダイス」は最後の最後でその基となるあるイベントが明らかにされる。 そして5月の「ゲティスバーグのラッパ」は南北戦争の戦没将兵記念日、6月の「くすり指の秘密」はジューン・ブライダル、といった具合だ。 月ごとの特色が十分にプロットに活用されているかといえばそうとは云えない。寧ろ各月の記念日や祝日、そして由来をアイデアのヒントに物語と綴ったという色が濃い。プロットと有機的に組み合わさっているのは「皇帝のダイス」ぐらいか。 しかしなんといっても本書ではクイーン初期のロジック重視のパズラーの面白さが味わえるのが最大の読みどころ。それぞれ50~60ページという分量で語られるそれぞれの事件は無駄がなく、作品もロジックに特化された内容で引き締まっている。 さらにニッキイ・ポーターとエラリイのコンビが楽しめるのが一番の読みどころ。シリーズのコメディエンヌとも云えるニッキイとエラリイのやり取りは読書の絶妙なスパイスとなってクイクイ読まされてしまう。 しかしニッキイはどうやら短編のみの助手らしい。長編でも出てくれればいいのだが、後期クイーンシリーズのシリアスさには合わないのかもしれない。ニッキイのお陰で短編は実に明るい雰囲気で読める。 後期クイーンの探偵の存在意義が触れられるのは最後の「くすり指の秘密」ぐらいか。この作品はロジックの美しさといい、この結末といい、個人的ベストだ。 次点ではチェスタトン風の雰囲気とクリスティ的論理が融合した「ゲティスバーグのラッパ」を上げる。 他に緻密なエラリイのロジックを楽しめるのは「大統領の5セント貨」だが、これは数学の公式を解くような精緻さとあまり日本人に馴染みのないアメリカ初代大統領のエピソードが鍵となっているので、純粋にそのロジックの美しさを楽しめないのが玉に瑕。 ここに収められた6編にはクイーンとしか云えないロジック重視の作品もありつつ、カーを髣髴させるオカルト趣味的な作品に、隔絶された社会での事件というチェスタトン的な独特な雰囲気の物、さらにクリスティ的な論理の妙を楽しめる作品とヴァリエーションに富んでいるように感じた。 これは1945年に創立されたアメリカ探偵作家クラブがクイーンの作品に影響を与えているように思う。今までダネイとリー2人のアイデアで作られていた作品に、クラブの創設で他の作家との交流が深まり、お互い刺激しあうことでアイデアの幅が広がり、作風にも他作家の影響が出てきたのではないだろうか? 奥付を見ると収録作が発表されたのは1946年以降だからこの推察はあながち間違いではないだろう。 しかしクイーンは短編でも面白い。「くすり指の秘密」クラスの作品があと2作収録されていれば文句なし星10を進呈しただろう。 残りの7月~12月の作品が愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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題名が示すように主人公が出くわす「怪しい人びと」が織り成す奇妙な事件を綴った短編集。
「寝ていた女」は会社の同僚たちにホテル代わりに小遣い稼ぎで自分の部屋を貸すことにした男がある日家に帰ると寝床に女が寝ていて、その女が誰が相手だったか解らないから調べて欲しいと奇妙なお願いをされる、というもの。 本編でも語られているが、往年のハリウッド映画『アパートの鍵貸します』をモチーフにした作品で、東野氏らしい着想の妙が光る。温故知新の好例ともいえる作品で、小遣い稼ぎの部屋貸しが犯罪に利用されることになるとは実に上手い。なんか実際ありそうな話だ。 次の「もう一度コールしてくれ」は老人宅に強盗に押し入った2人組のうちの一人がある家に隠れる。その家主には過去に因縁があって・・・という話。 なかなか語り手の男が南波勝久なる男の家に強盗の逃亡中に押し入った意図が解らず、暗中模索しながら読んでいたが、過去の2人の因縁というのが予想外の物。 人生を分けた試合の判定の真実も実に考え抜かれており、なかなか読ませる。 非常に親近感を覚えたのが「死んだら働けない」。 工場内で起こる密室殺人。私自身工場勤務をしていただけに非常に臨場感と現場の雰囲気、そして登場人物の心情が判る作品だ。なんだか他人事とは思えない作品だった。 「甘いはずなのに」は新婚旅行でハワイに向かう夫婦の話。 女性の、愛する者に信じてもらえない哀しさが作品に深みを与えていると思う。 「灯台にて」は幼馴染2人が学生旅行の時に持ったある秘密の話。 優越感と劣等感を持つ友人2人というシチュエーションは『宿命』などで東野の得意とする設定なのだが、劣等感を持つ側が相手を見返そうとすることで生まれる事件というのは面白い。 東北の日本海にある灯台で灯台守に泊まるよう強要された主人公が陥る状況は容易に解るが、これにライバルを加えたのがミソ。正に2人だけの墓まで持っていくべき秘密だ。 「結婚報告」はかつての友人から送られてきた結婚報告の手紙が意外な展開を見せる。 同封された写真の顔が友人の顔を違うとなれば整形かと思うが、東野氏はそんな安直な方法を取らない。しかしちょっと書き流したような作品だ。 最後は唯一外国を舞台にした「コスタリカの雨は冷たい」。 これは舞台をコスタリカなど発展途上国にしたことで説得力が増す真相だ。しかし一見海外旅行中の災難を書いただけのような作品の中に強盗事件の周到な手がかりと意外な犯人を持ってくるあたりに東野圭吾氏のミステリマインドを感じる。 過去の東野作品を匂わすようなテイストを盛り込んだ短編集で収録された作品はよくよく気づいてみると1編を除いて全て一人称叙述の作品だ。つまり主人公の視点で語られている。事件に巻き込まれた人物が抱える心理状態や違和感が主体となっている。つまり短編集の題名である「怪しい人びと」とは主人公を取り巻く人たちなのだ。 しかし本書で語られる事件そのものに目新しさはないだろう。これぞ東野圭吾だ!と快哉を叫ぶような大トリックやどんでん返しがあるわけではない。 しかし明らかになる事件に関係する人それぞれの心の持ちように東野氏ならではのエッセンスが込められているのだ。 「寝ていた女」の犯人の本性、「もう一度コールしてくれ」の元審判南波の昭和人間的厳格さ、「死んだら働けない」のワーカホリック係長に辟易する犯人の心理、「甘いはずなのに」の容疑者が本当のことをあえて云わない心持ち、「灯台にて」の幼馴染の主人公二人の精神的優劣性がもたらした事件といったように謎の真相に至った心理の綾が読みどころだといえる。 個人的ベストは「灯台にて」。このブラックなテイストと読後感はなかなかいい。ある筋からの話によれば、なんと経験談とのこと。迫真性があるわけだ。 そして工場勤めの経験ある私の主観を交えて「死んだら働けない」が次点となる。また「甘いはずなのに」も印象に残った。 しかし軽めの短編集であることには間違いなく、加えて東野の読みやすい文体もあって、印象に残りにくい作品になっている。物語の世界に引き込む着想と展開は素晴らしく完成度が高いだけになんともその辺が惜しいと思う。 出張の新幹線の車中で暇つぶしに読むのにもってこいのキオスクミステリだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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4篇の中短編からなる作品集。
まず表題作は哀しい天才スウィマーの末路を描いた物語。 なんとも哀しい物語だ。アディーノ・シルヴァという、若き天才スウィマーの栄光を極めた彼女がその輝きを見る間に失い、凋落していくさまが非常に哀しい。 特に彼女が性欲過剰で何もせずともエクスタシーに達し、時と場所を選ばず醜態を晒すのがPSAS(持続性性喚起症候群)という病気であったことが近代になって認知され始めただけに当時ロボトミー手術を施されたのが哀しい。このアディーノは作者の創作だが、末尾に添えられた作者自身の解説によれば昭和の時代に実際に手術を施された桜庭章司氏が実在のモデルとのこと。 そして今までの島田氏ならばこの国民的ヒロインの奇行の内容を大脳生理学などの学術的分野の見地から紐解いていくことがミステリとしての主眼だったのが、本書ではさらに加味して、同日同時刻に同じ銃で遠く離れた人物が殺されるという魅力的な謎を提供してくれる。 しかしこれはヒントが十分散りばめられているのでトリックは解った。謎自体は難しくはないが、日常風景から魅力的な謎を創出する島田氏の奇想を評価したい。 続く「人魚兵器」は御手洗潔ならぬキヨシ・ミタライが登場する第二次大戦の戦争秘話。 その題名から内容は容易に想像がつくだろうが、これは第二次大戦時に数多の実験をしたドイツの人体実験を語るものだ。 