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アメリカの夜
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アメリカの夜の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.61pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全23件 1~20 1/2ページ
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自己を表現したくてたまらない才気ある若者が自分を特別だと思い込もうとして書く、よくある過剰に饒舌な少し恥ずかしくなってしまうような小説である。ただそこに工夫のなされているところが良い点。 自分を特別だと思おうとしている唯生(ただいきているってことかな?)なる人物は、ドン・キホーテなど虚構の人物を模倣しているだけで、さらにその唯生の話はエスなる分身が書いている話で、分身が書く形にしたのは小説のキャラクターの狂気を、これまた模倣するためだよという言い訳があって。もちろんそれを小説として上梓している阿部和重がいるという何重にも、いわゆる中二病的な自意識を囲い込んだ、阿部和重のかわいい処女作だ。 ここまでしないと、自分は、唯生きている普通の人間なのだと宣言できない著者の若き自意識がとてもいじらしい。 | ||||
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で?何が言いたいのの一言で存在意義が粉砕される小説 | ||||
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作者が思っていること、と、違う部分もあるし、その辺の分裂も、小説の味ですけど、ただ主人公が感じている、周りとの分断、それでいいよ、と思っていても、なんかイライラする、そうした世界の情景と、バイト先の公益美術館で。本を読んでいた、神聖喜劇も失われた時を求めても でもなんらかの周りの圧力で、ダメだろうね~となっていき、 主人公がとにかく思考的に布石を打って、そんなのは当然だし恨んでいないし、別にあることができるようでよかった、という酸っぱい葡萄まで用いることによって、 やなんだろうなあ、と読者が共感して同情する部分が好きです。本を読む、というのは、いつでもどこでもできるのでなく、ある種の閉鎖空間、の方が的確にできることが多く、自宅では他の不機嫌なことでも起きると難しいわけで、 かつなんか疎外されている状況の 読むことによって、勝ってないんだけど そう言う奴らに勝っている知的なオレ(そんなことは本人は認めないがなんとなく思ってしまうもの)を追求するために本を読みたい、しかしその知的自由さまで、公共圧力で、ヤツら(誰ということもなく)全体が遮る。 苦しい。その苦しさの、ぶつけ形、どう破滅することなく、主人公は切り抜けていくのか、 が、とても強い気分にさせてくれると思います。絶対にできないことだけど 粉々に破壊したい。でも、捕まるわけにはいかない。みたいな色んな怖さと、ジリジリとしたソレが最高に好きでした。これとIPが、大変にその線で、好きで そして好みでしょうからこっちの自由ですが、その作品以降、本当に目に見える形で作者が破壊するようになったので、(あくまで僕は)抑制を感じなくなり、面白さがなくなりました。 本当に憎い奴を殴ったりするわけでもない その辺が 学生の頃の頑張りと、アイツの憎さ、でも我慢を感じて、大変に上手に、この作品に思いました。 | ||||
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1994 年だからデビューして 24 年だがいままでまったく知らなかった。デビュー作のこの小説から読んでみた。 最初のブルースリーのところで退屈して流し読みでやめようかと思ったが、解説を読んだら興味がでてきて、パラパラッとみたらドンキホーテの感想文のところが目に入って、それを読んでみたら面白かったので、また最初からきちんと読み始めた。中山がでてきたくらいから少し読みやすくなって、「映像」から「活字」のところでこれは面白そうだなと思った。 ストーリー自体は特に面白くはないんだけど、論理的に書いている部分が意味がわからないところもあるがすごいと思った。この文体は哲学書の影響なのか。でも、これだと一部の人しか読まないだろうな。いまはスタイルが変わったらしいが。でも 26 才でこの小説を書いたのはやはりすごいことだろう。 「春分の日」的なものと「秋分の日」的なものの対比が全体で何を指しているのかよくわからなかった。 | ||||
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阿部和重は天才である。作品を読んだら、天才の狂った頭の中身を見せつけられて、刺激が強過ぎた。 音楽のprinceやdavid byrne、格闘技の佐山サトルといった他分野だが本当の天才は天才過ぎて世間と離れてしまい、本人と信者にしか解らない作品を作ってしまい、素晴らしい作品を世間は享受出来ない勿体無い事態になってしまった。 阿部和重や出版社は、少しでいいので世間に日和って、世間が読めるスゴイ作品を作って欲しい | ||||
