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フーコーの振り子
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【この小説が収録されている参考書籍】
フーコーの振り子の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.69pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全32件 1~20 1/2ページ
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あらゆるオカルト系の知識が乱雑に散りばめられている…だけ。 かなりの予備知識がない読者には何の話だかさっぱり分からないだろうが、 かなりの予備知識がある読者にはあまり新しい発見はないだろう…。 それくらい浅く広いオカルト情報の洪水だ。 ミステリー小説としては三流としか言えない。 ストーリーには流れが無いし、会話も支離滅裂で、極めて読みづらい。 著者自身がオカルトにのめり込み過ぎて頭がおかしくなってしまったのだろうか?? ゴチャゴチャに詰め込まれたオカルト情報のオモチャ箱…といった感じである。 現実世界への応用をそっちのけにして、純粋数学の形而上的数学論にのめり込み過ぎた哀れな数学マニア…とでも表現するべきか…。 読者を聡明に導く…というよりは、 読者を低俗な迷いの森に引き込もうとしているようにすら感じる…。 読み終わっても心に残るモノがほとんど無い。 (翻訳の難しさも考慮して星を三つ付ける。) | ||||
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中古本としては、それなりに良いと思う。本の内容が、素晴らしい事を期待して、楽しみにしています。 | ||||
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押し入れを整理したら単行本上巻が出てきた、 初版である、 なぜ上巻だけかと言えば、おそらく古書店店頭のワゴンに上巻だけ並んでいたからだったはずだ、 古本は基本必ず揃いで買う習性なので、間違いないと思う、 そう、薔薇の名前のようなワクワクする娯楽性が皆無のこの本、 薔薇の名前の作者の新刊というだけの引きで発売時には上巻はそれなりに売れたのだと思う、 結果、下巻前に挫折した読者が多かったと推測する、 薔薇の名前の映画化があれほどに面白かったのだから、次の作品も映画関係者はこんどはおれが作ると意気込んでいたに違いないのだが、そのような話題はとんと聞いたことがない、 それだけで娯楽性に欠けた内容だろうことが確定のように購入時に思い、おそらく平成の十年か二十年しまい込まれていたのだった、 で、読んでみた、 まだ途中だが、叙述はじつに平板でワクワク感はやはりまったく無い、 のだが、なにか後を引く面白さがある、 たいくつだが、とりあえず読み進もうという意欲が湧くのだった、 先行レビューでもいくつか指摘されているように訳文にはいろいろ難点はありそうだが、日本語の文章としてはコナレており読みやすい(多少の基礎知識があればだが)、 百科全書的な教養小説/蘊蓄小説と思えば、特に訳文を強く批判する必要はないとも感じる、 さて数週間後、下巻に進む意欲が湧くかどうか、楽しみである、 物語の底には冷戦構造崩壊後の共産主義者並びに同調者たちの挫折感があり、彼らの喪失や苛立ちを書き込みたい気配を感じる、 テンプル騎士団にコミュニストたちをなぞりたいのかもしれないが、無茶なアイデアのように思うが、さてどう進むことやら、 訳者はところどころ面白い日本語を当てている、 恐れ入谷の鬼子母神 益荒猛男の愛:マスラタケオ 据え膳食わぬはテンプルの恥、 ならぬかんにん するがかんにん 昔一人で英和辞典を作ったという斉藤何某という伝説の英語学者がいたが、その辞書ではLove is blindをあばたもえくぼという超名訳があったことを思い出した、 | ||||
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丁寧に梱包されており、商品も説明通りの状態でとても満足です。もう書店では買えない本なので、こちらで安価で購入できて助かりました。 エーコの独特の文章、世界観を楽しめる作品だと思います。 | ||||