コペンハーゲンの人魚像を端緒にして人魚のミイラから人魚のような生物へと人魚を軸に移り行く物語の行く末は人間とイルカの混合種を創り、人魚兵器として爆弾を抱かせて敵艦へ激突させる作戦の構想があったというものだ。 恐らくこれは作者の創造だと思われるが、人体実験云々は恐らく本当だろう。ユダヤ人を実験体として人非人的実験を繰り返したナチスの人智を超える残虐さには改めて身の毛がよだつ。 3作目は「耳の光る児」。 耳の光る子供という一種SF小説になりそうな題材をミステリの対象として扱う島田氏の着想の妙に感心した。この謎も合理的に解かれるが、遺伝子工学という専門的な知識を要するため、読者はキヨシが開陳する知識に従うしかない。知的好奇心くすぐられる内容だが、少しは読者が推理する余地が欲しかった。 最後の一編「海と毒薬」はミステリではなく、石岡が御手洗に宛てた手紙という体裁を取った、あるファンの話だ。 ファンレターの主は看護師の女性。O市の看護短大に通っていた時に助けた轢き逃げの被害者との悲恋の顛末とその哀しみでどん底まで落ちた人生から立ち上がる契機となったのが『異邦の騎士』のお陰だと手紙には綴られている。 島田氏特有の哀愁漂う話で物語的には特別なものはない。本書が刊行された時期の島田氏は物語の復興を唱えており、『最後の一球』、『光る鶴』など社会的弱者への暖かい眼差しを感じさせる作品を著しており、本編もその流れの1つと云えるだろう。 題名は遠藤周作の名作と一緒だが、こちらは劇薬である硫酸Dの澄み渡るような碧さを海のそれに喩えたことに由来する。しかもその海は適わぬ恋となった男性といつか2人で行く約束を交わしたモルディブの海だ。 しかし改めて『異邦の騎士』は島田にとって本当に大切な作品なのだなと感じる。本書以外にもこれまでに『御手洗潔のメロディ』収録の「さらば遠き光」、『最後のディナー』収録の「里美上京」にも語られる。横浜の変貌とシンクロするかのように折に触れ語られるようだ。まあ、作中筆者である石岡にとって忘れられぬ事件であるのだから仕方はないのだけれど。 世界を舞台にしたミステリ短編集とでも云おうか。番外編とも云うべき「海と毒薬」を除いて1作目の表題作はポルトガルのリスボン、2作目の「人魚兵器」はドイツのベルリン、3作目の「耳光る児」ではウクライナのドニエプロペトロフスクが主要な舞台となっており、それ以外にもコペンハーゲン、ウプサラ、ワルシャワ、モスクワ、シンフェロポリ、サマルカンドも舞台となっており、短編という枚数からすればこの舞台の多彩さは異例とも云えるだろう。 作者の意図は世界で活躍する御手洗潔を描きたかったのではないだろうか。 また本書で実際の主人公を務めるのは必ずしも御手洗ではない。2,3作では御手洗の活躍が伝聞的に語られるが、表題作では彼のウプサラ大学の同僚ハインリッヒ・フォン・シュタインオルトが謎を解き明かす。彼はウプサラ大学の中で最も御手洗と近しい友人だったようで、2、3作でも語り手を務める。外国の石岡的存在なのだろう。 21世紀本格を提唱する島田氏は現代科学の知識をミステリの謎に溶け込ませているが、本書でも表題作では血流制御内科学の教授が語る持続性性喚起症候群(PSAS)という特殊な症例が、「人魚兵器」ではクローン技術の軸となる発生生物学がキーとなり、「耳光る児」では遺伝子工学の知識なくしてはSFめいた謎は解けない。 かねがね云っているがこういった謎は知的好奇心をくすぐりはするものの、それを謎のメインとされると読者との謎解き対決とも云える本格ミステリの面白みが半減するように感じる。 しかしいい加減私も島田氏の作風転換に馴れなければならないだろうけど。 しかしよくもこんな話を思いつくものだ。上に述べた最新医学・生物学分野の知識以外にも大航海時代の背景にモンゴルの欧州侵略といった歴史の授業で習った出来事を学校では習わない側面をミステリの謎の解明につなげる趣向など、島田氏の描く物語は他のミステリ作家の一歩も二歩も先を行っている感じがする。 本書は一見バラバラのような短編集に思えるが、実は一つのモチーフが前編に語られている。 それは人魚。 人魚といえばデンマークの国民的作家として歴史に名を残したアンデルセンの『人魚姫』が有名だが、島田氏が本書でその人魚をモチーフに選んだのは物語作家宣言を仄めかしているように感じたのは考えすぎだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回はルーン物でもなく、ジョン・ペラム物でもない純然たるノン・シリーズの1篇。
よくよく考えてみると本書は私にとってディーヴァーの初のノン・シリーズ物だ。そのせいだろうか今まで読んだ作品に比べて主人公を務める保安官助手ビル・コードの存在感が薄いように感じた。 今回主人公を務めるビル・コードは舞台となるニューレバノン市で生まれ育った男だが、過去にセントルイス市で刑事に就いており、ある事件が元で辞職をし、故郷に戻って来た際に保安官に再就職した男だ。彼の過去とはセントルイス市警在籍中に自分のミスで同僚を死なせたというもの。再就職の際はその件については触れておらず、いつそれが暴かれるか不安を抱えている。 人物設定としてはオーソドックスと云えばオーソドックスで、しかも過去に人に死に関わり、それがスキャンダルとなったという点ではジョン・ペラムに似ている。しかしそれが本書では有機的に物語には寄与せず、単なる設定だけになっているのが惜しい。ジョン・ペラムシリーズではそれが足枷となって彼を苦境に陥れていくのに本書ではそれがない。 本書に散りばめられているのは現代社会が抱える問題である。 ビルにはセアラという学習障害児の9歳になる娘がいるが、妻のダイアンはその事実を頑なに信じようとせず、寧ろセアラは非常に悪賢い娘でいつも知恵を働かせては親を困らせようとしていると、自身の都合のいい解釈の殻に閉じこもって譲らない。さらにビルもまた薄々感じながらもノイローゼ気味の妻を思って敢えてそれを口に出そうとしない。そしてそれがビルとダイアンの夫婦間の不和を生み出している。 そしてビルたちにはジェレミーというもう一人子供がいて、彼は障害も持たず、レスリング部でエースとして頑張っている家族の希望である。しかしこのジェレミーもまたある問題を抱えている。 さらに被害者のジェニー・ゲベンは複数の男と寝る尻軽女であり、その相手の1人である大学教授助手ブライアン・オークンは彼女以外の生徒をつまみ食いしている。 他にも夫のDVに悩まされるSF好きの空想癖のある高校生フィリップなど、病んだ世相を反映しているような人物が登場する。 しかし私にはこれらがもはや全く作り物めいて見えなくなっている。寧ろこの作品に出てくる人たちは我々の隣人にいても全くおかしくない、そう思えるようになってきた。 実際私も子供を持ち、色んな親子と交流し、また子育て関係のセミナーを受けに行くと、本書に挙げられているよりももっと酷い環境の家庭があることを見聞きしているからだ。従ってここに書かれた彼ら・彼女らは私にとって現実味のあるキャラクターたちであった。 しかし本書の事件の焦点となる地方大学オーデン大学は淫欲の巣と化した伏魔殿のようだ。教師や大学院生は教え子とヤリまくり、レズやバイセクシャルが蔓延し、教師達は愛欲に夢中になっていく。 地方大学という閉鎖空間で繰り広げられる精神の歪みを描きたかったのだろうが、かなりドロドロとした状況だ。もしかしてこういうのはザラなんだろうか? さて本書が書かれたのは1993年。この時期のミステリシーンはデイヴィッド・マーティンの『嘘、そして沈黙』などトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』に端を発したサイコスリラーブームの只中にあった。 この洗礼をディーヴァーも例外なく受けたようで、出版社、もしくはエージェントの要請か解らないが、本書ではカルト狂信者の殺人がテーマにあり、殺人鬼の名前も“ムーン・キラー”と正にサイコキラーど真ん中のような名前のついた敵役が登場する。 しかしこれが読み進むにつれてディーヴァーの世に蔓延るサイコキラー物に対してのアンチテーゼであることが次第に解ってくる。保安官事務所の捜査方針が保安官がカルト狂信者による犯行だとみなしているのに対し、捜査主任のビルは盲目的にそれを信じることを拒み、関連性を見つけようとしている。そして決定的なのは大学の警備課長がビルの許へ持参する精神障害者による犯罪を分析した本について述べるところだ。読書の興を殺ぐので詳しくは書かないが、この内容は当時数多作られたサイコホラー物の中には安直に創られた狂者の論理による眉唾物の紛い物が出回っていたと告発しているように感じた。 私はここにディーヴァーの、安易に流行に流されまいとする作家気質を感じた。