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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数170件
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政財界のVIPのみを会員とする調査機関「探偵倶楽部」。眉目秀麗な男女のコンビが事件の謎を解く連作短編集。
まずは各短編について寸評を。 まず本書の先鋒「偽装の夜」は探偵倶楽部の導入の意味もあるのか、収録作中最長の88ページの分量がある。 実に東野らしいツイストの効いた短編だ。密室殺人事件の解明ではなく、自殺死体の隠蔽工作という導入も捻りがあり、探偵倶楽部が乗り込んで彼らの工作が暴かれた後でも、実は死体は消失していたと新たな謎が発覚する。 短編でありながらアイデアを重層的に織り込んでいるのがこの作者のサービス精神旺盛なところ。そして今回は今までの会話に犯人を推理するヒントも隠されており、フェアプレイに徹している。それらが実にさりげなく無理なく会話に溶け込んでいるので、なかなか看破できないのだが。 爆発的な驚きはないが、丁寧に作られた佳作である。 続く「罠の中」は匿名の3人による殺害計画の談話から始まるいささか物騒な幕開けだ。 計画が成功したと見せといて実は、被害者は計画者の1人だったという、これもなかなかに捻りが加えられている。あたかもマジックを見せられているような錯覚を受ける。 ただ冒頭に出てくる匿名の共犯者3人は簡単に見当がつきやすいのが弱点か。 本短編集の旧題として使われたのが「依頼人の娘」だ。 容疑者をおびき寄せる電話のトリックは看破でき、家庭内の悲劇を扱った作品かなと思ったが、やはり真相はオーソドックス。ただ明かされる真相はちょっと作りすぎの感が否めない。それぞれの登場人物の動きがあまりに計画的に進みすぎで最近こういうカチッとしすぎる工作に嘘くささをどうしても感じてしまう。 「探偵の使い方」では更にオーソドックスさが増し、探偵倶楽部は浮気調査を依頼される。 事件が発生した途端に事件の成行きが透けて見えるくらい、すごく普通の展開を見せるが、やはりそれが東野の仕掛けたミスリードだった。 とはいえ、この真相はけっこう解りやすい話になるのではないか。さすがに4編目まで来ると、こんな具合にすんなりいくはずがないと警戒心も生まれるし、事実そんな感じで読めた。 最後は「薔薇とナイフ」。 真犯人は実は途中で解ってしまった。 しかしそれでも由里子の妊娠という導入が読者に謎解きへの呪縛をかけており、真相を全て見抜くには至らないだろう。書かれていること全てが手がかりであるというミステリの定石を逆手に取った実に上手いミスリードだと云える。 政財界や富裕な家庭専門の探偵という事で、政略や欲望や愛憎の渦巻く泥沼劇の、ロスマクのような家庭内の悲劇を扱った作品なのかと想像したが、全くそんなものではなく、探偵倶楽部の2人も現実から浮いた戯画的なキャラクターとして創造されている。そして各編に共通してあくまで東野の筆致はライトであり、内容は基本的にオーソドックスで2時間サスペンスドラマ用のストーリーとも云える。私は特に『家政婦は見た!』シリーズのようなテイストを感じた。 通常のシリーズ物と異なる本作独特の特徴はと云えば、シリーズキャラクターである探偵倶楽部の2人は実は物語においてサブキャラクターであり、あくまで主役は依頼人だということだろうか。だから探偵倶楽部の2人はその外的特徴が語られるのみで名前さえも判らない(最後の「薔薇とナイフ」で助手の女性が手掛かりを手に入れるために立倉と名乗るが恐らく偽名だろう)。 つまりシリーズキャラとしては異常に影の薄い存在だ。そして物語は常に依頼人側の視点で語られるため、探偵倶楽部の調査方法は全く謎のままである。 更に「偽装の夜」を除く各編では、事件が起こり、警察が介入して合理的な推理が一旦事件は解決する。そこから探偵倶楽部による新たな真相というのが物語に共通するパターンであり、単純な謎解きに終始していないのがこの作者としてのプライドなのだろう。 各5編に共通するのは動機が全て恋愛沙汰や財産問題というベタな設定であること。 「偽装の夜」では社長の財産が動機であり、更に秘書と内縁の妻江里子が実は愛し合っているという関係。 「罠の中」でも金貸しの叔父に纏わる人間たちの金銭問題、そして物語の終盤では叔母と利彦の秘密の関係が明かされる。 「依頼人の娘」は事件が妻の浮気の末の駆け落ちの阻止。 「探偵の使い方」でも浮気と保険金殺人が主題。 「薔薇とナイフ」はネタバレを参照していただくとして、先にも述べたように2時間サスペンスドラマによく見られるテーマばかりである。 この頃の東野圭吾作品は『鳥人計画』以降、『殺人現場は雲の上』、『ブルータスの心臓』そして本作とノベルスで上梓されたミステリが連続して刊行されており、逆に東野氏はキオスクミステリに徹して軽めの作品を書くことを意識していたようだ。 つまり普段、本を読まない人が旅行や出張といった旅先で軽く読むために駅のキオスクで気軽に買って気軽に読め、車中で読み終えてしまうことのできるミステリである。その事について是非は私個人としてはない。 島田氏がエッセイでも云っていたが新進作家の生活は苦しく、作家活動だけで食べていけるのはほんのわずかの人間である。生活の糧を得るために広く読者を獲得する必要があり、こういうライトミステリに手を出さざるを得ないのが当時の状況であった。 したがってこの手のミステリに読書を趣味とする人間やミステリ愛好者があれこれいちゃもんを付けるというのは全く筋違いという物だろう。 が、あえてその愚を犯すならば、やはりそれでも島田氏の短編にはミステリとしての熱があり、クオリティも高かった。 それに比べると東野氏は各編にツイストを効かせているものの、登場人物の内面描写、風景描写、気の利いたセリフなどを極力排しているがために、小手先のテクニックを弄しているという感が拭えず、職人に徹しているなあと感じてしまう。それも創作作法の1つだが、もう少しミステリとしての熱が欲しかったと思う短編集だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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新日本航空のスチュワーデス、早瀬英子こと、眉目秀麗かつ聡明なエー子と藤真美子こと、小太りで豪放磊落なビー子の、通称ABコンビが出くわす事件を綴った連作短編集。
まず「ステイの夜は殺人の夜」で幕を開ける。 「忘れ物にご注意下さい」は旅行会社が企画した、赤ちゃん同伴の夫婦もしくは奥さんを対象にしたベビー・ツアーで起こったある忘れ物の話。 道化役のビー子に一目惚れする男性が現れるというのが「見合いシートのシンデレラ」。 「旅は道連れミステリアス」は福岡発東京便の機内でエー子が福岡の和菓子屋『富屋』の主人富田敬三と出くわすところから始まる。 「とても大事な落し物」は機内でトイレで封筒の落し物が見つかるという物。それにはなんと「遺書」の文字。中身を確認するが署名がない。果たして誰が自殺を図ろうとしているのか? いきなり客室乗務員室の電話が鳴り、エー子が取ると「乗客の1人を殺害した。金を出さないと今後お前のところの乗客を同じように殺していく」と脅迫されるショッキングな幕開けの「マボロシの乗客」。 「狙われたエー子」はシリーズの掉尾を飾る1編。 パズルあり、日常の謎系あり、殺人事件ありと色んなヴァージョンが楽しめる短編集。 しかしスチュワーデス(今ならキャビン・アテンダントだから、この辺は次回重版時に改訂しないのだろうか)の凸凹コンビという主人公と内容の軽さゆえに数日経ったら忘れてしまいそうなキオスクミステリだ。実際旅先、出張先の売店で購入し、片道の車内や機内で読み終わってしまう。 まず「ステイの夜は殺人の夜」はよくあるアリバイトリック物で、これは真相が解った。まずは挨拶代わりに軽いミステリを、といったところか。 「忘れ物にご注意下さい」はこれは自分でもロジックを組み立ててみたが、敢え無く撃沈。作者の解明の方がすっきりしている。作者お得意のパズル物。 「見合いシートのシンデレラ」が個人的にはベスト。最後の真相が面白い。 今の世になって、こういうカップルは珍しくなくなってきてはいるけど、ミステリネタとしてはまだ新鮮。