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鍵
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鍵の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.00pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全24件 1~20 1/2ページ
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挿絵(版画)が素敵。中身はまだ読んでいない。(笑) | ||||
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この小説を以前読んだ時にはただ好色な作家の作品としか思わず、見過ごしていたのでしょう。 例えば『ペレアスとメリザンド』のように夫と妻、その愛人として描かれる物語、或いはロシア作家が表現する現実は、 戦争や社会体制の為に別離を余儀なくされたが、その彼らの間の深層に通底する想いと身体感覚、ヒューマニズムの一側面でしょうか? その社会的な表現が秘められているのだろうと思うようになりました。 ロシアの映画監督ズビャギャンツェフ『エレナの惑い』を思い出してから、ふと考えた事です。 | ||||
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谷崎は私生活もさる事ながら、谷崎本人の欲望をそのまま映し出した作品。ほんとに、もう...。 そして、やっぱり棟方志功の版画が挿絵として掲載されている中公文庫さんがお薦めです。 白と黒。どの画もモダンです。 | ||||
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「ジャケ買い」と書いておられる方が見えますが、よく分かります。 読みやすいのは新潮文庫の方かもしれませんが、やはり谷崎作品は中公文庫で買い直したくなります。 | ||||
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小説本文だけだと、谷崎のいわば小説における一つの実験(ないし先駆的試み)として済まされてしまいかねないが、棟方志功の挿絵と装丁が付いていることで、一つの原初的な強烈さを持つ性の美のようなものが立ち上がってくる感がある。谷崎は棟方志功の「美」にずいぶん救われている気もする。 | ||||
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もっと読みたくなりました、 | ||||
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若い時、『鍵』(谷崎潤一郎著、中公文庫)を読むのを途中で止めて放り出したのは、56歳の夫が妻に盗み見されることを想定しながら綴った日記も、交互に示される、これまた夫に盗み見されることを想定しながら書き継いだ45歳の妻の日記も、性的生活の微に入り細に入る描写が何とも赤裸々で、辟易してしまったからです。 夫のカタカナ表記の日記は、こう始められています。「一月一日。・・・僕ハ今年カラ、今日マデ日記ニ記スコトヲ躊躇シテキタヤウナ事柄ヲモ敢テ書キ留メルヿニシタ。僕ハ自分ノ性生活ニ関スルヿ、自分ト妻トノ関係ニツイテハ、アマリ詳細ナヿハ書カナイヤウニシテ来タ。ソレハ妻ガ此ノ日記帳ヲ秘カニ読ンデ腹ヲ立テハシナイカト云フヿヲ恐レテヰタカラデアツタガ、今年カラハソレヲ恐レヌヿニシタ。妻ハ此ノ日記帳ガ書斎ノ何処ノ抽出ニ這入ツテヰルカヲ知ツテヰルニ違ヒナイ」。 これに続く妻の1月4日の日記には、こういう一節があります。「実は私も、今年から日記をつけ始めてゐる。私のやうに心を他人に語らない者は、せめて自分自身に向つて語つて聞かせる必要がある。但し私は自分が日記をつけてゐることを夫に感づかれるやうなヘマはやらない。私はこの日記を、夫の留守の時を窺つて書き、絶対に夫が思ひつかない或る場所に隠しておくことにする。私がこれを書く気になつた第一の理由は、私には夫の日記帳の所在が分つてゐるのに、夫は私が日記をつけてゐることさへも知らずにゐる、その優越感がこの上もなく楽しいからである。・・・一昨夜は年の始めの行事をした。・・・あゝ、こんなことを筆にするとは何と云ふ耻かしさであろう」。「年の始めの行事」とは、姫始めを意味しています。 この夫婦に、一人娘の敏子と、その求愛者・木村が絡んできます。 