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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数217件
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長編のみならず短編の名手でもあるローレンス・ブロックの第2短編集。
まず奇妙な味わいの1編「雲を消した少年」で幕を開ける。 虐待を強いられた子供は何か特別な力を得るとそれを精神の背骨とせず、今までの虐待から脱却するための力として行使しようとする傾向にあるようだ。 屑のような存在から何か特別な存在になったと錯覚し、それを誰かに試してみようと思う。今まで特に心入れることなく観ていた周囲の風景や人々が突然色づき始め、彼にとって意味を持ってくる。 しかしそれは必ずしもいい意味ではない。彼にとって生まれながらに持って与えられた底辺の生活から脱するための餌食に見えてくるのだ。 果たしてジェレミーの得た雲を消す力は他に応用できたのか?不穏な空気をまとって物語は閉じられる。 「狂気の行方」はおかしな振る舞いで精神病院に入れられた男の話。 「危険な稼業」は実にブロックらしい短編だ。 もしかしてこれはブロック自身の物語なのか? 「処女とコニャック」はある医者が主人公に語る奇妙な話。 なんとも人を食ったようなお話だ。ライバルとも云える2人の取引の間を取り持つ男が見事な知恵で上手く出し抜くという話は古来昔話やお伽噺などでよくあるが、まさか処女とコニャックがその対象とは実にブロックらしい。 もはやブロックの短編には欠かせない存在となった悪徳弁護士マーティン・エレイングラフが登場するのは「経験」。 依頼人の無実を晴らす為ならば手段を選ばない。悪徳弁護士エレイングラフのまさに典型とも云うべき作品。しかし単なる典型に陥らず、作者は意外なオチを用意している。 旅行に帰ってきたら空巣に入られて我が家が荒らされていた。「週末の客」はそんなシチュエーションで始まる。 いくつか貴重品も無くなっていたがいつまでもくよくよしてはいられない、とばかりに家の主人エディは早速同僚と仕事に出かける。被害を少しでも取り返すために…と、泥棒が自宅に盗みに入られるという間抜けなシチュエーションを扱った物。 「それもまた立派な強請」もまた奇妙な味わいの物語だ。 デイヴィッドが行ったのは困っているかつての恋人を助ける騎士道精神からだろうか? 彼の中で何かが変わったことは確かだ。読者はデイヴィッドの姿に一種の願望を見出すのかもしれない。 さらに輪をかけて奇妙なのは「人生の折り返し点」だ。 ロイスは狂人なのか? とにもかくにもある日自分の年齢に気付いて愕然とする瞬間と云うのは誰しもあるのだろう。その時今までの人生で自分は何かを成し得たのかと考える時が訪れるのかもしれない。そしてごく普通の生活を送り、そしてこの後の人生もまた同じことの繰り返しだと気付いた時、人は何を思い、そして何を決意するのか? 「終わりなき日常」に嫌気が刺し、一念発起して自分が生きた証を遺そうとする者、もしくは今まで出来なかったことをやろうと決意する者。本作の主人公ロイスは明らかに後者だ。 ある一線を超えた者の悟りを描いているのだが、そんな重い話ではなく、作者自身の声とも呼べる地の文のツッコミがとにかく面白く、独特な作品となっている。 「マロリイ・クイーンの死」はブロックによる本格ミステリだ。 ブロックによる本格ミステリと書いたが、その実態はアメリカ推理文壇をモデルにしたパロディミステリ。 そこここにモデルとなった作家や評論家が登場し、彼らが容疑者となって一堂に会する。そして狙われるのは雑誌発行人で、彼女は確かに書店やエージェント、作家たちの恨みを買うようなことをその権限で行っている。そして衆人の前で殺害された発行人の事件のあまりにも意外な真相は本格ミステリそのものを皮肉っているかのようだ。 ブロック特有のブラックユーモアの詰まった1作だ。 「今日はそんな日」もまた本格ミステリ趣向の作品。 これはある意味物事の本質を云い当てた作品なのかもしれない。現実に起こる出来事の真相はほとんど明らかにされることはない。従ってミステリとははっきりとした答えの出ない現実の不満を解消するために書かれ、読まれている物だと解釈できる。 何とも云えない味わいを残すのが全編手記という形で書かれた「安らかに眠れ、レオ・ヤングダール」だ。 しかしどこか実に人間臭い。 表題作「バランスが肝心」は公認会計士の許に一通の封筒が届くことから幕を開ける。 う~ん、実にバランスの取れた作品だ。 「ホット・アイズ、コールド・アイズ」はそのスタイルと美貌故にいつも男の視線を感じてしまう女性の話だ。 昼の貌と夜の貌。その風貌故に人の視線を感じる女性と云うのはいることだろう。そういう女性はそんな視線を厭わしく思うのだろうか? それは視線の主次第だろう。彼女は昼は貞淑な女性を務めているが夜はむしろ派手になり、男の視線を浴びることを快感に思うようになる。そしてさらに彼女には秘密があった。 ある意味ユーモアにも転じることが出来るプロットで、今までの流れからも感じる視線のオチとは他愛もないものだろうと思っていただけにこの結末は意外だった。女性のミステリアスな部分がさらに深まる短編だ。 風来坊の主人公がダブリンに住む作家の身の回りの世話をする「最期に笑みを」はまた一種変わったテイストだ。 街の長老と化したミステリ作家が簡単に事故として処理されそうになった事件の真実を解き明かそうと身の回りの世話をする青年を助手して捜査をする。しかしその様はいわゆる探偵小説のようなものではなく、あくまで淡々と街の人たちと会い、世間話をして様子を訊き、それを作家に報告するだけ。そして作家はその話を訊き、また指示を出す。それは死期が迫った老人の話を聞く青年との暖かい交流を思わせるのだが、次第に様相は変わり、最後はなんとも苦いものとなる。 センチメンタリズム溢れる好編だ。 一転して「風変わりな人質」では軽妙な誘拐劇が繰り広げられる。 現代っ子に掛かれば誘拐事件も一種のゲームのようになるのか。誘拐されたキャロルの立場は絶望的ながらも決してシリアスにならず、寧ろ状況を愉しんで犯人を出し抜くために知恵とそして女の武器を使って乗り越えようとする。なかなか痛快な1作だ。 続くは短編集でのシリーズキャラクターとなっている悪徳弁護士マーティン・エイレングラフの本書での2作目「エイレングラフの取り決め」では珍しく国の制度で斡旋される容疑者の弁護に携わる。 エイレングラフは有罪明白と思われる事件の裁判を未然に防ぐために容疑者の周囲の人々、事件の関係者と逢って真相をでっち上げ―作中では明白にでっち上げられたことは書かれてないが―真犯人の告白と自殺で事件を解決させ、高額な報酬を得るのが常套手段。本作もその例に漏れないが、まずは高額な報酬が望めない国の斡旋する貧しい容疑者の弁護を受けるところから異色。 しかしエイレングラフは動じない。彼はまた自分の信念に従って依頼人を無罪にするのだろう。 「カシャッ!」はシンプル故に最後の幕切れが強烈な作品。 最初の「ある意味では」というところから布石が始まっている。その被写体だけで戦慄の結末を悟らせるこの上手さはブロックしか書けない。 「逃げるが勝ち?」は浮気相手が大金を手にした暁に夫を殺害して海外へ高飛びしようと画策する話。しかしそこはブロック、巧みなどんでん返しが用意されているが、これは予想の範疇であったかな。 そして最後は本書中最も長い「バッグ・レディの死」。マット・スカダーが登場する中編だ。 これはマットじゃないと務まらない最上のセンチメンタリズムが横溢した作品だろう。 しばらく考えないと思い出せないくらい縁の薄い女性ルンペンからの突然の遺産相続という導入部のインパクトの強烈さ。そしてマットはそんな薄い繋がりが街の片隅で何者かに無残に何か所も刺され、死んだ事件の真相を、1,200ドルの遺産を依頼金として彼女が遺産を遺した他の相続人たちを渡り歩いて犯人捜しを行う。 こんなミステリの定型をある意味台無しにする結末なのだが、それを十分読者の腑に落ちさせるのはやはりマットの、自分に関わった人たちに対する誠実さゆえだろう。これはブロックの、しかもマット・スカダーシリーズでないと書けない事件であり、物語だ。 ブロックの第2短編集である本書はまたもや実にヴァラエティに富んだ内容となった。 まずファンタジーから始まるのが実に意外。そこから殺人、叙述トリック、詐欺、強請、狂気、本格ミステリのパロディ、リドルストーリー、小咄、サイコパス、探偵物、奇妙な味に更にはジャンル別不可能な物とよくもまあこれだけのアイデアが出るものだと読んでいる最中もそうだったが、今振り返って改めて感嘆する。 そしてここにはブロックしか書けない作品が揃っている。「処女とコニャック」、「それもまた立派な強請」、「人生の折り返し点」、「安らかに眠れ、レオ・ヤングダール」、「バランスが肝心」、「バッグ・レディの死」などがそうだ。 そんな極上の作品が並ぶ中で個人的ベストを敢えて挙げるとすると「人生の折り返し点」と「バッグ・レディの死」の2作になろうか。 「人生の折り返し点」は勝手に寿命を悟り、残りの半分の人生をもっと楽しく生きるために思い切ったことをやると決意した男の狂気を作者と思しき語り手の神の視点での語り口が物語に面白味を与えている。とにかくブロックにしか書けない作品の最たるものだ。 そして「バッグ・レディの死」はマット・スカダーが登場する1編。彼に遺産を遺したバッグ・レディ、つまり女性ルンペンの死を探る物語だが、最後に犯人が自らマットの許を訪れて自白して事件が解決する結末はある意味これはミステリの定型から脱した物語だろう。 しかしマットがあてどなく被害者である身寄りのない知的障害者の中年女性が遺産を遺した市井の人々を巡ることで誰もが彼女を思いだし、彼女を懐かしがり、死を悼むようになるがゆえにこの結末は実に納得のいく物になるのだ。そしてそれはうらびれた街角でボロ屑のようにめった刺しにされ、打ち捨てられるように亡くなった一人の女性に名を与え、警官でさえ捜査を辞めた事件を甦らせることで彼女の一人の人間にし、その死に尊厳を与えることになった。 また一種忘れがたいのは「安らかに眠れ、レオ・ヤングダール」。10数ページの小品でその内容は単なるバカ話にしか過ぎない話なのだが、こういう話こそ折に触れ繰り返し語られる不思議な力を持っているものだ。偶然の織り成すおかしみというものがこの作品にはある。 しかしなぜこうも印象に残る作品が多いのか。それは確かにアイデア自体も秀逸だが、ブロックの語り口がまた絶妙だからだろう。 例えば火曜日の朝に郵便物が届く事だけで、郵便物がその曜日の朝に届くこととはどういうことなのかを書く。こんな我々の日常にでも起こるようなことについてブロックは実に興味深く考察し、物語に投入し、読者は改めてそのおかしみに気づかされ、一気に物語にのめり込んでいくのだ。 さらにブロックは物語の結末を明白に書かず、読者の想像に委ねていることもまた強い余韻を残すのだろう。特にエイレングラフ物は決して彼が手を下したとは書いていないのに読者の心には彼が依頼人の無罪を勝ち取るならば殺人をも厭わない悪徳弁護士であると印象付けられている。 また「今日はそんな日」の何とも云えない曖昧な結末や「カシャッ!」の最後に一行の意味などは全てを語らないのに実に強烈な印象を残す。物語の幕引きのタイミングを心得ているのだね。 この第2短編集は第1短編集の『おかしなことを聞くね』よりも世間の話題を集めていないが、それに勝るとも劣らないほど素晴らしい内容だ。 限られた枚数でこれだけのヴァリエーションとアイデアに絶妙なオチをつける、まことに短編は「バランスが肝心」だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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文庫版の本書の帯には「地球を温暖化から救う『秘策』がこの小説にある!」と謳われているが、これは決して誇張ではない。
陸海空に渡って環境破壊が叫ばれて久しい閉塞感と危機感で将来不安を抱えている人類に輝かしい未来の姿が本書には描かれている。 今回服部真澄氏がその切っ先鋭いペンのメスを入れるのは地球温暖化と農林水産省、国土交通省などの利権によって侵食された海洋汚染。このテーマはいつかは取り上げるだろうと思っていたので、とうとうやってくれたという感が強い。 そして数多ある国の愚かな政策によって壊滅的な打撃を受けたかつては豊穣だった海のうち、作者が注目したのはテレビでもセンセーショナルな閉門劇が繰り広げられた諫早の水門。この禍々しい水門をこじ開けてやろうではないかと云うのが物語のメインターゲットだ。 国の主導で閉ざされた水門をどうやってこじ開けるのか?それは世論を変えることだ。 服部氏が選んだ手法は国民的タレントの久保倉恭吾をホストにした環境番組を作ることで世間の目を温暖化が着々と進む現状とその根源を詳らかに明らかにし、その解決策を提示することだった。 国土の73%が山地でありながら、もはやCO2を削減できるほどの森林を増やせず、かといってバイオ燃料にするための穀物も耕せない国土の狭さがネックであった日本においてCO2削減と進んでいく海水汚染を一気に解決する手立てとして注目したのが菱。 海辺に自生する菱は海外ではウォーターチェスナット、すなわち「海の栗」と云われ、その実を食糧のみならずバイオ燃料も作ることが出来、しかも伐採しても焼酎も作ることが出来る事から確実に採算が取れ、しかも育成するのにほとんど手間がかからないまさに魔法の植物。 そしてそれをクローズアップさせ、国民や各自治体、さらには省庁をも目を向かせた上で、諫早湾を含む有明海で菱が自生していることを気付かせ、海水と淡水が混じり合う汽水域を作ればさらに菱の生育が活発になることから世論を水門開門へと傾けさせていく。しかも諫早湾で確認された菱こそは極秘裏に久保倉たちが種を蒔いた物であった。 愚かな政策で自然を破壊し、自身たちの利益のために無駄な開発を推し進める行政を懲らしめる展開のなんと痛快なことか! 菱のみならず、アオサ、ホンダワラと海藻類がもたらす恵みの恩恵はバイオ燃料や地球温暖化の緩和、死にゆく海の再生に留まらず、それらが一大産業として資源のない日本に新たな資源をもたらすこと、更にはそれらがバイオエタノールのみならず重油、ガソリン化も可能で、石油業界もまたその恩恵に与り、OPECで牛耳られ、価格を乱高下させている原油に頼らずとも自国でその原料が採れること、魚介類の産卵場となって漁業も活発化する事、などなどまさに夢のような未来が書かれているのだ。 久々に胸のすく気持ちのいい話を読んだ気がした。 ただいいこと尽くしで終わっていないのが本書の素晴らしい所だ。 新たなビジネスはまた新たなを生み出し、さらに予想外の生態系への弊害をも生み出すかもしれないと説く。すなわち人工的に増やした物はあくまで自然のセオリーに則ったものではないため、それによって害を被る生物や産業もあり得ることを警鐘として鳴らしている。 また海洋汚染問題に取り組んだ人々もその大きな流れによって人生をも変えられようとしている。 一タレントから始まった久保倉はそのカリスマ性と政治と地球温暖化問題への取り組みから都知事候補に推薦され、アドバイザーだった住之江は副知事の佐分利の講師役から恋人になり、一躍時の人となる。 佐分利も住之江の講義で海洋問題に詳しくなり、一副知事から海洋政策担当大臣へと昇格し、新しい日本の未来の舵取り役を担う。 時代の転換期は関わった人の人生をも変えていくのだ。 今までの服部作品では巨大企業や勢力によって牛耳られようとしている世界の構図をまざまざと見せつけられ、巨象、いや巨大な鯨のような存在にミジンコほどの個人が対抗するといった構成が多く、それらは痛快ではある物の、やはりどこか無力感が漂い、些細な抵抗といった感が否めなかった。 しかし本書はそのタイトルが示すように、希望の持てる再生の物語であるのが特徴だ。 高度経済成長期以来行われてきた海洋開発によってもはや死の海となりつつある日本の海。それは温暖化を助長させ、もはやどうにもならない所まで行きつつある。 しかし海はゆっくりながらも着実に再生していることが示され、干潟や浅瀬を取り戻すことで日本の海、とりわけ東京湾を昔の豊穣な海に戻そうという動き、そして暴力的なまでに生命線を遮断するが如く次々と閉ざされた諫早湾の水門をこじ開け、かつての有明海を取り戻そうとする物語展開が絶望から再生へと向かう希望の物語になり、読んでいてものすごく気持ちがいいのだ。 時代の大きな変換点を創り出した人々とそれを目の当たりにしている人々のなんと清々しくも眩しい事か。 複雑化したシステムと利権の絡み合いで雁字搦めになっている日本の政治と世界各国とのバランス、そんなしがらみばかりの現代の中で子供たちに安心な未来を授けるための秘策が本書には詳細につづられている。あらゆるケーススタディを行い、トラブルシューティングを重ねることで、夢物語ではない、地球温暖化とそれに伴う各産業界の弊害をも解決する方策がここにはあるのだ。 今までその綿密で緻密な取材力とそれを材料にこれから起こるであろう時代の出来事、産業界の動きなどを悲観的に描き、我々を心胆寒からしめた服部氏が、その作者の強みを存分に発揮し、「こういう風にすれば未来はもっと良くなる」と示す本書はこれまでの作風とは全くもって真逆のものであり、実に爽快な読後感を残してくれる。 題名の通り、未来は明るいのだと思わせる本書を、政治家、官僚の全てに読んでもらいたい。 我々は本書に描かれている日本を待っている。 |
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今なお珠玉の短編集として名高い本書。その評価は読んでみるとだてではなかったことが解る。
