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ゼツメツ少年
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ゼツメツ少年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.00pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全32件 21~32 2/2ページ
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正直、この本の世界観やストーリー展開はうまく捉えきれない部分が多かったです。 しかし、全体の雰囲気として子供の居場所を確保してあげることの大切さは十二分に伝わり、 子供への接し方を一度見直してみようと思わせてくれた一冊です。 子供を持つ親に読んでもらいたい、大人向けのファンタジーです。 | ||||
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「センセイ、僕たちを助けてください」。そんな手紙をセンセイがもらったところから小説は始まる。手紙はタケシという少年からのものだ。少年は「僕たちはゼツメツしてしまいます」という。そんなゼツメツしてしまうかもしれない2人の少年と1人の少女の小さな冒険の旅を中心に物語は進んでいく。 「大事なのは想像力です」、そう少年はいう。だからこの小説を読み進めていくには想像力が必要だ。私たちが出会った人、出会わなかった人、出会ったかもしれない人、もう出会えない人に対して。 家出をすることにした少年たちは、その昔、陸地から海へと帰っていったクジラの先祖に例えて、「イエデクジラ」と自分たちのことを呼ぶ。彼らは、クジラの先祖がどのような気持ちで「テーチス海の岸辺」から海を眺めていたかを想像する。クジラの先祖たちが「陸上では自分たちはゼツメツしてしまうかもしれない」と考え海に戻っていったのだと彼らは想像する。 センセイは小説家で、不思議なことに少年たちはセンセイの小説の登場人物たちにも出会う。センセイの小説の中の人たちとの交流を通し、少年たちはすこしずつ心を開いていく。そして典型的なジュブナイルの様式を取りながら、物語は驚きの展開をしていく。 「大事なのは想像力です」。本を閉じたたとき、読者は確かにタケシの言うとおりだと思えることだろう。 ---------------- 小説を読んで涙が止まらなくなることはある。しかし、慟哭するように、声をだして泣いてしまうような経験はおそらくほとんどないだろう。 この小説はすべての人に向けられてはいないのかもしれない。想像力によってのみ救われることがあると思えるかどうかで、読者としての体験は異なるだろう。しかし、人に与えられた能力の中で想像力はもっとも大切なもののひとつだ。想像力や希望はすべての人に平等にある。そう考えれば、この小説はすべての人にとっての希望へとつながる。 もし読者が少年たちとともに「テーチス海の岸辺」に立つならば、読者は2度とその光景を忘れることができなくなるだろう。テーチス海は自分の中にひろがっている。 大事なのは想像力なのだ。この小説は尋ねてくる。人はどれほど想像力の翼を拡げるられるのかと。表面的な、おためごかしではない想像力とは、どのようなものなのかと。 希望とは想像力だ。そのことを最初から最後までこの小説は示している。なぜ"ゼツメツ"はカタカナなのか。それは読者にゼツメツの意味を想像してほしいからだ。我々もまた「テーチス海の岸辺」に立つものかもしれない。もし我々が「テーチス海の岸辺」に立つものであれば、我々もまた「想像してほしい」と望むだろう。 この小説を読むとき、人は「あのとき」に帰る。「あのとき」は人によって違う。しかし、おそらく誰にでも「あのとき」といえる瞬間は確かにある。それがこの物語の普遍性だ。小説を読み進めるにしたがい、自分の中の「あのとき」が、まるで昨日のことのように蘇ってくる。それは苦しいことでもある。しかし、それは希望へと変えることが可能だ。ゆっくりと真実とは何かについての思いを深め、想像することで、それは希望へとつながる。 この小説を読み終えたとき、「崖の上のポニョ」の幻想性を改めて了解できる。クジラの先祖たちが帰っていった「テーチス海」と「崖の上のポニョ」の海はつながっている。「大事なのは想像力」だ。 | ||||
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切ない、切ない。 ラストは涙なしでは読めませんでした。 育児の合間合間に読んだので2週間もかかりましたが、読んで本当によかった。 ラストは子供が寝てる時間に読んでよかった… また数年後読み直したい本です。 | ||||
