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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数201件
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21世紀最後の年2000年に第46回江戸川乱歩賞を受賞した本書は5年前に同賞を受賞した藤原伊織氏の『テロリストのパラソル』以来の話題作となり、その年の週刊文春のミステリーベスト10で1位を獲得し、『このミス』でも16位にランクインした。
この『脳男』という異様なタイトルの本書の魅力はなんといっても鈴木一郎と云う男の奇怪さだろう。 弱冠29歳で物語の舞台となる愛宕市で小さな新聞社を経営している。しかし解っているのはそれだけで鈴木一郎と云う無個性な名前―世界的に有名な大リーガーの名前も同じだが―も偽名である。 彼の正体を探る手がかりは彼の精神鑑定の合間に挟まれる遠い過去の記憶にある。それは彼が重度の火傷を負って全身に手術を施されるシーンであったり、幼き頃に老人から哲学の書を読み聞かされるシーンであったり、断片的にフラッシュバックする事柄が後ほど鈴木一郎の正体を決定づける裏付けとなってくる。 とにかく主人公の精神科医鷲谷真梨子が鈴木一郎の過去を辿るうちに出くわす入陶大威という自閉症の少年の様子が非常に興味深い読み物となっている。 感情を持たない人間の行動とはこれほどまでに想像を超えるものなのかと専門分野の観点から語られる。特にこの大威という少年の特異性には目を見張るものがある。 何かの指示が出されるまで動こうとしないし、人間の三大欲である食欲さえも起こらない、睡眠欲も起こらなく、生理現象でさえ自らの意志で対処しようとしない。また情報の取捨選択をする認識がないため、見た物すべてを覚えてしまう。運動も指示一つで止めろというまで延々と続ける、等々。 まさにロボット人間そのものと云えよう。 本書の読み処は昨今研究が進んで明らかになった自閉症の仕組みを脳科学の分野で詳しく症例を交えて詳らかに語られている所にある。現在ではもはや自閉症という呼称はせずに発達障害という呼び方をするが、一口に自閉症と云っても色々な症状があることが知らされる。 その想像を超える現象の数々に私は思わず食い入るように読まされたのだが、そんな専門知識を見事に自家薬籠中の物として鈴木一郎と云うキャラクターを生み出した作者の手腕を讃えたい。 普段人間は必要なデータと不必要なデータを取捨選択して生活しており、そのためにすれ違う人の服装や通り過ぎる車の種類などを覚えることはしないが、自閉症である彼はその区別がつかなく、見る物全てを記憶してしまう。しかしそれらをデータとして蓄積するだけで活用する手段を知らない彼が、登山家とのトレーニングや彼の身に起きた事件をきっかけに自我に目覚め、究極の人間として生まれ変わる。それは自分の潜在能力をも十分に引き出して、常人を超える身体能力を持ち、自律神経を意識的に操作して一切の苦痛を感じずに戦い、犯罪者たちをこの世から葬る、いわば現代の仕置人、いやスーパーヒーローなのだ。 そんな荒唐無稽な物語をしかし作者は上に書いたように現代医学の当時の最先端の知識を導入してミステリアスに仕上げることに成功した。作品発表から19年経った今でもその新鮮さは色褪せていない。 しかしこのような作品が江戸川乱歩賞を受賞する事が非常に珍しいのではないか。 私も全ての乱歩賞受賞作を読んだわけではないので推測にすぎないのだが、本書のような一人の人間の謎を辿るミステリが受賞した作品は初めてではないだろうか? 事件が起き、それを主人公が犯人なり、動機なりを調べる、いわゆるミステリの定型に則りながらも一般人が通常知りえない主人公が属する業界の専門知識が盛り込まれる妙味が加わった作品が受賞するというのが乱歩賞の常だった。本書は特に脳医学の分野が専門的ながらも非常に解りやすく書かれており、人そのものが最大のミステリであることを示した作品である。 以前ある作家がミステリにおける特異な苗字が多いことに難を示し、「面白い作品であれば主人公の名前が佐藤とか鈴木とかありふれた名前でも全然構わない」といった類の話をしていたが、本書の主人公はごくごく平凡な名である鈴木一郎だ。 逆に他の登場人物の名前は非常に特殊なのに留意したい。鈴木一郎を逮捕した刑事は茶屋であり、鈴木一郎の精神鑑定をするのは鷲谷でその上司の名は苫米地といい、敵役である連続爆弾魔の名は緑川と普段あまり接する事のない名字だ。さらには緋紋家(ひもんや)や空身(うつみ)といった実在しない苗字まで登場し、鈴木一郎を取り巻く登場人物たちの苗字は非常に特色がある。 それがかえってシンプルな鈴木一郎と云う名前を浮き立たせているようにも感じた。しかしそんな演出以上に作者は見事この何の個性も感じない名を持つ主人公が上に書いたような超人として印象に強く残るのだ。つまり新人にして首藤氏は一般的な名を持つ人物こそ最も強い個性を放つという高いハードルを難なく越えてみせたのだ。 島田荘司氏が21世紀ミステリとして、現代科学の知識をふんだんに取り入れ、まだ見ぬ本格ミステリを21世紀になって提唱したが、本書はまさにそれに先駆けた当時最先端の科学を盛り込んだミステリとなっている。 しかし物語はそれだけではなく、鈴木一郎の正体を巡る謎から一転鷲谷真梨子と鈴木一郎がいる愛和会愛宕医療センターが爆弾魔緑川によって占拠され、広い大病院の各所で頻発する爆破事件というパニックサスペンス小説へと変貌する。一言で云い表せない一大エンタテインメント作品なのだ。 また連続爆弾魔緑川の一連の事件にもミッシングリンクがあったことが明かされる。 しかしそんな本格ミステリ趣味をも盛り込みながらもやはり鈴木一郎と云う男の謎には添え物に過ぎないように思われてしまう。 それほどこの“脳男”は鮮烈な印象を私に残した。 物語は続編が書かれるかのように幕を閉じるが、その続編『指し手の顔』は本書の後7年を経てようやく書かれた。 残念ながら本書ほどは話題にならなかったが、先入観を持たずにその作品も読むことを愉しみにしたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾のブラック・ユーモア作品集第3弾だが、本書ではそれまでの『~笑小説』シリーズとは趣向が変わっており、1作目の「もうひとりの助走」から続く「線香花火」、「過去の人」、「選考会」が連作短編集となっている。共通する舞台は灸英社なる出版社が関係する各種の文学賞の話である。
まず「もうひとりの助走」は作家歴30年のベテラン作家寒川心五郎の5度に亘る新日本小説家協会から送られる文学賞の選考結果を複数の出版社の担当者たちが待ち受けるひと時を描いた物。 実際直木賞や芥川賞など名誉ある文学賞の選考結果を待つ状況とはこういったものだろうなと思わせる、妙なぎこちなさや緊張感が伴った状況が面白おかしく語られる。特に受賞の見込みの薄い作家と選考結果の電話を待ち受ける状況は実に気まずい空気なのだろう。各出版社の本当の思惑も放つ言葉とは裏腹にかなりネガティヴなのが面白い。 続く「線香花火」は新人賞を受賞した素人作家が歩む過ちを描いた作品。 現在星の数ほどあるという新人賞。しかし在野の素人作家が横行する昨今、それでもいずれかの新人賞を受賞すれば作家への道が開けると日々研鑽を積む人々がいることだろう。この作品はそんな新人賞を受賞した素人が陥る勘違いと過ちを描いている。 次の「過去の人」は文学賞の授賞パーティを舞台にしたもの。 またもや勘違い新人作家熱海圭介登場。今度は授賞パーティに招かれ、前受賞者として新人賞受賞者に的外れなアドヴァイスをしたり、名刺を作って配ったりと更なる勘違いぶりを発揮。こういう新米作家は実際にいるのだろう。 「選考会」は東野氏らしい捻りが効いた作品。 ここでは「過去の人」で受賞作となった『虚無僧探偵ゾフィー』なるミステリの選考会の様子が描かれる。 なんとも痛烈な皮肉が効いており、これを読んでジョークだと思えない作家もいるのではないだろうか? さてここからはノンシリーズ物。「巨乳妄想症候群」はある日突然丸みを帯びた物が巨乳に見えてしまう症状に罹った男の話。 いやあ、実に面白い。最初の一行、「冷蔵庫を開けたら巨乳が二つ並んでいた」からもう笑いが始まってしまった。 肉まんから始まり、カップラーメンの器、パソコンのマウスにはたまた管理人の禿げ頭まで―これが一番可笑しかった―が巨乳に見える症状に始まり、最後は全ての女性が巨乳に見えるという男にとっては何ともうらやましい症状に落ち着く。また作中に織り込まれた巨乳に関する歴史的考察も実に面白い。 下ネタ系が続く。 次の「インポグラ」は友人の科学者が発明したインポグラなるアンチバイアグラ、つまりインポになる薬。 一見役に立たないと思われる薬もアイデア一つで役に立つ。まずはレイプ班に飲ませて犯罪抑制に役立てるというアイデアに始まり、オナニーばかりして勉強に精が出ない受験対策として、遺産目当てで結婚した年の差夫婦の夜の生活防止を経由して最終的に夫の浮気防止薬としてヒットするという着想の流れが見事。この話を読んでポスト・イットの開発話を思い出した。 「みえすぎ」は世の中に蔓延する微粒子がある日突然見えることになった男の話。 これも塵埃が普通以上に見えるというワンアイデアからエピソードを膨らまして物語としている。ただ展開は普通かな。 「モテモテ・スプレー」は男性ならばぜひとも欲しい一品だ。 星新一+ドラえもんのような作品。最後はスプレーなどに頼らず、その一途な人柄でアユミのハートをゲットしたかと見せかけ、やはり友達で終わる皮肉なラストにさらにもう一捻り加えている。 「シンデレラ白夜行」はあの有名な童話「シンデレラ」の東野圭吾ヴァージョン。 美談として世に知られるシンデレラのお話も東野氏に手に掛れば実に計算高い女性の話に早変わり。タイトルにつけられた「白夜行」の文字が悪女の話だと暗示しているのはこの作者だけの武器か。 「ストーカー入門」は奇妙な味わいの作品。 女心は解らないというが、これは当事者では解らない話だろう。いきなり分かれて欲しいと持ち出され、数日後に別れて欲しくなかったら自分をストーカーしろ!という何とも理不尽な話。彼女がストーカーを強いることで何か主人公に不幸が訪れることを予想していたのだがこの結末は全く予想外だった。ただ正直主人公が私ならブチ切れてそのまま放置してますが。 子を持つ親なら一度は通るのが、TVヒーローのキャラクターグッズ購入。「臨界家族」はそんな日常を綴っている。 なんとも身に詰まされる話だ。わが身に近いことなので、単に感想以外の事も浮かんだがそれについては後述する事として、一見離婚の危機を迎えているような夫婦を指しているかのようなタイトルの意味が最後に解るが秀逸。これには唸らされた。 しかしとても他人事とは思えない話だ。 「笑わない男」は笑わない男を笑わそうという話。 お笑い芸人を主人公に持ってくることは実は小説としてはかなりハードルが高い。今まで読んだその手の小説ではどうしても作中に出てくるギャグやコント、ボケ、ツッコミが笑いを誘うところまでに至らないからだ。お笑いとはやはり同じ場の空気を共有して生まれる雰囲気ゆえが大いに作用しているのがその要因だと思うが、本作ではその高いハードルをしっかり越えていることが凄い。 東野氏が描く売れない2人の芸人の仕込みやボケ、ツッコミはなかなかに面白く、映像的でもあり、多分TVで観れば思わず笑ってしまうだろう。 それほどなのに笑わないボーイ。彼の存在がまた実に面白い。そして最後の一行が実に皮肉に効いている。いやあ、実に上手い。 最後の「奇跡の一枚」も誰しもあるであろう、妙に映りのいい写真の話だ。 なぜかいつもよりも妙に見栄えのする写真というのが撮れることがある。これはそんな誰しもあるような話から、これまたウェブでやり取りしていたメル友からある日どんな人か写真を見たいと申し出されるという云わば当然の流れが生じ、見栄を張ってその奇跡とも云える見栄えのいい写真を送って、ぜひ逢いたいとなってあたふたするというのもまた普通の展開だが、最後のオチはちょっとゾッとした。 東野氏の『~笑小説』シリーズ3作目の本書では前2作よりも作家と出版社との関係を抉ったブラックな内容が濃く出ている。 特に連作短編となっている冒頭の4作品では出版界の内幕が繰り広げられ、出版社の担当者の思惑や新人賞を受賞し、作家専業となった人間たちの過ちを滑稽に描いており、これからも出版社とのお付き合いをしていかなければならない東野氏が果たしてこんなことを書いていいのだろうかと笑いながらも心配してしまうほど、露骨に描いている。 まあ、これが他の作家が書かないであろうことまで書いてくれる東野氏のこの辺の思い切りの良さなのだが。 その4編以降はいつも通りのノンシリーズ短編が並ぶ。 それら各短編は基本的にワンアイデア物なのだが、それを実に上手く膨らましていて笑いに繋げている。 ある日突然色んな物が巨乳に見えたり、空気中に漂う塵埃の微粒子までもが見えたり、はたまたインポになる薬が発明されたり、女性にもてるスプレーが発明されたりとたった一言で説明できるものだ。