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商品状態「非常に良い」で本体はよかったのですが、せめて焼けは綺麗にして欲しかったです。上巻を他店で「非常に良い」で買いましたが、並べると色が違ってとても古く見えます。安いものもあるなかで「非常に良い」を選んでいる理由を想像していただきたいと思いました。とても残念です。 | ||||
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「薔薇の名前」で苦渋を舐めたにも関わらず、また作者の作品を読むという愚を犯してしまった。上巻を読んでウンザリし、しばらく放って置いたのだが、意を決して下巻を読んでみた。感想はほぼ同様で、作者は確かに世界的な記号学者なのかも知れないが、作家としての資質は乏しい。読者の楽しみのために小説を書くと言うよりは、自身の博識を"ひけらかす"ために小説を書いているという衒学趣味が濃厚で、読んでいて少しも面白くない。博識を文学へと昇華させたボルヘスとは大違いである。 <薔薇十字・テンプル騎士団(しかし、作者はこのテーマが好きですねぇ~)>600年の「計画」に気付いた主人公達3名が、「フーコーの振り子」が指し示す位置にその「計画」図があるとして想像を巡らす(妄想に浸る)物語なのだが、薀蓄が煩わしい。錬金術、フリーメーソン、カバラ主義、両性具有の天使、「子宮=宇宙」という世界観、「フーコーの振り子=地球の臍」説、地電流(意味不明)、主人公達の1名が「フーコーの振り子」の不動点、ヒトラーと「地球空洞説」、精液と経血による聖列文字、テンプル騎士団の分派のベーコン派、入会時の秘儀等々、夥しい薀蓄が披露されるが、読者は置き去りである。<テンプル騎士団>を初めとするヨッロッパの暗黒時代の事柄に興味を持つ日本人が居るだろうか?。 そして、結末を読むと、何だか表向きは「西遊記」の結末に似ているのである(即ち、このテーマ・展開で結末は仏教的!)。それとも、作中の「私」のメタ・フィクションという事なのだろうか ? 一筋縄では行かない。上巻と比較すると視界が少し開けて、ようやく読破出来たが、この結末には落胆した。作者の衒学趣味を好む方だけが楽しめる作品。大作だが読破する価値が殆どない駄作だと思った。 | ||||
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めくるめくオカルトな知識が開陳されて目がくらみそうですが、 肝心のストーリーが0点です。 オカルトな知識もその場その場で場当たり的に出てくるだけで、 相関関係をもって語られることもないし。 しかもラストではその手のオカルトな知識の全否定。 「秘密なんてないよ、信じてる奴がバカ」みたいな落ちですし。 薔薇の名前はあれほど素晴らしい出来だったのに、本作はがっかりですね。 でもオカルトに関する共通の下地があるヨーロッパの人には楽しめると思います。 | ||||
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今回のエーコの作品はかなり魅力的なキャラ達が出てくる。特にアンパーロが私は好きで、自分に似ていると思った。「女性は感じやすいから。」と儀式で踊る女性達に皮肉の言葉を投げ掛けるのがナイス!その後の彼女の不幸な体験に寄り添えない主人公にイライラした。気持ちは分かるが。 下巻にアンパーロの活躍があるのか期待する。 エーコに出てくる女性は、女性軽視を嫌がるふりはするが、男性目線で描かれているので、都合のよい女性にされてしまっているのが嫌かな… 後は文句なし。訳者も上手いと思う。かなりの知識がないとこんな本は訳せないだろう。私はフランス語話者なので、フランス訛りのイタリア語を日本語で面白く訳しているのに笑いがこみあげた。 | ||||
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「薔薇の名前」で苦渋を舐めたにも関わらず、また作者の作品を読むという愚を犯してしまった。作者は確かに世界的な記号学者なのかも知れないが、作家としての資質はゼロである。読者の楽しみのために小説を書くと言うよりは、自身の博識を"ひけらかす"ために小説を書いているという気配が濃厚で、読んでいて少しも面白くない。作中で、ボルヘスの一節が引用されるが、博識を文学へと昇華させたボルヘスとは大違いである。 