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緋色の時代
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【この小説が収録されている参考書籍】
緋色の時代の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.00pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全3件 1~3 1/1ページ
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「砂のクロニクル」や「蝦夷地別件」は、虐げられた民族や部族 の怒りや悲しみが描かれる。ゆえに船戸与一の代表作であり、深く 面白い。今回の「緋色の時代」は、背景にあるアフガン戦争とソ連 崩壊後のロシアの近代史、コサックの民の問題が、物語の殺戮や戦い の理由に直接、結びつかないため、読んでいて、強い感動に至らない。 舞台設定の中に、それら要因が仕掛けてあるのだが、結局、○○組と ××組の仁義なき戦いのようにしか思えてこない。 だから、船戸のベスト作品群のひとつとは、私は思えない。 | ||||
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船戸与一にはまってから日が長くないが(これまでに読んだのは『砂のクロニクル』と『蝦夷地別件』のみ)、この小説の読後感は前二著に遠く及ばなかった。 日本人にとってソ連のアフガン侵攻、並びに「アフガン後」は、現代史のブラックボックスになっている感がある。万巻の書を読みうるヴェトナム戦争と比較しても明らかだろう。その意味で、上巻前半に描かれた状況説明からは学ぶべきところがある。 しかし以降、組織間の延々たる抗争物語に入ると人物たちは膨らみも陰影も失う、と言うより、人物を黒の単色に塗りこめることが作者自身の目論見だったのだとしか思えなくなる(それが「アフガン効果」というわけなのか。いや、日本人の登場人物さえがそうなのだ)。黒く拡がるだけの陰影はどこにでもある闇と区別が付かず、アフガン後であることの意味、流される血の色の意味を失う。要するに「仁義なき闘い」ロシア版というわけだ。元々が連載物だった欠点だろうか、もっともっと枝葉を落とせたはずだという感も否めない。☆3,5 | ||||
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船戸与一と言えば自説の「ハードボイルド=植民地化の文学」論に愚直なまでに忠実な、そして兇暴なほどの直截さで血飛沫と硝煙の冒険小説を書きつづけてきた作家だ。「帝国主義の断面をえぐりだす」という点で、ラテン・アメリカ、ベトナム、インディアンなど「叛アメリカ史」を生きる分子をこれでもかと言うほどに暴力のるつぼに叩きこんで渾然一体化してみせた『非合法員』から南米三部作、近年ではもっとも有名だった『砂のクロニクル』にいたるまで、その作家性はハッキリとしてる。それこそ兇暴なほどの愚直さ、直截さでそのモチーフは一貫してるのだ。それはアイヌ叛乱をあつかった時代小説、『蝦夷地別件』でもまったく一貫している。そのことを「相も変らぬワンパターン」だとする批判もあったが、当たり前のことだ、その鍛えぬかれた鋼のような「ワンパターン」こそ船戸文学のパワフルさ、兇暴さの源じゃないか。むろん僕は、船戸文学が「帝国主義下の文学」という原理に則っているからといってその作品を「帝国主義批判」その他、安直な政治プロパガンダで解説しようなんて思わない。どうせ小説は小説じゃないか。しかし、「たかが」冒険小説だという、その「たかが」の虚構性、ウソの部分にこそ船戸文学の圧倒的な凶暴性や熱狂が宿りうるのだ。船戸文学がほとんど叙事詩のような、近代なんぞ無視したバカでかいスケールの想像力を抱えてしまっていることはよく指摘されるが、実際問題、それはコンラッドの「闇の奥」の植民地=フロンティアが人間の限界を壊してしまったあの狂気のスケールのバカでかさと同様、十九世紀の産物が二十世紀に生き残った残滓であって、少なくとも二十一世紀の今日にはほとんど死滅している(植民地的構図が、じゃない。圧倒的な凶暴性とか狂気のスケールがだ)。そこで最新作『緋色の時代』となる。ソヴィエト崩壊、なし崩し的な市場経済のアンダーグラウンド化に、アフガン植民地戦争の生き残りたる帰還兵がマフィア化して噛んでくる。アメリカ20年代の野放図な資本主義下での犯罪社会を描いたハメット作品の構図に近いところもあり、こりゃ船戸の本領発揮ではないかという気が読む前にはあった。しかし読後には・・・・・失望せざるをえなかった。延々とつづくマフィア間の殺戮。なるほど血飛沫だらけだ、最後にゃ自走砲だのヘリまで動員してる。だがたくさん殺しゃいいってもんじゃないだろう。船戸文学は単なるスプラッタ暴力がウリじゃない、その血飛沫と硝煙の背後にある世界の構図を直撃する「ダイナミズム」があってこそのバイオレンスだったんじゃないのか? そのダイナミズムぬきの殺戮や血飛沫はあまりに単調で眠気をもよおす。いきなりロケットランチャー撃ちゃいいってもんじゃないだろう。もはや第三世界革命や左翼の図式が無効になった(少なくともダイナミズムはねえんだ、もう)からなのか、この脱力っぷりは?そうじゃないだろう、左翼図式など抜いたところでも、ある状況を規定している社会の、世界の、そして歴史の深い「構図」そのものを見破り、直撃する視線があれば船戸文学のダイナミズムは決して死にはしない(そしてはっきり言っておくが、その「構図」、「図式」と現実の世界の様相がぴったり一致する必要などない!SF小説と同じ、アイデアの鋭さ一発勝負だ。それが「たかが」小説の自由さである)いまのロシアに関しても、その船戸文学の鋭い視線でみぬきうる本質は、必然的に独裁を要求せざるをえないロシア民衆の恐るべきアナーキズム的傾向など、いくらでもあったはずだ。なるほど、全編にわたって殺戮と血飛沫が展開され、「アナーキー」な状況があったかもしれない。しかし、バクーニンなどロシアアナキストが体現したようなロシアの本質的要素としてのアナーキーのリアリティを、船戸文学のあのダイナミズムをもって抉りだしただろうか、この殺戮の群れは。それには疑問を呈せざるをえないのだ。コサックなどの歴史的な存在を描こうともしているが、それも不十分だったような気がする。 ダイナミズムの欠如。『緋色の時代』に僕がおぼえてしまったある「退屈さ」は結局、それだった。 だが、僕はそれでもなおしつこく船戸文学に期待しつづけるだろう、一ファンとして。 | ||||
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