■スポンサードリンク
Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数889件
閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
Vシリーズ5作目は再び那古野市に舞台を戻し、阿漕荘と瀬在丸紅子といったお馴染みの面々が事件に巻き込まれる。
今回の舞台は航空ショー。衆人環視の中、なんと演技中の飛行機の中でパイロットが射殺されるという、これまでにない非常に限定的な密室殺人を扱っている。 しかしそれにも増して正体不明の美術専門窃盗犯であった保呂草潤平に危機が訪れるのが面白い。 各務亜樹良というジャーナリストの強引な依頼でエンジェル・マヌーヴァという特大のエメラルドを埋め込まれた短剣を盗み出すことを依頼された保呂草が飛行機の中の密室殺人の容疑者となった各務を助けたことで自身も警察から追われる身になってしまう。 また被害者宛てに送られたエンジェル・マヌーヴァを魔剣と称する詩めいた内容のカタカナで書かれた脅迫状の存在に、加えて発生する見習パイロットがホテルの一室で射殺事件。そこにはまた同じようなカタカナで書かれた一行のメッセージが残されていた。また機内で射殺されたパイロットの口の中からヒューズが発見されるという異常な事実も発覚する。 ヘルメットを被った状態で口の中から異物が発見される。最小の密室状態で更なる不可解事の発生。それに加えて保呂草の逃亡と本格ミステリとサスペンスが融合した、森氏にしてはミステリ色の濃い作品である。 また本書ではサブストーリーとして小鳥遊練無の過去についても語られる。 事件の中心となるエアロバティックス・チームの一員である関根杏奈が彼の憧れの存在であり、練無が少林寺拳法を始めたのも彼女の影響であることが判明する。さらに女装も杏奈の影響によるものであることが解る。女装が趣味で少林寺拳法の有段者という個性の強いキャラクターだけの存在だった―個人的には漫画ハンター×ハンターのビスケをイメージとして重ね合わせていたのだが―が、今回は女装をせずに物語に登場する。 物語後半で明かされる関根朔太と西崎勇輝、そして関根杏奈出生の秘密は非常にオーソドックスな真相だろう。 関根杏奈がスカイ・ボルトは人の命を奪うほど価値があるものなのかという祖父江七夏の問いに対して頷き、その後にこのように云う。 「人の命なんて、大したものではない。命をかけるものが、あるからこそ、人は生きているんです」 この言葉はそのまま彼女の母親の生き様に繋がる。奇しくも2人は同じ覚悟を持って人生を生きていることに気付かされる。ここに2人の強い絆を感じた。 たった2人しか入ることの出来ない飛行機のコクピットという極限的に狭い密室殺人でこのようなすっきりとした解答が得られる森氏のミステリスピリットは非常に素晴らしいと思うのだが、また今回も犯人の動機が不明なまま終わるのが不完全燃焼でがっかりである。 多分森氏が「人が人を殺す理由は他人には到底わかるものではないから敢えて書かない」というスタンスを崩さない限り、私は彼の作品を高く評価することはしないだろう。 前にも書いたがそれは我々が生きる社会の中では至極当たり前であるが、せめて作り物の物語の中くらいははっきり答えが出てもいいではないかと思うからだ。割り切れない世の中を生きているからこそ答えのある世界を欲しているのだ。 今まで書いてきたように本書は森作品の中でもミステリ色が濃い作品である。 10億円は下らない特大の宝石が埋められた短剣の行方、密室殺人、脅迫状、ダイイング・メッセージとミステリど真ん中のシチュエーションと小道具が散りばめられているし、また保呂草の逃亡劇というサスペンス要素も加わっている。さらに瀬在丸紅子が最後に警察に持ってくるウィスキーのボトルに付いた指紋の件は刑事コロンボの『二枚のドガの絵』を彷彿とさせる演出だ。 しかしそんな盛り上がってしょうがないと思われる材料を実にあっさりと料理してしまうのだ。 例えば保呂草が依頼された宝剣エンジェル・マヌーヴァの在処も特に謎解き要素があるわけでもなく、最後に仄めかすに留まるし、保呂草の逃亡劇の顛末も瀬在丸紅子の推理ですっきり解消してしまう。 またカタカナで書かれた脅迫状は特に暗号でも何もないままに処理されるだけだ。 この辺のあっさりさがどうにも腑に落ちない。せっかく色々な設定を施しながら全てが中途半端な感じで終わるのが残念なのだ。 恐らくは関根朔太の数奇な運命こそがこの物語の主眼だったのかもしれない。 人が命をかけるからこそ人は生きている。このテーマを書いたところで森氏にしてみれば物語の目的は達成したのかもしれない。それ以降は物語を畳むための作業に過ぎなかったというと云い過ぎだろうか。 またシリーズも5作目となって次第に各登場人物のキャラクターに踏み込んだ内容が書かれるようになった。 小鳥遊練無の憧れの存在関根杏奈は彼が唯一惚れた女性だ。そして林と紅子が別れた件もほんの少しだが明かされる。 本書はシリーズの折り返し地点でもあるから、後半になると更にみんなの過去が明かされるだろうと期待しよう。 さて本書の隠されたテーマは全ての章題に付せられた「形」というキーワードか。森氏はエッセイでも述べているように無類の飛行機好きでその形に機能美を超えた美しさを感じているようだ。その心情は本書のプロローグで遺憾なく開陳されているが、本書では飛行機の形だけでなく、家族の形、過去の形、友人たちの形と人と人を繋いで形成されるものを指しているのではないだろうか。 保呂草が冒頭に述べる多少の演出を交えた形が本書の物語であり、最後に瀬在丸紅子の笑顔を求める形と述べている。つまりそれらの形がその人の生き様を、人生を作る。即ち人生とは形の集合体であるということだろうか。 そうであるならばまだ形は変わっていく。今回の形はこの事件が起きた時の形だ。シリーズが最終作に至る時、どんな形を描くのだろうか。その形こそがこのシリーズの最大のミステリなのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
スティーヴン・キングがもう1つの筆名リチャード・バックマン名義で発表した作品。これがバックマン名義での第1作となる。
オーランドのナイトクラブで銃乱射事件が発生したようにアメリカのハイスクールでの無差別銃乱射事件は多く、一番有名なのは映画にもなった1999年に起きたコロンバイン高校の銃乱射事件だろう。本書はそれに先駆けること1977年に発表されている。 これは1966年に起きたテキサスタワー銃乱射事件を材に取ったと思われるが、その後コロンバイン高校の惨劇を想起させるということでキング本人が重版を禁止した作品でもある。過激な内容を扱いながらも無差別銃乱射事件を美化したような内容が逆に同様の事件を助長させていると作者自身が懸念したからかもしれない。 そう、美化したような内容というのはいわゆる銃社会アメリカでたびたび起きているような無差別殺人を本書が扱っていない点にある。 ライフルを持った一人の頭のおかしい生徒が同級生たちを人質にして教室に立て籠もる。そう聞くと息詰まる警察と狂人の駆け引きと、1人、また1人と生徒たちが亡くなっていくデスゲームのような荒寥感を想起させるが、本書はそんな予想を裏切って、籠城状態の教室という特殊空間の中で高校生たちの日常生活に隠された仮面を次第に剥がして本音をさらけ出して語り、もしくはぶつけ合うという実に意外な展開が広がるのだ。 正直この発想は全くなかったため、非常に驚いた。 事件を引き起こしたチャールズ・デッカーは実は取り立てて目立つような存在ではない高校生だ。しかし彼は元軍人で時々暴力的衝動に駆られる父親と規律と礼儀を重んじる、優しくも厳格な母親の許で育った。好奇心旺盛で衝動的な破壊行動を抑えられない彼は悪戯をしては父親の衝動的暴力の犠牲に遭い、それがもとで父親に対して憎悪を常に抱くようになる。また頭がよく、ディベート能力に優れ、大人たちの説教も煙に巻く弁舌を振るう。そんな彼が教室を支配することでクラスの様相が変わっていく。 とにかく色んな読み方の出来る小説だ。 読了後まず想起するのはスクールカーストの変転を扱った実に特異な小説と読めることだ。 一見銃を手にした一生徒の反逆の物語と見せかけながら、彼の行った籠城行為によって生徒たちが大人への反発心を開花させる物語でもあるのだ。 原題の“Rage”は主人公チャールズ・デッカーの反逆だけでなく、彼の同級生全ての大人に対する反逆心の芽生えも指している。 また学校一の人気者が、同級生による銃を持った立て籠もりという異常な状態ゆえに、日常的に抑えてきた感情が非日常によって解放されたことで通常ならば触れるべきでないことを告白しだす。 それは彼らの両親が行っているクラスメイトの両親に対する噂話だったり、初体験の告白だったり、そんな秘密の暴露がされる中で学校一の人気者が丸裸にされ、その地位が陥落する様は実に面白い。 一方、変わり者としてみなされていた主人公チャールズ・デッカーはいきなり銃を持ち込んで先生を2人撃ち殺し、降伏するよう説得を試みる校長先生、学校担当の精神科医、そして駆け付けた警察署長らを見事に出し抜くことで人質である生徒たちの尊敬を集めていく。 そういう意味ではストックホルム症候群を扱った小説ともいえる。この症候群の名の由来となったストックホルムで起きた銀行人質立てこもり事件が1973年。そして本書が発表されたのが1977年だから当時キングがこの起きたばかりの事件に由来した新たな症候群を知っていたかどうかは疑わしい。 もし知らなかったとすると同様の状況を扱った本書の、いやキングの先駆性は驚くべきものがある。 鬱屈した高校生の反逆の物語。スクールカーストが無残にも崩れ去る物語。犯人に同調する集団意識の変転の恐ろしさを描いた物語。 そのどれもが当て嵌まり、どれもが正解だろう。 しかし私はここからさらに次のように考える。 これは意味のないところから意味を生み出した物語なのだ、と。 まずセンセーショナルな幕開けとなるチャールズ・デッカーの銃立て籠もりの顛末はチャールズが授業中に校長先生に呼び出され、説教をされたことに腹を立て、ロッカーに隠し持っていた銃を持ち出していきなり先生2人を殺したことで始まる。 これは今まで暴力的な父親に虐げられてきた彼が物理の授業で先生を衝動的に傷つけたために精神科医によってカウンセリングを受けるようになったことについてねちねちと云われることが気に食わないために起きたことで正直ここには短気で暴力的衝動が常に潜んでいるチャールズ・デッカーの衝動以外、理由がない。 従って彼は教室に立て籠もるものの、誰一人生徒を殺そうとしない。自分を理解してほしいと云わんばかりに自分のことを語り出し、そしてクラスメイトの話を聞く。それはそれまでお互いに云えなかった打ち明け話をするだけの行為だ。 チャールズの行った籠城には何の意味もなかったのだが、クラスメイト達が思い思いに胸の内を打ち明け、それぞれが抱えていた秘密を暴露することで共通の敵を見出すという意味を持ち、それに復讐する目的を確立する。 たった300ページ足らずの、しかも舞台は高校の教室内で繰り広げられるというのになんとも中身の濃い小説ではないか。 但し現代のような銃立て籠もり事件が頻発する昨今、犯人であるチャールズ・デッカーを反逆のヒーローとして描く本書は確かに読んだ者の心に危うい発想を生み出す危険性を孕んでいることは頷ける。 現在絶版であるのは非常に惜しいと思いながらも、それを決断したキング本人の想いもまた理解できる、読んでほしいにも関わらず復刊することには躊躇を覚えるジレンマに満ちた作品である。 私は本書を古本で手に入れたが、もし興味があるならばぜひとも読んでほしい。本書を読んでどのように受け取るかはあなた次第だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
フリーマントルがジョナサン・エヴァンス名義で発表した企業小説。新進気鋭のホテル・チェーンがイギリスの格調高い由緒ある豪華ホテル・チェーンの買収に乗り出すマネーゲーム小説だ。
アメリカの新興ホテル・チェーン≪ベスト・レスト≫を取り仕切るのは若き会長ハリー・ラッド。妻を出産の事故で亡くしたことをきっかけにその哀しみを忘れるために仕事に没頭した結果、たった10年でボストンの取引高300万ドルのモーテル・チェーンを年商5億ドルの国際レジャー産業に仕立て上げた、ウォール街でも噂の男だ。 一方イギリスの≪バックランド・ハウス≫は誰もがその名を知っている5ツ星の最高峰のホテル・チェーンだが、その経営は創始者一族にて代々引き継がれてきた一族経営で、内情は経営体制のない、伝統に胡坐をかいた経営母体で権威とブランドのみで運営しているような会社だ。 その経営を担う現会長サー・イアン・バックランドは祖父と父親の遣り方を単にまねているだけの凡庸な経営者だとみなされており、その実ギャンブルと愛人との情事に耽り、会社の小切手で自身のギャンブルの借金を清算していたことを財務担当から糾弾されるほどのおぼっちゃんでもある。 飛ぶ鳥を落とす勢いの新興ホテル・チェーンの会長というイメージから想起されるのは生気に溢れ、半ば強引な方法で欲しいものを手に入れてきた傲慢不遜を滲ませた辣腕経営者というイメージを抱くが、≪べスト・レスト≫会長のハリー・ラッドはむしろその逆だ。 小柄で何事も慎重に事を運ぶ男でギャンブルはやらず女性には奥手で恋人はいるが身体の関係を特に望むわけではない。まだ若い頃に今の会社の社長であるハーバート・モリスンの1人娘と結婚したが、結婚を好ましく思わなかった義父の画策によって乗っ取りを仕掛けている≪バックランド・ハウス≫の象徴的存在ベリッジ・ホテルに修行に出されていた時に妊娠で妻と子供共々亡くしてしまうという苦い過去を持つ。それ以来その哀しみを忘れるために仕事に打ち込んできたような男で、仕事一筋の、どちらかと云えば一昔前の日本人ビジネスマンに近い人物像だと云える。 億単位、いや数十億単位の金が動くマネーゲーム。誰もが甘い汁をすすろうと金のあるところに集る。 有力な対抗馬が出た政治家は地元の票を集めるため、ホテルを誘致しようとすればそのついでに政治資金が欲しいと新興ホテル・チェーンの会長にせびる。 由緒と伝統と格式のみが唯一の拠り所となった世界最高峰のホテル・チェーンの会長は愛人との情事とギャンブルに狂い、会社の金を使う放蕩ぶり。知らぬ間に会社の財政は火の車となっていることに気付かず、銀行が経営に介入するのを阻止するため、必死になって金策に走る。 新興ホテル・チェーンの会長はその勢力を拡大しようとテキサス州の議員から持ち出された誘致の話を自分の有利な形に持ってこようと手練手管を駆使する。そしてサウジアラビアの王子に持ち込まれた名門ホテル乗っ取りを機に世界一のホテル王になる夢を抱く。 あまり詳しく語られていないが、ハリーはかつて買収先の≪バックランド・ハウス≫の旗艦的ホテルであるベリッジ・ホテルで働いていたこともあり、その経験がいつかは自分もこのような由緒あるホテルのオーナーになりたいという原初的な欲求が今回の買収には働いていたのかもしれない。 しかし今まで数々のプロジェクトを成功に導いてきたハリーに今回は様々な危難が降りかかる。 そして女性に対して朴念仁であったハリー自身が予想外なことに買収先のホテル・チェーン会長の妻と不倫関係になってしまう。 また買収工作が発覚すると取引銀行のハッファフォード銀行もカウンター・ビッドを画策する。 