いや寧ろ流行を逆手にとってそれを自分流に料理しようとするしたたかさを感じた。 さて読むにしたがって次第によくなってくるディーヴァーだが、本書では特に上巻の引きに注目したい。アメリカの映画やミステリやホラーに出てくるいわゆるオタクの類の異性にもてない系の登場人物の1人が実に意外な人物であったという仕掛けだ。 知らぬ知らぬのうちに文章に散りばめられた人物描写に誘導されていたことがたった一行で知らされる。これがディーヴァーの技法かと感嘆した。 さらに彼のミスリードの手法がだんだんと見えてきた。つまり匿名性をたくみに利用して読者の錯覚を引き起こし、ある時点でそれを印象的な一行でズドンと爆弾のように喰らわせるのだ。つまり綾辻行人の『十角館の殺人』のアレと云えば、解りよいだろうか。 しかし今回はその爆弾を落とし損ねたのではないか?読みながら本書で作者が仕掛けた叙述トリックを見破ったと思った。 しかしなんとも暗い結末だ。読後は主人公ビルの境遇の救いのなさに同情してしまう。 この終わり方を見ると本書はどうも続編の構想があったのではないか。しかしディーヴァーが本国でブレイクしたのはこの後に出版された『眠れぬイヴのために』から。本書はさほど話題に上らなかったと思われる。ジョン・ペラムやルーンに比べれば個性もなく、シリーズキャラとしては弱い。 ディーヴァーにしてはちょっと構成力不足を感じる本書。もしかして本書の題名『死の教訓(The Lesson Of Her Death)』の「教訓(Lesson)」とはこの出来栄えを教訓として、今後の作品に活かすという作者の意図が裏には込められているのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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桜井京介と栗山深春邂逅の物語。彼らがまだ大学1年生で輝額荘という下宿屋に一緒に住んでいた頃の話だ。
シリーズがある程度進むと、シリーズのゼロ巻目ともいうべき過去に遡った話が書かれるが、この作品もまさにそれ。しかし悔しいかな、こういう作品はなぜか面白い。 今までこの作者の自嘲気味な文体が気になり、それが読書の愉悦に浸る大きな妨げになっていたが、本書では栗山深春の一人称叙述で彼の斜に構えた性格と相俟って、この減らず口が挿入される癖のある文体が逆に雰囲気にマッチしていて、今までの作品の中で一番面白く読めた。 それはまたシリーズ0巻目と云える桜井と深春との初対面という過去に遡った物語であるノスタルジックな設定もこの文体に合っていたのかもしれない。 また建築探偵と名付けられているこのシリーズでは毎回建築家にスポットを当てたエピソードが語られる。今回話題に上る建築家はあのフランク・ロイド・ライトだ。ここで作者は桜井の口を借りて、ライトの自伝に書かれた内容がほとんど彼の虚構だと主張する。その主張で描かれるライトは嫉妬深く、カリスマの名をほしいままに尊大に振舞う嫌味な建築家という肖像だ。 これは作中に挿入された註釈によれば実際に彼の研究家による意見であることが述べられているが、逆にこの註釈は無くてもよかったか。というよりも孫引きで無く、作者独自の解釈を開陳して欲しかった。 そして常々この作家の作品に通底奏音として流れていたBLの影が本書では顕著に表れている。 唐突に輝額荘へ引っ越してきた建築評論家の飯村氏がホモであり、相手が大家の麻生はじめであるという推理はもちろんのこと、栗山深春の一人称で語られる本書では深春の桜井京介に対する感情が浮き彫りにされて、さらにBL風味を増している。 特徴ある探偵を創出するのが推理小説家の腕の見せ所だが、この類稀なる美貌を誇る探偵というのはやはり倒錯した感情を抱く一要素になり、どうも本格ミステリを読む側にしてみればなんとも物語にのめりこむのに抵抗感を抱いてしまう。しかしこの建築探偵シリーズは当時一二を争う同人誌の多さを誇ったのだから、やはりニーズはあっただろう。 そして肝心の事件だが、今回は犯人は解ってしまった。作者の散りばめたヒントは実にあからさまとも云うべき親切なものであり、確かにこの作品は桜井が謎解きをする前に解る。 とにかく本書はやっとこのシリーズの世界に浸れた作品である。桜井と栗山の最初の物語を知ることで以前にも増してこの後のシリーズを愉しめそうな気がする。 あとは妙なBLテイストが無ければいいのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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まだ2作目だが、映画のロケーションスカウトであるジョン・ペラムのシリーズはその職業の特異性から常に見知らぬ町を舞台にし、そこで彼が”A Stranger In The Town”という存在になり、町中の人間から注目を集め、忌み嫌われて四面楚歌になる状況下で物語が繰り広げられるといった内容になっているのが特徴だ。
特に彼が町中の人間から注目を集めるのに、映画産業という華やかな世界に身を置いていることが実によく効いている。この設定は実に上手いと思う。 そして常に彼の敵になるのがその町の権威者。前作では保安官であり、町長が彼を眼の敵にしていたが、本書では警察官が撃たれるという事件からさらに警察官からの理不尽な圧力が増しており、また検察官にFBI捜査官とペラムを付け回す勢力はさらに拡充されている。そして本来正義の側に立つべき彼らが自身の狙っているホシを捕らえるためにはありもしなかった証人と証言をでっち上げ、それをたまたまその場に立ち会った人間に強要するため、しつこくネチネチと陰険な嫌がらせを繰り返すさまが描かれる。 しかしペラムが巻き込まれる展開は違えど、物語構成としては基本的に『シャロウ・グレイブズ』と同じである。上に書いた四面楚歌状態に、数少ないペラムの協力者がその町の女性―しかも美人!―であるところも一緒だ。 ワンパターン、マンネリは基本的に嫌いではないが、ディーヴァーが、という思いが強く、過剰な期待をしてしまう。池上冬樹氏が前作の解説で書いていたが、やはりディーヴァーも普通の作家だったのかと認識を新たにした次第。 しかしこの作品には後のディーヴァーの技巧の冴えの片鱗が確かにある。特に後半の読者の先入観を見事に利用した人物の描き方による仕掛けは実に素晴らしい。実にさりげなく誘導される筆致には後の傑作群への期待を高まらせてくれた。 そして時折挟まれる映画撮影のエピソードも知的好奇心をくすぐる。映画でよくあるアクションシーンが今では許可が下りにくくなっているとは知らなかった。 例えば本書では川に車が転落するシーンについて語られるが、撮影が行われている町では車が落ちることでオイル漏れやガソリン漏れで汚染と景観が損なわれることを嫌う。そのためそれらの撮影は無許可でゲリラ的に行われるらしい。しかし公開されたら解るだろうし、それこそ訴訟沙汰になると思うのだが。 ハリウッド映画が世界でロケするときによくその国の重要人物を困らせる事態まで招くが、なるほどこういうことだったのかと得心した。これではますますCGが多くなるはずだ。 さらに映画で使う銃火器についても実弾を使わなくてもあらかじめ許可申請と登録がなされており、それがなければ撮影許可、使用許可が下りないなんて話も興味深い。 しかしそれにしてもアメリカは映画撮影に対して日本よりも寛容だと思うが。 またペラムの仕事ぶりを読んでいて、はたっと気づいたことがあった。 よく地方の都市を舞台にしたドラマがあるが、これが地元民の目から見ると実に辻褄の合わない距離感を覚えることがある。例えば走って逃げていた犯人が次の場面ではいきなり車で30分くらいかかる所まで走って逃げているといった具合だ。しかし製作側としては自分の頭に描いたシーンで物語を繋げるだけなのだから、2つのシーンの距離感などは考慮なぞしないのだ。彼らとしては全体として出来上がる映像だけに興味があるのだ。その監督の頭にあるシーンを探すのが彼らロケーションスカウトの仕事なのだ。 さて今回の事件も単純な構図ながら、ところどころにミスリードが含まれている。最後まで読んで冒頭に書かれたジャン=リュック・ゴダールの「映画に欠かせないのは銃と女だ」のエピグラフを読むとこの一文に潜む色んな意味合いに思わずニヤリとしてしまう。 最後のシーンを読んだ時、私には次の一文が頭を過ぎった。 “警官にさよならをいう方法はいまだに発見されていない” レイモンド・チャンドラーのある有名な作品の最後の一行だ。チャンドラーが込めたこの一文の意味とディーヴァーの描いたラストシーンのそれは全く違うものだが、ディーヴァーはこの一文を美しい風景へと昇華させてくれたように感じた。 しかしこの時点ではまだ佳作の段階。光る物を感じるが、もう一歩と云ったところ。将来化ける可能性を感じはするが、まさか今ほど大家になろうとは思えない作品だ。 しかし1作ごとに完成度が増しているディーヴァー初期の作品群。作者自身が転機となったと云っている『眠れぬイヴのために』の前に果たして良作はあるのか。次が愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今までのクイーン作品の中で最も舞台設定が凝っており、後期クイーンの諸作で深みが増した人間ドラマの一面にさらに濃厚さが増した、リーダビリティ溢れる作品だ。
