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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数896

全896件 161~180 9/45ページ

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No.736: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ディーヴァーにしては遅すぎたテーマか

キャサリン・ダンスシリーズ3作目の本書は休暇中に旅先で遭遇する友人のミュージシャンのストーカー事件に巻き込まれるという異色の展開だ。
従って彼女の所属するカリフォルニア州捜査局(CBI)モンテレー支局の面々は登場せず、電話で後方支援に回るのみ。彼女の仲間は旅先フレズノを管轄とするフレズノ・マデラ合同保安官事務所の捜査官たちだ。
しかしリンカーン・ライムシリーズも3作『エンプティ―・チェア』ではライムが脊髄手術で訪れたノースカロライナ州を舞台にした、勝手違う地での事件を扱っていたので、どうもシリーズ3作目というのはディーヴァーではシリーズの転換期に当たるようだ。

そして出先での捜査、しかも地方の保安官事務所の上位組織であるCBIは彼らにとっては目の上のタンコブのようで最初からキャサリンに対して物見遊山的に捜査に加わろうとする輩と色眼鏡を掛けて見ており、全く協力的ではない。これは定石通りだが、彼らがキャサリンと手を組むのは早々に訪れ、事件発生の2日目、ページ数にして170ページ辺りで訪れる。この展開の速さは正直意外だった。

さてストーカー行為は現在日本でも問題になっており、それが原因で女優の卵や若い女性が殺害される事件が最近になっても起こっている。一番怖いのはストーカーが自己中心的で相手を喜ばそうと思ってその行為を行っており、しかも彼ら彼女らが決して他人の意見や制止を認めようとしないことだ。
自分の信条と好意に狂信的であり、しかもそれを悪い事だと思ってない。実に質の悪い犯罪者と云えよう。

本書に出てくるエドウィン・シャープも実に薄気味悪い。見かけは185~190センチの長身で身ぎれいにしたヘアスタイルに服装で好男子の風貌だが、その目の奥にはどこか狂信的な輝きが潜んでおり、常に何かを探ろうとじっと対象物を見つめている。そしてなぜか初対面にも関わらず、相手の名前を、場合によっては近しい人しか知りえぬファーストネームさえも知っている男。
この底の知れないところと快活な風貌がアンバランスで逆に恐怖を誘う。

そして作中にも書かれているようにストーカーのようにあることに対して妄信的に信じて疑わない人々、また嘘を真実のように信じて話す人々には人間噓発見器のダンスが得意とするキネシクスが通用しないのだ。
事件発生後の3日目の火曜日にダンスはエドウィン自らのリクエストによって尋問を行うが、彼の得体の知れない笑みに惑わされて本領を発揮できなく、時には先方に主導権を握られそうになる。結局彼が犯人か否かを判定できずに終わる。

余談になるが、このキャサリン・ダンスシリーズは彼女の得意とするキネシクスがほとんど機能せずに物語が進む。つまりダンスは自身のシリーズになるとただの優秀な捜査官に過ぎなくなり、“人間噓発見器”としての特色が全く生きないのだ。
一方のリンカーン・ライムシリーズがライムの精密機械のような鑑定技術と証拠物件から真相を見破る恐るべき洞察力・推理力を売り物にしているのとは実に対照的である。

そしてライムと云えば、これまでこのシリーズにもカメオ出演でチョイ役で出ていたが、本書ではとうとうフレズノに赴いて捜査に加わる。そして彼の鑑定技術がその後の捜査の進展に大きな助力となり、犯人逮捕の決め手になるのだ。
この演出はファンサービスとしては上等だが、一方でこれでは一体どちらのシリーズなのかと首を傾げたくなる。

また本書ではディーヴァーお得意の音楽業界を扱っているところもポイントだ。ディーヴァー自身が元フォーク歌手を目指していたことはつとに有名で、本書で挿入されるカントリー歌手ケイリーの歌詞ではその片鱗を覗かせている。

まず今回ダンスが事件に巻き込まれる発端が休暇を利用して自身で運営しているウェブサイトを通じて著作権を取得する手伝いをし、さらに販売までする世間にほとんど認知されていない在野のアーティストの曲を収集する“ソング・キャッチャー”としての旅であることだ。このことからも本書が音楽に纏わるあれこれをテーマにしていることが判る。

またこのケイリー・タウンだが、私の中では彼女をテイラー・スウィフトに変換して読んでいた。特にケイリーがカントリー・ミュージック協会の最優秀賞を受賞したときのある事件のエピソードに関してはテイラーの2009年のグラミー賞に纏わるカニエ・ウェストとの騒動を彷彿させる。そうするとまさにぴったりで、後で調べたところ、作者自身彼女をモデルにしているとの記述があり、大きく頷いてしまった。

また音楽業界の変遷についても筆が大きく割かれている。
17世紀の、まだ録音機器がない時代にコンサートやオペラハウス、ダンスホールなどで生演奏を楽しんでいた時代に始まり、エジソンによって発明される蓄音機によって家庭で音楽が楽しめるようになり、そこから技術革新で様々な音楽媒体が生まれたことが説明されているが、やはりとりわけ筆に熱がこもっていると感じられるのは最近のウェブを利用しての音楽配信サービスに移行してからの無法地帯と化した音楽業界の実情だ。
合理主義のアメリカ人は利便性を優先するがためにレコードやCDといった物として音楽を聴くことから単にデータとして自身のパソコンやスマートフォンなどに取り込んで、しかも超安値で何百万曲も自由に、違法音楽配信サービスを利用すれば無料で好きな曲だけチョイスして楽しむという現状を、ミュージシャンを志した作者自身が嘆いているように感じられる。

アメリカでは既にタワーレコードは潰れてしまったが、物その物に価値を見出す日本人はまだ大型レコード店が廃業するまでには至っていない。特に渋谷のど真ん中で複層階のビルが1棟まるまるレコード店であるというタワーレコード渋谷店は外国人にとって驚きの対象らしい。

さらに本書で挿入され、事件に大いに関係するケイリー・タウンの楽曲も実際にウェブサイトで公表され、販売されているとのこと。単に題材をシンガーにしただけでなく、実在するかのようにアルバムまで1枚作ってしまうディーヴァーのサーヴィス旺盛さには驚いた。

他にもザ・ビートルズの未発表曲がある、ケイリーに隠し子がいて、それが姉の娘であった、等々音楽業界にありそうなエピソードが満載されている。

そしてもはや定番と云っていいどんでん返し。

本書のどんでん返しはミスディレクションの魔術師ディーヴァーだからこそ安易な誘導には引っ掛からないと疑いながら読む読者ほど引っ掛かるミスディレクションだろう。

しかしストーカーという人種はどうしようもないなとつくづく思う。相手が「自分だけ」を特別な誰かだと思っていると思い込み、そしてそれは「自分だけ」が理解していると思い込む。相手にとってそんなワン・アンド・オンリーであると思い、自己愛をその人物への愛へと変換する。どんなに相手が異を唱えても、邪険に扱っても愛情の裏返し、周囲に対する恥ずかしさからくるごまかしとしか捉えられない。

そして自分が作り出した「偶像」を愛していると気付くと一転して至上の愛から強姦魔、殺人魔に転換する。「自分だけ」の物にならなかったら他の誰の手にも渡らぬようにしてやる、と。

まさにエドウィン・シャープこそはその典型。いつの間にか結婚したことになっていたりと実に思い込みが激しい。
人は辛い時に希望にすがってその痛みを和らげようとする。正直私も過去の恋愛で振られた時は連絡不通になっても忙しいだけだ、電源が偶々切れているだけだと都合のいいように解釈していた。別れて半年ぐらい経ったときに再びその女性と逢って食事することになった時には、逢えばまた寄りを戻せると信じて疑わなかったが、逢って話しているうちに彼女の中で自分は既に過去の男になっていることに気付いた。逆にそのことで吹っ切れた。
自分自身の経験を踏まえてこのエドウィン・シャープという人物のことを考えると人というのは紙一重で普通から狂人へと変わるのだなぁと痛感する。自分がこのシャープほど人に執着することはないとは思うが、例えば私は他人よりも読書、洋楽がディープに好きなのだが、この対象が人になったのがストーカーなのかもしれない。欲しい本を求めてあらゆる書店やウェブサイトを時間かけて逍遥することに何の苦労も感じないから少しだけだがシャープの執着ぶりも理解はできる。

ただやはり題材が古いなぁという印象は拭えない。今更ストーカーをディーヴァーが扱うのかという気持ちがある。
たまたま今まで扱ってきた犯罪者にストーカーがなかったから扱ったのかもしれないが、今までの例えばウォッチ・メイカーやイリュージョニストを経た今では犯罪者のスケールダウンした感は否めない。遅すぎた作品と云えよう。

読了後、ディーヴァーのHPを訪れ、本書に収録されているケイリー・タウンの楽曲を聴いてみた。いやはや片手間で作ったものではなく、しっかり商業的に作られており、驚いた。
書中に挿入されている歌詞から抱く自分でイメージした楽曲と実際の曲がどれほど近しいか確認するのも一興だろう。個人的には「ユア・シャドウ」は本書をけん引する重要な曲なだけあって、イメージ通りの良曲だったが、かつて幼い頃に住んでいた家のことを歌った感傷的な「銀の採れる山の近くで」がアップテンポな曲だったのは意外だった。
物語と共に音楽も愉しめる、まさに一粒で二度おいしい作品だ。稀代のベストセラー作家のエンタテインメントは文筆のみに留まらないのだなぁと大いに感心した。

さて既に刊行されているダンス・シリーズの次作『煽動者』の帯には大きく「キャサリン・ダンス、左遷」の文字が謳ってある。またも慣れぬ地での捜査となるのか、色々想像が広がり、興味は尽きない。


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シャドウ・ストーカー
No.735: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

コロナ禍の今こそ読まれるべき大作

全5巻。総ページ2,400ページ弱を誇る超大作である本書は1978年に発表されたが、当時約400ページもの分量を削られた形で刊行された。
そしてキングは再び1990年に拡大版として当時削られた分を復刻させ、発表したのが本書である。その際にカットされた全てを加えたものではなく、内容を吟味して加味したとのこと。しかし内容にはほとんど手を加えていないというのがキングの弁。
但し内容を見ると1990年を舞台にしている辺り、時代に関しては修正が加えられているようだ。しかしほとんど発表当時に書かれた物であることから、今回読むことにした。

まず1巻目を読んだときに思ったのは本書が軍によって開発された新種のインフルエンザがある事故によって外部に流出し、それがアメリカ全土を死の国に変えていくというパンデミック・ホラーだということだ。

軍が開発した新型インフルエンザ<キャプテン・トリップス>。それは感染率99.4%を誇る死の病でそれまで存在しなかった病原体だけに人間に抗体がない。そして万が一、抗体を生み出してもウィルス自身が変異し、人間を蝕んでいく、無敵の病原菌だ。

しかしそんな最凶最悪のウィルスが蔓延しながらも感染しない人物たちが登場する。
ステュー・レッドマン、ニック・アンドレス、ラリー・アンダーウッド、フラニー・ゴールドスミス、ロイド・ヘンリード、ランドル・フラッグ、ドナルド・マーウィン・エルバート。
彼らそして彼女に共通するのはなぜか唐突に一面に広がる玉蜀黍畑が現れ、自分が何かを探しているが、そこには何か恐ろしいものが潜んでいるという奇妙な夢を見ることだ。

