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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全563件 441~460 23/29ページ
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村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という奇妙なタイトルの小説が売れている。すでに100万部を超えたとメディアは伝えている。この本に触れる前に、前作の長編小説『1Q84』を思い出してもらいたい。 『1Q84』は青豆と天吾という二人の男女の名前と、青豆が渋滞する首都高速道路でタクシーから下車し非常階段を降りていくという三つのコンセプトから書き始めたと春樹はインタビューで答えている。そのタクシーの運転手がかけていた音楽がヤナーチェクのシンフォニエッタという曲だ。現実のタクシー運転手がクラシックのマイナーな曲であるシンフォニエッタを聴いているとは考えられない。春樹はこうやって読者を不思議な世界に引き摺り込んでいく。 青豆が迷い込んだ世界は近過去の1Q84だった。そこは現実の1984年とは少しだけ違っているところだ。あることをきっかけに違う道を選択し、人々はあるべきでなかった世界に入ってしまう。そうだ。2011年3月11日の大地震を経験し、日本人全員が少しだけ違う価値観の世界の道に入り込んだように。あの大地震を経験し、人生が異なってしまった人は少なくないだろう。でも、後戻りはできない。 『1Q84』は幼少のころ暴力を被り心に傷を負った者の復活の物語としてぼくは読んだのだった。 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に話を戻そう。 色彩を持たないという意味は当初、ほとんどの登場人物の苗字に色がついているが、主人公の多崎つくるだけが色がついていないことだ。多崎つくるは自分自身何の変哲もない、カラフルでもない、つまらない人間だと思っている。しかし、それは彼がそう思い込んでいるだけで、周りの人々はつくるを色彩がないと口では言うが、心では不可欠な人間だと尊敬さえしていたのである。この平行線は最後まで交わることはなかった。つくるが気づくことはなかった。これは読者への問いかけでもある。つくるは色彩がない人間かどうか。色彩があるとはいったいどんな意味なのかと。 「巡礼の年」は、フランツ・リストのピアノ独奏曲集からの引用だ。リストが訪れたスイス、イタリア、ヴェネツィア、ナポリの地の印象や経験を表現したものである。その中の第1年スイスの第8曲<ル・マル・デュ・ペイ(郷愁)>という美しいピアノ曲がその小説の謎を解くひとつの鍵だ。この作品はオベルマンが友人に宛てた手紙で綴っている望郷の念「自分の唯一の死に場所こそアルプスである」を表現したものである。登場人物のシロこと白根柚木という女性と灰田という男性が心から愛していた曲である。シロは絞殺され、灰田は突然主人公の前から消える。アルプスとはこの小説で何を意味しているのか。それを特定することはできないが、生きるために非常に大切なものであるとは分かる。 主人公のつくるは仲の良かった友人とのちょっとした行き違いから、自殺一歩手前まで追い込まれてしまう。彼は何も悪いことをやっていないが、宿命として悪霊に憑りつかれたような苦しみを味わわされることになる。分岐点で右の道に行けば、別の世界に辿り着いていたはずだ。失われたもうひとつの世界はどこかに存在する。世界は多重構造になっているからだ。 つくるは巡礼によって、自殺に追い込まれそうになった謎を解き明かしていく。それは完全に解明されることはないが傷の痛みが幾分和らいでいく。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。そう悟るまで成長する。 すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ。では、その残されたものとはいったい何なのだろうか。それはぼくの解釈では、『自己』だ。高度消費社会で自我という欲望が肯定され、膨張して自己を食い破って出てきた。それが現代人の悩みの源泉である。自我を落ち着かせ、自己の枠に戻さなければならない。それは失ってしまったけれども人生に大切なものがあり、もうひとつの世界に踏みとどまっていると思うことでかろうじて護られるのである。自我は常に自分を正当化するから注意しなければならない。 我々は難しい時代に生きていると考えされたのだった。 | ||||
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今回の小説は、「ノルウェイの森」と同じようなテーマで、そこには姿や形をかけた直子やミドリやレイコが登場している。個人的に「ノルウェイの森」が好きなので、同じようなテイストを持つこの作品も好きである。 ただ残念なのはラストである。真相がきちんとあかされていないため、?が、ずっと頭に残るのである。読み終わった後に、ずっと真相を考えてしまった。 | ||||