特に軍需産業で一財を成し、世界各国の政府要人らに絶大な影響力を与えるほどの権勢を誇るキングが君臨する通称ベンディゴ王国はハリウッド映画としても実に映える舞台だ。 しかもドラマチックな設定の中、密室で銃で撃たれるという不可能犯罪が起こる。 被害者のいた部屋は周囲を2フィートのコンクリート壁に囲まれた窓のない堅牢な部屋で弾丸などは通るはずもない。それなのに部屋の外から弾が入っていない状態で引鉄を引かれた銃の弾が被害者の胸から摘出されるというなんとも魅力的な謎が提示される。 しかしこの魅力的な謎の真相は正直期待外れの感は否めない。せっかく魅力的な不可能状況を提供してくれたのなら、読者の盲点を突いた誰もが納得の行くトリックを用意してもらいたいものだ。 しかし犯行の動機には考えさせられるものがある。 そして忘れてはならないのは今回の事件に翳を落としているのはあのライツヴィル。ベンディゴ一族のルーツは因縁の町ライツヴィルにあったのだ。エラリイはいざなわれるようにライツヴィルへ向かう。 正に後期のクイーンにとってライツヴィルはなくてはならない拠り所なのだろう。特に『十日間の不思議』に登場したヴァン・ホーンまでもがキングの被害者になっている件はさらにキングの凄みを彩る。 そして今回着目したいのは作者クイーンが物語に溶け込ました戦争批判。死の商人キングを糾弾するジュダの言葉はそのまま先の大戦に対する作者のメッセージだろう。 人の死という尊厳を大量虐殺で名もなき屍に変えてしまう戦争への怒りがここには込められている。さらに最後死んだ帝王キングの後を継ぐ者の言葉は第二次大戦が終わっても、第二のヒトラーは必ず生まれるのだという作者の警告とも読み取れる。 しかしなんとも暗喩に満ちた作品だ。 まずベンディゴ一族の名前。次弟の名ジュダはキリストの使徒の一人ユダを指し、末弟のエーベルは旧約聖書に出てくるアダムの次男アベルを指す。さらにキングの本名はアベルの兄カインを表すケインだ。 しかもライツヴィルで彼らのルーツを探ると彼らの名前は旧約聖書を辿るかのような運命から故意に名付けられていたことが解る。なんとも業の深い話だ。 しかし最大のメタファーは主人公クイーンに対して相手の名はキングだということだ。つまりチェスや王国ならばクイーンの上に立つ存在だ。 しかしタイトルにあるようにキングは死す。 盛者必衰。 頂点に立つ者はいつか倒れるのだ。この示唆は当時のアメリカのミステリシーンとの何か関係があるのだろうか? クイーン作品で軍需産業の王の島に連れ去られた中での推理劇という“嵐の山荘物”でありながらも内容が戦争を扱っているだけに冒険小説やスパイ小説の色合いも感じさせる本格ミステリの“キング”であるクイーンならではの作品。 兄弟の生立ちが事件の因縁と繋がるというロスマクを髣髴させるこの路線は正直歓迎なのだが、もう少しカタルシスが欲しいところ。特に今回は部屋の壁をすり抜ける銃弾という謎が非常に魅力的だっただけにその真相に失望してしまったのが大きくマイナスになった。 しかしまだライツヴィルは続くのか。ライツヴィルとクイーンが行く着く果てに何があるのか、今後見ていきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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オッド・トーマスシリーズ4作目の本書はなんとエスピオナージュ。
田舎町を牛耳る警察署長と港湾局の職員との軋轢。閉鎖されたムラ社会における一人のストレンジャーという図式に、来たるべき災厄を予知夢で察したオッドが奮闘する。その来たるべき災厄とは町の警察ぐるみで仕組まれた核実験用核爆弾の密輸の支援という、実に意外なものだ。 前回はスーパーナチュラルな怪物が相手だったが、今回は人間の悪意と欲が敵だ。 このためオッドはハリー・ライムと名乗って、核爆弾密輸を独りで阻止しようとタグボートに乗り込み、悪漢どもをやっつける。このオッドが名乗る偽名が映画『第三の男』の主人公であることからも本書の狙いが明らかである。 そしてそのためオッドは自ら課していた銃を使わないという禁忌を破り、密輸団の一味である港湾局の職員を銃殺する。これは本当に意外だった。 そして最後に現れる若き女性の悪党の仲間をオッドは迷いながらも国の平和を守るために撃ち殺す。この場面なんかはもろスパイ映画のワンシーンを切り取ったようだ。 このシリーズの売りはオッドの霊が見える能力で、いつも早いページの段階で霊が登場していたのだが、今回は181ページ目でようやく出てくる。しかも定番の災厄の象徴ボダッハは一切現れないという異色さ。 予知夢で大惨事が起こりうることを知りながら、なぜボダッハが現れないのか不思議でならなかったが、その理由についても作者はすでに準備済みだった。その内容については本書を当たられたい。 しかしこのシリーズには欠かせない存在、霊も新しい相棒フランク・シナトラ以外はこの181ページで現れた港湾局の一味の一人である死者となったサミュエル・オリヴァー・ウィトルのみ。 先に書いたように今回はオッドが未曾有の危機を救うため、そして自らと仲間を守るために銃を手に取り、人を殺めるのにも関らず、霊の存在は希薄だ。 しかし今回それを補うのは、第1巻からサブキャラクターとしてオッドに付き添っていたエルヴィス・プレスリーに代わって、連れ合いとなったフランク・シナトラ。 エルヴィス・プレスリーは彼に纏わる薀蓄を語るための道化師のような役割に過ぎなかったのに対し、シナトラはなんとオッドの窮地を救う活躍を見せる。彼は怒りが頂点に達すると周囲の物を動かし、嵐のように吹き飛ばすポルター・ガイストになるのだ。 この性質を上手く利用してオッドは彼をけなし、貶め、怒りを助長させて不当逮捕された警察署から逃げ出す。この展開は全く予想外であり、また霊を利用してピンチを脱するという新機軸の試みは大いに愉しめた。 ピコ・ムンドでは恋人ストーミー、オッドのよき理解者であるミステリ作家のリトル・オジーにワイアット・ポーター保安官を筆頭に魅力あるキャラクターがいたが、本書でもクーンツのキャラクター造形力は健在。 オッドが運命的な出会いを感じる女性アンナマリア。彼女は全てを知るが如く、物事を受け入れ、オッドの問いに明確な答えを出さず、「何事にもしかるべき時がある」と諭すミステリアスな女性だ。 そして幼少の頃に親にごみを燃やしていたドラム缶に落とされ、不具者となったブロッサム・ローズデイルも忘れがたい印象を残す。彼女は人生を悲嘆することなく、明るく生きるヴァイタリティに満ちている。 『対決の刻』のレイラニといい、クーンツは身障者の女性を実に魅力的に描く。 しかし何といっても今回のベストキャラクターはオッドが新たに雇われることになった元映画俳優のハッチことローレンス・ハッチスン。 齢80を超え、隠居の身である彼は独自の世界に閉じこもっているが、時折俳優時代のことを思い出してはオッドに語る。特に面白かったのはオッドがアンナマリアを助けに行く為に港湾局の男達が訪ねてきたら、嘘の芝居でどうにかごまかして欲しいと頼むと、役作りから始めるところだ。それがいささか過剰演出になってオッドに窘められて肩を落とすシーンで一気にこのキャラクターが好きになった。 それ故にハッチとの別れのシーンが胸を打つ。自分を大きく見せることが上手かった元俳優が抱擁した時に実に脆かった、なんて読まされると思わずホロリとしてしまう。 ただ非常に癖のある文体で語られるこのシリーズはクーンツ読者でないと好んで読まないのではないかと思う。 クーンツ作品にしては珍しく一人称なのはオッドが自身の体験を著すことでセラピーの役割を果たしているからだ。そのため内容はオッドの心の有り様と移り変わりを饒舌に語るようになっており、そのため物語の進行は亀の歩みのように遅い。短い時間の出来事をオッドの心情を交えてものすごく濃く語るので、読んでも全く読んでもストーリーが進まないという感を得てしまう。 これはクーンツ好きではない読者にとっては苦痛だろう。私でさえもっと刈り込んでページ数を減らし、コストパフォーマンスに貢献して欲しいと思う時があるくらいだ。 そしてエスピオナージュを装いながら、それらのジャンルの小説と違うのは最後オッドが人を自分が殺めてしまった罪の意識に苛まれ、縮こまってしまうところだ。 幼少の頃、一晩中母親に銃を突きつけられて一言も泣き声を漏らすこと許されなかった過酷な経験をしたこの男が非情に徹しきれないところにオッドの魅力があり、だから読者はこのキャラを愛してしまうのだろう。 オッドが向かう先は育った町ピコ・ムンドなのか。それともまた霊的磁力に誘われて、地図にもない町に行くのか。 そしてアンナマリアはストーミーに代わるオッドの魂の安らぐ場所になるのか。 解説の瀬名氏によれば本書以降、オッドシリーズは書かれていないとのこと。このまま棚上げにするにはなんとも割り切れなさが残る。いつかまたクーンツがシリーズ再開することを切に願おう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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映画の舞台となる町を探す、いわゆるロケハンを生業にしているロケーションスカウトのジョン・ペラムシリーズ第一弾が本書。