そんな金の亡者の集まる魑魅魍魎と化した世界にラッドは文字通り身銭を切って破産寸前にまで追い込まれながら≪バックランド・ハウス≫株の買収を進めるが、最後の6パーセントの壁を超えることができない。そしてその最後の障害は意外な形で解決を見るが、それはネタバレ感想にて述べることにしよう。 さてフリーマントル作品の醍醐味は目の覚めるようなアクションではなく、やはり知と知のぶつかり合いの高度なディベート合戦にある。企業小説である本書では役員会議や非公開の役員同士の密談などが多々挿入されているが、株主総会とラッドが仕掛ける会社登録法違反の裁判が本書の白眉であろう。 まず株主総会ではギャンブルでの損失を会社の小切手で返金し、家族の友人を愛人として会社の所有する宿泊施設で囲っていることを暴かれた≪バックランド・ハウス≫会長イアン・バックランドの解任を求められるが、圧倒的な不利の中、完璧な理論武装と弁護士を同席させるというラッド提案の奇手によって有利に進め、見事提案を退ける。 こういう議論のシーンが実にフリーマントルは上手い。ただそこには大口株主のファンド・マネージャーの支持が少なかったというスパイスも忘れない。ここに一流のジャーナリストだったフリーマントルのシビアな視点を感じる。このような茶番劇では海千山千の投資家の目はごまかせないと暗に示しているのだ。 そしてそれを証明するかのように一転して乗っ取りを仕掛けたラッドによる会社登録法違反の疑義を申し立てる起訴裁判では株主総会で雄弁に切り抜けたバックランドの答弁はメッキが剥がれるが如く、次々と論破されていく。残されたのは由緒ある貴族階級の一族の裏に隠された数々のスキャンダルの山。伝統と格式に飾られたバックランド一族の装束は容易に剝ぎ取られ、ギャンブルと女遊びにうつつを抜かす一人の裸のお坊ちゃんがいるだけとなる。 後半は株主総会、役員会議、裁判のオンパレードだ。企業小説であり、しかもやり手の若手会長が自社と買収先の株価の大幅下落というリスクを負いながらも血眼になって買収を成立させようと東奔西走する作品であるから仕方がないかもしれないが、ディベート合戦がフリーマントル作品の妙味だと云ってもこの繰り返しはいささか辟易した感じがある。 本書のサイド・ストーリーとして仕事一辺倒だったラッドが買収先のホテルの会長の妻マーガレットと道ならぬ恋に落ちる物語が展開する。それは近い将来敵対的存在となる自分にとって決して取ってはならぬ選択肢だったが、若き頃に亡くした妻の面影を見たラッドにとってマーガレットは仕事だけに目をくれていた彼の目を向けさせる運命の女性だった。 そして彼女との逢瀬はやがて彼女との安らかな生活を望むようになる。そんな背景を織り交ぜてフリーマントルがラッドに差し出した究極の選択は彼女を取るか最後の6パーセントの株を取るかだった。 しかし己の上昇志向に任せて踏み切った今回の乗っ取り工作は実に不毛なものだった。彼は得たものもあるが、心の充足はなかったのではないか。 勝者のいないマネー・ゲーム。やはり今回もフリーマントルは決して甘い夢を見させてはくれなかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
本書でも書かれているが、飲料会社のサントリーが青いバラを開発して話題になったが本書では現在存在しない新種の黄色いアサガオを巡るミステリだ。
そしてタイトルの夢幻花もこの黄色いアサガオの異名から採られている。追い求めると身を滅ぼすという意味でそう呼ばれているらしい。 しかし黄色いアサガオはかつては存在したようで、本書にも取り上げられているように江戸時代にはアサガオの品種改良が盛んで黄色いアサガオの押し花が現存している。 ではなぜ現代では無くなったのか。それもまた興趣をそそる。本書ではその謎についても書かれているが、それについてはネタバレ感想にて。 そんな花にまつわる謎を孕んだミステリは一見関係のなさそうな2つのプロローグから始まる。 まずは東京オリンピックを控えた時代で、1人の生まれたばかりの娘を持つある夫妻に訪れた突然の災禍が語られる。 そして次に語られるのは思春期を迎えた中学生蒲生蒼太が、家族恒例の行事で朝顔市に行ったときに出遭った伊庭孝美という同い年の中学生との淡い恋と失恋のエピソード。 その2つを経てメインの事件である新種の花を巡った殺人事件が語られる。 まず一番胸に響いたのは冒頭のエピソードの中学生蒲生蒼太のエピソードだ。 毎年恒例の家族行事となっている朝顔市で出逢った同い年の中学生伊庭孝美に一目惚れし、メアドの交換を行って頻繁に出逢う様子は私も経験したことで当時を思い出して胸を温かくしたが、父親にメールを見られ、交際を禁じられた直後に彼女から突然の別れを切り出される件はさらに胸に響いた。 これも自分に同様の経験があるからだ。あの時の苦くて苦しい思いが甦り、とても他人事とは思えなかった。 各登場人物の設定も興味深い。とくに本書では2つの家族がメインとなって物語に関わる。 主人公の秋山梨乃はかつてオリンピック代表として将来を有望視されていた水泳選手だったが、原因不明の眩暈に襲われたことで水泳を辞め、大学と高円寺のアパートを往復する無為な日々を送っている。 また冒頭従兄の鳥居尚人は成績優秀、スポーツ万能、多種多芸な、何をやっても一流という理想の人物であり、大学を中退してプロのバンドになる道を選び、その夢も実現が間近に迫っていながら突然自殺してしまう。 さらに彼女たちの祖父秋山周治はかつて食品会社の商品開発の研究部に携わっていたが、そこで新種の花の開発を行っていた。そして退職して6年後、黄色いアサガオの開花に成功した矢先、何者かによって殺害されその鉢を奪われてしまう。 もう1人の主人公蒲生蒼太の家庭も特異な状況な家族構成である。 要介と蒼太という2人の年の離れた兄弟がおり、父親の真嗣は元警察官。そして妻志摩子という典型的な4人家族だが、実は要介は前妻との間に出来た息子であり、蒼太は後妻である志摩子との間の息子であった。従ってどこか蒼太は父親と要介に距離を感じており、それがもとで東京の家を出て大阪の大学に通っている。 更に捜査を担当する所轄署の早瀬亮介も被害者秋山周治とは縁があった。息子の裕太が巻き込まれた万引き事件で冤罪を晴らしてくれたのだ。 しかし彼は自身の浮気がもとで現在は妻と息子とは別居中という身。しかし裕太から自分の恩人を殺した犯人を絶対に捕まえてほしいと頼まれ、それが彼の行動原理となっている。つまり妻に愛想を尽かされたダメ親父の奮起の物語の側面も持っているのだ。 メインの物語はこの早瀬亮介側の捜査と秋山梨乃と蒲生蒼太の学生コンビの捜査が並行して語られるわけだが、とにかく秋山梨乃と蒲生蒼太の人捜しの顛末が非常に面白かった。今どきの学生らしくメールやグーグルなどのITツールを駆使し、友人のネットワークを使って秋山周治の死に関係する黄色いアサガオの謎と蒼太の初恋の女性伊庭孝美の行方を追っていく。特に秋山梨乃の大胆さには蒲生蒼太同様に驚かされた。 高校時代に友人の伝手で伊庭孝美の所属する大学と研究室を突き止めた蒼太がその後の行動に悩んでいたところ、いきなり研究室に行ってドアを開けて孝美のことを尋ねる行動力。 そしてアドリブでテレビ番組の取材だと云いのける不敵さ。 梨乃の突飛な考えと行動はこの物語にある種ユーモアをもたらしている。そしてこの若い2人の探索行が読んでいて実に愉しい。もし自分が彼らと同世代だったらこのように行動できただろうかとそのヴァイタリティに感心してしまった。 そんな2人の探索行も含めて思うのは相変わらず東野氏は物語運びが上手いということだ。次から次へと意外な事実が判明してはそれがまた新たな謎を生み、ページを繰る手が止まらなくなる。 以前私はある東野作品を謎のミルフィーユ状態だと評したが、本書もまさにそうだ。従って上の概要もどこで区切ったらいいのか解らないほど魅力的な謎がどんどん出てきて、ついつい長くなってしまった。 後半になってもその勢いは止まらず先が気になって仕方がない。 祖父の死をきっかけに彼の遺した黄色いアサガオの写真の謎を追うと、謎めいた男蒲生要介と出逢い、捜査を辞めるように忠告され、それがきっかけで蒲生蒼太と出逢い、ひょんなことから彼の初恋の相手を捜すようになる。そして足取りを辿っていくとなんと蒼太自身の母親の出生に関わる連続殺人事件に行き当たるという、まさに謎の迷宮に迷い込んだかのような複雑な様相を呈してくる。 そして秋山梨乃と蒲生蒼太側が追いかける謎も殺人事件が解かれると共に蒲生要介によって明かされる。 あまりにスケールが大きすぎて読後の今でも消化できないでいる。 しかし改めて思うが、実に複雑かつ壮大な物語である。一見無関係な要素を無理なく絡ませて読者を予想外の領域に連れていく。実に見事な作品だ。 このような複雑な謎の設計図を構築する東野氏の手腕はいささかも衰えを感じない。識者が作成したリストによれば本書は80作目とのこと。これだけの作品を重ねてもなおこんなにも謎に満ちた作品を、抜群のリーダビリティを持って著すのだから驚嘆せざるを得ない。 特にそれまで東野作品を読んできた人たちにとって過去作のテーマが色々本書に散りばめられていることに気付くだろう。原子力の件では『天空の蜂』が、被害者秋山周治の実直な性格は『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の浪矢雄治の面影を、秋山梨乃と蒲生蒼太のコンビやホテルの描写では『マスカレード・ホテル』の舞台と山岸尚美と新田浩介の2人の影を感じるなど、それまでの蓄積が本書でも活かされている。 本書は特に年末に開催される各ランキングでは特段話題に上らなかったが、それが不思議でならないほどミステリの面白さが詰まった作品だ。 実際、『流星の絆』や『マスカレード・ホテル』、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』など『このミス』ランク外の東野作品の方が面白く感じる。恐らくはあまりに映像的なストーリーゆえに投票者がミーハーだと思われるのを避けて敢えて選ばなかった結果かもしれない。 本書もまたドラマにするのに最適な題材であるが、この面白さはもっと正当に評価されていいだろう。 印象に残るのは蒲生蒼太と伊庭孝美の恋の結末だ。 大人になって謎が全て解かれて、ようやく彼女はそれまでの経緯を話す。中学の時に一目惚れし、突然消えた伊庭孝美。その後も現れては消え、消えてはまた意外な場所で姿を見かける彼女は蒲生蒼太にとっての夢幻花だった。だからこそ2人はお互いの出逢いをいい思い出にしたのだろう。 2014年10月10日、サントリーが青いバラに続いて黄色いアサガオの再現に成功するというプレスリリースがなされた。はてさてこの夢幻花に対して警察はどのように動くのか。 本書を読んだ後では手放しで喜べなくなる。そんな錯覚を覚えてしまうほど面白いミステリだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
御手洗潔の非ミステリ系短編集。
まず「御手洗潔、その時代の幻」はアメリカに留学中の御手洗が読者からの質問に答える作品。そこで挙げられる質問の数々はそれまでの作品に登場したエピソードに因んだものが多く、まさにファンサービスの1編。 ここで父親について質問が成され、御手洗の父親に関するあるエピソードが語られる。普段飲んだくれの父―これは予想外!―が駅のホームでの若者同士のケンカによって当時5歳だった御手洗潔がホームに転げてしまうというちょっとした事故が遭い、それに激昂した父親の姿が意外だったという話だが、それが次の短編「天使の名前」に繋がっていく。 その「天使の名前」の主人公は御手洗潔の父直俊。 御手洗潔の父親直俊が「御手洗潔、その時代の幻」で飲んだくれ親父だったという衝撃の事実の真相がほんの僅かだが明らかになる本書で最も長い1編。 第二次世界大戦前、外務省に勤める御手洗直俊がどうにか日本とアメリカとの戦争を食い止めようと奔走する姿が描かれるが、周知の事実のように日本の真珠湾攻撃を発端としてアメリカと開戦してしまう。そのゼロ時間までの御手洗直俊の奮闘と愚直なまでに日本国の勝利を信じる軍部との確執。そしてなぜか忠告したとおりに日本の敗色が濃厚になっていくのを不吉なことを云うからだと一手に責任を負わされ閑職に追いやられる直俊の姿は従来島田氏が作品で語っていた日本人の面子を重んじる権威主義の犠牲者である。 やがて直俊は友人を訪ねて神戸の三宮に渡るが、空襲により買い出しに行っている最中に友人一家全てが犠牲になり、教会の伝手でかつて東京で知り合った椎名悦子を訪ね、広島に行くがそこで御手洗は原爆投下直後の広島の姿を見て絶望する。 戦時の日本政府の愚かさと志半ばで挫折した一人の男と戦争の惨たらしい現実を幻想的に仕上げた1編。 次の「石岡先生の執筆メモから」もファンサービスの1編。犬坊里美によるとある雑誌に依頼されたエッセイという体裁だが、書かれている内容は御手洗潔の未発表事件の紹介という、これまたファン垂涎の内容となっている。 本作は「INPOCKET」誌の1999年10月号にて発表された、実に17年前の作品であり、その後実際に発表された作品も挙げられているが、未発表の作品もまぎれており、実に興味深い。 特に『ハリウッド・サーティフィケイト』の最後の一行で言及されている次の事件「エンジェル・フライト」事件に興味を持った。あの陰惨な事件が単なる序章に過ぎないと云わしめたこの事件はどのような物なのか。御手洗が死をも覚悟した事件とはどれほどの物なのかと非常に気になる作品だ。 あと「A Mad Tea Party Under The Aurora」は『魔神の遊戯』だと思われる。その他「ケルトの妖精」事件、「マンモス館の謎」、「伊根の龍神」事件、「ライオン大通り」事件は未発表作品に属するだろう。 全ての事件について今後書かれるかは解らないがまだまだ御手洗物のネタは尽きていないと解っただけでも大収穫の1編だ。 しかし犬坊里美の文章はどうにかならないかね。 続く「石岡氏への手紙」もファンサービスの1編。 御手洗が国外へ飛び出した後、馬車道で一人暮らしを続ける石岡の許に届いた手紙の主は御手洗かと思いきやハリウッド女優として活躍している松崎レオナからの物だった。彼女の近況と御手洗への想い、そして映画の都ハリウッドの現状と映画界の内幕が語られる。 しかし彼女が吐露する内容は一部作者島田氏本人の心情が混ざっているのではないだろうか。本作が発表された2000年は恐らく島田氏がLAに滞在していた時期ではないだろうか。従って松崎レオナによる手紙の体裁を借りて島田氏がLAで感じる異邦人ゆえの孤独感や日本でのバッシングを遠き異国の地で知っても何もできない無力感を覚えたことがこの作品で松崎レオナの言葉を借りて思わず出てしまったのではないだろうか。 「手紙を書くことで自分の気持ちが見えた。他人に誹謗中傷されてもびくともしない心のよりどころ、強く太い柱がほしい」 このあたりの件はまさに作者の本心の表れだと思うのだが。 次の「石岡先生、ロング・ロング・インタビュー」はなんと作者島田本人が石岡和巳に直接逢い、読者からの質問に答えるというメタフィクショナルな1編だ。 インタビューの場所が山下公園のコンビニの前というのが可笑しい。しかも独身の石岡の食事はコンビニ弁当で最初に質問はコンビニに入って好きな弁当の紹介から始まる。その後普段の暇つぶし方法や好きな絵、音楽といった個人的な話から、過去の作品に纏わる話が島田を通じて語られる。 『異邦の騎士』の事件で失われた記憶はまだ戻っていないこと、「数字錠」で登場した宮田君が無事刑務所から出所したこと、「糸ノコとジグザグ」のある場面について、そして外国へ発った御手洗に対する気持ちなどシリーズファンにとっても関心の高い内容が語られる。 