そこから東野氏は巧みにエピソードを次々とつぎ込んで見事なオチに繋げている。それらはどこか星新一氏のショートショートに似て、作者からのリスペクトも感じる。 またそれら寓話的な題材ばかりではなく、我々の生活に非常に身近な事柄も作品になっている物もあり、ただのお話のように感じない物もある。 例えば「臨界家族」では某TV局の某アニメシリーズが目に浮かぶかのようで他人事とは思えない話。作中の台詞にあるように確かに現代では商品化も視野に入れてTVヒーローの武器は案出されており、話が進むにつれて新キャラクターやそれに伴う新しい武器や道具が登場し、その登場した回が終わるや否や次のCMでそのおもちゃが紹介されている。 幸いにしてわが子はそこまで耽溺していないため、出るたびに買わされることはないのだが玩具コーナーで品切れ状態の張り紙を見ると餌食になっている親がいるのだなぁと思ってしまう。 思わず自身の身の回りのことまで思いが及んでしまった。閑話休題。 個人的なベストは「巨乳妄想症候群」と「臨界家族」。次点で「笑わない男」。 「巨乳妄想症候群」は丸い物がある日突然巨乳に見て出すというそのあまりにもアホらしい、しかし実に面白い設定を買う。「臨界家族」は前述のようにとても他人事とは思えない話であり、オチが予想の斜め上を行っているところが見事だ。「笑わない男」は最後の一行の素晴らしさ。これぞブラック・ユーモア。 しかし「巨乳妄想症候群」と云い、「インポグラ」といい、いやあ、男ってホントしょうもない生き物だなぁと思ってしまう。 本書に収められた作品はいずれもが『世にも奇妙な物語』の一短編として実に面白い作品が出来そうな題材だ。恐らく未見のこの番組の中に既に映像化された物があるのかもしれない。 今までの『~笑小説』シリーズには正直笑劇ばかりが収められていたとは云えなく、中にはほろりと涙を誘う感動物もあったが、本書は全てがユーモアやスラップスティックとお笑いに徹している。 しかも笑いのエネルギーは衰えるどころかさらにその技巧が上がっており、笑顔どころか思わず笑い声を発する事が何度もあった。本書の冒頭の4作品のように、ある意味作家生命なんのそのと云わんばかりの冒険をしてまで笑いに徹するその姿勢を買いたい。 逆に現在出せばベストセラーという状況だからこそ、どんな所にも踏み込んで書ける知名度の高さを利用して、怯むことなくもっと我々を笑わせてくれることを心の底よりお願いするとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マイケル・バー=ゾウハー6作目の本書では前作『ファントム謀略ルート』に続いてアラブ諸国の問題について扱われている。後に作者自身が共著でノンフィクションとして著すことになるミュンヘン・オリンピックで起きたイスラエル選手団暗殺事件に端を発する復讐の連鎖の物語だ。
物語の冒頭でイスラエル選手団を虐殺したアラブのPLOの首謀者であるサラメハを長年の追跡の末、仕留めるところから始まる。そのニュースを聞いたドイツ人テロリスト、アルフレート・ミューラーなる人物がアラファトにある計画を持ち出す。それはサラメハ暗殺作戦の総責任者であるモサド長官エレミア・ペレドの暗殺のみならず、ユダヤ人に対する決定的な報復をなすことになるという謎めいた実に不気味な計画だった。 本書ではこのテロリスト、アルフレート・ミューラーが最も強烈に印象強いキャラクターだ。 骸骨のように痩せ、全身黒づくめの服装の酷薄な顔をした男。各国の要注意人物を掌握するモサドのファイルにも登録されていない謎のテロリストである彼はドイツ人でありながらアラファトと親しい関係にある。 友人であろうが自分の目的のためなら完膚なきまでに息の根を止めることも全く厭わない冷酷な性格の持ち主。その容貌が象徴するようにモサドに死をもたらす死神なのだ。 また本作でもナチスの影は物語に落ちてはいるものの、その色合いはそれまでのバー=ゾウハー作品に比べるとあまり濃くはない。本書の影の主役とも云うべきアルフレート・ミューラーの母親がナチスの婦人将校であったということぐらいだ。 これはナチスという過去の戦争の呪縛からオイルマネーで世界を牛耳り始めたアラブ諸国の紛争へとシフトしていったことになるだろう。第二次大戦から80年代当時の問題へと作者の視点が移行したことになるのかもしれない。 それは自身が従軍した第3、4次中東戦争の経験と執筆当時に連なる政治的問題が肥大していくにつれて作家として書くべきテーマを見出したように思える。 解説にもあるが、これまでの作品でCIAとKGBの攻防を、OPECとアメリカ次期大統領候補との丁々発止の駆け引きを、そして本書ではアラブのPLOとイスラエルのモサドとの復讐戦を描いてきた作者が次回どんな題材を見せてくれるのかが非常に楽しみだ。 さすがに政治家の経験もあるだけに国際情勢の複雑さを食材に謀略小説にする料理の腕前は一級品だ。そしてまた自身が子供だった70年代から80年代にかけての当時の世界情勢を振り返るのに格好の教材になっている。 しかしこれまでの作品でどれにもナチスが絡んでいるのは作者個人のナチスに対する個人的な怒りがあるのだろうか、もしくは自身の政治家経験で知りえた世界を語るうえでどうしても避けられない題材なのだろうか、その真意は解らないが、ここまで来るとこれからの作品に作者がナチスをどのように絡ませていくのか、興味は尽きない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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傑作『白夜行』の続編と呼ばれている作品。
本書の主人公の1人新海美冬は東京のブティックで働いていた過去を持つ女。この新海美冬が唐沢雪穂であることを仄めかす描写が本書では見え隠れしている。 例えば以前ブティックに勤めていたこと、自分の人生のためには殺人を犯してまでも邪魔者を排除する強い意志、昼間の道を歩くのではなく、夜の道を行けという台詞、美冬が経営する会社の名前「BLUE SNOW」、そして新海美冬とは全く別の人物がいたこと、以前経営していたブティックの名前が「ホワイトナイト」だったこと、などなど。 そしてもう1人の主人公水原雅也は二代目桐原亮司という役割だ。叔父殺しという犯行を美冬に見られた雅也はしかし美冬に脅迫されるまでもなく、美冬の人生を成功させるために影となって働く。 物語は1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災を皮切りに同年3月20日の地下鉄サリン事件、長野オリンピック、2000年問題と世を騒がせた事件を背景に語られる。 『白夜行』が昭和史を間接的に語った2人の男女の犯罪叙事詩ならば『幻夜』は平成の新世紀を迎えるまでの事件史を背景にした犯罪叙事詩と云えよう。 ただそういう意味では本書は『白夜行』の反復だとも云える。史実を交え、2人の男女の犯罪履歴書のような作りは本書でも踏襲されている。違うのは『白夜行』では亮司と雪穂の直接的なやり取りが皆無だったのに対し、本書では雅也と美冬との交流が描かれることだ。 さらに『白夜行』では雪穂と亮司は絆よりも太い結びつき、魂の緒とでも呼ぼうか、そんな鉄の繋がりで人生を共にしていたのに対し、雅也と美冬の関係はちょっと色合いが違う。 雅也は平凡な生活を夢見ているが、殺人を犯した瞬間を見られた美冬という呪縛に運命を握られ、それに抗えずに魂をすり減らす人生を送っている。 つまり美冬は雅也を使役し、雅也は彼女の従者なのだ。 それが故に雅也は美冬に対して絶対的な信頼を置いていない。美冬に惹かれながら、平凡な生活を夢見ている男だ。そして美冬が自分の人生を変えるため、上のステージに上るために雅也を踏み台にし、殺人まで犯させたことに気付くにあたり、雅也は美冬に復讐を誓う。 ここに『白夜行』との違いがある。『白夜行』では男女2人の共生の物語であったのに対し、本書は女王と奴隷の関係にあった男が女王に背反する物語なのだ。 雪穂、すなわち美冬は以前と同じようにまた彼女の前に立ち塞がろうとする女性どもを排除するために男どもを利用するのに同じ方法を用いたが、それは水原雅也と云う男には通用しなかった。 全ての男が美冬の魔性の魅力に騙されるわけではなく、悪はやはり滅びるということを示した作品なのではないか。 結末を読むまで私は上のように考えていた。 本書のタイトル『幻夜』とはすなわち“幻の夜”のこと。それは震災に見舞われ、着の身着のままで雅也と美冬が出逢った夜の事を指す。 あの時雅也は自分の殺人を見られた美冬とはもう逃れられない強い結びつきを感じて、美冬に全てを捧げる決意をしたが、本物の美冬は別人だと知らされ、あの時の夜が幻に過ぎなかった思いに駆られる。 しかしそれでも雅也は美冬を守ろうと決意を新たにする。理屈では割り切れない感情がそこにはある。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は80年代のEQMM誌に発表された短編を集めたアンソロジーの第1弾。その顔触れはまさに錚々たるメンバーだ。
口火を切るのはレックス・スタウトのネロ・ウルフ物の中編「殺人鬼はどの子?」だ。 正直いきなり縁のないシリーズ物での事件であるとは思わなかった。3人のうち犯人は誰という趣向は確かに邦題や原題を想起させる知的ゲームの様相を呈しているが、中身はずっと骨太。 3人の弁護士のうち誰が依頼人を殺したのかを探る物だが、内容としては弁護士の倫理を問うものになっている。邦題は原題の持つ雰囲気を忠実に表した好訳だが、そんな牧歌的な題名とは裏腹な深い内容が変なギャップを生んでいる。 次のジョン・D・マクドナルドの「罠に落ちた男」は買い物に出かけた男がいきなりさらわれ、現金強奪用の車として自家用車を奪われ、監禁される一部始終が語られる。 この作品にはあっというトリックもなければロジックもない。ただ事件の顛末が語られるだけだ。輸送会社を経営する男が機転を利かせて危うく命を拾うという話。 エドガー・ウォレスの「ウォーム・アンド・ドライ」はある詐欺師の物語が警視の口から語られる。ニッピイというあらゆる詐欺や軽犯罪を繰り返してきた男の顛末であり、裏切りとそれによる報復があるがサスペンスがあるわけでもない。物語としては実に淡々としている。 ただ題名にある「ウォーム・アンド・ドライ」という慣用句が場面場面で色んな意味に使われており、そこに妙味があると云えるだろう。 時には「誠実で虚飾のない」という意味であり、ある時には「猛りくるって酒はこりごり」であり、「仲良くかつ、割り切って」であり、更には「冷気及び湿気を禁ず」の意もある。言葉遊び好きなクイーンの好奇心をくすぐった作品なのだろう。 サスペンスの女王パトリシア・ハイスミスの「池」は夫を亡くした妻が借りた家の庭にある奇妙な池の話だ。 生き物のように復活する池と意志を持つ手のように近づく物を絡め取る水草や蔓。そこには理屈のない恐ろしさが存在する。 特に仰々しい描写はなく、淡々と物語は進むがそれが反って得体の知れなさを助長している。 期限切れの本の回収や紛失した本の捜索が仕事の図書館専門の探偵という設定が面白いのがジェイムズ・ホールディングの「やっぱり刑事」。 図書館の本の捜索が麻薬売りの犯罪証拠となるマイクロフィルムの発見に繋がり、そこから探偵が危機に陥るという物語の幅が広がるユニークな物語。 しかし図書館専門の探偵は作者の創作によるものだろうか?本当にいれば実に面白いのだが。 リチャード・レイモンの「ジョーに復讐を」は<ジョーの居酒屋>に訪れた突然の訪問者は店主のジョーを撃ち殺しに来たのだという。 わずか10ページ強の単純ながらも最後にツイストが効いている作品だ。正直ネタは途中で解るが、単純なストーリーに銃を持ったおばさんが店内の客まで脅迫するという奇妙なシチュエーションが印象を強めている。 マイクル・ギルバートの「ちびっこ盗賊団」は現代のロビンフッドと呼ばれる未成年たちの犯罪グループを警察が捜し出すというもの。 自ら信じる正義のためなら誘拐や強盗すらも辞さない。しかし盗んだお金は金に瀕して困っている人に全て与えるという義賊。短編でさらりと書いているが、このテーマは膨らますとシリーズ化できるまでに面白くなりそうだ。 L・E・ビーニイによる「村の物語」はある田舎町を舞台にした奇妙な味わいの物語が2編語られる。 1編目の「約束を守った男」は連続殺人の罪で死刑囚となった弟の許を訪れた男の話。 2編目の「どうしてあたしが嫌いなの?」は連続殺人を犯した脱獄囚が街を抜け出したと云う話。 実に奇妙なテイストの結末。死刑囚の兄は弟の面倒を見るという亡き母親への誓いを守るため、死刑直前で自ら弟を射殺する。それまでに淡々と描写される男のストイックさがその決断をゆるぎないものとして読者の心に落とさせる。 2編目は孤独な女が狂気に陥るまでが淡々と語られる。女性の寂しさが彼女に訪れる狂気を見事に納得させる。これは面白かった。 続くダグラス・シーの「おせっかい」は人気推理作家にトリックが非科学的であると作品ごとにアドバイスの手紙を送る大学助教授とその作家のやり取りで構成されている。 