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1Q84
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1Q84の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.66pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全622件 481~500 25/32ページ
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先ほど読み終わりましたが、内容的にも絶対に続きがあるのでは?と思ってしまいました。本のタイトルも上巻下巻ではなく、BOOK 1.BOOK 2となっていますので村上さんBOOK 3.BOOK 4早く出してください!!続きが読みたいです。 | ||||
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大好きな『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に近い作りの小説・・・なんかワンパターンだなあと読み始めは感じました。しかし、どんどん引き込まれていく・・・やっぱ巧いです。どんどんページをめくりたくなります。人の名前がマンガっぽく、軽くてオシャレ!お年を考えるとこの瑞々しさは超人的だと思います。そして軽いのに、オモイ(重い+思い)・・・・・・。今まで村上さんの小説は結構読んでいますが、一番私小説的でした。やはりそろそろ、自分の人生まとめておきたくなったのでしょうか。 青豆と天吾の幼いころの思い出は、心に深く突きさります。確かに投げっぱなしの感はありますが、それが村上ワールド!「ほらほら、いろいろと思い出させてあげるから、自分で結末考えて、自分の小説にしてね」と言われているような感じです。だから、引き込まれるんです。最後の情景、美しくて好きです。キュンとしました。 何も教えてくれない、結論をくれない、考えさせられるけど、それだけ…だから、いいように思うのです。現実世界と対称的な世界を設定することは、かなり宗教的な手法です。納得できる結末を与えたら、作家は教祖になってしまいます。それを村上春樹さんは望んでいないのではないでしょうか。これだけオモイ内容なのに、結論をおしつけない、おくゆかしい感じがいいです。 | ||||
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ケンブリッジでポーランドの文学者マグダと話しているときに、「なぜ人は、小説が提供する『もう一つの世界』にとつぜん取りこまれ、さらにはその世界に棲みたいとすら思うのか」という話題になったことがあります。彼女の場合、それはジェームス・ジョイスやバージニア・ウルフの場合にやってくるそうです。そして彼女の研究の中核はそのメカニズムを明らかにすることでした。そこで私は提案しました。 確かにジョイスやウルフの世界に取り込まれる感覚はわかるけれども、それらはイギリス文化の個的な側面を引きずっているので、われわれ日本人にはきちんと嵌まることができない。そこで、ぜひムラカミ・ハルキを読んでもらえないだろうか。彼の作品の場合、こちらが身構える暇もなく突然、彼の描く『もう一つの世界』に落ち込んでしまう。そしてその世界は、日本文化の個的な側面を持つことなく、なにやらたいへん普遍的な世界なんだ、と。マグダは、すぐに私がまず勧めた「ねじまき鳥クロニクル」を読んでくれ、私の意見にふかく同感してくれたのでした(彼女は、いま母国に戻ってその分析をしてくれていることでしょう)。 じっさい私にとって、村上春樹は20年来、私にエネルギーを与えてくれる『もう一つの世界』の供給者でした。だから7年ぶりに出たこの1Q84を、私は文字通りむさぼるように一気に読みました。そして思いました。彼は、ポテンシャル・エネルギーをずいぶんと失いかけている、と。 この本は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のように、奇数章と偶数章で2つのパラレル・ワールドが交互に展開されます。それぞれの主人公は、しかし「僕」ではなく、パーソナル・トレイナーの青豆という女性と予備校講師の天吾という男性です。ところが、だんだんと登場人物の行動や感情がぎこちないものになっていくのです。 Book2になると、それは目に見えて明らかになってきて、幻想世界の役者たちが「つくりもの」のにおいを放ち始めます。