しかし全編通じて感じるのは石岡氏が人生を楽しんで生きているわけではないということだ。コミュニケーション障害を持った大人で常に自分の存在を卑下している。何度も島田氏が励ますも効果がないほど人生に諦観を抱いている。女性にとっては母性本能がくすぐられるタイプなのかもしれないが、同性としてはなんとも情けない男だなぁと感じてしまう。 とはいえ、御手洗去った後の彼の境遇が不憫でならない。そんな風に感じさせる1編でもあった。 続く「シアルヴィ」は物語の中に盛り込まれるぐらいのエピソードともいうべき1編。スウェーデンのウプサラ大学の教授となった御手洗が医学系教授の集まりでスウェーデンのメーラレン湖の湖畔に建てられたシアルヴィ館に飾られた異形の十字架に纏わる話を語る。 北欧神話をモチーフにしたシアルヴィ館の意匠に込められたエピソードの数々は設計者の想いを解きほぐすような面白さがある。解る人にはすぐに解る謎解きでちょっとした箸休めのような1編と云えるだろう。 そして最後の「ミタライ・カフェ」はスウェーデンへと発った御手洗のパートナーとなったハインリッヒによる御手洗のウプサラ大学での日々が紹介されるが、いつものようにとも云うべきか、話は御手洗が研究する大脳生理学の研究テーマへ脱線し、その専門的な話に少々辟易した。 また最後に本作の前の短編「シアルヴィ」で登場したシアルヴィ館でのお茶会で御手洗が週末の金曜日に豊富な殺人事件の探偵談を語ることから本作のタイトルとなっている「ミタライ・カフェ」と呼ばれるようになったことが明かされる。つまりこの二作は同じ場所を違う名前で指し示していることになる。 しかしハインリッヒは御手洗のスウェーデン時代の活躍の語り部、つまりスウェーデンの石岡和巳であり、この短編では御手洗は彼の地でも色々と事件を解決しているようなのだが、あまり発表されているようには感じていないのだが。後々これらも発表されるのか、それとも島田氏の頭の中に留まるだけなのかもしれないが。 本書は冒頭に書いたように同文庫で刊行された『御手洗潔と進々堂珈琲』同様、御手洗潔が登場する非ミステリの短編集。シリーズの中心人物御手洗潔と石岡和巳に直接読者からの質問をぶつける、もしくは近況を語らせるというメタフィクショナルな内容がほとんどで、唯一の例外が御手洗の父親直俊が外務省に勤めていた第二次大戦の頃の話が語られる「天使の名前」だ。 この作品も非ミステリではあるが、元々物語作家としても巧みな筆を振るっていた作者のこと、実に読ませる物語となっている。 日本の敗戦を予想し、首脳陣へ戦線の拡大を留まらせようと粉骨砕身の努力を傾注したにもかかわらず、無視され、謂れなき誹りを受けて外務省を後にせざるを得なかった直俊の不運の道のりが描かれ、胸を打つ。特に島田氏が常々自作で披露していた日本の縦社会に根付く恫喝を伴う権威主義への嫌悪感がこの作品でも横溢しており、その犠牲者として直俊が設定されているのはなんとも哀しい限り。 しかし戦中は報われなかった彼の最大の功績は御手洗潔をこの世に生み出したことであると声を大にして云ってあげたい。それが彼にとっての救いとなることだろう。 それ以外のファンサービスに徹した作品では読者からの質問に回答したり、未発表御手洗作品について触れられていたり、登場人物の近況が報告されたり、御手洗がウプサラ大学教授時代の彼の博識ぶりを彷彿とさせるエピソードがあったりと御手洗と石岡が実在するかのような語り口である。特に作者島田氏自身が石岡に読者への質問をぶつける作品では錯覚を覚えるくらいだった。 しかし石岡君はどうしたものかねぇ。 本書は2016年6月に新潮社にて文庫オリジナルとして編集された作品であるが、収録作品は1999年から2002年に各種媒体で発表されたもので14~7年前と比較的古い話ばかりである。従って収められている話では2016年の今日ではすでに実現されている物もあり、興味深く読むことが出来た。 一例を挙げれば「御手洗潔、その時代の幻」と「ミタライ・カフェ」で語られるある特殊な細胞の話は現在のiPS細胞のことであろう。 御手洗潔シリーズ未発表の事件を列記した短編では現時点でも発表されていない作品もある代わりに「パロディ・サイト」事件や「大根奇聞」、「UFO大通り」などその後きちんと発表された作品名を挙がっていることから99年の段階で構想があったことにも感嘆してしまった。 今では日本を代表する名探偵シリーズにまで成長した御手洗潔が逆にそれほどまで支持されるようになったのは本書のように事件のみに挑む彼の姿以外の素顔を折に触れあらゆる媒体で作者が語ってきたことが要因であろう。一作家の一シリーズ探偵として登場した御手洗潔が今日これほどまでに人気があるのはこのような地道なファンサービスの賜物であろう。一瞬で事件の構造を看破する天才型の探偵という浮世離れした御手洗潔に血肉を与えることに見事に成功している。 しかし作者がすでに還暦を超えており、即ち御手洗もまた同じような世代であることを考えるとこれからのシリーズは御手洗の過去の活躍を紹介するような形になるのではないだろうか。そしてそれらの事件がまだまだ眠っていることが解っただけで本書は読む価値のある1冊なのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
探偵ガリレオシリーズ第8作目である本書は一度「猛射つ(う)」という題名で短編として発表されたものに加筆して文庫化の際に長編として発表された。
長編での探偵ガリレオ作品は湯川の葛藤を中心に描かれた物語となっているが、本書もまたその例にもれず、母校の後輩が事件に絡んでいる。 本書の中心人物となる古芝伸吾はかつて高校時代に自分の所属するサークル物理研究会がサークル員が自分1人になったことで存続の危機に立たされて際、新入生の入部勧誘のためのパフォーマンスを行うために先輩たちに助けを求めたところ、学生時代に同じサークルに所属していた湯川が一肌脱いで古芝の手伝いをしたことが縁で、湯川を尊敬し、努力の末に湯川が所属する帝都大学に入学した好青年だ。 さらに彼は両親を亡くし、9歳年上の姉と一緒に暮らしている苦労人でもある。 そんな背景の中で、たった一人の肉親である姉が突然亡くなったことで念願の大学を辞め、町工場に就職するという、既にここで読者の心に遣る瀬無さを誘う設定が織り込まれている。 更に湯川は古芝の入学を喜んでおり、時折彼と連絡を取っていた間柄でもあった。そんな古芝がある事件をきっかけに突然失踪し、東京各所で起きる怪現象にかつて湯川が古芝に授けた部員勧誘のパフォーマンスに使われた技術が関わっていることが判明する。 一人の真面目な青年が身寄りの死によってこれから開けるであろう明るい未来への扉を閉ざされてしまう。本書は初めから人生の皮肉さによって読者の心を鷲掴みにする。 しかしそれが表向きの理由だったことが次第に解ってくる。例えば冒頭に挙げられる偽名を使って東京のシティホテルに宿泊していた女性が翌日に大量の血を流して死体となって発見される。そこに古芝伸吾の許に掛かってくる姉の死を知らせる電話。そして謎の失踪。 作中、科学技術は扱う人の心次第で禁断の魔術にもなると湯川が語るシーンがある。機械の技術者で世界を飛び回っていた亡き父を尊敬し、そして高校時代に出逢った先輩湯川に憧れ、機械工学の道に進んだ彼、古芝伸吾はそのまっすぐな性格ゆえに自分には復讐する武器と知識があることに気付き、復讐の道へ進む。 純粋であるがゆえに人生に折り合いを付けられない。そこに古芝伸吾の哀しさがある。 そして湯川も含め科学者とはその道を究めんとする純粋さが必要なのではないだろうか。古芝伸吾は高校の時に湯川から励まされた言葉 「諦めるな。一度諦めたら、諦め癖がつく。解ける問題まで解けなくなるぞ」 を胸に抱いてきたからこそ難関校である帝都大学に合格した自負がある。つまり求道心が強いからこそそのベクトルが殺人という誤った方向であっても軌道修正が出来なくなるのではないだろうか。 悪は悪であるから裁かれなければならない。 もちろんそうだろう。しかし罪に問われない人物に事情はどうあれ復讐するのはおかしいのだ。求道心は道徳―それが受け入れがたいものであってもーをも凌駕するのかもしれない。 東野氏は『手紙』、『さまよう刃』、『容疑者xの献身』など一貫してこの法律では割り切れない部分を描き、犯罪に走らざるを得ない社会の犠牲者の辛い立場を描いてきた。 古芝伸吾もまたその系譜に連なる犠牲者の1人と云えるだろう。 そしてその古芝が師である湯川から授かった技術がレールガン。これは本当に実在するらしい。米軍で開発も進んでいるという。 私がこの武器の存在を知ったのはゲーム『メタルギア』でかなりずいぶん前だった。確かあのゲームでは連発していたが、実際は一日に1発しか打てない代物で、撃った後も研磨などの整備に何日もかかるらしく、軍事用には向いていないのが湯川の弁だ。しかし数キロ離れたところから標的を捉えられることから実用化すれば恐ろしい兵器になるに違いない。 そんな武器を高校を卒業したての青年が姉を見殺しにした相手の復讐心で完成させる。それは純粋さゆえの過ちだった。 しかし今回最も辛かったのは湯川自身だったのかもしれない。自分が目を掛け、将来を期待した年の離れた後輩が突然の不幸から道を踏み外し、科学を悪用する立場になってしまった。しかも自分が教えた技術で以って。 「科学は世界を制す」が口癖だった古芝の父親はそれが我が子たちに向けたメッセージでありながらも実は科学は使う者によって善にもなり悪にもなる、世界を制するのも豊かな社会にして制する、もしくは軍事的に使われて制するという二律背反性を備えた禁断の魔術師なのだと自身に刻み込んだ戒めの言葉だったことが最後に解る。 300ページ足らずの長編で、元は短編に加筆した作品だったがそこに内包されたメッセージ、とりわけ科学者とはどう生きるべきかという根源的な命題を刻み込んだ作品で中身は濃かった。 そして今までは科学を悪用した相手に博識でトリックを看破してきた湯川だったが、今回初めて自身で授けた技術の悪用と愛すべき後輩に対峙した湯川の心境はいかばかりだったのか。 この事件を経て湯川はさらに人間的な魅力を備えて我々の許に還ってくるに違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
Vシリーズ4作目のテーマは夢。かつて結婚を約束した相手を交通事故でその女性の飼っていた愛犬と共に喪った放送会社のプロデューサ柳川の密室殺人事件がメインの謎である。
しかもその柳川は悪夢の中に出てくる女性に殺されたという実に不可解なシチュエーションである。その女性はかつて結婚を約束した女性で交通事故でその女性の愛犬と共に亡くしてしまう。しかしその女性が毎晩悪夢に登場しては自分を殺害し、さらには夢で登場する劇場に誘われ、実際にそこに行ってみると当の本人が踊っていることに驚愕するという非現実的な話が繰り広げられる。 また舞台がテレビ局というのも非日常的であり、一行が那古野を離れて東京で事件に携わるのも新味があり、なかなか面白い。彼らが宿泊するビジネスホテルの描写など何気ないところに妙にリアルな雰囲気があって、共感してしまう。 また彼らが訪れるN放送は駅が渋谷であることからNHKがモデルであるのは間違いなく、そこもかつて自分が訪れたことがあるだけに土地鑑や建物のイメージが出来たことでいつもより物語に没入できた。 しかし物語の展開にはかなり違和感を覚えた。特に事件に乗り出す警視庁の人間が紅子に色々と事件の内容を明かすことが実におかしい。紅子が人の警戒心を解く笑顔を武器に色々と話を聞くのだが、捜査上の秘密を素人にペラペラと話さないことは今では一般読者でも知っていることだろう。そこを作者は「紅子に対面すると男性は妙に素直になる傾向にある」と全く説得力のない答弁で逃げている。 更に事件の関係者であり最有力の容疑者である立花亜裕美が小鳥遊練無と共に車で建物から出るのを知っていながら見過ごしていることも実におかしい。普通ならば血眼になって2人の行方を捜すのではないか。そういう緊迫感が警察の口調からは感じられない。 この傾向はずっと続き、さらにエスカレートして紅子が望むままに事件関係者たちに逢わせたりと非現実的な昔の推理小説を読んでいるかのような錯覚を受ける。 それはそのまま踏襲され、警察一同集めての推理シーンまでもが演出されるのだが、その謎解きシーンはいつになく派手だ。なんとクイズ番組収録中に真相に辿り着いた紅子がそのまま犯人まで明かすのだ。そこから出演者、司会者、テレビスタッフ、そして刑事の前で紅子の推理が開陳される。 かつて川柳に「名探偵 みなを集めて さてと云い」というほど事件関係者を集めて推理を披露するのは本格ミステリでは定番なのだが、本書では実に聴衆の多い謎解きシーンとなった。番組出演者が32名だから、少なくとも50人近くはいることになる。またこのような場で推理を臆面もなく披露する紅子もらしいと云えば実にらしい。 しかし今回の物語は実にシンプルというか森氏にしては真っ当なミステリであった。小鳥遊練無が容疑者と失踪し、そしてそのために犯人に狙われるというツイストはあったものの、メインの殺人事件が本編の謎の中心であった構成は実に珍しい。なぜならば森ミステリではメインの事件よりもサブとなる謎の方に大きなサプライズがあるからだ。 例えば本書では保呂草の他に稲沢真澄という探偵が出てくる。このダブル探偵という設定ゆえに何かサプライズがあるのではないかと思っていたが、実に普通であった。いや実際は叙述トリックを色々仕掛けていたのだが、これに関しては後に述べよう。 そうそう、副産物として今回初めて瀬在丸紅子のイニシャルが明かされる。このシリーズがなぜVシリーズなのかが初めて明らかにされるのだ。 さて前述のとおり、本書には色々叙述トリックが仕掛けられていると書いたが、それは実に単純なものでいわゆる男女の錯覚である。小鳥遊練無という実に魅力的な女装趣味の男子が登場することでジェンダーの逆転がこのシリーズでは起きているのだが、それ以外にもこの性別の違いを利用した叙述トリックが本書では多い。 さて本書のタイトルは『封印再度 Who Inside』に次いで日本語と英語の読み方が同一のタイトルである。『夢・出逢い・魔性 You May Die In My Show』本書も同じく夢とショーで死ぬという趣向が一致しており、実に上手く感じるのだが、素直に『夢で逢いましょう』とした方が自然で作為を感じないと思うのだが。 しかしそれではいかにも普通であり、森氏独特の語感を味わえないため、やはり今の題名にした方がよかったのかもしれないのか。しかし『封印再度』とは異なり、あまりダブルミーニングの妙は本書では感じられなかった。確かに題名の通り夢とショーで殺されるという趣向は含まれているのだが、あまりインパクトがなかったように感じた。 しかし今回は阿漕荘メンバー東京出張編ということもあって紅子と犬猿の仲である祖父江七夏と元婚約者で刑事の林が登場しなかったこともあり、男女の痴情のもつれというドロドロした一面がなかったのがよかった。それ故に瀬在丸紅子、小鳥遊練無、香具山紫子、保呂草潤平たちの活躍に余計な騒音がなくて愉しめた。特に小鳥遊練無は大活躍である。ちなみに私の中の練無像は椿姫彩菜である。そして最後に美味しいところは瀬在丸紅子がかっさらっていく。 可哀想なのは香具山紫子だ。今回も三枚目に甘んじている。彼女が一番凡人であるがゆえにどうにか報われてほしいと思うのだが。 やはり西之園萌絵のいないシリーズの方が面白い。キャラもさらに魅力を増し、次を読むのが実に愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