解説によれば本書は1995年に『死を誘うロケ地』で訳出されていた旧版をディーヴァーが新たに手を加え改稿した作品らしい。ちなみに旧版は本国アメリカはもとより日本でも全く話題にならなかった。 その前のもう一つのシリーズキャラクター、ルーンもまた映画業界を扱った作品だった。初期のディーヴァーはなぜか映画に纏わる話が多いが、それは自身の作品をいつかハリウッド映画に、といった願望から生じていたのだろうか。 しかしどこか流れ者気質のルーンとは違い、ジョン・ペラムは過去に新進気鋭の映画監督として名を馳せた過去、そして冒頭に会話で語られているだけで真偽は判らないが、スタントマンもこなしていたロケーションスカウトと、映画産業に若くから関ってきた生粋の映画人である。そのためルーンシリーズよりも物語に映画産業の色合いが濃く表れている。そしてこの設定が物語を動かすのに実に有効に働いているのがディーヴァーの上手いところだ。 ジョン・ペラムが新作映画のために撮影にあったロケーションを探しにニューヨークの田舎町を訪れる。刺激のない町に住む人たちは華やかな映画産業から関係者が来たことを噂で知り、ある者はペラムに取り入ってどうにか銀幕デビューを果たそうとし、またある者は彼と関ってこの田舎町を出るきっかけを摑もうとする。そして中には彼の来訪を面白く思わない輩もいる。 恐らく田舎町が映画の舞台となるとはこんな騒動が起きるのだろう。そしてそれが一見平穏に見えた町の暗部を表出させることになる。 ペラムを招かねざる客として、町ぐるみで彼を排除しようとする。町長はじめ保安官や有力者が彼に対して慇懃ながらも明らかに歓迎していない態度を示し、何かを隠している節を見せる。この四面楚歌の中、ペラムは相棒を殺され、麻薬所持の疑いをかけられ、また暴力で迫害を受け、あらぬ罪まで着せられそうになる。 セオリーに則った物語展開だが、実にそつがない。 そしてディーヴァーといえばどんでん返しが代名詞だが、本書でも最後の最後で思いもよらぬ真相が待ち構えている。確かに布石はあるものの唐突すぎ、またパンチも弱く、どんでん返しというほどの驚きはなかった。 もっとなるほど!と手を打つような内容であれば点数はもっとよかっただろう。読者を最後まで飽きさせないサービス精神は窺えるが、巷間の口に上るほどの印象もないといった感じだ。 というわけで作品の出来は佳作というのが妥当だろう。 ペラムの造形は普通の人よりも経験が豊富で危機を察知し、臨機応変に対処するが、いわゆる万能なタフガイではなく、格闘すれば負けることもあるという、昨今の現実味ある主人公である。ただ彼には映画産業界に従事しているという特徴があり、またそれがこのシリーズの強みだろう。 残る2作でいかに有効に活用して物語に溶け込ませているか、見ていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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多彩な作風を繰り広げる東野圭吾氏のジャンルの1つに医学系サスペンスというのが挙げられる。
古くはスポーツミステリ『鳥人計画』も人間の能力を科学的に向上させるある計画が通奏低音であったし、東野圭吾氏の作風の転機となった作品『宿命』と『変身』も医学の闇をテーマにして人間の心の謎を扱った作品だった。さらに変化球としては女性版ターミネーター、タランチュラが登場する『美しき凶器』もまた当て嵌まるだろう。 そして本書はその2文字の題名からして『宿命』、『変身』に連なる作品といえるだろう。 本書は全く同じ容貌をした氏家鞠子の章と小林双葉の章が交互で語られる形で物語は進む。題名とこの構成からも明らかだろうからネタバレにならないので敢えて書くが、この2人は同一の遺伝子から生まれたクローンなのだ。体外受精で生まれた子供たちが成長した姿である。 本書で語られる学問は発生学という耳慣れない学問。刊行されたのが93年なので現在同じ呼称なのか判らないが、細胞分裂の過程でどの細胞が目となり、口となるのか、その現象を探る学問と作中では書かれている。即ち『宿命』、『変身』と脳から遺伝子へと続く系譜が本書で垣間見える。 『宿命』では何が過去に起きていたのかを巧みに隠し、それが最終的に晃彦、勇作、美佐子の三人の隠された関係へ発展していくのに対し、『変身』、『分身』では先に何がなされているのかが判るようになっている。つまり医学的なミステリがこれら2作の主眼ではなく、それに伴う人間ドラマがメインテーマなのだ。 そして本書で描かれるのは母性。たとえ本当の自分の子ではなくとも母は子供を愛するのだという深い母の愛だ。 しとやかなお嬢様として育てられた氏家鞠子の母、男勝りの活発な女性として育てられた小林双葉の母、それぞれ方法は違っても、根底に通じるのは鞠子、双葉への献身的な愛だった。だからこそ2人は性格の違うのにも関わらず、我が子と自らの境遇の行く末を思い、悲嘆に暮れるのだ。特に事件の発端となった、頑なに禁じていた我が子のTV出演を叱りつける事無く、受け流した小林志保の母性が印象に強く残った。 鞠子と双葉がお互いの出生の秘密を探る道筋は交錯しながらもなかなか交わらず、なかなか邂逅に至らない。この最後に2人が出逢うラストシーンは作者が本書でやりたかった事なのは判るが、そこに至るまでが濃厚だっただけに最後は駆け足で過ぎた感じがするのが残念だ。 鞠子、双葉それぞれの旅程のパートナーだった下条、脇坂講介が途中退場するのもこの構成のために致し方ないがなんとも尻切れトンボのような結末に感じてならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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新聞記者の前に鎮座する泥棒、藪医者、殺人者そして反逆者からなる4人の重罪人たちが自分達の過去を打ち明けていくという構成で物語は語られる。
第1話目「穏便な殺人者」はエジプトに隣接したポリビアと呼ばれる国で起こった総督射殺未遂事件をテーマにしている。犯人であるジョン・ヒュームは人が撃たれることを妨げる為にその人物を撃ったという奇妙な動機を話す。 非常に状況設定が判りにくい話。なかなか進めないストーリーにいつ起きたのか解りかねるうちにいつの間にか事件が起きていたという漠然とした展開でしか読み取れなかった。 しかし作中で出てくる単眼鏡をつけた巨躯の大男グレゴリーはどう考えても作者自身のように思われる。どちらもイニシャルはGだし。自作にカメオ出演するというのはヒッチコックが自身の映画でよくやっていたことだが、実はそれに先駆けてチェスタトンがやっていたとは思わなかった。一種の読者サービスといったところか。 次の「頼もしい藪医者」は古くからある古い大木を庭に持つ画家兼詩人であるウォルター・ウィンドラッシュ氏とジャドスン医師2人の物語。 これも非常に解りにくい展開の話だ。自分の庭の大木を愛す芸術家ウォルター・ウィンドラッシュ氏と若く、妙に自分の論理に固執するジャドスン医師との交流が描かれ、さらにそこにウィンドラッシュ氏の娘イーニッドが加わるという流れが、いきなり精神病院送りの展開が訪れ、さらには殺人容疑の話にまで発展していく。 作者は二重三重の解明を用意しており、私もこの真相の一歩手前の真相と医師が氏を精神病院に入院させた意図が判ったときには思わずニヤリとしてしまった。しかしエピローグでさらにどんでん返しが行われるのだが、これといった衝撃度は薄い。 