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〈センセイ、僕たちを助けてください〉 〈僕たちはゼツメツしてしまいます〉 〈僕たちをセンセイの小説の登場人物にして、物語の中に隠れさせてほしいのです〉 ---こんな手紙がセンセイの元に届くところから物語は始まる--- ---それぞれの理由から学校に行くのを辞めた少年少女はゼツメツから逃れるため家出をするのだ--- 生き物は弱肉強食なんだ。 弱いヤツは負けちゃって、負けたヤツは追い出されるしかないんだよ。 大昔、住む場所を奪われ陸を追い出されたクジラの祖先は海に逃げた。 そして、何万もの犠牲や年月を経て海に住めるカラダに順応していった。 学校は陸だよ。俺たちは陸で淘汰されて、追い出されたら、あとは海に逃げるしかないってこと。そうしないで陸に無理やり残ろうとすると、恐竜みたいにゼツメツしちゃうってこと。 僕たちがゼツメツの危機から抜け出すには、物語の力が必要です。現実の世界の外から、想像力で、僕たちに力を与えてください。 人間は誰もが物語を必要としている ならば、想像の生み出す物語の力で、現実の悲しい物語を変えていくことだって、できないわけではないだろう。 最後に… 不登校になった生徒や子どもは、よく先生や親から言われるんだよ、『なんでも話しなさい』って。でも、それはちょっと違うんじゃないかなって思うんだ。違うっていうか、足りないっていうか」 「なにが足りないの?」 「『いつでもいいから』の一言だ」 なんでも話しなさい---。 いつでもいいからなんでも話しなさい---。 「けっこう大きな違いなんだ」 「しゃべりたくないときにしゃべらされるのって、キツいもんな、誰だって」 イジメを受けてることを隠そうとしている子どもと、それを知った上であえて問いつめたりしない父親。 確かに所詮は小説である。「現実はそんな簡単なものではない」という批判もあるだろう。しかし、どこまでも自分の子供に対して真剣に向き合おうとする親の姿勢は、見習うものがあるのではないかと私は思う。 | ||||
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重松の自虐風自慢小説というか、一風変わった小説。重松作品を全て読んだ訳ではないが、彼の小説の数多くが元ネタになっている。 そして真の作者、これは明らかに重松本人がモデル。ナイフさんは「ナイフ」、松葉杖の女性は「友だち」のヒロインかな(リサは誰?)。 最後の最後の「エピローグ」にて、再度どんでん返しがあるのに驚いた。まさか小説内小説そのものが、尚も小説の中の出来事だったとは。「センセイ」もモデルがいるだけで、厳密には架空の人物。何段オチだ 面白かったけど、中盤までの少年少女が成長しながら冒険する話のが良かった。リュウとジュンが「お前ら、ケッコンしちゃえよ」とからかわれるシーン、なんてまさにジュヴナイルだったんだが、まさかそこから急激にファンタジー化するとは思わなかった 皆で川原に行くシーンもいかにもジュヴナイルだが、まさかここからが超展開ファンタジーへのターニングポイントだとは まあ間違いなくいえるのは、トオルが屑過ぎる事(笑) | ||||
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その空間の全員が、薄ら笑いを浮かべながら、ぼくを包囲し、こづきまわし、足蹴にし、論理も倫理もない、ただ群れの腕力だけによる、見せかけの屁理屈で、ぼくをなぶりものにし、それが、どこでもどこまでも続けられる。 町や村や軍隊や城や牢獄で、人間集団の歴史上、この種の暴虐はけっして絶えたことなどなかったでしょうが、前世記後半、学校でもむごいこれがあると気づかれたとき以来、「いじめ」という名詞形が良く口にされるようになりました。 この濁流によって、家族に先立たれたり、あるいは、自分も後を追ったりせざるを得なかった人たちに、文学は何ができるのでしょうか。 この小説は、絶望のうちに旅立ったように見える死者たちに、けっして安易にではなく、ぎりぎりのところで、一縷の、あるいは、もしかしたら最高かも知れない希望を届けようとする試みだと思います。それとともに、生者たちにも、あらゆる大事なことの中でも、あまりにも根本的過ぎて、言葉にもされ忘れることさえある伝言を伝えています。 しかし、それは簡単なことではありません。生と死、現実と空想が重なるこの小説の構造は、少し複雑で、かならずしも明確ではないのです。