1月13日の夫の日記。「アノ晩僕ハ、木村ニ対スル嫉妬ヲ利用シテ妻ヲ喜バスヿニ成功シタ。僕ハ今後我々夫婦ノ性生活ヲ満足ニ続ケテ行クタメニハ、木村ト云フ刺戟剤ノ存在ガ欠クベカラザルモノデアルヿヲ知ルニ至ツタ」。 4月17日の妻の日記。「私は、今日の日曜日をいかにして過すかは前から極めて置いたのであるから、その通りにして過した。私は大阪のいつもの家に行つて木村氏に逢ひ、いつものやうにして楽しい日曜日の半日を暮らした。或はその楽しさは、過去の日曜日のうちでは今日が最たるものであつたかも知れない。私と木村氏とはありとあらゆる秘戯の限りを尽して遊んだ。私は木村氏がかうじて欲しいと云ふことは何でもした。何でも彼の注文通りに身を捻ぢ曲げた。夫が相手ではとても考へつかないやうな破天荒な姿勢、奇抜な位置に体を持つて行つて、アクロバツトのやうな真似もした(いつたい私は、いつの間にこんなに自由自在に四肢を扱ふ技術に練達したのであらうか。自分でも呆れる外はないが、これも皆木村氏が仕込んでくれたのである)。・・・私は『夫』を心から嫌つてゐるには違ひないが、でも此の男が私のためにこんなにも夢中になつてゐるのを知ると、彼を気が狂ふほど喜悦させてやることにも興味が持てた。つまり私は、愛情と淫慾とを全く別箇に処理することが出来るたちなので、一方では夫を疎んじながら、――何と云ふイヤな男だらうと、彼に嘔吐を催しながら、さう云ふ彼を歓喜の世界へ連れて行つてやることで、自分自身も亦いつの間にかその世界へ這入り込んでしまふ」。 夫の死後に書かれた、6月9日、6月10日、6月11日の妻の日記には、実に恐ろしいことが書かれています。 今回、最後まで読み通して感じたことは、『鍵』は、谷崎潤一郎が渾身の力を込めて書いた推理小説なのではないか、ということです。私の妄想に過ぎないかもしれませんが。 | ||||
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無し。 | ||||
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おれもとうに五十を越えた。男も五十代あるいは六十代ともなれば、性欲なんかもなくなってきていい感じに枯れてくるのかな、とぼんやり思っていたのは二十代、三十代の頃。ところが実際に五十を越えてどうかというと、性欲なんてそう簡単になくなるもんじゃない。むしろあらぬ妄想が脳裏を駆け巡り日々亢進してギンギラギンなくらいだ。しかし、性欲は有り余るほどあるけれども肝心のアッチの方がまったく元気がないというこの現実。若い頃には想像だにしなかったこの事態。このままではあと十年も経たずして男として完全な不能となってしまうんじゃないかという恐怖に今直面している。性欲はあるが男として立たないという、ああ、まさに生き地獄。だと思うんであるが、谷崎は楽しそうだな。おれも見習わないと。ただ息子の嫁の足ならともかく尻となると(おれは尻が好きなのだ)相当の覚悟が必要だ。冗談では済まないかもしれない。というわけで結局、大谷崎になれない小心者のおれは日々悶々としているだけなのである。 | ||||
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『オ爺チャン』で良かったよ。オトウサマだったら私、経験上ちょっと読むのがツラくなりそう。 督助は不動産を多く所有する元遊び人・高等遊民系なんだろう。 愛人のいる息子だって給金はすべて交際費に消えていると思われる。 息子も(その母も)「父(夫)と妻(息子の嫁)が何をしているか」察しがついているようだ。 そしてそれなのに、遺産は息子の嫁には相続権がない。どんなに世話をしようともw。 督助は言う『ダイジナ嫁ニ宝石ヲ買ッテヤルンダ』だから颯子はどんどん貢がせていいのだ。 ブランドバッグ、15カラットの猫目石、プールを庭に作らせるなんて安いもの。 督助は老人でもむっつりスケベじゃない、言葉で要求して許可を得る、しつこいところがあるがかわいい男。 なんやかんやで息子の嫁・颯子ととても仲がいい。颯子の映画や演劇好きの話も喜んで聞いてくれる。優しい。 妻も娘も、遺産を嫁に取られて悔しがっているwww。痛快。将来はそんな嫁・颯子に、家は完全に支配されるのだ。 | ||||