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ゴダールに羨望している若者が、ベルモンドにでもなったつもりで書いた物語。 若気の至り。モラトリアム。 歳を重ね、読み返して時に恥ずかしくなるだろう。 そんな気持ちはよくわかる。 | ||||
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阿部和重のファンになった。 濃密な一人語りがじつに見事。 若いのにどうしてここまで書けるのか、感心した。 | ||||
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自分語りが延々と繰り返されるのだが、それを読むのがしんどくて仕方ない。特別かどうかを自分で語るのを読まされるのは地獄のようだった。阿部和重さんの作品の初めてだったけど、次は、もうないかもな。こんな自分の青臭い話聞かされるのは勘弁してくれ。特別さや普通さを受け入れてからの物語を読みたい。引用での文脈ゲームもスノッブなものに憧れてるんだろうなぁとしか感じられない文化人ワナビーとしか思えない。当時はこういう引用が新鮮だったのかな? | ||||
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想像していた内容と違ったので、1・2ページで読むのをやめました。 | ||||
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自分を特別視できるのは若さの特権だが、こんな痛く青くても、ここまで自己を対象化できるかは疑問。 | ||||
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本作品は、映画学校を卒業し、美術催事場のアルバイトをしている「哀しい男」の物語である。 主人公 中山唯生は実に屈折している。自分を特別な存在であるという理屈を作り、それに執着していく内省的な人物なのだ。唯生は、春分の日に生まれであることから、「光」=「聖なるもの」の「闇」=「俗なるもの」拮抗に思いを馳せ、そこから特別な存在としての啓示を得る。この内面へ突き進んでいく様が、ひたすら描かれていく。 本作品の語り手は、自分自身であるが、唯生の鬱勃とした裏側を、第三者の目線で冷静にさらす。唯生と著者の心情には、どこか重なるところがあるのだろけれど、唯生の周囲から浮いた感じが、なんとも痛々しい。笑うに笑えない寒々としたものがある。 ストーリーは、中山唯生の内的世界が縷々つづられていくだけだ。唯生が、奇妙奇天烈な格好で映画制作現場に乱入するぐらいで、大きな起伏があるわけではない。けれども、読んでいて飽きることがないから、不思議である。あらためてデビュー作を読むと、著者の精神は、その後の作品にも引き継がれているのがわかる。 | ||||
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物語冒頭からいきなりブルースリーの武術論についてだらだらと始める部分は、知らない人にとってはあまりにもどうでもいい内容なのでこの時点でこの作品に縁のない人間は本を投げ出してもかまわないだろう。しかし小生のように「逆に」この媚びてない感じに惹きつけられた人間は、読み進めていくうちにその感覚が正しかったことを確信するはずだ。なぜならこの作者は、すべてを計算済みのうえでこの作品をこのような形にしたのだから。作者は「ドンキホーテ」から「神聖喜劇」、「アメリカの夜」、「ブルースリー」と古今の文学、映画を縦横無尽に引用し、この世界において人間が何者かを仮構し、演じることの不可能性を批評的な「私」の視点と物語的な「唯生」を駆使して書き上げていく。そしてその矛先は作品内の登場人物をはじめ、これを書く「私」とその分身たる「唯生」にまで及ぶ。物語はあくまで「唯生」までも突き放して見ている「私」を軸として進められているはずなのだが、「私」が狂気じみた論理を展開し、それにつれて「唯生」が狂気じみた行動をしていくにつれ、読者は、正しさの拠り所を見失い、知らずにこの狂気に巻き込まれることとなる。狂気と滑稽はしばしば隣り合わせに存在するのだ、ということを強く思い知らされた。主題が人間生活の根源にかかわるものである分、繰り返し読んでも新たな発見に期待できそうだ。 | ||||
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当時、文芸雑誌で新人賞を受賞したこの作品を読んだ時、ついに同世代で新しい文学を書く作家が登場したか! と、興奮して読んだ記憶があります。 インパクトは強烈でした。 現在の綿谷りささんや、僕は評価はしない金原ひとみさんよりずっと斬新で、芥川賞は必ず取るだろう、そう確信した作家でした。 しかし、あまりにも時期が遅かった。 なぜ、彼が取れなかったのか?選考委員に問題があったのか? その理由がわからなかった。 「トライアングルス」は駄作だと思いますし、あまり好きではないですが、現在の「ピストルズ」まで、とにかく、春樹さんの次世代としては、 ノーベル文学賞候補はまずはこの作家しかいないと思います。 | ||||