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(一部ネタバレあり)登場人物といい、筋といい、世界観といい(そこそこ収入があってなぜか女にもてる自意識過剰の独身中年男の自分探し)、変わり映えのしないものだった。これまでに村上春樹の代表作を何冊か読んだことがある人は既読感が邪魔をしてすんなりと入っていけないだろう。初めて読んだ人は、なぜ村上春樹が世界的な作家といわれるのかわからないと感じるだろう。 物理的な意味では読ませる。『1Q84』もそうだったが、没入しなくてもどんどん読めてしまうのだ。そういう小説はめずらしい。村上春樹なんだから、この先なにかあるだろう、という期待感で読みすすめるというのもあるが、「ありそう」な感じを出しながら話を展開させていくストーリーテリングは本当にうまい。単純な筋なのに構成が甘く、伏線が回収されていない(というかする気がない)のでフラストレーションを感じつつも、あるいはこの本は自作への序章?……などと、読む方が先回りして考えてしまう。そこまで織り込み済みで書かれたのであればメタレベルでの面白さはある。 深読みついでいえば、良い意味で読者を裏切るような新たな試みをせず、「村上春樹っぽさ」だけが濃くて内容が一見薄い作品をあえて書いたのは自身の「多崎つくる」性の表現であったととることは可能である。多崎つくるは自分が空っぽで色を持たないことにコンプレックスを感じている。 「僕にはたぶん自分というものがないからだよ。これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。こちらから差し出せるものを何ひとつ持ち合わせていない。そのことがずっと昔から僕の抱えていた問題だった。僕はいつも自分を空っぽの容器みたいに感じてきた。入れ物としてはある程度形をなしているかもしれないけど、その中には内容と呼べるほどのものはない」 しかし物語の終盤においてはそれを自身のアイデンティティとして引き受ける覚悟を決める。「空っぽの器」は「乗り物」を想起させる。結局のところ、作家の仕事とは駅を整備するだけで、電車に乗って好きなところに出かけていくのは読者である。つくるは言う。 「もし駅がなければ、電車はそこに停まれない。僕がやらなくちゃならないのは、まずその駅を頭に思い浮かべ、具体的な色と形をそこに与えていくことだ。それが最初に来る。なにか不備があったとしてもあとで直していけばいい。そして僕はそういう作業に慣れている」 沙羅の言葉を借りると、村上春樹は「すぐれたエンジニア」としての作家を目指しているとも読める。作家という仕事を「乗り物」と「駅」をつくることであると定義すれば、今回の作品がなぜ誰が見てもそれわかるような「過去の焼き直し」にして提示したことも確信犯的な行為に思えてくる。読者はこれを読んで、変わりばえがしないとか、思っていたのと全然ちがった、次作はもう買わないなどと言うだろう。こうしたかたちでの疎外は、「六本目の指」という余計な才能、感性をもって生まれた者の宿命であるとあきらめざるを得ない、と言っているようでもある。 「おれは結局のところ、一人ぼっちになるように運命づけられているのかもしれない/人々はみんな彼のもとにやってきて、やがて去っていく。彼らはつくるの中に何かを求めるのだが、それがうまく見つからず、あるいは見つかっても気にいらず、あきらめて(あるいは失望し、腹を立てて)立ち去っていくようだ。/自分の中には根本的に、何かしら人をがっかりさせるものがあるに違いない/結局のところ、人に向けて差し出せるものを、おれは何ひとつ持ち合わせていないのだろう」 もし多崎つくるが作家という仕事を象徴しているのだとすれば、その奇妙な名前の謎もとける。つくるは「作」と書く。これは作家の「作」ではないだろうか。この一字について表現するためにの作品であるとすれば、伏線や筋などは借り物でも使い回しでもなんでもいいわけだ。というかむしろそうあるべきなのだ。父親が「創」ではなく「作」という字を選んだことを、主人公はこのように言って感謝している。以下の一言は、本書から読み取ることができる「作家=エンジニア」説の裏付けともいえるだろう。 「『多崎創』よりは『多崎作』のほうが間違いなく自分の名前として相応しい。独創的な要素なんて、自分の中にはほぼ見当たらないのだから」 そうやって割り切ったとしてもまだ残る伝えたいという欲求。それが、ひび割れた古い壁から水が染み出るようにこの作品全体を覆っている。 「それは一人の心と、もう一人の心との間の問題なのだ。与えるべきものがあり、受け取るべきものがある」 この本を読んで真っ先に感じたのは、トラウマ、友情、恋愛、本書に描かれているそれらはすべて他の作品と置き換え可能な素材と一見してわかる作品であることだった。小説としてはつまらない。でも、あえてそうしたものを組み合わせた作家論として読めば、とても面白い。 | ||||