下巻は未読だが、どうやら、<テンプル騎士団>2000年の計画(陰謀)に気付いた主人公達3名(その内、1名は<テンプル騎士団>の研究家)が窮地に陥るという物語らしいが、作品の冒頭で既に窮地に陥っているにも関わらず、事件のキッカケから、窮地に陥るまでの経緯の説明が長過ぎるのである。しかも、上述した通り、<テンプル騎士団>を初めとする、ヨッロッパの暗黒時代の事柄(興味を持つ日本人が居るだろうか?)を中心として、作者自身の博識を"ひけらかし"たり、作者自身の思惟を気儘に綴っていたりするだけで、読者は置き去りである。 大作だが愚作。そんな印象しか与えない作品で、私は一応上巻は読み切ったが、まるで我慢比べをしている様で、貴重な時間をムダに費やしてしまったという後悔の念しか感じなかった。 | ||||
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評者がかって読んだリチャード・フォーティ著『乾燥標本収蔵1号室―大英自然史博物館 迷宮への招待』という本の末尾で著者は下の・・・内のようなことを書いていたので転載したい。 ・・・ 「わたしは、わが類人猿の祖先に一途な誇りを抱いている。自分がかっては樹上に棲むすばらしい毛むくじゃらなやつであり、わたしの肉体は、とてつもない時間をかけて、クラゲ、ゴカイ、ナメクジ、魚、恐竜、猿人類を経て受け継がれてきたものだと考えるとうれしくなる。祖先としては、エデンの園のつまらないカップルのほうがいいなんて、だれが願うだろう。」・・・ このリチャード・フォーティの言葉が評者の心の琴線に触れれたからいまだによく覚えているのです。 テンプル騎士団がテーマの卒業論文を書いているカゾボンは、ベルボに頼まれてアルデンティ大佐の書いた原稿の話を聴くところに同席することになった。 アルデンティ大佐の原稿には、竜騎兵のインゴルフという男が19世紀末に、プロヴァンの穀物倉庫の地下深くから見つけ出した小箱の中から出てきたという暗号のような紙片に書かれている文字を大佐が翻訳した文章をカゾボン、ベルボ、ディオタッレーヴィが聞くことになる。 ベルボはその原稿に興味を持ちながらも、大佐のテンプル騎士団についての原稿に興味を示さないふりをして本の出版を受け合うことはしなかった。 話を聞いた3人は、大佐の持ち込んだ、このテンプル騎士団の話に興味をそそられてしまったので調べ始めたことが事の発端である。 本書『フーコーの振り子』は、旧約聖書より古い時代のユダヤ民族の宗教まで遡ったり、世界中の原始宗教やカルト教団などにも触れながら「なぜテンプル騎士団が断罪されたのか?」「断罪を逃れていた騎士団の秘密=現在までその秘密組織が暗躍しているのか?」「地下電流とエッフェル塔?」「フコーの振り子が昔の地図でその場所を示す?」「地下鉄が造られ真の目的は?」「地下電流とナチス・ヒットラーとの因縁?」「薔薇十字団という秘密結社とフリーメーソンの関係は?」「サン・ジェルマン伯爵の不死伝と説錬金術の研究?」「ベーコン派と敵対する組織?」・・・エトセトラ&エトセトラと、この世界を支配する秘密組織がどこに存在するのか解き明かすことで紆余曲折(荒唐無稽とも思われるような挿話が多いが・・・)しながら、主人公のカゾボン、ベルボ、ディオタッレーヴィ(ディオッタレーヴィは、謎解きにとり憑かれたのか体調を崩し入院して亡くなってしまう)3人がその謎の究明に囚われてしまい、上巻初めでパリからカボゾンへ電話してきて会話の途中で何者かに襲われ失踪したベルボの運命は・・・? そしてアルデンティ大佐が殺され刑事が現場へきた時には、その死体が消えてしまっていた謎などと物語は混沌として読者を翻弄してゆく。 この3人が憑かれたように謎を解き明かそうとしてゆく過程を読ませようと、著者のエーコは容赦なく読者に強いるのである。 が、読みだした本は最後まで読む主義だから頑張って読み進むことにしたのです。 とにかく西欧(西欧以外もあり)の歴史、宗教史、哲学史、科学史、それに、科学者、哲学者、政治家、宗教家、などの知識がないと読み進むことに戸惑いを感じてしまうのは評者だけだろうか。 フランシス・ベーコンがシェークスピアのゴーストライターだった(このようなシェイクスピア別人説は存在したが・・・)とか、ドンキホーテの作者は、セルバンテスではなくベーコンだった、などと読むと著者のエーコは、歴史の虚実を混交しながら読者を翻弄することを目的にして本書を書き上げているように思えてきてしまったのである。 本書『フーコーの振り子』では、評者だけの感じたことかもしれないが、訳者の訳語にも違和感を覚えてしまったのです。 たとえば鍵言葉という訳語のルビにキーワードとしてある必要があるのだろうか?