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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全562件 361~380 19/29ページ
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きのう、武蔵野大学三鷹で、村上新作の講義。目からうろこの驚愕の内容だった。本を読まないので読んだ気になった。しかも、村上の心境になった。目からうろこ・・。 | ||||
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私は、本をあまり読みません。 主にゲームとアニメ。 ライトノベルも読んだことがありません。 そんなわけで、読書の少なさがレビューにも現れると思いますが、 どうにか脳内で変換してください。 さて、文章あまり読まない私でも、 村上春樹の作品は、結構引き込まれて読めてしまうんです。 多崎つくるもしかり。 確かにリアルと比べるむずがゆくなるセリフのオンパレードです。 そのセリフに対して、 「こんなんぜってぇ言わねぇ」とツッコミいれたくなるのもわかります。 女性蔑視的と受け取られるようなセックスまでの流れもオンパレードです。 その流れに対して、 「こんなシチュエーション有り得ねぇ」とツッコミいれたくなるのもわかります。 むしろ、ツッコミ入れる人格が現在では正常なのだと思います。 ツッコミ入れない人って、バブル時代にボディコン着た女性と踊ってた人くらいなのかもしれません。 私の場合「いいなぁ」と羨ましく思いながら読んでるので、 ムーディーな雰囲気の片鱗に触れることはできているかもしれません。 文学的なセックスの位置づけというものはよくわかりませんけど。 変態的な射精シーンは、 生々しいというか、幻想的なのか? なんといっていいのか、よくわからないですけど、 一番近い言葉で表現するなら、 ”気持ち悪い”って言葉でしょうか。 でもアレですよ。 射精は、ウルトラマンのスペシウム光線みたいなもんです。 村上春樹の射精がスペシウム光線だというわけではありません。 アニメだと必ずキメ技みたいなのがあって、 それが出てこないとテンポ的にムズムズして訝しさが残るんです。 水戸黄門の印籠って言った方が分かりやすいでしょうか。 村上春樹と言ったら、気持ち悪い射精シーン。 これがないと、村上春樹を読んだって感じしないかもしれません。 読んでるうちに、独特のモヤモヤ感がクセになってくるんです。 次に、なぜ私がこれを読めるのか。ボロくそに言われるこの本をなぜ・・・。 ちょっと考えてみました。 それは、きっと私が厨二病だからだと思います。 それにバカだから? ドラゴンボールのカメハメ波に、 「そんなん出せねぇよ!」とかツッコミ始めたらキリがありません。 カメハメ波だけならともかく、 生き返るし、異星人は出てくるし、地球は壊れるし。 村上春樹なんて可愛いものです。 村上春樹なんて、 女「ビッグバンのこと?」 男「ビッグバンのこともよく知らない」 村上春樹の宇宙ネタなんて、これがせいぜいです。 これがもし、 女「ナメック星のこと?」 男「ナメック星のことはよく知らない」 と言ったら、さすがに私も度肝を抜かれます。 抜かれつつも 村上先生さすがっす!ナメック星のこと自分もよく知らないっす!って言いながら、 春樹の本を読みあさります。 でも、村上春樹はまだそこまでには達していません。 出てくるのは人間です。 (妖精とか人間じゃないのも出てくることありますけど、ナメック星人じゃないハズです。 主人公が地球を壊したことはないハズです。 精子は出してもカメハメ波を出したことはないハズです。) これが彼の世界観で、読者はそれを楽しむのでしょう。 『村上クエスト』として、 『村上ファンタジー』として、 『飛び出せ!村上村』でもいいです。 『新生活 村上コレクション』とか。 日常系と言われる「けいおん!」なら、実生活に近いかもしれませんが、 それでも、ありえないシチュエーションばかりです。 最新作の映画版エヴァンゲリオンなんて酷いもんです。 ある日目覚めたら、今まで仲間だと思ってた人たちがみんな主人公のシンジくんを敵視してるんです。 皆が皆、秘密主義者的な人格になってて、誰もその事情を説明しようとしないし。 そして、シンジくんは、周りの人間に不信感抱いて飛び出しちゃうんです。 そんでもって、後に、親しかった友人は死んでいることを知らされる。 シチュエーション的に意味不明な上に、 後半は「ぼくはキミに出会うために生まれてきたんだね」 なんて臭いセリフの連発で堪らず苦笑い。 全然感情移入なんてできませんでした。 って、どっかで読んだことあるような。 そ、それはさて置きですね、 アニメ視聴者は、「こういう裏設定があるんじゃないか」といろいろ解釈を加えたり、 脳内変換はよくやるんです。 これは客観的に描いている体裁をとりつつ、 実は主人公シンジくんの主観で描いているんじゃないかなどなど。 