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会社の女の子にどんな本と聞かれ、ミスチルファンの子だったので「彩り」の内容と似てるかなあと軽く返答した。サビの部分の歌詞で色の羅列するのを思い出し、フラッシュアイデアで答えたのだが、家に帰り聴き直してみると根っこの部便が実に関連している。今回の小説では、つくるの駅を作るという職業が社会との係りや人との繋がり、自身のアイディンティを構成するものとして大切に表現されている。これは今までの作品にはなかった部分だ。ミスチルの「僕の事務」の部分にあたる。 巡礼で出会い、振返る人々を「色彩のある人々」として表現しているが、これはやはりつくるの人生を彩っていた人々であったという暗喩であると解釈したい。一見色のない「職業人」の人生も、解釈の仕方では煌めいた再構成が可能であるのだ。人が生きていく上で、心の中で燃えている核のようなものを感じさせる。 つくるが沙羅を必要とする必然性が薄いので星4つ。羊をめぐる冒険の「耳のきれいな女の子」のように単に導く人として描いたほうがすっきりしたような気がする。 | ||||
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情景と音楽が印象に残る小説でした。物語の中ではリストの「巡礼の年」が繰り返し流れます。ラザール・ベルマンの演奏ですが、ある重要なシーンのみアルフレート・ブレンデルの演奏に変わります。華麗できらびやかなロシアンピアニズムの系譜を継ぐベルマンの演奏に対し、詩人でもあるブレンデルの演奏は幾分端正で慎みがあり、内省的です。ある女性に対して向けられる2人の登場人物の眼差しと理解の違いを象徴しているようにも思えました。(ベルマンの3枚組輸入CDが売れていますがブレンデルの演奏(5枚組輸入ボックスセット)も本当に素晴らしいです。) 以下は余談(言葉遊び)になりますが、、 本作ではタイトルもそうですが物語の中で「名前」に注意を向けさせるような表現が度々みられます。また「巡礼」、「背教」、「カソリック」といった語彙やヨナ書やヨハネ伝に由来する比喩等、キリスト教を感じさせるモチーフが所々に埋め込まれています。したがって読み進めるにつれてどうしても両者を関連付けて深読みしてしまうことになりました。 たとえば「Eri」と「Sarah」という名前は聖書中の人物(存在)をイメージさせます。Eriは旧約聖書中の預言者を連想させる名前でもありますが、十字架上のイエスが最後の瞬間に呼びかける名前でもあります(「Eri Eri 何故私を見捨てるのですか」)。 そしてSarahも旧約聖書中に登場する女性ですが、彼女は高齢でありながらも美しかったため、王に見初められ、夫の元から離れるというエピソードを持ちます。そうやって深読みしていくと、主人公の名前も意味ありげではあります。「産めよ増やせよ」という言葉は旧約聖書のキーワードですが、主人公の名前はある人物を連想させなくもありません。マタイ伝冒頭の長大な系譜の最初に出てくる人物であり、「多くのものの父」という意味の名前を持つその人はSarahの夫でもあります。 その後Sarahを取り戻した彼は一族繁栄の礎を築きます。三大宗教の源流に立つ人物です。 | ||||
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高校生の年代。。。大人の世界と子供の世界を行き来する青春時代に、男女5人のグループでの欠点無き最高の日々を作ってしまった主人公たちの苦悩。 出発点はすべてそのグループでの日々が完璧すぎたという事実にある。多くの人は、主人公のように最高の青春時代を持てたという人は少ないだろう。青春時代は一瞬のうちに過ぎ去っていき、変色していくものなのである。 しかし、完璧すぎた青春が偶像となって観念的理想となり、彼らをその後、苦しめる原因となった。その偶像が色あせて腐っていく前に破壊されることとなった。理由なく捨てられた主人公、多崎つくる。 彼はそのことを思い悩みながら過去を忘却しようと色彩を欠いたまま生きていく。あるきっかけで、彼は自分の過去と向き合う決心をした。。。。色彩を欠いた多崎つくる。本当は彼が一番の光彩を放っていた。。。知らないのは自分だけだ。 青春は少し、汚れている方がいい。青春は恥ずかしくみっともないくらいで丁度いい。。。そんな気持ちになった物語でした。村上春樹ワールド最高です。(なるべくネタバレしないように書きました。) | ||||
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こちらのレビューを見ていて、 「わざわざ読んで悪口を言いたい人たち」 が世の中には沢山いるんだな〜 と笑ってしまいました。 共感出来るところも多かったし、魅力的な小説だと思うんですけどね。 | ||||