デビュー作にして直木賞候補となった藤原伊織以来の鮮烈なデビューを飾った宮内悠介氏。惜しくも直木賞は逃したものの日本SF大賞を受賞した。
それはどんな作品かと問われれば、盤上遊戯、卓上遊戯、つまりは古来より伝わり、今なお嗜まれている囲碁、チェッカー、麻雀、古代チェス、将棋といったゲームをテーマにした短編集。 まずは第1回創元短編賞で山田正紀賞を受賞した表題作はある女流棋士の数奇な物語だ。 なんという物語だろうか。卒業旅行先の中国で狡猾な罠に嵌って両手両足を喪い、そのまま賭碁師の人買いに買われ、今までしたことのない囲碁を覚え、瞬く間にその才能を開花させ、棋界の上位への階段を昇っていく灰原由宇という女性棋士の奇妙な半生。 物語にはサプライズがあるわけでもなく、この女性が棋士になるまでと短い棋士人生、そして行方不明となったその後がエピソードの積み重ねで語られていく。そのエピソード1つ1つが濃厚でしかも深い。 四肢を喪うことで碁盤と同化し、いつしか囲碁の石が自分の手足となった灰原由宇が極限まで囲碁の世界を上り詰めていくその精神世界が語られる。囲碁という盤上にある天空の世界を彼女は氷壁を昇るかのように上を目指し、やがて言語がその精神世界を表現するのには足らなくなり、彼女の頭の中で飽和し爆発してしまい、とうとう彼女は棋界を去る。 この至高の域に到達しようとする氷壁登攀は実に孤独で冷たく、寂しい。しかし彼女は登るのを止めようとしなかった。 読後、あまりに濃密な2人の精神世界にため息が出て茫然としてしまった。 これを応募作で書くのか。いやはや言葉にならない。 続く「人間の王」ではチェッカーなるチェスの前身とも云うべき盤上遊戯で40年間無敗を誇ったチャンピオン、マリオン・ティンズリーと彼を打ち負かすことが出来たプログラム、シヌークを生み出したシェーファーというチェッカーに命を捧げた孤高の2人の物語。 物語は作者と思しき人物が40年間も無敗を誇ったティンズリーと彼のライバルとなったシヌークを生み出し、2007年にチェッカーの完全解を出したシェーファーという2人の人物の肖像とエピソードを探るノンフィクションの体裁を成している。 このマリオン・ティンズリーとシェーファーという2人は実在し、ここで語られる彼らの対局もまた実際の物である。従って本作はほとんどノンフィクションである。 ただ語り手がインタビューする相手が最後になって明かされる。 チェッカーという今は忘れられつつあるゲームを極限まで突き詰め、そして完全解を出すに至った2人の人間が到達している精神世界の深淵さを語る言葉が見つからない。 シェーファーは棋界が人を超えることを目指し、ティンズリーは神というプログラムを背負って対決に臨む。純粋に勝負をすることを求め、強者と出逢うことで生きる意味を見出し、勝つことで神の座に近づいていくことを実感する。誰もが到達しえない境地に辿り着こうとする天才、いや天才という二文字を超えた至高の存在。 彼らは何を見たのか。それを見ることは我々凡人には適わない世界なのだろう。 次の「清められた卓」も実に奇妙な読後感を残す。 恐らく作者は無類の麻雀好きであろう。この作品における作者の筆致の躍動感は自身の麻雀愛が溢れ出ている証左に過ぎないからだ。 常識破りの打ち方でプロ雀士のみならず天才麻雀少年や歴戦のアマチュア雀士を翻弄する「シャーマン」と呼ばれる真田優澄のキャラクターに尽きる。この4人が対峙する対局を手に汗握る攻防戦として再現する作者の筆致の熱にまた思わず読む方も力が入ってしまった。そして明かされる真田優澄の強さの秘密は実に途方もないものであった。 いやはや誰がこんな真相を見破れるだろうか。いやさらに云えば、よくもこれほど人智を超えた真相を作者は思いついたものである。 全てが想像を凌駕しており、ただひたすらに脱帽だ。 古代インドで生まれたチャトランガは将棋やチェスの起源とされているらしい。「象を飛ばした少年」はそのチャトランガがある人物によって生み出されようとした物語。 その人物とは仏教の祖であるブッダことゴータマ・シッダールタの息子、日蝕や月蝕を意味する<蝕(ラーフ)>と名付けられたゴータマ・ラーフラ。聡明でありながら数学や盤上に思索を重ねるその男は王者の相がないと云われていた。そしてその証拠に彼はインド山麓の小国カピラバストゥの最後の王となる。 元々王になるのではなく、学問に親しむラーフラは状況の犠牲者だ。彼は10歳の時に初めて出席した軍議である遊戯を着想する。その遊戯に思いを馳せるが王であるがゆえにそれを誰かと嗜むことが出来なかった。更には象という駒を2つ飛ばすことが誰しも理解されなかった。これは今なお親しまれ、広く遊ばれている将棋やチェスの原型を生み出した悲運の天才の、王の哀しい物語だ。 史実にこの事実はない。これは恐らく作者の創作であろう。しかしブッダの影にこのような悲運の王がいたことは史実であろう。偉大な父が出家したために王にならざるを得なかった男ゴータマ・ラーフラという男とチャトランガなる遊戯を組み合わせ織り成された物語は途轍もなく切なかった。 次の「千年の虚空」は王道の将棋がテーマだ。予想通り、ある天才棋士の物語なのだが、その生い立ちが実に破天荒なのだ。 未来の、まだ見ぬ天才将棋棋士の物語だが実に想像力に富んでいる。まず思わず眉を潜めてしまう葦原兄弟と織部綾のとんでもない幼少時代の日々が鮮烈な印象を残す。 他とは違う性格ゆえに本能のまま動く3人。やがて自我に目覚めた兄一郎のみがその依存状態から抜けるが、実は彼こそが綾に向いてほしいと願っていた。そして弟恭二は綾が持ってきた麻薬によって覚醒し、類稀なる将棋の才能を開花させるとともに統合失調症を患い、生涯綾の世話なしでは生きられなくなる。 そんな精神状態の中、彼は誰もが到達していない将棋の世界の彼岸を、神を再発明する領域に達しようとする。人は極限に到達するためには人間らしさを、異常性を持たなければならない。常人にとっては悲しいほどの悲劇に見えても彼ら彼女らにとっては望むがままに生きた末の結末だったから、幸せだったのだろう。 とにもかくにも凄絶な物語である。 最後の「原爆の局」では再び灰原由宇と相田が登場する。 壮絶なる棋士であった灰原由宇が再登場する。海外へ渡った2人を追ってライターの私はプロ棋士の井上と渡米する。 まさに鮮烈のデビューであろう。そして創元SF大賞は第1回の短編賞受賞者にこの素晴らしい才能を見出したことで権威が備わったことだろう。そう思わされるほど、この宮内悠介なる若き先鋭のデビュー短編はレベルが高い。 とにかく表題作に驚かされた。四肢を喪った女性棋士灰原由宇の半生が描かれるこの物語はミステリでもなく、また宇宙大戦やモンスターが出てくるわけもない。ただ彼女の棋士のエピソードが語られるのみだ。 しかしそこには道を究める者が到達する精神世界の高み、本作の表現を借りるならば天空の世界が開けているのである。この天空の世界はまさにSFである。精神の世界のみでSFを表現した稀有な作品なのだ。 特に孤高であった棋士が最後に放つ言葉が実に心地よい。こんな幸せな答えが他にあるだろうか。この台詞は今後も私の中に残り続けるだろう。 そして実在の機械と人との勝負を扱った「人間の王」はいわば伝記である。しかし実在したチェッカーというゲームの天才とコンピューターの闘いは本作以外の作者の創造した天才たちの精神性を裏付けるいい証左になっている。神を頭に宿し、全ての局面を記憶した天才が実在した。だからこそ彼はゲームの極北を見たいと思った。恐らく完全解を知りつつ、それを眼前に再現したいがために敢えて機械と戦った男。そんな人物が実在したからこそ、他の作品で登場する灰原由宇や真田優澄、葦原恭二たちの存在が生きてくる。 また麻雀を扱った「清められた卓」での息詰まる攻防戦の凄みはどうだろうか? プロ雀士は面子を掛け、予想外の奇手を打つ謎めいたアマチュア雀士真田優澄と戦いを挑む。他のアマチュア雀士も今まで培ってきたキャリアを賭けて挑む。極北の闘い、宗教と科学の闘いと称された対局はそれぞれを今まで体験したことのないゾーンへと導く。 この筆致の熱さは一体何なのだろう。ただでさえ麻雀バトルとしても面白いのに―ちなみに私は麻雀をしないし、ルールも解らないのだが、それでもそう感じた!―、最後に明かされる真田優澄の秘密と彼女が成したことを知らされるに至っては何か我々の想像を遥かに超越した世界を見せられた気がした。 後世に残る、天才たちを生み出すゲームを創作したにも関わらず誰もが相手にしないがために埋没した1人の王を描いた「象を飛ばした少年」が抱いた虚しさはなんとも云えない余韻を残すし、狂乱の人生を生き尽くした2人の兄弟と1人の女性の数奇な人生を語った「千年の虚空」では人智を超えた神の領域に到達するには常人であってはならないと痛烈に主張しているようだ。 ここに登場する葦原兄弟と織部綾の人生の凄絶さは到底常人には理解しえないものだ。それがゆえに己の本能に純粋であり、人間らしさをかなぐり捨てて常に答えを追い求めることが出来た。 これら物語には盤面という小宇宙に広がる極限を求め続けた人々の、我々常人が想像しえる範囲をはるかに超えた精神の深淵が語られる。それぞれ究極を求めたジャンルは違えど、一つのことを探求する人々の精神はなんとも気高きことか。 ここに出てくるのは見えざるものが見える人々だ。その道を究めんとする者たちが望むその分野の極北を、究極を見ることを許された人々たちだ。 しかしそんな彼らは超越した才能の代償に喪ったものも大きい。四肢をもがれて不具となった女性、強くなりすぎた故に滅びゆくゲームの行く末を見据えるしかない男、「都市のシャーマン」となり、治癒に身を捧げる女性、統合失調症になったがために才能が開花した男。 物事を探求し、見えざるものを見えるまで追い求めていく人々の純粋さはなんとも痛々しいことか。本書にはそんな不遇な天才たちの、普通ではいられなかった人々の物語が詰まっている。 なぜこれがSFなのか。 それは上にも書いたように人々の精神の高みはやがて宇宙以上の広大な広がりに達するからだ。また四角い盤上や卓上は常に対戦者には未知なる宇宙が広がる。その宇宙は限られた人々たちが到達する空間である。 本書はそんな異能の天才たちが辿り着いた宇宙の果てを見せてくれる短編集なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
お馴染み探偵ガリレオこと湯川准教授が活躍するシリーズの短編集。
早くもシリーズとしてはこれで7作目であり、短編集としても4作目となる。さらに本書は当時単行本で『虚像の道化師』と『禁断の魔術』とそれぞれ別の短編集として刊行されたが、後者の3編を合わせて1つの短編集にしたもの。後者の残り1編は『禁断の魔術』として文庫化の際、長編化して刊行されている。 さて初頭を飾る短編「幻惑(まどわ)す」は手を触れずに人がいきなり窓から飛び降りる現象を湯川が解き明かす。 手を触れずに人を動かす、いわゆる気功を扱ったのが本作。一見本当の奇蹟のように思わせられ、今回こそは湯川も解けないのではないかと読者は不安になるがそれでもきちんと科学的に立証する湯川の冴えは健在だ。 また本作を読んで、「もしかしたら…」と思い当たる実在の新興宗教の信者もいるのではといらぬことを案じてしまった。 次の「透視(みとお)す」は透視術に湯川が挑戦する。 今までのシリーズ作とは一風変わった作品。殺人事件は起きるものの、湯川が挑むのは犯行方法ではなく、犯行動機となった透視術の謎だ。 今現代テレビに出ているマジシャンもこの手法を使っているのだろうか。いやまた新たな方法を生み出しているのかもしれない。 よくよく考えると科学とマジックは永遠のいたちごっこを繰り返すようなものなのかもしれない。そんな風に思える作品だ。 「心聴(きこえ)る」では幻聴の謎に湯川は挑む。 最新科学の知識を利用したトリックがこのガリレオシリーズの最たる特徴なのだが、本作に限ってはちょっと行き過ぎの感は否めない。 湯川が直接事件に関わらない珍しい短編「曲球(まが)る」ではなんと野球選手の変化球について研究する。 シリーズとしては異色の作品。上に書いたように湯川は殺人事件には直接関与せず、草薙が事件を通じて知り合った落ち目のプロ野球選手の復活に力を貸すというスポーツ小説の風合いをも持った爽やかな作品となっている。 ただ全く事件に関与しないわけではなく、生前の野球選手の妻の不倫を思わせる不可解な行動について、野球選手の車の錆を手掛かりに真相を突き止めるといういわばサブストーリーに関する謎解きを行う。 「心聴る」でも思ったが、被害者の生前の行動について事件を解決した刑事がそこまで調査を掘り下げるものだろうかと疑問は残る。プライベート侵害として訴えられる恐れもあろうかと思うのだが。 双子には不思議な力があると云われているが「念波(おく)る」は双子の妹が胸騒ぎを感じて姉の夫に連絡したところ、姉が意識不明の重体で自宅で倒れていたというショッキングな幕開けで物語は始まる。 双子の間に不思議なシンクロニシティが働くというのはよく云われており、強弱の差はあれどそのような経験をする双子も実際にいるという。従って本作では敢えてまだ未開の分野である双子の研究にあらかじめ踏み込むのを避けるように物語が作られたようにも感じる。 本当に科学で証明されていないことはまだまだ存在する。それに直面したときには現代科学を熟知する湯川でさえ未開の分野ではまだまだヒヨコのようだ。 刑事と名探偵には常に事件が付きまとう。「偽装(よそお)う」では友人の結婚式に出席した湯川と草薙が殺人事件に出くわし、地元警察の協力をすることになる。 嵐の山荘物のシチュエーションを上手く活用して湯川と草薙が否応なく事件に関わらざるを得なくなったのが特徴的だ。正直事件現場の写真だけでそこまで推理できるかと思うが、湯川の新たな一面が解る1編だ。 最後の「演技(えんじ)る」は初期の東野作品を思わせる実にトリッキーな作品だ。 面白いのは元カノがなぜ彼氏を奪った彼女のためにあえて罪を被って身代わりになろうとするのかという謎。この一見不可解な謎が「劇団の女優」という登場人物の設定で氷解する。 この一種異様な動機は女優という特異な人物にこそ当て嵌まり、腑に落ちる。どこかチェスタトンの論理を思わせる1編である。 ガリレオシリーズ第7作目となる第4短編集。本書では内海刑事の登場以来、疎遠になりつつあった草薙刑事と湯川との名コンビぶりが復活しているのが個人的には嬉しかった。 今回も科学知識を活用したトリックが並べられている。 いずれもどこかで聞いたような物ばかり。生活家電に取り入れられているものもあれば、かつて学生時代に学んだ物もあり、また初めて聞くものもありと今回もヴァラエティに富んでいる。つまり必ずしも最先端の科学技術ではなく、我々の日常生活で既に活用されている技術を駆使したトリックなのだ(一部を除くが)。 また一方で現在研究中の分野についても湯川は踏み込む。 本書では双子の間に働くテレパシーを扱った「念波る」が該当するが、まだその原理が証明されていないその謎については特段新しい研究発表が開陳されるわけでなく、予定調和に終わった感が否めない。双子のテレパシーは現在実際に研究中の分野だが、さすがにこの謎は湯川自身も解けなかったようだ。 しかしこれらの技術をトリックとして使って恰も超常現象のように振る舞う犯人、もしくは事件関係者たちの姿はもはや特異ではなく、日常的になりつつある。 