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『アメリカの夜』はブルース・リーの引用から始まるが、この頃、ヴィレッジ・ヴァンガードのような雑貨屋ではブルース・リーのポストカードがよく売られていた。 当時のハードコアバンドやスケーターは、なぜか(ポーズとして)カンフーにリスペクトしていたような気がするし、大友克洋の『AKIRA』や、本書のタイトルでもある『アメリカの夜』を撮影したトリュフォーなど、サブカルチャーという雑多な概念でしかくくれない何かが、アイデンティティに対する消費記号として強烈な存在感を持っていた。そういうリアリティを提示している小説は他になかった。 また、本書は一人称形式だが、主人公の虚構性が、語り手によって序盤で暴かれるという格好。 その独白がフィクションの解体につながりながら、逆説的に物語が進行する。 何だか半べそ入ったようなメタフィクションで、批評的に考察される「物語内部」と「現実」における自我の距離感が、ブルース・リーの截拳道における「型」と「実戦」の不可能性をなぞり、次第に文学になっていく。形而上学的テーマを扱いながらも、語り手の素っ気なさは我々の「日常」とほとんど同じ水準。 この振れ幅は半端ではない。 間違いなく時代を代表する作品のひとつ。 | ||||
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評論化気取りの読者が読むような作品。 阿部さんはそういった種の作品が多い気がします。 鴇の話より、こっちのほうがおもろい。 芥川賞とればよかったのにね。 | ||||
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主人公が考えている内容だとか、まわりくどい言い回しだとか、語り手と主人公が分裂しているところだとかがまさに私と似通っていて、読みながら「お前は俺か!」とツッコんでしまった。特に感動してしまったところは主人公・唯生がツユミに恋心(のようなもの?)を抱いたときに放った言葉(本書p59〜65)。だがしかし、同じ箇所で同じように感動する人がどれだけいるのだろうか…。 個人的にはかなり好きな作品だが、あまりオススメはできない。よくわからない人にはわからないように書かれてしまっているし、そういう人にはページを捲るのが苦痛ではないかと思う。 | ||||
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『アメリカの夜』は、La Nuit Americaine。フランソワ・トリュフォーの映画のタイトルでもあります。なぜ、このタイトルが使われたのか、は最後の最後になって分かるのですが、その使われるセンスの良さと同時に構成の妙にうなってしまいました。ポストバブルを迎えた彷徨えるスピリットに、この小説は爆弾のように投げ込まれます。観念的で読みづらいことは確かですが、この小説は観念そのものを謳っているので、こういった書き方には当然必然性があるのだろうと思います。『アメリカの夜』は、どうしたってそのときでなければ書けなかった必然性をもった観念小説であります。 | ||||
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『アメリカの夜』は、La Nuit Americaine。 フランソワ・トリュフォーの映画のタイトルでもあります。 なぜ、このタイトルが使われたのか、は最後の最後になって 分かるのですが、その使われるセンスの良さと同時に構成の 妙にうなってしまいました。 ポストバブルを迎えた彷徨えるスピリットに、この小説は 爆弾のように投げ込まれます。 観念的で読みづらいことは確かですが、この小説は観念 そのものを謳っているので、こういった書き方には当然 必然性があるのだろうと思います。 『アメリカの夜』は、どうしたってそのときでなければ 書けなかった必然性をもった観念小説であります。 | ||||
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この作者の作品として、3冊目に読んだ本であり、一番最近に読んだモノでもあります。「インディビジュアル・プロジェクション」が最初で5~6年くらい前に読んだのだけど、むしろこのデビュー作の方が私には面白かったです。というのも、この主人公みたいな人本当に知っている気がする。というか「こんな人いたな・・・」と思い出しながら読んでいたので、なんだか知り合いの過去の実録を眺めているようでグッとくるものを感じました。いずれにしても、最高にカッコ悪い主人公っぷりはもう涙がでそうなほど、哀しくも面白いです。やたら読みにくいとの感想が目立ちますが、途中のやたら長い引用文は別にとばして読んでも十分に話は理解できます。誤解のないように言っておきますと、私は一応読みましたけどね。 | ||||
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~映画や小説を巡る物語にまみれて生きている「私」が、自ら語り出そうとするときに遭遇する過酷な失語の状態から、いびつで無軌道な「小説(映画)」が生成する瞬間を描く。意識的かつ真摯な「小説論」であり「教養小説」。といって語り口は不真面目でさえあります。「気狂いピエロ」+ブルース・リーという目眩がするようなアクションシーンで、道化を演じてみ~~せる余裕もかっこいい。映画や小説に浸かった青春を送った人は読んでいて胸に痛いところがあるかも。~ | ||||
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