これはキーワードと書けばよいと思います。 「ホメオパチーの療法」なんてことを知っていないのは評者が無知だからなだろうか? 本書のなかには、横文字(特に英語)がたびたびでてきますが、翻訳なしでは読者に親切ではないように思います。 その他、「生命の樹」(見開きページにある図)、「薔薇十字団」、「トーラー」、「ミシュナー」、「ヘーレム 」、「ゲマトリア」、「ノタリコン」、「カバラ 」(カバラについて評者は上巻のレビューで既に書いたが・・・)「イマーム」等々多くのことを知らなければページを繰っても本当に理解(読書を楽しむことも)できないのではないだろうか。 評者は、気楽に本書を読み流そうと思ったものの、やはり知らない人名などが出てくる度に、ウィキペディアのお世話になりながら本書を読みすすむことになってしまったのです。 上・下巻で1100ページを超える長編だからページ数に限りがあるかも知れないが、脚注を巻末に付記してほしかった。 ネタバレになるが、狂信的なカルト集団の秘密について暗号のような紙片に書かれている文字を、「これは洗濯屋さんの配達伝票みたいなものだからよ」と、カゾボンの妻リアが、この紙片が昔の花屋さんのメモだと、暗号でもなんでもないと謎解きしてから、この物語はカゾボンがパリで異常な体験(これが上巻の幕開きのところです)へと誘い、そのあとミラノに戻り、そしてベルボの故郷の家を訪れたところでながながと情景描写と心情描写しながら余韻を残して「了」の文字で終える。 神の創造した世界に住む人間の祖先が、「エデンの園のつまらないカップルのほうがいいなんて」微塵も願っていない評者にとって、本書のテーマについてゆくには相当の忍耐が必要になってきてしまったのですが、記号学の権威エーコならではのジグソーパズルを解くような長編『フーコーの振り子』の下巻を、なんとか頑張って読み終えました。 | ||||
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評者は、ウンベルト・エーコの小説第一作『薔薇の名前』(1980年)の翻訳出版(1990年)されてすぐに読んだから今でも分厚い単行本の上・下二巻は手元にあるが、もう20何年も前に読んだ本だが面白いミステリだった記憶である。 この本が出る前に映画化され日本でも上映されていたが、評者は映画館へ足を運ぶこともなく観ることはなかった。 この映画化された『薔薇の名前』がTVで放映された時、ショーン・コネリーの好演もあり、小説のイメージを損なっていない映画だと思いながら感心しながら観た記憶である。 エーコの第二作である本書『フーコーの振り子』も読んでみたいと思ってはいたが、内容紹介をなにかで読んで読む気が起きなかった。 が、長年なんとなく気になっていたことも事実であり、今回思い切って読むことにして「Amazon」で購入してしまった。 本書を数十ページほど読み進み、やはり評者の好みの作品ではなかったかなぁ、との思いが募ってきてしまった。 主人公のカゾボンがパリの国立工芸院の博物館で展示物などを見学するところからこの物語は始まる。 もちろん「フーコーの振り子」もこの博物館に展示してあるからその解説をしたり、あれこれ他の機械など罵ったり、その機械の歴史などをながながと説明しながら閉館まで時間を過ごし、何故かこの博物館のなかで夜中まで彼は隠れていなければならないのである。 カゾボンは隠れるのに都合のよい潜望鏡を見つけ、その中に隠れ、何故ここにいるのかを読者には謎のままにして、時系列を、二日前に戻したり、二日後に戻したり、カゾボンが学生時代にガラモン社という出版社のベルボやディオタッレーヴィとの出会いから、この出版社の仕事をするようになったかなどのエピソードを語りながら、失踪したベルボがパソコンに残した記録を挿入しながら物語は時系列を行ったり来たりする。 国立工芸院の博物館の潜望鏡で過ごしてから何が起きたのかをカゾボンは語らないが、その夜から二日後に、回想しながらこの物語を語リ始めているから、彼が生きていることは確かなのである。 ベルボと出会った酒場でテンプル騎士団を卒業論文にしていたことから、ベルボの同僚のディオタッレーヴィも交えて会話する場面やカゾボンがガラモン社を訪れてベルボやディオタッレーヴィと交わす会話などに出てくる知らない人名などを電子辞書やパソコンで調べることを始めてしまった。 テンプル騎士団などの知識は少しはあったが詳しく知りたいために新たに調べたり、カバラなどの知識もないから調べたりと、読み進むのに時間がかかってしまった。 