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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全284件 181~200 10/15ページ
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とにかく日本語が貧しいことに辟易。 さすが自虐史観の持ち主で、「韓国と中国で大人気」の作家さんです。 創価大学で、池田大作先生の本と並んで課題に出されるし。 ある意味、ここまで売国に徹すると見事。 これからも国内外で日本貶め発言に励んでください。 マスコミが持ち上げる事象って、反日が多いってこと、 改めて感じました。文学的感性の低い頭の悪い人が読んで、「わかる」から 嬉しくなる本なのかも? 私も「ブンガク」が解ったしぃみたいな? | ||||
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他の方のレビューを見ていて思いました。 おそらく時代遅れなんだと思います。 個人的に昔の少女漫画を見ていて、ヒロインや主人公が惚れるメンズのセリフや展開に言いようのない恥ずかしさを覚えますが村上さんの小説ってまさにそれ。 読んでいてこっちが恥ずかしくなって内臓が痒くなるあの感覚。 20世紀の少女たちはそれを「きゃー素敵」って言ってたのかもしれないけど、今の我々にその感性はないですから。 現実世界を舞台にしながら、展開はファンタジー。 今の人たちってかなり現実的なので、そういう部分を楽しむ度量がないんだと思う。 プロレスやお相撲の夢を現実に引きずり下ろして批判しちゃう時代ですよ? ま、一番いただけないのは「孤独」とか「薄暗い主人公」みたいな読者に優越感を与える設定にしておきながら内容で裏切る点。 そこがリアリティーがなくてイラっとする。 好景気も過ぎて、あんまりいい時代じゃないのでみんな自分に自信がないんですよ、村上さん。 だからこういう主人公設定の物語を読むことで救われたいのです。 なのに「といいつつモテちゃう俺」「ちゃっかりおしゃれに生きちゃう俺」みたいな展開はこの時代に生きてる人の感性に合ってないんじゃないかな? 小説なんて他人の妄想ですから、村上ワールドを覗き見るって意味で楽しまなきゃいけないのかもしれませんね。 | ||||
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レビュー「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」を生み出した起爆剤としてのみ、本小説には価値がある。 紙の塊そのものには、さしたる値はない。精々が出版社と書店に落ちる利益程度のものにすぎない。 | ||||
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3日前の連休最終日、京都大学で行われた村上さんの講演会を NHKニュースが延々と絶賛報道してたから、本書を捨てたいと言う知人から もらって、初めて村上作品を読んでみた。 村上さんって、すごい「気どった変態」なんですね。 村上さんが変態なのは、彼の自由。 村上さんが、気持ち悪い変態小説を書くのも、彼の自由。 でも、変態な彼を絶賛するマスゴミの変態さは許せない。 マスゴミが、こんな気持ち悪い変態小説を絶賛するから、私を含む 国民の多くが本書に「金や時間を浪費」した事実こそ マスゴミは報道すべきでは? | ||||
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中二病的な主人公像は、作者の個性の投影なのでしょう。 気取った描写に向き不向きはあると思いますが、とりあえず現代人向けではありません。 文学小説に一般的なセンスを求めてはいけないという好例で、 流行に流されて痛い目を見るのは、観察眼を養わない人が支払わされる授業料ということでしょう。 むしろ問題は、マスコミや出版社の喧伝態勢。 好き嫌いの激しい作品を大々的に評価すると、多くの行きずり読者に失望を与えることになり、 結果的に、活字嫌い・読書離れを助長してしまいかねません。 そんな事態は、作者にとっても業界にとっても望ましくないでしょう。今後は自重願いたい。 | ||||