たとえば「青豆」の終章(23章)で、青豆が最後にする行動はまったく不自然で読者は、感情移入したくてもできません。まるで壊れたばね製の機械がぎこちなく動いているようにさえ思えます。 最後の章(24章)で天吾が青豆を探しに行こうとするその数行に、わずかなPhilosophie Positiveを見ることができるのが唯一の救いかもしれません(おそらくこの『1Q84』は、『ねじまき鳥クロニクル』同様、ずいぶん経ってからBook3が出るのではないかと推測します)。 また、村上春樹らしくないTrivialな描写も気になります。たとえば、「ロビーを行き来する男女は、何かしらの呪いで大昔からそこにしばりつけられ、与えられた役割をきりなく繰り返している一群の幽霊のように見えた。… 彼女たちの身につけた小ぶりではあるけれど高価なアクセサリーは、血を求める吸血鳥よろしく、反射のための微かな光を希求している。」(Book2 P143)という文章などは、ありきたりのように思います。 しかし、ちりばめられている社会的なメッセージは、効果的でした。たとえば「慢性的な無力感は人を蝕み損ないます」(Book1 P238)、「日曜日には子供は、子供たち同士で心ゆくまで遊ぶべきなのだ。人々を脅して集金をしたり、恐ろしい世界の終わりを宣伝してまわったりするべきではないのだ。そんなことは大人たちがやればいい」(Book1 P273)、「醜い電柱が、空中に意地悪く電線を張り巡らせていた」(Book2 P256)、「電柱と、絡み合った醜い電線が見えるだけだ」(Book2 P454)などは、ぼくらにはぐっと来ます。もっとも日本に来たことのないマグダには、醜い電柱・電線によって損なわれてしまった日本の美意識というくだりは理解できないことでしょう。 圧倒的なattractive forceをもたらすようなエネルギーが減ってしまったこと、一方で社会的なメッセージが増えたこと。この2つは、村上春樹が歳をとったことを意味するのでしょうか。Book 3では、青豆の最後の行動が思いもよらない展開につながり、息を呑むような驚きが待っていることを期待しつつ、その出版をひたすら待ちたいと思います。 | ||||
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村上春樹さんの小説を読んで初めて泣きました。いつもは、日常からはみ出たいときに読み、旅行に行っているような気分に浸れるのですが、1Q84は、日常からはみ出ているにもかかわらず、きつい想いばかりしながら読み終えました。 あの「海辺のカフカ」でさえ、少年は、自分を損う父を他者によりハイゼツし家に帰りました。一人の犠牲と母の死はあったものの、どこか、救われました。 今回の展開は最も救いようがない。現実に愛したい「青豆」を失ったからです。 空気さなぎ になったの青豆と天吾との再会が、おばさん趣味からすると、「冬のソナタ」よりせつない。「初恋」をモチーフに使ったのは、村上さんも少しおじさんになったせいでしょうか。 村上ワールド の進化 に感嘆しました。 | ||||
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まず、面白かったか面白くなかったか。 本を読んで、読んでいる間じゅう夢中になって、会社で仕事したり勉強したりしている間も本の続きが気になる、という意味で面白い。 文章やストーリーの安心感はさすが村上春樹だし、描かれる世界はまさに村上春樹ワールドが展開されている。頭の中は登場人物の生き生きとした活動と、彼らの内面世界への感情移入で圧倒されてしまう。 本の面白さを、読んだ後にどれだけ無邪気に「あー、面白かった」と思えるか、とすると、この本は全然面白くなかった。分からないことが多すぎるし、分かった部分だって特に愉快なことがあるわけではない。 読んだ後に面白いと思える本だったら、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のほうがよっぽど面白いだろう。 でも、村上春樹って多かれ少なかれ、もともとそういう作家だったと思う。さわやかな読後感を得ようと思って読む作家ではないのだ。 「ノルウェイの森」も実はそうだったし、「アンダーグラウンド」以降は特に、描かれている主題、登場人物の未来が、まったく手放しで喜べるようになっていないのだ。それはそのまま村上春樹の世の中を見る視点なのだろうし、自分もそれには基本的に賛同する。 この本は、非常に「村上春樹的」だ。研ぎ澄まされているし、無駄を排除している。彼の描きたい世界観が濃密に展開されている。人によってはそれが作為的にすぎるとか、遊びがなくてつまらないという人もいるだろうが、自分としては、まさにこれが村上春樹にしか書けない文章であり(いわゆる「村上春樹風文体-メタファーの多用と違う意味で)、賞賛されるべきだと思うのだ。そこに簡単な解がないのだから、読後感はすっきりしない。それは仕方のないことだ。世の中がすっきりしていないのだから。 好き嫌いの別れる本だと思う。自分にとっては必ず読むべき本だが、この本を全く必要としない人が世の中に多くいるのも分かる。ので、星5つとはしないでおこうと思う。 最後に、これから1Q84を読む人がいたら、ぜひエルサレム賞受賞の際のスピーチを読んでほしいと思う。まさに卵の話だと思うし、そう思いながら読んだ方が、より登場人物に感情移入できるのではないか。 | ||||