第1編目「食いついた魚」は湖で釣りをする男が出逢った見知らぬ男を描く。 背筋が寒くなってくる1編。鍛えられた体格の大男。釣った魚を食糧にして旅して暮らしている男が唐突に話したある時の殺人の話。それは実は大男にとって人の道を踏み外す禁断の扉を開ける行為だった。 「成功報酬」は短編のみ登場するシリーズキャラクター、悪徳弁護士エイレングラフ物の1編。 この男、どこまで本当なのか?と読者の興味をそそる非常に魅力的な悪徳弁護士エイレングラフ。 一気にこの1編でエイレングラフという弁護士が頭に刻み込まれてしまった。 その題名はある有名な作品をモチーフにしている。「ハンドボール・コートの他人」は原題を“Strangers On A Handball Court”という。そう“Strangers On The Train”、パトリシア・ハイスミスの作品であり、ヒッチコック映画の傑作でもある『見知らぬ乗客』だ。 上に書いたように本編はパトリシア・ハイスミスの作品をモチーフにした交換殺人物。ただしそこはブロック、一捻りした皮肉な結末が用意されている。 「道端の野良犬のように」は国際テロリストを扱った話。 ただこのオチは正直なんでもよかったのではないか? ブロック作品での泥棒と云えばバーニイ・ローデンバーが殊の外有名だが、この短編に登場する泥棒は彼ではない。「泥棒の不運な夜」では忍び込んだ家で主に見つかり、逆に命を狙われてしまう。 なおこの作品はブロックの前書きによれば本編は『泥棒は選べない』より前に書かれた物でバーニイの原型かもしれないとのこと。泥棒の最中に他の犯行に巻き込まれるシチュエーションからすれば確かにそうかもしれない。 「我々は強盗である」はアメリカ映画でよく見る砂漠の中にポツンとあるガソリンスタンドとドライヴインを舞台にした1編だ。 これは前書きによればブロック自身が実際に出くわした悪質なガソリン・スタンドでのぼったくりに着想を得た作品とのこと。つまり作者はこの作品を著すことで溜飲を下げたわけだが、本作には色々な教訓が込められている。 まずはぼったくるのもほどほどにすべきであり、度が過ぎると痛い目に遭ってしまうという教訓。もう1つは人間腹が据わればどんなことでも出来るという教訓だ。 しかしブロック、ただでは起きない。 「一語一千ドル」は作家の多くが思っていることだろう。 窮鼠猫を噛む。どんなに気の弱い人も追い詰められれば何をするか解らない。 「動物収容所にて」はある意味、共感を覚えると云ったら驚かれるだろうか? 目には目を、歯には歯を。この思い。完全に否定できない自分がいる。 再び悪徳弁護士エイレングラフ登場。「詩人と弁護士」では無一文の詩人を救うために一肌脱ぐ。 「成功報酬」では高額の報酬の為には犯罪も厭わないとばかりの悪徳弁護士ぶりを見せつけたエイレングラフだが、なんと本編では無報酬で無名の詩人の釈放に一役買う。 何か裏があるのだろうと思っていると、実に意外なことに気付かされる。 いやはやこのエイレングラフと云う男、実に奥深いではないか。この男のシリーズ物が読みたくなった。 「あいつが死んだら」は奇妙な味の短編だ。 神が降りてきたかのような1編。 突然見知らぬ者から送られてくる手紙。そこに書かれているのは見知らぬ男の名前で彼が死ねば金をくれるという物。しかし主人公が手を下さずとも標的の男たちは病死し、金が転がり込む。しかも男にとってその報酬は自分の年収の数分の一もの金額。さらに手紙が来るたびに報酬が上がっていく。そんな手紙が来れば人間はどうなるのか? よくもこんなことが思いつくものだ。 本格ミステリのおける連続殺人事件をブロックが書くとこうも素晴らしいものになる見本のような作品が次の「アッカーマン狩り」だ。 ニューヨークでアッカーマンと云う名の人物が次々と殺される。犯人の動機は皆目見当がつかない。 物語は犯人の独白で終わるわけだが、ゲームの内容が公表された犯人は次の新たなゲームを考え出す。その時のさりげない台詞のなんと恐ろしいことよ! 実に上手い! 語り手が珍妙な兄弟2人の顛末を語る異色の1編、「保険殺人の相談」はスラップスティックコメディの傑作だ。 作者と思しき語り手が実に軽妙な語り口でこの間抜けで愛らしき兄弟たちの顛末を語るストーリー運びはチャップリンの喜劇を観ているような錯覚を覚えて実に面白い。 歯車がちぐはぐに絡み合うかの如く、常に兄弟のやることは裏目に裏目に出て、とにかく上手く行かない。しかしなぜか2人には高額な保険金が掛けられている。終わり方は実にこの間抜けな兄弟らしい玉砕で、作者が云うように収まるところに収まり、一件落着! 表題作はたった10ページの物語ながら無駄を削ぎ落としたような切れ味を持つ。 う~ん、まさに都市伝説。世の中には色々疑問に思っていることがあるが、恐らくアメリカでは誰もが一度は思っているのだろう、古着のジーンズはどうやって仕入れるのか?という疑問をモチーフにブロックが紡いだのは実にブラックな解答だった。 しかし物語でははっきりとその答えが書かれていない。しかしもう雰囲気と行間、そしてある決定的なある単語で読者に恐ろしい想像を掻き立てるのだ。 これは秀逸かつ切れ味抜群の上手さを誇る1編だ。 そしてとうとうバーニイ登場。「夜の泥棒のように」は三人称で語られる泥棒探偵バーニイの短編だ。 ロマンティックな男と女の奇妙な出逢いを描きながら、最後に意外な真相を持ってくる実に贅沢な逸品。再登場してほしいものだ、このアンドレアという女性は。 「無意味なことでも」は友人の子供が誘拐されるお話。 かつて一人の女性を取合った男達。今では友人同士で何でも相談し合える仲。そんな相棒の娘が誘拐される。 ディーヴァー作品のようなどんでん返しがある作品なのだが犯人の一人称で物語が展開されるゆえにアンフェアなところがあるのが気になる。 ちょっと技巧に走り過ぎたか。 「クレイジー・ビジネス」とは殺し屋稼業の事。新進気鋭の殺し屋が伝説の殺し屋に彼の逸話を聴きに行くというお話。 これは先が読めてしまった。 「死への帰還」はハートウォーミングな話。 子供は大きくなり、実業家として会社を運営し、一応の成功を収めた男。しかし実情は妻との関係は冷え切り、愛人がおり、しかも会社の資産は減りつつあった。そんな矢先に訪れた災難。その犯人捜しをするため、男は妻、共同経営者、愛人、子供たちと逢っていく。 正直この物語の犯人が誰であろうが、そこに主眼はないだろう。 最後はマット・スカダーが登場する「窓から外へ」はお馴染みアームストロングの店のウェイトレスに纏わる話だ。 ポーラと云うウェイトレスは本編で出てきたのか、記憶は定かではないが、マットにとって彼の人生に関わった知り合いが死に、そしてその死の真相を突き止めたい依頼者が現れたならば彼の腰も挙げざるを得ない。 50ページほどの分量だが、その内容はシリーズ1編の読み応えがある。 死に携わる人間に対する眼差しは相変わらず厳しい。 今や短編集ではジェフリー・ディーヴァーが挙げられるが、それまではブロックのこの短編集が非常に完成度の高い短編集として挙げられており、今なお本書を読むべき作品として挙げる作家もいるほどだ。 ジェフリー・ディーヴァーの短編集がどんでん返しに重きを置いているものとすれば、ローレンス・ブロックのそれはどんでん返しにホラーにサイコ、クライム、悪徳弁護士、対話物、連続殺人鬼、ファンタジー、ネオ・ハードボイルドと実にヴァラエティに富んでいるのが特徴的だ。特に「食いついた魚」や「成功報酬」、表題作などは想像を掻き立て、その何とも云えない余韻が印象的。 またどんでん返しを加えながらも心温まる、思わず微笑みを浮かべてしまう余韻を残す「夜の泥棒のように」や「死への帰還」もこの作家ならではだろう。 個人的ベストは「あいつが死んだら」、「アッカーマン狩り」、「保険殺人の相談」、表題作、「夜の泥棒のように」。 「あいつは死んだら」はその着想の妙を買う。 「アッカーマン狩り」は最後3行目の台詞に、そして表題作は古着のジーンズ卸し会社の本当の社名が秀逸。それらが暗示する恐ろしさといったら…。 「夜の泥棒のように」はバーニイが登場する作品だが、他人の目から見たバーニイが新鮮で、しかもストーリーもきちんとオチが付いているという絶妙な作品。 とにかく精選された単語、言葉遣いを短いセンテンスで入れるため、一言に凝縮されたその意味が実に濃厚。表題作の会社名、「アッカーマン狩り」の犯人がふと漏らす一言など実に効果的。しばらくこれらは私の脳裏から離れられないだろう。 短編と云うのはこういうことを云うのだと云わんばかりの名品揃い。ブロックと云う作家の全ての要素を出し切った作品集と云えよう。 特に作家たちはこの本をお手本にすべきだろう。ストーリーの語り口に運び方、言葉選びなど多く学ぶべきエッセンスに満ちている。 しかしどうして本書も絶版なのだろう。本書こそプロ、アマチュア全てに読まれるべき作品であるのに。実に勿体ない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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稀代の目利きと名高い、通称“佛々堂先生”に纏わる古美術をテーマにした連作短編集。
まず「八百比丘尼」は椿画で一躍名の売れた関屋次郎という画家のエピソード。 彼の代表作“八十八椿図屏風”は彼の代表作であり、まだ在野の素人画家であった関屋次郎の許に訪れた画商によって頼まれて製作した作品だった。一躍その大作で世に知られるようになった関屋は今や京阪神の女将連中が訪れては作品をたくさん頼まれるほどの人気画家となっていたが、関屋はある絶望を抱えていた。 元々“八十八椿図屏風”は百椿図として頼まれたが依頼人からの知り合いの米寿のお祝いに送りたいという突然の変更により、八十八になった経緯があった。そのことに不満を覚えた関屋は当時内縁の妻であり、送られてきた椿を生けて絵のモデルに仕立て上げていた可津子と別れてしまった。そしてそれ以来彼は同じ椿を構図を変えて書いているだけなのだと告白する。そして最後に書かれた白寿という椿は依頼人だった佛々堂先生への当て付けの意味を込めて書いたのだと、品評会に来た美術雑誌の記者、木島直子に話すのだった。 その話をそのまま佛々堂先生に伝えると先生はある一計を案じる。 続く「雛辻占」はある離島の小さな和菓子屋で幕が開く。 とある神社の門前町で和菓子屋を営んでいた「もろたや」は数年前の火事で店を焼失し、漁師町のある離島で小さな店舗を開いては細々と商いを続けていた。 そんなある日古いワンボックス・カーで訪れた客が店の看板商品である蛤辻占3/1~4にかけて一日200袋収めてほしいと奇妙な依頼があった。既に老境に入った父が焼く蛤の最中は以前の店でも好評だったが、島に移ってからは火事のショックで気力も萎え、一日売れる分だけを焼くのみだったが、その父の後押しで引き受けることにした。 一方新進気鋭の陶芸家小布施千紗子は父親であり高名な陶芸家でもある康介の2世だと云われることに嫌気が差していた。その満ち溢れるエネルギーは創作意欲を沸々と滾らせるほどに十分なのにその作品はどこか父親の作風に似てしまうのだった。 そんな矢先友人で彫金をしている小松啓子から3/1に大阪のとある某所へ一緒に行かないかと誘われる。しかもきちんとした和装で来るようにと念を押されてしまった。 当日駅で待ち合わせをしていると、続々と和装の女性の姿が行き交っているのに千紗子は気付く。駅にいた一人の男に何があるのかと尋ねると佛々堂先生という風流人の家が3/1~4の間、一般開放され、がらくたフェアが開かれているのだという。これらはみなそこに向かう人波だった。 飛騨高山で料亭を営む「かみむら」は店を切り盛りしていた兄の死で急遽東京の会社を辞め、店を引き継ぐようになった上村寛之。3編目の「遠あかり」では佛々堂先生によってこの料亭が盛り返す。 店を引き継いだものの、右も左も解らぬ独身者である寛之は父と兄が遺した数々の工芸品や着物をどのように活用したらよいか解らない。そんな折、店を訪れた上客が寛之に着物の着付の指南を買って出る。 客の云われるままに和装をしたため、蔵に眠る飾り物の印籠を身につけられるうちに寛之は垢抜けた粋な料理人に早変わりする。その後も手紙や電話で客のアドバイスを訊いては店の調度品や自身の着こなしが洗練されるにつれ、口コミで客が増え、「かみむら」は危難を脱出することが出来た。 寛之は客にお礼をしたいと申し出るが、決してその客は受け取らず、強引に品物を送っても、それ以上の高価な物で還ってくるのだった。 そんなある日、客から着付けをした時の印籠を貸してほしいと依頼される。寛之はすぐさま送るが、それはまたすぐに送り返されるのだった。年に一回、そんなことが幾年か続いた後、今度は寛之に印籠をつけてこちらに来てほしいと云われるのだった。 最後を飾る「寝釈迦」は実に気持ちのいい作品だ。 和田家は信州の旧家角筈家が所有する山の手入れを任されている山守りで民宿も経営している。和田克明は脱サラをして親の手伝いをするうちにこの山守りという仕事にのめり込んでいった。 そんなある時、角筈家の当主が土地の一部を手放して家を美術館に改装するという噂が立っており、その中にどうやら謂れのある山が入っているというのだった。その山は克明の父が1人で手入れをしている山だったが、昔松茸が取れると云われて買わされた不毛の土地だった。しかしその噂が立ってから克明の父は腰が悪いと云って急に母親と湯治に出たまま、なかなか帰ってこなかった。 そしてなぜか佛々堂先生がこの土地に乗り込んできた。どうやら角筈家が美術館に改装するのに一肌脱ぎに来たらしいのだが…。 服部真澄氏と云えば国際謀略小説やコン・ゲーム小説、そしてビジネスの世界に焦点を当てたエンタテインメント小説のジャンヌ・ダルク的存在だが、古美術や骨董品の目利きとして名高い通称“佛々堂先生”が登場する連作短編集はそれまでの彼女の作風を180°覆す、日本情緒溢れる古式ゆかしい物語だ。 佛々堂の由来は仏のような人だから佛の字をあてたとも、いつもぶつぶつと文句を云っているからと2つの説があり、どちらが正しいかは先生と関わった人によって違うだろう。 扱われる題材は日本画、和菓子、焼き物、和食に山守りと日本に昔から伝わる伝統の物や仕事。そしてそれらが抱える問題は先細りする産業であることだ。 いい腕やセンスを持っているのにそれに気付かない製作者がいる、才能はあるのに一皮剥け切れない芸術家がいる、止むを得ない事情で店をたたまざるを得ない名店がある、 佛々堂先生はその本質を見極める目を持って、彼ら自身ではどうしようもできない見えない壁を突き抜けるお手伝いをする。 ある意味再生の物語であると云えるだろう。 そして話中に挟まれる名品の数々に目が奪われる。殊更に贅を尽くしているわけでもないのに、手に入れるのさえ難しいとされる名品が実にさりげなく佛々堂の広大な自宅には配置されており、その筋の目を持った人でないと気付かないほどの自然さだ。 しかもきちんとそれらが使われていることがこの佛々堂先生が粋人である証拠だ。元々使われることを目的に生み出された工芸品や陶芸品が、いつの間にか目の保養とばかりに飾られ、触るのさえ憚れるようになり、それを鼻高々で己の権力の具現化した物のようにしたり顔で来客に見せびらかすような厭味ったらしいことは一切しない。道具は使われることが本望であり、素晴らしいものは使われてこそ活きることを知っている物事の本質を見極めた人物なのだ。 そして各話に挟まれる薀蓄がこれまた面白い。椿が品種改良しやすく、1万を超える品種があるとは初めて知ったし、木の実を指で潰して残った香りと共に盃の日本酒を飲むという飲み方のなんと粋なことか。 しかしこれほどまで作風がガラリと変わるものだろうか? 作者名を知らずに読むと、例えば泡坂妻夫氏あたりの作品だと思う読者がいることだろう。 元々作者には海外を舞台にした作品が多いため、作品にはカタカナが多用されているが、本書ではそれらを封印するかの如く、漢字とひらがなで表記することで情緒やわびさびと云った粋な世界を感じさせる。 泡坂作品を例に挙げたのは2編目の三角籤に関するトリックが披露されたマジシャンでもあった泡坂氏の作風そのものに感じたからだ。 ただ違う点があるとすれば、泡坂氏が江戸の粋を描いたならば、服部氏は上方の粋を描いたところだ。 この違いは例えば泡坂氏の描く登場人物はどこか衰退しつつある職人の道を愚直なまでに突き通し、それが女性に対する思いを正直に伝えらない不器用さに繋がっているような、いわば熱き思いを胸に秘めた人物が特徴的に語られるように思えるが、本書の佛々堂先生は古びれたワンボックス・カーに道具や資材を積み込んで、とにかく「これは!」と思った物を手に入れ、または廃れさせぬよう自ら動いて後押しする、能動的で行動的なところが特徴的だ。最後の1編では自分が守ろうとしている場所に立ち入ろうとする悪徳鑑定人を一喝するほどの気負いをみせるほどだ。 そして作者が本書のような作品を綴ったのには恐らく佛々堂先生が溢す言葉にもあるように、昔なら常識とされたことが世代間の伝達が途切れてしまったために、物事を知らない人が多すぎることに危機感を抱いたからだろう。私も実は年配の方が常識と思っていることを知らないことに気付かされ、失笑を買うことがある。日本人が古来、その知恵によって生み出した機能美を21世紀に残すため、伝えるためにこの作品を著したと私は思ってしまうのである。 服部作品では約260ページと最も分量が少ないのに、実に濃厚で深みを感じさせる短編集。そして今まで服部作品で弱みとされていたキャラクターの薄さが本書の佛々堂先生で一気に払拭されてしまった。 これはまさに掘り出し物の逸品だ。 作家服部真澄氏が扱う主題からストーリー、プロットを丹精込めて練り込んだそれこそ一級の工芸品のような物語の数々である。 正直に告白しよう。 私は本書が服部作品の中で一番好きな作品である。既に手元にある続編を読むのが非常に愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人にとって家族とは何なのだろうか?