これはオチが痛快。特に手紙でこき下ろされる作品のトリックの数々には推理小説4冊分のネタが盛り込まれている。 もしかしたら推理作家はこのようなクレームの手紙を実際に受けているのかもしれない。アイデアの勝利! トリッキーな物語構成で独自の本格ミステリ路線を歩いたパトリック・マガーはなんとスパイ物の作品が収録された。「ロシア式隠れ鬼」はマガーのシリーズキャラクター、女スパイのセレナ・ミードがロシアの友人の頼みで観光客に成りすまして偉大な詩人でさらには共産主義者の唱道者であった友人の父の遺された自筆の詩の原稿を取り戻しに行くというもの。 夫が情報機関Q課のエージェントであり、妻の偽装旅行をあっさり看破し、彼女にあの手この手で忠告を与える。また友人の協力者がどのように接触し、詩を渡すのか、そしてQ課が介入するほどの詩には何が書かれているのか、さらにはKGBが見守る中、どうやってセレナは詩を持って帰るのかとミステリの要素満載の短編。 ポーの有名な短編からヒントを得た詩の原稿の持参方法がユニークで秀逸。結末は大人しめだが物語の起伏に富んだ作品だ。 心胆寒からしめる結末なのがジャック・P・ネルソンの「イタチ」だ。 果たして弁護士は本当に推定無罪の精神で弁護をしているのか?この原理的な問いに衝撃的な報復で疑問を投げかける結末。 なんと同情の余地もない殺人犯の無罪を勝ち取った弁護士の家族の許にその殺人犯を送るという形で被害者は復讐したのだ。これは今でも衝撃的。しかもハリウッド映画が1本作れる秀逸なアイデアだ。これが個人的ベスト。 歴史に残る短編シリーズの中にアイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』があるが、「ロレーヌの十字架」はそのシリーズの1編。 これは夜の車中だからと云うシチュエーションを勘案して納得のできる危うい結末。 その有名シリーズの向こうを張ったパロディがジョン・L・ブリーンの「白い出戻り女の会」だ。 全てにおいてアシモフ印の作品。『黒後家蜘蛛の会』というミステリにアシモフが唱えたロボット三原則を絡めた謎と云うニヤリとせざるを得ないミステリだ。 人の神経を逆撫でする人物とはいるものでデイナ・ライアンの「破滅の訪れ」に登場するエマはその最たるものだ。 人の云うことを聞かず自分のペースと思い込みで物事を進める人がいるがエマもまたその典型。 終始イライラさせられるが上手いストーリー運びだ。 プロンジーニ&マルツバーグの「不幸にお別れ」はたった6ページの最短の物語。 精神異常者とカウンセラーとの往復書簡で構成される本作は異常者がカウンセラーを逆恨みして殺されるが、それには意外な事実が隠されていたというもの。フランスのエスプリに満ちた1編。 シーリア・フレムリンの短編「魔法のカーペット」は実に現代的な作品だ。 育児ノイローゼは現代の社会問題となっているが、本書は高層マンションとご近所問題、そして小さい児を持つ親の育児ノイローゼを扱った物。 ジョン・ボールと云えば黒人刑事ヴァ―ジル・ティップスが登場する名作『夜の熱気の中で』が有名だが、「閉じた環」は仲の良さそうに見える隣人夫婦の見えざる妬みと屈辱を扱った作品。 これは最後の一行の皮肉が実に効いている。 神の見えざる手を感じる結末だ。 次の「仲間はずれ」は編者クイーン自身の作品だが、これは先般読んだ『間違いの悲劇』にも収録されており、ここでの感想は割愛する。 短編の名手であるロバート・L・フィッシュの「秘密のカバン」は実にウィットの効いた作品だ。 凄腕の金庫破りながら変に心配性の所があるクロードの焦り具合が面白い。 流れも自然なのにこれほど計算された作品も珍しい。さすが名手の業だ。 最後は中編とも云うべき長さの物だが、これがまた素晴らしい余韻を残す作品だった。ウィリアム・バンキアの「危険の報酬」は元大リーガー投手の物語だ。 実に味わいのある作品。落ちぶれたかつてのヒーローが行きずりの男女に引き込まれて誘拐の手助けをする。しかし彼は彼らが自分を生贄の山羊にしようとは露にも思わず、罠に嵌る。富豪の息子の殺人犯に仕立てられるのだ。しかし彼はその土壇場で誇りを取り戻す。警察に死体が自分の部屋にあることを告げ、わずかな手掛かりから2人の行方を辿り、2人を捕まえて自首しようとするのだ。 特にところどころに挿入される主人公ミリガンの回想や追憶シーンが読ませる。かつて自分はアメリカ人が誰もが憧れるヒーローだった。そんな輝かしい日々が挿話としてアクセントを加えている。そして彼を犯罪に導くヴェラとノーマンの2人はボニーとクライドをモデルにしたかのような、人生と犯罪を愉しむ享楽主義者だ。特にノーマンは裏切ったミリガンと再会してもそれを喜び、手を差し伸べるという理解に苦しむ性格をしている。前に読んだ東野氏の『殺人の門』の倉持修のような男だ。 最後のミリガンの結末と云い、発端から経過も含めて大人の小説だ。これがベスト。 本書はEQMM誌に収録した短編から選抜された短編集。 エラリイ・クイーンが選出したEQMM誌収録の短編集だからといって必ずしもトリックやロジックが横溢した短編とは限らない。いやむしろそのような本格推理物を期待しない方がいいだろう。 ジャンルはクライムノヴェルに誘拐物、サスペンスにホラーにスパイ小説、サイコ物に奇妙な味と実に多岐に渡る。 本書におけるパズラーはレックス・スタウトの「殺人鬼はどの子?」、アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』シリーズの1編「ロレーヌの十字架」、クイーン自身の「仲間はずれ」の3編。これはてっきり珠玉のパズラーのオンパレードかと思いきや実に意外だった。 しかしこれこそがクイーンが選者として名伯楽であることの証左のように思えてならない。 なぜなら本書にはクイーンが新しい形のミステリを模索し、その可能性を見出した作品が選ばれているように感じる。そのせいかミステリとしてはまだ粗削りであり、正直出来が良いとは思えない作品もある。しかしここには現代に繋がるミステリの原型とも思える作品が揃っているように思えた。 私のお気に入りの作品はジャック・P・ネルソンの「イタチ」、L・E・ビーニイの「村の物語」、ダグラス・シーの「おせっかい」、ジョン・L・ブリーンの「白い出戻り女の会」、ジョン・ボールの「閉じた環」、ロバート・L・フィッシュの「秘密のカバン」が挙げられよう。 これらはアイデアが実に秀逸で短編を読む楽しみに満ちた作品だ。 しかし個人的ベストを挙げるとすれば最後に収録されたウィリアム・バンキアの「危険の報酬」となる。久々に心地よい余韻に浸った味わい深い作品を読んだ。そしてこのような作品をクイーンが選んだことに彼の懐の深さを感じる。 本書は逆にそういう意味ではクイーンが選んだということである種の先入観を抱かせて、損をしているように思える。 現代の本格ミステリ作家が神格化した存在として掲げているクイーンは必ずしもパズラーに特化した作家ではなく、名アンソロジストであったということをミステリ読者は忘れがちなのではないだろうか。何より自身の名前を冠したコレクション(原題もそう)である本書はクイーンが自信を持って提供する短編集なのだ。 これは続く2巻目が実に楽しみになってきたぞ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アル中探偵マット・スカダーは本書から我々の前に姿を現した。ローレンス・ブロックの筆によって我々に紹介されたのだ。
ブロックは存在した探偵を掘りだし、それを文章と云う形で教えてくれたのだ。そんな風に考えてしまうほど、このマット・スカダーという人物が人間臭い。 1作目の本書で既にマットのありのままが語られる。 ライセンスを持った探偵ではなく、人の依頼を受けて便宜を図ってやる商売をしていること。元警官で警官時代に強盗を撃ち損じた弾が誤ってたまたま近くにいた7歳の女の子の命を奪ってしまったこと。それが彼が警察を辞める原因となったこと。彼には別れた妻アニタが居て2人の息子がいること。娼婦エレインとは時々会って寂しさを紛らわすこと。飲み友達のトリナとは何でも話せる関係なのに、なぜか身体は交わさないこと。 そんなスカダーの生活がストーリーを追うにつれ、静かに心に積もっていく。そしていつしかスカダーが心に住まっているのに気付く。 とにかくそれまで読んでいたブロック作品の雰囲気を覆す芳醇なウィスキーのような大人の香りに満ちた文体が非常に心地よい。 ウェンディとリッチー。2人の若者は一緒に暮らしながらなぜ死んだのか? 50代の男性から金を貰ってはデートをし、一夜を供にして金を稼いでいたデート嬢とホモの集まるバーに通っては近寄ってくる男を受け入れるでもなくついていくようなシャイな男が同棲していたのはどうしてなのか? スカダーは彼と彼女の近況、そして過去を探ることで次第にその奇妙な関係に納得のいく理由を突き止めていく。 そしてスカダーの目に映る生前の彼ら2人の像は実に哀しくも寂しい存在だったということだ。 みんな一人は寂しい。だから一夜限りであれ、誰かと共にいることを選ぶ。しかしそんな刹那的な出逢いではなく、純粋な物を欲しがった2人が見つけたのは足りないものをお互い補う関係。 それは父親から幼い頃に影響を受けたがために普通に振舞えなくなった社会的不適合者2人がお互いの傷を舐め合いながらそれでも生きていく姿だった。 事件の当事者の関係者を辿り、質問することで隠された正体を探り当てるスカダーの行為はロス・マクドナルドのリュー・アーチャーを想起させる。しかしリューは全てを知るために相手が嫌がるほどに質問を繰り返すのに対し、スカダーは必要以上のことを知ることで被る迷惑を知っており、それが故に忘れたい過去をほじくり返されて安定した生活を壊される人々がいることをわきまえているからこそ、そこまでの追及はしない。それは彼の優しさなんだろう。 ただし罪を犯した者に対しては容赦はしない。彼は真犯人に自分のやったことを胸に問い、自殺した方がましだと強要する。さもなければ警察に再捜査の依頼をすると。 スカダーは決して恐喝者ではない。ただ彼は優しいのだ。 被害者たちを調べていくにつれ、彼と彼女のこれからの生活を打ち砕いた者が許せなかっただけなのだ。 従って自殺を促すスカダーは冷酷などとは決して感じない。 彼は、そう、純粋なのだ。 久しぶりにじっくり味わうプライヴェート・アイ小説に出逢った。心に傷を負い、トラウマと共に生きる探偵を主人公にしたのがネオ・ハードボイルドというジャンルでこのマット・スカダーシリーズはその中でも代表作とされるものだ。 しかしそんなことよりもまずはマット・スカダーと彼を取り巻く人々の世界にこれからじっくり身を任せ、浸っていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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バングラデシュの密林など世界の自然を舞台に冒険・スパイ小説を繰り広げていたマレルが21世紀に選んだ冒険の舞台はなんと廃墟。
資金難で打ち捨てられたホテルやオフィスビル、デパートに忍び込む。彼の行動は彼ら曰く「写真以外は何も取らない、足跡以外は何も残さない」。しかしそれは立派な不法侵入と云う犯罪。それ故彼らは自らの素性を語らない。従って紹介もファーストネームもしくはニックネームだけだ。 まさか廃墟探索がこれほどスリリングだとは思わなかった。 暗闇に巣食う動物たち。不衛生的な環境で育ったそれらは攻撃的でもあり、傷つけられると病原菌に感染してしまう。さらに長年風雨に曝され、老朽化が進み、床が突然抜けたり、階段が崩落したり、思いもかけない危難が待ち受けているのだ。そんな状況で機転を働かせて仲間の救出を行うところなど、手に汗握るスペクタクルになっている。機能を失った建物が未知なるジャングルの如き迷宮に見えてくる。 そんな危険を冒してまでも廃墟侵入を止めないのはそこに魅力があるからだ。当時の時間を体験することが出来るからだ。 原作者のあとがきによれば彼らのようなグループは世界中に実在するとのこと。いやあ、マレルは実に面白い題材を見つけたものだ。 そして挿入されるかつての宿泊客たちのエピソードも興味深い。 亡き夫と思い出のために訪れ、自殺する者。 ホテルに荷物を残して失踪したまま行方知れずになった者。 不治の病に侵され、最後の記念にホテルに泊まり、自害する者。 さらには各登場人物のエピソードも面白い。特に主人公のバレンジャーの軍隊時代の恐ろしい捕虜体験は読み応え十分。この辺はランボーの原作者たる所以か。 そして物語は暗闇の中の廃墟探索という冒険物から不測の訪問者である窃盗グループによる拘束を受けるというサスペンス物に変わり、さらに廃墟のホテルに住まう異常殺人鬼の登場で次々と仲間が殺されていくホラーへと転調していく。 『ダブルイメージ』ではあまりに物語の転調が激しく、読後はなんといったらいいか解らないほど戸惑いを覚えたが、本作では舞台設定が廃墟と固定されており、その不気味なムードが冒険、サスペンス、ホラーを包含しているため、上に書いた物語の転調が非常にスムーズで、逆に先の展開に好奇心が募る思いがした。 正直云って本書は私が今まで読んだマレル作品で一番面白い長編となった。作家生活30年以上も経って物語力の感じる作品を生みだす、まさに円熟味のなせる業か。 前回読んだ短編集『真夜中に捨てられる靴』でも感じたが、マレルは21世紀になって作風がガラリと、しかもいい方に変わった。これほど味が出るとは思わなかった。 こうなると近年発表されたマレルの作品が実に気になる。本書は2005年の作品。しかも版元のランダムハウス講談社は武田ランダムハウスジャパンに経営を移した後、本書は絶版の憂き目にあっている。 どこかマレルの未訳作を訳出してくれる寛大な出版社はないだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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クイーンシリーズとしては最後から二番目の長編となる本書。