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小説として面白かったですよ。 村上春樹の今までの長編と比べるとどうか?という話はおいといて。好みがあると思うので。 ほとんど読んでいますが、何を読んでも、本を読むという行為の満足感を与えてくれる作家だと思います。 最後がハッキリしないのは、村上作品の特徴というべき部分。 賛否両論あると思いますが、私としては結論を求めて読んでいるわけではないので、 すべて明白にならないのは気になりませんでした。 中盤の世界観はさすが!と思いますし、やはり登場人物が魅力的。 ただちょっと性描写が多かったかな〜。 | ||||
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『1Q84』が売れている。200万部というのは尋常ではない発売部数である。現在最もノーベル文学賞に近い男・ハルキムラカミの書いた小説は、もはや国民的ブランド商品と化し、猫にも杓子にも読まれているようだ。以前は、「わかってくれる人にだけわかってもらえばいいや」っていう感覚でとんがった小説ばかり書いていたハルキムラカミが、ここにきて作風の方向性を修正しつつあるように思える。良く言えば“わかりやすくなった”悪く言えば“俗っぽくなった”とでも言えばいいのだろうか。それこそ、10代の少年少女にも理解できる平易な内容にシフトチェンジしつつあるのだ。 (グロくなった性描写を含め)その方向性の修正は、作家が意図しない細かいところまで突っ込みをいれたがるフカヨミ君たちに向けられたアンチテーゼのような気もするし、『海辺のカフカ』以降の小説が(私のような年寄ではなく)30歳くらいまでのヤング層を対象に書かれているせいなのかもしれない。 ほとんど公の場に顔を出すことのなかったハルキムラカミが最近イスラエルで演説をしたりして、積極的に社会と関りあおうする行動様式の変化とも無縁ではあるまい。醜悪な社会と最小限の関係しか持たない主人公をキレイキレイに描いたハルキムラカミの小説群が、いったい何人のフリーターたちに“癒し”と“絶望”を与えたことだろう。 弱者には排除される選択肢しか残っていない(卵が壁にぶつかって割れるしかない)社会において、パラレル・ワールドなどというユートピアは現実には存在しない。社会と積極的に関わっていくことでしか社会は変えられない。つまるところ、作家が語っていた「コミットメントの重要性」とは、そのような意味のことを言っているのではないだろうか。 そうかといって、オウム真理教もどきの新興宗教グルをポアしたり、ゴースト・ライターを買って出ることで、簡単に社会を変えられるなどとは(作家自身も思ってはいないし)読者もけっして思ってはいけない。むしろ、作家のメッセージを捻じ曲げて伝えようと画策するリトル・ピープルたちの暗躍(フカヨミ君たちのから騒ぎ)に目を光らせるべきだろう。 | ||||
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春樹作品のなかでも、とくに「世界の終わり〜」「ねじまき鳥〜」、初期の短編が 好きで、今もくり返し読んでいる自分からの感想です。 この作品はなんだか村上春樹の作品を読んでいるという実感が薄かった。 ストーリーや文体、登場人物のキャラクターも含め、 小説的な意味で(描かれる現実自体はかなりファンタジックだ)、プレーンすぎるように思った。 村上春樹の深遠な主張を、誰でもわかるようにベーシックなメニューに料理してくれた小説ということなのだろうか? かつての春樹作品に感じた、才能が暴走したようなストーリー展開、 一行一行から見たこともない世界観がにじんでくるようなドキドキ感はないが、 この、一見ふつうのストーリーに隠されたテーマに思いを馳せる楽しみはあるかもしれない。 | ||||