そして人にとって死に際に何が胸に去来し、そして残された者たちはその人にしてやれる最良の事とは一体何なのだろうか? 『容疑者xの献身』で直木賞を受賞し、ミステリ界のみならず出版界全体の話題になった後の第1作目。それはもう1つのシリーズ、加賀刑事物の本書だった。 そんな期待値の高い中で発表された作品はそれに十分応えた力作だ。 まず驚くのは最初に出てくるのは加賀恭一郎ではなく、父親の隆正であり、しかも病床にいて明日をも知れぬ命だという状況。しかも彼の世話をしているの甥の松宮という警察官。 そして場面は変わり、いきなり登場人物は照明器具メーカーに勤めるサラリーマンの前原昭夫のある1日について語られ始める。 家族を省みず、なんとなく結婚した夫婦で一人息子と実家をリフォームした家に帰る日々。中学生の息子とは会話もなく、しかも痴呆症を患った母親の世話で妻はストレスを溜めている。 そんなどこにでもある、会話や家庭の温かみのない冷え切った家庭で、もはや父親は給料を運んでくるだけの役割でしかない一家に訪れる突然の災厄。 それは息子が幼い児を家で殺害したという事件だった。 そしてその後の夫婦の会話、息子の実に自分勝手な言い分が繰り広げれ、読み進めば進むだけ、この一家に腹を立て、あまりの自分勝手さ、特に妻の八重子の言動の独善さに、救いようのなさに情けなくなってくる。 読む最中、様々な思いが頭を駆け巡る。 まず本書が中学生による幼女殺害事件、即ち未成年による犯行だということだ。東野圭吾氏は未成年によって我が娘を蹂躙された上、殺害された父親の側からの復讐を描いた『さまよう刃』という何とも遣る瀬無い作品があるが、本書では逆に殺人を犯した未成年の息子をどうにか捜査の手から守ろうと奮闘する普通の家庭を描いている。 但し東野氏は今回を同情の余地のある犯行とせず、犯罪者の直巳をあくまでどうしようもない身勝手な社会不適合者とし、さらにその愚息を守ろうとする母八重子も実に身勝手で自己中心的な人物として描き、読者に感情移入をさせない。 更に犯行隠蔽のために父昭夫が思いついたあるトリックは先の『容疑者xの献身』のそれの変奏曲と云える。 もしかしたら本書は『容疑者xの献身』の批判的な意見に対しての作者なりのアンサーノヴェルなのかもしれない。 慎ましいながらもひとかどの幸せな家庭を築き、息子を立派に就職させ、家庭も持たせ、孫も生まれ、もう一人の娘も無事結婚し、奮闘しながら立派に生活している。 そんなごくごく普通の人生を歩んできた老婆が認知症の夫を介護し、痩せ衰えながらもその最期まで看取ることが出来、その後は息子の家庭に引き取られることになったが、そこで直面した息子夫婦の家庭は何とも冷え切り、温かみのないことか。 そんな環境で人生の最期まで過ごさざるを得なくなった老婆がよすがとしたのは幸せだったころの想い出とその品。 そしてもはや人として大事な物さえ失いつつある息子夫婦のまさかの行為。 老婆の想いはいかほどのことだったのだろう。 しかし善悪や好き嫌いで単純に割り切れない、長年連れ添った家族の絆という人生の蓄積が人の心にもたらす、当人しか解りえない深い愛情に似た感情を、東野氏は加賀の父親との関係を絡ませて見事に描き切った。 今までのシリーズで断片的に加賀と父親隆正の不和は加賀の若い頃にあった父の母親に対する仕打ちが原因だということは語られていたが、本書では松宮という正隆の甥でしかも同じ警察官の目を通じてその根が思いの外、深いように知らされる。しかし最後の最後で上に書いた当人同士しか解りえない絆や理解を披露してくれたことで、この陰鬱な物語が実に心が晴れ渡るような読後感をもたらしてくれた。 こんなたった300ページの分量で、しかもどこにでもありそうな事件からどうしてこんなに深くて清々しい物語が紡ぎ出せるのか。 東野圭吾氏はまだまだ止まらない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書こそローレンス・ブロックという作家の名を世に知らしめ、そしてマット・スカダーシリーズを一躍人気シリーズにした作品だ。私立探偵小説大賞受賞作。
ブロック作品では常に印象的な登場人物が出てくるが、本書ではコールガールのヒモ、チャンスの造形が実に素晴らしい。 娼婦のヒモから想像するのは口から先に生まれてきたようなチンピラ風情だったり、暴力で女を支配するような男や自分は稼がず、女にヤクをさせて廃人になるまで働かせるような人非人、または酒に溺れた自堕落な男を想像するのが相場だが、ブロックはチャンスを黒人実業家のような洗練された男として登場させる。そして感情を波立たせることを滅多にせず、常に冷静に物事を考える男として描く―この性格を自動車の運転の描写だけで読者の頭に浸透させるブロックの筆の素晴らしさ!―。 またマットはAA(アルコール中毒者自主治療協会)の会合に出席するようになっていた。 前作まではアル中であることを認めなかった彼は事件を通じて知り合ったジャン・キーンと苦い思いで別れたことが堪えたのかもしれない。ただマットは皆の話を聞くだけで自分のことは何も語ろうとはしない。キムが死んだその夜も集会に出て、色々な思いが去来し、誰かに話したい衝動に駆られるが、出てきた言葉はいつもの通り、「今日は聞くだけにします」だった。 しかしマットの禁酒はキムの死を知ることで途絶える。そこからはアル中独特の“都合のいい解釈”で歯止めが効かなくなり、ついには意識不明の状態で病院に運ばれてしまう。 これまでの作品でマットは酒を浴びるように飲みこそすれ、入院するまで酷い事態には陥らなかった。記憶を失くすことはあっても、翌日二日酔いで頭痛と酩酊感に苛まれながらも、生活は出来ていた。 しかし本書では前後不覚の状態に陥り、しかも全身痙攣しながら病院に運ばれ、ドクターストップまでかけられるという所までになる。エレインの友人キムの死がマットに与えたショックの重さゆえか。たった数日間の付き合いだったマットは前述のジャンとの別れの辛さを引き摺り、人恋しかったのかもしれない。そこに現れたキムが、やり直しの相手と映ったのかもしれない。 そして自分を取り巻く人から記憶喪失の際の自分の言動を知らされ、マットは戦慄する。今までアル中ではなく、単なる酒好きの酒飲みだと思っていたマットは初めて自分が重度のアル中であると自覚せざるを得なくなる。 そう、チャンスの依頼を受けることは自身の再生へのきっかけ、決意表明なのだ。この隙のない物語構成の妙。こういう所に唸らされる。なんて上手いんだ、ブロックは! 作中、市井の事件がマットが毎朝読む新聞の記事から挙げられる。それはどれもが奇妙な諍いの記事。どこかで誰かが誰かを傷つけ、また争っており、そこに死が刻まれている。 キムの事件を担当する刑事ジョー・ダーキンと酒場でお互いが見聞きしたそれらの事件を挙げ合う。そして最後にジョーは昔あったTV番組を挙げる。“裸の町には八百万の物語があります。これはそのひとつにすぎないのです”それは警官たちにとっては八百万の死にざまがあるだけなのだという言葉で締め括られる。 その後マットはその言葉を意識し出す。新聞を読むたびに出くわす不条理とも云える死にざま。単なる比喩としか思えない八百万もの死にざまは、マットの中で本当にそれだけの死にざまがあるのではないかと思えてくる。 そんな八百万の死にざまのうち、マットが扱うのはキムの死は1つにしか過ぎない。八百万のうちの1つにしか過ぎないのだが、その1つは自分にとって途轍もなく大きな意味を持っているのだ。 また本書では今までのシリーズと違うことが2つある。 1つは今までの事件は過去に起きた事件を掘り起こすことがマットの依頼だったのに対し、今回の事件は進行形で起きることだ。依頼人だったキムの死から始まり、彼女のヒモ、チャンスが抱える街娼の1人サニー・ヘンドリックスの死、そしてクッキーと云う名のオカマの街娼の死と続く。 連続殺人鬼を扱いながら過去の事件を題材にしたのが前作『暗闇にひと突き』なら、本書では連続殺人事件そのものをマットが扱う。前作が静ならば本作は動の物語であると云えよう。 もう1つは上にも書いたが本書では前作『暗闇にひと突き』で登場したジャン・キーンが登場することだ。今までのシリーズでは警官のエディ・コーラーを除く全ての登場人物がスカダーにとって行きずりの人々だったが、このジャンは初めてスカダーの心に巣食う忘れえぬ人物として刻まれている。 そしてスカダーは本書で初めて禁酒を行うが、ある時暴漢に襲われ、過剰な暴力で撃退し、酒にまた救いを求めようとする。しかし以前酒に飲まれた彼はそれを心の底から怖れるのだ。そして彼が見出した唯一の救いの光がジャンになる。 このシリーズに広がりが生まれた瞬間だ。 最後の一行に至り、これは実はマットの自分との闘いの物語だというのが解る。 上に書いたようにマットは今回毎日の如くAAの集会に参加する。しかしそこでマットは参加者の話を聴きこそすれ、自分の話は決してしない。いつもパスしてばかりだ。酒を飲んで入院し、一命を取り留めた後では自分がいつまた酒に手を出して、今度こそ助からなくなるのではないかと恐れている。事件の捜査はマットが酒に手を出す時間をなくすための手段にすぎないのだ。 つまり本書はニューヨークという大都会に溢れる八百万の死にざまと1人の男の無様な生き様を描いた作品だったのだ。 今までこのシリーズ1冊に費やされたページ数は270ページほどだったが、本書は480ページ以上にもなる。つまりマットが自分の弱さに向き合うのにそれだけの物語が必要だったのだ。 正直私はこの最後の一行がなければ評価は他の作品同様7ツ星のままだった。 しかしこの最後の一行で物語の真の姿とマットが抱えた苦悩の深さが全て腑に落ちてきたことで2つ上のランクに上がってしまった。 幾度となく物語に挟まれるAAの集会のエピソードが最後これほど胸を打つ小道具になろうとは思わなかったが、そんな小説技法云々よりもやはりここはマットが今までのシリーズよりもさらに人間臭いキャラクターへと昇華したことが本書をより高みへ挙げたことになるだろう。 さて本書で鮮烈な印象を残したヒモのチャンスは子飼いのコールガールを次々と失う。ある者は自殺し、ある者は仕事から足を洗うために旅発ち、ある者は夢を実現するためにチャンスから離れる。チャンスは廃業し、美術鑑定家として新たな道を歩き始めようとする。恐らく彼は今後のシリーズでマットの前に再び姿を現すのではないだろうか。 自分の弱さを認めたマットは無関心都市ニューヨークの片隅で起きる事件に今後どのように関わっていくのか。今まで人生の諦観で自分を頼る人たちに便宜を図っていた彼が自分の弱さと向き合いながら事件とどのように向き合うのか。 さらに評価が高まっていくこのシリーズを読むのが楽しみで仕方がない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人生を変えた1冊とは通常読み手が出逢った本の事を指すが、東野圭吾氏は本書を著すことで長年逃していた直木賞に輝き、一躍ベストセラー作家に躍り出て人生を変えた。
そしてまたそれまで東野作品の読者ではなかった私が彼の作品を読むことを決めたのもこの作品だった。 その作品が探偵ガリレオこと湯川学が主人公を務めるシリーズ初の長編作品だったのはその後のこのシリーズの在り方を変えたのかもしれない。 短編集で始まった探偵ガリレオシリーズは人智を超える超自然現象としか思えない事件を現代科学の知識と理論で湯川学が解き明かすというのがそれまでの作品の趣向だったが、初の長編では湯川に匹敵する天才をぶつけ、一騎打ちの構図を見せる。 天才科学者と天才数学者の戦い。論理的思考を駆使する男とこの世の理を知る男。最強の矛と最強の盾の戦いはどちらに軍配が上がるのか。 しかしこの戦いは非常に哀しい。 それは湯川が唯一天才と認めた石神と再会した時の語らいが実に濃密であるからだ。このシーンがあるからこそ2人の先にある運命の悲劇を一層引き立てる。 天才数学者の石神は事件の捜査過程を予測し、警察の捜査の常に先を行く。それはさながら高度な詰将棋を見ているかのようだ。 しかしそんな鉄壁の論理の牙城を崩すのは意外にも当事者の情。計算式では表せない感情の縺れだった。この件については後に述べよう。 しかしなんという、なんという献身だ。 正直今まで愛する人のために自らを捧げる献身の物語は東野作品にはあった。『パラレルワールド・ラブストーリー』に『白夜行』、これらを読んだ時もなんという献身なのかと思った。 そしてそんな献身の物語を紡ぎながらも敢えて「献身」の名をタイトルに冠したこの作品の献身とはいかなるものかと思ったが、そのすさまじさに絶句してしまった。 論理を至上のものとした2人が行き着くのはなんと論理を超越した感情だったというのは何とも皮肉だ。 いやだからこそこの物語はそれまでの東野作品が適えられなかった直木賞受賞と大ブレイクをもたらしたのか。 『名探偵の掟』で本格ミステリを揶揄した後に発表された探偵ガリレオシリーズは最先端の現代科学の知識で犯罪を論理的に解き明かすという紛れもない本格ミステリだった。 つまり自身で本格ミステリに対する高いハードルを設定したのが『名探偵の掟』であり、そのハードルを超える敢えて挑んだ本格ミステリが探偵ガリレオシリーズだった。 そして東野ミステリのもう1つの軸が『人の心こそが最大のミステリ』とする流れを汲む諸作品だ。トリックやロジックではなく、心を持つ人だからこそ起こり得る運命の悪戯や人生の機微を物語のスパイスとして紡ぐ『宿命』から連なる一連の作品群。 これら東野ミステリの2つの軸が融合した結晶が本書になるのだろう。つまり本書はそれまでの東野ミステリのある意味集大成というべき作品と云えよう。 ただ東野氏が凄いのはブレイクを果たした本書が作家人生の頂点ではなく、それ以降も続々と面白い作品を放っていることだ。本書で初の『このミス』1位を獲得し、そのたった4年後にもう1つのシリーズ加賀恭一郎作品『新参者』で1位を再び獲っているのだから畏れ入る。 そもそもは素行の悪い元夫から逃れるために起こした殺人事件が端を発した哀しい事件。事件そのものは靖子が富樫と云う男と結婚したことから始まったのかもしれない。 東野氏は一度誤った人生は容易に取り戻せないと諸作品で語るが、本書もその1つである。 しかしこれほど哀しい物語に対して本書が本格ミステリか否かという一大論争が起きたことが実に馬鹿馬鹿しい。 本書は推理小説なのだ。それ以下でも以上でもないではないか。 暇人だけがジャンル分けに勤しんでいる。もっとこの作品を超えるような作品を切磋琢磨して世のミステリ作家は生み出してほしいものだ。それが作家としての本分だろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2000年代のミステリシーンを代表する作家となった伊坂幸太郎の、奇想天外なデビュー作。
