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トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー
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トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモローの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.00pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全8件 1~8 1/1ページ
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ガブリエル ゼビンの本を読むのはこれが初めてでは無いのですが、前回の期待から外れた作品だった。 凄く読みにくく、何度もページを戻って読み返す必要があった。私の理解力のなさでそうする事になったのかも知れないが、とにかく読みにくい。前置きが長過ぎるのと所々変な翻訳が目立つ。 | ||||
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ゲームの面白さとは何か?を徹底的に探求した筆者なりの答えが知りたくて手に取ったが結果は期待外れだった。 天才というラベルを貼られた登場人物を互いに天才と評価しあっているだけであり、天才らしいアイディアや言動、考え方、インスピレーションなどが出てこない 彼/彼女は天才だ。 感動的な作品だった。 「どう」天才的や感動的なのか文字を通じて体験したかったのだが、それらが省かれているのが非常に不満。 ストーリーラインを追っても特別面白い話かというと平凡な展開であり、後半のダレる展開は誰も望んでないだろう。 前半の若々しさのあとにシミを残しただけ。 ゲームと小説を融合させた結果、悪いところが目立つ形になってしまったように感じる。 ゲームのコンセプトとしてもSFのテーマとしてはやり尽くされたようなものの焼き直しである上、小説内でのゲーム表現としては、手触り感がなく、断片的な「天才的表現(面白いゲームになりそうとは思えないが、作中では天才的と評されている)」が書き連ねてあるだけで、魅力的なゲームであるとはとても感じられない。 昨今のムービー偏重型のユーザー置いてけぼりゲームを再現しているような空虚さしかない。 小説という観点からいっても、出てくるキャラクター全員の魅力に欠け、優柔不断で信念を感じられない主人公2人にイライラさせられ通しである。 また、天才の表現としても権威主義的であり、「MIT」「ハーバード」「数学科」「フィールズ賞」などの典型的な一般人が考える天才のラベルを散りばめただけで、「天才」を感じる描写が皆無に等しい。 全体的に、キャラクターは「天才である」と説明されることによって、天才とされ、作品は「感動的である」と説明されることによって大作とされているだけで、読者はその素晴らしい発想や作品を感じることはできない。 小説としてのイマジネーションがほとんど掻き立てられない、安っぽいドラマにありがちな展開とその装飾のために「天才的な」ゲームが使われているというハリボテ感でしかない。 モノづくりの過程の描写も稚拙で、クリエイティブな発想をするために何時間もブレインストーミングすると本気で思っているのだろうか? クリエイターは自身で考え抜いて答えは出すし、思いつきに頼ったやり方で作品のタイトルを決めたりなんか絶対にしない。 まさかこの本のタイトルも編集者とブレインストーミングで決めたわけではあるまい。 戯曲からの引用も多いが、これもエセインテリのような会話が鼻につく。ことあるごとにドラッグ、セックス、暴力に走るのもバタ臭さがあり、ありがちなテンプレート表現が多いのも小説としての完成度の低さを際立てている。 空想世界を描き切るSF作品と対比しても、作者の知性が感じられなかった。 「一つ答えてくれ。きみは自分でプレイしてみたか」 | ||||
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最高でした! | ||||