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この作品を読み終えた時、毎回、村上作品に対して感じる特有の読後感を 得ることが出来たと同時に、この作品は評価が別れるだろうと感じました。 メタファーの多用により、プロットとして完結していないと感じる読者も 相当数いるのではないかという危惧です。 しかし私の中では近年の最高傑作だと思います。 『国境の南、太陽の西』と作風は似ていますが、こちらの方では余りにも ポストモダン的な要素が前面にあるのが読みとれて、途中から「うん?」 って感じでしたが、本作は古典的なものに回帰してると思います。 平易な文章で、毎回村上作品に出てくる性描写も奥深かったです。 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という題名で、最初から 内容全体を提示したことも面白い試みだと思いました。 本の内容は繊細多感な時期に仲間から外され、それ以来、自分には主体 (色彩)がないと感じている主人公が、その抑圧した過去を、一人の女性と いう触媒により巡礼なるものを行う。 そこで、ある種最初からストイック過ぎる破壊性を包含している男3人 女2人のグループの”イマ”を眼にする。 その作業を通して、主人公の主体と魂が結合され、人を愛することが出来る ようになるというものでしょうか。 ただ、本作品の異様な熱狂ぶりには違和感を感じます。 昨年、村上氏が成し遂げた、レイモンド・チャンドラー作『大いなる眠り』 の翻訳という日本文学界における素晴らしい業績と、余りにもかけ離れて いるからかも知れません。 (同作品は、私が読んだ当時、絶版されていて、古書でしか手に入れること が出来ませんでした。村上訳は、まだ読んでいないのでGWの楽しみにして います) | ||||
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ただ読んでてとても素敵な景色が思い浮かべられ、読書期間中の1週間、本を手にしている時も手にしていない時も、なんだか幸せな気持ちでいられた。それだけ | ||||
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他者の「色彩を持たない多崎(たざき)つくると、彼の巡礼の年」の読後感・書評などの情報を避けて,今,読み終えました。 手元にある資料によると「国境の南,太陽の西」が刊行されたのは,1992年。それから21年経っての新刊「色彩を持たない多崎(たざき)つくると、彼の巡礼の年」。 「国境の南,太陽の西」の主人公の名前は「はじめ」。「色彩を持たない多崎(たざき)つくると、彼の巡礼の年」の主人公は「つくる」。 「国境の南,太陽の西」にはじめ,「色彩を持たない多崎(たざき)つくると、彼の巡礼の年」をつくる。 春樹さんの作品の中で初めて涙を流した作品が「国境の南,太陽の西」でした。「国境の南,太陽の西」(文庫P291)あたりから,文にマーカーを引きながら涙しながら読んだことを覚えていす。実際,その文庫のそのあたりのページは当時の涙でしわしわになっています。 今回の「色彩を持たない多崎(たざき)つくると、彼の巡礼の年」はP279の16章からが,本番でした。春樹さんの作品の中で涙を流した二作目の作品となりました。 「国境の南,太陽の西」は,隠れたファンが多く,おそらくは,その傾向を持った方(ナカタも含めて)は,この「色彩を持たない多崎(たざき)つくると、彼の巡礼の年」にも心打たれた方は多いと推測します。 特に16章から,最終まで,メッセージ性も強く押し出され,また「はじめ」が21年経って得た「つくる」の姿が,そこには見出されます。明らかに視野の広がりが見てとれます。 「なんらかの問題を抱えた読者への援助」作品がこの2作品に当たると推測されます。 16章からは,もう一度,読み返します。 [・・・] | ||||
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私は村上春樹氏の大ファンという訳ではありません。テレビもあまり見ないので所謂ハルキストやら新作発表の騒動やらとは無縁で、偶然本屋に立ち寄り本書を発見し購入しました。私は村上氏の作品を読むのはかなり久しぶりで前作の1q84も読んではいません。 率直な感想は素晴らしい作品でした。胸の奥まで響く素晴らしい音楽に出会った時の感動に近いと思います。 恐らく著者が扱ったであろうテーマへの本書のアプローチに根源的な心の揺さぶりを受けました。 それ故に否定的なレビューの余りの多さに少々戸惑いました。ただそれらの否定的レビューの多くが文学形式的な観点、テーマの浅はかな取り違い、また社会現象の一部としての批評に思われます。 | ||||