しかし奇想天外でありながらこの上なく爽やかで、そしてヤバい。 数あるミステリを読んできたが、人語を話し、未来を予測する能力を持つ案山子が殺される事件を扱ったミステリはまさに前代未聞だ。 それを筆頭に嘘しか云わない画家、園山や島の秩序を守るために殺人が許されている桜と云う男。天気を当てる猫に、300キロを超える大女など不思議の国に迷い込んだかの如き世界が繰り広げられる。 こういう風に書くとディキンソンのような過剰に異様な世界ではなく、牧歌的で寓話的なところが特徴的だ。案山子が優午と名付けられ、少し先の未来を予見できることが普通の日常として受け入れられるような普通に満ちた世界が荻島にはある。 この荻島と云う不思議の国の成立ちまでも伊坂氏は細やかに設定している。 150年もの間鎖国状態であり、独自の秩序で生活されている荻島という孤島。しかし鎖国状態でありながら、腕時計や洋服、車も走っており、どこか胡散臭さを感じる、テレビのセットのような作り物めいた世界を感じさせるこの島はその由来を伊達正宗の時代にヨーロッパへ渡った支倉常長によって隠密裏にヨーロッパと交易を成すために開かれたとされている。 さらに言葉をしゃべる優午の成立ちさえも時代小説の体裁で語られるのだ。それはお伽噺のようなエピソードであるが、その物語の強さを感じるお話には妙な求心力がある。 そんなゆっくりとした時間が流れる荻島でも犯罪はある。婦女強姦から弟殺しと云った残酷なエピソードも挿入される。 それはどこか「桜の木の下には死体が眠っている」という言葉のような、至極平和な生活に潜む闇のように。それら犯罪者に引導を渡すのは警察ではなく、桜と云う名の殺し屋だ。人を殺すことを認められたその男は寧ろ日常は異常な世界と共存して成り立っているのだと我々に知らしめているようにも取れる。日常生活を営む中で、我々が食む牛肉や豚肉を生産するために、知らない所で屠殺が行われているという惨たらしい事実のように思える。 対象的に極悪非道的な恐ろしさを見せるのは伊藤が逃げた仙台で元同級生で警官の城山のパートだ。 警官でありながらも人間の偽善性を試すように一般人の日常を暇つぶしに蹂躙する非情さを持っている。しかも感情で心を乱すことはなく、冷静かつ冷徹。城山によって囚われの身となった伊藤の元彼女静香の言葉を借りれば、まさに無敵の存在だ。 そして物語の終盤、それまで伊藤の目を通して我々読者に島民たちの奇妙な振る舞いや行為がパズルのパーツが収まるかのようにカチカチとある一点に収束していく様はまさに壮観。 しかしなんという世界観なのだろう、この作品は。 こののどかな営みの中で起こる人の死は決して少なくないのにも関わらず、それをあるがままに受け入れ、日常が続いていく。それは一種、天藤真氏の作風にも似ている。 そしてただ単純に穏やかで平和な世界ばかりが描かれるわけではなく、きちんと傷ましい事件や残酷な所業も挿まれる。それはこの世は決して綺麗事だけでは成り立っていないのだと我々に諭すかのように。 とにもかくにも島の住民日比野によって紹介される一種変わった島民たちのエピソードや過去、そして時折挟まれる伊藤の祖母の語りなどは実に示唆に富んでおり、日常生活で出来た心のささくれのどこかに引っかかってなかなか離れない。 それは教訓と呼ぶほどには説教じみてはないのだが、普通に過ごしていて忘れがちな約束事を思い出させてくれるかのような但し書きのように気付かせてくれるのだ。 名セリフに溢れた本書の中で私が最も印象に残ったのは優午が島唯一の郵便局員、草薙を評した言葉だ。 「彼は花と同じで、悪気がありません」 こんな文章に出逢うだけで私は何だか幸せな気持ちになってしまう。 物語の中で唯一暗い光を放つ存在、城山も静香を人質にして荻島に渡る。この物語の中で最もスリリングなのがこの城山のパートなのだが、実に爽快な始末の付け方を伊坂氏はしてくれる。 そして物語は唯一残った謎、「この島に足りない物」の謎を解いて実に気持ち良く終えるのだ。 ああ、まだ私の胸に留まる伊坂氏が残した歓喜を挙げたくなる嬉しさにも似た何かが心くすぐって堪らない。 なんと優しさに満ちた物語か。 なんと喜びに満ちた物語か。 こんな物語を紡ぐ作家が現れたことを素直に寿ぎたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人を殺すと云う事についてその意味を問う問題作だ。
ここでは二種類の殺人が描かれる。 1つは未成年の男性2人による、遊び半分で女性を襲い、クスリを打って強姦したはずみでの殺人。 もう1つは大事な愛娘を殺害された恨みを晴らすための殺人。 どちらも人を殺すことでは同じながらもその動機は全く以て異なる。 今まで数々のミステリが書かれる中で、数多く書かれた復讐のための殺人について、改めて実に遣る瀬無い理由によって殺人を犯そうとすることの意味を問う。 物語は長峰が菅野快児を探す物語と長峰を追う警察の捜査の模様、そして菅野にいいなりになって犯罪に加担した中井誠の3つの視点で語られる。 長峰のパートでアクセントとなって加わるのが丹沢和佳子という女性だ。長峰が菅野捜索の過程で滞在するペンションの経営者の娘だ。しかし彼女には最愛の息子を目を離した隙に公園の滑り台から転落させて亡くしたという位過去を持ち、その事故が原因で離婚をし、いまだに哀しみから抜け切れない日々を送っている。その彼女が長峰の協力者となり、一緒に菅野快児を探す手伝いをする。 この彼女の心情が実に上手い。同じ子供を亡くした親同士という共通点があり、片や事故で亡くしながら、その割り切れなさで蟠りを抱えて生きている。そこに娘を非人道的な所業によって殺害された男が犯人に復讐するという目的を持って現れる。それは彼女にとって長年抱えていた蟠りを別の形で晴らすことに繋がると見出したのだろう。 しかし殺人はよくないという理屈と感情のせめぎ合いの中で半ば衝動的に手を貸す、心の移り変わりが、決して明確な理屈で語られるわけではないのだが、行間から立ち上ってくるのだ。 尤も、彼女が長峰に協力しようと思ったのは実の息子を幼くして亡くしただけではない。彼女は長峰の娘が犯人に凌辱されるVTRを目の当たりにしたからこそ、ただ同情するだけではなく、何が正しいのか見つけるために行動したのだ。 そのことを父親へ告げる408ページの台詞を私はすっと読み流すことが出来ずにしばらく何度も噛みしめてしまった。 毎日報道される数々の事件。それらをただのニュースの一つとして捉えて、我々は時に関心を持ち、職場や家族で話題にしながらも数分後には次の話題に移っている。 それは無関心というわけでなく、事件そのものを深く知らないからゆえに他ならない。新聞でたった数行で語られる事件、TVのワイドショーで数分取り上げられる事件の中枢を知らないからこそ、毎日を平穏に過ごせるのかもしれない。 事件の本質を知らされると世間がどうなるのか? 本書では長峰の手紙が公開されて、世論は長峰擁護に傾くようになる。長峰の邪魔をするなと警察に多くの抗議の電話が鳴り響くようになる。 法治国家だからどんな理由であれ、殺人はよくない、こんなことを許せば秩序が無くなる。確かにそうだろう。 しかし犯人が我が子になした悪魔のような行為を見ると果たして誰もがそんな言葉を口にするのを躊躇うことだろう。 作中、長峰がこう述べる。「法律は人間の弱さを理解していない」と。秩序を守るために論を以て判断し、判定を下すのだ。人の命を奪うのではなく、罪を憎んで人を憎まず、更生させてその人の人生を変えるのだと。 しかし長峰が云うように残された遺族はそこまで大人になれない。人間が感情で生きる動物だからこそ、そんなに簡単に割り切れないのだ。 1+1は確かに2だろう。しかしその1はそれぞれ過ごした時間と関わった人によって込められた背景がある。だから人間関係とは1+1は2ではなく、3にでも5にでも、10でも100や1000にもなり得るのだ。 長峰は復讐を成就できるのか。 それとも菅野が先に警察に保護されるのか。 ただこんな二者択一のような単純な構図の物語においても東野圭吾氏はサプライズを忘れない。 長峰事件の後、辞職願を出して退職した久塚は最後にこう述べる。我々警察は市民を守っているのではなく、不完全な法律を守っているのだ、と。 これはまさに東野圭吾氏が持っている考えそのものではないだろうか。 それは殺人という行為についてこの頃の東野氏は色んなアプローチで語っていることからも推察される。 『手紙』では殺人を犯した兄が被る弟の人生について語り、『殺人の門』では折に触れ人生を狂わされる男がその張本人に殺意を抱き、その最後の境界線を越えるまでを描いた。そして本作では2種類の殺人が描かれる。 1つは家庭も持ち、仕事もありながら、周囲に迷惑をかけることを解りつつも亡き娘の為に敢えて殺人を犯そうとする男。 もう1つは自らの快楽の為に心が壊れるまで蹂躙し、寧ろ死ぬことで自らの犯罪が露見しないことを悦ぶ獣たち。 殺人と云う非人道的な行為を通じてこの2者が社会に下す裁きは全く異なる。前者は成人男性の為、刑法が適用され、後者は未成年ゆえにが少年法という保護下に置かれるからだ。 法によってその残虐な行為が軽減され、護られる者。法によって満足な裁きが成されず、最愛の者を亡くした哀しみを一生抱えなければならない者。そして法によって裁かれることで自身の復讐を重い刑罰で継ぐわなければならない者。 人は法の下では平等であるというが、何とも虚しい響きだと感じてしまう。このような胸に残る割り切れなさを表したのが久塚の言葉であり、東野氏の言葉のように思えるのだ。 最愛の娘を亡くした恨みを晴らすために犯人を追う。この私怨を晴らす物語はハリウッド映画などで山ほど書かれた物語だ。 しかし東野圭吾氏にかかるとこれが非常に考えさせられる物語に変わる。それは通常アクション映画のような活劇ではなく、復讐を誓う一介のサラリーマンとそれを取り巻く警察、犯人、協力者たちが我々市井のレベルでじっくり描かれるからだろう。 つまりアクション映画のようにどこか別の世界で起こっている物語ではなく、いつか我々の狭い世間でも起こり得る事件として描かれているから臨場感があるのだ。 自らの正義を成就すべきか、それとも復讐のための殺人は決して許される物ではないという世の道徳を採るべきか。物語の舵を取った時からどちらに落ち着いてもやりきれなさが残ると想像される物語の行く末を敢えて選び、そしてそれを見事に結末に繋げるという作家東野圭吾氏の技量は改めて並々ならぬ物ではないと痛感した。 このような「貴方ならどうしますか?」と問われ、ベストの答が決して出ない、論議を巻き起こす命題について敢えて挑むその姿勢は単にベストセラー作家であるという地位に甘んじていないからこそ、読者もついていくのだろう。 さて次はどのような問題を我々に突付け、彼ならではの答を見せてくれるのか。とにかく興味は尽きない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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かつて書評家諸氏より涙なくしては読めないと云われた冒険小説の傑作が本書。アリステア・マクリーンの代表作にしてデビュー作でもある。
ここにあるのは極限状態に置かれた人々の群像劇。筆舌に尽くしがたいほどの自然の猛威と狡猾なまでに船団を削り取るドイツ軍のUボートとの戦いもさながら、それによって苦渋の決断を迫られる人々の人間ドラマの集積なのだ。 総勢25名にも上る登場人物一覧表の面々についてマクリーンはそれぞれにドラマを持たせ、性格付けをしている。 故郷で待つ家族を爆撃で喪った上に、同じユリシーズ号で従業員として働いていた弟を喪った者。 社会の低層部でケチな犯罪者として生きてきた過去があり、艦長に叛乱を企てようとする不満分子。 自分の力不足に気付かず、そのプライドの高さと逸る功名心ゆえに部下の命よりも手柄を立てることを至上として部下の反感を買い、任務後に審問を掛けられ、降格を余儀なくされた者。 自分のミスで艦体のみならず乗組員を多数死なせて自責の念から自殺する者。 死と隣り合わせの場所でもはや正常な心を保つことさえ困難になり、ロボットのように索敵のために海をひたすら凝視する者。 自分の職責の重圧に耐えきれず、任務半ばで自我を喪失する者。 それら数多く語られる各登場人物の痛切なエピソードの中でとりわけ強烈な印象を残すのは一介の水雷兵ラルストンだ。 先の任務でユリシーズ号に同乗していた弟を亡くし、更には故郷に遺した母親と妹を空襲で亡くし、唯一残された父親を、自らの手で葬ることになる男。物語半ば過ぎで訪れる輸送船団の1つヴァイチュラ号の撃墜を躊躇う理由が明かされた時の衝撃は今まで読書歴の中でも胸にずっしりと圧し掛かるほど重いものだった。 また彼らの敵は当時最強と云われたUボートを率いるドイツ軍だけではない。それは自然だ。 北極海を航行する戦艦にとってその極寒の環境は生きることさえ困難であると云わざるを得ないほど過酷を極めている。 いつの間にか甲板に降り積もる氷。それは乗組員の足元を滑らせるだけでなく、戦艦たちに多大なる重量を与え、艦体にきしみを与え、航行のバランスをも崩す。除去しても除去しても上からのみならず、下方から乗り上げてくる荒波もまた氷の素となるため、乗組員は勝ち目のないレースを強いられる。 さらに風の驚異も凄まじい。氷点下の温度で空気中の水分が凍りついた海上では風は乗組員の肌を切り裂く刃と化す。そして強風は大波を起こさせ、右へ左へ薙ぎ倒すかのように揺さぶり、強固な鉄皮を軋ませ、疲労させる。もちろん中にいる人々は我々の想像を超えた船酔いの餌食となるのだ。 そんな苦難を乗り越えた乗組員を襲うのはドイツ軍の猛襲だ。コンドルという戦闘機が昼夜の境なく空爆を行い、船団はその勢力を削られていく。ユリシーズもさらに深手を負い、その船体に敵機をめり込ませた状態で航行を続ける。 そして彼らの一縷の望みを絶望に変えるのが無敵と呼ばれた当時世界最強の戦艦ティルピッツの影だ。この容赦なき敵の出陣の情報にもしかし、英国軍は援軍を送らない。 そんな四面楚歌状態で作者はユリシーズ号の属するFR77船団をどんどん過酷な状況に追い込んでいく。 とにかく過酷な状況の連続だ。 疲労困憊、満身創痍の船員たちに対し作者は徹底的なまでに嬲るかのように苦難を与える。そして惨たらしいまでの精緻極まる描写が拍車を掛ける。特に200ページ目前後で実に6ページに亘って描写される爆撃によって撃沈した空母から、流出し引火した油の混じる海へ投げ出された船員たちの死に様の凄惨さは、なんとも云いようがない苛烈さに富み、絶句するのみであった。 そして満身創痍なのは船員たちのみではない。巡洋艦ユリシーズ号もまた度重なる極寒の地の風雪に曝され、また相次ぐドイツ軍の急襲に遭い、その姿を変形させていく。 艦の姿が朽ちていくたびにまた船員たちも1人また1人と命を失くし、また五体満足ではなくなっていく。ユリシーズ号の姿はそれを操る乗組員たちの姿のメタファーとも云える。 そしてもはや航行すら危うい姿になりながらもユリシーズ号は任務を遂行せんと突き進む。出発時から既に病に侵された身でありながら任務に向かうヴァレリー船長はすなわちユリシーズ号そのものと云っていいだろう。手負いの虎の如く、最終目的地ムルマンスクに向け、突き進む。さながらそれは自分の相応しい死に場所である墓場に向かう巨象のようだ。 正直このような物語の結末は開巻した時から読者にはもう解っているようなものである。とりわけ精緻を極めた実に印象的なイラストが施された表紙画が饒舌に先行きを物語っている。しかしその来たるべき結末に至るまでの道行きが実に読み応えがあるのだ。 例えば本書に使われている単語には技術者の専門用語が多用されているのが特徴的なのだが、このマクリーン自身が巡洋艦にて勤務した経験の裏付けによるものだ。 更に過去の英国艦隊に纏わるエピソードと事実を交えることで、ユリシーズ号が、FR77艦隊がいかに不遇な状況であったのかを如実に知らせてくれる。 しかしそれらにも増して魅力的だったのはユリシーズ号、その他FR77船団の面々が見事に活写されていることだ。 上述のように極上の群像劇を実現した作者の経験に裏打ちされた乗組員の描写や性格付けは実に忘れがたい印象を残す。730名が住まうユリシーズ号という小社会にいるのは老いも若きも皆むくつけき船乗りたちであるが、その性格は十人十色。そのことについては既に上に書いているので重複を避けるが、特段煽情的な筆致でもないのにやたらと印象に残る輩が多く、彼らが1人また1人と去りゆくにつれて目頭が熱くなるのを抑えられなかった。 涙が無しでは読めぬとまではいかないまでも目頭は熱くなるであろう本書は確かに傑作であった。 海洋冒険物だから、戦争物だからと苦手意識で本書を手に取らないのではなく、昔の男どもの生き様と死に様を存分に描いたこの物語にぜひ触れてみてほしい。 |