あと、わけの分からない横文字。 私の場合、村上春樹の何の作品か忘れましたがやたら連発される「メタファ」という言葉すら分かりませんでした。 読み飛ばしていたのですが、あまりにも出てくるので調べましたけど。 私はあまり知識がないので、知らない言葉ってかなり出てくるんです。 アニメやゲームだとオリジナルの造語やキーワードがバンバン出てくるので、調べようもないのですが。 そのため、わけのわからない横文字っていうのは、それほどきになりません。 バカだから読めるっていうのは、このような意味です。 それに、言葉はメロディと同じように、不協和音が心に響くことがあると思うんです。 日本語の会話に不自然に入ってくる横文字。 ルー大柴が普通に日本語喋ったらつまりません。 「トゥギャザーしようぜ!!」 いいじゃないですか。 これ、ケミストリーでも面白いと思うんですよ。 「ケミストリーしようぜ!!」 うん。いけてます。 変調したような、テンポが変わったような、 12/8のイントロで進行していた「戦場のメリークリスマス」がサビのところで4/4に変わったときのような感動。 とても感慨深くて、 感慨深くて、 私はもう、笑っちゃいます。 ルー大柴のギャグに飽きるのも分かりますけど、 「ケミストリーしようぜ!!」は結構面白いと思うんですよ。 そんなわけで、村上春樹を読む際も、彼の世界観に自分を合わせる。 カメハメ波が出せなくても、 「ここで界王拳10倍カメハメ波を出せ!」と思わず主人公に感情移入して応援してしまう。 横文字は村上春樹の持ちネタです。 そんなスタンスで読むと、案外充実した読書を味わえます。 それでも楽しめない場合は、読書の合間に「巡礼の年」なんていうクラシック聴きながら、 主人公の孤独に合わせるのではなく、 ゴールデンボンバーの「Dance my generation」を聴きながら読むと 登場人物の臭いセリフも楽しめます。 ちなみに、他の小説でも脳内変換は可能なのですが、村上春樹ほど楽しめない。 読書しない自分が言うのも説得力に欠けますが、 村上春樹の文章力っていうのはすごいものがあるんじゃないかと思っています。 ↑ 自分が楽しめたから「すごい文章力」って、かなりおこがましい理屈ですけど。 私何様?専門家?評論家?ゲーマーです。オタクです。自認してます。 褒めてるのか貶してるのか分からなくなってきましたが、 私は村上春樹の作品が好きです。 心の底から☆5をつけている人からは「参考にならない」って言われそうですし、 この本がゴミだと思っている人からも「参考にならない」って言われそうですし、 っていうか、☆5を見た瞬間に反射的に「参考にならない」をポチってしてく人いるでしょう。 私のレビューって位置づけが安定しませんが、 村上春樹を楽しむ見方の一つとしてレビューしました。 自分が楽しんでいる作品に対して、 みんなが怒っているので、ちょっと悲しくなっちゃいました。 なので、こんなレビューになっちゃいましたけど。 私のように、多崎つくるがカメハメ波を放ったとしても、 バーでナメック星について語ったとしても ついていける読者でない方。 そんな方は、捨てる前に、売る前に、 「Dance my generation」をYou tubeで視聴してから、再度読み返してみてください。 | ||||
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極めて村上春樹的な作品と言える。 主人公は孤独を好み、欲望が少なく、マイペースに生きる青年。 音楽を聴き、料理を作り、コーヒーを淹れ、 特に何もしていないのに女にモテる。 もう、これは藤子不二雄の漫画の主人公がなにかと のび太っぽいのと同じで、彼の1つのスタイルとして考えよう。 さて、こういう主人公が好きか、嫌いか。 それで、この本を読むか読まないかは分かれる。 後者は読んでも時間の無駄。得る物はなにもない。 ベストセラーだからといって手を出さない方がいい。 前者は、得る物があるかどうかはその人次第だが、 本を読んでいる間は夢中になれるはずである。私は前者である。 内容のの好き嫌いを越えて、文章はとても素晴らしい。 どんどんと放たれる魔法のような比喩、的確すぎる表現、 長過ぎず短過ぎもしないセンテンスの数々がつくる軽快なリズム。 こと、文章という点に限っては素晴らしい。 今までのどの作品よりも文章はキレがあった。 小さな物語だった。 『1Q84』は社会全体を含むとても大きな物語で、 読むのに時間とエネルギーを要した。 これは非常に個人的な物語。サラりと読むことができた。 読了後は、腹七分目。しかし、適度な空腹は心地よかった。 その空腹を自分の想像力で満たすのが食後の一つの楽しみでもある。 さて以下は極私的に思ったこと。 「自分の傷にしっかりと向かい合いなさい」 それがこの本の言いたかったようにぼくは思える。 何かを大きく失い、傷ついた自分とってはとても深く響いた。 | ||||