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心の奥深いところを揺さぶられるような感覚を10代の時「ノルウェイの森」を初めて読んだときに味わったけど、今回もまた読んでる間、ずっとそんな感覚だった。決してなくならない存在し続ける過去と向き合うということについて。 FacebookやGoogleとか、人々についての情報に囲まれ、その気になればそれらの情報を簡単に取り込むことが出来る時代なのに、僕らは人々について本当は何も知らない。まさしくその通りだ。なにより、本当の自分自身のことさえ。 | ||||
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村上春樹の小説は、読む者の五感を刺激する。心を空っぽにしてその世界に没頭する。想像を膨らませ、現実と非現実を行き来する。そのようにして私は村上春樹の小説を長年堪能してきた。今作品も満足している。村上氏とそう大差ない年齢層の私でも、容易に主人公の孤独、絶望感に共感できた。終盤の、迷宮のような新宿駅の描写と、9番線ホームの電車を眺める主人公のくだりで、現実の世界に引き戻された。 | ||||
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村上春樹のインタヴュー集、『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』のなかで、 村上春樹お気に入りの「カフカのエピソード」が語られています。 カフカは人形を無くして悲しんでいた見知らぬ少女のために、三週間にわたって人形からの手紙をその少女に送り、 彼女の悲しみを癒そうとします。 カフカからの手紙を通じて、 少女は「人形が無くなったという無秩序から、人形が無いという新しい秩序へと移される」のだそうです。 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』も完全な調和を持つ世界を無くした状態(無秩序)から完全な調和を持つ世界が無いという新しい状態(秩序)への移行を描いた物語ではないかと思います。 主人公は以前あった友人たちとの心地よい世界を理由もわからないまま失うことで、心に傷を負います。 そして、自分でも気づかないままにその傷を引きずって大人になります。 この傷を癒すためには、主人公は彼が昔の心地よい世界を失った理由を知らなければなりませんでした。 そのために彼は旅に出るのですが、それが彼の「巡礼」です。 大切なもの(人)を失うことで、死に至る、あるいはそれを克服する、という物語は村上春樹によくある展開ですが、 この作品も同じ枠組みを用いています。 この作品の主人公とその友人たちで形成される完全に調和した世界はいずれは失われる運命にあります。 それは私たちがいつまでも子供のままではいられないということなのかもしれません。 主人公は自己充足した世界を理不尽にも奪われ、そのことを受け入れられず傷つきます。 しかし、ある女性(他者)との出会いから、過去の傷と向き合い、それを受け入れることで、成長をとげ、 前向きに生きることができるようになります。 その過程で主人公は、彼が失った世界に関するいろいろな事実(真実?)を知らされます。 そして、そのことによって、彼が負った心の傷を相対化してゆきます。 主人公は自分の過去に関して新しい物語を作ることで、 悲しい過去に縛られていた自分には持てなかった、 未来(他者とともに生きるという生き方)を持つことができるようになります。 しかし(したがって?)、その未来も必ずしも美しく、希望に輝くばかりの未来ではありません。 それでも主人公はそんな自分の人生を生きてゆこうと決心する物語です。 ひとりの個人の中に善と悪が入り交じり、簡単には分けることができない。 どちらも引き受けて生きてゆくしか無いという物語としてわたしは読みました。 いいかえれば、自己充足した世界が失われた、という認識から自己世界を構築しなければならない、 という認識に至る物語、つまり他者とともに(他者のために)生きなければならない、という物語として読みました。 要するに、典型的な成長物語といえるかもしれません。 村上春樹作品にはよくある?展開だと思いますし、わたしはこのような物語が好きです。 (だからそのように読めるのかもしれませんが。) ただ、いままでの作品よりも落ち着いた、暗い?、印象を受けました。 村上春樹作品のユーモラスな雰囲気を楽しみたい方にはやや不満が残るかもしれません。 個人的にはそのてんで今一歩な感じがしました。 (『ノルウェーの森』でさえ独特のユーモア、登場人物間の楽しめるおしゃべりがありました。) それでもわたしはこの作品を楽しめました。 そして、次に発表されるであろう?超長編?がどのようなものになるのか、楽しみになりました。 この作品は、万人向けとは言いがたいかもしれませんが、 これまで村上春樹作品を楽しんできた方には、今までとはやや違った意味で楽しめるのではないでしょうか。 | ||||
