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かあちゃん
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かあちゃんの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.45pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全22件 1~20 1/2ページ
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病院の待合室で読んでて涙があふれて困った。困ったけど、買って良かったです。 | ||||
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たしか10代の頃に1度図書館で借りて読んで、その時も好きな本だなあと思った記憶がある。 月並みな感想だけど、あたたかくて、心の端っこを擽られたりつねられたり……そんな感覚になるいい本だと思う。これをたとえば、また10年後とかに、子供がいる状況で読み直したらどんな感情になるんだろう。 きっとかわらず、あたたかいもので包まれるような心地良さがあるのだろうな。 | ||||
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人間立場を変えてみた時、違う角度からみた時、それぞれに想いがありいとおしい存在。かあちゃんの尊さ存在の大きさに考えさせられ、久々に号泣しながら読んだ。 | ||||
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とてもきれいな商品でした。また機会があれば、こちらで購入したいです。 | ||||
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おもしろかったし、読んで良かったと思う。 ただ「笑うことを禁じた」というのがどうも最後まで気になっている。 梶谷母の状況に置かれれば、意識的に禁じなくても、自然と笑えなくなるだろう。 「贅沢を禁じる」というのは分かるけども。 村上母が若くして亡くなった際にも、きっと梶谷母は申し訳ないという気持ちをさらに強くしていっただろう。 特に細かい説明はないけれども、夫が若くして事故死したことが、奥さんの寿命を縮めたことは容易に想像がつく。 ただそれは梶谷家にとっても同じ。根を詰め過ぎて、かあちゃんは癌になってしまったのだ。 現実にこれだけ凛とした生き方ができる人間がどれだけいるだろうか。 もし「うちだって被害者なのだから」と梶谷母が逃げてしまっていたら、村上母娘は一生、人を恨んで生きる人生になってしまっていただろう。 ちゃんと自分のしたことに向き合って生きれば、恨みは晴れるのである。 | ||||
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タイトルからして、甘ったるい母子関係のお話かと 思っていたが全然違った。人生をテーマにした作品。 夫の交通事故で亡くなった同僚への懺悔の念から、 自らに一生笑わないことを課し続けた母親 そのことを知った人々が、懺悔の念から逃げることをやめ 正面から立ち向かい背負い続けるという強い生き方を選択していく。 何十年後、遺族から許しを得てようやく笑った母親。 とっても深く泣ける作品です。 (おそらく重松作品で一番泣ける作品です) | ||||
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その言葉の響きだけで、心にぐっときてしまいます。重松氏の描く母親像は現代の母親に失われつつある母親像であると感じました。 | ||||
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お父ちゃんが事故で死んだ。人様の命を巻き添えにして。だからお母ちゃんは笑うことを禁じた。お父ちゃんの罪を一生背負うために。 こんな感じで物語が始まります。 このお母ちゃんの行動や考え方や態度が、見ず知らずの人たちの心を変えていくことになる。見ず知らずの人たちというのは、あるイジメ事件に関わった子供たちが大半である。 中学生の男女。 イジメの被害者は苦しんで苦しんで自殺未遂にまで至る。 イジメの主犯は家族の不和の八つ当たりでイジメを始め、他のイジメの加担者はイジメを無理強いされるも断る勇気がなくズルズルと、イジメの傍観者は文字通りただ傍観する。だが被害者が自殺を図ったと知って、それぞれの心が揺れ動く。罪の意識が芽生える。主犯者も加担者も傍観者も、それぞれが自分の行いについて本当の意味で向き合うことになる。