よく考えるとビー子はちょっとかわいそうだ。 「旅は道連れミステリアス」は偶然が架空の心中事件を産み出すという面白い趣向だ。 こんな奇妙な成行きは読者の推理では解けないでしょう。最後に事件をこのまま押し通す富田の妻の毅然たる決意が物語を引き締める。ミステリとしては弱いが、物語としてはなかなか読ませる一編。 「とても大事な落し物」は「自殺志願者は誰?」とある作品へオマージュを捧げる副題を付けたくなる1編。限られた乗客がそれぞれ自殺志願者らしい振る舞いをするが、悉く外れる。しかしこれは肝心要の遺書の持ち主を限定するロジックが弱いような気がする。奇抜さを狙いすぎた感が否めない。 「マボロシの乗客」は事件の展開ほど緊張感がない。逆に作者はコミカルさをずっと出している。まあ、恋すると見境が無くなってしまいますからね。 最後の「狙われたエー子」は東野氏の上手さが光る。何気ない冒頭のシーンに事件の最大の手掛かりが実にさりげなく書かれているのに驚く。軽すぎてすっと流しそうだが、こういうの書こうとすると実に難しい。心憎いほど上手いです、東野圭吾氏。 とまあ、ライトミステリながらもそつの無さを発揮している短編集だが、しかしやはり今までの東野氏の同傾向の作品に比べるといささか軽い感じがする。『ウィンクで乾杯』とか『白馬山荘殺人事件』とかでも密室殺人とか暗号解読とか本格趣味に溢れていたし、『浪花少年探偵団』も同趣向の短編集ながら、1編に1つの事件だけでなく、2つの事件が絡み合うとか、ケーキからナイフが飛び出るといった不可能趣味が加味されており、それに加えて主人公以外のキャラクターが更に物語を盛り立てて相乗効果を上げていた。 しかし本作ではスチュワーデスという職業柄、空港や機内と場所が限定されるせいか、場面のヴァリエーションに乏しく、それがためが総体的に小手先ミステリのような感じが否めない。 そして間の悪い事に『Yの悲劇』を読んだ後だと、非常に物足りなく感じてしまった。物語の熱量が違いすぎた。 まあ、これだけあれば色んな作品もあるわけで、さすがに全てが水準以上とは行かないだろう。次回作に期待。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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非常に独特のリリシズムを持った作家だ。己の美意識に従ったその作風は胡散臭さと紙一重のバランスで、ぎりぎり読むに値する、そんな危うさを感じた。自作の歌詞まで載せているくらいだから、気障と云ってもいいだろう。
そしてこれは自身が相場の世界で大被害を被った経験を活かした作品であり、主人公梨田は作者自身が十二分に投影された姿であろう。そう、この作品は作者の過去との訣別のために書かれた、そう断言しても間違いではない。 本作の舞台となる相場師の世界。ありもしない資金を投じて、株価吊り上げを行う様は、某IT企業の若い社長が世間に株価暴落ショックをもたらした例の事件を思わせる。そしてこれはその事件が起こる10年も前、平成6年に書かれた物。更に作中の時代は遡り、バブルの時代の物語である。ここにこんな教訓がきちんと書いてあるのに、同じ事が繰り返される。人間は愚かというか、金の魔力ゆえというか。 そしてこれらの世界はやはり作者がその世界に身を投じているからこそ書ける物で、かなり独特の雰囲気に満ちている。単なる堅気では書けない人を見る目、世界を見る目で以って書かれた世界だ。作者自身が作中で主人公が独白する“向こう側の世界”に身を置いた、もしくは知る者であることを示唆している。 こういうリリシズムに満ちた作品はチャンドラーを初め、国内作家の志水辰夫氏、大沢在昌氏、原尞氏など、私はかなり好きなのだが、この作品に関しては読中、なんとも云えないもやもやとした感じが拭えなかった。これは何だろうとずっと考えていたが、ようやく解った。 まずこの作者の文体についてだ。 美しい文体というのはどこか作者の自己陶酔と紙一重のところがある。自己陶酔で書かれた文章というのは、夜に書かれたラヴレターのような文章だ。つまり一夜明けて読むとその時の熱意が白々しく思える、陳腐な文章だ。 で、この作家の文章はというと、美文と自己陶酔の境目を右往左往している、そんな印象を受けた。時に読者を酔わせもするが、白々しくも感じさせたりもする。自らの人生経験で培った美意識を、出来うる限り詰め込んでいるのが、文面からひしひしと伝わってはくる。 これが合うか否かで読者の印象はガラリと変わる。私にはどうも読みにくいように感じた。 そしてこの主人公梨田、この男の造形である。相場の世界で他人の金で一儲けする裏家業に身を浸す男である梨田は真に卑しき街を歩く者なのだが、終始どうにも共感できない人物像だった。 矜持を持ち、こだわりを捨てずにかつての恩人の弔いのために、再び相場の世界に身を投じる。かつて行けなかった犯罪に手を染める向こう側に行く事を覚悟し、自分の信じる道を突き進む。 しかし、作者が意図して創作した上記のような設定は認めつつも、どうしても何かが違うように感じてならなかった。そしてそれはこの男はただ人から見られる外見を気にしているに過ぎないことに気付いた。 かっこ悪いところを見せない男であり、しかもそれは読者の前でもまたそうなのだ。卑しき街を行く男どもの話を読むのは私は大変好きである。彼らには自分にはない矜持とか守るべき何かがある。しかし私が彼らを好きなのはそれだけではなく、彼らが一様に弱さを秘めており、また人前で無様な姿を見せたりするからこそ共感できるキャラクターになっているのだ。減らず口を叩いたり、度胸がいい割には腕っぷしが強くなかったり、もしくは非常にだらしない男である、生活欠陥者とでもいうべき人間だったり、女の前では弱かったり、そういう完璧さを覆す欠点が読者にとってそのキャラクターに親近感を抱かせるのだ。 しかし本作の主人公梨田という男にはそれが一切ない。腕っぷしは立たないかもしれないが、やられる前、いや傷つく前に友人のヤクザに助けられるし、一文無しになったゼロからのスタートだといっても口八丁手八丁で金のないところを周りに悟らせない。また金が無くなっても身に着けている物は高級ブランド品ばかり、車はポンコツ車などには乗らない。つまりなんとも嫌味な男なのだ。 これは作者自身が相場の世界という情報や風評を重視し、他人への信頼を何よりも気にする世界に身を浸からせた男だからこそ外見を気にするのだろうが、なんとも気障ったらしいな、と鼻につく感じが最後まで取れなかった。 そして唐突に迎える物語の終焉。冒頭のエピソードで語られる梨田が服役3年に処されるまでの話が語られるかと思ったら、そうではなく、自分が囲った女の手記で物語は閉じられ、繋がりが放置されたままで投げ出される。 つまり作者は結末は既に書いてると云っているのだろうが、これがなんとも呆気に取られる閉じられ方なのだ。つまりミステリとして読んだ時に、一番要となる“どうしてそうなったのか?”という核心の部分をすっぽかしたままなのだ(ちなみに本作品、’95年版『このミス』第9位である)。結局、読者はこの作者の自慢話を、作者の美学を延々と聞かされただけなのか。読後の今、そんな風にしか思えない。 作中、一人の女性が主人公に対して云う台詞がある。貴方は自分の世界に酔っているだけだと。正にそんな作品だ。残念ながら私はその領域まで酔えなかった。 |
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とにかく苦痛の強いられる読書だった。途中何度も投げ出そうと思った。