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で十分だろう。読むにも値しない作品。この程度のものに長蛇をなして購入すると言う神経が理解できない。 例の有名な賞を取るのであれば、それは何かこの作家にかつてのフジヤマゲイシャに似たエキゾチズムでも 感じているに違いない。タイトルが実にチンケでそれだけでも敬遠したくなる。一言名古屋を舐めんなよ。 それから安全な場所に居ながら、自分も傷ついたなんて軽々しく口にするな。胸くそ悪いわ。 それにしてもドリーのレビューは対象本を完全に超えてるな。すげえよ。と思ったが、◯はげ絶賛みたいで こけたよ。 | ||||
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ふつうに面白かった。 いつもの村上作品です 特別な小説ではないので、特別な本の売り方はしないほうがよい。 作者、出版社どちらの意向かしらないけど… | ||||
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この小説もそうですが、村上春樹の場合、自分を主人公に投影していている感がどうしても強く、引いてしまいます。 上方落語協会の役員みたいな容姿なのに、「都会的でオシャレにモテたい僕」という欲望を常に抱えている思春期の男子だと思います。 先日の京都大学での講演で、会場に入って行く時の服装をみて、やはりな、、、と思いました。 キャップを前後ろにかぶって、ベストセラー作家だけど軽やかでアメリカンな僕を気取っておりました。 ご自分の容姿レベルをしっかり把握している大人の男性は、あんな格好はできません。 とにかく、またしても、主人公と村上春樹自身の、「おしゃれでモテたい僕」欲望が強くリンクしている、なんとも恥ずかしい本作です。 | ||||
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読書家であることを自負する友人から薦められ、初めて手に取った村上春樹さんの作品でした。 私が普段から読むのは、とても肩がこる文学小説(和洋問わず)と、肩がこらずに読める時代小説です。 文学小説を読むのは、それらの作品は登場人物の心や感情の動きがとてもよく描かれていることが多く、またそれらはとても繊細かつ複雑にまざりあって、世界を構築しているのが好きだからです。 時代小説を読むのは、書いている方が実際にあった物事に自分なりの解釈をいれて面白く書いていることを見て楽しんでいます。 とまぁ、長々と自分がなにを普段読んでいるか書いた理由は、この作品が「糞ほども」面白くなかったからです。 なんかやたら主人公の葛藤などを書いている(ように見えないこともない)が、まったく私には彼の「孤独」が把握できません。 どんだけ仲が良かったかしりませんが、友人グループに絶交されただけで陥る孤独感ってなんですかね? たとえば、彼が天涯孤独の身の上で、唯一心の頼りとしていた家族のような方々に絶交された、とかならある程度わからなくもありません。 100歩ゆずって、小さなことでも人は孤独になれる、ということを示唆したいのだとしても、主人公の生活のどこに「孤独」を感じればいいかわかりません。だって、普通に生活して、バーにも通って、女性と知り合って、はたから見れば孤独どころか、順風満帆すぎて、どこぞのネット用語でいうなら「リア充爆発しろ」だと思います。 なぜか他のレビューでは、繊細な心理描写的なことがよく書かれていますが、こんな自己陶酔なだけの描写なら、もっと描写を減らして、読者に考えさせるほうがよっぽど面白いです。この描写をもし「天才的」というのであれば、天才=ただのオナニストでしょう。 がんばって読み進めて感じたことはただ一つ。なんだかんだでドラマチックには作られてるし、テレビ映えはするんじゃないかな、ということ。改めて、この本を小説として考えず、脚本と考えると、思ったよりもしっくりくるのでは。 特に常人では理解の及ばない表現もあるので、そういうのが得意な韓流ドラマにしてしまえば、世のおばさま方にうけるのでは? まぁ、私はこの方の作品は今後まっぴらごめんですし、この本を薦めた友人には二度と「読書家」などとほざくなと注意しておくことにします。 | ||||
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1Q84は、これまでの文芸的要素に、エンタテイメントの良さが入り、良い作品でしたが、 なんでしょうかね、今回のは。 前半読むのが苦痛でした。なんの興味も惹かれない。 人物を描いたと、本人はおっしゃっていましたが、なんとも中途半端。 村上春樹がやるべきではない分野に入り込んで、素人のやるようなことをやってしまった、という感じ。 いつもの文芸的な書き方も、今回の作品の中にあっては、なにも感じる物を得られませんでした。 地の文も誰の視点なのか不明。 ラストもなんだかなあ。 思わず舌打ちしてしまいました。 そんな作品、初めてです。 | ||||