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名アンソロジスト、クイーンの選出眼が光る名短編集第2弾。
まずその口火を切るのはバーバラ・オウエンズの「軒の下の雲」だ。 アリス・ホワイトウッドという女性の日記形式で語られるのは彼女が32歳にして職を得て、一人暮らしを始める顛末だ。しかしその細切れの文体はとても32歳の女性の物とは思えず、次第に彼女は自分が間借りする家の軒下に雲が発生しているのを目にする。そしてその雲は非常に心地よく、次第に彼女に何か煩わしいことが起きると雲が包み込んで紛らわせてくれるようになった。やがて新鮮な面持ちで始まった新生活も次第に暗雲が垂れ込めてくる。 恐らくは精神異常者による手記という形の本作。父親殺しを犯した娘が精神疾患で罪を免れ、リハビリによって社会復帰したところ、彼女は全治していなく、やがて周囲と不協和音を奏でていく。当時としては斬新なミステリだったのだろう。 トマス・ウォルシュによる「いけにえの山羊」は冤罪を仕掛ける男女の物語。 匿名の男女の犯罪計画から一転してホテルに勤め出した貧しい青年に物語はシフトし、やがて彼がなぜか周囲に疎まれ、犯罪者としての汚名を着せられる。その犯罪を計画した犯人が最後の一行で確定するという実にクイーン好みの結末だ。 謎めいた男女の逢瀬というシチュエーションやホテルを舞台にした物語と云い、どこかウールリッチを思わせる作風。 ジョイス・ポーターのドーヴァー警部シリーズと云えばその昔は名シリーズとされていたが、今ではもう絶版の憂き目に遭って見る影もない。そんなドーヴァー警部が登場するのが「ドーヴァー、カレッジへ行く」だ。 今読んでも十分に笑えるユーモア・ミステリ。本格ミステリに徹しているかと云われれば首を傾げざるを得ない真相だが、逆に笑いに徹しているミステリだと解釈すれば実に面白い。本当にシリーズ全てが絶版なのが悔やまれる。 寡作家とされるキャスリーン・ゴットリーブの「夢の家」は短いながらも一種味わい深い作品だ。 小さな町でお巡りをやっているおれの一人称で語られる20ページ足らずの作品だが、小さな町で小さな幸せを見つけようとした男女の哀しい結末が淡々と語られる。その何とも云えない味わいがいいのだ。 クイーンの紹介分によれば寡作家である彼女の作品は待つだけの価値があるとのことだが、確かにその言葉も頷ける出来栄えだ。 ブライアン・ガーフィールドの「貝殻ゲーム」はスパイ対殺し屋の手に汗握る攻防を描いた作品。 スパイと殺し屋の一騎打ちの攻防ながらそのテイストはどことなくユーモラスであり、ドキドキハラハラではなく、スラップスティックのような味わいをもたらす。ガーフィールドのこの作風もまた今に通ずる面白さがある。 この頃の作家は本当に上手い人が多い。なお題名はメキシコに伝わる3つの貝殻のうち、1つだけに豆が入っており、それを選んで当てるゲームに由来している。 E・X・フェラーズの「忘れられた殺人」もまた奇妙な味わいの作品だ。 本作ほどクイーンがこのアンソロジーで提唱する情況証拠というテーマを色濃く打ち出した作品はないだろう。 過去の事件の成り行きを語る人物が現れるが、彼は仄めかすだけで実際にそうだったとは決して云わない。しかしその語り口は明らかにそれが証拠だと云わんばかりの内容。そして最後に明かされる意外な事実。結末を読んで読者はさらに物語の靄の中に放り出されるのだ。 これもなかなか余韻が残る作品だ。 スティーヴン・ワズリックの「クロウテン・コーナーズ連続殺人」は本格ミステリを揶揄したような面白い作品だ。 次々と起こる殺人事件に被害者ならびに関係者の妙に凝った名前となぜか現場に散乱する品物の数々、そして脱力物の真相と本格ミステリをパロディにしたユーモア・ミステリ。 最後の結末もとどのつまり本格ミステリとは変人たちが集まったところで起きた化学反応みたいなものだという作者なりの皮肉なのだろう。 ハロルド・Q・マスアも聞き慣れない作家だが、「思いがけぬ結末」は展開の速いサスペンスフルな作品だ。 召喚状を貰わなければ即ち裁判にも行かなくてもいいわけで、数人の弁護士が召喚状を届けようとして失敗した相手に機転を利かせてまんまと手渡すことに成功する導入部から面白い。そして家庭の不和から始まった事件が次第に大きくなって複数の被害者を出すに至るという展開も上手い。 日本では全く知られていない作家だが、こういう作品を読むと海外作家の裾野の広さを思い知らされる。 収録作唯一のショートショートがアン・マッケンジーの「さよならをいわなくちゃ」だ。 たった6ページの作品だが中身は実に濃く、恐ろしい。 今でいうとアンファンテリブル物になろうか。予知能力のある少女がさよならを告げるとその相手が死んでしまう。彼女が悪いわけではないが、忌み子として周囲は少女を避けるようになるし、彼女を預かっている兄嫁はそれを辞めさせようとする。そして最後の衝撃的な結末。 秀作。 EQMMの常連作家エドワード・D・ホックは秘密伝達局のエージェント、ジェフリー・ランドが主人公を務める「スパイとローマの猫」が収録された。 短編の名手というだけあって、実にそつがなく、手堅い物語を提供してくれる。起承転結全てがしっかりしており申し分ない。たった約30ページの作品なのにサスペンスフルなスパイ小説を読ませてくれる。 アーネスト・サヴェージの「巻きぞえはごめん」は釣りの解禁日に訪れた地で事件に巻き込まれた私立探偵の話。 休暇中の探偵が巻き込まれる殺人事件。休暇中だから厄介事はごめんとばかりに無視しようとするが根っからの詮索好きと探偵の魂ともいうべき職業根性がどうしても事件を忘れようとしてくれない。そしてその後に起こる厄介事も解りながらも容疑者を助けてしまうお人好しさ。自分の馬鹿さ加減に嫌になるといった男の話だ。 リリアン・デ・ラ・トーレの「重婚夫人」は実際にあった事件に題を取った作品だ。 1776年4月にキングストン公爵夫人が重婚罪で裁判にかけられたことは史実のようで、本作はそれから材を得た物。 裁判の様子は現代のそれに比べれば非常に安直な気もするが、18世紀では法律も制度も未成熟だったのだからこんなものだろう。 本書は圧倒的不利と思われた裁判を覆す妙手も面白いが最後に判明するその妙手を授けた相手の正体が実に興味深い。結末はそういう意味では粋だ。 パトリシア・マガーによる「壁に書かれた数字」は『~コレクション1』にも収録された女性スパイ、シリーナ・ミード物。ただ本作は10ページと非常に短い。それもそのはず、暗号解読に特化した作品だからだ。 暗号自体は特段珍しい物ではなく、数字に当てはまる乱数表なり解読のキーとなる物があれば解読できることは容易に想像が付くだろう。これはアイデアの勝利ともいうべき作品。 今では英国女流ミステリの女王として君臨するルース・レンデルも本書刊行時の1970年代後半では新進気鋭の作家だった。しかし既にクイーンの眼鏡には適っていたようで「運命の皮肉」が本書に選出された。 レンデルの長編はとにかく救いがないので有名だが、短編ではその救いのなさを切れ味鋭いどんでん返しとして扱い、読者を驚嘆させるのが非常に上手い。 本作では名作『ロウフィールド館の惨劇』と同じく最初の一行で主人公が一人の女性を殺したことを告白し、彼が殺人に至るまでの経緯とその犯罪計画の一部始終を語っているが、それがまた被害者の女性の性格を読者に浸透させ、また加害者の男性の心理を読者に悟らせることに成功し、またそれらが最後のどんでん返しの伏線となっている見事な技巧を見せてくれる。特に被害者の女性ブレンダの造形は人間観察に長けたレンデルならではのキャラクターでこんな女性が我々の生活圏にもおり、またそんな人ならするであろう行動が上手く物語に溶け込んでいる。 結末はまさに題名どおり運命の皮肉。原題は“Born Victim”、つまり「生まれながらの犠牲者」という意味でこれが虚飾の世界に生きるブレンダの本質を見事に示した物でこちらも素晴らしいがやはり読後感で云えば訳者の仕事を褒めるべきだろう。 最近その短編集が年末ランキングにランクインし、話題となったロバート・トゥーイだが、彼の「支払い期日が過ぎて」は非常に不思議な読み応えがあった。 奇妙な味というよりもよくもまあこのような発想が生まれるものだと感心してしまった。 とにかく借金の取立ての電話のやり取りから読者は変な感覚に放り込まれる。主人公のモアマンという男の想像力というか人をからかって煙に巻く遊び心は本作のように傍で見ている分には楽しいが当事者ならば憤慨してしまうだろう。そしてやたらと怪しい行動を取り、さも妻を殺害したように振舞い、それをだしに不法逮捕、名誉毀損で訴え、賠償金をせしめようという意図が最後に見えて納得する。 しかしその後の行動も非常におかしく、よくもまあこのような男と一緒に暮らせる女性がいるものだと首を傾げざるを得ない。とにかくモアマン氏はネジの外れた狂人か、もしくは周囲の理解を超えた天才詐欺師か? そしてこんな話を思いつくトゥーイの頭はどうなっているのか?色んなクエスションが浮かぶ作品だ。 ジャック・リッチーもまた最近評価が高まっている短編作家でミステリマガジンでも特集が組まれた。彼の作品「白銅貨ぐらいの大きさ」はいわば明探偵の名推理を皮肉った作品だ。 現場の遺留品とそれらの状況からヘンリーとラルフの殺人課刑事コンビが次々と推論を立てて事件の真相と犯人へと迫っていく。しかしそれはある意味刑事2人がそれらをつなぎ合わせて実にもっともらしい解答を案出しているに過ぎないのだと作者は揶揄する。 しかし作中で繰り広げられる推理問答は実に明白で淀みがなく、あれよあれよという間に事件の核心へと迫っていくようだ。 2つの事件の真相からつまりは事件は解決できても人の思惑までは明らかにならない物だという作者ならではの皮肉ではないだろうか?割り算のように答えが出れば全てOKと割り切れるものではない、そんな風に作者がメッセージを送っているように思えた。 さてサスペンスの女王パトリシア・ハイスミスは前巻では「池」という幻想的なホラー小説が収録されたが、本書収録の「ローマにて」のテーマは狂言誘拐だ。 なんとも救われない話。社交界というものがこんなにもつまらないものかと不満を募らせ、しかも容姿端麗の夫は妻がいる前で平然と他の女性と親しくし、またどこかへ消えてしまう。そんな彼女が一計を案じたのが夫の狂言誘拐。しかしお嬢様育ちの彼女は痴漢たちに出し抜かれ、自らも誘拐されてしまい、ひどい扱いを受ける。 作者はとことん主人公を突き落とす。 ジョン・ラッツの「もうひとりの走者」はよくあるサスペンスなのだが、作者の手によって味わい深い作品になっている。 人里離れた別荘地で知り合うようになった夫婦がどうも仲がよろしくなく、夫は何かに悩みを抱えているような苦悶の表情でジョギングをしている。そんな最中に起こる夫の死。もちろん犯人は今の生活に不満を持つ妻だったが、ジョン・ラッツが上手いのは主人公も同じ目に遭わせてちょっとしたトラウマを抱かせること。特に最後の一行の上手さ。この余韻は絶妙だ。 多作でエンタテインメントの雄であるドナルド・E・ウェストレイクの作品も収録された。「これが死だ」はなんと幽霊が主人公の物語。 幽霊が自分の自殺が発覚した捜査とそれを発見した妻の振る舞いの一部始終を観察するという実に奇妙な一編。何とも云えない余韻が残る作品だ。 デイヴィッド・イーリイもまた最近評価が高まっている短編の名手だが、その実力を「昔にかえれ」で発揮した。 前世紀の不便ながらも生き甲斐に満ちた生活を始めた彼ら。最初は精神的充足を求めての行為だったが、次第に周囲の目が向くことで彼らの自意識が過剰になっていく。しかしそれにも増して世間は彼らを見世物パンダのように興味津々に見物しだし、彼らの生活圏を侵していく。そして行く着く結末はなんとも皮肉だ。 人間の集団心理が生み出す残酷さを実にドライに描いている。 ビル・プロンジーニの「現行犯」もなかなか面白い作品だ。 この短編における、男が盗んだものはある意味リアルすぎて怖い。 単なるワンアイデア物の短編に終わらない考えさせられる内容を孕んだ作品だ。 さて最後はEQMMの常連で別のアンソロジー『黄金の13』にも選ばれたスタンリイ・エリンの「不可解な理由」だ。 当時ならばこの内容は非常に斬新だったのだろうが、企業小説が華々しい現代ではもはや珍しい物ではなくなった。実際の会社はこの小説よりももっとえげつないやり方で肩叩きを行う。とはいえ結末は衝撃的。 さすがはエリンといった作品だ。 前回のコレクションに続くパート2という位置づけだが、原題は『~コレクション1』が“Ellery Queen’s Veils Of Mystery”、つまりミステリと云うベールを剥がす作品を集めた物であるのに対し、本書は“Ellery Queen’s Circumstantial Evidence”つまり情況証拠をテーマにしたアンソロジーなのだ。 そのテーマ通り、収録作品は情況でどのようなことが起きているのか、もしくはどんなことが起きたのかを推察する作品ばかりだ。 そしてその情況証拠のために登場人物は恣意的な解釈を行い、ある者は強迫観念に囚われて狂気に走り、ある者は不必要な心配を重ねて自滅の道を辿り、またある者はその後の人生にトラウマを抱え込む。ことに情況証拠とはなんとも厄介な物であることが各作家の手腕でヴァリエーション豊かに語られる。 しかしこれは今この感想を書くに当たり、原点に振り返ったから思うのであって、収録作品は我々が読むミステリとは特別変わりはない。つまりミステリというものは情況証拠によって成り立つ物がほとんどだということだ。 さてそんな2巻両方に収録されている作家はパトリシア・マガー、パトリシア・ハイスミスの2人。ビル・プロンジーニも1ではマルツバーグとの共著で選ばれている。他にスタンリー・エリンは『黄金の13』に選出されている。 一概に云えないがこれらの作家の作風は選者クイーンとは真逆の物ばかりということだ。彼ら彼女らの作風はもしかしたらクイーンが書きたかったミステリなのかもしれない。 さて本書の個人的ベストは「夢の家」。この小さな町のお巡りの一人称叙述で語られる叙情溢れる物語は短編映画を観たような味わいを残す。 さらに題名である「夢の家」の本当の意味が最後に立ち上ってくる余韻はなんともほろ苦い味わいを放つ。 またこんなの読んだことないと思わせられたのはロバート・トゥーイの「支払い期日が過ぎて」。とにかく主人公の狂人とも思える会話の応対は読者を幻惑の世界へ誘い込む。シチュエーションはローンの取り立てとその債務者の会話というごく普通なのにこれほど酩酊させられる気分を味わうとは。とにかく予想のはるか斜め上を行く作品とだけ称しておこう。 とはいえ、本書収録作品の出来はレベルが高く、読後も引き摺る余韻を残す作品が多い。 フェラーズの「忘れられた殺人」やレンデルの「運命の皮肉」、リッチーの「白銅貨ぐらいの大きさ」にハイスミスの「ローマにて」、ラッツの「もうひとりの走者」とウェストレイクの「これが死だ」にイーリイの「昔にかえれ」と最後のエリン「不可解な理由」などは割り切れない結末であり、非常に後を引く。 1巻と比べると評価はどちらも高いが、2冊が抱く感想は違う。 1巻は最初はそれほどの作品とは思わなかったのが読み進むにつれてしり上がりによくなっていたことに対する評価であり、本作ではクオリティが全て水準以上であり外れなしといった趣である。しかし残念ながらミステリ史を代表する抜群の作品がなかったことが☆9つに留まる理由である。 しかし今現在この短編に収められている作品が読める機会があるだろうか? 収録された作家はかつては日本でも訳出がさかんにされ、書店の本棚には1冊は収まっていた作家が多いが、平成の今その作品のほとんどが絶版状態で入手すること自体が困難な作家ばかりである。 そんな作家たちの、クイーンの眼鏡を通じて選ばれた作品を読める貴重な短編集である本書はその時代のミステリシーンを写す鏡でもある。再評価高まるクイーンの諸作品が新訳で訳出されている昨今、この時流に乗って彼の編んだアンソロジーもまた再評価が高まると嬉しいのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ひたすら切ない物語。