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〇『瘋癲老人日記』のレビュー。 谷崎75歳の作品。『鍵』が、自分の性的欲望を追求するあまり、腹上卒中という 自爆に追い込まれる男の悲劇(喜劇?)を描いたのに対し、『瘋癲老人日記』は だらだらと生き長らえつつもベッドのなかでうつらうつらとあらぬ性的妄想に ふける老人の喜劇(悲劇?)を描いている。 主たる登場人物は4人。 予 77歳、資産家 婆さん 予の妻 浄吉 予の長男 颯子(さつこ) 浄吉の嫁 その他、親族、看護婦、医者、お手伝いさん等もろもろ。 予はすでに肉体的には不能だが、不能だからとって性欲がないことはない。 妄想力はくすぶっている。毎日自分の死の想像と性的妄想が生きがいである。 老夫婦の常として、余と婆さんのあいだにはちょっとしたいさかいが絶えない。 そんなとき息子の嫁の颯子は婆さんより自分の味方をしてくれる。(ように 思える。)それがなんとも嬉しい。ダンサーだった颯子と息子の結婚に婆さんは むかし反対したいきさつもある。余は颯子ののびやかな肢体に魅せられている。 颯子はそのことを家族内で唯一理解しているみたいで、たまさか宝石のおねだりの ときには、予に膝から下を自由に触らせてくれる。予はその行為のときに逸脱して ちょっとしたいたずら心を起こし、颯子にこっぴどく叱られるのが楽しくて たまらない・・。 77歳の予の関心は、食欲、薬のこと、それからそういったいびつな性欲。 いまは自分の墓の設計に夢中。颯子の足裏の拓本をとってそれをもとに仏足石を つくり、死後も颯子の足に踏まれ、颯子の体重を全身に感じ「痛いけど楽しい」と 叫びたい。奇矯の極致であるが、批評家の評判はすこぶるよく毎日芸術賞大賞 を受賞。 (注)『鍵』のレビューについては、先に読んだ青空文庫版『鍵』のところに書いた。 | ||||
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棟方志功の装丁ということでジャケ買いしました。 やはりこの装丁は素晴らしい! 中身は名作! | ||||
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「鍵」と「瘋癲老人日記」は、晩年の谷崎潤一郎が書いた日記形式の小説です。二編の小説を通じて、自分の身を滅ぼすとわかっていてもいやおうなしに高まる老人の性衝動が描かれています。 「鍵」…五十六歳の老人と四十五歳の妻の性衝動や腹黒い内面が記された小説です。老夫婦や娘の敏子、木村という男は、四人とも陰険でずる賢い性格の持ち主です。露骨でない観念的な表現であるとはいえ、老夫婦の性欲や性生活が生々しく綴られています。死に至るほどに高揚する性的興奮の狂おしさや、老人の内面に対する妻の冷徹な態度がとても心に残ります。叙述トリックのような技巧も用いられており、小説としての完成度が非常に高い作品だと思いました。 「瘋癲老人日記」…七十七歳の督助が義理の娘・颯子に対する欲望を綴る小説です。病の苦痛にもだえながら、性悪な義理の娘にたしなめられて喜ぶ老人のマゾヒズムが描かれています。老人の奇妙なマゾヒズムとフェティシズムが強烈な印象を与える怪作です。マゾヒズムや悪女、母への思慕や足フェチなど、いかにも谷崎らしい要素が盛り込まれた内容になっています。 どちらの小説も、谷崎が晩年まで書き続けてきた作品群をどこか彷彿とさせる内容でありながら、さらに老いに対する思索が加わってよく練り上げられた力作でした。死を迎えた老人の内面とエロティシズムが描かれた作品として、川端康成の「眠れる美女」と併せて読みたい名作だと思いました。 | ||||
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文学作品で、こんなに面白いと思ったものも無い。 日記分でやり取りするのだが、お互い騙し合い肝心な事は書かず、飽く迄お互いの日記は盗み読みしていない、 という建前で、最後に実は読んでいたというネタばらしがあるのが良かった。 本番行為もやっていない、と日記に書きながら、実は初期の頃から普通にヤっていた、というのがたまらない。 嫉妬を煽りつつ、最期は収まる所に収まったという感じ。 作者の他作品も読みたくなった。 | ||||