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ゲームを通じて偶然知り合った2人が、お互いの才能を理解して一緒にゲームを作り、喧嘩をして関係が疎遠になることもありながら、心の深い部分でつながり続けていると感じました。個人的には縁遠くなったのに、相手に対して気持ちを持ち続けて、なんとか関係を再構築しようとするサムは少しくどい気もしましたが、セイディとじゃないと最高のゲームは作れないという想いが愛情や友情のほかにあるのだろうと思います。クリエイターに限らず全ての働く人にそれぞれ人生があり、プライベートでも問題は起こります。クリエイターの方はそれを乗り越えて作品を作るからこそ、その人の才能はもちろん人間性や深みも生まれてよりユーザーは楽しめるのかもしれませんね。 | ||||
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サムはジェシー・アイゼンバーグのイメージで読んでました。 一応、IMDbには"in development"に分類されているけど、頓挫せずにちゃんと映画化されることを願ってしまいます。 | ||||
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. セイディ・グリーンはMITの学生。1995年の冬、ボストンの地下鉄駅で、幼い頃一緒にテレビゲームをして遊び、今はバーバード大に通うサム・メイザーに再会する。やがて二人はヒット・ゲーム〔イチゴ〕を共同開発し、一躍ゲーム界の注目を浴びる。だがその後、二人はゲーム制作の面でも友人関係でも次第に溝を深めていく……。 ------------------------ 小学生のときにふとしたきっかけで出会った男女が、感情のもつれや大きな事件をきっかけに親密と疎遠を繰り返す四半世紀の物語です。 この小説がアメリカで大ベストセラーになっていることは、海外のBookTuberが紹介しているのを見て知っていました。ただ、ゲーム業界の物語とも聞きましたから、なにしろ50年近く前にインベーダーゲームをしたきりで、その世界とはとんと縁のない人生を送ってきた私は、この小説に手を出すのにずっと及び腰でした。 しかし、これだけ話題の本ならば、食わず嫌いは一生の後悔になるのではないかという気持ちのほうが勝りました。しかも10月に出た翻訳はあの池田真紀子氏です。スティーヴン・キング『 トム・ゴードンに恋した少女』 』、ジェフリー・ディーヴァー『 クリスマス・プレゼント』 』、アーサー・C・クラーク『 幼年期の終わり』 』、アーネスト・クライン『 ゲームウォーズ』 』、ケイトリン・ドーティ『 煙が目にしみる : 火葬場が教えてくれたこと』 』といった書の翻訳で、幾度も私を楽しませてくれた、信頼できる翻訳者です。 そして読み終わった率直な感想は、迷う必要などなかった、というものです。 この小説を読み続けている間は、本当に至福の時間でした。 ボーイ・ミーツ・ガール物を思わせるような滑り出しでありながら、二人はそんな“ありふれた愛”などには目もくれず、唯一無二の絆を結び――時として、それを乱暴なまでに断ち切ったあとで、再度時間をかけて結び直し――、これ以上ないほどの濃密な人生を紡いでいくのです。 セイディもサムも、野心と気遣いをあわせ持つ、大変魅力的な登場人物です。そしてこの二人は、人生のままならさ、自分たちだけでは克服できそうもない山と谷を前にして、実に人間くさく、悩み、喘ぎ、足掻いていきます。二人と一緒に私も、何度も心引き絞られる思いをしました。読み終えるのが惜しくなるような読書体験でした。 また二人を取り巻く脇役陣も、これまた素敵です。 ビジネスパートナーである日系のマークス・ワタナベや、その恋人の作曲家ゾーイ。 そして殊に、セイディの恩師/恋人で、ちょいワルおやじ風のトーヴは、“憎みきれないろくでなし”です。「俺は最低の人間だ。それでもきみを心から愛してる。それが俺からのはなむけの言葉だ」こんなキザなセリフが実にしっくりくる男です。 日本製のゲームの話や、東京出張してコンビニでタマゴ・サンドを買う場面、葛飾北斎やその娘の応為の作品など、日本人読者の心をくすぐる仕掛けも散りばめられています。 〈恋〉とか〈愛〉といったことばでは括りきれない二人のいく末を、いつまでも見守っていきたい――そんな幸せな気持ちに心の底からなれる小説でした。 ------------------------ 大変読みやすい翻訳ですが、いくつか気になるところがありましたので、いつか文庫化される際に再検討いただければと思う訳文箇所を記しておきます。 *59頁:「女を“魚臭い”と罵った」というくだりがありますが、なぜ“魚臭い”が罵り言葉になるのだろうと訝しく思いました。「“魚臭い”はサムがふだん使う語彙に含まれていなかった」ともありますが、小学生でも“魚臭い”くらいの言葉は普段使うのではないかと思いました。 