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初めのうちは、「『ねじまき鳥』のような展開になるのかな・・・」 読み進めて行って、「二つの世界が交錯するなら、『世界の終り』」っぽくなるのだろうか・・・」 宗教団体@山梨県の話が出てきて、「オウムの取材してたもんな・・・」 リトルピープル辺りから、「『羊』っぽいな・・・」 最後の空気さなぎの中身を見て、「やっぱり『世界の終り』っぽいけど、あそこまでの感動と救いはないな・・・」 読み終わって、「これってまだ続くのかな・・・?」 っといった感想です。 自分の中では、「『カフカ』よりは好きかな・・・で、続きはあるのかな・・・?」と思ってます。 初めてハルキ作品、特にファンタジー系(『ノルウェーの森』や『国境〜太陽〜』ではない系)を読むという方にはあまりオススメできません。 テンポがあまり良くないし、ちょっとイライラするかもです(笑) 期待しすぎなければ面白いと思います。 | ||||
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ユーミンやサザンの新しいアルバムを買い続けているコアなファンのように もう、内容はどうでもいいのです。(笑) さあ〜素晴らしき大人のファンタジーの世界へ 「ホウ、ホウ」 | ||||
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「風の歌を聴け」にはじまり、全作品リアルタイムで購入していますが、 暗喩の連発に音を上げ解説本にすがったこともよくありました。 今回も「リトルピープル」とは、何を意味しているのか?読み込むか、 解説本を読むか、それが苦にならない人の為の本であり、(村上さんの 「お話」に起承転結やリアリティが、、と言われても?) ただ、売れるだろうとの色気満点出版社によるマス・マーケッティングと、 作品の中身とにギャップを感じるのは私だけではないと思いますが、、、 構成のせいか「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を 強く思い起こさせました。閉じていく世界と、青豆さんの運命が重なり せつなさが募ります。 | ||||
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続編があるのかどうか、とても気になります。表題を考えても村上さんは続編の可能性を考えているのだとは思いますが、実際に書けるのかどうか解りません。でも、青豆さんというのは村上さんが(多分)はじめて描いた女性主人公で、実に魅力的ですね。彼女がさらに活躍する続編を是非書いていただきたい。 | ||||
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村上春樹『1Q84』新潮社 やっとこさ読み終えました。毎日毎日、数章づつ大切に読み進めていたら、もう終わってしまいました。もう読む章がないのは、なんとも寂しい限りです。 青豆さんと天吾くんの物語は、互いに引き寄せ合いながら、大きな渦となって、ぼくやら他の読者もろともに、巻き込んで進んで行きました。きっと、多くの読者たちも、あの渦に呑まれてしまったように思うのです。 高校生の頃から村上さんの本は読みつづけています。 その間、ずいぶんといろんな本を読んできて、文学理論的なあれこれに関しても、「メタ物語」であるとか「神の視点」だとか「パラレル・ワールド」やら「父の不在」果てには「エディプス・コンプレックス」といった鍵概念について、なんらかの知識も手にしてきたのです。頭でっかちになったのです。 それは、ぼくの小説の読み方になんらかの影響を与えています。良い悪いに関係なく。どうしようもなく。 そんな文学理論はきれいに戸棚の上に閉まっておけばいいのですが、小説を読むさいぼくにとってなによりも重要なのは、最後の頁をめくって目を上げた時に見える風景がちょっぴりと変わってしまう、あの感覚を味わうことなのです。 残念なことではあるのですが、年を重ねるにつれ、いろんな本を読み進めた結果か、そういう純粋な経験をすることが少なくなっています。正直な話、昔のままではいられないのです。 そんなこんなで村上さんの新刊です。 久しぶりにその感覚が味わえたように思います。 空には月が二つ浮かんでいるし、本屋では『空気さなぎ』が平積みになってます。でも天吾くんも言っているように、月が一個しかなくても、二個あっても、三個あっても、結局のところ天吾という人間はたった一人しかいない、のです。「そう、話のポイントは月にあるのではない。彼自身にあるのだ」 世界が変わってしまったとしても、問題はぼくの側にあるのです。 | ||||