それはやはりネットの繁栄により素人が容易に手軽にそれらの技術を応用したツールを手に入れ、アイデア1つで奇跡のような事象を生み出すことが可能になったからだ。つまり科学技術が蔓延することは警察にとっても常に犯人と技術的な知恵比べを強いられることになることを意味している。 そんな科学知識を応用して紡がれる短編はとにかく全てが水準以上。シリーズ初期に見られた一見怪現象としか思えない事件を科学の知識でそのトリックを見破るだけでなく、事件の裏に隠された関係者の意外な心理を浮き彫りにして余韻を残す。 そんな粒ぞろいの作品の中で個人的なベストを挙げると「透視す」、「曲球る」、「演技る」の3編を挙げたい。 「透視す」は思っていることは話さないと人には伝わらない、そんなシンプルなことが出来なかったために起きたボタンの掛け違いが切なく胸に沁みる。 「曲球る」は湯川が今注目されているスポーツ科学に携わり、戦力外通告を受けたプロ野球選手の往年のピッチングを復活させるために一肌脱ぐ話であり、直接的には殺人事件に関与しない。野球選手の亡き妻の不審な行動の謎を湯川が看破するが、あくまでも主体はスポーツ科学への関与だ。どことなくパーカーの『初秋』を思わせる温かい物語だ。 本書のタイトルの基となった「演技る」は久々に東野ミステリの技巧の冴えを感じさせた1編だ。女優という特異な職業ならではの歪んだ動機が強い印象を残す。一種狂気にも近い感情でまさに「虚像の道化師」とは云いえて妙である。 さて以前にも書いたが湯川は『容疑者xの献身』以前と以後ではキャラクターががらりと変わっている。特に事件関係者に対して手厚い心遣いを、気配りをするようになった。 「透視す」ではホステス殺人事件の謎のみだけでなく被害者親子の確執に隠された被害者の真意を突き止め、遺族となった継母に魂の救済を与える。 「曲球る」では再起をかけたプロ野球投手に研究としながらも復活に惜しみなく協力し、「念波る」では双子姉妹に秘められた犯人に対する強い疑念を晴らすために嘘をついてまで協力すれば、「偽装う」では心中事件を殺人事件に偽装しようとした娘の痛々しい過去を汲み取り、明日への新たな一歩を踏み出す勇気を与える。 そこには単純な科学の探究者だった湯川の姿はなく、人を正しい道に導く人道的な指導者の姿が宿る。 前作『真夏の方程式』で否応なく事件に関わらされた無垢なる容疑者に直面したことが、今回のように予期せず犯罪に巻き込まれてしまいながらも今の最悪を変えようともがく弱き人々へ手を差し伸べる心理に至ったのだろうか。だとすればこのシリーズは間違いなく事件を経て変わっていく湯川学の物語であるのだ。単なる天才科学者の推理シリーズではないのだ。 以前は加賀恭一郎シリーズの方に好みが偏っていたが、今ではその天秤はこの探偵ガリレオシリーズに傾きつつある。 本書を読んでその傾きはさらに強くなったと告白してこの感想を終えよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
キング2作目にして週刊文春の20世紀ベストミステリランキングで第10位に選ばれた名作が本書。
そんな傑作として評価される第2作目に選んだテーマはホラーの王道とも云える吸血鬼譚だ。 小さな田舎町セイラムズ・ロットを侵略する吸血鬼対人間の闘いを描いた本書はかつて少年時代に4年間だけこの町に住んでいた作家のベン・ミアーズと彼が町で知り合い恋仲になるスーザン・ノートンを中心にして物語は進むが、原題“‘Salem’s Lot”が示すように本書の主役はセイラムズ・ロットと呼ばれる町である。 メイン州が成立する55年前に誕生した人口1,300人の小さな町。しかしそこには曰くつきの屋敷マーステン館があり、そこに再び居住者が現れる。 上に書いたように本書の主役はこの町であり、その住民たちである。従ってキングは“その時”が訪れるまで町民たちの生活を丹念に描く。彼ら彼女らはどこの町にもいるごく当たり前の人々もいればちょっと変わった人物もいる。登場人物表に記載されていない人々の生活を細かくキングは記していく。 町一番朝早くから働くのは牧場で牛たちの乳搾りを行う18歳のハルと14歳のジャックのグリフェン兄弟。ハルは学校を辞めたがっているが父親の反対に遭ってむしゃくしゃしている。 彼らの搾った牛乳はアーウィン・ピューリントンによってセイラムズ・ロットに配達される。その牛乳は本書の主人公で作家のベン・ミアーズが泊まっている下宿屋のエヴァ・ミラーの許だけでなく17歳で生後10ヶ月の赤ん坊ランディの育児に悪戦苦労しているサンディ・マクドゥガルの許にも届けられる。彼女は日々ランディに対してストレスを溜めている。 ハーモニー・ヒル墓地の管理人マイク・ライアースンは墓地のゲートに犬の死骸が串刺しになって吊るされているのを発見し、保安官のパーキンズ・ギレスビーに届けた。その犬はアーウィンの愛犬だった。 スクール・バスの運転手チャーリー・ローズはバスの中では全知全能の神だった。彼のバスではだから子供たちは行儀良かったが、今朝はメアリ・ケート・グリーグスンがこっそりブレント・テニーに手紙を渡したのを見たので2人には途中で降りてもらい、学校まで歩いてもらうことにした。 エヴァの下宿屋で長年働いているウィーゼル・クレイグはエヴァとかつての愛人だった。 ごみ捨場管理人のダッド・ロジャーズ。 若い男と昼下がりの情事に耽る美しい人妻ボニー・ソーヤー。 学校に新しく入ってきたマーク・ペトリーは学校一の暴れん坊リッチー・ボッディンに因縁をつけられるが鮮やかに一蹴してしまう。 定年まであと2年の63歳の高校教師マット・バーク。 常にマーステン館を双眼鏡で見張っている町のゴシップ屋メイベル・ワーツ。 これらの点描を重ねて物語はやがて不穏な空気を孕みつつ、“その時”を迎える。 このじわりじわりと何か不吉な影が町を覆っていく感じが実に怖い。 正体不明の骨董家具経営者がマーステン館に越してきてから起きる怪事件の数々。キングは吸血鬼の存在を仄めかしながらもなかなか本質に触れない。ようやく明らさまに吸血鬼の存在が知らされるのは上巻300ページを過ぎたあたりだ。それまでは上に書いたように町の人々の点描が紡がれ、そこに骨董家具経営者の謎めいた動きが断片的に語られるのみ。それらが来るべき凶事を予感させ、読者に不安を募らせる。 そしてようやく上巻の最後に吸血鬼そのものと邂逅する。 それは犠牲者の一人で墓堀りのマイク・ライアースン。つまり既にセイラムズ・ロットが吸血鬼の毒牙によって侵食されていることが読者の脳裏に刻まれる。 しかし吸血鬼が現れても一気呵成に彼らの襲撃が始まるわけではない。一人また一人と被害者が現れ、そして彼ら彼女らを取り巻く人々が次々に容態を悪化させ、ゆっくりと、しかし確実に死に至る。しかしそれらの死体はいつの間にか消えてしまう。安置所から、墓穴から。そこでようやく町民たちは気付くのだ。この町には何か邪悪な物が蔓延っていると。 このねちっこさが非常にじれったいと思うのだが、逆にそれがまた恐怖を募らせる。いつ主人公のベンやスーザンに災厄が訪れるのか、読者はキングの掌の上で弄ばれているかのように読み進めざるを得ない。 物語の序盤で丹念に描かれたセイラムズ・ロットの町の人々の風景。それぞれの人々のそれぞれの暮らし。 そこで紹介された彼ら彼女らの生活が、日常が吸血鬼カート・バーローと彼らが増やした下僕たちによって次々と“仲間”にさせられる。 そしてその災厄を頭ではなく肌身で感じた一部の人々はベンやマットに与し、戦いを挑む者もいるが、大半は云いようのない胸騒ぎを覚えて、魔除けになるような物を携帯し、ただ何事もなく夜が過ぎるのを祈る。そして朝が来たら住み慣れたセイラムズ・ロットを離れる者もいる。 吸血鬼に立ち向かうのは主人公のベン以外に高校教師のマット・バーク、彼の元教え子で医者のジミー・コディ、ホラー好きの博学な少年マーク・ペトリー、そして飲んだくれ神父のドナルド・キャラハンらだ。 その中でも特筆すべきはマーク・ペトリーだ。早熟なこの少年は常に物事を一歩引いた視座で観察し、冷静沈着な判断で危難を切り抜ける。学校一の暴れん坊に目をつけられると、頭の中で作戦を立て、返り討ちに合わせて面目をつぶす。 オカルトやモンスターに深い知識を持ち、吸血鬼の出現にも知識を総動員して冷静に対処する。本書においてヒーローを体現しているのは実はこの少年なのだ。 キングの名を知らしめた本書は今ならば典型的なヴァンパイア小説だろう。物語はハリウッド映画で数多作られた吸血鬼と人間の闘いを描いた実にオーソドックスなものだ。 しかし単純な吸血鬼との戦いに人口1,300人の小さな町セイラムズ・ロットが徐々に侵略され、吸血鬼だらけになっていく過程の恐ろしさを町民一人一人の日常生活を丹念に描き、さらにそこに実在するメーカーや人物の固有名詞を活用して読者の現実世界と紙一重の世界をもたらしたところが画期的であり、今なお読み継がれる作品足らしめているのだろう(今ではもうほとんどアメリカの書店には著作が並んでいないエラリー・クイーンの名前が出てくるのにはびっくりした。当時はまだダネイが存命しており、クイーン作品にキング自身も触れていたのだろう)。 恐らくはそれまでの吸血鬼は仲間を増やしつつも本書のように町の人々たち全てを対象にしたものでなく、吸血鬼が気に入った者のみを仲間にし、それ以外は彼らが生き延びるための糧として血を吸った後は死体と化していたような気がする。 しかし本書は吸血鬼カート・バーローがどんどん町の人々を吸血鬼化していき、ヴァンパイア・タウンにしていくところに侵略される恐怖と絶望感をもたらしている、ここが新しかったのではないか。 従って私は吸血鬼の小説でありながらどんどん増殖していくゾンビの小説を読んでいるような既視感を覚えた。 吸血鬼として数百年もの歳月を生きてきたカート・バーローは深い知識と狡猾な知恵を備えており、抵抗するベンやマーク達をその都度絶望の淵に追い込んでは返り討ちにする。そのたびに貴重な理解者たちが亡くなっていく。 圧倒的な支配力の下でしかしベンとマークはこの大いなる恐怖に立ち向かう。 彼らも逃げたいがベンには理由があった。 それはこの町に戻ってくるきっかけとなった妻ミランダの死だ。自身の交通事故で妻を亡くした彼は居たたまれなさからセイラムズ・ロットに逃げ込んだ。そして第2の安住の地としてスーザンという新たな安らぎを得ながらも吸血鬼カート・バーローに蹂躙され、自ら手を下して彼女を救済せざるを得なくなった元凶を彼は今度は逃げずに立ち向かうことにしたからだ。それが彼の行動原理だ。 また本書の恐ろしいところは町が吸血鬼に侵略されていることをなかなか気づかされないことだ。 彼らは夜活動する。従って昼間は休息しているため白昼の町は実に平穏だ。いや不気味なまでに静まり返っている。人々はおかしいと思いつつも明らさまな凶事が起きていないため、異変に気付かない。しかし夜になるとそれは訪れる。 近しい人々が訪れ、赤く光る眼で魅了し、仲間に引き入れる。この実に静かなる侵略が恐怖を募らせる。 これは当時複雑だった国際情勢を民衆が知ることの恐ろしさ、知らないことの怖さをキングが暗喩しているようにも思えるのだが、勘ぐりすぎだろうか? 古くからある吸血鬼譚に現代の風俗を取り入れてモダン・ホラーの代表作と評される本書も1975年に発表された作品であり、既に古典と呼ぶに相応しい風格を帯びている。 それを証拠に本書を原典にして今なお閉鎖された町を侵略する吸血鬼の物語が描かれ、中には小野不由美の『屍鬼』のような傑作も生まれている。 もう1人のモダンホラーの雄クーンツの作品はほとんど読んでおり、私にとってこのジャンルは決して初めてではない。 しかしキングの作品はクーンツの諸作と違い、結末はハッピーエンドではなく、どこか無力感と荒寥感が漂う。 今なお精力的に作品を発表し、そして賞まで受賞しているこの大作家は今後どのような物語を見せてくれるのだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
マット・スカダーシリーズ17作目の本書はなんと時代は遡って『八百万の死にざま』の後の事件についての話。
幼馴染で犯罪者だったジャック・エラリーの死についてスカダーが調査に乗り出す。マットが禁酒1年を迎えようとする、まだミック・バルーとエレインとの再会もなく、ジャン・キーンがまだ恋人だった頃の時代の昔話だ。 AAの集会で再会した幼馴染ジャック・エラリーの死にマットが彼の助言者の依頼で事件の捜査をするのが本書のあらすじだ。 マットは警察という正義の側の道を歩み、翻ってジャックはしがない小悪党となってたびたび刑務所に入れられては出所することを繰り返していた悪の側の道を歩んできた男だ。 かつての幼馴染がそれぞれ違えた道を歩み、再会する話はこの手のハードボイルド系の話ではもはやありふれたものだろう。そしてマットが警察が鼻にもかけないチンピラの死を死者の生前数少なかった友人の頼みを聞いてニューヨークの街を調べ歩くのも本シリーズの原点ともいうべき設定だ。 今回の事件は禁酒者同士の集まりAAの集会で設定されている禁酒に向けての『十二のステップ』のうち、第八ステップの飲酒時代に自分が迷惑をかけたと思われる人物を書き出し、償いをする活動がカギとなっている。ジャックがその段階で挙げた人物たちに過去の謝罪と償いをしていたことからそのリストの5人が容疑者として浮かび上がる。 しかし彼らの中には犯人がいないという意外な展開を見せる。 さらに容疑者の1人の元故買屋マーク・サッテンスタインが殺され、ジャックの助言者グレッグも殺される。マットはジャックの部屋から第八ステップで書いたジャックの全文を見つけ、ジャックがかつて行った強盗殺人の顛末とそこに書かれたE・Sなる相棒の存在に気付く。 そしてマットも意外な形で真犯人の襲撃に遭う。ホテルの部屋に戻るとそこにバーボン、メーカーズマークの瓶とグラスが置かれ、さらにベッドのマットと枕に同じバーボンがぶち撒かれ、部屋中一帯にアルコールの臭いが充満していたのだ。 禁酒1年目を迎えようとする直前でマットはまたもアル中になるのかと恐怖に慄く。禁酒中のアル中を殺すのに刃物も銃もいらないのだ。ただそこに強い誘惑を放つアルコールがあればいいのだ。 本書の原題である“A Drop Of The Hard Stuff(強い酒の一滴)”だけでも十分なのだ。 しかしなぜここまで時代を遡ったのだろうか? ブロックはまだ語っていないスカダーの話があったからだと某雑誌のインタビューで述べているが、それはブロックなりの粋な返答だろう。 恐らくは時代が下がり、60を迎えようとするマットがTJなどの若者の助けを借りてインターネットを使って人捜しをする現代の風潮にそぐわなくなってきたと感じたからだろう。 エピローグでミック・バルーが述懐するようにインターネットがあれば素人でも容易に何でも捜し出せる時代になった今、作者自身もマットのような人捜しの物語が書きにくくなったと思ったのではないだろうか。 しかしそれでもブロックはしっとりとした下層階級の人々の間を行き来する古き私立探偵の物語を書きたかったのだ。 それをするには時代を遡るしかなかった、そんなところではないだろうか? そして忘れてならないのは『死者との誓い』で病で亡くなったジャンとの別れの物語だろう。 お互い幸せを感じながらもどこかで負担を感じつつある2人。暗黙の了解であった土曜日のデートが逆に自由を拘束されるように感じ、デートに行けない理由を並べだす。これといった理由もないが、どこかで2人で幸せに暮らす情景に疑問を持ち、避け合う2人の関係。 大人だからこそ割り切れない感情の揺れが交錯し、そして決別へと繋がる。どことなく別れたジャンとマットの関係をきちんと描くのもまたブロックがこのシリーズで残した忘れ物を読者に届けるために時代を遡って書いたのかもしれない。 2013年からシリーズを読み始めた比較的歴史の浅い私にしてみても実に懐かしさを覚え、どことなく全編セピア色に彩られた古いフィルムを見ているような風景が頭に過ぎった。 私でさえそうなのだから、リアルタイムでシリーズに親しんできた読者が抱く感慨の深さはいかほどか想像できない。これこそシリーズ読者が得られる、コク深きヴィンテージ・ワインに似た芳醇な味わいに似た読書の醍醐味だろう。 物語の事件そのものは特にミステリとしての驚くべき点はなく、ごくありふれた人捜し型私立探偵小説であろう。 しかしマット・スカダーシリーズに求めているのはそんなサプライズではなく、事件を通じてマットが邂逅する人々が垣間見せる人生の片鱗だったり、そしてアル中のマットが見せる弱さや人生観にある。 そして物語に挟まれるマットが対峙した過去の事件のエピソード。そして最後のエピローグで本書の物語に登場した人物や店のその後がミックとの会話で語られる。それらのいくつかはシリーズでも語られた内容だ。 とりわけジャンの死は。 古き良き時代は終わり、誰もが忙しい時代になった。ニューヨークの片隅でそれらの喧騒から離れ、グラスを交わす老境に入ったマットとミック2人の男の姿はブロックが我々に向けたシリーズの終焉を告げる最後の祝杯のように見えてならなかった。 しかし私のマット・スカダーは終われない。『すべては死にゆく』を読んでいないからだ。 二見書房よ、ぜひとも文庫化してくれないか。私にケリをつけさせてくれ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