プロットに比べその書き込みの量ゆえに物語の進行が途轍もなく遅い本書はクーンツ作品には珍しく疾走感を欠いている。それは本書ではクーンツが詰め込みたかったエピソードを存分に詰め込んでいるからだ。 今回は『ドラゴン・ティアーズ』でサブテーマとして語られていた“狂気の90年代”という、本来抱くべき近親者への愛情が個人の欲望の強さに歪められ、異常な行動を起こす精神を病んだ人々が主題となっている。つまり本書で語られるのが全編胸の悪くなる異常な話ばかりだ。 特に同時に進行する3つの話の中でも本書の主軸となっているミッキーとレイラニのパートで語られるレイラニのジャンキーな母親シンセミーリャとUFOが異常者を癒すと信じ、生命倫理学なる学問を確立し、障害者ならびに社会不適合者、老い先短い老人たちを淘汰する事でよりよい社会が生まれるという選民思想を掲げるその夫プレストン・マドックの所業の数々は観たくも無い、聞きたくも無い人間の残酷さを見せ付けられ、何度もくじけそうになった。特に障害を持って生まれたレイラニたちを生まれた瞬間から負け犬と独白する辺りは気分が悪くなった。 そしてレイラニとその亡き兄ルキペラがなぜ障害を持って生まれたかを母親が嬉々として語る件は、寒気と吐き気を覚えるほどだ(妊娠中にドラッグを多用し、そうすることで奇跡の子が生まれると信じて疑わなかったというとんでもない母親なのだ)。 後半に至り、今まで他人の目を通して語られていたプレストンが主観的に語られるにいたり、彼の歪んだ心理とあまりに独善的な哲学にも身の毛がよだつほどだ。先に述べた生命倫理学を説きながら、その実、プレストンは妻の妊娠中にドラッグを服用させ、不具者を生まれさせようとする。それは自らの殺人願望を満たすためだからだ。 そしてカーティス・ハモンドのパート、これも辛かった。特に逃亡者であるカーティス・ハモンド少年というのがなんとも“空気の読めない”少年で、気の利いたことを云おうとして人の神経を逆なでする、この繰り返しだからだ。あらゆる学問や映画・音楽といった文化的知識には精通しているものの、人との付き合い方となると、スラングや慣用表現に疎く、常に言葉尻を取って反問する、普通で云えば友達にはなりたくない男の子である。 しかしこれも上巻の最後に至り、ようやく納得できるのだ。この少年自体が宇宙人であり、クーンツはカーティスのパートを追われる宇宙人側から描いてきたのだ、と。そしてカーティスがキャスとポリーのグラマラスな双子の姉妹と出逢うに至り、人類と宇宙人の理解が生まれ、ギクシャクしていた物語の進行がスムーズになっていく。 そして3つの話のうち、比重がやや軽い探偵ノア・ファレルのパート。彼も少年の頃に叔母に家族を惨殺され、自身も撃たれるという苦い過去を持つ男だ。そしてそこで語られるエピソードもまた“狂気の90年代”そのものである。彼は妹を預けている保養施設にて、狂った慈愛の心を持った看護婦に妹を殺されたことで探偵業を辞めてしまう。しかしそこに現れるのがレイラニを救うべく立ち上がったミッキーで、ここで彼らの人生が交わる。 また残るカーティスはキャスとポリーのスペルケンフェルター姉妹らとともに訪れたフリートウッドのキャンプ場で、そこに停泊していたレイラニ一家のトレーラーハウスに出くわす事で彼らの人生が交わる。 しかしそこから実にクーンツらしく、物語はじれったく進行していく。共通の宿敵であるプレストンを退治するまでが非常に長い。そして物語はそれが解決する事で収束に向かい、もう一つ大きな主題であったカーティスと追っ手との攻防はなんと棚上げされたように処理される。これこそクーンツの悪い癖でテーマを盛り込みすぎて、片手落ちになってしまっている。 しかも今回はよほど色んな情報を得たのだろう、とにかくプレストンの行った悪行、彼の異常なまでに歪んだ選民思想、ミッキー、ジェニーヴァ、シンセミーリャ、ノア、キャス、ポリーそれぞれの登場人物の語り口が長い、長すぎる。なんとも説教臭い話になってしまっているのだ。 クーンツの、この現代人が抱える精神病に関してリサーチした結果、そしてそれに関する自身の考察の発表の場になっているようにしか思えず、先にも述べたように詰め込みすぎだという印象は拭えない。上下巻1,130ページも費やして語られる物語は至極簡単な物で、70%はこれら長ったらしい主張で埋められているかのようだ。しかも1つの物語は決着がつかないままである。 またクーンツ作品の特徴の1つに犬との交流というのがあるが、今回は最もそれが顕著だ。なんと宇宙人を介してとうとう犬の思考の中まで入り込んでしまうことになり、各登場人物全てが最終的に犬を飼うとまでなってしまう。犬好きの自分が描く理想の友人付き合いの姿ともいうべき結末で、しかも犬の思考についてはかなり善意的に書いてあり、本当かな?と首を傾げざるを得ない。なんとも自分の趣味嗜好をここまで押し出していいものかなと疑問を持ってしまう。 唯一の救いはやはりレイラニの存在だろう。ジャンキーの母親に大量殺人者であり、幼児虐待嗜好者の義父に連れられ、UFOとの遭遇を求め、全国を駆け巡り、10歳になる前に義父の狂った論理ゆえに殺される運命を抱えながらも、自らをミュータントと定義し、物事を斜めに観ることで笑いに変え、辛い現実を直視することを避け、どうにか生きようとするこの少女の造形は何よりも素晴らしい。 『テラビシアにかける橋』でヒロインを演じたアナソフィア・ロブをイメージして読んだ。特にカーティスとの邂逅シーンで呟く「きみはキラキラしてる」は心に残る名セリフだ。 原題の“One Door Away From Heaven”とは作中幾度かジェニーヴァから問われる「天国の一つ手前のドアの奥には何がある?」という謎かけから取られている。その答えは意外に完結でなく、けっこう説教じみた物だ(心を閉ざしていれば何も見えず、心が開かれていればそこには貴方と同じように道を探している人が見える。貴方はその人と一緒に光に繋がるドアを見つけるの)。 こういう説教事で埋め尽くされた作品を読むと、今後のクーンツはどの方向に進むのか不安でならない。 |
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レナードの手による歴史小説。スペイン支配下にある1900年直前のキューバを舞台となっている。
時代的にはアメリカがスペインからの支配から脱却しようとしている反政府軍を支援し、キューバの独立戦争勃発の前後を描いている。 まず気になったのはタイトル。キューバ・リブレとはカクテルの名前で、洒落た題名をつけるレナードが今回キューバを舞台にした小説を書いたので、単純にその名前をタイトルに関したのかと思ったら、さにあらず。その意味は「キューバ自由万歳」であり、テーマとなったキューバ独立戦争において反政府軍のスローガンともなった言葉だった。 しかしレナードが現代ではなく、古き時代を舞台に小説を書くとはなんて珍しいのだろう。知っている限りでは未訳の西部小説以外ではアメリカの禁酒法時代を舞台にした『ムーンシャイン・ウォー』ぐらいだ。 今回の主人公はベン・タイラー。昔ハバナで叔父が製糖工場を経営しており、それが街の有力者に搾取され、ニューオーリーンズに移り住んで、カウボーイをやっていた。過去に銀行強盗をして、刑務所暮らしをした経験がある度胸の据わった人物だ。 人も殺した事もないのに、早撃ちのガンマンである。物語は彼がキューバに自分の馬を売りに行くところから始まる。 このタイラーの後の恋人となるアメリア・ブラウン、そしてタイラーの取引相手ブドローの家僕フエンテス3人が一計を案じてブドローから大金をせしめようとするのが本書の大きな内容。 しかしそこに関わるのはグアルディア・シビルの大佐、ライオネル・タバレラと彼の手先で逃亡奴隷捕獲の名人オスマ。そしてハバナで幅を効かしているアメリカ人富豪ブドローだ。 さらにサブキャラクターとして爆沈したアメリカ軍戦艦“メイン”の生き残った乗組員でタバレラの策略で刑務所に入れられてしまうヴァージル・ウェブスター、キューバ独立派のリーダーでフエンテスの弟イスレロなども関わってくる。 レナードの物語の特徴として先の読めない展開と各登場人物たちの軽妙洒脱な会話。悪人なのにどこか憎めない奴らといった際立ったキャラクター造形が挙げられるが、今回はいつもの作品と違い、なんとも大人しい感じがした。特に軽妙洒脱な会話と、憎めない悪人どもといった部分が成りを潜め、どこか単調な感じがした。 先の読めない展開については健在。まさかフエンテスがあんな事をするなんて思わなかったし、タバレラの最期についても、ああいう形で終わるとは思わなかった。そしてそれらを許してしまう主人公二人の寛容さ。これはレナードの特有の明るさだろう。 今回は特にスペイン人将校を正当防衛で射殺してから入れられるタイラーのムショ生活についての内容が長く、その間ずっとアメリアとフエンテスのタイラー救出工作について延々と語られるあたりで物語のリズムが狂ったように思う。ここはもう少しすんなり行ってほしかった。 というのも目にも止まらぬ早撃ちで鮮やかに鼻持ちならぬスペイン人将校を撃ち殺してから、このベン・タイラーのキャラクター性が際立ってくるのだが、そこから一気に抑圧された刑務所生活、タバレラによる陰湿な尋問の描写が延々140ページに渡って繰り広げられるのだ。