しかしチェスタトンの話で使われる樹には一種独特の雰囲気がある。私の好きな短編に「驕りの樹」があるが、本作の巨木も奇妙で歪な形をし、文中の表現を借りるならば「足を一杯に広げた蛸あるいは烏賊にそっくり」で強い印象が残る。この樹が正に物語のキーで、なんとなく「桜の木の下には死体が埋まっている」という、美しいもの、生命力に溢れるものにはそれに伴う犠牲があるものだ、といった日本人的観念に通じるものを感じた。 「不注意な泥棒」は本書の中での個人的ベスト。 逆説のチェスタトン。実に先の読めない展開で読者の予想の裏を常に行く物語展開の真骨頂が本作だと感じた。数年ぶりに島送りにされたオーストラリアから戻ってきた放蕩息子アランの、家名を汚すことに執着するかの如き犯罪行為に隠された真意は、多分納得できる人はさほどいないのではないだろうか。 最後の1人は「忠義な反逆者」。 本書の唯一ミステリらしい趣向である包囲された一軒家から一瞬の間で4人もの人間が消失するという謎の真相は人の先入観を利用したものでなかなか面白かった。 風評や噂で人は簡単に権威者を創り、有名人を創っていく。実体の無い物を有難み、敬うという奇妙な群集心理を痛烈にチェスタトンはこの作品で批判している。 本書をミステリとして捉えるか、寓話の形を借りた啓蒙書として捉えるか、ひとそれぞれ抱き方は違うだろう。私はそのどちらでもなく、その両方をミックスした書物、即ちミステリの手法で描いた啓蒙書として捉えた。 しかし約80ページ前後で語られる各編の内容はなかなか要旨を理解しがたい構成を取っている。舞台設定の説明はあるが、事件、というか出来事は筍式にポツポツと語られ、それが物語の総体をなす。つまり探偵役、犯人役が不在のため、物事を思うがまま、起こるがままに筆を走らせているように取れた。 しかし最後にチェスタトン特有の皮肉と警告がきちんと挟まれているのはさすが。特に先にも書いたが「不注意な泥棒」についてはまさかあんな自らの過去(ネタバレに記載)をフラッシュバックさせるような話が読めるとは思えなかった。 常人には全く理解できない各編の登場人物の行動が最後になって腑に落ちるのは実に鮮やか。21世紀の今でもその特異性は十分通じる。 しかし知の巨人チェスタトンよ、もう少しすっきりとした文体で書けなかったものだろうか?情報過多で実に読むのに苦労した。 この齢にもなると理解する力も衰えてきたようで、学生の頃に読んだようにはなかなか読めなかった。訳者の苦労も窺えるが、もう少し柔らかい日本語で読みたかったかな。 しかし最近筑摩書房は過去に単行本で出版されて絶版となっていた作品を落穂拾いのように文庫化して再販してくれる。チェスタトンに関してはこの次は是非とも「マンアライブ」もしくは「知りすぎた男」の文庫化を期待したい。 頑張れ、筑摩書房! ▼以下、ネタバレ感想 |
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舞台はメキシコのテオティトラン・デル・バリェ。メキシコが舞台となったのは第5作目の『呪い!』以来、実に20年ぶり。
そして期待どおり、その時に地元警部として出てきたハビエール・マルモレーホが再登場する(ちなみに私が持っているミステリアス・プレス文庫版ではハーヴェア・マーモレホとなっている。訳者は同じ青木久恵氏なのだが)。 本作はこのシリーズの原点回帰ともいうべき作品と云えるだろう。スケルトン探偵シリーズと銘打っているだけに、本書の最たる特徴そして魅力は形質人類学教授ギデオン・オリヴァーの学術的な骨の鑑定にある。それが最近の諸作では観光小説の色合いが強く出ており、それがおざなりになっていた感がある。特に前々作の『密林の骨』では骨の鑑定そのものが添え物でしかなかったくらいだ。 それが本書では3つも骨の鑑定が盛り込まれている。 1つはミイラ化した身元が解っている死体の死因についての鑑定。 もう1つは白骨化した身元不明の死体の性別・年齢を解き明かす鑑定だ。 そして3つ目は最後の最後に本書の真相解明として大きく寄与する博物館に展示されている古代サポテク族の頭蓋骨の鑑定。 しかもこれら全てが専門家に一度検分され、身元が推定された物であり、それらをギデオンが鑑定することにより、覆されるという複雑な特色を持った骨ばかり。正に題名に相応しく専門家達を「騙す骨」なのだ。 また1つ目の鑑定は早くも80ページで行われ、昨今長々と舞台となった外国の観光ガイド的な情報とエルキンズお得意の魅力あるキャラクターの説明に紙面が割かれる傾向とは全く異なり、スケルトン探偵シリーズの特色が色濃く現れた作品で、久々にギデオンの緻密な鑑定を存分に堪能した。 そして魅力あるキャラクターは本書でも健在。 エルカンターダ農場の面々、ジュリーの従妹のアニーとその父親カールのテンドラー父子に、オーナーのトニーと会計係のジェレミーのギャラガー兄弟に、無愛想ながらも極上のメキシコ料理を提供するシェフ、ドロテアに、文句ばかり云うホセーファ・ガリェゴスなどはもちろんのこと、特に印象が強かったのは地方の警察署長であるフラヴィアーノ・サンドバール。 この任期満了を間近に迎えた事なかれ主義のノミの心臓持ちの警察署長が、自らの不運を呪いながらもギデオンに協力していくところが非常にいい。事件を穏便に済ませようと願いながらも決して自らの権力で揉み消そうとせず、正義を貫こうとする健気さが実に好ましい。個人的に本書の助演男優賞を捧げたい。 同じメキシコを舞台にしながらウィンズロウの殺伐とした殺戮と麻薬の日々を描いた『犬の力』とは打って変わって終始牧歌的な調子で物語が進むエルキンズのギデオン・オリヴァーシリーズ。その心和む作品世界は第16作になっても衰えるところが無く、慣れ親しんだところに帰ってきた感があり、非常に読んでいて心地がよい。 ミステリとして一読忘れ難いトリックやロジック、そしてどんでん返しがあるわけではないが、ユーモア溢れる文体とコミカルで愛すべきキャラクターが常に登場し、なおかつ骨やギデオンが訪れる地方ならではの知識が得られるこの雰囲気は離れがたい魅力がある。 愛すべきキャラとの再会を喜ぶ人がいるからこそ現在なお訳出され続けているし、私もそれを愉しみにしている人の一人だ。 またこの素晴らしきマンネリ作品の新作を待たなければならないのは、なんとも云えず待ち遠しいではないか。 解説によれば現時点での次作の原書の刊行もまだとのこと。 エルキンズ御齢75歳。ファンのエゴかもしれないがまだまだ健筆を奮っていただきたいなぁ。 |
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現代気鋭のヒットメーカー、ジェフリー・ディーヴァーの最初期の作品でルーン三部作とされるシリーズ物の第2作。
第1作は『汚れた街のシンデレラ』という邦題で早川書房から訳出されていたが、現在絶版。3作目は未訳と数あるディーヴァー作品の中でも不遇な扱いを受けているのがこのシリーズ。特に早川書房は早く復刊して欲しい(全くの余談だが、最近の早川書房の絶版の速さは驚くものがある。出版不況の中、余剰在庫を抱えるのはリスクであるのは承知しているが、出版業が文化事業だという意識の欠落が感じられる。トールサイズという独自の規格で本屋さんを泣かせてもいるし、最近すごくエゴとサーヴィスの低下を感じるのだが)。 さてジェフリー・ディーヴァーと云えばどんでん返しと云われているが、最初期の本書も正にそう。なかなか予断を許さない展開を見せる。 ハリウッドに数多ある映像プロダクションに勤める駆け出し社員ルーンが遭遇するポルノ映画館の爆破事件。その時たまたま上映されていた映画の主演女優シェリー・ロウに興味を覚え、この爆破事件のドキュメンタリーを撮ることを決意する。しかし爆破現場には<イエスの剣>なるテロ組織の犯行声明文が残されていて、続く犯行を予見させる。 ポルノ業界のみならず映像業界、しかもハリウッドスターが彩る華やかな銀幕の世界ではなく、弱小のプロダクション会社の日々を綴り、さらにそこに爆発物処理班の生活を絡める。 これら描かれる映像業界の内幕と爆発物処理班の日常そして爆発物処理の過程は確かに読み物として読み甲斐はあるものの、読書の愉悦をそそるまでには届かなかった。説明的で食指が動くようなエピソードに欠けた。あくまでストーリーを修飾する添え物の領域を出ず、プロットには寄与していない。 この辺はまだ作家としてのスキル不足を感じた。 また登場人物たちがステレオタイプで、あまり印象に残る人物がいないのが気になった。主人公のルーンは好奇心旺盛のやんちゃ娘タイプだが、読書中、なかなか貌が見えなかった。ルーンという中性的な名前のせいか、読む前はてっきり男性の主人公だと思っていたので、女性と解った時はびっくりした。ハウスボートに住むなど個性的な設定もあるが、作り物の感じは否めなかった。 