彼らそして彼女はそれぞれの場所で同じくウィルスに感染しなかった道連れを伴い、旅に出る。
ここでいわゆるパンデミック・ホラーと思っていた物語が転調する。通常ならば被害が拡大していくところに一筋の光のように病原体の正体とそれへの対抗策が生まれ、人類は救われるというのが一般的なのに対し、本書ではそこからアメリカが死の国になってしまうのだ。

つまり約500ページを費やされて描かれた恐ろしき無敵のウィルスがアメリカ全土に蔓延り、ほとんどの人々が死滅していく1巻はこの後に続く壮大な物語の序章に過ぎない。
そして2巻目はそんな荒廃したアメリカを舞台にしたディストピア小説になる。
騒動を鎮圧するために派遣された軍がやがて武器を振り回して小さな国の王になろうとし、殺戮を始める。メディアを使って公開死刑をし出す。略奪を繰り返し、本能の赴くままに行動する。その中にはウィルスに侵されて死を待つだけの者もいる。そんな無秩序な世界が繰り広げられる。

通常このようなディストピア小説ならば、全てが死滅した後の世界を舞台にし、なぜ世界が滅び、荒廃したかは単にエピソードとしてしか紡がれない。しかしキングは敢えてその経過までを詳細に書いた。なぜならそこにもドラマがあるからだ。
普通の生活をしていた国民が突然新種のインフルエンザに見舞われ、次々と死んでいく理不尽さ。これをたった数ページの昔語りで済ませることをキングは拒んだのだろう。
今日もまた昨日のように日常が続き、そして明日が訪れると信じて疑わなかった人々が、実はその人生に幕を引かなければならなかった突然の災禍。誰もがただの悪質な風邪に罹っただけだと信じて疑わなかったという我々の日常の延長線上に繋がるようなごくごく普通の現象がカタストロフィーへの序章だったというリアルさを鮮明に、そして手を抜くことなく描くことが本作を著す意義。これこそがキングが込めた思いだった。だからこそどうしても1978年発表当時の無念を晴らすことが必要だったのだ。

しかしデビュー6作目にしてこれほどの分量の物語を書くという心意気が凄い。本当に物語が次から次へと迸っていたことがその筆の勢いからも解る。

神は細部に宿るという言葉がある。
本来はドイツの建築家ミース・ファンデル・ローエが云った言葉で、何事も細部まで心を込めて作れという意味であるが、それを実践するかの如く、物語の創造主であるキングもまたディテールを積み重ねていく。キングは作家もまた神であることを自覚し、本書の登場人物たちを丹念に描く。

これだけの分量を誇るだけあって込められた物語は5作分以上の内容が込められている。
両親を亡くし愛する妻をも結婚18か月で亡くした孤独な男。
しがないギタリストがひょんなことから自分の作った曲が全米でヒットしていき、人生を狂わせつつある男。
町でも男たちが振り返るほどの美人の娘が妊娠してしまい、母親との軋轢に悩む。
聾唖の青年がアメリカの放浪の旅の途中で助けられた保安官によって保安官代理を務める。
マフィアのヤクを奪い、逃走中のチンピラが立ち寄ったガソリンスタンドで反撃に遭い、ブタ箱に押し込められる。
色んな犯罪に名を変えて関わってきた“闇の男”。

1冊の本が書けるほどの個性的な登場人物たちが軍が開発したウィルスによって崩壊したアメリカを舞台に会する。

人々が死別した町で奇跡的に生き残った人たちが何をするか。これが非常に俗っぽくて逆にリアリティを作品に与えている。
ある者はヤンキースタジアムに行って裸でグラウンドに寝っ転がるのだと息巻く。
人から嫌われていた社会学者はようやくやりたくもない人付き合いから解放され、自分の好きなことに没頭できると喜ぶ。
人がいなくなった世界を存分に楽しむ者も出てくるのだ。

その他感染せずに生き長らえた人々の人生の点描をキングは書く。
病気を乗り越えたからといって人は死なないわけではない。九死に一生を得た後で自転車事故や感電事故、銃の暴発などで死ぬ人々。それは人生が喜劇であり皮肉で満ちていることをキングは謳っているかのようだ。

更に物語は変転する。各地の生存者たちは約束の地を目指すかの如くその町を離れる。そしてその道行でそれぞれに道連れが出来る。
サヴァイヴァル小説、もしくはロードノヴェルの様相を呈してくるのだ。

この第2部から1章当たりの分量が増大するのも大きな特徴だ。
社会に蔓延したウィルスによってもたらされた大量死により個の物語に特化してきた第1部が第2部になって生存者たちがそれぞれ邂逅し、新たなグループを形成しだす。それは即ち小集団の社会を生んでいく。大なり小なりの社会が生まれていく様子を大部のページを割いてキングは語っていく。

小説とは大きな話の中でどこかにクローズアップして語る物語だ。従ってたった1日の出来事を数百ページに亘って書く物もあれば、人の一生を語る物、百年、いや数百年の歴史を語る物、それぞれだ。何巻、何十巻と費やして書かれる大河小説もあれば、1冊に収まる小説もある。それらはどこかに省略があり、メインの、作者が語りたい部分を浮き彫りにして描かれるが、本書は全てが同じ比重で描かれている。だからこそこれほどまで長い物語になっているわけだが、キングはやはり書きたかったのだろう、全てを。頭に住まう人々のことを余すところなく描きたかったのだろう。

ステュー・レッドマンはオガンクィットからストーヴィントンの疫病センターを目指すフラニーとハロルドたちと合流する。

聾唖の青年ニック・アンドレスは知的障害の青年トム・カレンと旅程を共にする。

ミュージシャンラリー・アンダーウッドは女性教師のナディーン・クロスと彼女が拾った口の聞けない少年ジョーと出逢い、旅に出る。

それぞれが出逢いと別れを繰り返し、仲間を増やし、また仲間を喪いながら、ある目的地、ネブラスカにいるマザー・アバゲイルの許へと向かう。

皆が一同に会する安住の地はコロラド州ボールダー。そこを彼らは<フリーゾーン>と呼び、コミュニティが形成されていく。無法地帯と化したアメリカの再生の地、そして彼らを付け狙う<闇の男>に対抗する力を持つべく、彼らは町を復興させ、そして主たるメンバーで委員会を発足させ、秩序を、社会を再構成しようとする。

最終巻5巻はラスヴェガスで次第に闇の男の勢力が弱まっていく様が語られる。
善と悪。
この表裏一体の存在は一方が弱まると他方もまた同様に衰退していく、そんな不可解な原理が働くようだ。そして物語は善と悪との直接対決へと向かう。

キングは本書でもたらしたのは複雑化してしまい、もはや何が悪で善なのか解らない世界を一旦壊してしまうことで人々が善と悪に分かれて戦う、この単純な二項対立の図式だ。
そう、これは世紀末を目前にした人類による創世記なのだ。善対悪、天使対悪魔の全面戦争の現代版なのだ。

善の側の中心人物がネブラスカに住む108歳の老女マザー・アバゲイルことアビー・フリーマントル。彼女は“かがやき(シャイニング)”と呼ばれる特殊能力、予知能力を有する女性だ。そう、『シャイニング』で少年ダニー・トランスが持っていた同じ能力だ。

一方悪の側の中心人物はランドル・フラッグ。闇の男の異名を持ち、生存者の夢に現れては恐怖を与え、時に目を付けた人物の悪意を唆す。従って善の側にいる人々の中にも新たに生まれたコミュニティ生活の人間関係に苦しみ、また憎悪が芽生え、その心の隙間にランドルは囁きかける。
フラニーに惚れて共に行動しながら同行者となったステューに嫉妬するハロルド・ローダーとラリーを欲しいと願いながらも純潔を守り通そうとする屈折した感情を抱く元教師ナディーン・スミスがランドルの標的となっている。

この2人だけが超越した人間として書かれている。2人に共通するのは生存者たちの夢の中に出現することが出来ることだ。しかしランドル・フラッグは実に謎めいている。
マザー・アバゲイルが“かがやき”を備えていることが説明されているのに対し、ランドル・フラッグは特殊な“目”を持ち、千里眼の如く遥か彼方の出来事を見通すことが出来、さらに各地へ飛ぶことが出来るという説明があるだけだ。“かがやき”が善なる力ならば彼の能力は悪の力でまだ名前がないだけなのかもしれない。
しかし彼はどこにでも行けると思わせながらもマザー・アバゲイルたちが住む<フリーゾーン>へは赴かない。いや誘惑したナディーンたちの前に現れてはいるが実体化しているかどうかは解らない。彼の行動範囲には限りがあるということなのか。彼の領域があり、その中で自由自在に動けるということなのかもしれない。

人は未曽有の災害を生んで、ほとんどが亡くなり、また大いなる悪に打ち勝ってもまた同じことを繰り返すのだ。
人間社会はその繰り返しである。本書の言葉を借りれば、まさに回転する車輪の如きもので、歴史は常に繰り返される。それは即ち過ちをも。

また興味深いのはスパイとして潜入したデイナが闇の男が統治するラスヴェガスの方が規則正しい生活が成されていることに気付き、驚きを感じるシーン。
それは闇の男の機嫌を損ねぬように生きているからこそ、つまり恐怖が規律を育てているという皮肉。これは現代社会の規律を皮肉っているようにも取れる。
我々は何かを恐れているがゆえにシステムに固執し、それを守ることでうまく機能を社会にもたらせている、そんな風にキングは指摘しているように感じた。

色んな人生を読んだ。そして彼ら彼女らはいつしか自分を変えていった。

その中で私が最も印象に残ったキャラクターはトム・カレンとハロルド・ローダーだ。

トム・カレン。本書では言及されていないが彼もまた“かがやき”を備えた知的障害者だ。ニック・アンドレスと出逢う前の彼はパンデミックで人々が亡くなる前は両親とともに暮らすただ障碍者で、災厄の後では一人町に取り残された弱者に過ぎなかった。しかし彼は自分が何者かを知っていた。だから誰も彼を馬鹿にしなかった。彼がただ他の人よりもちょっと足らないだけだ。従って彼は愚直なまでに命令に忠実だ。その愚直さが実に微笑ましく、また感動を誘う。
そして彼はトランス状態に陥ると“かがやき”を備えたかのように先を見通せるようになる。最後まで底の見えない好人物だった。

ハロルド・ローダー。
美人で優等生の姉と常に比較され、劣等感を抱えて生きてきた彼は知識を蓄えることで自らをヒエラルキーの頂点に持っていこうとするが、持っていた劣等感ゆえに尊大さが目立ち、人を見下すようになる。パンデミック後も町でたった2人で生き残った憧れの君フラニーと親しくなることを期待するもすげなく断られ、道中で一緒になったステューに彼氏の座を奪われる。そこから憎悪がねじ曲がり、表向きは快活な笑顔を振る舞って協力的な態度を示しながらも<元帳>と書かれた日記には自分の憎悪の丈をぶつけ、日々復讐心を募らせる。

彼は常に人に認められたいと願った男だった。しかしいつも誰かと比較され、そして貶められていた。そのことがどうしても我慢ならなかった。しかし彼は自分が認められる道を見つけたのだ。嘘でも笑顔で振る舞い、皆の注目と関心を得るために嫌な仕事も率先してやることでとうとう欲しかった信頼、仲間を得たのだ。
しかしその頃にはもうすでに彼の心は病んでしまっていたのだ。彼はもうその安住の地に留まることを潔しとせず、初心貫徹とばかりに自らの憎悪に固執してしまったのだ。
人は変われるのに敢えて変わることを選ばなかった男、それがハロルドだ。彼の許を訪れ、情婦となったナディーンがいなかったらハロルドはそのまま<フリーゾーン>に留まっただろうか?
私はそうは思わない。彼が抱えた闇は簡単には晴れなかった、そして彼は自分の性分に正直に生きた、それだけだ。