カゾボンが大学卒業後、恋人のアンパーロを慕ってブラジルへ行き教師の仕事に就きブラジルで二年も過ごすことになる。 ブラジル滞在中にアッリエという得体の知れない人物と出会い、その男の誘いでオカルト儀式を経験する話のころから、この小説をそんなに真剣に読むほどの物語としてエーコが書いてはいないことに遅まきながら気がついた。(この儀式のあとアンパーロは彼から去ってしまった) 哲学者であり、記号学者でもあるエーコが異端宗教(オカルト)をネタにして、諧謔と皮肉もまじえながら自身の博学を披歴している小説なのだ、と気楽に読み進むことにした。 ガラモン社の親会社であるマヌーツィオ社の社長がガラモンであり、この男が企画しているオカルト的な内容の叢書のアドバイサーとしてかってカゾボンがブラジルで知り合ったミラノに居を構えているアッリエをマヌーツィオ社に紹介したところから物語は複雑に絡み合って進み始める。 もう惰性で読んでいるような物語であるが、主人公のカゾボンが何故パリの国立工芸院の博物館の潜望鏡に隠れていなければならなかったのか? そしてベルボが何者かに拉致されたのではないかというの謎は謎のままで上巻は終えている。 マヌーツィオ社の強欲なガラモン社長が登場して自費出版希望者が出版元と契約する契約書の内容などの裏話を読んでいたら、エーコの本を出版する会社などは、必要以上にナーバスになっただろうと、つい笑ってしまったのです。 それにしても上巻だけで560ページ以上もあるし、知らない人名や病名なども調べたりして難儀した。 たとえば「瘰癧」などという病名が出てきて電子辞書で調べたら「頸部結核」のことだと知ることができたが、ここでは頸部結核と訳せばよいだろう。 そのほか硅素渓谷?なんだこれと思い、あ~っ、シリコン・バレーのことかと分かったものもある。 翻訳がますます本書を読み難くしていると感じたのは評者だけだろうか。 もうひとつ難を言わせてもらえば、よく見開きページなどに主な登場人物紹介があるが本書にはそれがない。 評者は、『薔薇の名前』を、星5ヶくらいと評価しているから、本書『フーコーの振り子』上巻を読み終え、評者だけの感想を言わせてもらえば、この『フーコーの振り子』は、まあ星3ヶくらいの評価だが、下巻を読んでいないからとりあえず星4ヶとしておきます。 カゾボンが何故パリの国立工芸院の博物館で夜中まで過ごすことになったのか?そしてベルボの行方は?という謎だけに惹かれて下巻を読み始めることにした。 | ||||
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評者は、ウンベルト・エーコの小説第一作『薔薇の名前』(1980年)の翻訳出版(1990年)されてすぐに読んだから今でも分厚い上・下二巻は手元にあるが、もう20何年も前に読んだ本だが面白いミステリだった記憶である。 この本が出る前に映画化され日本でも上映されていたが、評者は映画館へ足を運ぶこともなく観ることはなかった。 ショーン・コネリー主演の映画をTVで放映された時、ショーン・コネリーの好演もあり、小説のイメージを損なっていない映画だと思いながら感心しながら観た記憶である。 エーコの第二作である本書『フーコーの振り子』も読んでみたいと思っていたが、内容紹介をなにかで読んで読む気が起きなかった。 が、長年なんとなく気になっていたことは事実であり、今回思い切って読むことにして「Amazon」で購入してしまった。 本書を数十ページ読み進み、やはり評者の好みの作品ではなかったなぁ、との思いが募ってきてしまった。 主人公のカボゾンがパリの国立工芸院の博物館で展示物などを見学するところからこの物語は始まる。 もちろん「フーコーの振り子」もこの博物館に展示してあるからその解説をしたり、あれこれ他の機械など罵ったり、その機械の歴史などをながながと説明しながら閉館まで時間を過ごし、何故かこの博物館のなかで夜中まで彼は隠れていなければならないのである。 カボゾンは隠れるのに都合のよい潜望鏡を見つけ、その中に隠れ、何故ここにいるのかを読者には謎のままにして、時系列を、二日前に戻したり、二日後に戻したり、カボゾンが学生時代にガラモン社という出版社のベルボやディオタッレーヴィとの出会いから、この出版社の仕事をするようになったかなどのエピソードを語りながら、失踪したベルボがPCに残した記録を挿入しながら物語は時系列を行ったり来たりする。 