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実際に本を持ってる人、読んでる人を見た事がない。 ほんとに売れてるのかすら分からない。 視聴率と同じような話かも知れない。 | ||||
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登場人物たちの吐くセリフがいちいちかっこつけすぎの気取りすぎの無闇矢鱈な比喩表現使いまくりーのでとてもじゃないですが心穏やかな気分で読めたもんじゃありません 寒気を催すような言い回しが全編にわたって炸裂しているのでとても人にはオススメ出来ません でも、こういうくどい言い回しを多用する小説に感銘を受ける人もやっぱりいるんでしょうねえ | ||||
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☆ひとつのレビュー 超笑た。 昔、ノルウェーの森 でノックアウトされて以来、起き上がることができません。 が、こんなに大笑いできる 本 なら読んでみたくなる。 そか、爆笑本 かー | ||||
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フロイト、ユングが創始して河合隼雄が日本に紹介した夢分析の要素をナラティブ(物語)として意識的に小説に取り入れたのは日本人ではこの人が初めてかもしれない。でもどう考えても今回の作品は聖書じゃあるまいし100万部の内容ではない。そして出版社に持ち上げられたのか本人は京都大学にガム噛みながら帽子を逆さに被って颯爽と登場したかのように思っているかもしれないが単純に父親の団塊世代の加齢臭臭い男のエレキの若大将がバンド練習風景にいくふうにしかみえず、じつにじつに痛い風景だった。そして最大の山場はノコノコ世間に登場して偉そうに国家観の無さ、反イデオロギーを一生懸命に「本気で、信じて」語ってた。 今まではまさか本気ではないだろう。わざとこのように書いていると思ってそこに最大の魅力を感じていたが、実際の作者の思想が本当にそうだったのはビックリしてしまい、今までの作品が一気につまらないものになってしまってた、、。 昔はオシャレだった「ニューヨーカー」なんかにボストンのテロの事を寄稿してたけどテロリストには何も語らず論考せず、はっきりいって思考停止してたんじゃなかろうか。で、最後には耐えるしかないんだと。今回皮肉にもそれら空っぽな思想観が村上文学の種明かしとなり、あのダサいメタファーもマジだったんと、、、。読者はおおいにがっかりしたんじゃなかろうか。 しかし100万部の文学。今の世の中、勝者総取り、中間層はすべて敗者。 大衆小説ってやっぱり俺は無理でしたね、、。 と思えてそれだけは収穫。 | ||||
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孤独っていけないことなの? 孤独って解消しなくてはいけないの? 私自身は、孤独ほど優雅で贅沢で素敵な精神状態はないと思っていて、孤独を獲得するためにずっと努力をしてきたタイプなので、春樹さんの孤独の扱い方には違和感を感じます。誰とも物質的にも精神的にもつながっていないって最高です! だから、孤独を抱えた繊細(ぶっている)男性を描写するのは、もうやめてほしい。ワンパターンだしつまらない。 あと春樹さんが、シャレ乙ととらえていることと、現実のシャレ乙には乖離が生じている。なんだか色々と古臭い。 これを読んだ時間を損しました。 村上春樹を読む時間があったら、Michel Houellebecqを原書で読んだ方が百倍充実した時間を得ることができますよ。 | ||||
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ぐだくだと生産性のない比喩で孤独を例える時間があるなら素直に一言「寂しい」と言いなさい。 ・・・村上作品を読むとついこんな事を思ってしまう。 そう。村上春樹を読むのに向いてない脳みそだという自覚はある。 そんな自分が、珍しく最後まで読めた新作の内容はというと 「高校時代決して揺るがない絆で結ばれていた4人の親友に突然裏切られ 真相もわからぬまま死をさまよった一人の男が、 自分の半生を振り返った時その傷が癒えてない事に気づき裏切りの真実を暴こうとする話」 と超訳するとすごくミステリーに聞こえる『多崎つくる』。 なぜ今回最後まで読めたのかというと、突然消えた灰田の行方が気になったからである。 