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私は、五十六歳の夫が、四十五歳の妻に、ここまで惚れ込んでいることが、スゴ過ぎると感じました。 日食や月食のような、大変めずらしい自然現象を目の当たりににした時の感動とでも言うべきか。 なぜなら、私もそうだけど、長年連れ添ってきた夫婦って、夫婦仲はけっこう良好でも、さすがにあっちの方は新婚時代とは違い、ややご無沙汰ぎみ、というのが普通ではないかと。 夫婦生活で大事なのは「会話」とはよく言ったもので、本作の中年夫婦も、日常生活では会話が無さそうに見えて、秘密の交換日記(?)でしっかり会話して、お互いのことについて理解を深めようとしています。 それにしても、四十を過ぎてもキレイな妻が、若い男と浮気をしている場面を想像して性的興奮を得ている夫は、多くの読者から変態と誤解されても仕方がないかも知れません。 でも、私には愛する妻に対する究極の愛の表現と読めました。 もしかしたら、嫉妬という「人の幸福を羨ましく思う感情」の中には、否定的な面ばかりではなく、本作が表現したような、肯定的な面もあるのかも知れない。 つまり、二十代の娘の婚約者である男から、娘以上に愛されている、そんな美しい妻を愛することが出来る自分(夫)は、男冥利に尽きる果報者というわけです。 ようするに、娘の婚約者の青年から熱愛されているということは、妻が四十五歳の今もなお性的魅力に溢れていることの何よりの証しであり、その妻を愛する夫に取っては、自分の妻が女としていかに優れているかの何よりの証しなのです。 さらに、この夫の愛は、若い男と不倫をさせてでも自分の妻を性的に満足させたいという究極の「利他愛」であると同時に、不倫恋愛によって、より一層美しくなった妻を、自分の思い通りに愛玩したいという究極の「自己愛」でもある。 本作の夫の行動からは、そんな愛の二面性が見えてきて興味深かったです。 結果的に一番の悪党(?)は淫蕩な妻・郁子(45歳)でも小悪魔的な策略家の娘・敏子(25歳)でもなく、ジェームズ・スチュアートばりの美貌と勘の鋭さを武器に、婚約者の敏子のみならずその母親の郁子まで虜にした木村です。 大筋において、敏子嬢は、自分よりも20も年上の母親に思いを寄せがちな婚約者・木村を嫌っているように見えますが、じつは母親の郁子に劣らず彼を深く愛していたことが、最後の方で分ります。 主人公の夫の腹上死後、世間体に配慮して当初の予定通り木村と敏子が結婚し、母の郁子ともども3人ひとつ屋根の下で肉体的に親密な関係を保ちつつ暮らす予定というラストは、いかにも谷崎潤一郎的であまりにも不道徳であり、読者によって好悪の分れるところだと思います。 本作は、熟年夫婦の在り方について、いろいろと考えさせられる一冊でした。 究極の愛の姿とは、という重い問いを読者に投げかけているにもかかわらず、本作はその表面的な書きぶりから変態小説だと、昔から誤解されているのかも知れません。 私には、エミリ・ブロンテの「嵐が丘」や、サガンの「悲しみよこんにちは」、「ブラームスはお好き」、トルストイの「アンナ・カレーリナ」、ジェーン・オースティンの「高慢と偏見」、「エマ」、スタンダールの「赤と黒」、「パルムの僧院」、バルザックの「谷間の百合」、D・H・ローレンスの「チャタレィ夫人の恋人」などと同様に、男女の愛について追求した傑作であり、それら海外の名作とはまた違った切り口で男女の愛 (性愛含む) を見事に解明して見せた傑作だと感じられました。 | ||||
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とにかく、考えさせられました。人間って何だろうって。 『鍵』の主要人物の中年夫婦といい、『瘋癲老人日記』の老人といい、四六時中、考えることといえば「性」とか「性愛」にかんすることばかり。人間、他にも考えることはたくさんあるだろう、と言いたくなるくらい。しかし、食欲と性欲は本能であり、人間の本質的な部分であることは間違いない。この二作は、その部分を大々的にクローズアップし表現している。 読みながら、うーん、人間って何だろうって、ずーっと考えていました。 もちろん、結論なんで出やしない。結論があろうはずもないんですが、考え続けることによって、人間という生きものについていろいろと発見がありました。例を挙げれば、人間、年をとっても性欲、あるいは異性への関心は衰えないということ。 案外、人間の本質は、この二作の中に表現されているのかも。 つまり、人間をことさら高尚な生き物だとか、神に似せて作られた者だと考えるのは間違いとまでは言わないまでも、一面的な見方であって、本文庫に収められた二作が描きつくそうとした人間の姿も、人間の確かな一面なのだと。 そんなことを、今更ながら納得させられた文庫でした。もっと多くの人に読んでほしい一冊、読んで絶対に損はしない一冊だと思います。 (2018年7月9日) また読み返しました。今回は「鍵」以上に「瘋癲老人日記」が面白かったです。 70代半ばにもなって、息子の嫁を溺愛する卯木督助老人。谷崎潤一郎独特のマゾヒズムが極限まで追求された作品。 私は二十代の頃に何度か読んでいるんだけど、それから何十年も経って読むと、若い頃には気づかなかった新たな発見があります。 たとえば、卯木老人は、満75〜76歳くらいなんだけど、神経痛を中心に様々な老人病に日々、悩まされどおしです。若いころに読んだ時は、年を取ったらこんなになるんだなあ、と漠然と考えたものだ。 しかし、卯木老人は、要するに若い頃の不摂生がたたって、いまはこんな半病人の生活を強いられているのであり、私の身の回りには、卯木老人よりもさらに10歳も年を取っているにもかかわらず、50代や60代と全く変わらない健康な生活を享受している男性や女性が普通にいます。85歳で現役の会社社長という女性までいます。 要は、年を取ったら健康体を維持しているか否かで、ライフスタイルがガラリと違うのだ、ということをあらためて痛感しました。 | ||||