なんとその舞台はライツヴィル。そして本書は『顔』で語られたグローリー・ギルド事件の続きから始まる。つまり本書はエラリイ・クイーン自身が書いた作品だ。 『真鍮の家』でリチャード・クイーンはジェシイ・シャーウッドと結婚したが、本書ではそれは無かったことになっているらしい。同書の事件を飛び越して『顔』の事件の後、しかもエラリイの復調のためにクイーン警視はライツヴィルの保養所にて一緒に過ごす。しかもそれについて妻に断りを入れる云々の件はない。その後自宅に戻ってもジェシイの影など少しも見かけられない。確かにあの作品はエイブラハム・デイヴィッドスンの手になる物だからそれも致し方ないのだろう。 従って本書でのクイーン警視は案外俗物っぽい。エラリイを裸映画(ポルノ?)に誘ったり、ジョニー・Bの遺産相続人のレスリーに対して「あと30年若かったら…」などとのたまう。長い間やもめ暮らしをしていた老人の悲哀を感じる。 また本書ではノンシリーズの『ガラスの村』の舞台となった<シンの辻>が意外と近くにあることが明かされる。事件の舞台となったジョニー・Bの別荘はライツヴィルと<シンの辻>の間に位置するのだ。 そんな物語の中心人物は何度も結婚を繰り返すジョニー・B。父親の莫大な遺産で何不自由なく暮らし、毎月世界中のどこかのイベントに参加する自由人。 そんな彼だから結婚に縛られるような人物ではないと思っていたが、実は信託財産で年間30万ドルが支給されるようになっているが、それでは彼の生活では足らないので遺言状にある「私の息子ジョンが結婚した時には500万ドル与える」というのを「私の息子ジョンが結婚する時にはいつも500万ドル与える」と読み替え、それが故に結婚、離婚を繰り返すことになったという仕組みだった。 しかしそんな暮らしに終わりを告げる予定だった第4の妻ローラの存在を探し、またジョニー・Bを殺害した犯人を見つけるのが本書の謎。 3人の元妻たちに囲まれた中でそれら元妻には遺産は相続しないと宣言したその夜に起きた殺人事件。こんなシチュエーションであれば必然的に犯人はその3人に絞られてくる。そんな中に不協和音を奏でるのが前日に紛失した3人の女性たちのそれぞれの持ち物であったイヴニング・ドレスに緑のかつら、そして手袋。 それらが見事に論理的に解明されるラストは実に鮮やか。たった1つの解で全てがピタリと収まるべきところに収まる鮮やかな手際にやはり本家クイーンは凄いと唸らされた。 まさに長年の沈黙を破る会心の一作だ。 正直に云えばクイーン全盛期の作品と比べれば地味な物語でありサプライズの度合い、地味な物語などやや落ちるのは否めないものの、他作家のクイーン名義を読んだ後ではこの作品がやけに眩しく感じてしまう。 そういった意味でちょっと甘めに8ツ星としたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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題名に『超~殺人事件』と各編に冠したパロディ短編集。副題に「推理作家の苦悩」とあるように推理作家が常日頃抱いている不平不満をテーマにした作品とも読み取れる。
まず最初は「超税金対策殺人事件」はたまたま売れたがためにドカッと税金を納めなければならなくなった推理作家が各種領収書を必要経費と税務署に認めさせるようにあの手この手で作品にどうにか織り込もうと苦心する作品だ。 常々作家は取材旅行と称して色んな所に旅し、また車や高級な服なども自分のために買っても作中に登場させれば必要経費として落とせる、なんて優雅な商売だと思っていたが、ここにはそのために手練手管を尽くす作家の足掻きが書かれている。逆に云えば作家たるもの、年末の確定申告に向けて買い物や娯楽に費やしたお金をいかに上手く作品に活かすかに腐心しているとも取れる。 本書には物品ごとや行楽費をどのように活用すれば必要経費として落とせるかが細かに書かれているが、これは東野氏自身の経験だろう。翻せば新人作家は本書を読めば必要経費への落とし方が解る、いいマニュアルとして活用できるわけである。 ところで東野氏は本書を書くためにハワイ旅行や旭川の旅行費用を必要経費として落としたのだろうか?だとすればなんと狡猾な人なのだろう。 続く「超理系殺人事件」は本屋に立ち寄った男が佐井円州なる見知らぬ作家の書いた『超理系殺人事件』なる本を手に取る。そこには中学の理科の先生である男でさえ知らない最先端科学の話がふんだんに盛り込まれており…。 タイトルの下に「この小説が肌に合わない方は飛ばし読みして下さい」の一文が付されているように本書は量子力学、宇宙物理学、生物学、医学、遺伝子工学など、大卒の私でさえ専攻したことのない難関な最先端学問の知識がこれでもかと云わんばかりに織り込まれている。 東野氏の作品では自身がエンジニア出身ということもあってか、科学関係の知識が盛り込まれた作品が少なくないが、それでも文巧者の東野氏だから非常に読みやすいのが特徴的だった。 しかしながら本作では逆にそれを放棄し、延々と小難しい専門用語を敢えて多く使うことで特異性を出している。そして最後に至る似非理系人間摘発のオチ。思わず本書から手を放したくなる演出だ。 意表を突かれたのが「超犯人当て小説殺人事件」だ。 懸賞付き犯人当て小説を当てるために集められた編集者たちが一夜を作家邸で明かすと当の作家が何者かに殺されていて、さらにその殺人事件が実は犯人当て小説の中身だったという入れ子構造になった作品。確かに読者にとってはそれもまた作品なのだから正しいが、作品世界に没頭すればするほど眩暈が起きるような作品だ。 今後の出版界の暗い未来像を予見しているかのような作品が「超高齢化社会殺人事件」だ。 高齢のミステリ作家担当の編集者とは本当にこんな苦労をしているのだろうかと一種実話のように受け取れる作品だ。 そして東野氏は読書離れが進んでもはや読書をするのは以前の読者であり、そして作品もまたネームバリューのある作家の物しか売れないためにほとんどの作家が高齢だという未来像をここでは設定している。幸いなことに本書刊行から数十年経った今では逆にメールやブログ、ツイッターが流行した現在では一般人の表現欲が開花し、作家になりたがる人は増えている。しかし一方で出版不況が叫ばれているのはこの予想通りなのだが。 ともあれ、作家も編集者も出版に携わる人々が高齢化し、それぞれがボケているというブラックユーモアの効いた一編だ。 「超予告小説殺人事件」は実に東野氏らしいツイストの効いた一編だ。 推理小説に書かれた内容のとおりに実際に殺人が起きるというモチーフは使い古された手法だが、そこに東野氏は実に人間臭い味付けを施す。 庶民である我々ならば当然そうなるよなぁと展開で全く不自然さがないのがこの作品の魅力。逆に云えば最後のオチはそれが故に予想通り、落ち着くべきところに落ち着いたとも感じてしまうのが玉に瑕なのだが。 本書で一番笑ったのが次の「超長編小説殺人事件」。 本書が書かれたのは2001年で作品の長厚壮大化が蔓延っており、実際『このミス』でもそれら2000枚超の大作が上位を占めるという風潮があった。 実際2001年までの代表的作品を見てみると、髙村薫氏の『レディ・ジョーカー』に真保裕一氏の『奪取』や京極夏彦氏の京極堂シリーズ。夢枕獏氏の『神々の山嶺』、小野不由美氏の3500枚の『屍鬼』に、とどめは4000枚超の二階堂黎人氏の『人狼城の恐怖』とどんどんエスカレートしていっているのが解る。 そもそもミステリの長大化は島田荘司氏の御手洗潔シリーズや船戸氏の諸作品がその先鞭だったように記憶しており、そこから自然派生的に他の作家たちも長大化したように感じている。 そんな当時の出版界の世相を皮肉ったのが本作だ。特に本筋とは全く関係のない情報を織り込んで水増ししているのを作中作で過剰に実践しているところは笑いが止まらなかった。また本作では実作家の名前や作品名のパロディが多いのも特徴的だ。 「魔風館殺人事件(超最終回・ラスト5枚)」は箸休めのようなショートショートだ。連載最終回に至っても解決策のアイデアが浮かばない作家が最後に取った手は…という趣向だが、これも時折見られる手法だ。しかし実際連載小説はバランスが悪い作品が多いように感じる。 最後の「超読書機械殺人事件」は書評家の許に代わりに書評を書いてくれる機械ショヒョックスなる機械を売りに来る男の話。 日々本を大量に読んではその感想を書くことで生業にしている書評家にとって苦笑せざるを得ない作品だ。 元々一読者として本を読むのが大好きでいつしか感想を書き、そしてそれをウェブや同人誌で挙げていくうちに知らぬ間に書評家となっていたという方々が多いことだろう。そして大半の書評家がいつしか好きで読んでいた本が単に収入を稼ぐための目的として本来の本好きから乖離していっていることだろうと思う。なぜなら仕事のために読みたくもない本も読んで、抱いた感想とは裏腹にその本を売るために褒めなければならない文章を書かされるからだ。 まさに本作はそんな歪んだ読書を痛烈に皮肉った作品だ。しかし『名探偵の掟』から東野氏の読者に対する不信感はますます増すばかりだなぁ。 古くは『浪花少年探偵団』や『殺人現場は雲の上』で垣間見れ、『怪笑小説』や『名探偵の掟』で花開いた東野氏のユーモアが横溢した短編集。 『超・殺人事件』の名が示す通り、過剰なまでに特化されたテーマを突き詰めることでギャグに徹している。 そして常に描かれるのは作家や編集者など出版に携わる者たち、作家もミステリ作家と決まっている。つまりこれは業界の内幕をコミカルに描き、半ば暴露した短編集なのだ。 しかし単に面白いだけでなく、各編には出版業界の暗い側面が描かれていることに気付かなければならない。 例えば「超税金対策殺人事件」はまさに現役の作家ならば一度は直面する問題ではないだろうか?作家業とは無縁の我々にとっては実に面白おかしい喜劇であり、現実味のない話だが、作家の方々は逆に笑えない作品かもしれない。 そして東野氏自身がこの作品を書くことで作中に登場する物品や資産、旅行などの行楽費を経費で落としたのかもしれない、とまで思ってしまう。もしそうだとしたらなんて賢いのだろうか、東野氏は! 「超理系殺人事件」は内容が極端だが、現在では一定の部数を売るため、読書に縁のない人々にも手に取れるように平易で安易な内容、文章を書くように作家たちは強要されているのかもしれない。しかし作家の中には自分の書きたいテーマを深く追求し、濃い内容で書きたいと思っている人もおり、そういった意味ではこの作品はそんな作家たちの恨み節とも取れる。 恐らく自分が書きたい濃い内容を書くことが出来るのは島田荘司氏とか京極夏彦氏とか大沢在昌氏とか巨匠と呼ばれる一部の作家だけなのだろう。 「超犯人当て小説殺人事件」はゴーストライターに死なれたために作家当人が遺した作品の犯人が解らないという皮肉な内容だが、これももしかしたら実際に業界では有名な実話なのかもしれないし、「超高齢化社会殺人事件」は先細り感のある出版界への一種の警鐘として、そして「超予告小説殺人事件」は作品が売れ、生活が出来ている作家とはごく一部であるという業界の厳しい現実を突き付けており、また売れるためには作家は何でもするという凄みも感じさせる。 「超長編小説殺人事件」ではエスカレートする小説の長大化を皮肉っているが、実際当時は作中に書かれているように出版社から1000枚のみならず2000枚クラスの作品を多くの作家が要求されていたのであろう。限られた書店の本棚のスペースを占有するために、そしてページ数を増やすことで単価を引き上げるために。 作中で書かれている「文字のフォントを大きくする」、「改行を増やす」、「字間、行間をできるだけ開ける」などはまさに出版社の苦肉の策であり、実際に行われていることだ。本当に最近の見開きページのスカスカ感にはガッカリさせられる。 また本書は東野氏の超大作『白夜行』以後に書かれた作品だから、もしかしたらここにはその時の恨み節も入っているのかもしれない。 「魔風館殺人事件(超最終回・ラスト5枚)」のように結末まで決めずに書き始めて収拾がつかなくなった作品もあるのだろう。特に新人作家、売れない作家は急な連載を断れず見切り発車で進めた作品も多いことだろう。 そして最後の「超読書機械殺人事件」は実に痛烈だ。この作品ではどんな作品であろうと書き方次第で欠点も美点となり得ることが書かれている。そしてその内容には浅薄なものもあり、作者が読み取ってもらいたかったことに触れられていない書評も多いに違いない。また作者自身も他作家の作品で一種強要された解説を書かされた経験も織り交ぜられているのかもしれない。 とこのように各編には「作家はつらいよ」と云わんばかりのアイロニーに満ちている。「推理作家の苦悩」と副題にあるように本書を読めば文筆業に携わる方々の苦労が偲ばれる。物語を生みだし、創作するということがいかに大変か、そして日夜いかに苦しんでいるかが本書を読めば解る。 本書の内容はかなりユーモアに満ちているがその8割は作家が日常に孕んでいる苦労や苦悩であるに違いない。 つまりこれらには実際の作家たち、評論家たち、編集者たちの生の声が収められている業界裏話でもある。 そして作家たちの心からの悲痛な叫びであろう。恐らく一般読者は面白く読めたが、作家たちの多くは身につまされるエピソードや共感し、快哉を挙げた話が多く、単純に笑って済まされない物語が多いに違いない。 果たしてこれは東野氏からの作家を目指す全ての作家予備軍たちに対する警鐘の書ではないだろうか? 該当する方々にとって本書は必読の書と云えよう。決して笑い事として済まさないように。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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トレヴェニアンの傑作『シブミ』を現代きってのストーリーテラー、ドン・ウィンズロウが受け継ぎ、続編を書く。このニュースを聞いた時に私の嬉しさと云ったらなかった。