ところで題名『ザ・スタンド』の意味するものとはいったい何なのだろうか?
本書では最後に闇の男が甦った際に「拠って立つところ」とされている。
なるほど、全てが喪われた世界でそれぞれがどんな拠り所を、己の立ち位置を見つける物語という意味なのか。善に立つか悪に立つか。しかし私は立ち上がる人々、即ち蜂起する人々という意味も加えたい。
最終巻、いや最終の第3部に至って挿入される引用文の1つにあの有名なベン・E・キングの歌“Stand By Me”の歌詞が引用されている。貴方が傍にいるから怖くない、と。だから私も立つのだ。

しかしキングはよほどこの歌が好きなようだ。ご存知のようにこの歌の題名をそのまま使い、映画化もされて大ヒットした短編を後に書いてもいる。歌い手の名が同じ苗字を冠していることもその一因なのだろうか。

こんな長い物語を読み終えた今、胸に去来するのはようやく読み終わったという思いではなく、とうとう終わってしまったという別れ難い思いだ。

2,400ページ弱の物語が長くなかったかと云えば噓になるが、それでもいつしか彼らは私の胸の中に住み、人生という旅を、戦いを行っていた。

通常これだけの大長編を書いた後では虚脱状態になってしばらくは何も書けない状態になるのではないだろうか。読み終わった私でさえ、半ばそのような状態である。
洋の東西問わずそのような事例の作家が少なからず思い浮かぶが、キングはその後でも精力的に大部の物語を紡ぎ続けているところだ。彼の創作意欲は留まるところを知らない。
キングの頭の中には今なお外に出たくてひしめき合っているキャラクターが潜んでいるのだろう。天才という言葉を軽々しく使いたくないが、現在まで年末のランキングに名を連ねる彼はまさしく小説を書くために生まれてきた正真正銘の天才だ。

また本書ほど読む時期で印象が変わる物語もないだろう。
上に書いたように2,400ページ弱を誇る大部の物語はキングの色んな要素を内包している。本書が1978年に発表された当時にカットされた分を付け足した1990年に刊行された増補改訂版であるのは冒頭に述べた通りだが、この作品を1978年当時の作品として読むか、1990年発表の作品として読むかで変わってくる。
前者であればその後のキングの諸作のエッセンスが詰まっている、いわばキング作品の幹を成す作品と捉えるだろう。しかし後者ならばそれまでに発表された『IT』を凌ぐキングの集大成的作品として捉えた事だろう。
解説の風間氏がいうように私は前者の立場で読んだ。従って私の中ではキングはまだ始まったばかり。本書がこの後紡ぎ出した数々の作品にどのように作用しているのかを読むことが出来るのだ。

実はまだまだ語りたいことが沢山ある。なにせ色々な物が包含され、またそのままの状態で終わった物語であるからだ。
ナディーン・クロスに寄り添っていたジョー、即ちリオ・ロックウェイのこと、本書で登場する玉蜀黍畑は短編「トウモロコシ畑の子供たち」でも意志ある存在として不気味なモチーフで使われていたが、アメリカ人、いやキングにとって玉蜀黍畑とは何か特別な意味を持っているのだろうか、等々。

しかしそれはおいおい解ってくるのかもしれない。今後の壮大なキングの物語世界に浸ることでそれらの答えを見つけていこう。


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ザ・スタンド(上)
スティーヴン・キングザ・スタンド についてのレビュー
No.734: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ライトからディープへと見事な戦略の勝利!

2011年に刊行されるや一気にブームとなった古書店を舞台にしたライトノヴェル。ドラマ化もされたので本を読む人以外でもその名を知っているほどの有名な作品をようやく手にしてみた。
第1巻である本書は4つの短編で構成された短編集である。

主人公は五浦大輔と篠川栞子。
五浦大輔は大学を卒業したものの就職先が決まっていない就職浪人。篠川栞子は北鎌倉に店を構える「ビブリア古書堂」を亡き父の跡を継いだ店主。この2人が出逢う話が第1話目の「夏目漱石『漱石全集・新書版』(岩波書店)」である。
シリーズの幕開けを告げる本作はいわばビブリア版『マディソン郡の橋』とも云うべき適わぬ恋の物語だ。昭和の女性として飲む打つ買うの三拍子好きだった祖父にひたすら耐えるように連れ添った厳しかった祖母が棺まで持って行ったたった1つの本当の恋愛が死後1年経って、その蔵書から解かれる。
平凡と思われた家族にも何かしら隠された秘密はあるものだ。
そして五浦はこの事件がきっかけでしばらく古書堂のお世話になることになる。

第2話「小山清『落穂拾ひ・聖アンデルセン』(新潮文庫)」は五浦がビブリア古書堂で働き出して3日目の事件を扱っている。
本作のミソは依頼人の志田が盗まれた本が新潮文庫だったという点だ。
これを大切なプレゼントの応急処置としたところが作者の着眼点の妙だろう。本作で挙げられている作品『落穂拾ひ』が本書の話と絡むのは当然のことながら、文庫をこのような小道具としたところを賞賛したい。本に纏わる話を考えていると取り上げる作者の経歴とかテーマとなる話そのものから物語を考えるので、なかなか本作のような発想は思いつかないものである。天晴れ。

3話目「ヴィノグラードフ・クジミン『論理学入門』(青木文庫)」はある夫婦に纏わる話だ。
紳士の暗い過去を知られないために本を処分するという動機の方が味わい深いと思わせながら、最後にさらに夫婦の仲が深まるエピソードに落とすあたりはなかなか。
謎と云い、物語と云い、小粒感は否めないが、それは本作が最後のエピソード「太宰治『晩年』(砂子屋書房)」への橋渡し的な役割を果たしているからだ。
古書に纏わる事件と云えば狂信的な収集家が起こす事件が定番だが、ラノベである本書では敢えてそのディープな内容を避け、本に纏わる日常の謎について語ってきたのだが、最後の事件になってようやく核心的な謎について触れられている。
1冊の本のために数百万もの大金を出し、手に入らないと解れば持ち主を殺してでも奪おうとする狂信的な書物愛こそが古本マニアの本質だ。最後に登場した栞子の宿敵とも云える大庭葉蔵の正体は正直意外だった。
また掉尾を飾るエピソードとあって、それまでの話に出ていた登場人物が登場する。2話目で志田と親しくなった女子高生小菅奈緒はビブリア古書堂の常連に、3話目に登場した坂口夫婦も登場し、更に1話目で判明した五浦の出自も意外な形で物語に関わってくる。
しかしこのコレクター魂こそが収集狂の典型とも云える。


冒頭にも書いたように既にドラマ化もされ、文庫も版を重ねたベストセラーシリーズの第1弾。旬も過ぎたかと思われたこの頃になってようやくその1巻目を手に取ることにした。

私は熱心なライトノヴェル読者ではないのでそれほど同ジャンルの作品を数多く読んでいる訳ではないのだが、色んなメディアから見聞きした昨今の業界事情から考えるとキャラクター設定としては決して突飛なものではなく、ミステリを中心に読んできた私にしてもすんなり物語に入っていけた。

人見知りが激しいが、いざ書物のことになると饒舌になり、明敏な洞察力を発揮する若き美しい古書店主というのは萌え要素満載だが、いわゆる“作られた”感が薄いのが抵抗なく入っていけた点だろう。また古書店主というのが本読みたちの興味をそそる設定であることもその一助であることは間違いでないだろう。

しかし扱っているテーマは古書というディープな本好きには堪らないが普段本を読まない中高生にはなんとも馴染みのない世界であるのになぜこれほどまでに本書が受け入れられたのだろうか。

上にも書いたがこういった古書ミステリに登場する古書収集狂は最後のエピソードにしか出てこないことが大きな特徴か。
本に纏わる所有者の知られざる過去が判明する第1話。
その文庫しかないある特徴を上手く利用した、本自体を物語のトリックとして使用した第2話。
夫が大事にしていた本を突然売ることになったことでそれまで隠されていた過去が判明する第3話と、1~3話まではいわゆる本を中心に生きてきた狂人たちは一切出てこらず、我々市井の人々が物語の中心となっていることが特徴的だ。従って古書を扱っていながらも所有者の歴史を本から紐解くという趣向がハートウォーミングであり、決してディープに陥っていない。

しかしそれでも1話目から作者自身が恐らく古書、もしくは書物に目がないことは行間から容易に察することができる。従って作者は話を重ねるにつれて読者を徐々にディープな古書の世界へと誘っていることが判ってくる。
例えば1,2話では現存する出版社の本であるのに対し、3話目からは青木文庫、砂子屋書房と今ではお目に掛かれない出版社の書物を扱ってきており、そこからいわば古書ミステリのメインとも云える収集狂に纏わる事件となっていく。

しかしそれでも作者自身もこれほどまでに世間に受け入れられるとは思っていなかっただろう。なぜならば本書にはシリーズを意図する巻数1が付せられてなく、また話も五浦の出生に纏わる過去が最後で一応の解決が成され、更に五浦がビブリア古書堂を去るとまでなっていることからも本書で一応の幕が閉じられるようになっていたことが判る。

しかしその作者の予想はいい方向に裏切られ、現在7巻まで巻を重ね、人気シリーズとなっている。これはビブリオミステリ好きな私にとっても嬉しいことだ。

そしてそのことが拍車をかけたのか、作者も古書の世界をさらにディープに踏み入り、そしてミステリ興趣も盛り込むことで『このミス』にランクインするほどまでにも成長した。

ラノベという先入観で手に取らなかった自分を恥じ入る次第だ。このシリーズがたくさんの人々に古書の世界への門戸を開くためにバランスよく味付けされた良質なミステリであることが今回よく解った。
次作も手に取ろうと思う。
栞子さん目当てでなく、あくまで良質なビブリオミステリとして、だが。


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ビブリア古書堂の事件手帖―栞子さんと奇妙な客人たち (メディアワークス文庫)
No.733:
(7pt)

フリーマントルですら舞台を中国にするのは難しいようだ

本書の裏表紙の概要にはシリーズ第9作というのは実は間違いで本書は10作目に当たる。9作目の“Comrade Charlie”は未訳なのだ。そしてどうもそれがいわゆるそれまでのシリーズの総決算的な内容で、正直本書からはシリーズ第2部とばかりにキャラクターも刷新されている。

まずチャーリーのよき理解者であったイギリス情報部々長のアリスター・ウィルソン卿は2度の心臓発作により部長職を退き、ピーター・ミラーが上司となり、さらに直接の上司として女性のパトリシア・エルダーがチャーリーの指導に当たる。

また相手側も実際に解体されたソ連からロシア連邦となっており、まだ政治的な混沌の中での国際的対応が強いられている様子。そしてシリーズ1作目から登場していたチャーリーの宿敵ベレンコフが既に失脚しているという状況。
第8作ではベレンコフがチャーリーと縁のあるナターリヤを使って罠を仕掛けようと不穏な空気を纏った中で物語が閉じられるので、いきなりのこの展開には面食らった。なぜ第9作が訳されなかったのだろうか。これは大罪だなぁ。