そしてそれが、最初に書いたお母ちゃんの贖罪の在り方と化学反応を起こすような形になっている。 許すとはなにか? 許されるとはなにか? そのひとつの答えを重松清は提示している。それは実際に読んで確かめるのがいいでしょう。 内容はいつもの重松作品という感じ。私は重松清の大ファンなので、今作には少々物足りなさを感じた。重松作品を読んでいると、同作者の作品に似たような話はいくらでもあるし、そちらのほうがクオリティの高いものもあるからだ。 重松作品にはひとつのパターンがある。 まず、私はこれだけ大変なんです、これだけ鬱なんです、こういう状況で解決の光も見えないんです、というふうに登場人物の紹介があり→なんとかその状況を抜け出そうとするが息苦しくなるばかり→いろんな人と触れ合っていろんな考え方を吸収する→問題は解決していないし苦しい生活はまだまだつづくけど、でも、少しだけ希望の光が見えたよ、もう少し頑張ってみるよ というような、一種の応援歌のような構成であり、今作の短編もこれに当てはまるだろう。重松さんは、その応援歌の中に社会的な問題点を組み込んで、読者に考えさせるのが魅力だと思う。 今作で言えば、物語のピークは間違いなく第1章だろう。この章を起点に物語が広がっている。2章と3章の出来もすばらしかったが、4章と5章の教師の話は正直つまらなかったし、心に響くものもなかった。ただ単に教師が日頃の悩みを愚痴ってこれだけ頑張ってますよ、でもこれからも頑張っていきますよ、という、あってもなくてどうでもいいエピソードだった。もちろん教師の話を通じて、生徒の話を膨らませたりイジメ当時の教師の心情も描かれるのだが、どうにもこうにもキレ味がないのだからどうしようもない。そのあとの章は最後までいい出来で、いろいろと考えさせられた。読後感は満足の一言。 あと、最後にレビューとは関係ない余計な感想。 わかるよ、と言ってうなずくシーンが多くないですか?(笑)私の体感だと、20ページに1度くらいの頻度で、誰かが「わかるよ」と言って相槌を打っていたように思います。途中で、みんなわかりすぎぃ、と思いながら読んでしまい、誰かがわかるよってうなずくたびに笑ってしまいそうになりました。わかるよ、のバーゲンセールでした。まあこれは、内容とは関係のないただの気になった点です。 | ||||
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時間とともに喉元過ぎればなんとやら、になることは多々ある。 他人を不幸にしたことを受け止め一生笑わずに償い続ける生き方は私ならできないと思うが、それくらいのことでしか他人の心を動かせないこと、それくらい大きく影響を残すことだと思う。夫を事故で失うだけで大きな喪失感。同じ喪失感を味わせてしまった責任をダブルで受け止めることはできたとしても、精神的に倒れてしまうのではないか。この母は相手を想う気持ちでまた支えられたのか、という思いもするが、笑わない人生を私は選べるだろうか。 | ||||
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面白かった! ほぼパーフェクトな小説だ! 話の流れ、間の取り方など、絶妙である。すべての微妙?な表現が腑に落ちるし、得心がいった。重松清は本当にうまい小説家だ、と思う。夕方5:40に読み始めて、夜半1:40まで、8時間を休憩無しで一気に読み上げた。苦痛では全くなかった。これは作品のもつ力である。読了後、すぐにアマゾンで352円(102円+250円)で注文を出した。手元においておきたいのだ。 「謝罪」と「償い」の違い、取り返しのつかない問題とどう向き合うべきか、をテーマに据えた作品。話の中心に中学2年生のイジメ自殺未遂事件を据えて、中学生のさまざまな家庭問題、学校教師も問題を抱える個人として描く。多くの家庭の、特に母と子のさまざまな関係のあり方を描き分ける。 作品の登場人物の感受性や思考の深さの表現が、中学生にしては深すぎる気がするが、これが高校生に設定すると、心の有り様が純粋、真面目過ぎるので、やはり中学生しかないかなあ…、と思えるのだ。主人公たちを中学2年生に設定したのは絶妙としか言いようがない。 「青い鳥」などでも明らかだが、本作品を通して、重松清の学校におけるイジメ問題のような取り返しのつかない問題の解決策は、「謝罪」のゆるす/ゆるされる、ではなく、「償い」であり、それは自らが他人に対して行ったひどい行為を誤魔化さずに、忘れることなく自覚し続けること。いじめられた側も、忘れることは不可能だし、受け入れても忘れないことしかできない。 無粋かもしれないが、いじめを早く忘れて無かったことにしようとする態度は卑怯であり、「償い」としていじめの事実を決して忘れることなく覚え続け背負い続けることが<和解>のために一番大切なことだ、という結論は、<いじめ>という言葉を、<侵略戦争>、<植民地支配>、<従軍慰安婦>などの言葉と置き換えれば、そのままアジア諸国との「歴史認識問題」とぴったりと重なる。