今や『このミス』の常連となりつつあるミステリ作家長岡弘樹氏。本書は彼のデビュー作が収められた短編集である。
まず表題作は元市立中学校の校長だった老人のある出来事を綴った物。 物忘れに苦慮する老人が元校長というプライドから周囲にばれないようにどうにか取り繕う日々を送るさまが綴られる。そしてそのプライドの高さがかえって変な気遣いを自らに課せさせ、事態が思わぬ方向へと転ずるというスラップスティック・コメディの様相を湛えながら、忘れ物が見つかったことでふとある事実に気付かされるというツイストが憎い。 ほのぼのと心温まる1編だ。 続く「淡い青のなかに」はシングルマザーと不良の息子というよくある取り合わせの母子の物語。 仕事に専念するがために家庭を、自身では疎かにしていないとは思いながらも以前よりは子供の面倒を見ることが少なくなったシングルマザーの、どこにでもある家庭であろう。 そんな矢先に車で人を撥ねるというアクシデント。その日は課長に昇進した日。キャリアウーマンとして躍進の第一歩を踏み出した彼女が動揺する中、不良息子が身代わりになる、しかも刑法にも引っかからない。 なんともまあ誰もが陥りそうな悪魔の甘い囁きを作者は用意したことか。当事者だったら、息子の提案に従う人もあるのではないか? しかし私なら息子に罪を負わすよりも正直に警察に届け出ることを選ぶと思う。なぜならばそんな親に子供になってほしくないからだ。 そして本書でも思わぬツイストがある。つまり被害者はいったい何者だったのか? しかし本書もまた謎の男の正体に読みどころがあるわけではない。この男の正体をファクターとして不和の母子に関係修復の機会が訪れるところがそれなのだ。 またも温かい気持ちになれる作品だ。 しかしそんな温まる話ばかりではない。次の「プレイヤー」はある人物の隠された悪意に気付かされる。 市役所の駐車場で起きた転落死。しかも柵の横棒が外れていたため、事故死と判断される。通常ならば新聞の三行記事にしかならないような事件を警察の側からでなく、当事者である市役所々員の側から描くという着想が面白い。 そしてその所員は春の人事異動で昇進が有力的だったから、自分の不祥事を免れようと必死に事件を独自に調べる。サラリーマンである私にとっても自分の人事のために殺人事件に必死になる主人公という着想はなかった。 そして徐々に明らかになってくる被害者の不自然な行動から、主人公の崎本は自殺ではないかと推理し、それを裏付ける状況証拠を見つけるのだが、唯一の発見者である同じ市役所々員唐木の証言でなかなか事件が覆らない。なぜ唐木は嘘めいた証言をするのか? 公務員の歪みと切なさが漂う作品だ。 「写心」は他の作品とは異なり、誘拐という犯罪を前面に押し出した作品。 誘拐犯が逆に脅迫されるというアイデアが面白い。そこには夫に逃げられた水落詠子が抱える心の闇があるのだが、本作の焦点はまさにその闇の正体を探ることだ。 元報道カメラマンの守下が誘拐計画のために水落詠子の日常を観察しているときに一瞬捉えた彼女の笑顔の正体はいったい何だったのか? ただ本作のもう1つのサプライズである事実はさすがに気付くのが遅すぎる。この鈍感さは常に被写体に向き合うカメラマンとしては失格だろう。 「淡い青のなかに」では関係が上手くいっていない母と子が主人公だったが最後の「重い扉が」ではしこりを抱えた父と子の物語。 一緒にいた親友が重体になり、敵討ちを誓った息子が突然捜査に協力したくないと云った理由。そして事件現場の商店街の通りを間違えた理由、さらに過去祖父を亡くし、自身もサッカー選手の夢を途絶えさせることになった交通事故の真相がある1つのことですべて氷解する。 それらを承知し、また自分で調べて理解する克己の人格の素晴らしさが際立つ。よくできた高校3年生だ。そしてそれぞれが抱えていた確執が氷解する。実によく出来たストーリーだ。 今や現代を代表する短編の名手ともされる長岡弘樹氏。 彼のデビュー作は読者の町にもいるであろう人々が出くわした事件、もしくは事件とも呼べない出来事をテーマにした日常の謎系ミステリの宝箱である。 物忘れがひどくなった老人が必死にそれを隠そうとする。 自身のキャリアを高めるために必死に働くがために一人息子を問題児にしてしまったキャリアウーマン。 卒なく業務をこなし、出世の道を順調に上がろうとする公務員。 同僚にケガをさせたことで自責の念から職を辞し、実家の写真屋を受け継ぐが資金難に四苦八苦する元報道カメラマン。 ある事件から息子との関係が悪くなった荒物屋の店主。 全て特別な人たちではなく、我々が町ですれ違い、また見かける市井の人々である。そしてそんな人たちでも大なり小なり問題を抱えており、それぞれに隠された事件や出来事があるのだ。 これら事件や出来事を通じてお互いが抱いていた誤解が氷解するハートウォーミングな話を主にしたのがこれらの短編集。 中に「プレイヤー」のような思わぬ悪意に気付かされる毒のある話もあるが。 気付いてみると5編中4編はハートウォーミング系の物語であり、しかもそれらが全て親子の関係を扱っているのが興味深い。 「陽だまりの偽り」はどことなくぎこちない嫁と義父の、「淡い青のなかに」と「写心」は母と子の、そして「重い扉が」はと父と子の関係がそれぞれ作品のテーマとなっている。 それはお互いがどこか嫌われたくないと思っているからこそ無理に気を遣う状況が逆に確執を生む、どこの家庭にもあるような人間関係の綾が隠されていることに気付かされる。 逆に正直に話せばお互いの気持ちが解り、笑顔になるような些末な事でもある。 人は大人になるにつれ、なかなか本心を話さなくなる。むしろ思いをそのまま口にすることが大人げないと誹りを受けたりもするようになり、次第に口数が少なくなり、相手の表情や行動から推測するようになってくる。そしてそれが誤解を生むのだ。 実はなんとも思っていないのに一方では嫌われているのではと勘違いしたり、良かれと思ってやったことが迷惑だと思われたり。逆に本心を正直に云えなくなっていることで大人は子供時代よりも退化しているかもしれない。 作者長岡弘樹氏はそんな物云わぬ人々に自然発生する確執を汲み取り、ミステリに仕立て上げる。恐らくはこの中の作品に自分や身の回りの人々に当て嵌まるシチュエーションがある読者もいるのではないだろうか。 私は特に中学生の息子を持つがゆえに「重い扉が」が印象に残った。 いつか来るであろう会話のない親子関係。その時どのように対応し、大人になった時に良好な関係になることができるのか。我が事のように思った。 しかしこのような作品を読むと我々は実に詰まらないことに悩んで自滅しているのだなと思う。ちょっと一息ついて考えれば、そこまで固執する必要がないのに、なぜかこだわりを捨てきれずに走ってしまう。歪みを直そうとして無理をするがゆえにさらに歪んでしまい、状況を悪化させる。他人から見れば大したことのないことを実に大きく考える。 本書にはそんな人生喜劇のようなミステリが収められている。 全5作の水準は実に高い。正直ベストは選べない。 どれもが意外性に富み、そして登場人物たちの意外な真意に気付かされた。実に無駄のない洗練された文体に物語運び。 デビュー作にして高水準。今これほど評価されているのもあながち偽りではない。 また一人良質のミステリマインドを持った作家が出てきた。これからも読んでいこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
ドイル晩年のSF冒険譚。ウィキペディアで調べる限り、これがドイル最後の小説のようだ。
空想冒険小説ではチャレンジャー教授がシリーズキャラクターとして有名であるが、本書では海洋学者マラコット博士が主人公を務め、冒険の行き先は大西洋の深海だ。 潜降函なる金属の箱でカナリア諸島西にある、自身の名が付いたマラコット海淵から深海調査に乗り出したマラコット博士とオックスフォード大学の研究生サイアラス・ヘッドリーとアメリカ人の機械工ビル・スキャンランの3人が大蟹に潜好函が襲われてそのまま海底に遭難してしまうが、なんと独自の科学技術で深海で生活しているアトランティス人たちに助けられるという、ジュヴナイル小説のような作品だ。 もともとドイルは海に関する短編を数多く発表しており、新潮文庫で海洋奇談編として1冊編まれているくらいだ。そして深海の怪物に関する短編もあり、もともと未知なる世界である海底にはヴェルヌなどのSF作家と同じように興味を抱いていたようだ。 そしてそれを証明するかのようにマラコット博士一行が海底でアトランティス人たちと暮らす生活が恐らく当時の深海生物に関する資料に基づいてイマジネーション豊かに描かれている。 まずアトランティス人たちが海底で暮らすために透明なヘルメットを被っており、そこに空気が送られて一定時間活動できるというのは今の潜水服そのものだ。 調べてみると1837年にはイギリス人のシーベによってヘルメット潜水器の原型が発明されており、1871年には日本にも導入されているから本書が書かれた1929年では既に既知の技術だったことは間違いない。 しかし空気や水、食糧、ガラス材料などを作る装置が備わった海底でも暮せる防水建築という概念は今でも新鮮であり、さらに思ったことが映像として出てくるスクリーンなどは今でも発明されていない。 さらに彼らの生活を支えるエネルギー源が海底に豊富に眠る石炭であり、それらを採掘して動力にしているとなかなか抜け目がない。 またドイルが描く深海生物も特筆で博士たち一行を海中に追いやったエビと蟹の中間の大ザリガニのような化け物から、毛布のように人を包んで海底にこすり付けて食べるブランケット・フィッシュ、樽のような形をした電波で攻撃する海ナメクジ、群れで活動し、血の匂いを嗅ぎつけると集団で襲い掛かり、白骨になるまで食い尽くすピラニアのような魚、1エイカーほどの大きさを持つ大ヒラメなど、今なお未開の地である海底にいてもおかしくない生物たちが描かれている。 しかし物語のクライマックスと云える邪神バアル・シーパとの戦いは果たして必要だったのか、はなはだ疑問だ。 この戦いをクライマックスに持ってくるよりもやはり物語の中盤で描かれる、彼らの生還を詳細に書いた方がよかったのではないか。 唯一おかしいのは水圧に関する考察だ。本書では深く潜っても水圧が高くなるのは迷信であるとして彼らの深海行の最大の難関を一蹴している。 今ではそのような理屈だと物語の前提から覆るのだが、ドイルはどうしても深海冒険物語を書きたかったのだろう。最後の作品でもあるのでそこら辺は大目に見るべきだろう。 しかし最後の作品でも子供心をくすぐる冒険小説を書いていることが率直に嬉しいではないか。読者を愉しませるためには貪欲なまでに色んなことを吸収して想像力を巡らせて嬉々としながら筆を走らせるドイルの姿が目に浮かぶようだ。 翌年ドイルはその生涯を終えた。 最後の最後まで空想の翼を広げた少年のような心を持っていた作家であった。 合掌。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
ホテル・コルテシア東京に勤めるホテル・ウーマン山岸尚美と警視庁捜査一課の“ルーキー”新田浩介。
本書は2人が連続殺人事件で出会う前に経験したそれぞれの“事件”を綴った短編集。 「それぞれの仮面」ではまだ就職して4年と間もない山岸尚美が出くわしたある事件の話。 山岸尚美若き(?)日のエピソードといった導入部としてはなかなかな物語だ。入社5年目で毎日孤軍奮闘している様子を描きながらもホテル・ウーマンとしてお客様の細やかな観察眼が日々養われていることもきちんと書かれてあり、山岸尚美が後に『マスカレード・ホテル』で一流のホテル・ウーマンぶりを発揮する片鱗がそこここに散りばめられている。 ところで本作に登場する元プロ野球選手大山将弘は大阪弁と“大将”というニックネームからやはりあの男をどうしても想起してしまうし、またモデルであるだろう。従って宮原が彼の不倫を糊塗しようと奮闘するその理由が52ページで語られるのだが、麻薬事件が生々しいだけに余計に痛切に響いた。 次の「ルーキー登場」はもう一方の主人公新田浩介の若き頃の話。 ルーキー、即ち新田浩介の若き日(?)の捜査を描いた作品。都内で起きた実業家殺人事件に潜む人間の醜悪さを描いた作品だ。日常の何気ないシーンから事件の糸口を結びつける新田の思考はどこか加賀恭一郎を想起させる。 物語のツイストはもはや東野作品での常とう手段なので今更の驚きはないが、敢えてそれが解決に結びつかず、新田の苦い捜査経験の1つとして刻まれるようにしている。 もう1つの山岸尚美の物語は「仮面と覆面」は東野氏自身も経験したのだろうか、作家のホテルカンヅメを扱った短編。 覆面作家のホテルのカンヅメ中に熱狂的ファンが訪れ、ホテルは秘密を阻止すべく彼らとの駆け引きを繰り広げる。しかしその作家当人にも不審な点があるとなかなか面白い話である。特にファンの一目作家に会いたいという思いの強さは強烈で正直ここまでするのかと驚いた。 そして覆面作家のサプライズを逆手に取った真相も面白い。しかしこの正体を出版社も知らないわけだから、もしかして世間に出回っている覆面作家の中にも同様の人がいるのかも? またホテルの部屋の電話トリックも半ばで解った。しかし本当にできるのかな。今度やってみよう。 ちなみに本作で『~笑小説』で登場する出版社『灸英社』が出るのは作者のファンサービスだろう。 そして最後の表題作は山岸尚美と新田浩介の2人の人生が間接的に交錯する前日譚だ。 『マスカレード・ホテル』で覆面捜査官としてホテル・クラークに扮した新田浩介とその教育指導を務めた山岸尚美に意外な接点があったというのがこの作品。