そんなソ連が解体された時代1993年に発表された本書の舞台は中国。
まだ西欧諸国にとって未知で理解不能、しかも明らかに容貌が違うためにどこに行くのにも目立ってしまう西洋人にとって自分たちの原理原則論が全く通じないワンダーランドである中国に潜伏しているフリーランスのエージェントに中国の公安の者と思われる人物より嫌疑がかけられているとの情報を得て、チャーリーが育てた新任のジョン・ガウアーが単身中国に乗り込む。

まず最初の読みどころはチャーリーが教師となって新人の局員ガウアーを教育するくだりだ。
優秀な成績を修め、自信満々で乗り込んできたガウアーの出鼻を挫くかの如く、悉く彼のやり口を否定するチャーリーの鋭敏さが小気味よい。チャーリーが教えるのはそれまで彼が長年の諜報活動で培ってきた生きる術、即ち彼独自で編み出した「生存術」だ。それは人間の心理、スパイの定石を知り尽くした彼だからこそ教えることが出来る現場における実践術だ。
しかしそんなチャーリーの生存術も風貌が西洋人と全く異なる中国では通用しないようだ。なぜならあっという間に彼は中国の公安部にスパイ容疑で拉致されてしまうからだ。

さて北京オリンピック後の中国を知る今となっては西洋人がかの国に多数いても驚きはしないのだろうが、当時はまだ経済的に発展しておらず、また西洋人に珍しい眼を明らさまに向ける国民ばかりだからスパイ活動というのは得てしてやりにくかったに違いないし、また中国政府側も目立つ西洋人の常に監視している、なかなかに緊迫した状況で物語は進む。

そしてジョン・ガウアーが拉致され、劣悪な状況で監禁と尋問を繰り返される辺りは意外にも手ぬるいと感じてしまった。
いや確かに自身がそのような境遇に置かれるともう2日と持たないだろうと思うのだが、今まで読んできたいわゆる監禁を扱った小説に比べると実に生温く感じるのだ。決して肉体的な苦痛を与えられるわけでなく、蠅がびっしりたかり、穴からネズミがはい出てくるトイレ、混ぜると何かが浮いてくる食事、口に含むだけで下痢となる水、誰かの体臭が染み付いた囚人服といったアイテムには嫌悪感は増すものの、もっと凄まじい環境が今まで読んできた小説にあったのは確か。それらと比べるとなんとも大人しいなぁと思ってしまった。
ただそれでもどうにか自身の正体を偽り、生き延びようとするガウアーの姿は胸を打つ。これが諜報の世界の厳しさだ。

また一方でロシア側も情報局の新局長となったナターリヤの昇進を快く思っていない次長のチュージンによる執拗な上司の身辺調査により、彼女と前夫との間に出来た不肖の息子エドゥワルドが麻薬や闇物資の密輸の主犯としてロシア民警に拘束されている情報をキャッチする。ナターリヤは自らのキャリアの保身のために民警と情報局双方にとって最善の道を模索するが、それを権力の私的濫用としてナターリヤを陥落させようとチュードルが画策する。

またチャーリーも現場復帰が適わず、新人の情報部員の教育係という閑職に甘んじている現状が我慢できず、新上司2人の身辺を洗い、2人が不倫関係にあることを突き止めるが同時にロシア人と思われる情報員たちの監視対象になっていることも偶然突き止めてしまう。

情報を扱う任務に携わっている人々は自らの保身、また昇進という野心のために上司の身辺を調査することが英露両国とも共通しているのが面白い。
日本でも上位職の人たちの人事に目を配り、どこのポストに空きが出来、そしてそこに収まった時に誰が上司になっているのかと想像を巡らすサラリーマンはいるものだが、本書に出てくる登場人物がどこまでのリアリティを持っているかは解らないけれど、常に虚実の入り混じった情報を相手にし、国際政治を左右する状況に置かれている任務に携わっている人々はこのように自分の職場での立場を少しでも優位にするために上司のプライヴェートまで踏み込んでいくのかもしれない。
いやはや人間不信にたやすく陥る職業である。

またチャーリーが今回宛がわれた業務が新人のスパイ教育であり、今まで現場の最前線で世界を股にかけて仕事をしてきたチャーリーがこれを閑職とみなして腐っているが、実は上司たちは彼のスパイとしての数々の実績を評価しており、またその高い生存率にも注目した上での配属であるのだ。なにせ一度自国の情報局員として勤務しておきながら、自分を消そうとした組織に仕返しをして自ら辞職した後、スパイとして旧ソ連に捕まっていながら見事に元の英国情報部に返り咲いたという異色の経歴の持ち主である。
そんな数奇な運命を辿りながら現職のスパイであるチャーリーのスパイ術を後進の者たちに伝授するのは組織にとっても有益なのだから全く以て閑職ではないのだ。

しかし私が勤務する製造現場を持つ会社でも年を取っても現場がいいという人間はおり、出世して本社や支社勤務になるとデスクワークばかりが耐えられないという。
従ってチャーリーの抱く窓際感は解らなくもないが、実際諜報活動では若い頃のように動けないこと、年々衰える記憶力によって失敗することで大きな国際問題に発展しかねない職場であるから、ヴェテランはある時期が来たら管理部門に異動して現場から離れるべきだろう。つまり今現在でも続くこのシリーズで既に老境に入ったチャーリーが現場の最前線に立つこと自体が諜報の世界では異常なのだ。

そして本書のメインであるチャーリーの中国潜入が始まるのはなんと下巻の170ページ辺り。つまり上下巻合わせて約660ページの本書においてなんと75%が過ぎたあたりからチャーリーのお出ましとなるわけだ。

それに至るまではまさに上に書いたように管理的仕事に回されたチャーリーのグチと上司の監視、またロシアでのナターリヤに訪れる地位陥落を企む部下のチュージンとの覇権争いが繰り広げられる。

フリーマントル作品の醍醐味の1つに高度なディベート合戦が挙げられるが、本書でもその期待が裏切られることはない。鉄壁の防御を誇る情報局部長と次長の秘書のガードをどうにか崩していくチャーリーの駆け引きなども含めて大小様々なディベートが繰り広げられるが、本書の白眉はやはり息子の逮捕によって窮地に陥ったナターリヤの審問会の場面だろう。
息子に便宜を図ろうとしていたところを危うく部下のチュージンに嗅ぎつけられ、それを証拠として局長の座から陥落させようと企む彼が付きつけるあらゆる証拠を僅かに残された糸のように細い手掛かりを手繰りながら自らに降りかかった嫌疑を晴らしていくプロセスは実にスリリング。インテリジェンスを扱う者はそれを武器にする者とそれに溺れる者とに分かれるがまさにこのナターリヤとチュージンの2人の構図はそれをまざまざと見せつけてくれる。

ということで考えるとチャーリーの中国潜行がメインと書いたが、ストーリーにおける全体の25%に過ぎないとなるともはやメインではないだろう。
本書は中国での英国の諜報活動、ロシア連邦という新体制下で情報局の局長に就任したナターリヤの動向と新体制の英国情報部のお披露目といったインタールード的要素を持ちながら、その実チャーリーが中国に乗り込むまでのそれぞれの状況全体に仕掛けた叙述トリック的作品とも読める。

ただ今まで東ドイツ、旧ソ連と東側の大敵を相手にしてきたフリーマントル作品が、東西ドイツ統合、旧ソ連の解体と歴史的転換期を迎えたことで確固たる敵を見失っているような感じが行間から感じられた。

今回フリーマントルが選んだ新たな敵は中国であるのだが、この全く風貌の異なるアジアの国で西洋人がスパイ活動をすることの難しさが述べられるだけで小説としてはなんとも実の無さをストーリー展開に感じざるを得ない。つまりこの中身の薄さは作者自身が中国の情勢と文化に造詣があまり深くないからではないだろうか。

それを裏付けるように本書の前後に書かれたのは米国のFBI捜査官とモスクワ民警の警察官が手を組む新シリーズカウリー&ダニーロフがあり、本書の次のチャーリー・マフィンシリーズ『流出』はロシアを再び舞台を移して西側への核流出を阻止するために米露の情報部と手を組むという、自らの得意領域に再び戻っているからだ。

この後も中国を舞台にした作品が見受けられないことを考えるとやはり冷戦後の安定期に移りつつある世界情勢でスパイ小説の書き手たちが題材に迷っていたが、フリーマントルも例外ではなかったということのようだ。

何はともあれ、ようやく未訳作品を除いて本書にて全てのチャーリー・マフィンシリーズを読むことが出来た。2006年1月25日に第1作の『消されかけた男』を手に取って足掛け約11年。実に長い旅であった。
『魂をなくした男』以降のシリーズ作品が出るかは作者の年齢との相談にもなるだろうが、とことん最後まで付き合っていくぞ!


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報復〈上〉―チャーリー・マフィンシリーズ (新潮文庫)
ブライアン・フリーマントル報復 についてのレビュー
No.732: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

キング作品を読み解いていく上でも羅針盤となる短編集

短編集『深夜勤務』と合わせて二分冊で刊行されたキング初の短編集のこちらは後半部分。

「超高層ビルの恐怖」はマフィアの妻を寝取った元テニス・プレーヤーの男が巻き込まれたある賭けについての話だ。
ロアルド・ダールの有名な短編「南から来た男」を彷彿とさせるシンプルかつ人生を賭けた危うい賭けという題材。たった5インチ幅の手摺の上を歩いてビルを一周するというアイデアもさることながら、主人公を妨害しようと嘘をついていたと話したり、リンゴをビルから落としてグシャリと割れる音を聞かせたり、癇癪玉を突然鳴らしたりと心理的に追い込む相手の策略や既得権を発揮し、主人公に襲い掛かる鳩の存在などシンプルな題材で置いてもアイデアが尽きない。
しかしその割にはちょっと詰めが甘いかな。

次の「芝刈り機の男」は実にシュールだ。
よくもまあこんなこと考えつくよなぁというのが素直な感想だ。業者に芝刈りを頼んだら芝刈り機が独りでに庭中を駆け巡り、男が素っ裸になってその後を追って刈った草を次から次へと食べていく…。悪夢のような光景である。
このシュールさは実にジョジョ的だ。いやキングが本家なんだけど。
しかし前巻の「人間圧搾機」といい、「トラック」といい、キングは意志を持つ機械にそこはかとない恐怖を覚えるようだ。

そのジョジョ、いや荒木飛呂彦がいかにも書きそうな話が次の「禁煙挫折者救済有限会社」だ。
薬も使わない、集団催眠に掛けるような説教も行わない、特別な食餌療法もしない、更には1年間煙草を吸わなくなるまでは一切料金はいらないという実に摩訶不思議な禁煙専門会社の療法は、その人物の良心に訴えるものだった。
しかもそれが冗談ではなく、実際に成されるのだから、怖い。
更に職員が24時間監視しており、それも期間が過ぎるにつれて、監視の頻度も薄まるが、いつどこで誰が見張っているのかは対象者は解らないため、常に見られているという強迫観念の下、生活を強いられる。それでも成功率98%というのだから、残り2%の顧客は家族や自分の生活の平穏よりも喫煙を選んだ人がいるのだから、煙草の中毒性の恐ろしさが判るという物だ。
そしてそんな不利益を自分だけ被るのは面白くないとばかりに顧客は喫煙者にその会社を口コミで知らせるようになる。
特に最後の一行が本書では効いている。
しかし喫煙を始めなければこんなことも起こることはなかろうに。