実はつくるには自分でも忘れている事件があり 行方をくらました灰田は実は中学時代の友人でつくるに恋い焦がれ嫉妬のあまりシロを殺害した なんて面白いサスペンス展開が待っているはずもなく 話は裏腹に、つくるの繊細な心の葛藤に終始する。 わかってた。わかっていたはずなのに…。 ハルキニストならそんなもの期待するお前が悪いと言うだろうが あんな形で灰田がフェードアウトし、その後「灰田の存在も大きかった」と認めているなら その後の展開をちょっと期待するではないか。 あまりにも扱いがぞんざいではないか? 念を押して言うが、 村上春樹を読むのに向いてない脳みそだという自覚は、ある! そして自分がとりあえずヒットしてる本は読んでおこうという浅はかな人間だという自覚もある。 …繊細な割には恵比寿や青山等かなりシャレた街で優雅に過ごしているイケメン否ハンサム・多崎つくる。 つまらぬ人間だと思っていたのは自分だけで、周りの評価はすこぶる良かったなど 心配して損をした。 大丈夫、それくらいの傷大人なら誰しも抱えているし、キミの人生端から見るとリア充だよと教えてあげたい。 お前10代じゃないんだから、もっとしっかりしろよ多崎つくる36歳。 | ||||
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主人公が名古屋出身だとか、 計5名の高校時代男女仲良しグループ親の職業が、 産婦人科医院経営、名古屋大学教授、税理事務所経営、不動産会社経営だとか、 主人公の母の趣味がブルックスブラザーズとポロだとか、 父が不動産会社経営だったのに、主人公、独身会社員36歳がワンルーム(名義は本人らしい)住まいだとか、 仲良しグループ一人が、銀行→サラ金→怪しい人材育成会社の社長となって、ニヒル(でも身長は160cm)に豹変したが、 匿名で養護学校に寄付していた事を“知った”、、とまるで、弘兼憲史漫画なみの設定とか、 英訳を今回も意識しまくって、「 エレベーターで鳴ってる音楽の様に? 」などと、B級映画の決まり文句が垂れているとか、 そーゆー設定と表現を差し置いて、 ストーリーが退屈でどこかで観た、聴いたような「切り貼り」「孫引き」の列挙 、、、を我慢して最後まで読んで「なにこれ?」の怒り、がここを賑やかにしていると思いました。 “ ベストセラーは今後絶対に買わない ”と心に刻んだ人の数は甚大で、 その数は今後、出版界に実害が及ぶ程ではないでしょうか。 それが大袈裟ではないと思わせるほどの、空費な¥1785です。 | ||||
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これは本当に我々の村上春樹が書いた小説なのか。 『国境の南』の、語り手の僕が経営するバーを訪れた高校時代の知人から、かつて魅力的だった少女について「彼女はもうかわいくない」「子供が彼女を怖がる」と告げられる場面。ゾッとしたし、時の流れの痛切さが感じられた。 誰の学生時代にでもいた憧れの対象。とくべつにモデル的に身体造形が優れているわけでも女優的に顔面造形が優れているわけでもなく、彼女は彼女自身にフィットしていて、自然な魅力を発していて、単独的なかわいさを備えた、自分自身の感性を持っていたあの同級生。その変質。彼女はもうかわいくないと、誰かの口からきいてもにわかには信じられないし、ゾンビのように変わり果てた姿など想像もしたくない青年的憧憬の対象の喪失。これはいかにも村上小説に典型的な展開でもあるけどそこに排他的な魅力があった。 ただ今作において、完全に相似的な設定で、高校時代の仲間(レクサスの営業だったか自己啓発セミナーの主催者だったか)から、共通の知人であり、かつて美しかった女(シロ)について「彼女は美しくなくなっていた」としらされるとき、そこにはあからさまな乾燥した既読感しか感じられない。かつてあれほど傑作ばかりを連発していた村上春樹の劣化版自己模倣。「彼はもういい作家じゃない」のだろうか。 村上氏は「文学的に後退したと思うひともいるかもしれないけど、僕にとっては新しい挑戦」と自著を語っているらしいが、たしかに後退している。 吉本ばななにさえ失敗作と評された『スプートニク』や、個人的には野心的失敗作と感じた『カフカ』、衝撃的なほど精彩を欠いた前作を比較してさえ、はるかに文学的には後退している。村上氏自身は聡明な方なので、そのこと自体はよくわかっておられるだろう。村上氏は、新作を書くたびに前作の方がよかったと言われ続けているという趣旨のことを述べられている。確かに『ピンボール』を好きな読者が『ノルウェイ』に違和感を持ったり、『ノルウェイ』が好きな読者が『ダンス』に違和感持ったり、そういうことはあるだろう。