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じんわりと耳を澄ませて、つくるくんの過去の傷みを想像しながら読みました。 自分にもあった、過去の突如として(自然消滅か意図的か!?)起こった人間関係の断絶など想い出しながら読みました。 つくる君は新しい他者との交わりの扉を開けようとしているんだな・・・と、救いを感じる(諦観も)読後でした。 追い詰められたシロは、「ノルウェイの森」の主人公の彼女に似ていました。 またクロは、大地に根を張るような、希望の存在である、「ねじまき鳥」のミドリを想起させます。 登場する女性陣は誰もが、崇高かつ神秘的で、魅力がありますね。 ところが、男性陣は謎の部分が多いです。 唯一、アオは、高級車のディーラーとして現実社会に生きる一般男性のモデルを感じました。 気になるのは、アカ、灰田君、そして極めつけは。。灰田君のお父さんです。 アカの生き方はどこか、矛盾を抱えている。社会的に成功しているのかやましいのか?建前と本音が解らない生き方をしています。 灰田君はすごく中世的で象徴的。つくるくんが成長するまでに絶対的に必要な存在だったのかもしれません。 灰田くんは、つくるくんの形にならない欲望、心底まで見通す、鋭い感覚を持った人ですね。 中でも灰田くんのお父さんはどうなったのでしょうか・・・あまりにも謎で研ぎ澄まされている緑川とお父さんの出会い。 いつまでも余韻を残す存在です。灰田くんのお父さんの行方が気になるので、もやもやしてしまいます。又、読みますね。 | ||||
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今回の村上作品をミステリー小説として面白く読了しました。 他のレビュワーが指摘してない点ですが、興味深かったのは陰陽五行説あるいは仏教の五色に 基づく色彩設計がこの小説の読解の鍵と思えました。 このレビューのタイトルもそれを考えるとおそらく納得できるでしょう。 多崎ではなくは黄川田とか黄金崎とかの姓であればつくるは人生が歪まなかったのではないかと 感じました。 またその歪みの解決も色彩問題の整理でしたね。 | ||||
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物語に現実感があって、素直に入り込め、たとえ話には春樹独特の表現が残っていて、幻想の世界に浸ることも出来る。 絶望して取り残されたと感じたときの描写は、ノルウェイの森の野井戸を思い起こさせ、夜中に改装するところでは、ねじ巻き取りクロニクルの感じを出しているし、過去を思いだして、別の今があったかもしれないと回想する所は1Q84を思い出します。 この作品は村上春樹の最高傑作と言っていいでしょう。 | ||||
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待ちに待った新刊。堪能しました。 村上春樹さんの小説は、読み手を別の空間に運んで行ってしまう力が備わっていますね。 この作品においても、この陶酔感のようなものは十分に味わうことができました。 村上さんの書き出しはシンフォニーの最初の一音のように、いつもながらに見事に決まっています。 頭がクラクラっとする程鋭利な迫力が備わった導入部で、あっという間に物語に引きずり込まれてしまいました。 これこそが村上作品を読む何よりの楽しみ(悦楽)なんですけど。 村上春樹さんの小説は常に孤独が描かれますが、今回は特に「疎外感」という言葉が頭の中に浮かびました。 周りの人から拒否されることで強制的に孤独の檻に捕まった若者。 実際、青春時代と言われる年頃では、何度か体験されるのではないでしょうか。憶えがあります。 きっとどこかの部分で、主人公の多崎つくると読み手は繋がってくると思います。 著者は、開いた文章といった言い方をされますが、その意味においてこの小説は相当に開いていると思います。 | ||||
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2度と同じ日は繰り返さないという不可逆性。でも昨日と同じ日が繰り返すと錯覚して僕らは生きている。錯覚なしには生きられない。 複雑に絡み合った関係性の狭間。そこだけが自分の居場所であるという覚悟は、過去になった日々が全て消え去りはしないと思い込むからこそ持てるのだろう。 不可逆な人生にささやかな希望が見えた。 | ||||
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まるでチャイコフスキーの交響曲のような小説です。 ゆっくりと穏やかにそして強く深い。 今までの作品も好きですが、違いはあるにしろ紛れもない村上作品であり、この作品も好きです。 ノルウェイの森は好きとか嫌いとかずっと意見が分かれ語られてきましたが、この本も同じように語り継がれる作品のようにも思われます。 | ||||
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