これはなかなか忍耐を強いられる読書だった。 確かにこの箇所において漠としたアメリアの、タイラーへの好意が確証されていくし、ヴァージルとタイラーとの友情も確立されていくのだから、重要なパートであるのは間違いないが、ちょっと冗長すぎるという感じがした。これも当時のキューバの不条理さを印象付けたかったのかもしれない。 そしてようやくタイラーは脱獄し、本書でのクライマックスシーンとも云える列車からの身代金強奪へと移っていく。4万ドルという大金を中心にそれぞれの人物がそれぞれの思惑を張り巡らす。金によって人が右往左往し、思いもかけない行動に出るというのはレナードの終始一貫としたテーマなのだろう。本書においてもそうである。特にこの4万ドルの行く末は本当に意外な人物の手中に収まるのだから。 しかし、そんな活劇シーンがあっても、今回のレナードはなんだか大人しいなぁという印象が拭えない。 そして物語後半になってようやく登場する奴隷狩りのプロ、オスマ。こいつこそタイラー最大のライバルと成りえるキャラクターだったのだが、2回も行われる対決シーンはなんとも呆気ないもの。これもちょっと残念。 思えばレナードの主人公の敵役といえば、だいたいボスを倒して成り上がろうとするマフィアの手先とか殺し屋、しかもちょっと変わった趣味や性癖を持つ者で憎めない奴ら。しかし今回は悪徳役人とはいうものの、国側の人間だった事もちょっといつもと違う。だから今回のタバレラはいつもにも増して陰湿な人物像になったのかもしれない。 若島正氏によればレナードの各作品は微妙にリンクしており、しかもそれぞれの登場人物にきちんと時間が流れており、また血縁関係までもが確立されているとのこと。ミステリマガジン誌上で詳細に分析が成されていたが、本書においてもそれは例に洩れていないだろう。 私が気付いたのはタイラーのかつて雇い主デイナ・ムーンという名前。おそらくこれは『ビー・クール』に出てくる歌姫リンダ・ムーンのご先祖様ではないだろうか(いや、待てよ。リンダ・ムーンも本名ではなく、誰かからムーンの姓を拝借したんだっけ?)?手元にないのでそれ以外の人物相関については不明だが、時間が出来た時に誌面を紐解いて調べてみるのもまた一興だろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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国名シリーズ第2作。読了直後、正直戸惑っている。
今回、エラリー・クイーンがやりたかったのは最後の一行で犯人が判明する趣向だろう。したがって、50ページ強にも渡り、得られた手掛かりから推理した事件の経緯が延々と語られる。エラリーは「演繹に演繹を重ね」と述べているが、どちらかといえば「帰納法に帰納法を重ね」だろう。 というのも推理方法は散りばめられた数々の事実を基に、何が起こったのかを再現しているのであり、しかもそれが最後にクイーン警視が述べるように「法的証拠はな」く、「山勘があたった」だけなのだから。二つの関連する真実から新たな真実を生み出す演繹法とは全く違う方法だ。なぜなら演繹法によって得た真実には矛盾や例外が存在しないからだ。 つまりこれこそエラリーが演繹法で推理したわけでなく、帰納法及び消去法で推理した事の証左だ(ほとんど全ての本格推理小説は帰納法による真相解明になるのだと思うのだが)。 かてて加えて、捜査方法についても2,3つ疑問がある。 恐らくこれらは1930年当時アメリカの犯罪捜査において、まだそこまで科学が進歩していなかった、そんなに気にしていなかったことだろうと思う。 まず、現場に残された煙草の吸殻を見て、エラリーがその特徴的な銘柄から、所有者であるバーニスが現場にいたと示唆する点。 これは現在ならば、早計という物だろう。DNA鑑定はなかったにしろ、唾液から血液鑑定をして人物を特定するのがセオリーだ。この頃はまだ唾液からの血液鑑定方法は確立されていなかったのだろうか?そして推理は終始この銘柄と煙草の吸い方による違いについて語られ、決定的な証拠となる血液型については言及されない。 次に鑑識による指紋の調査において、現場にクイーン警視の指紋が残されていたというシーンだ。これは明らかにおかしいのでは? 指紋による人物の特定方法が確立されていたのならば、捜査官は自分の指紋を現場につけないよう手袋をするが常識である。これは犯罪を題材に扱いながら、クイーンが、実際の警察の捜査状況を全く知らなかったのではないだろうか?それともこれが当時は常識だった? 3番目は殺害場所の特定方法について。今回の被害者は致命傷である部位が、損傷したら多量の出血を伴うのに、現場には血痕がさほど残っていなかった事で、他の場所で殺されて、発見現場に遺棄されたことになっている。殺害現場として目星をつけたアパートに行くのだが、全くルミノール反応を使った捜査が行われないのだ。 この頃、まだルミノール液が発明されていなかったのか、それともクイーンが知らなかったのか、どちらなんだろう。結局エラリーは自らの推理で殺害現場を特定する事になる。 ほとんど苦言で終始した感想になってしまったがこれはエラリー・クイーンへの期待値が高い事によるためだ。特に1作目の鮮やかな推理に比べ、本作は殺人事件に加え、麻薬組織まで絡んでおり、風呂敷を広げすぎたような感じがする。 シンプルな感想といえば、最後の犯人に面食らい、いまだにクエスチョン・マークが拭えないということなんだけど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これが奥田氏の第1作目なのだが、先に読んだ『三重殺』で見られた軽妙洒脱な文体とは打って変わって寂れゆく街の中、陰鬱なムードで物語は流れる。
炭坑の閉山に伴い、すたれいく街で久寿里市の三分の一の産業を担う釧久グループ。しかし各々はこの街がもうかつての盛況を取り返すことの無いことを知っていた。しかしそれぞれの事情を抱えてこの街にしがみつくしかない彼らは残滓のように残る僅かばかりの繁栄に身を委ねて日々の鬱憤を晴らしている。 主人公を務めるのは署長からつまみ弾かれたはぐれ者の刑事4人。森村、川崎、喜多見、佐々木の面々はそれぞれの個性を発揮しながら事件を追っていく。しかしこれらの刑事像が実に刑事らしくない。大学の推研サークルの輩が殺人事件を前に推理ゲームを展開しているかのような、青っぽさを感じるのだ。この辺がやはりデビュー作における作者の若さだろう。 そして事件を取り巻く関係者それぞれの事情。陰鬱であり、上っ面の人間関係に隠れたそれぞれの思惑などじっくり書いているのだが、それに重きをおいたせいか肝心の事件の印象が非常に薄い物になってしまった。 本書は80年代後半に起きた新本格ブーム一連の流れでデビューした作家群の1冊として刊行されたはずである。だからジャンルで云えば本格推理小説となるのだが、おそらく綾辻氏、法月氏らがデビューした当初にさんざん叩かれた「人間が描けてない」の批判を受け、作者奥田氏は十分考慮した上で、本書のように登場人物それぞれのストーリーを描くに至ったのだろう。そのために本格推理小説としての味わいが薄れてしまったようだ。 実際、この小説で明かされる真相はアンフェアに近い。ストーリーを読むうちに推理できる材料がほとんど提示されないのである。読者に推理する余地を与えず、残りのページも少なくなっていきなり真相を告げられた感が否めない。 そして元の題名『霧の町の殺人』だが、これは全く以ってほとんど意味を成していない。当時の新本格作品の1冊ならば、街に漂う霧が、事件に一役買って霧が無ければ成立し得なかったトリックやロジックを期待してしまうはずだ。 しかし単に霧は舞台設定に終わってしまって何の関係も果たさない。霧は登場人物の心中に澱のように溜まっていく諦観を現しているだけのものになっている。だから題名を『霧枯れの街殺人事件』と変えたのだろうが、これもまた片手落ちのような感じがする。 しかし2作目の『三重殺』を読んだ限りでは、作者の力量はこの後、向上しているので、次に読む3作目が楽しみでもある。基本的には2作目のテイストが好きなので、これが活かされていることを望む。 |
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数々の山岳小説を物してきた谷氏が今回取り組んだテーマは戦前の立教大学山岳部を扱ったドキュメンタリー小説。日本人で初めてヒマラヤ登頂を成功したチームの物語である。