(かと言って、けっして読みにくいわけではありません。重松さん特有の子どもの語りは健在です)。けれども、空間が単純で一つしかなければ、逃げ場がまったくなくなってしまうでしょう。世界は一重ではなく、いくつも折り重なっている、これが希望なのです。 このように空間がやや難しく重なりあう中で、とてもわかりやすい希望も描かれています。「早く続きを話せ」と急かさないで聴いてくれるおとな。「きみのつらさを、わたしは知っているよ。だから、無理しなくていいよ」と言ってくれる人。 そして、先立った人をひとりぼっちにさせまいと、想像力で文字をつづる作家。 イジメは卒業すれば終わる。終わっても学校生活はやり直せない。けれども、死なないでいれば、おとなになって、親になる者もいる、うちの子がそうだ、と語る、もうじきおじいさんになるお父さん。 こうしたことに加えて、文学そのものが希望の作業だと著者は示唆しています。文学の役目は、生き残っている者の役目は、死者たちの生にあった大切な意味を探し求め、見つけ出し、語ること、これがほんとうの希望ではないかと。 また、絶望一色だったとしか思えない死の間際にさえ、じつは、死者は希望を抱いていたのではないかという思いを重松さんは、家族や第一発見者たちの言葉に託しています。追い込まれた死の美化、と誤読される恐れを顧みずに。「あの子は飛べると思ってしまったのだ」。「ケガや出血の様子は、もう忘れたよ」。これだけでなく、さらに心を打つ詩のような言葉が登場人物に委ねられています。 ところで、川や海、豪雨など、水が出て来るこの小説は、少し形を変えたポスト3・11文学のようにも思いました。(大幅加筆修正はあったものの、雑誌連載は大震災以前ですが)。 イジメのむごたらしさ、大震災、大津波、原発事故の引き起こした大惨事。その圧倒的絶望。絶望的圧倒。逃げ場のなさ。 けれども、そのままでいいのか、絶滅、完全なる虚無に陥ってしまって良いのかという作者の問いと応答が聞こえてきました。 | ||||
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ファミレスと迷いこちらを購入。 懐かしい懐かしい、、、 個人的にエミちゃんとジュンの絡みが とても嬉しかった…。 題名と、表紙を見て購入した人は多少 期待はずれかもしれません。 でも詰まってます。熟読しないとわかりません。何回も読みたくなる一冊です。 想像以上。ただすっきりはしません。ワクワクもないです。 しかしこの上なく読んでよかった作品。 | ||||
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救われない作品ですが、秀作です。希望はありませんが 読み終わって何かが心に残ります。 小学生高学年と中学生に是非読んでほしい作品です。 | ||||
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ステラー大海牛は、体長10m・体重10t近くもある巨体ながら、 昆布を主食とする優しく弱い動物だった為に、乱獲されて絶滅した。 ゼツメツした動物の話は、悲しくて悔しい。 本当に助けることはできなくても、救うことはできるのだろうか? 胸がつまった。 | ||||
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不思議な話に引き寄せられて、読み進めじんわりと 考えさせられる話でした。そして暖かく切ない読後でした。 もう一度読もうと思います。買って良かったです。 | ||||
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子ども達の心情がさまざまなパターンで心にグッときました。 大人が子どもの心情を読み取ってやれるようにならないといけないな・・・ | ||||
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なんだこれは。今まで出会ったことのない作品。重松作品らしくない、でも一番重松作品らしい。ナイフさん、ツカモトさん、マユミが好き、好き、好き…。出てくる出てくる。もうそれだけで笑みがこぼれ、涙がこぼれる。これは重松作品の集大成なのか、それとも遺書なのか。読み終えて初めて、表紙のデザインも心に響く。爽快感はありません。でも生きること、生き続けることの大切さをこれでもかと教えてくれます。重松清が初めての方より、これまでの作品に心を打たれた方にこそ読んでほしい作品です。 | ||||
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