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村上春樹さんの本を、数年前より繰り返し愛読していました(とても個人的に)。愛好というより、影響され、揺さぶられ、すがりつき、云々。そして今回は、読み終えて、まだ受け止めきれず、今までと違った反応をしてこんなレビューを書いています。題名からして印象が今までの作品と違ったので、(怖くて)しばらく読まないでおこう、と思っていたのですが、、、 (一部村上龍氏を連想してしまう)スピード感のある部分もあれば、第3の新人(でしたっけ)と以前書かれていたような印象の部分もあり、平易に説明しようとする部分が多く感ぜられたり。 少なくとも近年の作品のような、村上さんの「井戸掘り」による洗練された物語りの形を超えて、今回は主体的な「意図」と冗長性を感じました。小説内小説を用いることで、物語りと同時に(インタビューによってもたらされたと思われる)ノンフィクションを融合させているように思えてしまいました。 もう少し話したいけど、まとまりません。また影響を受けた事は確かです(少なくとも良い方向だと良いのですが)。また何度か読み返すと、また違った感想を感じると思います。海はまだ見えているのでしょうか。まだ温もりが残っているうちに、「心を定める」。 | ||||
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この本全体が200Q年に対する『空気さなぎ』なのかなと思いました。 リトルピープルという言葉は、ある種の盲目的で排他的なものに対する皮肉なのかなという気もしました。 残された伏線の多さは気になりますが、恐らく読者の想像の域を超えないと思いますので、 このままでいいのかな?って気もします。 作品の中に音楽を散りばめることで、その情景に作者の意図する雰囲気を伝える手法が、 相変わらず冴えてるなと思いました。 思わずアバとクイーンを交互にかけてしまいました。 意外といい感じでしたw | ||||
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あだ名のような名前の主人公が 現実とも虚構ともいえる世界の中で 考え、他人と語り合い、世界と折り合いをつけて行く物語は これまでの著者の作品と同一だ 著者が本書で取り上げたテーマのうちのひとつ 過去のできごとの解釈を私は評価したい 主人公の男女二人はともに恵まれない少年少女時代を送っていた 男は自分の父親の死期に際して父親の元を訪れ 父親への憎しみを感謝に替えて今後の人生を生きようとする 女は自分の犯した過ちから過去を完全に断絶し 会えるはずの家族にも会わず自らの命をも絶とうとする 過去のできごとは事実として存在するが その意味の解釈は何通りもあるのだ 過去のできごとの意味合いを替えて過去との折り合いをつけ 未来もうまくやっていけると気づく男 過去のできごとを頭から否定し 未来へのつながりも絶とうとする女 過去と他人は変えられないが未来と自分は変えられる 過去の事実は変えられないが過去の事実の解釈は変えられる 過去の延長が未来ではない 過去にどんな事実があろうとその解釈の仕方で未来は必ず変えられる 著者からのメッセージに胸に込み上げるものがあった | ||||
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登場人物はかなりデフォルメされたキャラクターだけれど、現代社会の病理をうまく表現していると思う。 カルト宗教、DV,性虐待という問題を説教臭くなく、くどくなく、読者が入り込みやすく表現してくれています。 これらの問題の根底にある、家庭崩壊し、しがらみもなくなった分、ルーツもなくなってしまった現代人の孤独と不安、愛と性欲とか結びつかずに、性をリクリエーションかスポーツのような娯楽、その時の快楽ととらえる時代が描かれている。 現代という時代をその時代の中から、ここまで客観的に描けた、という意味では優れた作品だと思う。時代の中にいる人は、その時代の特性を理解しにくいものだから。 しかし、根底のメッセージは非常にシンプル。 こんな社会でも、人と人との結びつきは、人に希望を与える。愛は人に元気を与える。 そして、随所にちりばめられた硬質のきれいな表現、それでいて上滑りではない適切な表現、というのは、翻訳を数々手掛けた村上氏ならではのものだとおもいます。 この作品は、ところどころに露骨な性描写があります。これが、物語にスパイスを与える読者サービス?というのは、まと違いな意見だと信じたいです。むしろ、性描写露骨にすることで、ここで繰り広げられているセックスはただの快楽にすぎない、という冷めた乾いた印象を与えるのが、作者の意図だったのかもしれません。 