これは当時TVで流行っていた『プロジェクトX』を髣髴とさせる内容だ。しかし決定的に違うのはこれは小説であるという事だ。したがってあのTVの手法をそのまま小説に持ち込めばなんとも味気ないものになる。そしてこの作品はそれをやってしまって、全体的に淡白な印象を受けるのだ。 事実を扱ったドキュメンタリーであっても、小説家のフィルターを通れば自然、物語に熱を帯びてくるものだが、本作においてはそれが見られない。 立教大学山岳部の成り立ちと初のヒマラヤ登攀挑戦に向けての数々の苦難、ようやくヒマラヤに着いてからの未知の世界・習慣に対する戸惑い、そしてやはり世界の屋根ヒマラヤが持つ、他の山々の追随を許さない過酷な環境。これら一通りの事は語られるのだが、非常に淡々としており、苦労が真に迫ってこないのだ。 物語を面白く材料は多々ある。やはり立教大学山岳部の個性豊かな面々、特に本作の主人公ともいえる最年少登頂者浜野の親友であった「雷鳥」こと中島雷二のエピソード、そして部外者ながらもヒマラヤ登攀グループの一員に加わる事になった毎日新聞社の竹節記者、金持ちの出の奥平。彼らがヒマラヤ登攀の選抜隊に加わるか否かのやり取りなど、もっと色濃く描写できたはずである。 しかしこれが素っ気無い。例えば、竹節の参加を巡っての諍いとか、財政面でどうしても参加できなかったメンバーが「いっそ子供と女房と別れてまでも参加しようと思った」とか「参加できるお前が正直憎い」といった人間の内面をむき出しにするドラマがここにはない。みな紳士で、優しく、お行儀がいいのだ。つまり読者の心にあまり振幅をもたらさない。これが物語としての熱がないという意味だ。 そして通り一辺倒に立教大学山岳部が発足からヒマラヤ登攀に至るまでのストーリーを語るがために、全てが平板に語られている印象があり、物語の焦点が見えない。谷氏がこの物語でどこに重きを置いたのかが解らないのだ。 冒頭のプロローグではヒマラヤ登攀シーンで失敗をするところが描かれている。ここからもこの物語の焦点はヒマラヤ登攀シーンなのだろう。しかしこれが今までの谷氏の山岳冒険小説とどう違うのかが解らなかった。むしろ作り物である諸作品の方が、もっと人間の限界ギリギリの苦闘を描いていたように思える。ドキュメンタリーだから嘘は書けないだろうが、資料のない部分は作者の想像力で補っていいはずである。そこに本作の詰めの甘さがあるように思う。 もしこの作品が谷氏の山岳小説の第1作であったならば、立教大学山岳部の成り立ちからヒマラヤ登攀までの一連の出来事を綴ったこの内容で十分満足できただろう。 しかし、既に何作か山岳冒険小説を出している作者が今頃になってこういう作品を著すのならば、そこにはやはり物語作家としての+αを求めるのが読者の性だし、それに応えるのが作者の力量であろう。 きつい苦言になるが、遅きに失した作品、もしくは内容不十分の作品と云わざるを得ない。 |
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・・・読後、しばらく声がでなかった。
最近読んだ本の中では、最も後味の悪い結末だ。 何を語りたくてあのような結末にしたのか、全く以ってフリーマントルの意図が理解できない。この作品を著した当時、家族間に何か問題があったのか、そう勘ぐってしまうほどの結末だ。 もともとフリーマントル作品の特徴に、最後に皮肉な結末が必ずといっていいほど用意されていることが挙げられる。特にチャーリー・マフィンシリーズでは、時にそれは行き過ぎでは、と思ってしまうほどの悲惨な結末もあるが、それはやはり主人公であるチャーリーが色々な難関を乗越えた末の相手に行った仕返しといった一種の痛快感が伴っているから、許容できたわけなのだが、今回はそれがない。もう本当に救いがない。 主人公オファレルだけではなく、敵役であったリベラの遺族に対しては輪を掛けて悲惨な幕引きが用意されている。これは作者が民主主義と社会主義の暮らしの違いを最後に提示した一種の叙述に過ぎないのかもしれないが、特に子を持つ親の立場である今では、とても正視に耐えない結末だ。 そして、主人公であるオファレル。 当初題名から連想していたのは映画『レオン』のレオンの如く、日々の日課を欠かさず、1つのフォーミュラのように固持して生活する内省的な暗殺者を思い浮かべていたが、さにあらず、家族みんなに頼りにされる模範的な父親・夫という人物だったのが意外だった。 そしてこのオファレルという男は表面上は、動揺を見せないが―それは工作員として訓練を受けているからだが―実は、不惑の年は既に過ぎているのに大いに惑うのである。 オファレルが46歳という暗殺工作員としては高齢とも云える年齢に差し掛かってなお、まだ現役でやれると不安を押し殺して信じていたのは、かつて保安官だった曾祖父の存在があるからだ。 自分と同じ年に見える写真の曾祖父の自信に満ちた姿は自分もかくありたい、自分も負けてはいられないと奮い立たせる精神的基盤になっている。そしてその曾祖父の存在は自分の仕事である暗殺という行為を正当化する象徴でもあるのだ。 オファレルは「暗殺は人命を救う」という己の教義に従って自分の仕事に誇りを持ってきた。それは法の網の目をかいくぐってのうのうと暮らす悪人、巨大な権力を行使して私腹を肥やす悪人たちを制裁するのに暗殺こそが有効な手立てだと信じてきた。 そしてその信義を支える存在としてこの曾祖父の存在がある。自分のしてきたことに間違いはないのか?時折いいようのない恐れに涙を流したくなる時にこの曾祖父の姿を思い浮かべ、保安官は決して泣かないと呟き、夜を過ごす。 そしてまた彼には、両親が無理心中して亡くなったという暗い過去がある。ラトヴィア人である母がソ連兵士にレイプされ亡くなった事が原因で、鬱病を患っていた母。朝鮮戦争に出兵し、勲章を受けながらも片腕を失った父。そしてやがて母はある夜、父を撃ち殺し、自分も自殺する。 このオファレルという暖かな家庭を持ち、規律正しい生活を信条とし、なおかつ潔癖とまで云える正義感を備えた暗殺者というこの設定がこの作品に厚みを持たせている。通常の小説で語られる精密機械のような感情の持たない暗殺者、人殺しに無上の喜びを感じる歪んだ性格の持ち主ではなく、このような生真面目な人物を設定したところにフリーマントルのアイデアの冴えを感じる。 その他にも、ハッと気付かされることはあった。 例えば麻薬の運び屋でベトナム戦争経験者であるチンピラ風のパイロットが主張するベトナム戦争で得た彼の人生哲学の話。この話がオファレルの仕事に対する信条に揺るぎをもたらした一因といっても間違いではないだろう。 正義のために戦いに行って、知りえた事は自分の利益を如何に守るかだ。帰還兵に対して何の恩恵も与えなかった政府への憤り。何のために戦っているかも解らなくなる極限状態の中で開眼した彼の唯一の真実。それは自らの正義に基づいて暗殺を行ってきたオファレルにとって自分の信義よりも現実味のある内容だったに違いない。そしてイギリス人であるフリーマントルがこういう意見を登場人物の口から云わせることからも、他国から見てあの戦争が如何に無意味であったのかを知らされるシーンだと思った。 そして、ビリーの台詞。知らず知らずに麻薬の運び屋として利用されていた孫のビリー―後に知らず知らずではなく、薬の売人から脅迫を受けて已む無く手伝わされた事を白状するが―が、不正な仕事で得た金の使い道を泣きながらオファレルに語るシーン。 こういうシーンに私は弱い。自分の子供がダブってしまう。ずっと新しい物が買えなかったママにプレゼントするために使わずに貯めていた、こういう話に弱いのである。 しかし、これら小説的技巧の巧さがあっても、あの結末でかなりのマイナスは否めない。どう考えても受け入れがたいのだ。この本、面白いから読んで、とは絶対薦められない1冊だ。 結局、暗殺は不毛だというメッセージなのかもしれないが、この本の結末自体があまりに不毛すぎる。 |
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カー版コージー・ミステリとも云うべき、ストーク・ドルイドという小さな街で起こる小さな事件の物語。読中、セイヤーズの『学寮祭の夜』を思い出した。手元に本が無いので不明だが、両書のうち、どちらが先だろうか?