そこで英語原文を確認したところ、“魚臭い”は女性のあ そ こを指す卑語になっていました。そりゃ、アメリカの普通の小学生がこんな卑語を人前で口にしたら、親や教師は卒倒するでしょう。それを考えると、“魚臭い”という日本語は少し優しすぎる気がしましたが、そう思うのは私だけでしょうか。 *79頁:「サンフランシスコドラマ『ドクター・フー』」と書かれたくだりがありますが、原文は「Doctor Who」としか書かれておらず、「San Francisco」という言葉はどこにもありません。イギリスの公共放送BBCの看板ドラマである「ドクター・フー」がなぜ、英語原文にはない「サンフランシスコドラマ」という枕詞とともに紹介されているのか、首をひねりました。 調べてみたところ、1996年にサンフランシスコを舞台にした『Doctor Who』のテレビ映画版が製作されたようです。とはいえ、この場面はサムが大学に入学した直後の1993年ですから、1996年版テレビ映画はまだ影も形もありません。ですから「サンフランシスコドラマの『ドクター・フー』」という説明が何を指しているのかが結局わかりませんでした。 *114頁:幼いサムが〔ドンキーコング〕をプレイしている場面に、「小さなイタリア系アメリカ人の配管工を操ってタイミングよくジャンプさせたり階段を上らせたりできる」という描写が出てきます。あれっ? これってドンキーコングじゃなくてマリオのことですよね? 原文を確認したら「the little Japanese Italian plumber’s jumps and ascend the staircases at the right pace,」となっていましたので、誤訳ではなく、作者のゼインがうっかり間違えたみたいです。どうしてアメリカの編集者はこの間違いに気づかなかったのでしょう? それにしてもアメリカ人はマリオのことを「Japanese Italian plumber(日系イタリア人の配管工)だと思っているってことでしょうか? *117頁:LAでドラマのパイロット版のオーディションを受けないかと言われたアナに対して、ジョージが「パイロット版の放映は毎年春だ」と指摘する場面が出てきます。ですが、アメリカのテレビドラマのパイロット版の放送は――当時も今も――秋というのが相場です。 変だなと思って英語原文を確認したところ、「“Pilot season is in the spring,” George said.」となっていました。「これはパイロット版のキャスティングは春だ」と言っているのです。放送の時期の話ではありません。 英語版Wikipediaの「Pilot season」の項には次のように記されています。 「By spring, actors are cast and production crews assembled to produce the pilots.」つまり、「放送に向けて春までにキャストが決まり、スタッフが招集される」のが「パイロット・シーズン」の作業日程というわけです。 といっても春に決まったキャストのドラマがアメリカで放送されるのは、次の年の秋です。日本と異なり、アメリカのテレビドラマの制作スケジュールはそれくらい長丁場です。 *132頁:セイディが作った水のテクスチャーの出来が悪いとサムが言ったあとの場面の訳文が次のようになっています。 「『そんなに簡単だと思うなら、自分が嵐を作ればいいじゃない!』サムは自分の部屋に入ってドアを叩きつけた」 ところが原文はこうなっています。「“If it’s so easy, you try building a fucking storm!” Sadie went into her room and she slammed the door」つまり、部屋に入ってドアを叩きつけたのは「サム」ではなく、「セイディ」です。サムにけちをつけられて腹を立てたのはセイディのほうですから。 *372頁:サイモンがドイツ語の「ツヴァイザムカイト」のことを「大勢と一緒にいるときに感じる孤独を指します」と説明しています。これも首をかしげました。確かに英語原文は“ ‘Zweisamkeit’ is the feeling of being alone even when you’re with other people.”となっているので、日本語訳が誤っているわけではありません(もっと正確に訳すと「大勢と一緒にいる“のに”感じる孤独」です)が、ドイツ語のZweisamkeitは「二人っきり」、「二人だけの水入らずの状態」という意味です。「大勢と一緒にいるときに感じる孤独」はEinsamkeitのほうではないでしょうか? サイモンはアントと出会うまで孤独だったと吐露している場面ですから、「Zwei」=2人(きり)ではなく、「Ein」=1人(ぼっち)のほうの話をしているのだと思います。残念ながら作者のゼヴィンのドイツ語の知識が間違っているようです。 . | ||||