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青年期に生じた友人関係の破綻により恋愛的感性に支障をきたした主人公が、時期をおいて再び色彩豊かなその友人たちと向き合うことで現在の恋愛を大切にしていく。そんな主人公からは複雑な現代社会においての人間関係を着々と『つくり』上げていく姿勢のようなものを勉強させられた。これが好き、これは嫌い、正しい、正しくないではなく、ただ状況をまじめに見つめることで開けてくる展開は私の感性を刺激するもので、正に『村上ワールド』を感じることができる一冊でした。 | ||||
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叩いている人は「殆ど読んだことがない」とか「途中で挫折した」と言っている人ばかり。そもそも最初から向いていないんだから読んでも面白くないのは当たり前。それを誰かが批判してウケたからって我も我もと便乗して批判するのは、ホントみっともない。 過去、村上作品に親しんでいる人には違和感ない本だと思う。 漫画家の萩尾望都サンが60歳を過ぎても延々と「母と娘」をテーマにした作品を(しかも娘の立場で)描き続けているように、村上春樹サンも永遠に自分のテーマを書き続けるのかな〜って思った。好きとか嫌いを通りこして、今後どんな作品を残していくのか追い続けたい作家の一人です。 | ||||
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批判的なレビューが多いなかで、「良いなあ。」と感じた一節をご紹介します。 人は、ポジティブな要素のみで結びついているわけではない、ということを表現しているのだと読み取りました。 なかなか深みのある表現だと感じました。 ----以下、引用です。----- 人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。(307頁) | ||||
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とても読みやすかったです。これまでの作品でも、どこか心の奥底のほうで共鳴するところがあり、それが1箇所だけだったとしても、読んでよかったと思ってきたし、なかなか新刊の出ない村上さんなので、もったいなくてすぐには読めなかったくらいです。前回の作品は、それまでの村上さんの作品を読んでいる私には一連のつながりあるものに思えたし、今回のは、さらに一歩進んだ感じがした作品でした。 私は、今この本を読むことができて、とても良かったと思える本でした。 | ||||
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1Q84より軽く、1つのエピソードだけで構成された小品だと感じました。 この雰囲気、好きです。 | ||||
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本編よりも面白いレビューなどと言われる位、レビューも花盛りですね。アマゾンはレビューを書籍化すれば、相当稼げるのにと以前から思っていました。それはさておき村上春樹の作品に過剰な期待をしすぎる方が多すぎるのでは?私は過去の作品も全て読んでいますが、常に読み始める時のスタンスは他の小説、書籍と区別せず話題に成っているいないも意識しません。そう言った観点から本書は、支払った対価以上の有意義な時間を私に与えてくれたと思っています。どんな「色」に感じるかは読む方次第だと思います。 | ||||
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傲慢ヅラした白豚野郎のオナニーを見せつけられたかのような気分でした。もっと具体的に言うとトップリードのコント以下の作品ですね。 | ||||
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この小説の主人公は「多崎つくる」という男性である。駅舎の設計の仕事をしている。 多崎つくるは色彩を持たない。彼の元に集まる人々はいずれもその名前に色が含まれているが、一方で彼の名前には色が含まれていない。人々は彼に近づき、触れ、そして通過していく。まるで彼自身が駅であるかのように。 多崎つくるにはこれといった特徴がない。他人より特別に秀でているところもなければ、特別に劣っているところもない。どこにでもいるような普通の人間に過ぎない。彼を取り巻く色彩豊かな人々と比べると、つくるはあまりにも凡庸だ。 しかし、と僕は思う。凡庸なものもある程度は必要なのではないだろうか? 絵画だってそうだ。キャンバス一面に様々な色が、それこそ隙間なく塗られているのはあまり風情があるとは言えないし、強烈過ぎる。ほんのちょっとした余白を作り出すことで、色はその個性を最大限に発揮することができるのだ。 そのようなコントラストが最も素晴らしい形で機能していたのが、小説の前半で出てくる高校時代の小コミュニティだ。