ただ今作について村上氏自身としては「文学に後退」と述懐しているわけだ。作品は読者のものであるという初歩的なルールを踏まえれば、後退した作品であってもそれを喜ぶアホ読者もいるだろうと、そういうことなのだろうか。 そもそも村上氏の小説は「ある事件のあと、彼女は損なわれた」「ある出来事のあと、彼はその時以来、別人になった」と、ある事件、ある出来事の内容を明示的には語らず核心部分を空白化し曖昧な表現で暗示することでリアリティをつくりだすタイプのフィクションだった。それによって村上氏の小説は写実表現に辛苦してきたあらゆる文学と切り離された特権性を持ちえていた。『ノルウェイ』だけが一般的な意味における写実主義的手法によって書かれているが、それはむしろ例外だったはずだ。そして「やれやれ」と呟きながら天下国家よりマクロ的視座より、マルクス主義より安保闘争より、資本帝国主義打破より、ワイシャツのアイロンがけやスパゲティの茹で具合に個人的優先を見てリアリティを感じるところに新鮮な過激さとアンチオーソリティアピールがあったのではないか。 逆に今作は、強姦され妊娠して自分から生理を止めるために拒食症になり浣腸までして自身の体から生と性を抜ききろうとした女が殺されるという、完全にベタな意味で過激な内容のリアリティ小説として書かれている。つまりかつてとはフィクション内でのリアリティの確保の手段が完全に逆になってる。そのとき見いだされるのは、村上氏の、一般的な作家としての想像力不足と筆力の限界にすぎないのではないか。 もうひとりの村上である例の流行作家なら「圧倒的な、寒々しいほどのリアリティ」と呼ぶかもしれない類いの現実感にすら届かない、作家志望のハルキスト大学院生が書いた程度の、つまり、駄作に過ぎない。 これが本当に我々の村上春樹が書いた小説なのか。 彼は、傑作『ねじまき鳥』の産褥で作家としての資質を使い切ってしまったのか。おそらくそうなのだろう。それ自体はやはり、素晴らしいことだ。村上氏は『ねじまき鳥』を書くにあたって、自身のすべてを投じたと述べられている。その結果、作家が自らの才能を枯渇させたとしてもやはりそれは讃えられるべきことだ。 ただ今作ほどの低質な作品をあえて出版する目的はなんののだろう。作家の死後、タンスから出て来た未定稿を誰かが勝手に死後出版したというレベルの小説を、なぜ「文学的に後退」してまで出版するのか。ホステスに貢ぐ金が足りないとか、そんなチャーミングな事情でもあるなら納得できるけど。 蓮實重彦が『羊』を「退屈だと断言できる」としたとき、そこに籠っていた自身の文学者としての野心に基づいた文学的仮想敵に対する挑発も、今作においては差し向けられることはないであろう。なぜなら今作は、はじめて小説というものを手にした小学生以外のあらゆる読者にとって、ハーレクインしか読んだことない主婦以外のすべての読者にとって、単に退屈なだけの小説であろうから。華麗なレトリシアンであろうとする蓮見氏は、駄作を駄作と呼びはしない。紳士的に余裕の笑みを浮かべて「作家の新たな挑戦を支持したい」などというのではないか。おそらくかつて村上春樹をたたくことで文学評論家面していた連中も、アンチムラカミビジネスはもやは成立しないことを知るだろう。アンチ論陣をはるほどの好敵手たりえない。村上春樹は既に輝きを失った歴史上の人物になってしまったのか。 村上氏は、死ぬまでラッパを吹き続けたマイルス・デイヴィスをライフモデルとしているとする。晩年のトランペッターが体力的に衰弱することで技術を落としたことから、自身は水泳やさまざまなフィットネスで体力の温存をはかられているようだ。体力も盤石なことで、不慮の死によって安部公房のようにノーベル文学賞を取りこぼすこともしないだろう。 ノーベル文学賞受賞にそなえて国際的に社会的な発言の機会もました。どうやら裏があると米国内でもすでに露見しているボストンテロについてさえ素早く雑誌に寄稿するほどだ。チェチェン人容疑者は喉を裂かれて声も発せないのに犯行を自供したとされる。村上氏が代弁する声はこの時、壁の側に立っているのではないか。 広告的価値が絶大なノーベル賞を受賞したあと、若い読者が最初に手に取るかもしれない一冊が、『世界の終わり』でも『風』でもいいけど、今作でないことを私は切に願う。我々のだれも、村上氏の小説をファッションとして読んでなどいなかった。今作を読んで感動したという若い読者もいるようだけど、昔の小説を読んでほしいと願う。もし文学といわれる何ものかにはじめてアプローチする若い読者がこの小説を手に取ったとしたら、それは残念なことだ。