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本書のタイトルは、『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』 なぜ3度も繰り返すのでしょう? 「マクベス」(103頁)の第五幕第五場の中の言葉にもあります。 「明日、また明日、そしてまた明日」(460頁) 「『ゲームとは何か』マークスは言った。『 “明日、また明日、そしてまた明日” だ。無限の生まれ変わり、無限の贖罪(しょくざい)の可能性だよ。プレイを続けてさえいればいつか勝てるという希望だ』」(461頁) 「マークスは “トゥモロー・ゲームズ” という社名を提案した」(460頁) 本書は、ゲーム会社を立ち上げた三人、セイディ、サム、マークスの物語。 結局、アンフェアー・ゲームズで落ち着く。 著者「ガブリエル・ゼヴィン」は言う。 「『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』は働くことについての小説だ」(550頁、「著者あとがきと謝辞」より) そして、 「『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』はまた、愛についての小説でもある」(551頁、「著者あとがきと謝辞」より) 「ゲート。ゲート。そしてまたゲート」(323頁)の人生。 「根津神社の赤い鳥居」(323頁) とにかく、著者は3という数字が好きみたいです。 「第三幕第三場を開いたペーパーバック版の『マクベス』」(421頁) いろいろな死に方を演じようと工夫したしたマークスは早く死ぬ。 座るもののいない椅子だけで、十分死を演じられるというのに。 大学生時代には『マクベス』のバンクォー役で死ぬ演技をしていたマークス。 卒業後、マークス・ワタナベはアンフェア・ゲーム社のCEOになる。 「会社経営の実務面はすべてマークスが引き受けていた」(427頁) ゲーム会社は、ゲームを創くる仕事だけでは成り立たない。 会社での「銃乱射事件」(427頁)で「三発」(397頁)撃たれ、マークスは死ぬ。 「三十一歳」(389頁) 妻のセイディの妊娠も知らずに。 本書のエピグラフは、エミリー・ディキンソンの詩。 詩の題名は、That Love is all there is(あの愛にはすべてがある) ただし「その荷が溝と釣り合っているのなら」 最終章は、「X 荷と溝」 エピグラフの詩の最終行「その荷が溝と釣り合っているのなら」をなぞっている。 マークスが死んでから五年たつ。 セイディは、いったんサムに押し付けた会社経営の大半を、 結局、マークスの跡を継いでオフィス経営に専念する。 セイディ「三十四歳」(505頁)。 娘は「四歳のナオミ」(521頁)、保育園。 サムは、マークスの死後、アンフェア・ゲームズの経営から一時身を引いて 祖父の看病に専念した。 そして、サムの祖父の葬儀でセイディに再会。 〔イチゴⅢ〕の共同制作の話があり、 十二歳のサムと、十一歳のセイディの頃に帰って 〔イチゴⅢ〕のサンプルを一緒にやってみる。 狂気? 「狂気とは、同じことを繰り返しながら、異なる結果を期待すること」(546頁) これは、愛の定義にもなりますね。 | ||||
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とんでもない大作だった。よく練られたリアルな設定のゲームが何本も入っている。体の弱い少年と心に傷のある少女のボーイミーツガール年代記であり、「わきまえた女」の痛々しい人生であり、プログラマーの苦闘の歴史でもあった。 人生における愛と生と死、中でも愛と死のパートが色濃く書かれていて、読むには少々体力がいるが、一気に集中して読めた。 エミリー・ディキンスンをゲームにするような女がどんな人生を送るか、という面でも興味深い。 そしてエミリー・ディキンスンにハマってしまったような少女をどのように愛して、どのように幸福にするかという点でも。 | ||||
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