国立工芸院の博物館の潜望鏡で過ごしてから何が起きたのかをカボゾンは語らないが、その夜から二日後に、回想しながらこの物語を語リ始めているから、彼が生きていることは確かなのである。 ベルボと出会った酒場でテンプル騎士団を卒業論文にしていたことから、ベルボの同僚のディオタッレーヴィも交えて会話する場面やカボゾンがガラモン社を訪れてベルボやディオタッレーヴィと交わす会話などに出てくる知らない人名などを電子辞書やパソコンで調べることを始めてしまった。 テンプル騎士団などの知識は少しはあったが、新たに調べたり、カバラなどの知識もないから調べたりと、読み進むのに時間がかかってしまった。 カボゾンが大学卒業後、恋人のアンパーロを慕ってブラジルへ行き教師の仕事に就きブラジルで二年も過ごすことになる。 ブラジル滞在中にアッリエという得体の知れない人物と出会い、その男の誘いでオカルト儀式を経験する話のころから、この小説をそんなに真剣に読むほどの物語としてエーコが書いてはいないことに遅まきながら気がついた。(この儀式のあとアンパーロは、彼から去ってしまった) 哲学者であり、記号学者でもあるエーコが異端宗教(オカルト)をネタにして、諧謔と皮肉もまじえながら自身の博学を披歴している小説なのだ、と気楽に読み進むことにした。 ガラモン社の親会社であるマヌーツィオ社の社長がガラモンであり、この男が企画しているオカルト的な内容の叢書のアドバイサーとしてかってカボゾンがブラジルで知り合ったミラノに居を構えているアッリエをマヌーツィオ社に紹介したところから物語は複雑に絡み合って進む。 もう惰性で読んでいるような物語であるが、主人公のカボゾンが何故パリの国立工芸院の博物館の潜望鏡に隠れていなければならなかったのかの謎は謎のままで上巻は終えている。 強欲なカボゾン社オーナーが登場してから自費出版の裏話などを読んでいたら、エーコの本を出版する会社が著者との出版契約にナーバスになっただろうと笑ってしまった。 それにしても上巻だけで560ページ以上もあるし、知らない人名や「瘰癧」などという病名が出てきて電子辞書で調べたら「頸部結核」のことだと知ることができたが、ここでは頸部結核と訳せばよいだろう。 そのほか硅素渓谷?なんだこれと思い、あ~っ、シリコン・バレーのことかと分かったものもある。 翻訳がますます本書を読み難くしていると感じたのは評者だけだろうか。 評者は、『薔薇の名前』以上の作品ではないと思いながら『フーコーの振り子』上巻を読み終え、カボゾンが何故パリの国立工芸院の博物館で夜中まで過ごすことになったのかの謎だけに惹かれて下巻を読み始めることにした。 | ||||
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皆さんも書いておられますが、最初は確かに 読むのに苦労します。 しかし、文章の雰囲気に慣れてくると夢中になって読みました。 ベルボやディオタッレーヴィ、アッリエこと サンジェルマン伯爵、 自分の意見をはっきり言うヒロイン達、 登場人物がみんな生き生きとしています。 文章に慣れてくると、本当に楽しく読めました 是非ご一読を!! | ||||
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まんまと引っかかってしまった。エーコの図書館並みの博学とダヴィンチコードの上をゆくスリリング、かつ先の見えない展開。劇中劇のようなベルボのトラウマを引きずった小説、周りを見渡せば、不死身のサンジェルマン伯爵(?)を含め怪しい人物ばかり。あまりの説得力に、地下鉄は世界中の地下世界の入り口か?とマジでぞっとする始末。閉館後の博物館のカビ臭さまで漂ってくるような…それもそのはず、主人公はすっかり恐怖に縮み上がってひきこもってしまう。そんな中で女性のたくましく、健全な認識は同姓としてうれしい限りである。また、出版業界の裏ワザには笑わせられる。エーコの実体験か?彼の最新本がその絡みのようなので、発売が楽しみ。 | ||||