いったいどうしてこんなことになったのか?犯罪者の周囲を取り巻く人々、とりわけその家族の姿を描いた作品。 中心となるのは2人。兄弟2人で貧しいながらも暮らす武島剛志とその弟直貴。 人生の歯車が狂ったことで殺人するに至った武島剛志は状況の犠牲者であり、必ずしも悪人ではない。ただ生活が苦しかっただけなのだ。 そして人一倍の弟想いで弟の大学進学のために、輝ける明日のためにお金が欲しかっただけなのだ。 そんな兄の想いが犯罪という結果になり、それゆえに弟を苦しめることになるという運命の皮肉。この身のよじれるようなどうしようもなさが読んでいて非常に辛い。 その弟直貴はいつか大学を出て一流のメーカーに就職し、自分の知識を活かして世の中の役に立つ物を創ることを夢見ていたが、実際は毎日リサイクル会社で毎日資源ゴミにまみれている。 どうしてこんなことになったのか?こんなはずではなかったのに。 折に触れ殺人者の弟というレッテルが付きまとう。 担任の先生に紹介された居酒屋のバイトではどんな雑用も嫌がらず一生懸命に働き、店長にも気に入られるようになりながらも、その事実が判明すると辞めざるを得なくなったこと。 思いもかけない歌の才能を友人に見出され、メジャーデビューを目前にしながらもスキャンダルを恐れ、メンバーから外されたこと。 良家の御嬢さんの彼女が出来ながらも兄の手紙で全てが明るみになったこと。 就職しながらも兄の事が判明すると望まない配置転換をさせられたこと。 結婚し子供も出来、ようやく人並みの幸せを掴んだと思った矢先にまた周囲から遠ざけられるようになったこと。そしてその累がわが子までに及ぶようになったこと。 それらの節目節目で現れるのが兄剛志からの手紙。 家族からの手紙。本来ならば暖かい物なのに、直貴にとっては殺人者の兄剛志からの手紙は明るい未来を絶つ赤紙に他ならない。兄からの手紙が直貴の、人並みの生活をしたいという希望を挫くのだ。 この切なさはなんだろう? しかしまた手紙によって直貴は救われる。ある事件をきっかけに就職した会社で配置転換を命ぜられ、意気消沈していた直貴を奮起させたのもまたある人物からの手紙だった。 そして直貴が自分の手紙が服役中の兄の心を救うことに気付かされる。そして直貴が家族を守るためにある決断を下すのも手紙であり、また兄の真意に気付くのも手紙だ。 手紙と云う小道具で人の心を動かし、淀みなく物語に溶け込ませる。 本当に東野氏はこういうやるせない物語を紡ぐのが上手い。 本書ではこの犯罪者の弟というレッテルを背負って生きてきた直貴の人生に対して答えが与えられるわけではない。 読者はこの直貴の境遇に胸を傷め、いつか本当の幸せが訪れるよう、願いながらも読むが東野圭吾氏はそんなお伽噺などは存在しないとまでに現代社会に生きる我々一般人の狭い心、安心を得て何も起きない日常を望む我々が持つ犯罪への関わり合いへの拒否を繰り返し繰り返し語る。 では本書で語りたかった事とは何なのだろうか? 私は次のように考える。これはメッセージなのだ、と。 家族に突然犯罪者が生まれる。これは誰にも起こり得る事態だ。そんな加害者の家族に訪れる厳しい現実の数々を描くことで対岸の火事と思っている我々に色んな障害を突き付ける。そしてそれらの障害を作り出すのが他でもない我々なのだということを作者は静かに訴えているのだ。 また一時の気の迷いで犯した罪が自分だけでなく、残された家族にどれだけの負債を抱えさせるのかをも克明に教えてくれる。 世間は事件を忘れても、その関係者が身の回りに近づけばおのずと思いだし、距離を置こうとする。それは一生付き纏う呪いのようなものだ。本書はそんな警句の物語。 直貴が下した兄剛志との絶縁は恐らく読者の多くが望まなかった決断だろう。でもそうせざるを得ない状況が今の社会には歴然と存在する。 誰もが理解し合い、笑ってお互い助け合う社会、本書にも出てくるジョン・レノンの“Imagine”の歌詞のような世界はまだほど遠い理想郷でしかないことを作者は遠慮なく語る。 毎日ニュースや新聞で色んな犯罪が報道されている。殺人事件もまたしかり。そんなたった5行や数十秒で語られる事件の背景には直貴と同じ境遇の人間が生み出されているに違いない。 私は本書を読んで感動しなかった。とにかくずっと身がよじれる様な思いをさせられた。「そして幸せに暮らしましたとさ」なんていうエンディングが現実社会ではないことを思い知った。 本書にはカタルシスはない。しかし錘のようにずっしり残る何かはある。 決して赦されない罪があるということを知り、それを肝に銘じなければならない。 そして私はわが子が中学生になったら本書を読ませようと思う。まだ見ぬ社会の厳しさをまだ純粋な心が残っているうちに教えるために。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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第13回メフィスト賞受賞作の本書は当時破格の好評を以て世の本格ミステリファンに迎えられた。
シリアルキラー“ハサミ男”が自分の次の獲物が全く同じ犯行で何者かに殺されたことからもう一人のハサミ男を探す物語。 90年に流行り、半ば使い古された題材だったシリアルキラー、サイコパス物に新機軸を打ち立てた作品だ。 既に2名の犠牲者を出した連続殺人魔、通称“ハサミ男”が次なるターゲットを自らの犯行に見立てて殺した第2のハサミ男を探す。その一方で3番目の犠牲者を出した警察は躍起になってハサミ男を逮捕せんと全力で捜査に当たり、やがてその手はハサミ男自身にも及んでくるという、ハサミ男の正体を巡る警察と、模倣犯を探すハサミ男自身の捜査が同時並行的に語られる。そしてハサミ男が犯人を捜していくうちに第3のターゲットだった樽宮由紀子の隠された秘密が暴かれていくという、実に面白い展開。 とにかく中盤以降のリーダビリティは先が気になってもどかしく思ったほどだ。 物語の中心となるハサミ男は教育関係の出版物から通信教育業を手掛ける氷室河出版でアルバイトをしながら生計を立て、同社の顧客データから成績優秀な女子学生を選んで殺しの対象にするというシリアルキラー。しかし自殺願望があり、自ら有害とされるクレゾール石鹸液や殺鼠剤を買って服用して死のうとするが意識昏倒するだけで決して死までには至らないという情緒不安定な人物だ。 しかし冷静な頭の持ち主で警察の捜査をまんまと出し抜き、また自らの行動を客観視して自分の行動が他者に及ぼす影響や心に落とす印象を分析しながら行動する。 ハサミ男の正体が明かされる402ページは『十角館の殺人』を髣髴させるほどのサプライズだったことは証言しておこう。 そしてその後の展開はまさに目くるめくと云ったところ。 実にミステリの定型を裏切った物語だ。実に企みに満ちた作品だ。これが殊能作品の特徴なのか。 確かにこれは話題になるし、どこか麻耶雄嵩氏を髣髴とさせ、殊能氏が通常の新人とは一線を画す存在感を持つというのも頷ける。 さてそんな作者の殊能氏はどうやら洋楽ファンらしく、ところどころに挿入される洋楽アーティスト名とその楽曲が私にとっては非常に懐かしく、そんな小ネタに好感を持てた。 しかし昨今は2008年の短編以来発表が途絶えており、Wikipediaでも事実上引退と書かれていたが、その後2013年2月11日に亡くなっていたことが解った。 つまり私が本書を読んだ時には既にこの世にはいなかったのだ。 その存在は本格ミステリ史に確かな足跡を残したのではないか。本書はその功績に足る特異性を持った傑作と読後の今、強く思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アクション冒険小説の雄デイヴィッド・マレルの手による短編集。
意外や意外。内容は奇妙な味の短編集だ。 冒頭を飾る「まだ見ぬ秘密」はクーデターによって国を追われた某国の指導者のために腹心の部下が木箱を命令のまま運ぶという話。 マレルによる解説では本作は実話らしい。まさに現実は小説よりも奇なりである。 続く「何も心配しなくていいから」はホラーテイストの話。 娘を亡くした父親の狂気とも云える執念を描いた作品なのだが、それに加えて娘の霊が抱く恐怖の謎を上手く絡めている。この霊が存在することを前提にしているのが本書のミソだろう。この辺の仕掛けは実に上手い。 さらに娘を助けるために特別高圧電流の流れる鉄塔に登って娘を救おうとする父親の狂気の姿を描いた最後まで全く気が抜けない作品。上手いなぁ。 全編会話文で構成されているという特殊な作品が「エルヴィス45」。エルヴィスマニアの教授がエルヴィスの講義を開講したが次第に狂っていくという物語。 正直これはマニアックすぎてよく解らない作品だ。会話が次第に狂気を帯びていくことは解るのだが。 「ゴーストライター」はハリウッドの歪みを描いた作品だ。 冒頭のマレルの説明にモートと同じ境遇の脚本家がいたことが告白される。恐らくはその脚本家がモートのモデルなのだろうが、マレルの姓名を逆転させてもじったような名前なのが興味深い。 次は感動の一作「復活の日」。 マレル自身がライナーノーツで書いているように彼自身初めて書いたSF小説。放射能事故で現代医療では治す手立てのない父親を冷凍保存してその方法が確立する未来まで延命させるというのは使い古されたテーマだが、本書が特別なのは父親の維持費を払う遺された家族の苦難を詳細に、そしてドラマチックに描いた点にある。 本作に書かれたように残されたまだ女盛りの過ぎていない母親にとっていつ訪れるかもしれない“その日”のために一人息子を育て、孤独を凌ぐのは並大抵の苦労ではない。しかも法律上はその間でさえ夫婦であり、再婚さえできないのだ。 加えてその維持費。当初は事故を起こした研究所の負担だったが、世論が冷凍保存技術に疑問を投げかけるや、研究所はもはや可能性は無いとして維持費の支払いを拒否する。しかし父親の復活を信じるアンソニーは大学生ながら働いてその維持費を工面し、そして自ら父親の治療法まで編み出すのだ。 物語の設定はシンプルなほど素晴らしい物になるというが本書はまさにそのお手本のような作品だ。 プロットは別段珍しいものでもなく、恐らく誰もが思いつくような内容だが、シンプルさゆえに感動を誘う。これが個人的ベストだ。 次の「ハビタット」は低予算TVドラマ用にマレルが書いた脚本のようだ。とにかく主人公の女性の「約束が違う!」という狂気の繰り言と挟まれるブザー音とサイレンとが行間から実際に鼓膜に響き渡るようで神経的にもささくれ立ってくる作品だ。 世紀末の1990年代に“Millennium”という1900年代から10年代、20年代、と特定の年代を舞台に世界の終末を描くというテーマのアンソロジーのため、ダグラス・E・ウィンターという作家が様々な作家に依頼したそうだが、マレルがそのために1910年代をテーマに書いたのがこの「目覚める前に死んだら」だ。 最近新型インフルエンザで話題にもなったスペイン風邪の猛威をモチーフに作られた作品。次から次へ急速に広がっていく殺人風邪の恐ろしさをマレルは一医者を主人公に克明に描く。 パンデミック物はその見えない脅威という意味で鉄板の怖さを見せるが本書もまたその例外に漏れず、実に恐ろしい作品だ。 実際当時は死ぬか生きるかの瀬戸際で生き残った人々の意識に選民思想が浮かぶのもおかしくないほどのすごい病気だったことが解る。ここに書かれていることは決して誇張ではない。 そして一医者のスペイン風邪との苦闘の日々として描くことで実に読み応えがあった。そしてその医者も極限状態に曝され、狂気の淵に立たされてしまうのはマレルの持ち味か。 最後は表題作。 原題は“Rio Grande Gothic”。毎夜靴が道路に落ちている日常の奇妙な謎が恐ろしい殺人鬼兄弟の巣窟へと辿り着く。 読み終われば原題が的確に内容を要約していると感じるが、何が起こるか解らない発端を抑えた邦題もまた興味を誘う。しかし邦題は実にシンプルすぎてインパクトに欠けるか。 毎夜落ちている靴に関心を持った一警官が周りの理解を得ずに孤立していく様、そして家族が離れ、孤独の中、自分を信じて真実を追いかける様、危難に陥り、命を奪われようとする様など典型と云えば典型だが、読ませる。特に敵役の農場兄弟よりもヒーロー然としておらず、どこかどん臭く、不器用な主人公のロメロの方が狂気を感じさせるのが特徴的。 マレルといえば数々のアクション、スパイ物が有名で、その派手派手しい演出はあざといまでに映像化を狙ったような作品が多いが、短編では趣を変えた奇妙な味と云える不思議な味わいを持った作品ばかりだ。 とはいえ長編に比べると刊行されている短編集はわずかに2作。しかも1作目『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』は文庫化されておらず、単行本も既に絶版状態。従って彼の短編を読むには本書を読むことで渇望を癒すことになる(しかし本書も既に絶版状態なのが哀しい)。 さて収録された物語は歴史物、ホラーにSFとヴァラエティに富んでいるが、共通するのは自失と狂気の物語だろうか。しかもライナーノーツのように全編の冒頭にマレル自身による作品に関する説明が施されており、そのどれもが実際に彼の身の回りで見聞きし、経験したことがその作品のアイデアに繋がっているという中身となっている。 そして著者あとがきで語られるマレルの母親のエピソードが実に興味深い。決して幸せではなかった彼女の人生を目の当たりにしてきたマレルが幼少時代の彼の心に落としたのは何かを盲信しないと人は生きていけないという翳ではなかったか。 不幸な生い立ちを辿った母親に育てられ、成人して作家として成功しながらも最愛の息子を亡くすという大きな不幸に見舞われたマレル。そんな彼だからこそ一風変わった余韻を残す物語がこれほど生まれたのではないか。 特に息子を亡くしてからのマレルの作風はガラリと変わったと聞く。彼が襲われた最大の不幸のために彼の中に一種狂気に似た感情が宿ったに違いない。 ここに書かれた作品に登場する不屈の精神を持つ主人公たちはその執着心の強さゆえにどこか壊れた印象を受ける。 アクション物の長編では短い章立てでテンポよく物語を展開する作品であるが、短編ではじっくり書き込んで読み応えを促す真逆の作風であるのが特徴的だ。 そして長編のイメージを持っていた私はマレルがこれほどヴァラエティに富んだアイデアを持ち、濃密な話を書けるとは思えなかった。恐らく誰もが思うようにマレルは長編よりも短編の方が面白い。 こうなると『このミス』ランクインした前述の『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』の復刊が望まれる。どこかの出版社で文庫化してくれないだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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あの“ドーン・パトロール”のメンバーが帰ってきた!