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蘆刈、吉野葛などの古典を意識した傑作群と鍵、卍、痴人の愛などは、偏愛を中心に性とその意識の濃(こま)やかな在りようを見事に描いている。 美貌の夫人の強いエロスへの執着と夫の教え子との関係などストーリーテリーとしても秀逸。 この2群の間に、盲目物語や武州公秘話があり、これらは、さらに巧く観念的にハイエンドといえる。 | ||||
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谷崎潤一郎ノ小説。教授デアル夫ハ日記ヲツケテイタ。ソノ妻ノ郁子ハ精力絶倫ニシテ稀ナル器量(名器)ノモチヌシ。性能ノオトロエタ夫ニ妻ハ不満デアッタ。日記ハ鍵ノカカッタヒキダシニアルコトヲシル妻ハ夫ノ日記ヲ盗ミ読ミスル。娘ノ敏子ニハ彼氏ノ木村ガイタ。教授ハソノ木村ヲ妻ニ近ヅケヨウトスル。妻ハ夫ノ日記ニ「気ガ狂ウホドニ嫉妬サセテホシイ」ト書カレテイルノヲ読ム。封建的ナ家庭デ育ッタ郁子ハ夫ノ希望ニ逆ラエナイ。アル夜ニ泥酔シタ妻ハ浴槽デ全裸デ気ヲ失ウ。介抱スル教授ト木村。教授ハ気ヲ失ウ妻ノ全裸ヲ楽シミ写真ヲ撮ル。ソシテ日記ヲ書イテイタ妻ハ木村ノ事ヲ書キ出ス。妻ノ日記ヲ盗ミ読ミスル教授。教授ハ妻ノ郁子ト木村ノ仲ガ良クナレバ成ルホド嫉妬シ烈シク妻ヲ抱ク。夫ニ抱カレル泥酔シタ郁子ハ「木村サン、木村サン」トツブヤキ、教授ヲ挑発スル。気ガ狂ウホドニ嫉妬スル教授……、 教授ト妻ノ郁子カラナル日記小説ノ形式デ書カレ、教授ノ日記ハカタカナデ慣レルマデハ読ミ難イノダガ、趣キガアッテオモシロイ。谷崎ノ変態的ナ世界観デエロサガヨク出テイルト思ウ。教授ヲ谷崎ニ、郁子ヲ妻ノ松子ニ当テハメテ読ムトヨリオモシロク読メルト思ウ。 | ||||
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この小説の主人公「僕」はワインを飲んで風呂場で倒れていた妻郁子を寝室に 運び込んだ後、郁子が無意識状態であるのをいいことに、全裸の郁子の体を隅々 まで眺め回すという場面がある。「僕」は45歳の郁子のしみひとつない稀にみ る美しい肌の全身を初めて見る喜びに異常なまでの興奮を覚える。「僕は郁子を うつ伏せにして尻の穴まで仔細に調べた」というような露骨な描写をした文豪と 言われるほどの人は谷崎が最初ではないか? その後続出した官能小説家にあっ ては、これを拡大、強調して書くのが当たり前となったが、「鍵」が官能小説群 の先陣を切ったといえるだろう。 ただ、「鍵」自体は次第に「僕」と「郁子」の心理的駆け引きの方に傾斜してゆ く。高血圧の「僕」は刺激の強すぎる郁子とのセックスがたたって亡くなってし まう。なんだかカマキリのように、強い雌の犠牲となって死んでゆく哀れな雄を 連想させる話である。 なお「僕」は50歳代後半で、40歳代半ばの郁子とは10歳あまりの歳の差に 過ぎない。先代中村雁次郎、京マチ子共演の映画のイメージから、70歳以上の 老人が30歳くらいの妻を相手にして、懸命に自分の性欲を掻き立てる話だと、 私はかねてから想像していた。確かに話の趣旨はそうであったが、「僕」が50 歳代だったということには意外の感を受けた。この小説が書かれた数十年前と今 とでは、年齢に対する意識に大きな隔たりがあるということだろう。 | ||||
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何事も甲乙付けないで読むのが読書の楽しみです。 「人間は生きて死んでいく存在」と曖昧に甲乙付けても何もワクワクしないですから。 男は劣等感の塊みたいな存在ですから痴情が反映される感情は否定できないと思います。 そういった角度から読むと面白いです。 | ||||
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