『シブミ』は私が現代ミステリを読み始めた頃に読んで驚きとスリルを味わった作品。そしてウィンズロウは2年前から読み出した作家でとにかく発表される作品すべてが痛快で外れなしの作家だ。 これはまさに私に読むべしと告げているようなものではないか! そして早くも文庫化された。最近の早川書房の文庫化の早さは文庫派の私にとって何とも嬉しくて堪らないものがある。 そんな期待の中、繙いた本書は一読して一気に『シブミ』の世界に舞い戻らされた。 ここにはいつもの軽妙でポップなウィンズロウ節はなく、あるのはトレヴェニアンが築いたニコライ・ヘルの物語だ。日本の侘び寂びを筆頭に中国などの東洋文化に深く分け入った描写。『シブミ』を読んだ時に感じた「これは本当にアメリカ人が書いたのか?」という驚嘆の世界が次々に繰り広げられる。 冒頭の茶会のシーンで描かれる茶道の細かな作法とさりげない所作の数々。中国人との文化の違いによる交渉の仕方、またニコライが囲碁に擬えて戦局を探り、最善の道を模索する思考などなど、単に日本の物を並べたような浅い描写ではなく、文化と国民性まで踏み込んだ深みのある洞察に至っている。 確かに本書には『シブミ』の世界があるのだ。 また原典に登場した人物が本書でも出てきてニコライと深く関わり合うのがいい。憎き大敵ダイアモンド大佐を筆頭に情報ブローカー、モーリス・ド・ランドなど、ニコライにどのように関わりあったかが本書できちんと描かれているのが実に楽しい。本書の後にもう一度『シブミ』を読み返したくなる粋な演出だ。 さらに物語の翳で暗躍する<コブラ>なる暗殺者の正体には実にフランス的趣味が施されている。 忠実に原典の世界を再現させつつも作家ウィンズロウとしての矜持も忘れない。まさに今最も脂の乗り切った作家の1人だ。 さてそんな東洋文化を織り交ぜ、日本、中国、ヴェトナムへと舞台を展開し、スパイ小説のみならず冒険小説のスリル―ニコライがギベールとしてヴェトナムまでロケットランチャーを届けにジャングルや急流を渡るシーンのスリリングなこと!―も味わうことの出来る、まさにエンタテインメントのごった煮のような贅沢な作品だが、一つ納得のいかないのは本書の題名にもなっているサトリの内容だ。 ニコライがヴォロシェーニンへのミッションで傷つき、療養生活を送っている間に出逢う雪心なる僧侶との会話でサトリというものの境地を教わるのだが、それがいわゆる高僧が開く悟りの境地とはいささか異なるように思える。 これからの道行きの全てが見えることを“サトリを得る”と書いてようだが、悟りとは日蓮や親鸞などの話からすれば、いわゆる“真理”を悟るということだと私は認識している。そしてその悟りの教えを広く伝えるために伝道師として行脚しているのが彼らである。 従ってニコライが本書で得ているサトリとはいわゆる“見切り”であり、囲碁や将棋で何手先まで見通す“見極め”のことではないだろうか? その点を日本人が認識する“悟り”と誤認しているように思えたのが大きなマイナスとして私には働いた。 とはいえ、34年も前の作品を前日譚を描いて見事甦らせたウィンズロウの功績は大きい。名作と云われた原典が本国アメリカでは今どのようなステータスにあるのか寡聞にして知らないが少なくとも日本では新版として再販され現在も絶版せずに書店の棚に並んでいる。 恐らく今後長らく『シブミ』は古典の名作として数ある巨匠の作品と共に並び続けるだろう。それは本書が一役買っているのは間違いない。 そして本書もまたその横に共に並び、いつまでも誰もが手に取れ、ニコライ・ヘルの世界に浸れるようになるよう、望んで止まない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムシリーズ8作目の敵は他人の情報を自在に操るソウル・コレクター。彼は他人の趣味趣向を調べ上げ、その人の持ち物と日々の行動範囲などから証拠を捏造し、犯人に仕立て上げる連続殺人鬼だ。
通常殺人事件の犯人となれば自身を特定する情報を失くすために慎重に痕跡を消し去るものだが、今回のソウル・コレクターは逆に他者を特定する証拠を残すことで捜査の眼から自身へつながるルートを誤操作させる。それはデジタル化した個人情報を巧みに操ることで可能とする。まさに過剰化する情報化社会が生んだモンスターなのだ。 リンカーン・ライムのシリーズではしばしば「ロカールの原則」というのが引用される。すなわち犯罪が発生した際、犯人と犯行現場と被害者との間には例外なく証拠物件が移動するという原則だ。 本書の連続強姦殺人鬼ソウル・コレクターはこの「ロカールの原則」を逆手に取って捜査を誘導する、まさに鑑識にとって天敵なのだ。 それに加えて前作の宿敵ウォッチ・メイカーの追跡も行われる。彼と思われる人物がイギリスへ逃亡したことを知り、ロンドン警視庁と共同で捕獲作戦を行う。 さて本書の題名ソウル・コレクターだが、実は一度も作中に登場しない。作中では未詳522号もしくは素っ気なく522号と呼ばれるだけ。5月22日に発生した(発覚した)事件の容疑者だからと由来も素っ気ない。 つまりソウル・コレクターとは訳者の創作による命名なのだろうと思ったら、実はディーヴァー本人が訳書のために挙げた候補の中から選ばれたそうだ。なんというサーヴィス精神か。 ちなみに原題は“The Broken Window”。作中でも語られるがいわゆる「割れ窓理論」を指す言葉だ。 窓ガラスが割れたままだとその状態が当たり前になり、人の心も荒んで犯罪が増えるという理論だ。これはニューヨーク市長がスラムの割れた窓を補修し、建物の落書きを消して綺麗に整備したことで犯罪発生率が激減したことからも証明されている。実に有名な話だ。 しかし本書ではもう1つの意味を持っている。それは人々のプライヴェートを割れた窓から覗くというものだ。そうすることで個人の情報を白日の下に曝し、その人の行動を先読みし、誘導していく。趣味嗜好まで把握し、また個人的な悩みも知らされる。人相が似ている犯罪者を捜し出して、逆に警察官を犯罪者として通報し、誤認逮捕を行わせようとまでする。 それらの情報は今我々が使っているインターネットは勿論の事、クレジット・カード、銀行のATM、日本で云うところのETCの通過記録、市街に設けられた監視カメラ、警察の免許証更新記録などなど通信機能を備え、電脳空間を介する行為が蓄積されたデータバンクから引用されるのだ。しかも記録されることを逆手に取り、盗んだ個人情報を悪用して買い物をし、精神カウンセラーの案内を取り寄せたり、出退勤記録も改竄して、さも冤罪者が犯罪者であるかのように誤導するのだ。 これは堪らない。 なんせいつもと変わらぬ朝を迎えたところにいきなり警察が乗り込んでくるような事態に陥るのだから。まさに情報化社会の恐ろしさをまざまざと思い知らされた。 さらに敵の氏素性が解ると今度は情報を操作し、あらぬ罪を被せ、身の覚えのない借金を抱えさせられる。 アメリアは父親から譲り受けたカマロを没収され、ライム宅は電気料金未納で電気を止められ、ロン・セリットーは麻薬所持の罪で停職処分にさせられ、プラスキーは妻と子供が不法滞在者として拘留させられる。 いやはや情報というものがこれほど我々の生活を脅かす存在になるとは思わなかった。 本書に出てくるデータ・マイナーというあらゆるデータを保存する会社は存在している。知らないうちに我々も番号化され、趣味嗜好、思想や人間関係の繋がりなどがどこかでデータ化され蓄積されているのだろう。いわば見知らぬ誰かに丸裸の自分を把握されている状況だ―何しろ長らく秘密とされていた介護士トムのラストネームでさえ判明する―。 だからこそこのような個人情報を扱う会社はセキュリティを絶対無比の物にしなければならないし、また情報を扱う社員も人格者でなければならない。情報化社会と一口に云うが、その重大性や脅威について本書でその本質を知らされた次第だ。 しかし本書は真犯人が誰かとかウォッチメイカーは捕まったのかよりも情報の持つ恐ろしさをまざまざと思い知らされたことが大きい。 モバイル機器のCMで「いつもどこかで誰かとつながっている」なんてコピーが温かみを持って流されるが、その裏に潜む怖さが本書を読むことで先に立つ。 便利になった現代社会の歪みを見事エンタテインメント小説の題材に昇華したディーヴァー。まだまだその勢いは止まらないようだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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講談社が打ち立てた児童文学ミステリの叢書「ミステリーランド」シリーズの1冊として書かれたのが本書だが、子供向けというにはなかなかハードな内容だ。
透明人間になってしまったとしか思えない殺人事件の内容はもとより、事件の背景となる主人公ヨウちゃんの家庭環境や隣人真鍋さんとの関係など、およそ子供の読み物とは思えない内容に眉を潜めてしまう。 母子家庭で母親が水商売をして稼いでおり、ホステスのライバルがいて真鍋さんに財産目当てだと吹き込んでいたり、そんな女を憎々しく思い、殺意を抱く真鍋さんの描写、さらには子供が学校に行っている時間中の母親と隣人の逢瀬のシーンなど、大人の卑しい部分を若干オブラートに包んではいるが、はっきりと描いている。 これは島田氏なりに最近の子供はこれくらいのことは知っているという理解の上での創作なのか、それとも大人の世界の汚さを知らせるために敢えて書いたことなのか。いずれにしても真意を知りたいものだ。 重ねて表紙も含めて物語に挿入される石塚桜子氏のイラストは抽象的で観念的で禍々しくておどろおどろしく、怖さを助長させ、読者の子供諸氏はトラウマになるのではないだろうか。 とまあ、いきなりネガティヴな感想を羅列してしまったが、やはり島田氏、他のミステリ作家の一つ上を行く完成度だ。 しかもテーマも今日性に富んでおり、透明人間という幻想的な謎を合理的に解き明かすだけに終始せずに、社会性も絡める。久々に島田氏のストーリーテラーの力量に参ってしまった。 さらには密室からの脱出も温故知新でカーター・ディクスンの某作を思い出してしまった。 あのときの私の感想は批判的だったが、今回は密室を構成する人物にある設定をもたらすことで説得力を持たせている。 21世紀本格を目指しながら古典ミステリにも材を得る、島田氏のミステリマインドの幅広さに感服してしまった。 ただ惜しむらくは前述したようにこれが児童向けに書かれた物語として適切かどうかということ。恐らくは小学高学年以上を想定して書かれたのだろうが、「児童」という言葉の定義は6~12歳までと実に幅広い。本書を6歳が読んだ時の衝撃を考えると相応しい内容かと疑問視せざるを得ない。 本来、作品はそれ自身の出来栄えで評価すべきだろうが、本書に関して云えばやはりそういった外部要因が頭を過ぎらずにいられない。 しかし流石、島田荘司氏。 彼のミステリマインドと明日のミステリへの探求心は少しも揺るぎがないことを知り、ますますファンになってしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ジョー・ヒル待望の新作。傑作短編集『20世紀の幽霊たち』以来だから実に4年ぶり。