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"薔薇の名前"で好評をもって迎えられた記号学者エーコの2作目の小説である。購入してから読むまでに10年、読み始めて2週間かけて読み了えた。あらすじを知ってから読んでもこの小説の魅力を減じられることはないだろうから、ざっとまとめてみる。 つまり、中小出版者の編集者や協力者が、"テンプル騎士団の陰謀"について遊び半分で論じ、まとめてしまったところ、遊びで済まなくなったという話しである。物語の展開としては前作"薔薇の名前"とは違って謎解きに重きを置かれた小説ではないので思わせぶりな伏線などは基本的にないが、兎に角、展開が拡散と収束を繰り返し、話しが進まない。 しかもウンベルト・エーコは記号論の学者である。記号論とはシニフィエンとかシニフィアを用いて、言葉の持つ概念について分析する哲学的方法論である。つまりエーコが用いている単語が実際自分が理解している意味で使われているのだろうか、など疑問が持ち上がってきてしまう。その上、翻訳になっているから、もうどうなのか確かめようもない(イタリア語に長けているなら別なのだろうけど)。そうしたことにかかずり合っていると、いつまでも読み進められなくなる。その内に煙に巻かれている様な気になってきて、いつしか不思議な小説世界に引きずり込まれてしまう。それこそがエーコの狙いなのかも知れないけれども。文章自体は自然で決して読み難い訳ではない。良い評判は聞かないものの個人的には、翻訳としては良心的な労作の部類だと思う。 テンプル騎士団の陰謀と言えば、大体想像が付くと思われるが、要はオカルトを題材にしている。オカルトは神秘主義などと共に語られることが多く、本邦では「月刊ムー」的な位置付けのシニフィエとなってしまっているが、背後に隠された物を白日の下に曝すと言ったニュアンスで使用されることが多い用語である。しかも元来は異端とか俗説と言った概念であり、知的作業の所作であり、知的遊戯である。その意味では文庫版の帯に書かれていた「知の響宴」の意図が理解出来ると思う。そしてこうしたものはまさにエーコの為に用意された主題と言っても良いのではないか。 では、小説自体の体裁であるが、これがまた秀逸だと自分は思うのだけれど、喜劇になっている。エーコは幾度か、オカルティズムの陥穽に対するストレートな批判を織り交ぜて、主人公への読者の感情移入を阻害する。それにより物語をシリアスに進められながらも喜劇に帰着させている。ところでオカルティズムの技法というのは、資料の深読みを積み上げて、独自の結論を導き出すというものである。巷に言う「行間を読む」作業は裏読みであるが、それに更に別の意味付けをすることが深読みである。賢明であれば、この時点で論理が飛躍してしまっていて、客観的でなくなっていることに気付く筈である。エーコはこうした批判的視点を所々に導入している。恐らく、登場人物の中でこの客観性を終止保っていたのは只一人だけである。 そうして延々と前置きが積み重ねられていくので前述の通り、話しが進まない。時折、収束していくかと思えば、また拡散することが幾度も繰り返される。読んでいるといつまでも終わらないのではないかと気持ちが挫けそうになるが、それを堪えて読み進めると、恐らく全体の8割方進んだ所辺りから、展開は速度を増し、大団円を迎えることとなる。謂わば、ディスニーランドにあるスプラッシュマウンテンの様な物語である。 ところで、振り子と共に提示されるフーコーは通常レオン・フーコーである。フーコーの振り子とは、地球の自転を証明する為の実験で、振り子自身は単振動を繰り返しているに過ぎないが、地球の自転により少しづつ軌跡がズレていくというものである。主人公たちが"テンプル騎士団"の陰謀に振り回される様を隠喩しているのだろう。またレオン・フーコー自身が"正式な科学者"ではなかった為、この振り子の実験自体が当時オカルト扱いを受けていたそうである。深い題名である。また哲学の世界ではミシェル・フーコがいる。この人は自分自身が構造主義として理解されながら、構造主義を批判し続けた人であるが、その重要な主張の一つに「知と権力」の関係性についての考察がある。テンプル騎士団に限らず、一般的にオカルトとは権力との関連を想定されるものである。エーコは、記号学者として題名にこうしたシニフィエの拡散をも内包しているのではないか、などと勘ぐってしまう。そして、すっかりエーコの罠に嵌まり、登場人物たちとは一線を画していたつもりが木乃伊になってしまい、日常で深読みする癖がいつしか付いてしまっているのである。 | ||||
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薔薇の名前は楽しく読めましたが こちらは、途中で断念。 時期をかえて また挑戦してみたいが・・・・ | ||||
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タイプライター オーネットコールマン フリー 洞窟 編集中 | ||||