大阪に出来た支店に応援に来ていた山岸尚美が意外な形で新田の担当する事件に関わるというのがあらすじだ。 また本作で登場する穂積理沙という女性警官がなかなかいい味を出している。ちょっとがっしりしたタイプの女性で体力と粘り強さが取り柄の元気溌剌娘だ。 『マスカレード・ホテル』では新田の新人ホテルマンぶりが物語のアクセントとなったが、それ以前に新田にも応援者を教育する機会があったのだ。ベテランと新人のミスマッチの妙が本作でも発揮されている。まあ、新田はベテランというにはまだ若すぎるのだが。 事件は教授殺しの重要容疑者である准教授が殺人の容疑を晴らせるのにもかかわらずなぜか大阪での情事について黙秘を続けるという謎を探る物語となっている。こういう人の感情が作る一種の割り切れなさというか不整合性を扱わせると東野氏は抜群にうまい。 そんな事件の真相は女性の怖さを知らされる物語だ。 そしてこの人妻、畑山玲子と夫の義之の関係もちょっと特殊だ。お互いが存在を尊重しながらも夫婦生活は疎遠で、夫は妻の浮気をも甘受する。本作では仮面夫婦と述べているが、ちょっと違うだろう。同じ目的を持った同士といった関係に近いだろうか。 ちなみに事件の舞台となる泰鵬大学は『疾風ロンド』で炭疽菌が盗まれた大学である。事件の多い大学だ。 山岸尚美と新田浩介。本書は『マスカレード・ホテル』の文庫化を期に文庫オリジナルで刊行された名(迷?)コンビの2人の前日譚。 彼らの初々しさを髣髴させるエピソード集と云えるだろう。 例えば今ならば一流のホテル・ウーマンとなった山岸尚美ならばお客様に仮面を着けているなどとは心では思いこそすれ口には出さないだろう。1作目の「それぞれの仮面」の最後の方で元恋人宮原隆司と元プロ野球選手の不倫相手である女性に対して慇懃ながらも本心をオブラートに包んでチクリと皮肉を云うなどとは決してあるまい。 こういうところに未熟さを交えるところが東野氏のうまいところか。 そして「ルーキー登場」で捜査一課に配属になったばかりの新田の活躍が描かれる。これも若さゆえの青さを感じさせる物語だ。 また本書の美味しいところは山岸尚美のパートでは日常の謎系ミステリを、新田浩介のパートでは警察小説と2つの味わいが楽しめることだ。これらを卒なくこなす東野氏の器用さこそが特筆すべき点であるのだが。 この山岸尚美と新田浩介が登場シリーズは共通する題名から「マスカレードシリーズ」とでもいうのであろうか。 そもそもこのマスカレードは非日常体験を提供する一流ホテルの従業員山岸尚美が客は日常とは違う仮面を被ってホテルへ集う、そしてその従業員もまた仮面を被って接しているのだというホテルはマスカレード=仮面舞踏会の舞台のようなものだというところから来ているが、本書に収録されている作品はつまりこの世は全て仮面舞踏会に過ぎないのだと云っているように思える。 山岸尚美が接した元プロ野球選手の大山将弘も不倫相手との密会でホテルを使うが、その彼も実は外では皆に夢を与えるスポーツ選手としての仮面を被り、自らの真意は決して顔に出さない。 新田浩介が事件で出会った田所夫妻は結婚3年目の仲睦まじい熟年夫婦と思わせながら、自分は哀れな妻を演じる。そしてその仮面が剥がれそうになっても若い刑事を嘲笑うかの如く決して仮面を脱ごうとせずにのうのうと人生を生き抜く。 そして覆面作家の仮面を被る中年男性。 ただ題名にマスカレードと冠しているためか、仮面、仮面と強調しているのはいささか煩わしい。 押しなべてミステリの登場人物はいずれも仮面を被っているもの。最初には思いもかけなかった動機と犯人の素顔が明かされるのがミステリのカタルシスなのだから、何もホテルに来る人物はいつも仮面を被っているなどと強調しなくてもいいのだ。 ホテルに来る人だけでなく、我々は皆仮面を被っている。公的な仮面と私的な場面における素顔、いや私的な場面においても仮面を被って演じなければならない時もある。それが我々人間の営みなのだから。 しかし改めて新田に再会してみると、上にも書いたように若さに任せた行動力と自分に対する甘さを持っているのが彼の特徴だが、東野作品の代表キャラクター加賀恭一郎とのキャラクターの棲み分けが上手くいっていないように思えて仕方がない。 事件に対する着眼点は鋭く、また父親がシアトルで日系企業の顧問弁護士を務める、いわば上流家庭の出で麻生十番に住んでいるというサラブレッドであることから、高級調度品への造詣が深いのも特徴的だが、アメリカ帰りの金持ちのボンボンといった印象も否めない。そこに新田の個性を持たせているようだが、ちょっとまだ印象としては弱い。 しかしホテル・コルテシア東京のデラックス・ダブルのデポジットが7万円。プレジデンシャル・スイートが1泊18万円!我々庶民には泊まれない高級ホテルである。 さらに新田の登場シーンもホワイトデーの夜に都内のホテルで女性と一夜を過ごしたシーンから幕を開ける。さらに上に書いたような新卒の刑事とは思えない裕福な暮らしぶり。 う~ん、双方バブリーの香りがしてちょっと時代錯誤な印象があるなぁ。 ともあれ、日常の謎を含んだホテル・ウーマンのお仕事小説と初々しい若さ溌剌のルーキー、新田浩介が活躍する軽めの警察小説という万人に受けやすいブレンドコーヒーのような作品で、じっくり読むというよりも息抜きで軽く読める読み物といったテイストである。 思えば探偵ガリレオシリーズもそうであったが、果たしてこの2人の今後の活躍に我々の胸を打つような重く味わい深い作品に出会えるのか。 いやそれよりもまだシリーズは続くのか、そっちの方が心配だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
殺し屋ケラー4作目の本書は長編でケラーに最大の危機が訪れる。
第2作品も長編だったが、構成としては連作短編集のような作りであったのに対し、本書はケラーが州知事殺しの犯人として追われるという逃亡劇が全編に亘って繰り広げられる。 今回は前短編集のうち「ケラーの遺産」と「ケラーの適応能力」に登場した謎の依頼人アルが本格的にケラーを抹殺しようとする物語だ。 不穏な空気を纏わせた正体不明のアルが本性を現してケラーたちに牙を剝く。それは実に用意周到に計画された罠で、ケラーは依頼で訪れたオハイオ州で州知事暗殺の冤罪を着せられるのだ。犯行にはケラーの指紋がべったり付いたグロッグが使われ、それが警察に凶器として押収される。そして全米にケラーの顔写真が貼り出される。 さらに衝撃的なのはケラーの相棒であったドットの死だ。頭に銃弾を2発撃ち込まれた挙句にホワイトプレーンズの自宅を放火され焼死体となって発見される。 正直この展開には目を疑った。死体は人違いではないかと何度も繰り返して読んだほどだ。それほどまでにシリーズにとって衝撃的な出来事だった。 おまけにケラーの自宅にも魔の手が伸び、彼の唯一の趣味だった切手のコレクションが軒並み押収される。つまりケラーの住まいも安全ではないため、彼は逃亡生活に踏み切るのだ。 そして流れ着いたニューオーリンズでレイプされそうになった女性を助けたことでその女性、地元で教師をしているジュリア・エミリー・ルサードの協力を得て、ニコラス・エドワーズと名乗って建築業の仕事にありつき、別の人生を歩みだす。 どうだろう、この教科書通りの起承転結の物語運び。まさに無駄のないストーリーテリングでしかも読者の予想通りにはいかないのだ。 そんなストーリーの中にはケラーという人物を改めて再認識させるエピソードが散りばめられている。 例えば自宅の切手コレクションを盗まれることに気付くシーン。通常ならばこんな状況になればコレクターならば誰もが多大なる喪失感に襲われるだろう。しかしケラーは事実は事実として受け入れるだけなのだ。 おまけに250万ドルもの資産もドットがいなくなったことで引き出せなくなるのだが、それに対しても大して執着しない。普通悪に手を染めた人間ならば金に対する執着心が人一倍強いはずなのに、ケラーにはそれがなく、あるがままに受け止め、他人事のように処理する。 これは殺し屋であるケラーが標的に対して感情移入せずに常にドライに対処することから来ているのだろう。つまり殺しをただの仕事として捉え、人の命を奪うという行為に罪悪感を覚えないのだ。 ならばケラーは精神異常者かと云えばそれも違うような気がする。但し殺しのスキルは身についており、レイプされそうになったジュリアを救うためにレイプ犯を何の躊躇いもなく殺害するのだから、心の置き方が人とは違うのだろう。麻痺しているというのが正しいのかもしれない。 しかしそんな彼でさえ、今回自身が標的となって全米で追われる身になって初めてこれまで殺害してきた人物に思いを馳せる。 特にこのシリーズの第1話とも云える証人保護プログラムで身元を変えた人物を殺害した件に関してはニコラス・エドワーズという別の人物に成りすましたことで自身のことのように彼のことを考えるのである。単なる仕事のための標的でしかなかった人々に初めてケラーは自身の感情を向けるのである。 また逃亡中にショッピングカートを回収する仕事をしている少年を見て、殺し屋稼業に就いた自分の人生について初めて過ちだったと後悔したりもする。 さらには赤の他人には決して明かさなかった自分の名前を初めてジュリアに打ち明ける。もうケラーはニコラス・エドワーズとして生き、ジュリアと2人幸せに過ごして暮らす覚悟がついていたのだ。 さらにケラーを追いつめる宿敵はアル、作中ではミスター“私のことはアルと呼んでくれ”とも表記されているが、恐らくこれは原文では“You Can Call Me Al”ではないだろうか。つまりポール・サイモンのヒット曲のタイトルである。 そんな風に考えて読むのもまた一興か。 閑話休題。 ケラーが逃亡者の境遇に置かれることで過去の仕事で始末した人々を回想するシーンがたびたび挿入されるため、本書はシリーズの総決算的な作品のように読める。 特にドットが亡くなった時点でブロックがこのシリーズにけりをつけようとしているのだと強く思った。 しかしそんな読者の感傷めいた思いを見事にユーモアで翻すのがブロックの筆さばきの妙だ。 しかしこの殺し屋を主人公にしながらも終始落ち着いた雰囲気で展開するこの物語はなんとも不思議な余韻を残す。 今まで書いてきたように今回ケラーは州知事暗殺の犯人に仕立て上げられ、全米に顔写真が出回り、指名手配され、逃亡の身となる。 しかしそれでもケラーには次から次へと危難が訪れるわけではない。見知った顔のマンションのドアマンには賄賂を渡して口封じをし、立ち寄ったガソリンスタンドで独り身の経営者に面が割れるくらいだ。それまでは終始逃亡者としてのケラーの猜疑心と過去に葬ったターゲットに対する思いが延々と綴られる。 やがて全米指名手配にもかかわらず、ケラーの周りにはとうとう警察の捜査の手は及ばず、ニューオーリンズでケラーの新パートナーとなるジュリアに出会ってからは髪型と色を変え、眼鏡をかけて人相が若干変わり、また新しい身分を手に入れたことで解決してしまう。 直接的にせよ関わりがないにせよ7人もの死人が出る物語である。これだけ人の生き死にも扱っていながら熱を帯びない作品も珍しい。血沸き肉踊らない殺し屋の物語なのだ。 しかしだからといって面白くないわけではない。エキサイティングには程遠いが読み進めるうちにケラーの足取りと読者自身の思いが同調するが如く、先の読めない展開を味わいながら愉しむのだ。 そう、美味しい酒をチビリチビリと呑み、悦に浸る味わいが本書の持ち味なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
Vシリーズ第3作。本書では前作『人形式モナリザ』で小鳥遊練無と共にペンションでバイトしていた森川素直が阿漕荘に引っ越してくる。さらに同じく前作で登場した瀬在丸紅子の元夫林の恋人である祖父江七夏もまた登場する。シリーズを重ねるにつれてメインキャストも増えていくようだ。
そしてまたもや事件は密室殺人。1作目はヴァリエーションの中の1つだったが、2作目は衆人環視という密室。そして本書では鍵の掛けられた部オーディオ・ルームでの殺人と正真正銘の密室である。 このオーディオ・ルームが周囲の建物と構造が切り離されているのが通常の密室と違うところだ。 音の振動を壁に伝えない、つまり完全に防音するために別構造としているのだが、建築に携わる私は解るものの、素人にこの内容が十分伝わっているだろうか?簡単な図解があれば理解がしやすいと思うのだが。 さてそんな密室で服がズタズタに引き裂かれ、周囲は血塗れでさんざんに引き摺り回された跡がある。さらに被害者の直接の死因は頭を何か重い鈍器のようなもので激しく叩かれ、出血はそれによって生じたものだった。そして遺体の手首・足首には何か獣ような物が噛み付いた跡が残っており、なぜか部屋の一部は水で濡れていた。 本書では物語のガジェットとして月夜のヴァンパイアやオオカミ男が現れる屋敷といったオカルティックな噂がかけられているものの、物語のテイストは全くそのような雰囲気とは無縁でいつもの雰囲気。決しておどろおどろしいものではない。読中は正直何のためのガジェットなのか解らなかったが、真相を読むとこれこそが森氏なりのミスリードであることが解る。 彼のエッセイを読むと解るがいわゆる熱心な本格ミステリファンではない。従って彼はいわゆる本格ミステリのお約束事に頓着せず、自身の専門分野の視点からミステリを考える。 そして殺人の動機に頓着しないのも、結局人の心なんて解らないし、人間の行動や事象全てのことに意味を持たせることが愚かであると自覚的であるからだ。 それは確かに私も同感なのだが、現実社会がそうであるからこそ、ロジックで物語が収まるべくところに収まる美しさをせめてミステリの世界で読みたいのだ。それが読書の愉悦であるというのが持論なのだが、森氏はどうもそこに創作の目的を持たないようだ。 さらに加えていただけないのは小鳥遊練無達一行が飲酒運転をするシーンだ。これは今ならば校正で一発で撥ねられるだろう。 理由として非常事態、すなわち「小事にこだわりて大事を怠るな」と云っているが、作中人物とはいえ、こういうことをさせる作者の倫理観に大いに問題がある。またこのまま内容を修正せずに出版した講談社の倫理観もいかがなものかと甚だ疑問である。版を重ねる際はぜひとも修正願いたい。 このVシリーズはいわゆるミステリのお約束事を逆手に取って、読者の予想を裏切る真相が特徴的だと感じる。 また瀬在丸紅子も決して読者の共感を呼ぶキャラではない。美しい容貌ながら冷徹さと周囲とは別の次元で生きているような浮世離れした雰囲気を持ち、また元夫を巡って恋敵の刑事祖父江七夏へは決して歩み寄らない。女の怖さと扱いにくさの極北にいるような人物である。 しかし今まで述べたように小鳥遊練無と香具山紫子の存在がそんな陰の側面を彼らの陽の部分で埋め合わせている。 登場人物たちの関係に歪みと不安定さを備えたシリーズ物としては実に奇妙な風合いを持つVシリーズだが、特に瀬在丸紅子と保呂草潤平の2人の関係はどうなるのか? 恋愛パートではなく、好敵手同士としての2人の行く末が少し気になる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
モダンホラーの巨匠スティーヴン・キングのデビュー作にして幾度も映画化された有名作。