女性にとって理想の男性とは?「キャンパスの悪夢」はある女子大学生の前に彼女の望むものを全て適えてくれる男性が現れる話だ。
今でいうストーカーの話。自分の好みを知り、いつも期待に応え、願望を叶えてくれる、そんな理想の相手が現れたら、男であれ女であれ心惹かれてしまうだろう。なぜなら共感を持てる人物に人は惹かれるからだ。本作で登場するエド・ハムナーは黒魔術を使って彼女の心を読み、また彼女と自分が付き合うのに障害となる物や人を排除して彼女と近づくことに成功した。それは小学生の頃からの淡い恋心が生んだ情念のようなものの産物だったのだが、私はこの事実を知らなければエリザベスはエドと幸せに暮らせたのではないかと思う。
つまり幸せとは知らなくていいことが潜んでいるものであるとキングは本作で暗に示しているのではないだろうか。

「バネ足ジャック」はその名から連想されるように切り裂きジャックをモチーフにした短編。
う~ん、なんとも微妙な終わり方だ。
バネ足ジャックと云えば藤田和日郎氏による黒博物館シリーズに挙げられており、そちらを連想したが、正直藤田氏の作品の方が怖かった。
しかしバネ足ジャックという都市伝説は実際に切り裂きジャックが登場する数十年前にあったらしい。それを知っただけでも収穫か。
ちなみにイチゴの春とは冬の寒さがまだ抜けやらぬ春を指すらしい。

表題作はいわゆる田舎町の得体のしれなさを描いた物語だ。
人っ子一人いない田舎町。アンファンテリブルと思しき薄気味悪い子供たち。そしてなぜか雑草も害虫もいない繁茂したトウモロコシ畑。
正直トウモロコシ畑に馴染みのない私たちにはいまいちピンとこない恐怖なのだが、バーボンを生み、映画『フィールド・オブ・ドリームス』のように切り開いてグラウンドにしたトウモロコシ畑に往年の野球選手が集うようなマジックが物語として語られる国であるから、トウモロコシ畑には日本人には理解できない畏怖や幻想味があるのだろうか。
なかなか腑に落ちないのだが。

一風変わって次の「死のスワンダイブ」は抒情的な作品だ。
何とも云いようのない余韻を残す作品だ。
美しかった妹は美人が陥る不幸せな結婚を経て、身持ちを崩していく。やがて大好きだった兄とも疎遠になり、数年ぶりに兄が目にした記事に踊っていた文章は「コールガール、死のスワンダイブ」という記事。やがて彼の許に届いた手紙には幼き頃に兄に助けてもらった納屋での事件の時に死んでいた方がマシだったという悔恨の一文。
特に本作では幼い兄弟が両親に内緒で納屋に積まれてある干し草の上に70フィートもの高さ、つまり21メートルもの高さから飛び下りる遊びに興じていた思い出とそれにまつわる事故のエピソードが眩しいだけに切ない。
あの時、兄が咄嗟の判断でどうにか助かるように壊れた梯子にぶら下がる妹の下にかき集めては敷いた干し草のことには全く気付かずにダイブした妹の心中には兄ならば何か助けてくれるに違いないという確信があった。だからこその決死のダイブだった。
彼女にとって兄は妹を助けてくれるスーパーマンだったのだ。しかし現実にはそんなスーパーマンはいない。
何ともやるせなさの残る作品である。

その男は道行く人が振り返るほどハンサムで、なおかつ幸せに満ちた顔をしていた。その通り彼は恋人のノーマに逢いに行くところだった。途中、花売りのところで店のおじさんのお勧めの花束を携え、彼は足取り軽く恋人のところに向かっていた。道すがら誰もが彼を祝福するかのように見たが彼の目には何も映らなかった。そして彼女のところに行く着くと、確かにそこにはノーマがいたので、彼は声を掛けた。
こんな風に休日の昼、幸せそうな男の風景を描いた「花を愛した男」はキングらしい皮肉な結末を迎える。

“呪われた町”<ジェルサレムズ・ロット>の恐怖はまだ終わらない。次の「<ジェルサレムズ・ロット>の怪」は再びあの吸血鬼に支配された町が舞台となる。
前巻でも長編『呪われた町』を舞台にした短編「呪われた町<ジェルサレムズ・ロット>」は吸血鬼ではなくドルイド教という邪教に傾倒する一族によって支配されていた町という設定だったが、こちらは長編と同じ吸血鬼に支配された町であり、スピンオフ作品となっている。
既に町は無くなっているから長編のその後の物語であることは間違いないが、今なお吸血鬼は健在で時折訪れる人々を襲っては渇きを癒しているようだ。ベンが決着を付けに来るその日までジェルサレムズ・ロットの恐怖は収まらない。

最後の「312号室の女」は胃癌を患った母親を看取る息子の心情がつとつとと語られる。
本書の中で最も現実的な問題を扱った作品だ。あとはただ死に向かうだけの寝たきり生活を強いられた母親に安楽死を与えようと逡巡する息子の心情が語られる。
もはや回復の見込みがなく、ただ死ぬその時までの時間を苦しみながら生きていくだけになった実の親に安らかな死を与えることは罪なのか。いや今後いつまで続くか解らない母親の世話に疲弊していく自分を救うことは過ちなのか。
先般読んだ『ロスト・ケア』同様、この答えの出ないジレンマは70年代当時から東西問わずに抱えられた問題であるようだ。


キング初の短編集『ナイト・シフト』の後半に当たる本書は前半にも増してヴァラエティに富んだ短編が揃っている。

未来に賭けて超高層ビルの手摺を一周回ることに同意した男。

奇妙な雰囲気を漂わせた芝刈り業者の男。

98%の確率で禁煙が成功する禁煙を専門に扱う会社。

常に自分の望むものを叶えてくれる不思議な学生。

バネ足ジャックと呼ばれた連続殺人鬼。

生い茂ったトウモロコシ畑を持つゴーストタウン。

幼い頃、共に干し草の上にダイブして遊んだ美しい妹の末路。

恋人に会いに行く幸せそうな男。

豪雪で忌まわしき村に迷い込んだニュージャージーから来た家族。

死の間際にいる母親を看る息子の胸に去来するある思い。

前巻も含めて共通するのは奇妙な味わいだ。特段恐怖を煽るわけではないが、どこか不穏な気持ちにさせてくれる作品が揃っている。

ただ前巻では全ての物語が怪物、超常現象、邪教といったSF的、オカルト的趣向に根差し、つまり現実的には起こりえない設定の上で物語が紡がれていたのに対し、後半の本書では現実でも起こりうる現象、事件または主人公が抱く悪意などを描いているところに違いがある。

超高層ビルの手摺を一周回ることの恐怖、町を震撼させた連続殺人鬼の正体、美しかった妹が自殺した真相、サイコパス、病気の母親を看取る息子にほのかに生まれた悪意、などが相当する。

まあ、本書は前巻を合わせて1冊として刊行されていたものを日本が独自に分冊して刊行しただけなので、実は1冊のうちにそれら虚構と現実を併せ持った趣向の短編が満遍なく収められていることにはなるのだが。

またクーンツ作品とは決定的に違うのは災厄に見舞われた主人公が必ずしもハッピーエンドに見舞われないことだ。生じた問題が解決されることはなく、また主人公が命を喪うこともざらで、救いのない話ばかりだ。

それは―どちらかと云えば―ハッピーエンドに収まった作品でも同様だ。
何かを喪失して主人公は今後の人生を生きることになる。人生に何らかの陰を落として彼ら彼女らは今後も生きていくことを余儀なくされるのだ。

個人的ベストは「禁煙挫折者救済有限会社」か。
煙草は案外アメリカでは根深い社会問題になっているみたいで『インサイダー』なんて映画が作られたほどだ。作中にも書かれているが、刑務所で煙草の配給を廃止しようとしたら暴動が起きただの、昔ドイツで煙草が手に入りにくくなったときは貴族階級でさえ、吸い殻拾いをしていただのと中毒性の高さが謳われている。

そんな代物を辞めさせるには家族を巻き込まないことには無理!というのが本書に含まれたブラック・ジョークだ。
しかし本書の面白いところはその手段が喫煙者に単なる脅しではなく、行使されるものであるところだ。
つまり本書は煙草を辞めることはこれぐらいしないとダメだと痛烈に仄めかしているところに妙味がある。しかし本当にこんな会社があったら怖いだろうなぁ。

次点では「死のスワンダイブ」を挙げたい。
これはとにかく田舎で農家を営む両親の下で育った兄弟の、納屋での、70フィートの高さから干し草の上にダイブする禁じられた遊びのエピソードがなんとも胸を打つ。そしてそのダイブで起きた事故で兄の咄嗟の機転によって奇跡的に助かった美しい妹が大人になるにつれて辿る不幸な人生とのコントラストがなんとも哀しい。そして彼女が最後に頼ったのはあの時助けてくれた兄だった。もう人生に落胆した彼女はまた兄が助けてくれることを信じてもう飛ぶしかなかったのだ。そんな切なさが胸を打った。

また前巻と合わせて本書でも『呪われた町』の舞台となったジェルサレムズ・ロットを舞台にした短編が収められている。
2編は外伝と異伝のような合わせ鏡のような作品だが、どうやら本書においてこの忌まわしい町に纏わる怪異譚については打ち止めのよう。その後も書かれていないことを考えるとキングが特段この町に愛着を持っているというよりも恐らくはアマチュア時代から書き溜めていたこの町についてのお話を全て放出するためだけに収録されたのではないだろうか。

本書と『深夜勤務』は『キャリー』でデビューするまでに書き溜められていた彼の物語を世に出すために編まれた短編集だと考えるのが妥当だろう。とするとこのヴァラエティの豊かさは逆にキングがプロ作家となるためにたゆまなき試行錯誤を行っていたことを示しているとも云える。
単純に好きなモンスター映画やSF、オカルト物に傾倒するのではなく、あらゆる場所やあらゆる土地を舞台に人間の心が作り出す怪物や悪意、そして人は何に恐怖するのかをデビューするまでに色々と案を練ってきたことが本書で解る。
つまり本書と『深夜勤務』には彼の発想の根源が詰まっているといえよう。特に『呪われた町』の舞台となるジェルサレムズ・ロットを舞台にした異なる設定の2つの短編がそのいい証拠になるだろう。あの傑作をものにするためにキングはドルイド教をモチーフにするのか、吸血鬼をモチーフにするのか、いずれかを検討し、最終的に吸血鬼譚にすることを選んだ、その発想の道筋が本書では追うことが出来る。そんなパイロット版を惜しみなく提供してくれる本書は今後のキング作品を読み解いていく上で羅針盤となりうるのではないかと考えている。

しかし本書を手に入れるのには実に時間と手間が掛かった。なぜなら絶版ではないにせよ置かれている書店が圧倒的に少ないからだ。
現在でも精力的に新たな作風を開拓しているこの稀有な大作家が存命中であるにも関わらず過去の作品が入手困難であるのはなんとも残念な状況だ。既に絶版されている諸作品も含めて今後どうにか状況改善されることを祈るばかりである。



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ナイトシフト〈2〉トウモロコシ畑の子供たち (扶桑社ミステリー)
No.731:
(8pt)

美人ってどうして幸せに恵まれないのだろう?