しかし、もしこれがセイヤーズの作品の方が先だとしても、カーが真似をしたとは思えない。作中で語られる、当時ドイツで起きた実在の事件から題材を得ているようなのだ。 で、本作の真相と云えば、いささか首を傾げざるを得ない。肝心の動機が曖昧だからだ。なぜ犯人は悪意のある手紙を出し続け、また密室状態でジェーンに深夜後家が逢いに行ったのかの理由が全く見えない。何度も解決シーンを読み返したが、ある人物の隠された過去の告発をくらますために行ったという解釈しか出来ない。しかしそれでは非常に動機として弱すぎると思う。 セイヤーズの作品では悪戯の背後に隠された悪意に蒼然とさせられたが、本作ではなぜこんな悪戯をしたのか自体が不明だ。 HM卿がバザーで酋長に扮するなど今回もサービス精神旺盛であるが、それも単なる物語の脆弱さを覆い隠すためのガジェットにしか見えなかった。題材が面白かっただけに、残念。 唯一、HM卿の奥さんの名前が判明したのだけがマニア向けの収穫か。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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唄う髑髏、白秋の詩に秘められた暗号といったガジェット。衆人環視の中での毒殺事件という不可能犯罪。そして惨劇の舞台は北九州の田舎にある民窯の村で、しかも祖父が愛人を囲い、妻は舌を切られ、原因不明の病に臥せり、腹違いの兄妹たちは遺産相続でいがみ合っている。
つまり扱っている題材は本格ど真ん中であり、舞台設定、トリック共々、申し分ないはずなのだが、やはり物足りない。 小説を読んだというより、長いパズルを解かされたという感慨しか残らないのだ。ここまで来ると呆れるのを通り越して、これこそがこの作者の特徴かと割り切ってしまう。 確かにそれぞれの登場人物には、欲深さとか派手な生活が好きだとか、厭世観を常に抱いているといった性格付けは基より、狭い田舎で繰り広げられる人間関係の罪深い業も設定され、しかもそれにはワトソン役まで一役担わされるのだが、一通りの素材というのは揃っている。しかし、なぜかそれらがストーリーに深みを与えるのではなく、プロットの段階でお披露目しているようにしか思えないのだ。 これほどまでに無個性だと、むしろこの作者は全てが謎解きに寄与する純粋本格推理小説を書くことを目指しているのかもしれない。 前作までは冒頭の幻想的な謎と論理的解決、図解を交えたトリックの種明しといったモチーフから、島田作品の影響をもろに受けていると述べたが、今回は山奥の山村といった閉じられた社会での陰惨な事件、一族の中の確執、唄う髑髏と横溝正史氏の影響が色濃く出ていると思った。 しかしこれら先達と大いに違うのは、物語としての面白さに欠けることだろう。島田氏には島田氏の、横溝氏には横溝氏のテイストという物が確かにあり、それが読書の食指を動かすのである。 司作品は文章にそのテイストという物が無い。心を動かす物語の振り幅が0に等しいのだ。 物語よりもトリックを!といった純粋推理を楽しみたい方には最適の作品だろう。しかし私はといえば、あいにくそれだけでは腹が太らないのである。 |
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以前住んでいた愛媛の離島を舞台にした作品という事で、期待したが、二時間サスペンスドラマの題材に過ぎない内容でガッカリした。
冒頭の幻想的(?)な謎の提示―首の無い死体が首の代わりに置かれていたマネキンからつかの間の瞬間、髑髏に変わる―、論理的解明、さらには犯人の手記で物語が終わるといった構成は師匠と崇める島田荘司氏の創作作法に則っているのだが、パンチが弱い。 ただし、約240ページの薄さに収められた謎はかなりの量である。先に述べた首の挿げ替えられた謎、同時刻に被害者が20キロ海を隔てた地で目撃されている事、45年前に起きた胴無し死体の謎、骨食らう鬼の正体、更なる首無し殺人事件の発生、といった具合に畳み掛ける。 それを補完するように、戦後の混乱に乗じた御家乗っ取り、閉鎖された離島での因縁深い人間関係、男と女の恋情沙汰なども散りばめられている。しかも主人公の敷島にも小さい頃育った沖縄で米兵と母親との間の苦い思い出のエピソードがあり、キャラクターを印象付けようとしている。 しかし、これらが何か薄い。小説作法の方程式に当て嵌めて、ただ単純に作ったという印象が拭えないのだ。 小説としてのコクはなくとも、じゃあ、謎解き部分はどうだ、というと、これもさほどでもない。確かに色々散りばめられた謎、犯人、どれも私の推理とは違ったが、カタルシスを得られたかというとそうではない。 一番ビックリしたのはいきなり最終章で犯人が犯行について独白し始めた事だ。これは一番嫌な謎解きシーンである。その後の展開から、この犯人は真犯人ではなく、共犯者だという事が解るのだが、はっきり云って興醒めした。このシーンで探偵役の敷島が、単に迷走していただけになってしまったかのような印象を受けた。 この作品も初版はカッパノベルスであり、駅のキオスクで売られるであろう版型である。しかし同じノベルスでも東野作品と比べると、作者の力量の差がいやでも解ってしまう。 酷な云い方だが、ブレイクする作家とそうでない作家の違いが如実に解ってしまうような作品だった。 |
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1946年発表の本書、扱われているテーマは連続殺人鬼物。文中にも言及されているが、1800年末から1900年当初にわたって、イギリスを初め、各国ではクリッペンやスミス、ドゥーガル、ソーン、ディーミング、マニング夫妻、ランドリュー、グロスマンといった連続殺人犯の手による犯行が頻発しており、本作はそれらの事件に影響を受けているらしい。そして本作では予め連続殺人鬼の正体は明かされた上で、11年後、それが一体誰なのかという視点で物語は展開する。
このテーマについてカーの行った料理法は絶品である。新進気鋭の演出家の許に送られてきた匿名の脚本を契機に、俳優に田舎の町に行かせて、ロージャー・ビューリーなる殺人鬼になりすまして、殺人鬼の心理を摑ませようというのである。 いやあ、面白いね。しかもその俳優ブルースが、ホテルの記帳の際に、ロージャーとわざと書いて、消すような素振りを見せる演出の凝りようだから、徐々に読者はブルースが本当はロージャーの仮の姿では?と疑いを抱くようになっていくのだ。 そして町中に殺人鬼がどうやら来ているらしいという噂が流れ、惚れられた娘の父親に殺人鬼では?と疑われる中、ホテルの部屋に死体が現れる。しかもその死体が11年前の唯一の殺人の目撃者ミルドレッド・ライオンズというサプライズ。 この辺まではもうはっきり云って作者の術中にまんまと嵌り、クイクイとページを捲らされた、のだが・・・。 そこから煩雑になってしまったなぁ。 死体を前にそれぞれの登場人物が好き勝手に動き回って―それ自体はいいのだけど―、収拾がつかなくなり、最後には軍の戦闘訓練施設跡なんかがいきなり舞台になって、カー特有の怪奇色に彩られた中での悪党との対決。いきなり本格推理小説から通俗小説に移った感がし、戸惑った。 ロージャーの正体はいつもながらこちらの予想と違ったが、カタルシスが得られるほどでもなかった。本作で私が求めたのは、犯人がいかにしてミルドレッドの死体をブルースの部屋に運んだかという点にあったのだが、本作ではそこに主眼は無く、ミルドレッドがどこで殺され、どこに隠されていたかに置かれていた。このトリックこそ、カーが使いたかったものだろうけど、真相としては小さい。 設定の面白さに結末が追随できなかった。 作中で演出家が殺人鬼を扱った匿名の脚本の結末に納得が行かないと述べているが、ある意味、この小説に関するメタファーかなと思ってしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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スコットランド・ヤードのマスターズ警部宛にある手紙が届く。それはバーウィック・テラス4番地に10客のティー・カップが出現するので、警察の出席を願うという不思議な内容の手紙だった。しかし、2年前、同様の手紙が届いた際、当該場所の建物は空家であるにもかかわらず、什器類が雑然と詰め込まれており、そしてその中に死体があったという事件が起きており、未解決のままでいた。果たしてこの手紙はあの事件の再現なのか?