日本での訳出は逆だったが本国では前作に当たる『ハートシェイプト・ボックス』から5年ぶりの新作である。 いやあ、さすがはジョー・ヒル。どのジャンルにも属さない素晴らしくも奇妙な味わいの作品を読ませてくれる。 朝起きると角が生えていたというカフカの『変身』を思わせる発端から、角が生えたイグに逢う人物はことごとく腹に溜まっていた悪意の言葉を口にすることが解る。 これがもうとても聞きたくない話ばかり。普通の隣人や知り合いが実は腹の中でどんな風に思っているのか。それが制限なく毒を垂れ流すが如く溢れ出る。なんというか、まともな人間はいないのかとまで思わされる。 そして触れた者の秘密事が一瞬にして解る能力も授かる。この秘密事も知られたくはない性癖だったり悪事だったりする。しかしこんな能力は願い下げだ。 そして彼らよりも輪をかけて悪いのはイグの友人リー。とにかく今回はこの敵役のリー・トゥルノーの下衆野郎ぶりに尽きる。なんとも自分勝手な利己主義者であることか。 他人の善意を利用し、全てを自分の都合のいいように解釈する。友人は全て利用する物、全ての女性は自分に抱かれたいと思っている、そんな傲慢な性格の持ち主だ。 日本の小説ならばここまで書くと…というブレーキがかかるところをジョー・ヒルはとことん描く。人間の嫌な部分をあからさまに謳う。 この辺の筆致はクーンツに出てくる唾棄すべき悪役に似ている。 物語はイグに角が生えた現在と、イグが恋人メリンと出逢った少年の頃の時代の話、そしてメリンが殺された夜の話が交互に語られる。 イグ、兄テリー、そして親友のリーとの出会いと日常を語る過去の章は青春小説の趣があり、マーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』を髣髴させるほど色鮮やかでノスタルジックだ。実にアメリカ的な物語である。 特にイグとメリンが最初に会話を交わすシーンなんかは眩しくて美しすぎるくらいだ。本当にこういうのを書かせるとジョー・ヒルは上手い。 そして私が特にジョー・ヒル作品で好きなのは物語に挟まれるサブカル、特に音楽に関する薀蓄や冗談。突然歌詞の一部が地の文に挿入され、思わずニヤリとさせられるし(この辺は洋楽ファンの特権だ)、平気で物語の登場人物に実在のアーティストを絡ませたりもする(ちなみに今回はローリング・ストーンズのミックとキース)。 そしてその最たる物はやはりこの物語の要となる設定だ。頭に角が生えるという着想はさすがジョー・ヒル!と思わせる奇抜な発想だと思ったが、いやはやAC/DCのアンガス・ヤングだったとはね!そのネタが解った頃からイグの風貌はアルバム・ジャケットで角を生やしているアンガスのそれとなってしまった。やはりジョー・ヒルの作品と音楽は切っても切り離せない要素であるようだ。 しかし本書は哀しい物語である。 優しい者同士がお互いを強く愛するがゆえに起こった悲劇。 そうこの物語は悲劇から始まる。 そしてジョー・ヒルは悲劇から始まった彼らに対して安直な救いは用意しない。物語の結末としては苦い物ばかりなのだが、なぜかその喪失感こそが爽やかだ。 全てを燃やし切った彼らの心地よい徒労感が行間から漂う。 そして題名『ホーンズ』のもう1つの意味が最後に解る、この演出もまた憎い。 もう少し削ればこの物語は傑作になりえただろう。ジョー・ヒルの長編を読んで残念に思うのは全てを語らんとする冗長さだ。この辺をもう少しそぎ落とし、行間で語れるようになればもっとすごい作家になるに違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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読み終わって大きな息が思わず出てしまった。
怒涛の展開で連打の如く畳み掛ける言葉の嵐。今回の物語で要した章は289にまで上る。正味460ページ足らずの分量でこの章の多さ。いかに切りつめられた章立てであるかが解るだろう。 ウィンズロウの文体はもはや詩である。 短文の連発で散文的に書かれた語り口は彼独自のリズムで物語が展開する。固有名詞(62章を見よ!)に略語にスラングの応酬で綴られるその文章にはまぎれもなく行間から“声”が聞こえてくる。 つまりはこの声を生かしたままで日本語に訳している東江氏の素晴らしい仕事ゆえに私達はウィンズロウが耳元で囁くかの如きライヴ感溢れる文体に酔うことが出来るのだ。 ただそれがあまりに過剰になりすぎて、読者の理解を超えたところで鳴り響いている感じもする。恐らくこれはウィンズロウがあえて実験的に取り組んだ文体だろうが、この波は少々じゃじゃ馬すぎて、上手くライディングするのにはかなりの時間が必要だった。 今回扱っているテーマは麻薬商戦。相手はメキシコの大麻薬カルテル。そう、主題としては『犬の力』と一緒なのだが、『犬の力』がDEA(麻薬取締局)と一大麻薬カルテルとの血で血を洗う凄惨な戦いを描いたのに対し、本書は独立経営でやっている麻薬商業者ベンとチョンと一大麻薬カルテルとの戦いを描いたもので、ベンとチョン、それに彼ら2人の恋人Oが加わったオフビートな味わいの物語になっている。 このベンとチョン、そしてOの造形が素晴らしい。 精神分析医の両親を持ち、自身も精神療法のクリニックを経営しながらも独学で育てた大麻をチョンと共同で売って生計を立てているベンは何かにつけ、人の行動を分析する傾向にある。そして根っからの非暴力主義者で時にふっと世界のどこかで弱者を救いにボランティアに出かける、そんな人間だ。 片やベンのパートナーであるチョンはその名前からアジア系アメリカ人を想像するが生粋の白人。いつの間にか本名のジョンがチョンに変化してしまい、そのままで通している。海軍に所属し特殊部隊員となり、“スタンの国”で戦争の最前線に行き、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた男。感情を表に出すことはなく、誰かに優位に立たれるのを好まない武闘派。 そしてベンとチョンの恋人オフィーリアことO。美貌を誇る母親から生まれたOは自由奔放な精神の持ち主。知識は少ないがベンとチョンは彼女が頭がいいことを知っている。2人のオアシスで帰るべき家ともいうべき存在。 この三人には他者が入れない強い絆で結ばれている。兄弟よりも濃い関係なのだ。 そんな彼らに立ちふさがるのがバハ・カルテル。中でもその恐怖の象徴であるのがラド。元々麻薬対策特務組織の一員だったが、終わりのない戦いと一方で肥え太る麻薬組織の連中を見るにつけて仕事に嫌気が差し、カルテル側に移った人間。チェーンソーで人の首を切るのを何とも思わない冷徹な男。どんな嘘も見抜き、粛清を下す。組織の恐怖の掟が具現化した男だ。 さてそんな彼らが登場する物語、オフビートテイストが最後まで続かないのが最近のウィンズロウ作品の特徴。前作の『夜明けのパトロール』同様、物語は次第に暗い様相を帯びてくる。ベンとチョン2人の麗しの君Oにバハ・カルテルの魔の手が伸び、誘拐されてしまうのだ。云うことを聞かなければチェーンソーでの死刑が待っている。 大麻栽培と販売という犯罪と貧民国を訪れボランティア活動を行う慈善家の二足のわらじは上手く両立できると信じていたベンの信念に揺らぎが生じ、片や野蛮なる世界の怖さを知る武闘派チョンの暴力への信念はますます研ぎ澄まされていく。非暴力主義を貫けなくなったベンは全てを擲ってOを救おうとする。オフビートな犯罪小説から暗黒小説へ次第に物語はシフトしていく。 『犬の力』でも散々見られた惨たらしい拷問シーンは今回もふんだんに盛り付けられている。書かれた文字から否が応にも想像が働くその映像に目を背けたくなる。そんな暗鬱になりがちな展開の中で誘拐されたOの茶目っ気ぶりが一服の清涼剤になる。 淀みと気楽さ。 なんとこれは麻薬ではないか? もしかしてウィンズロウは文章という名の麻薬を実現しようとこのような実験的な文体を採用したのだろうか? やがて物語はハメットの有名な作品『血の収穫』で見せた二大勢力の麻薬戦争の様相を見せ、ベンとチョンがたった2人で巨悪に立ち向かう様が繰り広げられる。 これは彼ら三人の青春物語であり叙事詩であり伝説。 こんな物語、ウィンズロウにしか書けないわ! ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムシリーズ7作目にしてもう1人のシリーズキャラクター、キャサリン・ダンス初登場作。
2008年版『このミス』で堂々1位に輝いた。ネットでの評判もすごく、傑作との文字がそこここに見られる。期待に胸躍らせながら書を開いた。 いやはやウォッチメイカー事件とはこういう事件だったのか、というのが正直な感想。つまり殺し屋ウォッチメイカーとはその名の通り、時計を動かす複雑な構造を備えた犯罪計画を立てる―作中では複雑機構(コンプリケーション)と述べられている―殺し屋という意味なのだ。 特徴的なのは今回3つの事件が並行して語られること。ウォッチメイカー事件に警察の汚職が絡んだ会計士の自殺偽装事件。そして同じバーの常連だったメインテナンス会社の経営者の強盗殺人事件。従って捜査メモも3種類書かれる。 そしてこの複雑な事件を見破るには何よりもキャサリン・ダンスが登場したというのが大きいだろう。カリフォルニア捜査局の捜査官でボディ・ランゲージや言葉遣いを観察して分析し、尋問する相手の心理と読み取るキネクシスのエキスパート。とにかく相手を観察し、何を考え何を隠しているのかを読み取ることが何よりも好きな“人間中毒者”だ。 今回は彼女の尋問で目撃者が何をどこで見たかが絞り込まれ、サックスの現場検証の精度が増す効果が得られている。 また中盤ウォッチメイカーの相棒ヴィンセントが捕まるのも彼女のキネクシスによる尋問からだし、そこからウォッチメイカーの正体さえも割り出していく。 つまりキャサリンには嘘が通じないのだ。どんな嘘をついても悟られてしまう。そんな尋問のエキスパートに嘘をつくことが自覚的でないウォッチメイカーをいきなりぶつけるところにディーヴァーのネタを出し惜しみしない潔さを感じる。 常に新作におよそ考えうる難問を導入する旺盛なサービス精神には毎度これを超える作品が次書けるのかと妙な心配すらしてしまうほどだ。 特に今回注目したいのはライムシリーズ1作目の『ボーン・コレクター』が内容に大いに関わっていることだ。詳しくは未読の方の興を削ぐので書かないが、こういう趣向はシリーズ物を愉しむ読者にとっては縦軸だけでなく横軸への広がりを見せ、大きな絵を描くように世界観が楽しめる。 逆に読者は記憶力をさらに試されることになるわけで、今まで他作品の主人公のカメオ出演だけでなく、事細かに設定されたリンカーン・ライムワールドを熟読しておくべきだろう。そうすればますますこのシリーズが楽しめるに違いない。 本書の題名は殺し屋ウォッチメイカーだが、原題は“The Cold Moon”。「冷たい月」を表すこの言葉はウォッチメイカーが現場に残した手紙に書かれた詩の一節であると同時に、太陰暦を意味する言葉。これはウォッチメイカーが現場に残した置時計が太陰暦も表示されることも関係している。 ただ今回はあまり原題は物語に有機的に関わっていないようだ。邦訳のウォッチメイカーの方が殺し屋の名前という単純な意味だけでなくてしっくり来る。 また前作ではセリットーが恐怖心に見舞われるというアクシデントが起きたが、今回はサックスにある事実がもたらされる。 それは尊敬して止まない元警官の亡き父が不正を働いていたという事実。街を仕切るギャングと懇意になり、商店主や土建業者から金を強請り取っていたのだった。サックスの元恋人の警官も不正で捕まった過去があるだけに警官の汚職にひどい嫌悪感を抱いていたサックスだったが、自分が警察官となるアイコンでもあった父親がそれに加担していたというアイデンティティが侵される事態に陥る。サックスは警察を辞する決意までする。 そんなサックスを上手くサポートするのが前作から登場した“ルーキー”ロナルド・プラスキーだ。彼もサックスの部下として時に警官、時に鑑識課員の卵として共に現場検証に当たるようになる。新人ゆえの熱心さと柔軟な物の考え方でライムたちの思いもつかなかったような助言もするようになり、前作に比べて格段に成長しており、キャラクターにも厚みが出てきた。 また一人ライムチームに魅力的なキャラが加わった。 他にもウォッチメイカーの相棒だったヴィンセント・レノルズの忌まわしい過去などはディーヴァーの騙りの上手さに少なからず驚いたのに、そんなことがもう忘れてしまうほどサプライズに満ちている。 本当にディーヴァーという作家は読者の心を上手く誘導するのが上手い。彼こそ本当の“魔術師”ではないだろうか。 全くこれからもますます目が離せない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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あえて犯人が誰かを書かない本格ミステリという野心的な作品である本書は発表当時非常に話題になったものだ。