ユダヤの古い箴言に「歴史は忘れようとすればするほど、追いかけてくる」というのがあった、と思うが、今の日本政府の<歴史修正主義>的態度は、まさにこの轍を踏む愚行としか言いようがない。 過去の過ちは、正々堂々と認め、真摯に謝罪をした上で、歴史教育としてしっかりと次世代に記憶として受け継ぐことが、結局、国家としての誇りを保ち、大切な隣国だけではなく、国際社会での誇りある地位を占めることにつながるのだ。自民党の安倍・アホウの知性が、もう少し高ければ、この簡単な真理に気がつくはずなのだが…、詭弁モンスター橋下や身内愛慎太郎も含めて残念としか言いようがない。 「いじめ」も、「侵略戦争」の歴史認識も、結局<解決策>は「誤魔化さず、忘れないこと」に尽きる。「覚えているのが苦しいからといって、忘れようとしても、いじめられた方は、決して忘れられないのだから覚悟を決めて忘れないでい続けるしかないのだ」という点で、全く同じなのだ! | ||||
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自分の旦那が運転する車が、車線をはみ出してきた対向車をよけ、 ガードレールに衝突し即死。さらに悪いことに助手席には同僚が 乗っていたためにその同僚も即死。対向車はそのまま逃走…。 その現実を突然突きつけられたのは、死亡した運転手の妻であり、 ヒロシという小学生を持つ一人の「かあちゃん」だった。 本書は、こういった場面設定から始まる。このかあちゃんは、こ の事件以来、一緒に死亡させてしまった同僚の「加害者」として の残りの人生全てを背負っていくことを覚悟する。 この本では、ヒロシのかあちゃんを中心にしながら、学校でいじ めに遭って自殺未遂をした少年とその母親、いじめの主犯格とな った少年とその母親、いじめの主犯格に唆されていじめに加担し た2人の少年とその母親、クラスでいじめが起こっていることを 見ているだけしかできなかった女子生徒とその母親、いじめの場 となったクラス担任とその母親、その担任と同僚の若い女性教師 とその母親の姿が、リレー形式で書かれている。 当たり前のことではあるが、他人から見た人の姿は、その人のほ んの一部を主観的に映し出しているに過ぎない。それをしたり顔 で分析することも、まして決めつけることなどできない。人間は それぞれの人生を背負い、そしてその人生はことほど左様に複雑 である。本書には、この実態が非常に上手に描き出されている。 何かを教訓っぽくほのめかしてくるのではない。事実のありさま を登場人物を通してこれほど見事に書き出す力量には、毎回プロ の凄みを感じさせてくれる作家である。 ただ、多くのかあちゃんを通して、本書で通底しているのが、自 分の人生を背負い、引き受ける覚悟ができた人間の生き様には迷 いがなく、実に格好がいいことである。そして、そこから人生が また進んでいくのだ、ということも。特に、ヒロシのかあちゃん は憧れるぐらいに格好いいのである。 素晴らしい小説です。 | ||||
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「とんび」も泣いたけど、こちらは一気読みで泣けました。父と子のお話が多いだけに、母と子の重松作品は貴重です。他にも読みたいですね。 | ||||
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2009年に書かれた作品だったんですね。中学生の子供に読ませたくて購入されていたのか、たまたま家で手にしました。 大津からまた問題になったイジメ・・・いつの世も無くならない。 重松氏の思春期のイジメを多方面から捕らえた作品は、いくつか読みましたが、今回はイジメた子、イジメられた子、イジメに加担させられた子、イジメを傍観してた子、未熟な先生・・・そして、彼らに影響を与えた母子の出来事、それぞれの生活が8章構成でつながります。 イジメは無くならないかも知れませんが、重松氏の作品からそれぞれの立場を擬似体験し、苦しむ子供、苦しむ親が少しでも減ることを祈ります。 各章、それぞれの母子、家庭環境に触れられます。親として子供への接し方も気を付けないと・・・と考えさせられました。 | ||||
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全体を通して、様々な立場から語る母と子の物語です。 どんな子どもも、ひとりぼっちでこの世に生まれてくることはない。 『かあちゃん』は偉大だなぁと素直に思える一冊です。 この世に生まれてくる瞬間、誰よりも深い愛を注いでくれるのは紛れも無く、母親なのですね。 当たり前の事のようで、だからこそ、忘れがちな大切な事に気付かされたような気がします。 そして、大切な事は、『忘れない』こと。 とても深く伝わりました。 | ||||