マスターズは部下を引き連れ、バーウィック・テラスに赴き、張り込みをしていると銃声が2発轟いた。急いで部屋に駆け込んでみると、当日部屋を購入したヴァンス・キーティングの死体が転がっていた。しかも死体には至近距離から撃たれた痕跡があったが、部屋には誰もいず、そして張っていた部下からは誰もその部屋から出て行った者はいないという話だった。 そして二つの事件に共通するのはどちらも前の持ち主がジェレミー・ダーウェントという老弁護士であり、しかもダーウェント氏が云うには、キーティングの遺産相続人は彼の妻になっているとの事だった。果たして犯人はダーウェント夫妻なのか?密室から消えた犯人の謎と奇妙に絡まる人間関係の糸を解きほぐすべくH・M卿の捜査が始まる。 謎は今回も非常に魅力的で、カー独特のオカルト色は希薄だったが、相変わらず右往左往するストーリー展開に眩まされ、しばし五里霧中に陥った。 読後、しばらくして色々考えると色んな瑕疵があることに気付く。それらをネタバレの欄に思いつくまま書いてみた。 前回の『パンチとジュディ』で推察した、カーなりの読者への挑戦状ではなかったのかについてはその推察が当たっていた事を本作において、更に補強することが出来た。 章の題名に、「この章には、重要な記録が読者の前に提供される」なんて付いているのは初めてだし、しかも最終章に至っては32もの手掛かりについてそれぞれが文中で表現されているページ数まで記載する懲りよう。これはもう読者が云々というよりも、カーの向上心・サービス精神によるところだろう。 しかし本作の事件を推理して当てられる読者がいるのかは不明。私個人としてはまず無理!カー、懲りすぎ!! ▼以下、ネタバレ感想 |
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ネス湖畔の村ティモシーで頭を犬の胴体に縫い付けられている死体が発見された。やがて両手両足、胴体などの他の部位が発見され、それらは巨人が引きちぎったような痕跡があった。
その後第2、第3、第4の殺人事件が起きたが、すべて同じ痕跡のバラバラ死体であった。事件発生では魔神の咆哮が鳴り響く事からモーゼの十戒に登場する魔神ヤーハエの仕業かと思われた。偶々現地に居合わせたスウェーデンはウプサラ大学に留学中のミタライ教授がこの連続殺人事件の謎に挑む。 しかし今回の御手洗物は読書の牽引力が小さく、なかなか読み進めなかった。これは語り役が石岡からバーニーという街の飲んだくれアマチュア作家の手によるものだという手法を取っており、文体も変えていたのが大きかったように思う。 今回も島田氏が提唱する21世紀本格としての大脳生理学と本格の融合がなされている。昏睡状態から目覚めた時の記憶の初期化でそれを基に手記を書いた者の錯覚を上手く利用しているのだ。この辺のアイデアは正に島田氏の独壇場とは思すwうのだが、やはり御手洗が大人しく事件に追従するのが退屈で、カタルシスに届かなかった。 こうして考えてみると、御手洗シリーズは事件の奇抜さや驚天動地のトリックよりも御手洗の強烈な個性が作品の魅力の大半を担っているのだなぁと再認識させられた。 しかし今の本格作家でこのようにシリーズ探偵が海外で活躍し、しかも登場人物が主人公以外全て外国人なんてミステリを書くのは島田氏しかいないだろう。 そう考えるとやはり島田氏は双肩する者のいない孤高の存在なのだ。山口雅也氏の云う「日本本格ミステリのボブ・ディラン」は正に的を射ている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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EU版FBI、ユーロポールに所属するプロファイラー、クローディーン・カーターの活躍を収めた短編集。プロファイリングがテーマとなっているので事件はおのずと猟奇性を帯びたものばかりになってしまう。
スペインを舞台に闘牛を模した連続殺人事件が起こる「最後の被害者」。 パリのセーヌ川に次々と浮かぶダウン症患者の溺死体の犯人を追う「屍泥棒」。 オランダで起きた十字架に磔にされたキリストのような十代の若者の死体が連続する「猟奇殺人」。 コペンハーゲンで行われるプロファイリング捜査の国際会議に出席中に起きるハイジャック事件と直面する「天国への切符」。 ベルリンで続発するセックス産業の元締めとその恋人の惨殺事件を扱った「ロシアン・ルーレット」。 フランスのリヨンの山奥でコミュニティを形成する聖人を自称する男と対決する「神と呼ばれた男」。 ロンドンで起きた切り裂きジャック事件を髣髴する婦女強姦事件を捜査する「甦る切り裂きジャック」。 イタリアで続発する麻薬過剰摂取による若者の死の謎を追う「モルモット」。 世界的に有名な興行主の息子が誘拐された事件を元FBIの私立探偵チームと競い合いながら解決に向かう「誘拐」。 ドイツで相次いだ老人宅への強盗犯罪がナチの亡霊を浮かび上がらせる「秘宝」。 獄中の大実業家が自分の身の潔白を証明するために検察に殴り込みをかけ、事件の洗い出しを要請する「裁かれる者」。 そしてベルギーの富豪の息子である人喰い魔を追う「人肉食い」 これらヴァラエティに富み、しかもヨーロッパ諸国にそれぞれ舞台を変えて展開する物語。こうやって書くとかなり面白く思えるのだが、さにあらず、正味30ページ前後の短編では、シナリオを読まされているような淡白さでストーリー展開に性急さを感じた。なぜこのように淡白に感じるかというと、被害者の描写が単なる結果としか報告されないからで、あまりに省略された文章は読者の感情移入を許さないかのようだ。 あと、ちょうど島田荘司氏の『ハリウッド・サーティフィケイト』を読んだ後では、これら猟奇的事件の衝撃がさらに薄まって、驚きに値しなかった。 全12作の中でよかったのはリアルタイムで事件が進行し、タイムリミットが設定された「天国への切符」と真相が意外だった「モルモット」ぐらいか。 現在ではほとんど手垢のついた題材で新味がないというのは事実。 とにかく読中は小説を読んでいるというより、1話完結のプロファイリングをテーマにした連載マンガを見ているかのようだった。仕事仲間のロセッティとフォルカーと主人公クローディーンとの関係が進展しそうでしないのもちょっと肩透かし。このシリーズはまだあるみたいなので今後に期待するか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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耕平&来夢シリーズ最終巻。第3巻を読んだのが1年前なので、ほとんど主人公以外の設定、登場人物を忘れてしまっていた。作者が作中で過去の作品における登場人物の役割を解説していたので記憶を辿る一助となったが、それでもなお完全には思い出せなかった。
これも作者がシリーズを一気呵成に仕上げない事、そしてこのシリーズのキャラクターや設定に魅力がないことが要因だろう。なぜなら同じ作者の銀英伝シリーズや創竜伝シリーズやアルスラーン戦記シリーズ(うっ、これは間が空きすぎてちょっと自信がないかも・・・)では期間を置いてでもキャラクター、設定が蘇るからだ。 本作は最終巻ということで来夢の忌まわしい因縁に決着をつけるストーリーとなっている。来夢が北本氏と失踪する事件が発生し、耕平の携帯電話に正体不明の人物からの黄昏荘園への誘いを受けて耕平がそこへ向かう。道中で一緒になった小田切亜弓と手を組んで来夢と北本氏の救出劇が始まる。 やはりバランスが悪い作品だと改めて思った。ごく普通の大学生としか思えない耕平に能力以上の設定を授けているという印象が拭えず、ご都合主義的なストーリー展開であると思えずにいられなかった。 なぜこのシリーズがこれほどまでにこちらの意識に浸透せず、浅薄なままで読み終わってしまったのか?この疑問について今回1つの答えを見出した。 作者が絶賛する本シリーズのキャラクターデザインを務めたふくやまけいこの絵と田中氏のキャラクター描写が全くマッチングしないからだ。かなりの美少女で描かれている来夢がふくやま氏の絵だと普通の女性キャラで下手をすれば単なる少年にしか見えない。この辺のアンバランスさが非常に居心地が悪かった。 思えば挿絵のない銀英伝シリーズは置いておくとしても、アルスラーン戦記シリーズの挿絵を手がけた天野喜孝氏、文庫版の創竜伝シリーズのキャラクターデザインを手がけたCLAMPはそれぞれ非常に田中氏の描写に対して忠実であり、いや田中氏の描写を凌駕してかなり強い印象を読者に植え付けているように思うのだ。小説に挿絵をするのなら、この辺の先行するイメージというのがいかに大事かを再認識した。 で、結末はなんとも煮え切らないものとなった。特に今まで問いかけてきた田中氏がこのシリーズで書きたかったジャンルというのはなんだったのかも解らず仕舞い。 こんなの書くより、創竜伝シリーズやアルスラーン戦記シリーズをはよ書いて完結せぃ!というのが正直な感想かな。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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実業家マントリング卿の屋敷では「後家の部屋」と呼ばれる開かずの間があった。その部屋で1人で過ごすと必ず亡くなってしまうという呪われた部屋で150年間で4人が犠牲になっていた。アラン・マントリング卿はゆかりの者達にくじ引きで当たった者が2時間過ごしてみるというゲームを行う事にした。