これは『名探偵の掟』にも登場人物の口から語られていた 「本当に推理しながらミステリを読む読者なんているのか?」 という疑問を解き明かす為に東野氏が読者に挑んだ作品なのだ。 その昔からもエラリイ・クイーンに代表される「読者への挑戦状」という形式で読者との知的ゲームを演出していたが、本書のように真相すらも読者の推理次第で変わるという風に徹底したのは初めて。 しかしそれを成立させる為には読者が真相を解明できるためのヒントは全て開示しなければならないというリスクも発生する。つまり東野氏もまた挑戦者でもあるのだ。 殺人事件の容疑者は2人というシンプルな設定も意気込みを感じる。エラリイ・クイーンも後期は登場人物がどんどん少なくなっていったが、本書はさらにその上を行くシンプルさ。 しかしそれだけでは終わらない。妹和泉園子の仇を討つために兄康正が現場を自殺に見せかけてまで、自身で犯人を捉え、復讐を企む相手に疑問を投げかける加賀。つまり本書はどちらも犯人を捕まえる目的でありながら、自殺に見せかけようとする康正と他殺の線がどうしても拭いきれない加賀との、警官同士の一騎打ちという構図もまた現れる。 やはり東野圭吾はただの推理小説は書かないのだ。 さすがに真相が語られないとなると読書も通常よりも緊張感が増すように感じられる。元々私は推理をしながら読む方なのだが、それでさえなおそう感じる。まあ、推理しながら読むといいながらもその勝率はかなり低いのだから、仕方がないのだが。 さらに感心したのは犯人が誰かを明かさないという読者を突き放した結末でありながらも欲求不満を感じるものではなく、きちんと小説としての結末が成されていることだ。妹を殺され、佃潤一と弓場佳世子の前に立ちふさがる和泉康正の復讐とそれを阻止せんと奮闘する加賀との対決が物語の読みどころになっているところが素晴らしい。 最後に容疑者2人と康正と加賀が犯行現場の園子の部屋で一堂に会して繰り広げるサスペンスフルなやり取りは非常にスリリングで読み応えがある。しかもそこで語られる内容が犯人を特定する重要なヒントになっているのだから読書にも熱が入るのだ。 しかしかような本格ミステリに特化した物語でありながら、東野氏の数少ないシリーズキャラクター加賀恭一郎の存在感が更に厚みを増したように感じる。ディック・フランシスの競馬シリーズでいうならば、東野作品のシッド・ハレーというと云い過ぎだろうか? また改めて本格ミステリが読者との知的ゲームであることを再認識させてくれた東野氏に感謝したい。本当にミステリは当っても外れても面白い。それが作者の挑戦に真っ向から勝負したとあっては尚更である。同趣向の『私が彼を殺した』では是非ともリベンジを果たしたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムシリーズ第5作の本書はシリーズの中でも1,2を争う傑作だという下馬評が書評家のみならずネット読書家からも漏れ聞えて来ていたのでものすごい期待値が高い状態で読み始めた。
今回の敵は題名どおり“魔術師”。英語ではイリュージョニストと呼ばれているが、日本では手品師というのが一般的だろう。 しかし早変わり、クロースアップマジック、読心術、腹話術、動物のトリックにピッキング、さらには脱出マジックなどの細かで繊細な物から大掛かりな物まで全てをこなすオールマイティのマジシャンだ。 とにかく今までと違うのは犯人である魔術師ことマレリックが殺害の途中に警官たちに囲まれてしまうところだ。それにもかかわらず逮捕の寸前まで行きながらも逃れてしまうのだ。この顛末が非常にスリリング。 手錠を掛けようとすればフラッシュコットンを使って閃光で目眩ましをして逃れたり、腹話術や目線などで気を逸らせたりと、マジックの手法を巧みに利用して捕まらないのだ。さらには手錠を掛けても脱出トリックで解錠技術に長けたマレリックにしてみれば一瞬に解除出来てしまうからすぐに逃れてしまう。まさに最強の殺人犯なのだ。 毎回その作品でスゴイ!と唸らされる連続殺人鬼を生み出すディーヴァーだが、今回も今までの作品の更に上に行く犯人を送り出してきた。いやはやホントこの作家のアイデアの豊富さには畏れ入る。 原題は“The Vanished Man”。「消された男」だ。つまり見事に他人になりきることでその存在自体を消し去る男のことを云っている。まさに変幻自在の殺人鬼「魔術師」に相応しいタイトルだ。 この魔術師に絡めてカルト集団「愛国同盟」の指導者アンドリュー・コンスタブルの手下によるチャールズ・グレイディ検事補の暗殺計画が並行して語られる。 この2つの事件はやがて複雑に絡み合うのだが、とにかく二転三転するストーリー展開に読者は何が真意なのか、そして誰が魔術師なのか疑心暗鬼に陥ってしまう。 しかしよくよく考えると今回もディーヴァーが創案した魔術師は実は日本のミステリ読者ならば誰もが一度は読んだことがある古典的な名シリーズを思い浮かべるだろう。そう、江戸川乱歩の『怪人二十面相』シリーズだ。 しかし西洋人であるディーヴァーならばやはりここは同じく変装の名人怪盗ルパンがモチーフであるのだろう。つまりディーヴァーは古くからある物語を現代のマジシャンの最新技術とライムの鑑識技術と装置とを使うことで新たなエンタテインメントを紡ぎだしているのだ。 まさに古き器に新しき酒を注いで現代に新たな本格ミステリを生み出すこのディーヴァーの着想の冴えにはただただ感服するばかりだ。 今までのシリーズと違うところはライムが何度も魔術師と対面するところだ。その都度ライムは推理を開陳し、戦いを挑む。しかし魔術師はその名の如く逮捕されるたびに誤導や手錠解錠、偽造死などマジックの技法を使って巧みに脱出を繰り返す。 さらに興味深かったのは魔術師が以前火を使ったイリュージョンの失敗で重度の火傷を負い、かつ妻を失った過去を持つことだ。それは捜査で事故に遭い、四肢麻痺に陥ったライムと似た者同士だということだ。 しかし一方は犯罪に走り、一方は正義の道に戻ったこの二人の対照が物語の陰と陽を象徴しており、なかなか考えさせられた。 また今回も他の作品からのカメオ出演があった。パーカー・キンケイド。『悪魔の涙』で主役を務めた文書検査士だ。この辺の演出はディーヴァーの他作品への売り上げを上げるためのコマーシャルなのだろうか。 しかしこれまでの作品の中で最高のどんでん返し度を誇ると著者が豪語した割には読めてしまったというのが正直な感想だ。つまり読者として作者の手筋が見えてきたのだろう。 ちょっと過剰にサーヴィスしすぎた感が無きにしも非ずだ。この辺は哀しいかな、シリーズのマンネリ化を防ぐが故に生じた弊害だろう。 逆にもっと意外なところで不意打ちを食らいたいものだ。そう、作者の企みに満ちた微笑が行間から見えるような不意打ちを。 個人的にはライムシリーズを映像化したような『CSI』シリーズや『ミッション:インポッシブル』などのドラマや映画に触れている小ネタにニヤリとしてしまった。これら実在のドラマや映画に触れるということは逆に作者自身も対抗意識を燃やしているという表れなのだろう。 期待値が高かったせいもあって、10ツ星献上というほどのサプライズは感じなかったが、サプライズよりも今回は魔術師とライムら捜査側の騙し合いの攻防が非常にスリリングで面白かった。 まだまだネタは尽きないディーヴァー。次も読むのが愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾氏が本格ミステリにありがちなお約束事やコードといったものを痛快に皮肉った名探偵天下一大五郎と大河原警部二人のシリーズ連作短編集。
密室殺人を皮肉った「密室宣言」。Whodunitでお決まりの意外な犯人像を探し当てる「意外な犯人」。「屋敷を孤立させる理由」は本格の王道「吹雪の山荘」の中で繰り広げられる殺人事件を追った物。「最後の一言」はダイイング・メッセージが、「アリバイ宣言」はその題名どおり、アリバイ崩しのミステリ。変わった趣向なのが『「花のOL湯煙温泉殺人事件」論』は二時間ドラマのシステムを踏襲した内容。「切断の理由」はバラバラ殺人事件の「なぜ犯人は死体をバラバラにしたのか」を解き明かす。 「トリックの正体」は作中ではそれを語ることでネタバレしてしまうと伏せられているがここでバラしてもたぶん大丈夫なので書いてしまおう。一人二役トリックを扱っている。そこでは小説が文字でしか読者に表現していないことを逆手に取ったギャグで最後は締められる。 「殺すなら今」は童謡殺人を扱っているが、その中身は便乗殺人である。東野氏の捻くれた物の考え方がうまくブレンドされ、特にタイトルの意味が解る最後の一行は秀逸。 「アンフェアの見本」はどんなトリックは書けない。しかし東野氏がある有名な作品に対して持っている考えが解ってしまった。 「禁句」は首なし死体を扱っているが、まさに禁句のオンパレード。死体に首がない時点で被害者が他人と入れ違っているのは当然だろうとか、特に最後の台詞―ご都合主義はトリック小説には付き物でしょ―は、それを云っちゃあおしまいだよというものだった。 「凶器の話」では消えた凶器の正体がテーマ。これはその凶器の正体よりも最後に判明した新事実を名探偵の推理を守るために警部がもみ消すところが最大の皮肉。 エピローグはシリーズキャラが犯人という意外性を扱っている。これは当時連載されていた推理漫画『金田一少年の事件簿』を皮肉ったものなのか。 そして最終エピソード「最後の選択」は西野刑吾というどこかで聞いたような名前の符号が所有する無人島に天下一含め10人の探偵が集い、連続殺人が起こるという話。それぞれの探偵が古今東西の名探偵を髣髴させるキャラであり、それぞれを辛らつに貶している。そしてタイトルにある「最後の選択」はシリーズ探偵の存在意義を問うもので、案外内容的には深い、かな? 本書はとにかく普通の短編集ではない。登場人物が小説世界にいながらにして途中でメタの存在となり、自らの置かされている状況について色々不満を述べ、時には作者を貶したりする。事件も通常のストーリーのようには展開せず、ミステリにありがちな手続きに関しては省略されるし、時には事件に直接関わりあいのない人物は男性Aだの女性Bだのと簡略化される。 そう、本書で語られるのは物語ではなく、本格ミステリという作り物の世界が抱える非現実的な設定や内容に対する揶揄や疑問のオンパレードなのだ。 しかしそれでも一応トリックはあるし、それなりにオリジナリティも感じられる。自分の知っている限り、他の作家のトリックをそのまま転用した物は見当たらなかった。 もともと東野氏はトリックを創出することに苦労はしないと云っているから、これは東野氏の数あるトリックネタの棚卸しなのでもあろう。 とにかく本格に対する揶揄の連発が非常に小気味良い。エッセイで東野氏のギャグと毒のある語り口は一躍有名になったが本書でもそれは健在。いわゆる本格ミステリのお約束とも云える暗黙のルールについて敢えて鋭いツッコミを入れることを辞さない。 これは東野氏の本格ミステリからの訣別の書なのか? いやいや逆に本格ミステリを愛するが故の提言と理解しよう。 なぜならこの後、東野氏は敢えて最後に犯人を明かさずに読者に推理をさせる実験的小説『どちらかが彼女を殺した』や『私が彼を殺した』といった野心的な本格ミステリを続けて書いているし、科学とトリックを融合させたガリレオシリーズも書いているからだ。 逆に云えば、ここには本格ミステリが抱える不自然さを敢えてこき下ろすことでその後の自作については決してそんな違和感を抱かせないぞと、ハードルを挙げているような感じさえ取れる。 本書における東野氏には、今まで作者自身が抱いていた違和感を忌憚なく語ることでふっきれた感さえ感じられる。 そしてこの作品を読んで「ああ、面白かった」で済ませてはならないだろう。これは東野氏が今までのミステリではもうダメだと明言しているのだから、今の本格ミステリ作家、これから本格ミステリを書く人たちは本書に書かれた示唆を踏まえてミステリを書かなければならない。 本書が刊行されたのが1996年6月。既に22年以上が経過しているが、果たして本格ミステリは変わっているだろうか? この“本格ミステリ啓発の書”は本書で終わらず、さらにもう一冊『名探偵の呪縛』が刊行されている。 そちらもまたどんな東野氏の皮肉と歪んだミステリ愛が語られているのか愉しみだ。 |
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あの名作『ゴールド・コースト』から18年。まさか続編が作られるとは思わなかった。期待と不安の入り混じった思いを抱きながら手に取った。