もしその若い読者がこの小説からなにがしかのインスピレーションをえたとしても、ある種の機会喪失なのは確かなことだと思う。 この小説を読む価値はない。 アラン・フルニエ『ル・グラン・モーヌ』が売れていた頃のパリに滞在していたフィッツジェラルドは、それをより洗練された語りでリライトして、タイトルまで見事にパクリ(オマージュ?)である小説『ザ・グレート・ギャッツビー』を書いた。村上氏は、ある種の喪失感を擬人化したモーヌやギャッツビーの、さらなるリライトを行ったアレンジ名人であったはずなのに、この小説には誰も出て来ない。ネズミも、ヨシユミさんも、ミドリも、五反田君も、クミコも、加納マルタも、僕でさえでてこない。たしかに灰色なのだ。 例によって、夢の中での性行為や殺人行為が現実にリンクしてしまうという平行二元世界の神話的交差で小説を織る手法だけは健在ではあるものの、それを結局「象徴的な殺人だった」などと自己解説してしまうほどに頽落してしている。 この「象徴」という言葉には強く失望した。 ドル箱作家に「象徴」などという軽卒な用語を禁める編集者はいなかったのだろうか。村上氏の小説はこのような、まるで現代文の試験で「この説話文の趣旨を六字で述べよ」と質問されたときの模範解答みたいな、一点透視的に安易な要約を避けることで成り立っていたのではないか。おこがましくも進言させていただくがこの「象徴的な殺人」という一節はぜひ削るべきではないか。読者をなめているのではないか。なめてるのだろう。 河合隼雄との対談で理論的な著作は読まないようにしていると語っていた村上氏であったが、たしかに、生半端に精神分析など勉強してしまって世界がユング的にフロイト的にラカン的に図式化されてしまった小説など読みたくもないので、その不勉強は作家の資質を損なわないための身養生だったかもしれない。いまの村上氏は勤勉な作家になって「象徴」などという言葉を日本刀のように振りかざすようになったのだろうか。対象aとか現実界とかいいださないだけ安心するべきなのだろうか。 「多崎つくるには行くべき場所はない」をリフレインしてわざわざ意味深に傍点ふる必要もない。 現代文学の有用性を信じないわけではないけど時間の洗礼をうけていないものを読みたくない、人生は短いのだ。ナガサワさん、あんたは正しかった。 | ||||
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ファッション村上?言いえてみょうですねw 壁と卵の発言とかもそうだけど、建設的なことが一つもないよね 卵を壁にぶつけたら、中身空っぽだったという感じ 人生に疲れた人間て、結構、いろいろ考えてるもんよ? 一足飛びで小金もちになったから、その過程がすっぽり抜け落ちたんだね、むしろかわいそう 70年代思春期の大学生がそのまま大人になるとこういうふうになるんだなぁとしか思わないな | ||||
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大学生のときにノルウェイの森を読んで嫌悪感を抱いてから、10年あまり月日が経ちました。 社会人となり、今なら少しは村上春樹というものが楽しめるのかなと思い、時間的余裕があったので手にとってみました。 やはり、またかと。。。 村上ワールドがやってきた途端、途中で読むのを止めました。 ノルウェイの森のときと同じような嫌悪感に襲われました。 あざとすぎて、流暢で、それでいてくどい人物描写。 なにも共感の得られない薄っぺらで魂のない登場人物達。 誰かから又聞きしたような海外の自慢話を流暢に語ってくるちょっとウザイ人に無理やり付き合わされているような感覚。 真綿で首を絞められているように少しずつ、それでも確実に嫌悪感に変わっていく自分の心の変化を敏感に感じることができます。 登場人物の魂のない薄っぺらい荒唐無稽なセリフが出てくるたびに不快指数が上がっていきます。 映画「ソドムの市」を観てもたいして感情的にならない私が、これだけ嫌悪感を感じるのは珍しく思います。 いっそ映画「アルマゲドン」のように嫌悪感を通り越して笑えればいいのにと思いますが、村上春樹の嫌味たらしい文章はそれをさせてくれません。 感情移入ができずどこか客観的に読んでしまうように書かれているような感じがします。 こんなにも人の感情を乱す文章を書けるというのは、なにかしら強い魅力があるのでしょう。 熱狂的なファンがいるのもうなずけます。 ただ、ファッション的に村上春樹を読んで、なんとなくいいねとTVでコメントしている人達が私には理解できません。 | ||||
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