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「薔薇の名前」がとても好きなので、文庫化された時にすぐに買って読み始めた物の・・・とても読みにくかったです。 理由はただ一つ、訳が問題なのです。 他の方もレビューに書かれていますが、普通ならあり得ない言い回しを利用するというのは雰囲気ぶち壊し。訳し方が古いと言うわけではありません。とにかく読みにくい。 全体的に難解さを増してくれている訳に負けて、ずっと放置していました。その後全部読み切りましたが、殆ど意地でした・・・ ところどころ面白い箇所で引き込まれる物の、描写の訳が解りづらく着いていけないこともしばしば。何度読む手が止まったことか。 なので翻訳物が苦手な人にはオススメできません。面白いからなおさら残念です。 もう一度誰か訳し直してくださったら読み直したい本です。 | ||||
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1988年のウンベルト・エーコの作品。主人公ガゾボンがテンプル騎士団の陰謀を探る内にそれに巻き込まれていくというのが、この作品の娯楽性の部分の主体で神秘学、オカルト学に関する引用が盛り込まれ、秘密結社の陰謀として面白おかしく進むのだが、映画のインディジョーンズとかナショナルトレジャーだとかヤングシャーロックの様な娯楽作としては書かれてはいない。古代人の世界観でもある、精神である「王冠」と肉体である「王国」を結ぶ「知恵」「理智」「慈悲」「厳格」「美」「勝利」「永遠」「根底」という陰陽、表裏一体の人間世界で類推の森を徘徊する主人公ガゾボンや世界の象徴である振り子の不動の点を求める秘密結社の人間活動に擬えて各章が構成されており、さらには各章の序文である冒頭の神秘学や思想書、幻想小説の文献からの引用文にそって、その章の話の展開が作られており、実に凝っているし、そのこじつけが妙に上手く少し遊びすぎな気もするがエーコの言いたい事の主幹である「事象の関連とこじつけ」に沿っているから自虐的お遊びとも取れ、見事という事にしておきましょう。さらには、もう一人の主人公とも言えるベルボの自己の存在の認識を懊悩する姿とそれをも我等がサム・スペードたるガゾボン君が同時に解明しようとするのだから、本作が長大になるのも仕方が無い。時代背景も本作のガゾボン君が行動するリアルタイムである鉛の時代のイタリアと、ベルボの幼少期のパルチザンとファシストの対立の思い出に14世紀のテンプル騎士団の弾劾から17世紀のアンドレーエの「科学の結婚」から始まり18、19世紀を類推の迷宮に陥れた薔薇十字伝説が並行して展開し、人間心理の部分で見ても、ガゾボンから見た事象のお遊び推理の部分とベルボの心理から見た実存の在り方の部分が入り乱れているので読者は読みこなすにはある程度の根気がいると思いますよ。敢えて名づけるなら「オカルトミステリー」が表で「存在意義ミステリー」が裏にあると言えようか。そして人によって様々な読み方があると思うが、ガゾボンとベルボに深く関わるタイプの違う3人の女性と主人公達との関わりと世界観が読み応えがある。前半にしか出てこないアンパーロとの会話が考えさせる物があって個人的には良かったが、個性的キャラ達が後半になるにしたがって、微妙に尻すぼみに一つの事に収束してしまったのが残念だが、キャラを楽しむ作品では無いのでいたし方が無い。(下巻に続く) | ||||
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購入時は挫折したが、改めて読みだしたら、面白さにどんどん引き寄せられた。いえ、書いてあることの半分も理解できていませんけど(爆)。 これを読んでいるときの幻惑されるような陶酔感は、ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』を読んだときのことを思いださせた。全然違う小説なのにネ。 主人公が「生まれはミラノでも、先祖はれっきとしたヴァルダオスタの出身なんですからね」というセリフがある。 そうか、ヴァッレ・ダオスタはイタリア国内ではそういう風土として受け入れられているのか。4年前の真冬に訪れた、あの谷間のまちアオスタ市のことが懐かしく思いかえされた。 それはともかく、この本から『ダ・ヴィンチ・コード』と『風の影』と『ナインスゲート』が生まれた……と言っては言い過ぎだろうか。 | ||||
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