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交通事故で同乗者とともに亡くなった父親と息子のために、同乗者の遺族に謝罪のために、笑うことも楽しむことも忘れ働き続ける母親は「忘れないために亡くなった同乗者の墓参り」を欠かさなかったが、ある日その墓場で倒れた。 この話題から始まり、いじめのために不登校になった母子やいじめた母子、その中学の担任の母子など、母と子の関係を綴る。 「償うことは忘れないこと」をテーマに母と子が成長する物語。 | ||||
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のっけから、ぐっときます。 父親が運転した車が不慮の事故にあい、助手席の同僚とともに他界。 母親は、同僚の遺族に償う決意で、一切の喜び・笑いを捨て去ります。 笑いを忘れ、ストイックに生きる母親に育てられた子供が大人に成長し、 ふとしたきっかけから遺族に再会し… というところから物語が始まります。 最初のエピソードの母親から、遺族の、いじめに加担してしまった息子、 いじめのあったクラスの担任の先生、同僚の先生…など、 つながりをもつ人たちと母親とのエピソードが1章ごとに繰り広げられていきます。 読んでみて、ものごとを一つの観点からしか見るよりも、別の角度から見ると こんなにも景色が違ってくるんだな、と実感しました。 そして、みんな誰もに、産んでくれた「かあちゃん」がいること。 弱い人も、強そうな人も、頑張ってる人も、ぼけ〜っとして見える人も。 みんな誰かの、子どもなのです。 | ||||
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全8章の中で中学生のいじめ問題も投入しながら母親の存在を描いたこの本、 正直面白くなかった。 所々瞼が熱くなる個所があるにも関わらず、うんざりする気持ちがはびこってしまう。 それは、泣かせてやろうみたいな仕掛けに感じて、物語として愉しめないからに思う。 加えて重松清がやりたがる罪を背負う人生が、宗教色ある小説と感じてしまう点もある。 聖書を小説仕立てにしているような作風を、このまま重松清は続けていくのだろうか。 | ||||
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とにかく泣ける。泣かせるのが上手い作家である。 内容は実に盛り沢山。イジメ、介護、マザコン。 交通事故で夫だけでなく夫の同僚まで死亡。わき見運転か居眠り運転の車を避けて起こした事故なのだから夫も被害者。にもかかわらず「かあちゃん」は罪を一人で背負い、以後26年間笑うことをやめる。幸せだと思うことを自分に封じてしまう。その「罪を忘れない」という姿勢がイジメに苦しむ子ども達を知らずに救っていく。 ようやく被害者家族と和解し、忘れかけていた笑いを思い出したときには、癌におかされ、余命いくばくもないというお約束の展開で物語は終わる。 26年間笑わない。子育てをしているのに子どもに笑いかけることも自分に禁じる。自分がおかした罪でもないのに。よく考えたら凄まじい話である。 理解に苦しむファンタジーととるか、その真摯な姿勢に襟を正すか。 自分の憂さ晴らしに、自分勝手な理由で簡単に人を殺す現代。殺人への時効を撤廃することも検討されている。 いずれにせよ、忘れっぽいに人間に重松氏が放った痛烈な一矢である。 | ||||
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既刊の「とんび」と併せて読むと、自分の親への気持ち、自分の子供への気持ちがあたたかく膨らみ、家族を大事にしていきたくなる本だと思います。 | ||||
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とても感動しました。 私も二人の子どもを持つ母親で、それぞれの章で出てくる「かあちゃん」の姿が印象的でした。 中学生たちの微妙な心理状態、そのそばに必ずいる母親の存在・・・ この本を読む前に湊かなえさんの「告白」も読みました。非常に話題になっている本で、確かに読んでいる間のスリルや、読者をひきつける文章力やスピード感は賞賛に値すると思います。思いますが・・・ 中学生が出てきて、それぞれの章で語り手が変わること、いじめの問題や罪を償うことの意味など共通する主題が多い2冊ですが、私は重松さんの「かあちゃん」のほうが個人的には圧倒的に好きです。読後感を含め、読者やすべての「かあちゃん」を励ましてくれる作者の暖かさを感じました。 | ||||
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