アカ・アオ・シロ・クロ、そしてつくるという、男三人・女二人で構成されたこのグループは、奇跡と呼べるほどの強固な結び付きを保持し、高校卒業まで彼らはほぼ常に行動を共にした。男女混合グループであれば恋愛沙汰に発展するのが普通だろうが、それぞれがほのかな恋心を抱くことはあっても、それが露顕することは一切なかった。恋愛感情という強烈な発色を、余白であるつくるが吸収していたのだ。彼の功績によって、グループは分裂も崩壊もすることなく、秩序を保ち続けることができた。 東京への進学をきっかけにつくるはグループを離れることになる。一方で他のメンバーたちはいずれもが地元に留まることを選択する。物理的にグループと離れていたつくるであったが、帰省時には元通りグループに加わることができた。とくに変化は見受けられなかった。 しかし、どれほど完璧なグループでもいずれは崩壊する。シロをレイプしたかどにより、つくるはグループから追放されてしまう。つくるには自らがそのような犯行に及んだという自覚がまるでなかったが、錯乱状態にあるシロを守るためにはつくるが犠牲になるしかなかった。彼は異端者だったのだ。メンバーの中で唯一色彩を持たず、地元を捨てていたのだから。 シロが精神に変調をきたすことになったその原因は、彼女が本来志望していた獣医学校への進学がかなわず、不本意ながら音楽大学へと進んだことである。彼女は自らの音楽の才能を開花させることができず、限界に突き当たってしまったのだ。 だが、もしもつくるが東京になど進学せず、地元に留まっていたとしたら? 高校時と変わりなく、彼が余白となり、シロの感情の発色を吸収することができていたとしたら? シロは数年後、何者かにより殺害されてしまう。証拠は何一つなく、犯人は見つかっていない。つくるはこの事件を知り、「シロを殺したのはもしかすると自分かもしれない」と考える。もちろんつくるが現実の手で、現実のシロを殺めたわけではない。だがある意味では彼はシロを殺したのだ。彼女の近くにいて、彼女の感情の発色をつくるが吸収していたとすれば、シロは精神に変調をきたすこともなかったし死ぬこともなかったかもしれない。もちろんこれは仮説に過ぎない。彼が近くにいたとしても結果は同じだったかもしれない。だがしかし、少なくともつくるが彼女への精神的作業を放棄したことは事実だし、そういった意味では彼はシロの殺害に関与した「加害者」なのである。そして、シロを守ることに疲れ、彼女の元を離れてしまったクロもまた「加害者」の一人なのである。 シロの事件はあまりにも現実味を欠いている。おそらく作者である村上氏は、この事件を現実世界に属するものとしてではなく、精神世界に属するものとして描いたのだろう。そしてその世界は、もう一つの現実でもなければ現実の対極にあるわけでもなく、常に現実と並列して存在しているのだ。 彼の過去の作品内で「夢の中から責任がはじまる」という言葉が出てくる。「夢」という言葉を「想い」という言葉に変換すると、より分かりやすくなる。我々は常に言葉にならない言葉を抱えている。その言葉は現実に放出されることはない。客観的にはその言葉は現実には存在しないのと同じだし、もちろん現実的な責任を負うこともない。だが、それにもかかわらず我々は「痛み」を感じる。遠い異国で起こった戦争に対し、あるいは事件や災害で被害に遭った人々に対し、どうしようもない「痛み」を感じる。自分には直接的な関係がないというのに。 そしてこれは小説にもあてはまる。本を開き、そこに広がっている世界は、現実の自分とは何の関わりもない。だが、それにもかかわらず、時として我々はそこにまるで自分の物語が描かれているかのような印象を受ける。そしてどうしようもないような感情の震えに襲われることになる。考えてみればこれはおかしな話だ。作者は僕のことなど知るはずがない。にもかかわらず、現実的には何の繋がりもない僕の心を震わせることができるのだから。 きっと我々は目には見えないどこかで繋がっているのだ。普段はそれぞれがそれぞれの穴の中で独立して生きているけれど、その穴の底を掘っていくと、やがて地面から水が溢れ出してくる。それは世界へと繋がる水脈だ。その水の温かさや冷たさに触れるということ、そして同じようにこの水に触れている人間が他にもいるのだと感じるということ、それこそが読書体験であり、村上氏が信じている「物語の力」なのではないだろうか。 我々は現実を生きている。そして時間の空いているときに、ほんの短時間ではあるが、本を開いて小説の世界へと入っていく。そこで我々は様々な感情を落とし、拾い、やがて本を閉じる。そして再び現実の世界へと復帰する。本を開く前とは少しだけ違う自分になって。 電車が駅へと停まり、乗客を降ろし、拾い、次の駅に向かって走り去っていくように。 | ||||