客人として訪れていたベンダーが当選者となり、その部屋で2時間過ごす。15分おきにドア越しから返事が聞こえていたのだが、2時間後部屋を開けるとベンダーは絶命していた。しかも死亡推定時刻は1時間以上も前だという。死体は毒殺の体を成しており、毒もクラーレというアフリカの原住民が吹矢に使用するもので、服用しても何ら危険は無く、皮下注射などで直接血液に混ざらないと効果が出ないものであった。事件に立ち会ったH・M卿も困惑する中、第2の殺人が起きる。 人を殺す部屋とか昔の毒針仕掛け箱の話などガジェットは非常に面白いのだが、いかんせん冗長すぎた。シンプルなのに、犯人が意外なために犯行方法が複雑すぎて、犯人を犯人にするがためにこじつけが過ぎるような印象を受けた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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う~ん、前作品集で小貫風樹氏という才能が出てきたことで俄然このアンソロジーのシリーズのレベルが上がったと思ったのだが、今回は退化した印象は否めない。全体的に小粒というか二番煎じのような印象を受けた。
というのも今まで採用された作者の作品が載っているのだが、それらの作品の傾向が前作と似ており、アレンジが違うだけとどうしても思ってしまった。どの作品も諸手を挙げて絶賛できるものでもなく、何らかのしこりが残るので、カタルシスまで届かないのだ。 本作品集で秀逸だったと思うのは、「迷宮の観覧車」、「殺人の陽光」、「ありえざる村の奇跡」、「金木犀の香り」の4編。しかしそのどれもがしこりが残る。 まず「迷宮の観覧車」。観覧車に乗った釣り人が降りてくる時には背中を刺され、血まみれになって横たわり絶命していた。しかも両手の指全てが切り取られた形で。11年後、ある学校の転校生が転校二日目から登校拒否をしていた。担任である若い女性教師家庭訪問に訪れるとその生徒が住むマンションは事件の起きた観覧車が見渡せた。過去の事件と何か関係があるのか? この作者は前巻で「Y駅発深夜バス」が掲載され、『世にも奇妙な物語』を思わせる冒頭から一転して意外な真相へと繋がるという秀逸な作品を残していたのだが、今回はあまりにも人間関係の偶然が重なっていると思った。出来すぎたドラマのようだといわざるを得ない。そのせいで衝撃をもたらすと用意していた結末が逆に陳腐に感じたし、やりすぎだなと辟易もした。 次に「殺人の陽光」。青年実業家が全身に画鋲を打たれた上に出刃包丁で心臓を一突きにされるという殺人事件が起きた。非常勤のソーシャル・ワーカー綿貫の元に3ヶ月ぶりにカウンセリングに来た鶴岡愛美は自分の父親がその犯人だと云う。しかし父、栄司にはアリバイがあった。 この作者も過去に作品が掲載されており、そのどれもが高水準で、印象に残っている。特に文体が非常に引き締まっており、今回もその例に洩れず、全体を通して大人の小説だという香りが漂っている。それがためにちょっとおおげさな機械トリックがアンバランスで失望を禁じえなかった。全てを語らず、態度や描写で示す筆致はもはやプロ級なのに、惜しい。 そして「ありえざる村の奇跡」。岩手県の寒村で高さ100mの風車の上で生首が見つかるという事件が起きた。死体の正体はその村にUMAが現れるという知らせを受け、取材しに来たTVディレクターだった。そのUMAは高さ7mの窓を乗越え、100mを5秒台で走り、50mを15秒で泳ぐという。 この作者、島田氏の『眩暈』がよほど気に入っているのか、前作「東京不思議DAY」という作品で不思議な手記を用いた作品を書いていたが、今回もその趣向で、さらにグレードアップして臨んでいる。この目くるめくおかしな手記の連続は悪夢を見ているようだったが、最後に解き明かされる真相はなかなか面白かった。 最後に「金木犀の香り」。医者である異母兄の葬式で実家を数年ぶりに訪れた私は中学時代にほのかに恋心を抱いた女子中学生に思いを馳せる。しかしその女子中学生は当時公園で他殺死体として発見された。あの事件の犯人は一体誰だったのかと私は思い出とともに推理を巡らす。 ノスタルジーというかペシミズム溢れる筆致は読ませるが、あまりに内省的な内容は作者自身のセラピーを付き合っているようでちょっと疲れる。この家庭内の悲劇を語る感傷的な筆致といい、二転三転する過去の殺人事件の真相といい、もろ作者はロスマクを意識しており、文体の与えるノスタルジーとは裏腹に語っている内容は結構ドロドロだった。しかし目立った瑕はなかったし、これが本作でのベスト。 この4編を特に評価するのは制限枚数100枚を十分に活用して、事件のみならず、周辺のドラマを語り、単なる「推理」小説になっていないこと。テクニックはほとんどプロの作家と変わらないと思うし、物語としても非常に面白い。 その他の作品では人工知能AIが組み込まれた部屋(密室)を語り部に設定した異色の作品「吾輩は密室である」が敢闘賞といった感じで、それ以外は自分の趣味に走りすぎて、自己満足の域を脱していないと思う。選者の琴線には触れたかもしれないが。 選者二階堂黎人氏がちょっと趣味に走ってきた感じが今回はした。前作で面白くなるだろうと思っていただけに残念だった。次回はどうだろう? ▼以下、ネタバレ感想 |
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本短編集は島田作品の中では御手洗シリーズに位置づけられるのだろうが、『龍臥亭事件』同様、御手洗は電話のみの登場で実際は石岡と『龍臥亭事件』で知り合った犬坊里美二人の顚末を描いた連作短編集となっている。
まず冒頭を飾るのは犬坊里美が広島の大学から横浜のセリトス女子大に転入して、上京してきて石岡と共に一日横浜見物をする顚末を語る「里美上京」から始まる。これは非ミステリ作品だが、石岡の『異邦の騎士』事件の良子の思い出が里美との横浜散策中にフラッシュバックするあたり、こちらも胸に去来する熱い思いがあった。特に横浜は何度も訪れているので以前『異邦の騎士』で読んだ時よりも鮮明にイメージが蘇り、あたかも里美とデートしているようだった。 その後、幕末に起こった薩摩の大飢饉に遭遇した酒匂帯刀と寂光法師がなぜ生き延びることができたのかという謎を解明する「大根奇聞」と続き、クリスマスに起きた悲劇を語る表題作「最後のディナー」で幕を閉じる。 「大根奇聞」はこちらが考えていた解答の上を行く解決だったが、いささか印象としては弱いか。しかし挿入される「大根奇聞」という読み物の部分は今までの島田作品同様、読ませる。やはり島田氏は物語を書かせると本当に巧い。 「最後のディナー」は今思えば『御手洗潔の挨拶』に所収された「数字錠」を思わせるペシミスティックな作品。 石岡が里美に誘われ、英会話教室に通うくだりはギャグ以外何物でもなく、石岡がこれまで以上に惨めに描かれているのがなんとも情けない。大田原智恵蔵という老人の隠された過去とかその息子の話とか色々な哀しい要素はあったが、今一つパンチが弱かったか。モチーフは良かったのに十分に活かしきれなかった感が強い。これはやはり石岡では力量不足だという事なのかもしれない。 気になったのは「大根奇聞」と「最後のディナー」で石岡がちょこっと話しただけで真相が解る御手洗の超人ぶり。正直やりすぎだろうと思う。これは逆に御手洗というキャラクターの魅力にならなく、あまりに現実離れした架空の人物というにしかとれない。 本作品で見せる石岡の極端なまでの鬱状態はそのまま当時の島田氏の精神状態を表しているのではないだろうかという推測は下衆の勘ぐりだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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