いや、我々がまた彼らの許を訪れたというのが正しいのかもしれない。“ドーン・パトロール”、そして彼らが住んでいるサンディエゴのパシフィック・ビーチは読んでいる我々が再びその地を訪れたかのような懐かしい思いを抱かせる、不思議な雰囲気を備えている。 さて今回彼らが関わる事件は3つ。 メインはブーンがペトラから依頼される伝説のサーファーK2殺しの容疑者サーファー・ギャングの未成年コーリー・ブレイシンガムの、事件当夜の調査。 そして彼が請け負うもう一つの依頼が“紳士の時間”仲間のダン・ニコルズの妻の浮気調査。 そしてもう一つはジョニー・バンザイが関わる麻薬組織バハ・カルテルの抗争。 バハ・カルテルといえば先だって訳出された『野蛮なやつら』でベンとチョンとOが対決した麻薬組織だ。ん~、こんなところで彼らとブーンの物語がつながるとは、まさにファン冥利に尽きる演出だ。 さて今回ブーンは渋々ながらもペトラの依頼、世界中のサーファーが慕う伝説のサーファー、K2殺人事件の容疑者である金持ちの道楽不良息子のコーリー・ブレイシンガムの事件の真相を探ることでパシフィック・ビーチ界隈の人間はおろか、“ドーン・パトロール”のメンバーからも裏切り行為だとみなされ、四面楚歌状態に陥る。しかし調べていくうちにつまらないアホだと思えたコーリーの境遇を知るにつけ、彼もまた環境の犠牲者だったことを知る。 しかもみんなのアイドル、サニー・デイは前作のクライマックスでの大波のサーフィンで有名になり、プロサーファーとしてツアーに参加し、オーストラリアに行っている。理解者は友達以上恋人未満状態の弁護士補ペトラ・ホールのみ。 そんな状況からか仕事よりもサーフィンを愛する探偵ブーンが、今回はサーフィンよりも仕事優先と次第になっていく。コーリー・ブレイシンガム事件の再調査のお蔭で“ドーン・パトロール”のメンバーからは疎遠となり、その後に行われる“紳士の時間”のメンバーとの交流が増えていく。 この本書の原題にもなっている“紳士の時間”とは皆が仕事へ行った後、引退生活者や医師や弁護士、さらには実業家連中が集まるサーフィン時間のこと。つまり年齢的に上の連中、階級的にも上流階級の人間たちの集いだ。 さて前述した3つの事件がなんと複雑に絡み合って驚くべき事件の構図を描き出す。この辺のプロットが上手く組み合わさる味付けと云うか筆捌きは見事としかいいようがない。 また本書に散りばめられた薀蓄もまた読み応えがある。 地盤の話は私の職業にも大きく関わることで、熟知しているため、門外漢の読者にも解るように丁寧かつユーモアあふれる説明がなされていると感心したし、ボクシングと空手から始まった最強格闘技伝説が現在の総合格闘技までに至った経緯の話も楽しく読ませていただいた―グレイシー柔術の件はニヤニヤしながら読んでしまった―。 その中で最も恐ろしいと思ったのはタクシー運転手が空き巣を副業でやっている輩が少なくないといったエピソードだ。この一文を読んだだけでは恐らく多くの方が「?」と思うだろうが、何気ないタクシーの会話にその秘密が隠されていることを知り、戦慄を覚えた。いやあ、迂闊にタクシーの運転手とも会話ができないなぁと思わされたエピソードだ。 さてウィンズロウの描く物語は常々何らかの喪失感を伴うものだと感じていた。前作のブーンも変わらなく続く生活や仲間たちの関係が実は危ういバランスの上で成り立っていることを知らされた。 今回もブーンは色んな物を喪う。探偵とは事件の真相を解き明かす代わりに何かを喪うことだと某作家の作品にあったが、まさにブーンはそのものだ。 大人になると自分の信ずる正義よりも他者との調和を重視する方に傾きやすくなる。丸く収めることを美徳とし、信条を貫いて仲間に不快感を抱かせてまで真実を突き止めることを悪徳とする、組織に属するとなるとその傾向は顕著になる。 しかしブーンは敢えて茨の道を取った。何よりも代えがたい“ドーン・パトロール”のメンバーの不興を買っても、当事者の父親の納得を得ても、当事者のその後の人生を考えると妥協した自分がその後の人生で後悔しないか、自問を繰り返しながら生きることになるのではないかと思い、敢えて同調しない道を選ぶ。 彼を後押しするのは亡くなった被害者のK2の言葉。彼を知るからこそ彼の言葉が頭を過ぎる。 ウィンズロウは読者が永遠に続いてほしいと願う仲間たちとの付き合いや心から通じ合える恋人といった関係に躊躇わらずメスを入れる。前作もそうだったが南国のお気楽ムードで始まった物語は次第にブーンの周囲に不穏な影を差していく。 特に残り100ページから始まる殺戮や拷問の数々は作品のイメージをガラッと変えるものだった。 しかし今回はまさに再生を予兆させる終わり方である。 喧嘩のいいところはその後に仲直りできるところだ、そして喧嘩をするほど仲のいいというのは喧嘩をする前よりも本音で語り合える関係になるからだ。まさに本書はそんな爽やかな読後感を残してくれる。 最後に分裂状態だったドーン・パトロールの面々が一堂に会して浜辺で戦いを繰り広げる様は痛快以外なにものでもない。 全く上手いなぁ、ウィンズロウは。 それぞれに変化が訪れ、ドーン・パトロールのメンバーも以前のような関係にはならないかもしれないが、今回の苦境を乗り越えたその先が実に楽しみで今仕方がない。 また必ず彼らの住まうパシフィック・ビーチを訪れよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾氏の傑作の誉れ高い本書。ドラマ化され映画化もされたことでその評価の高さが窺える。
そして読後これは確かにそうされるべき題材だと感じた。 とにかく丹念に東野氏は描く。1973年から始まる動乱の時代とその時代の街並みを、その時代に生きた人々を。 東野氏は直接的に年代を書かないものの、その年に流行った、もしくは話題となった社会問題や芸能ネタを織り込んで時代を特定させる。 その時代を生きた2人の男女。物語はその2人を中心に語られる。 1人は桐原亮司。殺された質屋の息子。彼は学校では目立たない存在だが、プライヴェートではサイドビジネスをして、金を稼いでいる。最初は高校生の売春斡旋業、次にパソコンゲームの通信販売、そして何かトラブルが発生すると適切に処理をする。 もう1人は唐沢雪穂。母子家庭で育てられたが母親がガス事故で死に、その後親戚の養子となって引き取られる。生まれは大阪の下町ながらどこか気品があり、茶道に華道に英会話と女性としての自分を磨く。そして誰もが気になる美貌の持ち主でもある。 物語はこの2人の生い立ちを、小学校、中学校、高校とそれぞれの点描を語りながら進む。そしてお互いの人生に間接的にそれぞれの翳を滲ませながら。 それらの進行は実に訥々としている。その時2人の周囲に起こった大なり小なりの事件は決して解決されることはない。しかし断片的に語られる事件には過去に起きた事件に対するある手がかりがさりげなく溶け込まされている。このあたりの配し方が東野氏は実に上手い。 特に252ページの雪穂の章の最後の一行には鳥肌が立ったほどだ。そんなさりげない文章で東野氏は桐原亮司と唐沢雪穂という二人の男女の暗黒と恐ろしさを淡々と描いていく。 そしてこの2人には鋼の絆ともいうべき結束力がある。お互い人生の成功を夢見て、その道に立ちはだかる者を協力して排除していく。しかし二人が作中で出くわすことはない。 この物語運びに東野氏の技巧を感じる。 さらにすごいのは中心となる桐原亮司と唐沢雪穂の心の内面を全く描かずにその人となりを浮き上がらせていることだ。描かれる内面は2人に関わる人物たちばかりで、2人の描写は表情と行動、しぐさだけしかない。それだけで2人の抱える心の闇や野望の深さを読者は知らされるのだ。 そして2人に関わる人間は何故か彼らの過去に触れていく。偶然にも助けられ、彼ら2人の幼き頃の悲劇の真相へと入り込んでいく。 そしてその道行きの半ばにそれは不意に断ち切られる。亮司と雪穂はお互いの人生に立ちはだかる困難を協力して排除していった。そのために人の命を奪うことなど全く厭わなかった。 なぜそこまでにこの2人は助け合うのか? 刑事笹垣の執念が彼らの秘密を、そして73年に起きた事件の真相を解き明かす。 その真相は何とも哀しいものだった。 それが2人の運命を決定づける。 母子家庭の貧民街からのし上がっていく唐沢雪穂の物語は一面を捉えれば、『マイ・フェア・レディ』ばりのサクセス・ストーリー、立身出世物語だろう。 一見輝かしい人生には心を失くしたゆえの冷酷さが隠れ、彼女をいいようのしれない恐ろしい何かに変貌させた。 一方の桐原は雪穂の成功を支える日陰の存在として生きていく。コンピューターに精通しながらその使い道を犯罪にしか向けなかった彼は、雪穂がのし上がっていくために邪魔者となる存在を排除する役割を務める。 前半はお互いに助け合っていたのが、後半、成人してからは桐原の存在は影の部分が濃くなっていく。それは彼にとって雪穂への償いだったのだろう。 そして考えさせられるのが我々は亮司と雪穂のように懸命に生きているだろうかということだ。確かに2人がやった行為は自分の利益や優位、幸せを追求するためには他人を不幸にすることも辞さないという決して誉められたものではない。 しかしそこまで我々は自分の人生を一生懸命に生きているだろうか? 白夜行。 なんと悲痛なタイトルか。 明るくてもそれは日の光ではない。かといって安らかに眠るにはなんとも明るすぎる、中途半端な黄昏。決して無垢な光ではなく闇を孕んだ光の下で生きてきた桐原と雪穂の人生をまさに象徴している。 唐突に閉じられた結末ゆえに気持ちに整理の付かない自分がいる。 しかしこの作品は東野氏が追求してきた人の心こそミステリの一つの到達点だろう。そしてその後の東野氏の活躍を知る人々にとってこれがまだ通過点に過ぎなかったというのが驚きだ。 恐るべし、東野氏。 次はどんなミステリを見せてくれるのだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾氏の第一のブームを生み出すことになったのが本書『秘密』である。広末涼子主演で映画化され、更に2010年にはドラマ化もされたのは記憶にも新しいことだろう。
この作品を読むまで、やはりこういった「入れ替わり」物は映画に向いているのだろうなぁ、ぐらいにしか考えていなかったが、さすがは東野氏、凡百の入れ替わり物とは一味も二味も違った味わいを感じさせてくれる。 上手い、上手すぎる。ため息が出るほどにいい作品だ。こんな話が読みたかったと強く思わせられた。 特筆するのはやはり娘と妻の意識が入れ替わったというのが一番大きいだろう。娘の頭の中に妻の意識が宿ることでこれほど父、いや夫側の苦悶が生まれるとは思わなかった。 そしてその娘の年齢を思春期を迎えつつある小学6年生に設定したところが上手い。女性が初めて経験する大人へのステップ、生理や恋人など、男親が戸惑うことが起きる年齢だからだ。 さらに夜の営みについてまで東野氏は書く。いやこれこそが本書のテーマと云っていいだろう。 娘の身体に妻の意識が宿った時、夫婦なのか?親子なのか?実にリアルにこの命題について生活感を持って語られていく。 もしこの設定が逆だったらどうだろうか?つまり妻の身体に娘の意識が宿ったら? これもまた面白いだろう。なぜなら思春期の娘は父親を生理的に嫌悪するからだ。 ただその場合はこのような鮮やかな結末は生み出せなかっただろう。文庫版『毒笑小説』収録の京極夏彦氏との巻末対談で東野氏は元々『秘密』はコメディ小説を目指したと述べている。もしかしたら設定を逆にすれば東野氏は本来書きたかった小説を書けたのかもしれない。 しかし読者はこの誤算を大いに喜ぶべきだ。なんせこれだけ素晴らしい話に巡り合うことが出来たのだから。 第2期の東野作品はそれまでのトリックやロジックを駆使した本格ミステリから人の心の謎にテーマを求めた作品を書くようになってきた。それらの作品は『宿命』、『変身』、『分身』、『悪意』と二文字の題名になっているのが特徴的である。この『秘密』もその系譜に連なる作品であり、さらに云えばそれまでの一連の作品の集大成的な作品であると云えるだろう。 娘の心に妻の意識が宿る。このたった一行で済まされる物語のテーマを軸にその事実に直面した夫と妻の心の機微が詳らかに描かれる。淡々とした文体で日常の所作から実に細かく描写を重ね、実生活感を滲ませ、ごく普通の家庭で起きた不可解事を見事に生活に溶け込ませている。そして男性ならば平介の立場を自らに重ね合わせ、自分ならどうするだろう?と煩悶し、女性ならば直子の立場に自らを同化させ、私ならどうするだろう?と自問することだろう。 さらにそんな苦悶の日々にすっと一筋の光が平介の心に降りてくるのが、サブストーリーで描かれるバス運転手がなぜ残業までして前妻に仕送りしていたのかという謎の真相なのだ。 なんていう上手さなんだろう。全く無駄がない、卒がない。これこそが人の心の謎を上手く物語に溶け込ませた瞬間である。まさに至高のストーリーテラーである。 さて余談になるが本を読むと奇妙な偶然に出くわすことがある。全く無作為に選んだ作品なのに扱っているテーマが似ていたり、現実に起こった事件と同種の事件を扱った作品を読むことになったり。私はそれをシンクロニシティと呼んでいるのだが、今回もそれを感じさせることがあった。 主人公の平介が妻と娘を失う危険にあったのがスキーバスの転落事故なのだが、これはまさに昨今起きている夜行バスの事故を髣髴させる。 作中で繰り広げられる被害者の会の内容などは今まさにその事故の遺族や当事者が直面している問題なのだろう。 『天空の蜂』でも東日本大震災に端を発する原発事故がシンクロし、単なる読み物とは思えなかったが、本書もまさにそうだった。東野氏がいかに普遍的な事件を幅広く扱っているのが解る。 閑話休題。 物語のラストに賛否両論があったという声を聞いたが、それはなぜだろう? 本書のタイトルは『秘密』。 もちろんこの秘密とは杉田家が抱えた秘密であり、またラストの書かれた永遠の秘密のことだろう。 さらに私は重ねたいのは物語の真相こそが作者が最後まで取っておく読者に対する秘密だということだ。 秘密であっていいこともある。本書の秘密もまたそんな秘密の1つだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これはすごい傑作ではないか!