彼女の相手役となる爆発物処理班のサム・ヒーリーやルーンが一連の爆発事件の容疑者として一方的に疑っているマイケル・シュミット、ダニー・トラウヴ、アーサー・タッカーもどこか類型的だ。 一つだけ鮮烈な印象を残すのは爆発事件の犠牲者となったシェリー・ロウだ。 爆発事件を彼女にスポットを当ててドキュメンタリーを作ることにし、ようやく撮影が始まった矢先に死んでしまったシェリーに共感を覚え、彼女の死の謎を追うことにしたルーンが辿る彼女の関係者から聞かされるシェリーの人となりはポルノ女優という卑しき職業に就きながらも気高く聡明さを感じさせ、掘り下げられるうちにその存在感が鮮烈さを増してくる。彼女の才能が類稀であることが解っていくにつれ、映像業界がポルノ映画、すなわちブルームービーへの強い偏見と嫌悪を抱いている現状と才能あるポルノ女優の恵まれない環境が読者の頭に次第に刷り込まれていく過程は見事だ。 それゆえにラストの余韻が生きてくる。詳しくは書けないのでこれくらいにしておこう。 しかし一方で他の登場人物の色合いがくすんで見えてしまったのは計算違いだったのではないだろうか。 といったようにこの作家が売れるようになった『静寂の叫び』やリンカーン・ライムシリーズを未読なので比較はできないが、若書きの印象を強く抱いた。 ただこの作者のミスリードの上手さは本書でも味わえる。後の作品の物と比べれば、それはあまりに当たり前すぎる手法かもしれないけれど。 逆に私はこの作品からどのように今、常に絶賛を以って新作が迎えられるようになったか、つまり“化ける”ようになったかを発表順に追っていくことで見ていこうと思う。 |
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久々のクーンツのスピード感と畳み掛けるサスペンスが冴え渡る良作だ。本書はクーンツの数ある作品の中で1つのジャンルを形成している“巻き込まれ型ジェットコースターサスペンス”の1つだ。
今まではとにかく訳が判らなくて命を狙われるという展開だったが、本書の主人公、突然の災禍の被害者ビリーの場合は、自身に被害が及ぶのではなく、警察に連絡するか、もしくはしなくても誰かが殺されるという脅迫を受けるのだ。つまり問われるのはビリーの良心なのだ。 最初は関係のない人たちが殺され、次のターゲットは友人のラニーに。そして自分にも被害が及びつつ、犯人は自らが行った殺人をビリーにかぶせようと周到な用意をする。やがてメッセンジャーが告げたのは自分に関係のある人の中から一人殺す奴を選べという衝撃の言葉。 真綿で首をじわりじわりと締めるようにビリーの生活は侵されていく。しかしビリーには気を休める暇もない。題名の“速さ”が示すように次から次へと犯人から残酷な要求が襲ってくるからだ。 さらに正体の解らぬ犯人が勝手に連続して殺しを行うだけでなく、全てがビリーを犯人だと示唆するかのように偽造証拠を残し、さらに犠牲者とビリーとの関係性が徐々に狭まっているところが恐ろしい。 しかし多作家のクーンツだが、よくもまあアイデアが尽きないものだ。彼の作品はワンパターンだという評価が巷間では囁かれている。確かに物語の構成は確かにそうだ。 絶望的なまでに強力な悪の存在に突然主人公が襲われ、それにいかに立ち向かい、勝利するかというのが物語の骨子だ。 しかしそのヴァリエーションの豊富さには目を見張るものがある。毎回よくこれほど悪意溢れるサイコパスを生み出せるものだ。これほどまでの人非人を考え付くものだと作者の創造力に恐れすら覚えるくらいだ。 実際の事件に題を取ったのか判らないが、彼の小説を見て同じ事を真似しようと考える犯罪者が現れないか心配すらしてしまう。 それは犯人だけでなく、例えば保安官のジョン・パーマーも同様だ。ビリーが14歳の時の彼との間のエピソードは人の悪意をまざまざと見せつける。しかもとにかく容疑者を犯人に仕立てようとする保安官なんて、こういう人間がいそうだから恐ろしい。 また物語の肉付けとなるエピソードの豊かさと小道具の良さにも注目したい。 腸卜なんていう占いがあったなんて知らなかった。これは作者の想像の産物なのだろうか?動物の死骸の内臓の配置から未来を読み取るなんて、実に奇抜で異色かつグロテスク。小学校の頃、よく食用蛙や猫の轢死体を見かけたが、あの腹を引裂かれて内臓が四方八方へ飛び散った死体を凝視するなんてちょっと想像するだに怖気が出る。 作者のオリジナルだとすれば、それもまたその創造力に感心する。 そして溶岩トンネル。これが非常によい。苦境に陥ったビリーの唯一の拠り所と云ってよいだろう。これがどのように使われるのかは作品を当ってもらいたい。 さらに物語のキーパーソンとなるビリーの恋人で植物人間のバーバラ。彼女が昏睡状態に陥った原因となるヴィシソワーズの缶詰が不良品だったというエピソードなど、当時の米社会で問題となった事件から材を得ていると推測されるが、食の安全を脅かし、明日は我が身である問題の身近さが忘れがたい印象を残す。 しかしこのバーバラの使い方は実に上手い。昏睡状態の彼女が呟く寝言の意味など、物語的にはさほど重要性はないと思っていたが、この意味が判明し、最後の感動的なエンディングに繋がっていくのだから、クーンツの物語作家としての余裕が感じられて非常によい。 本書と似たようなジェットコースターサスペンスに『ハズバンド』があったが、それと比べると断然出来はこっちの方がよい。あの作品は主人公が絶体絶命の犯罪者として仕立て上げられる状況がどんどん重なっていくのに、敵を倒したらいきなり何のお咎めもないエンディングを迎えるのに面食らったが、本書ではビリーを犯人とする偽造証拠を回収し、さらにあのハッピーエンドを用意している。 しかも今回のエンディングは読者の予想をいい意味で裏切る希望的な結末であるのがよい。最近の傑作『オッド・トーマスの霊感』と比肩すると云えば云いすぎかな。 まあ、でもクーンツに興味を持った読者が取っ掛かりとして読むにはバランス的にちょうどいい作品だろう。 クーンツはモダン・ホラー界のジョン・ディクスン・カーと個人的に思っているので、その出来は玉石混交。しかも昨今の作品ではその長大さとは裏腹な内容の薄さと回りくどい云い回しが目に付き、金額に見合ったパフォーマンスを見せてなかったと感じていたので、本書の物語のサスペンスの高さと長さ(総ページ数600ページ弱で上下巻なのが納得しかねるが)はお勧めだ。 クーンツ作品のスピード感(ヴェロシティ)を是非とも感じていただきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリイ、再びハリウッドの土を踏む。
国名シリーズとライツヴィルシリーズの架け橋的な存在だったいわゆるハリウッドシリーズと云われている『悪魔の報酬』、『ハートの4』、『ドラゴンの歯』以来、実に約12年ぶりにハリウッドを舞台にしたのが本書。ロジックとパズルに徹した国名シリーズからの転換期で方向性を暗中模索していた頃の上の3作と違い、ライツヴィルを経た本作ではやはりロマンスやエンタテインメント性よりも人の心理に踏み込み、ドラマ性を重視した内容になっている。 今回も宝石商を営む裕福な家庭に隠された悪意について語るその内容はロスマクを思わせ、なかなか読ませる。 半身不随の夫に美人の妻、そして好男子の秘書、そして裸で樹上に設えた小屋に住む巨人ほどの体躯を持つ息子に自然と戯れる妻の父と、明らかに何か含みがありそうな一家が登場する。しかしロスマクと違うのは、事件は毒殺未遂に蛙の死骸散布と、本格のコードを踏襲した奇想で、ぐいぐいと読者を引っ張っていくところだ。 特に今回は作者クイーンのなみなみならぬ謎に対する異常なまでの迫力を感じた。 犬の死骸、砒素の混じったマグロのサラダ、何百匹もの蛙の死骸、札入れ、焼き捨てられた本、無用になった株券、見えない脅迫者から送られてくる箱の中身は脈絡のないものばかり。 これだけの材料を与えられながら、読者は犯人の正体とその意図を推理することは出来ないだろう。逆に混乱を招いてしまって一つの筋道を見つけることが困難になっていると云った方が適切か。 つまり本書もまた『九尾の猫』との類似性を感じるのだ。 『九尾の猫』は連続して殺されていく被害者を結ぶ手がかり、つまりミッシングリンクを探る物語だった。翻って本書は被脅迫者へ脅迫者が次々と送ってくる品々が意味するところを推理する物語である。つまりこれもミッシングリンクを探る物語なのだ。 つまり『ダブル・ダブル』と本書は『九尾の猫』を要の位置としてそれぞれ連続殺人物、ミッシングリンク物と『九尾の猫』が備えているエッセンスを解体して、別の手法で作り上げた作品のように感じられた。 また本書では今までクイーン作品ではあまり語られることのなかった当時の世情についても触れられている。