物語的には面白かったのですが、ここまで書くのなら、カルトとそうでない宗教の違い、そして、社会に適合していても宗教の持つ病理、それでも宗教の持つ救い、希望などについてももっと掘り下げてほしかったと個人的には思います。 そこが掘り下げられたら、この作品はカラマーゾフの兄弟に並ぶ名作になったと思うのですが。この話の中では、カルトへの対抗手段が、一人の男のことの個人的な心のつながり、ということになっており、「二人の愛がすべて」という現代日本の恋愛至上主義というレベルにとどまってしまう気がします。 現代日本の病理は、戦後の日本人が信仰心を失ったことと密接に関係していると私は認識していますので、やはり広い意味での宗教での愛というのにも触れてほしかった気がします。 そして、book1はすごく楽しませてくれて面白かったんだけれど、book2の後半は、ふで足らずという気がしました。 それが読者の想像力を膨らませるための作者の意図だとしても、カルト宗教のリーダーの言葉とかリトルピープルについてがあまりに、あいまいで、さらに展開も、ちょっと無理があった気がします。 まあ、それらはbook3で繰り広げられるのかもしれませんね。 上下ではなく、book1,2としてあるのは、やはり次がある!!と期待しています。 、 | ||||
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Book1で次々と謎が提示され、Book2ではそれらが明らかにされていく。 作者の語り口のうまさと、ミステリー小説的なテンポ感で 一気に読ませるところはさすがというしかない。 ただ、そのうまさがマイナスに働いているのか、 描かれている生きる孤独が心に響いてくることはなかった。 どうも表面的な感じがしてしまう。 それがまた狙いなのかもしれないけど・・・ 個人的には、主人公の周りでいなくなっていく人たちがどうしても可愛そうで、なんとなく救いをあげて欲しかったなぁ、とも思ってしまいました・・・ | ||||
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いろんな人がいて、いろんなことを言う。 これだけ売れているのだから、感想はさまざまで当然。 村上春樹さんの作品が好きな私は楽しめた。 通勤の電車の中で、眠る前のベッドで、 続きが気になってどんどん読んだ。 いい時間を過ごせて良かった。 村上さん、ありがとう。 『海辺のカフカ』を読んだ時ほど、 作品の世界にどっぷり浸かることはできなかったから、 ★を4つに。 | ||||
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本書を読んでの第一印象は、これまでの村上春樹の集大成になっているというものだった。『羊をめぐる冒険』『国境の南、太陽の西』『スプートニクの恋人』『海辺のカフカ』「納屋を焼く」など、すべての要素が入っている。そして、これまで彼が明確にしなかったものが、本書ではっきり道筋をつけたのだなあと感じだ。だから、村上春樹であって、村上春樹でない印象を受けてしまった。つまり、答えを出さないでいてくれたところに、自分に気持ちが代弁されてると感じていたので、その話の先はこうでした、と見せられることで、違和感があったのかもしれない。 正直、自分が本当に村上春樹が大好きだったのか分からなくなってしまった。だからこそ、この『1Q84』に続編がなければ、中途半端に答えを出されて宙吊りにされたような気持ちになってしまう。どうせ明確にされたのなら、いつものような止め方ではなく、その先を教えて欲しいと思ってしまった。 ただ、そう感じさせることが村上春樹の狙いであるようにも感じ取れる。そこはテーマとつながるだろうから、詳しくは言えないが、読んで感じたこの気持ちが、恐らく主人公たちも薄々感じているものなのではないかという気がする。 また今回出てきた動物(犬以外)が、彼がこれまでに書いた「羊」ではなく、何故「山羊」なのか、というのも青豆、そしてひいては天吾に絡んでのことなのだろう。ここで「山羊」だったということで、村上春樹が敬愛する、とある作家のテーマ(もっと大きくいえば、文学史的なテーマ)に近づけようとしている気がする。いや、近づけたのではなく、どうしてもそこに行き着いたのかもしれない。 村上春樹が、これまで様々な作品を生み出しながらも、実は全くブレておらず、彼の言いたいことはこういうことだったのか、と本書で判明した気がした。だけれどそれが本当なのか、続編か、続編がないなら、別の新作を読むまでは、この『1Q84』に対する気持ちに決着がつかない。 | ||||
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