これは東西ドイツ統一という時代の変換期に、自らの恋愛を翻弄されたなんとも哀しい女の物語だ。

仕事は優秀で見た目も美人だが、既に38歳となり結婚適齢期は過ぎてしまったキャリアウーマンであるエルケ・マイヤー。昔付き合った男との間に生まれた自閉症の娘ウルスラを精神病院に預け、毎週日曜日に訪問しては絶望に暮れる日々を送っている。従って結婚願望はおろか、もう長らく男性との火遊びからも遠ざかっている、いわゆる日干し女だ。

独身生活が長いせいで単調な生活の繰り返しに安定を見出している。決まった手順で行動し、いつもの場所に駐車し、いつもの店のいつもの席でいつものメニューを食べ、いつもの時間に出勤する。食事中に愛車が傷つけられていないか不安で周囲を確認し、何もないことで安堵する。
これら一連の“儀式”を重んじ、そこに安心を覚える、半ば強迫観念に縛られたような性格の持ち主である。

一方翻って彼女の姉のイーダはうだつの上がらない郵政省に勤める夫と結婚して2人の子供を持つ母親だが、女性としての魅力を保っており、パーティでは夫の仕事仲間から云い寄られてきたりもする。社交的で人目を惹くことからエルケはひそかに憧れと嫉妬を抱いている。そして2人の関係は一見フラットでありながら精神的優位性が姉にある。

そんな彼女に目を付けたKGBが放ったセックス・スパイ(昨今ではもはやハニー・トラップでこの存在が珍しくなくなってきたが。ちなみに男性のセックス・スパイは“カラス”と呼ばれ、女性のそれは“ツバメ”と呼ぶらしい)オットー・ライマンはかつて東ドイツへのスパイ作戦で成功を収めたリーダー、ユッタ・ヘーンの部下であり、そして現在は夫で結婚後もKGBで働いている。かつての部下と上司の関係から妻ユッタはオットーに対して常に精神的優位性を示し、夫が服従することを好んでいる。オットーはそれに表向きはそのことに不満を示していないが、時折公私に亘って妻が見知らぬことを知ることで優位に立つことに喜びを感じている。

KGBの狙いはベルリンの壁が崩壊した後の東西ドイツ統一に向けてドイツ側、とりわけ西ドイツの中枢であるボン政府が社会主義側だった東ドイツとどのように協調していくのかを探ることだった。特にNATOとワルシャワ条約機構との結合を試みて新たなる政治的脅威になるのかが焦点であった。

特に物語の中盤以降、ソ連側がオットーに渡した3ページ以上に亘る膨大な調査内容のリストは―真実かどうかわからないが―当時のソ連がかつて第二次大戦で猛威を奮ったドイツの復活をいかに恐れていたかを示唆している。

この2人が出逢うのはなんと180ページを過ぎたあたりから。物語としてはおよそ1/3辺りである。それまでは延々とエルケの日常とオットー・ライマンの作戦準備が語られる。
一流のスパイとして女性を籠絡させる術を知り尽くしたオットー・ライマンの内面心理描写は女性心理、いや女性に限らずあらゆる人の心理を自由に操る術が豊富に織り込まれている。じっくり対象を観察し、あらかじめイメージを作り上げ、そのイメージがするであろう振る舞いや受け答えを想定し、対応する。そして自分が望む方向に導くのだ。

エルケの心の隙に付け入るべく、彼女の厳格なまでの単調な生活の繰り返しによる心の安定を切り崩して刺激を与えていく。例えば連絡先を教えても、掛かってきた電話には応えず、逆に自分の都合で連絡し、安堵を与える。必ず約束の時間には遅れていくし、相手がもう少し一緒にいる時間を延ばしたいと察すると理由をつけて退場する、2人の関係に絶対の自信を持たせない、自身の存在を当たり前に感じることは許さない、といった具合だ。今なら一流のメンタリストといったところか。

そんな駆け引きをしてようやくオットーがセックス・スパイの本領を発揮するのが物語も半分を過ぎた375ページ辺りだ。なかなかに長い前戯ではないか。

また面白いのはそれまで男に縁がなく、平日は仕事と自宅の往復、土曜日は姉とのランチ、日曜日は自閉症の娘への訪問と一つたりとも違うことなく、同じことの繰り返しだった灰色のエルケの日常がオットーとの出逢いを境に好転していくことだ。

まず首相府事務次官付きの秘書の立場から閣僚委員会の一員に抜擢され、更に政府の中枢に加わるようになり、昇進する。

さらに上司の事務次官ギュンター・ヴェルケの好意を買うことになり、たびたびデートに誘われるようになる、といった具合に一気にエルケの人生が色めき立つのだ。“あげまん”という言葉は知っているがオットー・ライマンはその逆の“あげちん”である(本当にこんな俗語があるらしい)。

そして当然ながらエルケが変わるように相手側も変わる。
あくまでプロフェッショナルを貫き、エルケを対象物として捉えていないと自負していたオットーはエルケの精神的拠り所になった後でも彼女に自分がスパイであり、自分なしでは生きられないのなら情報を漏洩しろと強制することを拒む。あくまでエルケとは恋人同士の関係で接しながら彼女の小出しにする情報を基にドイツ側の内情を構成し、報告するにとどめる。そしてもはや妻ユッタに愛情を感じず、エルケを心底愛するようになっていく。

またオットーの妻ユッタもあくまで仕事と割り切りながら、かつて部下と上司の関係だった立場が逆転したのを気付かされ、オットーに依存するようになる。そしてオットーの標的相手に嫉妬を覚えるようになるのだ。

やはりこれが人間なのだ。
仕事と割り切ってクールに振る舞えないからこそ人間なのだ。
そこに感情が、特に愛情が絡むことで論理的に組み立てられた作戦は綻びを生み出す。人間が介在するからこそ古今東西の作戦が失敗に終わり明るみに出ることになっているのだ。

しかし読み進むにつれて主人公エルケがだんだん可哀想になってくる。

以前のエルケならば自分に自信がないために、自分の魅力のなさを責め、すぐさま諦観の境地に陥るところだったが、今や東西ドイツ統一のための閣僚委員会の一員となり、記念すべき歴史的転換の只中にいるという彼女の自負が彼女の心を強くさせ、これは一人の男を賭けた対決なのだと自分に云い聞かせる。

もし仕事で見せる鋭敏さがこの時の彼女にあればライマンの行動のおかしさに疑問を持ち、嫉妬も手伝って再度彼の身の上調査に踏み切ったことだろう。
しかしせっかく掴んだ幸せを逃したくないがためにエルケの明晰さを恋が盲目にしてしまった。この辺は実にエルケが可哀想で仕方がなかった。

恋愛を武器にした諜報活動は物語が始まった時から誰かが傷つく結末になるのは約束されていた。
しかし登場人物に対して容赦のないフリーマントルは全ての登場人物に不幸を負わせる。

相思相愛でありながら政府の最高機密に携わっていた孤独な女性と、一流のセックス・スパイでありながら恋に落ちてしまった男。
このハーレクインロマンス的な設定も皮肉屋フリーマントルが描くと現実の厳しさと運命の皮肉さがたっぷり盛り込まれた、なんとも苦さの残る話へと料理される。
仕事のために嘘をつき続けた男とスパイであることを教えてくれればいくらでも情報漏洩をしたと誓った女。男は別れを恐れるために嘘をつき、女は別れたくないために真実を知りたがった。
これが男と女の違いであり、だからこそ悲恋の物語が今なお書かれ、尽きることがないのだろう。

ふと考えてみると本書はKGB側も描いており、作戦決行までのゼロ時間への準備段階から描かれているが、逆に書き方次第では実に面白いミステリになったかもしれない。

描写をエルケ側に絞って無味乾燥した毎日を描いたところに、かつて付き合っていた男とそっくりの男性との偶然の出逢いからラヴロマンスに至り、そこから急転してスパイ物に変転する語り方もあったのではないか。
しかしそれをやるともはや本当のロマンス小説になってしまうのか。だからフリーマントルは敢えて正攻法で臨んだのかもしれない。

しかし重ね重ねエルケが不憫でならない。人目を惹く容姿で仕事もできるバリバリのキャリアウーマンであり、それ相応の男の好意を惹き付けながら、なぜかその恋が成就しない。人生のボタンを常に掛け違えてしまう女性である。
孤独を紛らすために決まった時間、決まった場所、決まったイベントをこなすことで精神の安定を覚えている。

彼女はまたこの無味乾燥した毎日を過ごすかと思うとなんとも遣る瀬無い気分になってしまうのだ。
いつか彼女が正しくボタンを掛けられることを願って本書を閉じよう。


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嘘に抱かれた女 (新潮文庫)
No.730:
(7pt)

創作意欲が滾々と湧き出ているのが解るよう

キング初の短編集。日本では本書と『トウモロコシ畑の子供たち』の二分冊で刊行された。

まずは長いはしがきで幕を開ける。初の短編集であるせいか、はしがきでさえ熱がこもっており、キングの物語に懸ける思いの強さが漲っている。

そんな思いが詰まった第1編「地下室の悪夢」は独立記念日の週に行われる地下室の大掃除を扱った物。
夜の熱気にさらされたのか、学生のホールは自ら危険を求めるかのように異常発達したネズミと、それらが突然変異したかのように見える大きなコウモリの巣窟へと主任を誘って自ら降りていく。鼻持ちならない主任を懲らしめるための思い付きだったのかもしれないが、ホール自身も暗闇と巨大ネズミたちの大群で次第に正気を失っていくのが解ってくる。
暗闇によって引き起こされる感覚の麻痺と従業員に不遜に振る舞う上司への反抗心が生んだ、奇妙な味わいの作品だ。

次の「波が砕ける夜の海辺で」はある長編の断片を切り取ったような作品だ。
たった26ページで語られる物語は新種のインフルエンザによって人類が死滅しつつある世界。そんな世界の一シーンを切り取ったかのように唐突に物語は始まり、そして唐突に終わる。
彼らの行く末はどうなるか解らない。しかし明日に希望を持たないモラトリアムな若者たちにとってそれはどうでもいいことだった。そんな若者の倦怠感を謳った作品。しかし大きなラジカセを担いだ若者の姿が時代を感じさせる。

一見少年殺害の現場を偶然見た男の告白と思わせて意外な展開を見せるのが「やつらの出入口」だ。
本書が書かれた70年代はアメリカとソ連の宇宙開発競争がまだ激化している時であり、また本書発表の1978年は映画『スターウォーズ』公開の翌年で一大SFブームの真っ只中でもある。逆にそんなブームの中で宇宙開発に警鐘を鳴らすキングの特異性が浮き彫りになる短編だ。

さて次の「人間圧搾機」はキング独特の根源的な恐怖を扱っている。
クリーニングの機械が人間の血の味を覚え、それ以来意志をもって人間を意図的に巻き込んでミンチにする。そんな狂える機械の恐ろしさを語ったのが本書だ。
しかし本書ではその機械の圧倒的な力に人々は屈するしかないというバッド・エンディング。
命を持たない機械が意志を持って人間に襲い掛かるとどうなるのか。人間の作業を楽にする機械が牙を人間に向けた時の怖さを本書では十二分に語っている。

次の「子取り鬼」も奇妙な作品だ。
ブギーマンと云えば映画『13日の金曜日』のジェイソンの原型とも云える映画『ハロウィン』に出てくる連続殺人鬼ブギーマンを想起してしまうのが私の世代だが、本書で初めてブギーマンが子取り鬼とも称されていることを知った。
物語は奇妙な味わいのホラーである。言葉にすることで具現化するという言霊の恐ろしさを描いた作品とも取れるだろう。