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でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の話を無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解してないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。彼らは自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りやしないんです。僕が本当に怖いのはそういう連中です。 | ||||
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10年以上の春樹ファンです。昔は村上春樹というと「好き」「嫌い」がはっきり分かれていて、「好き」な人はたいてい「猛烈に好き」なので、ファン同士で独特のきずなみたいなものがありました。最近はなぜか「こいつ絶対読書しねえだろう」と思えるようなチャラい学生やツンツンした女子までがファッション感覚で春樹を語っていて、抵抗を感じます。多分そういう人が春樹を読んでも、結局「意味わからん!!」っていうふうになると思います。 今回の作品も、いつもどおり読者を裏切らない春樹ワールドでした。でも、春樹を読んでいて涙がほろほろ出たのは、これが初めてのような気がします。結構、主人公を含め登場人物の言動や考え方が淡々としているので、読者も冷静さを失わないで読めるのが常なんですが、今回はちょっと違いました。主人公の繊細さや孤独感、彼を囲む人々の深い思慮が、今までの作品よりもいっそう切実に感じられ、終盤、感極って思わず涙するシーンがありました。昔からの春樹ファンには伝わると思いますが、「いつもの春樹プラス、人間同士の愛情や尊敬、思いやりと優しさがぐっと深まったような作品」です。 | ||||
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<ストーリー> 高校時代になぜか気が合った5人の友達。 しかしある時、なぜか「多崎つくる」はこのグループから除け者にされてしまう。それはどうしてか? 16年の時を経て、「多崎つくる」が旧友と再会し、その謎を解いていくストーリー展開である。 <こんな人に読んでほしい> '・村上春樹さんの本は難しそうだからと敬遠していた人 '・過去、村上春樹さんの作品を読んだが、よくわからなかった人 こういう方にとっては、今回の作品は非常に読みやすいと思います。 <ストーリー展開で生じる一つの疑問> ストーリーの中で、大学で友達になった灰田くんが登場する。その灰田くんの父親の話が途中で出てくる。 この内容が後でつながってくるのかと思っていたが、全くつながってこなかった。果たしてこの内容は必要だったのだろうか? | ||||
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インタビューなどは見ないまま読み終えたのですが、「1Q84」が非常に全体的で大きな意味を持つ作品であったのに対して、 とても個人的で小さな作品であるな、と感じました。 そして勿論「1Q84」も村上春樹さんにしか書けないものであったとは思うのですが、 こういった「多崎つくる」のような非常に個人的な作品こそを、なんとなく皆本当は求めているのではないかと思うのです。 村上作品で印象的な、例えば茹で上がったスパゲティ、シャキシャキのレタスが挟まったサンドウィッチ、 そして、秘密を分け合える女の子と性、自分にしか分からない痛みと傷。 全部が都合の良い物である事には違いありません。 急に女の人が自分に手を差し伸べる事だって、そんな事あるものかと思うものでしょう。 でも、僕たちは、そんな「都合がよく、とんでも無いこと」に出会うことがままあるのです。 絶対に有り得ないことではないのです。 勿論女性の件だけでは無く。 きっと誰もが「お、ラッキー!」と思うことがあった筈です。 僕たちは程度の差こそあれ、 自分だけにしか分からない素晴らしい事に出会い、 そして自分だけにしか分からない事件に遭遇し、 自分だけにしか分からない傷を負います。 そして、自分にしかわからないと「誰もが」思っているからこそ、 僕たちは深いところ、それこそ井戸の底で繋がれるんだと言う気持ちになるのです。 その事を静かに教えてくれるのが、村上さんの作品であり、もっと言うなら世にある「物語」というものなんだと。 そして、今回の作品で村上春樹さんはその傷に「真っ向から立ち向かう」姿勢、責任を描いていると思いました。 今までの作品では個人的な傷を負った登場人物が、その原因の追求を避けるまま暮らしていました。 その中で他者と出会い、傷つけ、また傷つけられ、最後に仄かな救いを受けるというように。 しかし、今回の主人公多崎つくるは、「死ぬことだけを考えていた」ほどの傷を追わせた相手たちと、実際に立ち向かい、 自分の傷の意味を知るのです。 そして、その姿を見て、僕たちはまた自分の人生を重ねあわせ、思い返し、 話したこともないけれど、この作品を読んだ誰かと繋がれるのです。 それは素晴らしい読書の体験だと思います。 