本書がこれほど好評を持って受け入れられたのは普遍的なテーマを扱っていることだろう。 いわゆるスクールカーストにおける最下層に位置する女生徒が虐められる日々の中でふとしたことからプロムに誘われるという光栄に浴する。しかし彼女はそこでも屈辱的な扱いを受ける。ただ彼女には念動能力という秘密があった。 この単純至極なシンデレラ・ストーリーに念動能力を持つ女子高生の復讐というカタルシスとカタストロフィを混在させた物語を、事件を後追いするかのような文献や手記、関係者のインタビューなどの記録を交えて語る手法が当時は斬新で広く受けたのではないだろうか。 さてとにもかくにも主人公キャリーの生き様の哀しさに尽きる。 狂信的な母親に育てられ、過剰なまでの清廉潔白ぶりを強要され、日に何度もお祈りを捧げる日々を送らされ、母の意志にそぐわなければ即刻クローゼットに閉じ込められる。そんな家庭環境であるがために一般常識的な知識さえもまっとうに与えられず、初潮という生理現象さえも知らないために自身の陰部から血が出ることでパニックになり、学校でクラスメートからタンポンを投げつけられる始末。従って幼少の頃はまるで人形のような整った顔立ちだったのが今ではニキビと艶のない髪の毛で、作中の表現を借りれば「白鳥の群れに紛れ込んだ蛙」のような有様だ。 そしてとにかく主人公キャリーの母親の狂信ぶりが凄まじい。 姦通することを何よりも忌み嫌い、自分が妊娠したことすらも穢れとする。そして自身の娘キャリーを男たちの誘惑の手から遠ざけるため、キャリーに他者との関わりを絶つことを強いる。もし自分の意志に背こうものならば、折檻をした上でクローゼットに何時間も、時には一日中閉じ込めて悔い改めさせる。 とても親とは思えない所業だ。 しかしそれまで母親に服従するしかなかったキャリーにある芽生えが生まれる。それが念動能力だった。 最初の兆候は彼女が幼い頃。折檻を受けたキャリーは突然氷の雨と石の雨を降らせる。しかしそれは常に起こるわけではなかった。そしてキャリーが初潮を迎えた後、その能力が開花する。そして彼女の思春期による親への反抗心と相俟って、彼女はついに母親からの逸脱を試みる。それがプラムへの参加だった。 初めて彼女が母親の反対を押し切り、自分の意志で選択した行動。それが大惨事の引き金になるという皮肉。報われなかった女性にキングは壮絶な復讐と凄絶な死にざまを与える。 ここでやはり注目したいのはキャリーの親の束縛からの自立だろう。 異様なまでの執着心で母親の支配を受けていた彼女が抵抗し、ついに自由を得る困難さは途轍もない大きな壁だっただろう。彼女に念動能力が無ければ叶わなかったことではないだろうか。親という大きな壁への抵抗というこの非常に身近な人生の障害もまた万人に受け入れられた要素なのかもしれない。 さらに本書が特異なのは女性色が非常に濃いことだ。 それは主人公キャリーが女性であることから来ているのだろうが、キャリーを虐めているのは男子生徒ではなく女子生徒ばかりでキャリーの生活の障壁となっているのも前述のように狂信的な母親だ。 さらに生理という女性特有の生理現象がキャリーの念動能力の発動を助長させ、またキャリーの死を看取ったスージー・スネルがその直後生理になっているのも新たなる物語という生命の誕生を連想させ興味深い。 これはキング本人が母子家庭で育ったからかもしれない。キングにとって母親は自分を女手一つで育ててくれた偉大で尊敬すべき存在だったことだろう。 つまりキングの成長には常に母親という強い女性の存在があった。それがゆえに女性の強さ、そして怖さというのを知っていたのではないだろうか。男にはない生理という現象すら毎月血を流しながらも家計を支える逞しさに何か人間以上の存在を感じていたと考えるのは穿ちすぎだろうか。 ところでキングがボストン・レッドソックスの大ファンだというのは公然の事実だが、このデビュー作で既にレッドソックスが出ているのには笑ってしまった。キャリーをプロムに誘ったトミー・ロスの死に関して同チームの監督がコメントを残しているのだ。三つ子の魂百までとはまさにこのことか。 閑話休題。 既に物語の舞台であるメイン州チェンバレンで大量虐殺が行われたことは物語の早い段階で断片的に語られる。 従って読者は物語の進行に伴い、訪れるべきカタストロフィに向かってじわりじわりと近づいていくのだ。しかしながら1974年に書かれた本書で描写されるキャリーの虐殺シーンはいささかおとなしい印象を受ける。 プロムの舞台となった体育館で突然扉が閉められ、スプリンクラーが回り、バンドたちの楽器のアンプなどから電気のコードが自然に放たれ、見る見るうちに感電していく。そして電気の発火による火災が起き、体育館は火の海に包まれる。 さらに外に出たキャリーは消火ができないように消火栓を次々と破壊しては水を大量に放出し、ガソリンスタンドやガスタンクに引火していく。 そして電線を切断しては街行く人たちを感電させる。いわば歩く無差別テロの様相を呈しているのだが、今日のこのあたりの描写はもっと強烈だろう。 血の匂い立つような細かくねちっこい描写や痛みを感じさせるほどの迫真性に満ちた生々しさが本書には足りない。 前後見境なくなったキャリーはチェンバレンの町を練り歩くのだが、その所業を町の人たちはなぜかキャリーの仕業だと認知する。私はここにキングの先駆性を見た。 いわば念動能力という脳内で発動する能力が活性化するとその者の意識は外側に放たれ、それを他者が感知することを示唆しているのだ。いわば外に開かれた意識の共有化ともいえる現象をこの1974年の時点で描いていることに驚嘆を覚えた。 440名もの死者と18名の行方不明者を出し、町は崩壊する。そしてキャリー自らも母親から受けた傷と恐らくは酷使しすぎた能力の反動で命を落とす。彼女は一身に背負った不幸を町中にばらまいたのだ。 そして物語は第2のキャリーの誕生をほのめかして終わる。この惨劇はあくまで一過性の物ではないとして。もしかしたら貴方の町にもキャリーはいるのかもしれないとメッセージを残して。 今では実にありふれた物語であろう。 が、しかし物語にちりばめられたギミックや小道具はやはりキングのオリジナリティが見いだせる。“to rip off a Carrie”などという俗語まで案出しているアイデアには思わずニヤリとした。 識者によればキングの物語にはあるミッシングリンクがあるという。本書を皮切りにそのリンクにも注意を払いながら読んでいくことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
チャーリー・マフィンシリーズ5作目の本書は前作『罠にかけられた男』同様、チャーリーは保険会社の調査員という役職でローマに赴くことになる。
そしてとうとうチャーリーは英国情報部の手に堕ちてしまう。彼が組織に大打撃を与えて3作目で、作中時間では7年目のことだった。 全てはKGB議長ワレーリ・カレーニン将軍が仕組んだ罠だったのだ。一連の英国情報部員暗殺、ローマ駐在イギリス大使館盗難事件はチャーリー・マフィンという男を社会的に抹殺するために入念に仕組んだ罠だった。つまりそれほどカレーニンはチャーリーという男を恐れていたことになる。 これはその後の作品でもそうで、KGBが関わる工作にチャーリーの影を見るとカレーニンと彼の親友ベレンコフの頭には危険信号が灯るのだ。 本物を知る男は本物を知る。権謀詐術でKGBのトップまで上り詰めた男はチャーリーの頭脳明晰さと策士ぶりを何よりも恐れていた。つまりそれほどチャーリーは優秀なのだ。 また本書ではチャーリーが英国情報部の工作員になるまでの経歴が紹介されている。まずチャーリーの最初の職業が百貨店の社員であったことが意外だった。その時代に妻イーディスと結婚し、その後情報部の試験を受け、そこで才能が開花したのだった。 またチャーリーの悩みの種であり、また彼に危機を知らせるシグナルの役目をする不格好な横に平たい足は軍隊時代に重い長靴で長時間歩き回された結果だったことも判明する。 ここに彼の行動原理の源流があると私は思う。つまり彼の足はいわゆるマチズモ色濃い上下関係に対する反発の象徴なのだ。だからこそチャーリーは他の工作員とは違い、自らを犠牲にして国に使えるのではなく、自らが生き残るために国さえも犠牲にするのだ。 この親友ルウパート・ウィロビーの妻クラリッサの存在はそういう意味では忘れらない存在となった。彼女はチャーリーが妻イーディスを喪った後に彼に執着し、チャーリーを追ってローマに向かう。 うだつの上がらない風体でキャリアウーマン風女性からは決して親しまれる風貌をしていないチャーリーなのだが、なぜかモテる。この次の作品『亡命者はモスクワをめざす』彼はシリーズ全体を通してなかなか結ばれない運命の女性ナターリヤ・フェドーワと出会うのだが、クラリッサはその出会いまでの―失礼な書き方になるが―前菜といった感じだろうか。逆にクラリッサのような女性がいるからこそナターリヤとの恋が真実味を持ちうるのかもしれない。 さて本書で第1作から8作『狙撃』までのチャーリー・マフィンシリーズがようやく私の中でつながり、未訳の9作目を飛び越して残るは10作目の『報復』のみとなった。ここまで読んできたことでこのシリーズもある変容が見られることが分かった。 第1作目と2作目は対となった作品で属する組織に裏切られたチャーリーが復讐を仕向ける話でいわば半沢直樹のように“倍返し”をする話だ。 続く3~5作目は親友ルウパート・ウィロビーが経営する保険会社の調査員として事件に出くわすチャーリーでこれは逆に作者自身がシリーズの動向を手探りしていた頃の作品だろう。 そして6作目で再び諜報戦の世界に舞い戻ったチャーリーはその後もKGBとFBI、CIA、さらにはモサドとも丁々発止の情報戦、頭脳戦を繰り広げていく。これこそがこのシリーズの本脈だろう。 つまり本作はチャーリー・マフィンを諜報戦の世界に戻すために必要だった物語であったのだ。訳者あとがきにもあるように作者自身シリーズを終焉させようと思いながら書いた本書が起死回生の作品となったことが推測される。 さて未訳作品以外で残る未読のシリーズ作品はあと1作。私のチャーリー・マフィンを追いかける旅もようやく彼と肩を並べるところまで来そうだ。実に楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
シャーロック・ホームズに次ぐドイルのシリーズキャラ、ジョージ・チャレンジャー教授第1作目の本書は今なお読み継がれる冒険小説だ。
未開の地アマゾンの奥地に隆々と聳え立つ台地の上に独自に発展した生態系があり、そこには絶滅したとされた恐竜が生息していた。 この現代に蘇る恐竜というモチーフは現代でもなお様々な手法で描かれているが、今なお映画化されているクライトンの『ジュラシック・パーク』の原典が本書であると云えよう。 しかし本書ではイグアノドンやステゴサウルス、もはやおなじみといえるティラノサウルスなどの恐竜のみならずブドウ大ほどもある吸血ダニに、翼を広げると優に6mはあろうかと思える翼竜たち、魚竜のイクチオサウルスに巨大テンジクネズミのトクソドン、そして進化の過程に存在したと思われる猿人たちなど非常にヴァラエティに富んだ生物が数々登場して読者を飽きさせない。 しかし最も特筆すべきは冒険の舞台であるメイプル・ホワイト台地の精密な描写である。あたかもジュラ紀に舞い込んだジャングルの風景を詳細に描写する様はまさに目の前に映像が浮かび上がってくるようで、しかもそれらの映像は先に述べた映画『ジュラシック・パーク』シリーズの映像で補完されるがごとくである。 ジャングルの蒸し暑さと未知の世界を行く登場人物の緊張感の迫真性はとても1912年に発表された小説とは思えないくらい、リアリティを持っている。ドイルの想像力の凄さを改めて思い知らされた。 そして何より忘れてはいけないのは主人公チャレンジャー教授の特徴豊かなキャラクター性だろう。がっしりとした幅広い樽のような図体の上には語り手の新聞記者マローンが見たことのないほど巨大な頭が乗っており、ゲジゲジ眉毛を備えた雄牛そっくりの面構えは高慢な雰囲気を醸し出しており、とてもお近づきになりたい人物ではない。それを裏付けるように喧嘩っ早く、同業者や無知蒙昧な素人に対して口論ならびに毒舌を吐き、しまいには怪力で暴力を振るうという、とても主人公とは思えないほど性格の悪い人物だ。 しかし物語が進むにつれてこの傲岸不遜なチャレンジャー教授に好感を覚えてくるのが不思議だ。彼がたとえ英学会で干され、無視されようとも自分が正しいことを曲げずに主張するという一貫性に満ちているからだ。彼はどれだけ反論されようが決して諦めない、不屈のジョンブル魂を持った孤高の人物であるのが次第に解ってくる。 今やその原題“The Lost World”が全ての失われた秘境冒険物語の代名詞ともなっているまさに原型とも云える本書は現代の冒険スペクタクル小説に比べれば多少の見劣りはするが、上に述べたようにドイルの想像力が横溢して読者を退屈させない。 さて上にも述べたように本書は秘境冒険小説の原型とも云える記念碑的作品であるが、実は本書でドイルが最も語りたかったのは男の成長譚ではないだろうか? 特に語り手である弱冠23歳の新聞記者エドワード・マローンが野心だけが大きな実のない男から苦難の冒険を経て他者に認められる男として帰ってくるための物語、そんな気にしてならない。 そしてまた学会で異端児として扱われているチャレンジャー教授が自説を証明するための苦難の道のりを描いた物語でもある。 つまり権威として認められるには男は冒険をすべきだというのが本書の真のテーマではないだろうか? それが特に最終章に現れている。 南米で原始の時代から生息する生物のみならず独自の進化を遂げた生物の発表をするために舞台に立ったチャレンジャー教授、ジョン・ロクストン卿、サマリー教授、そしてエドワード・マローンのなんと晴れやかなことよ!困難に立ち向かい打ち勝った男の晴れ晴れとした姿こそドイルが書きたかったものではないだろうか。 あくの強い面々によってなされた冒険譚。失われた世界に生きる生物の神秘よりもこれら愛すべき男たちの成長にエッセンスが込められていることに気づいたのが本書を読んで得た大きな収穫だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
恋に破れた女性の心の旅路。
このジェレミーとカーチャの再会は私自身同じような経験をしたことがあるだけに痛切に胸に響いた。 それは悲しみではなく、懐かしさだ。私もかつて愛した女性への未練が断ち切れず、別れた約3ヶ月後に一緒に食事に行った。その時は別れたことが何か間違いであって、もう一度顔を合わせて話せば寄りが戻るはずだという期待を込めた再会だったが、彼女の吹っ切れた笑顔に彼女の中で自分のことはもう整理がついたことを思い知らされ、逆に私の中で彼女に対するわだかまりが無くなったのだった。 あれは私にとって必要な再会だったと今でも思う。ジェレミーとカーチャもまた同じだったに違いない。 しかし人と人との間に生まれるドラマを描かせるとやはりブロックは上手い。決して特別なことを書いているわけではなく、むしろドラマとしては典型的であろう。 しかし一つ一つのエピソードが読者の人生に擬えられ、共感を覚える。 別れた女性への未練、子の親への反発、振られることで迎える狂おしい日々などは私もかつて経験しただけに痛切に心に響いた。こんな経験をして今の私があるのだなと再認識させられた。 分量としては1時間もあれば読み切れるが、心に残る印象は今までの人生が一気に蘇ってくるほど濃い。 新しい恋をするために自らの人生を磨いたエリザベス。 これは決して甘くはない大人の恋の物語。実力派の描いた物語は実に極上でした。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|