冬の酒場を舞台にした「灰色のかたまり」もまた昔ながらのホラーストーリーだ。
本書で書かれるように不定形の怪物というのは理解を超えた恐ろしさを持っており、実際のゲームのようには易々と倒せるような相手ではないように思える。
本書で恐ろしいのは怪物に変化している男ではなく、父親がどんどん変わってしまう少年の心を襲う大いなる不安だろう。働きもせず、ただただビールを飲んで家じゅうを真っ暗にしてテレビを見ているだけの父親に対しておかしいと思いながらも従順に従う息子のティミーが愛おしい。彼の抱いた哀しみの深さと恐怖こそが本書の最も恐ろしい部分だろう。

「戦場」はどこかで読んだような話だ。
まさにこれは『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部『ダイヤモンドは砕けない』の虹村形兆のスタンド「バッド・カンパニー」である。というかその元ネタがこれだったのか。
人によっては『トイ・ストーリー』の方を思い浮かべるかもしれないが、内容はまさに『ジョジョ』。

次の「トラック」もまた予想外の物語だ。高速道路のサービスエリアにいるのは若い男女とトラックの運転手にレストランのカウンター係に男性2人。彼らはそこに閉じ込められていた。
いきなりトラックやバスなどの大型車両が自ら意志を持って人を殺し始める。
どこからそんな着想が来るのか、全くキングの想像力は不思議だ。いやあるいは我々が子供の頃に玩具のトラックでまるでそれらが生き物であるかのように口で擬音を発しながら、ぶつけ合っている、そんな遊び心をそのままホラー小説に仕立て上げたかのような作品だ。
誰もが経験した遊びをこんなデストピア小説へと結びつけるキングの発想力にはただただ驚くばかりだ。

皆さんは小さい頃、悪ガキ連中に絡まれたことはないだろうか?もしあるならばその時の怖さを覚えていることだろう。「やつらはときどき帰ってくる」はそんな誰もが持っている少年の頃の苦い思い出が恐怖となって襲い掛かる物語だ。
少年時代の不良グループやいじめっ子たちから暴力を振るわれたり、カツアゲをされたりする経験は当時としては恐怖以外何ものでもなく、絶望の日々を送るような思いをしたことは誰しもあるのではないだろうか。しかし普通そのような思い出は大人になれば懐かしい思い出となり、同窓会で彼らと再会しても笑い話として済ませ、当時の恐怖が甦ることはよほどのことがない限りないだろう。
しかしもしも当時の不良たちが同じ悪意を持ってそのままの姿で現れたら?
これは確かに恐怖以外何ものでもない。彼らは精神的に成熟しておらず、自らの思うがままに振る舞い、他者の迷惑など顧みず、相手を虐め、苦痛を与えることに快楽を見出す悪意の塊だ。そんな大人の道理が通じない輩ほど怖い物はない。そんな誰しもが持っている根源的な恐怖をまざまざと蘇らせる、実にリアルなホラーだ。

さて本書の掉尾を飾るのは「呪われた村<ジェルサレムズ・ロット>」。キング2作目の長編『呪われた町』と同じ名前だが、舞台はどうも違うようだ。
長編ではジェルサレムズ・ロットに訪れた吸血鬼が徐々に町民たちを吸血鬼に変えていく侵略の物語だったが、本作はチャールズ・ブーンという男のボーンズという友人に宛てた手紙と彼の友人で付き添い人でもあるカルヴィン・マッキャンの手記によって構成されている。
本作で描かれるのはジェルサレムズ・ロットにある教会に纏わるブーン家の忌まわしい過去の話。ジェルサレムズ・ロットが先祖のジェイムズ・ブーンなる怪僧の近親結婚者たちによって形成されたおぞましい村であったこと。そしてジェイムズはドルイド教に傾倒しており、数々の魔術的な儀式を行っていたことが語られる。
そんな先祖の負の遺産を清算するために手紙の送り主であるチャールズ・ブーンが出くわした怪物との戦いが描かれている。
最後の最後まで気の抜けない作品だ。


はしがきにも書かれているようにデビュー作『キャリー』以来、『呪われた町』、『シャイニング』と立て続けにベストセラーのヒットを叩き出した当時新進気鋭のキングが、その溢れんばかりに表出する創作の泉から紡ぎ出したのが本書と次の『トウモロコシ畑の子供たち』に分冊された初の短編集である。

今まで自分の頭の中で膨らませてきた空想の世界が世に受け入れられたことがさらに彼の創作意欲を駆り立て、兎にも角にも書かずにいられない状態だったのではないだろうか。

その滾々と湧き出る創作の泉によって語られる題材ははしがきで語っているように恐怖についてのお話の数々だ。

古い工場の地下室に巣食う巨大ネズミの群れ。

突如発生した新型ウィルスによって死滅しつつある世界。

宇宙飛行士が憑りつかれた無数の目が体表に現れる奇病。

人の生き血を吸ったことで殺戮マシーンと化した圧搾機。

子取り鬼に子供を連れ去られた男の奇妙な話。

腐ったビールがもとでゼリー状の怪物へと変わっていく父親。

殺し屋を襲う箱から現れた一個小隊の軍隊。

突然意志を持ち、人間に襲い掛かるトラック達。

かつて兄を殺した不良グループが数年の時を経て再び現れる。

忌まわしき歴史を持つ廃れた村に宿る先祖の怨霊。

これらは昔からホラー映画やホラー小説、パニック映画に親しんできたキングの原初体験に材を採ったもので題材としては決して珍しいものではない。ただ当時は『エクソシスト』やゾンビ映画の『ナイト・オブ・リビングデッド』といったホラー映画全盛期であり、とにかく今でもその名が残る名作が発表されていた頃でもあった。

そんなまさにホラーが旬を迎えている時期に根っからの物語作家であるキングが同じような恐怖小説を書かずにいられるだろうか。

その溢れ出る衝動の赴くままにここでは物語が綴られている。

はしがきでも述べられているが本書の諸作では特にキングが少年時代に数多く作られた巨大な昆虫や突然変異した怪物が人々を襲うパニック映画の影響が大きいようで必ず異形の物が現れて、人々を恐怖に陥れるパターンが多い。10編のうち6編がそれに相当するだろう。

しかしこの着想のヴァラエティには驚かされる。
上にも書いたが、今ではマンガや映画のモチーフにもされている化け物や怪異もあるが、1978年に発表された本書がそれらのオリジナルではないかと思うくらいだ。

例えば『ジョジョの奇妙な冒険』の作者荒木飛呂彦はキングのファンである事で知られているが、私は『シャイニング』を読んだときに遅まきながらそのことに気付いた。そして本書には彼のアイデアの源泉がキングにあることを改めて知らされるのである。

特に顕著なのは「戦場」という短編だ。この小さな玩具の兵隊が意志を持って人間を襲うのは『ジョジョ~』のスタンドでも使われている。さらにそこから想像を広げると例えば「灰色のかたまり」の父親は同じく『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部に登場する、「弓と矢」で怪物と化した虹村兄弟の父親を想起させる。

本書の個人的ベストは「やつらはときどき帰ってくる」だ。この作品は少年時代にトラウマを植え付けられた不良グループたちが教師になった主人公の前に再びそのままの姿で現れ、悪夢の日々が甦るという作品だが、扱っているテーマが不良たちによる虐めという誰もが持っている嫌な思い出を扱っているところに怖さを感じる。
無数の目が体に現れたり、小さな兵隊が襲ってきたり、トラック達が突然人を襲うようになったりと、テーマとしては面白いがどこか寓話的な他の作品よりもこの作品は誰もが体験した恐怖を扱っているところが卓越している。

また最後の短編「呪われた村<ジェルサレムズ・ロット>」は長編とは設定が全く異なることに驚いた。一応長編の方も再度確認したが特にリンクはしていないようだ。ただ後者は全編手記によって構成されるという短編ゆえの意欲的な冒険がなされ、最後の一行に至るまでのサプライズに富んでおり、長編の忍び来る恐怖とはまた違った味わいがあって興味深い。

さて本書は最初に述べたようにキング初の短編集でありながら、次の『トウモロコシ畑の子供たち』と分冊して刊行された。いわば前哨戦と云ってもいいかもしれない。それでいて現在高評価されている漫画家へも影響を与えたほどの作品集。
次作もキングの若さゆえのアイデアの迸りを期待したい。


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ナイトシフト〈1〉深夜勤務 (扶桑社ミステリー)
スティーヴン・キング深夜勤務 についてのレビュー
No.729: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ミステリ度数はかなり高いのだが…

Vシリーズ5作目は再び那古野市に舞台を戻し、阿漕荘と瀬在丸紅子といったお馴染みの面々が事件に巻き込まれる。
今回の舞台は航空ショー。衆人環視の中、なんと演技中の飛行機の中でパイロットが射殺されるという、これまでにない非常に限定的な密室殺人を扱っている。

しかしそれにも増して正体不明の美術専門窃盗犯であった保呂草潤平に危機が訪れるのが面白い。
各務亜樹良というジャーナリストの強引な依頼でエンジェル・マヌーヴァという特大のエメラルドを埋め込まれた短剣を盗み出すことを依頼された保呂草が飛行機の中の密室殺人の容疑者となった各務を助けたことで自身も警察から追われる身になってしまう。

また被害者宛てに送られたエンジェル・マヌーヴァを魔剣と称する詩めいた内容のカタカナで書かれた脅迫状の存在に、加えて発生する見習パイロットがホテルの一室で射殺事件。そこにはまた同じようなカタカナで書かれた一行のメッセージが残されていた。また機内で射殺されたパイロットの口の中からヒューズが発見されるという異常な事実も発覚する。
ヘルメットを被った状態で口の中から異物が発見される。最小の密室状態で更なる不可解事の発生。それに加えて保呂草の逃亡と本格ミステリとサスペンスが融合した、森氏にしてはミステリ色の濃い作品である。

また本書ではサブストーリーとして小鳥遊練無の過去についても語られる。
事件の中心となるエアロバティックス・チームの一員である関根杏奈が彼の憧れの存在であり、練無が少林寺拳法を始めたのも彼女の影響であることが判明する。さらに女装も杏奈の影響によるものであることが解る。女装が趣味で少林寺拳法の有段者という個性の強いキャラクターだけの存在だった―個人的には漫画ハンター×ハンターのビスケをイメージとして重ね合わせていたのだが―が、今回は女装をせずに物語に登場する。

物語後半で明かされる関根朔太と西崎勇輝、そして関根杏奈出生の秘密は非常にオーソドックスな真相だろう。

関根杏奈がスカイ・ボルトは人の命を奪うほど価値があるものなのかという祖父江七夏の問いに対して頷き、その後にこのように云う。

「人の命なんて、大したものではない。命をかけるものが、あるからこそ、人は生きているんです」

この言葉はそのまま彼女の母親の生き様に繋がる。奇しくも2人は同じ覚悟を持って人生を生きていることに気付かされる。ここに2人の強い絆を感じた。

たった2人しか入ることの出来ない飛行機のコクピットという極限的に狭い密室殺人でこのようなすっきりとした解答が得られる森氏のミステリスピリットは非常に素晴らしいと思うのだが、また今回も犯人の動機が不明なまま終わるのが不完全燃焼でがっかりである。
多分森氏が「人が人を殺す理由は他人には到底わかるものではないから敢えて書かない」というスタンスを崩さない限り、私は彼の作品を高く評価することはしないだろう。
前にも書いたがそれは我々が生きる社会の中では至極当たり前であるが、せめて作り物の物語の中くらいははっきり答えが出てもいいではないかと思うからだ。割り切れない世の中を生きているからこそ答えのある世界を欲しているのだ。