サリン事件の取材を行った「アンダーグラウンド」以降、村上さんは「責任を取ること」を非常に強く考えていらっしゃるのかなと思います。 今までの作品では、人に強く関わらなかった人々が、人に関わるようになりました。 「1Q84」では、父と、母、そして主人公たちの子供。血族というものが描かれていました。 これまでは、家族や血などは関係なく、個人としてありたいと言う人たちが多く描かれていたのとは対照的に。 個人的に「多崎つくる」は「ノルウェイの森」に対する、責任の取り方なのでは無いかなとも思いました。 ワタナベトオルが、自分だけに閉じこもらず、彼の傷の意味を知り、そして行動していればどうなっていたのか。 それがあれば、たとえ木元沙羅との今後がどうであれ、彼は生きていけるのではないかということ。 勿論村上さんがそう思って書いたのでは無いと思いますが・・・。 関わらなさから関わりへ。 責任を取るということ。 多くの人がただ「イイネ!」や「参考になりました!」と言うボタンだけ押して、ただ笑って、何も責任を負わない今。 テーマは変われど、昔からユニークやユーモアは変わらず、 そして、傷に正面から立ち向かう今回の作品。とても素晴らしいと感じました。 | ||||
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満たされてないのはわかりますが、これはあくまでフィクションです。 それに腹をたてて、アマゾンでルサンチマンを披露しても滑稽です。 半面、いい加減なレビューが多いが正直しょうがないとも思います。これだけPRされて売れれば・・・・。 本来手にとるべきでない層も手にしてしまう難しさがある。 元々は高級で品の良いクラブが、人気になっていくうちに お洒落じゃない品のない人達が群がってきて、大衆化されて、元々来てた人たちが来れない、行きたくなくなる そういうのと、今の村上春樹は近いものを感じます。アマゾンのレビュー欄が象徴的です。このような レビューは以前であれば、ありえませんでした。これは凄くイメージダウンだと思います。あのクラブにはダサイ格好した 人たちが集まってくるから、もう行くのやめようぜみたいな・・・。 恐ろしいことですね。 | ||||
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1Q84で見た表現や構成が散見される。 ただ1Q84は最初から一気読みしたくなるような、スリリングな展開だったが、こちらは終盤になるまで(シロの一連の事件が出てくるまで)そういった気持ちにはなりにくい。 個人的には自分をカラーレスだと思っている多崎つくるが、巡礼を経て開眼する過程が読んでいて面白かった。 それとクロとの昔話。その甘酸っぱさと、36歳のクロの肉体をクロスさせた書き方も感情移入しやすい。 パーソナリティが多崎つくる寄りの人なら尚更共感できるはず。 またアカのダーティーな場面から、一気に北欧の澄んだ情景に移るあたりの揺さぶりも大変心地よいものだった。 ラストは2つの疑問が残されたままになるが、この内容の場合、これはこれでいい終わり方なんだと思う。 | ||||
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今回は最後の19章の独白が、従来の作品と違うような感じがしました。ここで急に主人公が父親のことを思い出したり、独白だけで、20ページ超を読ませるなど。。。 フィンランドの描写も主人公の心象描写がほとんどで、これまでの村上氏の作品の中で独白とか内面描写の分量が多い方ではないでしょうか? それに比べると、社会や組織に関する話や意見が少なくなっています。ミニマリズムに向かっているような。 台詞とか比喩は相変わらずという感じですが、この小説では、そこに注目するよりも、独白部分とか内面描写の方が重要な気がします。 | ||||
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素直にさらっと読めて、村上ワールドの雰囲気を味わえる。文体も安定していて音楽を聴くようにして楽しみました。 | ||||
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読みながら、ある部分の主人公の感情について、自分のそれに近い経験の時の状態を思い出していました。 面白い本や楽しい本を読むときは何も考えなくていいんですが、 むしろ考えることを忘れさせてくれるんですが、 なんかこの本はところどころひっかかるところがありました。 「国境の南」もそんな感じだったような。 生きるのが難しくなるようなことはあるけど、 自分の気持ちをよく見れば、なんとかなる。 似たような状況の人が読めば生きる力になると思います。 話の構造は「キルビル」みたいだなあ、と思いながら読んでました。 描くタッチは静かで美しいですね。「フィンランド」がよく合ってます。 | ||||
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