なぜ当時ほとんど巷間で話題にならなかったのかが不思議でならないくらい、ミステリとしても読み物としてもすごいレベルに達した作品である。 本書で描かれる事件はある作家の死。一応鍵が掛かった部屋での殺人事件なのだが、そこにトリックなどもなく謎解きもあっさりとしており、あまつさえ犯人は全体の3分の1にも満たないところで加賀によって捕えられてしまう。 しかし本書のメインはそこからである。なぜ犯人、被害者日高邦彦の親友であり、同級生であった野々口修が彼を殺すに至ったかが本書の謎なのだ。 東野作品の転機は『宿命』からだというのは周知の事実である。彼は今までトリックやロジックにこだわった本格ミステリを書いていたのだが、人の心の謎こそが魅力的な謎だと着目し、それを意識して著したのが『宿命』だった。 その後東野氏は様々な手法を使って人の心の謎をテーマにした作品を紡いでいく。そして本書で扱われる人の心の謎とはすなわち「悪意」。ストレートな題名でそれを謳っている。 この作品は実は発表当時はさほど話題にならなかったが、ウェブ、書評家そして東野ファンの間では隠れた名作と云われている。 特に『赤い指』、『新参者』、『麒麟の翼』と昨今立て続けに発表された加賀恭一郎シリーズのクオリティが高く、人気が出た現在では同シリーズを遡って読む読者が増え、その中で再評価が高まっている。ちなみに講談社から出版された『東野圭吾公式ガイド』の読者人気投票ランキングでも16位に選ばれ、人気も高い。 さて横道に逸れるのはここまでにして、この悪意というのは犯罪を扱うミステリにおいてなくてはならない物、いや殺人や窃盗、詐欺、これら全ての犯罪は悪意から成り立っていると云える。 悪意と一言で云っても様々な悪意があり、私もさて本書で書かれている悪意とは一体何なのだろうかと思いながら読み進めた。 特に目立つのは被害者日高邦彦の悪意だ。 犯人野々口修が前妻初美と共謀して命を奪おうとしたことをネタにゴーストライターを強要した悪意。野々口の才能に嫉妬し、なかなか出版社に紹介しないという悪意。 自分本位で身勝手な人物像が描かれる。 また日高が盗作をしていたことがマスコミに知られ、遺族である妻の許へかかってくる悪戯電話、誹謗・中傷の手紙、はたまた野々口が受け取るべきだったと主張する野々口の親戚による訴え、これらも悪意と云えるだろう。 そして野々口の動機を調べるにあたり、加賀は彼と日高の学生時代に行われた「いじめ」に行き当たる。 直接暴力に訴える積極的ないじめもあれば無視して無関係性を装う消極的ないじめもある。さらにはいじめ仲間に加わらなければ自らがいじめられるということで加わるいじめもあれば、面白がって仲間になり、さほど罪悪感もなく加わるいじめもあったりと様々だ。 悪意が恐ろしいのはそれが当事者にはそれが悪意だと気づかずに行動の原動力となってしまうことだ。いやもしくは悪意、それと気付いていながらもその悪意の持つ悦楽のような物に酔わされ、止められない蠱惑的な魅力を備えていることだ。 しかしここに書かれた悪意はもうどうしようもない。この誕生を止めるのは小さな頃から負の感情を持たせず善意を養わなければならないだろう。 読後私はなんともやるせない気持ちになった。 このようにストーリーは読み応え抜群でしかも深い余韻を残す結末でありながらさらに本書がすごいのはミステリの技巧として優れていることだ。 いや文学の技巧としても優れているといった方が正しいかもしれない。 さらに加賀ファンにとっては加賀の教師時代の暗い過去が明かされることでも興味深いだろう。私も実に興味深く読んだ。警察官である父親に反発して教師になった加賀がなぜその職を辞したのかが本書では描かれる。 優秀な刑事としてまた優秀な探偵として、また人格者として描かれる加賀の弱さを知った。 昨今の高評価も頷ける、いやもっと高く評価されてもいい作品だ。最近増え続ける東野読者にも早く本書を読んで感想を聞かせてほしい。 私は上に書いたように大絶賛である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムシリーズ第6作目。
今まで『エンプティー・チェア』以外は題名に殺し屋の名前が冠されていたが、本書では殺し屋トムソン・ボイドが現場に残した遺留品の1つ、タロットカードに由来している。タロットカードの12番目のカードとは、作品の表紙にもなっている「吊らされた男」だ。このカードの持つ意味はその絵から連想する苦しみや拷問などというネガティヴなものではなく、それら暴力や死とは無縁であること。つまり精神的な保留と待機を表している。 なぜこれが題名になったのか。それは最後まで読むと明らかになる。 今回の敵は通称“アベレージ・ジョー”と呼ばれる殺し屋トムソン・ボイド。その異名はあまりに平均的な風貌と平均的な人物が身に着ける服装、乗る車とあらゆる個性を殺した男だ。したがって目撃者はいるもののさして記憶に残らないという特徴を持つ。つまり特徴のないのが特徴なのだ。 前作『魔術師』の殺し屋のインパクトが強かっただけにこの“アベレージ・ジョー”はその設定もあって地味なのだが、今までの殺し屋と違い、彼には家庭があることが特徴だ。それは彼が刑務所での日々で無くしてしまった感情―作中では無感覚と書かれている―が恋人とその連れ子を養うことでをかつてのように取り戻す一助になるのではと考えているからだ。風貌や持ち物はごく普通でありながら職業、感情は普通ではない。彼は心底普通になりたがっている殺し屋と云える。 また物語の趣向もこれまでとは違っていることに気付く。今まではシリアルキラーがどんどん人を殺していくのをライムチームが追うという構成だったのだが、今回はジェニーヴァ・セトルという女子高生を殺し屋の手から守るという構成になっている。守る側のいつ敵が襲ってくるか解らない恐怖が今までのシリーズと違った読み所と云えよう。 さらになぜ一介の高校生ジェニーヴァが殺し屋に狙われるのか?その理由が1868年にジェニーヴァの祖先チャールズ・シングルトンが関わったある歴史的事件に関係しているのだ。つまり今回は通常のジェットコースターサスペンスに加え、歴史ミステリ的要素も加わっている。 そして今回はレギュラーメンバーのロン・セリットーがスランプに陥る。事情聴取中に目の前で人が殺されてしまったことでPTSDになってしまい、殺し屋“アベレージ・ジョー”の影に終始怯えながら捜査に携わり、恐怖のあまり誤ってアメリアを射殺してしまいそうになるくらいだ。今回このセリットーがいかに再生するかが物語のサイドストーリーとなっている。 『ボーン・コレクター』で登場したリンカーン・ライムは現代に甦ったシャーロック・ホームズだというのは世のミステリ書評家もそして作者自身も認めているのだが、今回それが改めて強く認識させられた。それは殺し屋トムソン・ボイドの前職について。 捜査を進めるにしたがってどんどん増えていくメモの記述。そこに明らかにヒントが隠されているのに全く気付かなかった。ボイド自身が語る刑務所生活で失っていった感覚、つまり無感覚の境地に陥った話も含め、実に素晴らしいミスディレクションだ。 またミスディレクションと云えばディーヴァーの語りならぬ“騙り”の上手さが今回も光る。 そんな読者を驚かすことに腐心したエンタテインメントに徹しながらも底流に強いメッセージが込められているのだから畏れ入る。 最後に至り、冒頭に書いた「吊るされた男」のカードの意味がじわじわと胸に迫ってくる。カードの意味は精神的な保留と待機。つまり機が熟するのを待ち、それに備えているという意味だ。 そしてその時が来たのだ。 さてもはやお馴染みとなった他作品のキャラクターのカメオ出演だが、今回は前作『魔術師』で登場したカーラと『悪魔の涙』で主役を務めたパーカー・キンケイドが登場する。 特にパーカーは前作『魔術師』に次いで二度目の登場。相変わらずほんの数ページでの客演に過ぎないが、やはりこういう演出は嬉しいものだ。このファンサービスは継続してほしいが、未訳のノンシリーズのキャラが出ていないか気になる。版元はノンシリーズもかつてのように訳出してほしい。 また作者もパーカーをこれほど気に入っているのならばカメオ出演という形ではなく、ライムとパーカーがコンビを組む作品を書いてもらいたいものだ。 リンカーン・ライムシリーズで一般的に人々の口に上るのは『ボーン・コレクター』、『コフィン・ダンサー』やこの前作である『魔術師』で、本書はどちらかといえば地味な印象を持った作品だ。 しかし読後の今、私の中では本書はシリーズの中でも上位になる作品となった。最後に訪れるリンカーンのある変化も含め、希望に満ち溢れた結末が余韻を残す。 まだまだ衰えないなぁ、このシリーズは。天晴、ディーヴァ―! ▼以下、ネタバレ感想 |
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作者エラリー・クイーンが収集した事件について紹介した作品集。1編あたりが10ページ未満ということもあってショートミステリ的な作風になっている。
まず第一部はクイーンが世界中を周遊して聞いた話について書かれた「国際事件簿」。 まさに奇妙な事件ばかりだ。南スペインでは美女を彫らせるといつも同じ顔になる入墨師の話が、日本ではあの有名な帝銀事件が、フランスのノルマンディーではパリ警視庁でその人ありと謳われたフォス警部が突然引退するに至った事件が語られ、アルゼンチンでは知られざる名探偵ディエゴ・ゴメス捜査部長の活躍に、ルーマニアではある詐欺事件の一部始終が、そしてアルジェリアでは新婚初夜の夫婦に降りかかった密室での新妻殺人事件の顛末が語られる。 さらにメキシコでは富豪の未亡人の殺人事件、インドでは呪いによって殺された青年の話、ユーゴスラヴィアではヴェリカ・キキンダという町で起こった連続盗難事件、エクアドルでは浮気妻が浮気相手と2人きりの時に部屋で射殺された事件、パリでは愛のため両目を失った青年の話が、フィリピンではフィリピンで闇取引の大物になった元アメリカ軍人の殺人事件に西オーストラリアでは砂漠で白骨死体で発見された白人の話、チェコスロバキアの浮気娘がかかった奇病の正体の話、モンテカルロではカジノのクルーピエ(ルーレット係)が起こした神がかった犯罪、と続く。 そしてモロッコで起きたフランス軍人とベルベル人の美女との悲恋のお話に、トルコでハーレムの一人になったアメリカ人女性の不審死、中国は上海にあるフランス租界で起きた心中事件の意外な真相が語られ、スペインのマドリードで起きた無政府主義者の女性闘士が起こした狂気の殺人、エルサレムでは今なお謎とされる発見された男女の死体の真相で閉じられる。 第二部はアメリカで起きた奇妙な事件について語られた「私の好きな犯罪実話」だ。 まず「テイラー事件」は数奇な人生を経て名監督となり、女優たちとの浮名を轟かせたウィリアム・デズモンド・テイラー殺人事件を扱った物。まだグレタ・ガルボも登場していないサイレント時代のハリウッドで起きた映画監督殺人事件。しかし何よりもこのテイラーという人物の人生もドラマティックなのだ。才能さえあれば富と栄光が得られるハリウッドが持つ狂気の魔手。これはまさにそれに絡め捕られ人生を狂わされた人々の物語だ。 次の「あるドン・ファンの死」は実に興味深い。何しろ作者クイーンがエラリー・クイーンシリーズを書くきっかけになった事件だというのだから。この社交界の雄ジョゼフ・ボウン・エルウェルが自宅で殺された事件はなんとS・S・ヴァン・ダインのデビュー作『ベンスン殺人事件』のモデルになった作品であり、『ベンスン殺人事件』を読んだある2人が後の作家エラリー・クイーンとなったというのだ。 また社交界で浮名を沸かせたエルウェルが死体で発見された時にはカツラを脱ぎ、入歯も外し、引き締まった体に見せるためにはめていたコルセットを外した単なるハゲで歯のないデブのオッサンだったらしい。これは後にあるクイーン作品に繋がっていて興味深い。 第二部はこの2作までで最終の第三部は女性の犯罪を扱った物。女性が犯罪者だったり、被害者だった事件が紹介されている。題して「事件の中の女」だ。 いつの世もいざとなれば女性の方が度胸が据わっているもの。この第三部に挙げられた女性の犯罪者の悪女ぶりは女性の本当の怖さが滲み出ている。 結婚詐欺師を逆に手足のように使い、2件の殺人をさせた女。 6度の結婚を繰り返し、自身の殺人を実の息子に擦り付けた母親。 自分たちの世界を守るため障害となる母親を殺した2人の少女。 愛する赤ん坊におもちゃを買うために連続強盗、警官殺しを引き起こした鬼子母神のような女。 その美しさゆえに恋敵を殺させてしまった女。 陰と陽の境遇と性格を備えた2人のルームメイト。 夢で殺人事件を知った女性。 自分の死を“見た”女。 連続殺人鬼の餌食になった女性たち。 妻殺しの加害者でありながらその夫に殺された女。 別の殺人のあおりを食らって毒入りウィスキーを飲んでしまった不運な女性。 夫殺しの容疑者でありながら裁判で無罪を勝ち得た挙句に天罰が下ったとしか思えない死に方をした美女。 男のあしらい方を間違えたがために命を失った“国民の恋人”と称された絶世の美女。 自分に逆らう嫁が憎いため息子たちに殺させた姑。 恋多き人生を送っていたが一転して一人の男に尽くし、嫉妬のあまり殺してしまった女。 次々と夫、子供を毒殺していく女。 これらのうち、ある者は理解でき、またある者は理解を超え、そしてある者は不幸としか思えない末路を辿っている。 これら3部で構成された本書で語られているのはおそらく実話だろう。そしてそのどれもが意外な真相なのだ。 最後の一行で読者に知らされる“最後の一撃”はまさに「事実は小説より奇なり」であることを思い知らされる。 本書に挙げられているのは19世紀の終わりから20世紀の半ばにかけての犯罪記録である。こういった記録は実際貴重である。 日本でも牧逸馬氏が同趣向の世界怪奇実話集を編んでいたが長らく絶版となっていた。それを島田荘司氏が精選して復刻させた。本書は今なお本屋で手に入るのだからまだ幸運だ。東京創元社の志の高さに感謝したい。 世界で起こったフィクションを凌駕する奇妙な事件の数々を集めた本書はその内容ゆえに読後感が決して良いわけではないが、歴史に残る犯罪記録として実に貴重な作品だ。 さらに本書が書かれた“その後”について触れられた解説は本書の事件の驚きをさらに補完してもう一度驚かせてくれる(特に母親を殺した2人の少女のその後は強烈だ!)。その存在の意義と価値、そしてここに収められた話の奇抜さと作者の簡潔にして冷静な叙述ぶりを高く評価しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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