作品内の時間は前作から10年後の世界で9・11テロの9ヵ月後という設定。民族テロという色合いを持つこの事件がデミルに多大な影響を及ぼしているのは昨今の作品からも明らかだが、本書ではそれを上手く『ゴールド・コースト』の作品世界に絡ませている。 即ちワスプたちの世界であったゴールド・コースト一円にいきなりイタリアマフィアという異文化の人間が介入してきて弁護士夫婦の生活に変化をもたらしたのが前作なら、本書はさらにそこに政治的亡命者のイラン人資産家を加え、さらにかつての使用人だったインド人に終身居住権を持たせて単なる召使いという存在からジョンの生活に影響を与える存在に押し上げている。 今回も隣に引っ越してきたマフィアの息子アンソニー、そしてスタンホープ屋敷を除く一円を買い取った怪しげなイラン人アミール・ハシム、もちろん別れた妻スーザン。さらには永遠の宿敵で目の上のたんこぶであるスーザンの父親ウィリアムと帰米したジョンの周辺は何かと物騒で物々しい。 とにかく懐かしい面々が揃った物語は上下巻併せて1380ページという大書だが、全く飽きが来ない。全てのキャラクターに貌があり、全てのキャラクターに血肉が備わっている。 彼ら彼女らのアクの強い面々の織り成す物語は云わばデミル版『渡る世間は鬼ばかり』。ミステリのようでミステリでない、人間喜劇ともいうべき作品なのだ。 やはりこの物語の功績はジョン・サッターの一人称叙述にしたことだろう。 古くから住まうアメリカ高級貴族の生活を、NYで事務所を構える弁護士であり、それなりに身分の高い人物でありながら俗物根性が抜けないジョンの、ワイズクラックに満ち、権威を鼻で嗤い、持ち上げては突き落とすおちゃらけ振りが、一般人には理解しがたい高級階級の人たちの生活や考え方を荒唐無稽な非常識として我々に提供してくれている。 確かにジョンの減らず口の連打には冗長に過ぎるという感を抱く向きもあるだろう。厚さの割りには物語が進まない、長すぎる、という声は至極尤もだと私も思う。 しかしこの作品はその長さを愉しむのであり、ジョンの俗物根性と斜に構えた思考が繰り出す皮肉の数々を味わうのが正しい読み方なのだ。 私は逆にこの作品がこれだけの長さでよかったと思っている。上流社会のおかしさや体面を保つことを重視する面持ちをジョンの下らない洒落や愚痴を通じて長く愉しめるのだから。 そして今回ジョンの心に翳を落としているのは元妻スーザンと彼女が射殺したフランク・ベラローサの件だ。10年経った今、ゴールド・コーストの面々は一応の折り合いをつけ全ては終わったこととして振舞っているが、この地で10年の空白期間があるジョンにとっては彼らの変化を今一つ信用しきれなく、いつスーザンが報復されるのかが心配で堪らないのだ。 その実彼はなかなか彼女と会おうとしない。この妙な自尊心と騎士道精神の葛藤が面白いのだが、それがまたジョンの雄弁さを本書では助長しているような気がする。 しかしそれはスーザンと逢うと全く一変する。いい別れ方をしなかった元妻にどんな顔をして逢ったらいいのか判らなかったジョンだが、スーザンが今なお彼への愛に変化がないことを知ると、以前の如く、仲睦まじく魂と身体で通じ合った絶妙なコンビネーションを発揮するのだ。 この展開になるまで約360ページを費やす。1本の小説分の分量だ。これは確かに長すぎると思われても致し方ないか。 今回はスーザンとの復縁を成就する為に障害となるのが彼女の父親ウィリアム。とにかく彼は支配することを全てとし、彼が支配できないこと、人を忌み嫌う。その存在こそがジョン・サッターその人なのだ。 今回ウィリアムはスーザンが復縁すると彼女を遺産相続人のリストから外し、彼らの子供エドワードとキャロリンをも遺産相続人から外すと脅しをかけるのだ。この絶体絶命の窮地を実に意外な展開で一気に逆転するのが実に小気味よい。この辺はぜひ本書を当たってもらいたい。 そんな物語はやはりこれはミステリではないのでは?と思わせながらも、やはりマフィアの息子アンソニーの登場で実に緊迫したクライマックスが訪れる。 しかし1990年に書かれた作品の続編がなぜ18年後の2008年に書かれたのか。それはこの作品の設定された時間に答えがあると云えよう。 先にも書いたが本書の舞台は9・11の同時多発テロが起きた9ヵ月後。その後のアメリカ人、特にニューヨーカーたちの人生に対する考え方、死生観に変化が起きたことを今までデミルはジョン・コーリーシリーズを通じて語ってきた。 一日一日を大事にする者、家族との絆をより一層深める為に仕事の一線を退いた者、テロ発生の可能性が高い都会を離れた者、そして無力な政府に代わってイスラム社会へ神の鉄槌を下そうと画策する者、などなど。 作中ではジョンの息子エドワードが黒一色の服装をしているせいか、空港で別室に連れて行かれた、なんてことも書かれている。その変化は俗社会から一線を画した建国時代に栄華を誇った貴族階級の人間達が住まうニューヨーク郊外の「ゴールド・コースト」の住人たちにもテロによって何らかの変化が訪れたであろうことを書きたかったのだろう。 つまりこれはデミルが今後ライフワークとして取り組むであろう、「9・11によってアメリカに何が起きたのか」というテーマに沿った作品の一部であるのだ。 そしてやはり最後のアンソニーの襲撃もまた、個人レベルで起きたテロなのだ。そしてスーザンとジョンが取った行動には決してテロには屈してはいけないというメッセージが明示されている。 最後にスーザンがFBI捜査官マンクーゾに次のように語る。 「(前略)あの男はわたしたちを辱め、その後のわたしたちの人生を変えたいだけだったのよ」 「(前略)あの男はわたしたちの魂を殺そうとした……わたしにはそれが許せなかったの」 これは“あの男”をビン・ラディンと読むとデミルの9・11同時多発テロに対する怒りの主張に取れないだろうか? あのテロを経験したことで価値観や生活がガラリと変わってしまったことを肌身で感じながらも、結局ビン・ラディンは何をしたかったのかが見えてこない。そんな卑劣漢に対する彼の見方と怒りがここに現れているように感じる。 そしてそれを敢えて質さずに認めるマンクーゾもまたデミルの分身だろう。即ち大量破壊兵器があるという大義名分で現地に乗り込んだ当時の大統領ブッシュを支援しているかのようにも思える。 しかしそんな硬いことを考えずともこの作品は楽しめる。 特にスーザンと離婚後、ヨットで世界一周をし、ロンドンに住んでいたジョンやジョンを待って独身を通したスーザン、そして長年スタンホープ家に使えていたエセルらの人生で重ねた後悔への述懐などは我が身を摘まれる思いがする。 云うべき言葉を発しなかったことで人生が変わってしまった、云うべきことを云えなかったのは得てして人は希望よりも恐れを抱く傾向にあるからだ、云々。 なんとも含蓄溢れる人生への教訓ではないか。 読書前の心配は読後の今、全く以って杞憂に終わった。 ただもう少し物語はスリムに出来たかもしれない。ジョンとスーザンの生活に影響するはずだった存在アミール・ハシムがなんとも影が薄くなってしまったりと無駄な設定、エピソードも目立ったからだ。 それでもジョンとスーザンの魅力あるカップルに再び逢えたのは嬉しかった。もう恐らく彼らと逢うことはあるまい。 まだまだデミルからは目が離せない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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いきなりデビュー作にて2000年版の『このミス』で10位ランクインという快挙を成し遂げた短編集がこの本多孝好氏の『MISSING』。それから約19年を経てようやく読んでみた。
まず本多氏が作家になるきっかけとなった小説推理新人賞を受賞した作品が1編目の「眠りの海」である。 この短編、当時はけっこう話題になった作品だったので興味深々で読んだが、率直に云ってミステリとしての謎は弱い。デビュー作をベテラン作家と比べては悪いが、それでも同じように初期には学園を舞台にした短編も著している東野氏のクオリティに比べれば、真相が透けて見えてしまっている。 しかし本多氏は本書を単なるミステリに留まらせずに最後に一味加えることで幻想小説へと昇華させている。これがこの作品を一段上の高みに押し上げているのだろう。導入部として最も適切な一編だ。 次の「祈灯」は部屋に入ると見知らぬ女性が普通にいたという奇妙な導入部が印象的だ。 続く「蝉の証」は老人ホームが舞台となった作品。老人ホーム『緑樹荘』に入っている祖母から奇妙な依頼をされる。 変則的プライヴェート・アイ小説とでもいうべき好編。 相川老人の許を訪れる孫と思しき、およそ堅気の人物とは思えぬ巨躯で金髪に染めた首にチェーンをぶら下げた男の正体を突き止めるために主人公が捜査で出会う人々から知らされる相川老人の意外な過去。老人ホームでくたばるのを待っているだけと見なされている人たちが生きた道程とは実は波乱に満ちていたのだと気付かさせられていく。確かこれが次作『ALONE TOGETHER』の原点となった作品ではなかったか。 しかし本編にはこの短編集に通底するあるテーマが主人公の口を借りて語られる。それについては後述しよう。 しかしなぜ当時20代の本多氏がこれほどまでに老人ホームに住まう老人達を活写できたのか、それを驚くべきだろう。 ミステリというよりもほろ苦い初恋物という趣のある「瑠璃」は4つ年上のルコと僕の2人の交流を描いたもの。小学校6年生の頃、高校生の頃、そして大学生の頃に僕とルコとのエピソードが綴られる。 この短編では他の作品と違い、ルコがなぜ自殺したかが主人公の中で理論付けられない。その答えが、もしくは手掛かりが残されているルコが遺した手紙の内容についてあえて作者は触れずに物語を閉じる。ある意味、これは作者の中で冒険であったのではないか?また一つここに魅力的な女性を描いた青春小説の傑作が生まれた。 最後の一編「彼の棲む場所」は味わいがガラリと変わった作品だ。 人間の、心の奥底に抱く殺人願望、破壊衝動。そんな昏い情動を実は高校時代から優等生でテレビでクリーンを絵に描いたような有名タレント教授が抱いていたら…。 彼が固執する誰も知らない同級生サトウとは、もう彼の暗黒面に他ならないのは自明の理だろう。そんな読んでいて吐き気の出るような話を聞き手である私が飄々として受け止め、日常に戻るギャップが印象的だ。 MISSING。それは喪失感。 MISSという単語は日本語で云われている「誤り」とか「間違い」という意味は全くなく(日本語のミスはMistakeの省略)、「誰かのことを思って寂しくなる」という意味だ。 本書に収録された5編に共通するのはまさしくこの「誰かのことを思って寂しくなる」、即ち喪失感だ。 そしてこの喪失感ほど残酷なものはない、という作者の主張が行間から見えるほどここにはある特殊な思いが全編に共通して流れている。 それは3編目の「蝉の証」の中で主人公が考える次のことだ。 「欺き、騙され、そうまでして人は自分が生きた証をこの世界に留めずにはいられないものだろうか」 まさしくそうだろう。喪失感という心に与える巨大な負のエネルギーが却って残された人々の心に存在感を浮かび上がらせる。 あの時確かに君はいたのだ、と。 この喪失感について作者は3編目の「蝉の証」で答えを出したかのように、死の間際に取った人間の不可解な行動の意味を探る趣向から、喪失感そのものにスポットを当てて書いているように思える。4編目の「瑠璃」は失った憧れの従姉のお姉さん、5編目の「彼の棲む場所」ではちょっと変わった喪失感だ。 そう、本書の中で異色なのが最後の「彼の棲む場所」。今までの短編が人を失うことの喪失感―恋人、妹、娘、堕胎した赤子、事故の被害者、憧れの年上の女性―を扱っているのに対し、この作品では「人を殺す機会」を失ったことを惜しむ心の暗部を語っている。他の4編が感傷的なのに対し、この作品だけが実に欲望的だ。 また本書の特徴として収録作全てが一人称叙述で書かれ、主人公が全て「僕」と匿名であることが挙げられる。このことで読者は物語の世界に自分を重ね合わせることが出来、したがって主人公が抱く喪失感が密接に感じられるようになっている。 しかしこの本多孝好という作家の人間を描く力、落ち着いた筆致には正直恐れ入った。これがデビュー作だというのだから驚きだ。語り口や時折挟まれるユーモア交じりの比喩など、無理を感じさせなくほどよくストーリーに溶け合っている。 特に感服するのは各編に収められたエピソードの上手さ。 老人の貯金を当てにして、嘘をついて手に入れたお金で旅行に行ったがために、その老人は一文無しになり老人ホームを出ざるを得なくなり、挙句の果てに講演で野垂れ死に同然に死んでしまった話や終業式の日に無免許で買い換えたばかりの新車を運転してすぐにボコボコにし、プールで泳いで遊んだこと。野球部のエース争いに敗れ、マネージャーを任された部員がわざと煙草を吸って甲子園予選出場停止になったことがきっかけでクラスから爪弾きにされ、自殺にいたった話、などなど。 どれもがボタンを掛け違えたことで誰の人生にも起こってもおかしくないような話だ。これらが物語に実に有機的に関わって傷みを伴う結末に深みを与えている。 案外「○○年版『このミス』第×位の傑作」という惹句は当てにならないものが多いが、本書はその数少ない中の例外であった。 特に大切な誰かや守っていた何かをなくした時に読むとこの作品を読んで去来する感慨は殊更だろう。ちょっと泣きたい夜にお勧めの一冊だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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