エルロイ作品で有名なブラック・ダリア事件に朝鮮戦争の勃発と、暗い世の中の状況が出てくるのが意外だった。 そして特に朝鮮戦争では明白に大量殺人の中で名もなく埋もれてしまう何万人もの人間の死に対する憤りを感じた。1人の死に対して推理に推理を重ねて苦労する一方で、兵器によって簡単に何百人もの人間が殺されていくことの不合理さ。 笠井潔氏が現在もなお揺るがない「大量死と密室」論が本書でも同等の意味で語られている。寧ろ1990年代に至るまでなぜこのエラリイの述懐に気付かなかったのかが不思議に感じた。 さて本書の舞台がハリウッドであることの理由について作中でちらりと触れられている。映画の都ハリウッドでは世間の一般基準から逸脱した者たちさえも個性ある人物として逆に評価される、従ってこの夢の都では何が起きても不思議ではないというわけだ。 今後エラリイの活躍の場がホームタウンのニューヨークからこの地へ移るのか解らないが、なるほどなと思わされた。 人間の心理へ踏み込み、探偵が罪を裁くことに対する苦悩を描いてきたこの頃のクイーン。 前作『ダブル・ダブル』では作品の軸がぶれて、殺人事件なのかどうか解らなかったところがあったが、本書では次々と起こる奇妙な出来事の連続技で読者をぐいぐい引っ張ってくれた。 しかしその内容と明かされる真相および犯人の意図は現実的なレベルから云うとやはりまだ魅力的な謎の創出に重きを置き、犯行の必然性とマッチしないところがあって、手放しで賞賛できないところがある。 しかしミステリに対するエラリー・クイーンの凄みを感じる作品だったので今後の作品に期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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一大麻薬王国メキシコ。中米の麻薬カルテル組織の壊滅に闘志を燃やす男アート・ケラーと、メキシコ巨大麻薬組織の長アダン・バレーラとの約30年に亘る闘争の歴史を描いた物語。
それは血よりも濃い忠義の絆で結束される世界があり、そこにはアイルランド系マフィアもイタリア系マフィアも絡む惨劇の物語だ。 麻薬。この現代の錬金術とも云える、人を惑わす物質はそれに関わる人々の人生を流転させる。 正義を謳い、悪を征する側に付いていた者は賄賂と便宜にまみれた一大情報ネットワークを構築し、巨大組織を殲滅せんとする。が、しかしそのネットワークが次なる麻薬王誕生の足がかりとして悪用され、正義が巨悪へと転ずるのだ。 フリーマントルはかつて自身の著書で「犯罪はペイする」と唱えたが、正にそう。ここに登場する人々はペイするがゆえに危ない橋を渡り、巧妙な麻薬密輸ルートと販売網を確立する。発展途上の国では警察を含め、役人は薄給に不満を持っており、誰もがその制服と肩書きが持つ力を悪用し、賄賂という“副収入”を得ようとする。 しかしそれは自らが逃れられない粛清の鎖に絡め取られる端緒となることに気付かないのだ。いや気付きはすれど貧しさゆえに目先の収入に抗うことが出来ないのだ。そして誰もがその恩恵に与ろうと待っているのだ。 そしてそれは麻薬の密輸ルートの確保を生み出す。地続きの大陸だからこそ起こるこれほどまでに巨大な密輸作戦。なんせ中南米の貧しい国々は北に向ければ莫大な消費力を誇るアメリカがすぐ近くにある。この巨大なマーケットは実に魅力的。ハイリスクハイリターンの典型的なモデルだ。 このメキシコを中心とした中南米の麻薬戦争の一大叙事詩。本書のドン・ウィンズロウは最初からフルスロットルだ。ゴッドファーザーといえばイタリア系マフィアが有名だが、ウィンズロウはメキシコ人の血よりも濃い“家族(ファミリー)”の絆を描く。赤茶けた砂漠と土塊で作られた建物が林立する埃立つ町並みが、常に汗ばみ、黒々と日に焼けた皮膚で佇む男どもの体臭が、そして灼熱の太陽が行間から立ち上ってくるようだ。 暑さが人の心を狂わせるように、麻薬を摑んで一攫千金を狙う男達の心は次第に歪んでいく。それは権力だったり、愛だったり、憎しみだったり、そして麻薬そのものだったりする。それは悪を狩る者でさえそうなのだ。 捜査官アートは自らの正義を重んじ、自らの矜持に従い、どんな権力にも屈せず、単純に悪党どもを殺さず、法の手に委ね、裁きを受けさそうとするが、そこで直面するのはアメリカの政治原理の壁。中米の共産主義国ニカラグアを第2のキューバに、つまりソ連の属国にさせないためにコントラを配備し、その資金源をなんとメキシコ麻薬組織に頼っていたのだ。 持ちつ持たれつのこの関係にアートは一度屈するが、部下のエルニーの凄惨な拷問死に直面し、鬼となる。そこにはもはやかつて正義と使命に燃えていたアートはいず、不可侵の復讐鬼がいるのみだった。正義をなす為にあえて悪の手に染める。毒には毒を以って制さねばならないという、弱肉強食の原理が存在するだけだった。 麻薬の利権争いが拡充するにつれて、覇権争いも次第にエスカレートしていく。 下克上の世の中、身内が身内を売り、部下がボスを売り、のし上がる。そんな欺瞞と裏切りの日々の連続であり、狩る側狩られる側双方が情報を操作して内乱を起こさせようと企む。そしてついには彼らの家族にまで手をかける。 キリスト教圏の国でありながら、姦淫そして父親殺し、子供殺しなど、その内容は罪深いことばかり。麻薬王国の礎にはどれだけの屍が必要なのか、目を塞ぎたくなる光景が続く。それは正に殺戮の螺旋とも呼ぶべき血みどろの戦いの連続だ。 そんな凄惨な物語ゆえに、登場人物たちもウィンズロウならではの個性的な面々が出てくるが、裏切りと疑心の生活にまみれた者たちばかりなので、自然に各々の性格は歪んでくる。 CIA勤めからヴェトナム戦争を経験し、復員して犯罪を撲滅しているリアルを感じたいがためにDEAへ志願した主人公アート・ケラーも麻薬組織そしてその長で近しい者たちの仇でもあるアダン・バレーラら巨悪を壊滅するために自ら悪の道へと堕ちていく。 敵役のアダン・バレーラは血を見ることを嫌う麻薬組織の王だという面白い性格付けがなされている。 そして後半物語の牽引役となる美貌の高級娼婦ノーラ・ヘイデン。類稀なる美貌を持ちながら、男の心を読み、なおかつ何年もの間メキシコ麻薬王のそばで密告者として潜入する度胸を備えている。 その他風変わりな司教ファン・パレーダ、本能の赴くままに生きるアイルランド人の殺し屋ショーン・カラン、無頼派捜査官アントニオ・ラモス、などなど個性の強い人物が登場する。ただそこに道化役がいないのだ。 話は変わるが、ウィンズロウという作者の名を聞いたときにどんな作品を思い浮かべるだろう。私はシンプルな導入部から次第に錯綜する組織の利害関係が絡み合う複雑な構図を持ったプロットを、減らず口まじりの軽妙な会話とペーソスの入り混じった叙情を持たせた文体で語る作品を真っ先に思い浮かべる。 恐らくこの作家の読者の大半はそうではないだろうか? そしてこの麻薬が生み出す凄惨な物語は一部ウィンズロウお得意の軽妙な語り口が混じってはいるものの、基本的にはハードヴァイオレンス路線の作品である。そして今までの作品の中でも最も長い上下巻合わせて1,000ページ以上にもなる大著は、面白いとは思うものの、世評の高さほどには愉しめなかった。 先にハードボイルド路線に徹した作品『歓喜の島』というのがあるが、私が楽しめなかった作品の1つでもある。この作品の出来栄えの素晴らしさは認めるものの、5ツ星を与えるほどの何かを残す作品ではなかった。 しかしこれは全く好みの問題。恐らく『ゴッド・ファーザー』が好きな人は本書を21世紀版のそれとして読み、愉しむことが十分出来る濃厚な作品である。 とにかく一口では語れない色々な内容を含んだ作品だ。本書に書かれた麻薬密輸の証拠の獲得方法―飛行場で待っているよりも偽装の滑走路を設けて逆に敵を引き寄せる―、コカインが通貨として成立する社会の話、隠密裏になされた“赤い霧”作戦、“コンドル作戦”、などなど書き足りないことは数多ある。 最後にこのなんとも素っ気無い題名「犬の力」について。 これは旧約聖書に謳われた悪を行使する心の奥底から立ち上る力のことだ。悪を滅するためにあえて悪に染まるアートの断固たる決意をメインに謳われている。もはや純然たる正義は存在しないのだ。 今までの作品でも正悪が反転し、価値観を惑わすプロットを駆使したウィンズロウが心底抱いた滾りを本書にて前面に押し出したといっていい。血と金なき正義はもはや存在しないのだとウィンズロウの叫びが感じ取れる。しかしやっぱりそれでもニール・ケアリーもしくはジャック・ウェイドの再登場を願ってしまうのだった。 |
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