今まで書いてきたように本書は森作品の中でもミステリ色が濃い作品である。
10億円は下らない特大の宝石が埋められた短剣の行方、密室殺人、脅迫状、ダイイング・メッセージとミステリど真ん中のシチュエーションと小道具が散りばめられているし、また保呂草の逃亡劇というサスペンス要素も加わっている。さらに瀬在丸紅子が最後に警察に持ってくるウィスキーのボトルに付いた指紋の件は刑事コロンボの『二枚のドガの絵』を彷彿とさせる演出だ。

しかしそんな盛り上がってしょうがないと思われる材料を実にあっさりと料理してしまうのだ。
例えば保呂草が依頼された宝剣エンジェル・マヌーヴァの在処も特に謎解き要素があるわけでもなく、最後に仄めかすに留まるし、保呂草の逃亡劇の顛末も瀬在丸紅子の推理ですっきり解消してしまう。
またカタカナで書かれた脅迫状は特に暗号でも何もないままに処理されるだけだ。

この辺のあっさりさがどうにも腑に落ちない。せっかく色々な設定を施しながら全てが中途半端な感じで終わるのが残念なのだ。

恐らくは関根朔太の数奇な運命こそがこの物語の主眼だったのかもしれない。
人が命をかけるからこそ人は生きている。このテーマを書いたところで森氏にしてみれば物語の目的は達成したのかもしれない。それ以降は物語を畳むための作業に過ぎなかったというと云い過ぎだろうか。

またシリーズも5作目となって次第に各登場人物のキャラクターに踏み込んだ内容が書かれるようになった。
小鳥遊練無の憧れの存在関根杏奈は彼が唯一惚れた女性だ。そして林と紅子が別れた件もほんの少しだが明かされる。
本書はシリーズの折り返し地点でもあるから、後半になると更にみんなの過去が明かされるだろうと期待しよう。

さて本書の隠されたテーマは全ての章題に付せられた「形」というキーワードか。森氏はエッセイでも述べているように無類の飛行機好きでその形に機能美を超えた美しさを感じているようだ。その心情は本書のプロローグで遺憾なく開陳されているが、本書では飛行機の形だけでなく、家族の形、過去の形、友人たちの形と人と人を繋いで形成されるものを指しているのではないだろうか。
保呂草が冒頭に述べる多少の演出を交えた形が本書の物語であり、最後に瀬在丸紅子の笑顔を求める形と述べている。つまりそれらの形がその人の生き様を、人生を作る。即ち人生とは形の集合体であるということだろうか。

そうであるならばまだ形は変わっていく。今回の形はこの事件が起きた時の形だ。シリーズが最終作に至る時、どんな形を描くのだろうか。その形こそがこのシリーズの最大のミステリなのかもしれない。


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魔剣天翔―Cockpit on Knife Edge (講談社文庫)
森博嗣魔剣天翔 についてのレビュー
No.728:
(7pt)

先入観を排して読むこと!

スティーヴン・キングがもう1つの筆名リチャード・バックマン名義で発表した作品。これがバックマン名義での第1作となる。

オーランドのナイトクラブで銃乱射事件が発生したようにアメリカのハイスクールでの無差別銃乱射事件は多く、一番有名なのは映画にもなった1999年に起きたコロンバイン高校の銃乱射事件だろう。本書はそれに先駆けること1977年に発表されている。
これは1966年に起きたテキサスタワー銃乱射事件を材に取ったと思われるが、その後コロンバイン高校の惨劇を想起させるということでキング本人が重版を禁止した作品でもある。過激な内容を扱いながらも無差別銃乱射事件を美化したような内容が逆に同様の事件を助長させていると作者自身が懸念したからかもしれない。

そう、美化したような内容というのはいわゆる銃社会アメリカでたびたび起きているような無差別殺人を本書が扱っていない点にある。
ライフルを持った一人の頭のおかしい生徒が同級生たちを人質にして教室に立て籠もる。そう聞くと息詰まる警察と狂人の駆け引きと、1人、また1人と生徒たちが亡くなっていくデスゲームのような荒寥感を想起させるが、本書はそんな予想を裏切って、籠城状態の教室という特殊空間の中で高校生たちの日常生活に隠された仮面を次第に剥がして本音をさらけ出して語り、もしくはぶつけ合うという実に意外な展開が広がるのだ。

正直この発想は全くなかったため、非常に驚いた。

事件を引き起こしたチャールズ・デッカーは実は取り立てて目立つような存在ではない高校生だ。しかし彼は元軍人で時々暴力的衝動に駆られる父親と規律と礼儀を重んじる、優しくも厳格な母親の許で育った。好奇心旺盛で衝動的な破壊行動を抑えられない彼は悪戯をしては父親の衝動的暴力の犠牲に遭い、それがもとで父親に対して憎悪を常に抱くようになる。また頭がよく、ディベート能力に優れ、大人たちの説教も煙に巻く弁舌を振るう。そんな彼が教室を支配することでクラスの様相が変わっていく。

とにかく色んな読み方の出来る小説だ。
読了後まず想起するのはスクールカーストの変転を扱った実に特異な小説と読めることだ。

一見銃を手にした一生徒の反逆の物語と見せかけながら、彼の行った籠城行為によって生徒たちが大人への反発心を開花させる物語でもあるのだ。
原題の“Rage”は主人公チャールズ・デッカーの反逆だけでなく、彼の同級生全ての大人に対する反逆心の芽生えも指している。

また学校一の人気者が、同級生による銃を持った立て籠もりという異常な状態ゆえに、日常的に抑えてきた感情が非日常によって解放されたことで通常ならば触れるべきでないことを告白しだす。
それは彼らの両親が行っているクラスメイトの両親に対する噂話だったり、初体験の告白だったり、そんな秘密の暴露がされる中で学校一の人気者が丸裸にされ、その地位が陥落する様は実に面白い。

一方、変わり者としてみなされていた主人公チャールズ・デッカーはいきなり銃を持ち込んで先生を2人撃ち殺し、降伏するよう説得を試みる校長先生、学校担当の精神科医、そして駆け付けた警察署長らを見事に出し抜くことで人質である生徒たちの尊敬を集めていく。

そういう意味ではストックホルム症候群を扱った小説ともいえる。この症候群の名の由来となったストックホルムで起きた銀行人質立てこもり事件が1973年。そして本書が発表されたのが1977年だから当時キングがこの起きたばかりの事件に由来した新たな症候群を知っていたかどうかは疑わしい。
もし知らなかったとすると同様の状況を扱った本書の、いやキングの先駆性は驚くべきものがある。

鬱屈した高校生の反逆の物語。スクールカーストが無残にも崩れ去る物語。犯人に同調する集団意識の変転の恐ろしさを描いた物語。

そのどれもが当て嵌まり、どれもが正解だろう。

しかし私はここからさらに次のように考える。

これは意味のないところから意味を生み出した物語なのだ、と。

まずセンセーショナルな幕開けとなるチャールズ・デッカーの銃立て籠もりの顛末はチャールズが授業中に校長先生に呼び出され、説教をされたことに腹を立て、ロッカーに隠し持っていた銃を持ち出していきなり先生2人を殺したことで始まる。
これは今まで暴力的な父親に虐げられてきた彼が物理の授業で先生を衝動的に傷つけたために精神科医によってカウンセリングを受けるようになったことについてねちねちと云われることが気に食わないために起きたことで正直ここには短気で暴力的衝動が常に潜んでいるチャールズ・デッカーの衝動以外、理由がない。

従って彼は教室に立て籠もるものの、誰一人生徒を殺そうとしない。自分を理解してほしいと云わんばかりに自分のことを語り出し、そしてクラスメイトの話を聞く。それはそれまでお互いに云えなかった打ち明け話をするだけの行為だ。

チャールズの行った籠城には何の意味もなかったのだが、クラスメイト達が思い思いに胸の内を打ち明け、それぞれが抱えていた秘密を暴露することで共通の敵を見出すという意味を持ち、それに復讐する目的を確立する。

たった300ページ足らずの、しかも舞台は高校の教室内で繰り広げられるというのになんとも中身の濃い小説ではないか。
但し現代のような銃立て籠もり事件が頻発する昨今、犯人であるチャールズ・デッカーを反逆のヒーローとして描く本書は確かに読んだ者の心に危うい発想を生み出す危険性を孕んでいることは頷ける。

現在絶版であるのは非常に惜しいと思いながらも、それを決断したキング本人の想いもまた理解できる、読んでほしいにも関わらず復刊することには躊躇を覚えるジレンマに満ちた作品である。

私は本書を古本で手に入れたが、もし興味があるならばぜひとも読んでほしい。本書を読んでどのように受け取るかはあなた次第だ。


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バックマン・ブックス〈2〉ハイスクール・パニック (扶桑社ミステリー)
No.727:
(7pt)

勝者のいないマネーゲーム

フリーマントルがジョナサン・エヴァンス名義で発表した企業小説。新進気鋭のホテル・チェーンがイギリスの格調高い由緒ある豪華ホテル・チェーンの買収に乗り出すマネーゲーム小説だ。

アメリカの新興ホテル・チェーン≪ベスト・レスト≫を取り仕切るのは若き会長ハリー・ラッド。妻を出産の事故で亡くしたことをきっかけにその哀しみを忘れるために仕事に没頭した結果、たった10年でボストンの取引高300万ドルのモーテル・チェーンを年商5億ドルの国際レジャー産業に仕立て上げた、ウォール街でも噂の男だ。

一方イギリスの≪バックランド・ハウス≫は誰もがその名を知っている5ツ星の最高峰のホテル・チェーンだが、その経営は創始者一族にて代々引き継がれてきた一族経営で、内情は経営体制のない、伝統に胡坐をかいた経営母体で権威とブランドのみで運営しているような会社だ。
その経営を担う現会長サー・イアン・バックランドは祖父と父親の遣り方を単にまねているだけの凡庸な経営者だとみなされており、その実ギャンブルと愛人との情事に耽り、会社の小切手で自身のギャンブルの借金を清算していたことを財務担当から糾弾されるほどのおぼっちゃんでもある。

飛ぶ鳥を落とす勢いの新興ホテル・チェーンの会長というイメージから想起されるのは生気に溢れ、半ば強引な方法で欲しいものを手に入れてきた傲慢不遜を滲ませた辣腕経営者というイメージを抱くが、≪べスト・レスト≫会長のハリー・ラッドはむしろその逆だ。
小柄で何事も慎重に事を運ぶ男でギャンブルはやらず女性には奥手で恋人はいるが身体の関係を特に望むわけではない。まだ若い頃に今の会社の社長であるハーバート・モリスンの1人娘と結婚したが、結婚を好ましく思わなかった義父の画策によって乗っ取りを仕掛けている≪バックランド・ハウス≫の象徴的存在ベリッジ・ホテルに修行に出されていた時に妊娠で妻と子供共々亡くしてしまうという苦い過去を持つ。それ以来その哀しみを忘れるために仕事に打ち込んできたような男で、仕事一筋の、どちらかと云えば一昔前の日本人ビジネスマンに近い人物像だと云える。

億単位、いや数十億単位の金が動くマネーゲーム。誰もが甘い汁をすすろうと金のあるところに集る。

有力な対抗馬が出た政治家は地元の票を集めるため、ホテルを誘致しようとすればそのついでに政治資金が欲しいと新興ホテル・チェーンの会長にせびる。

由緒と伝統と格式のみが唯一の拠り所となった世界最高峰のホテル・チェーンの会長は愛人との情事とギャンブルに狂い、会社の金を使う放蕩ぶり。知らぬ間に会社の財政は火の車となっていることに気付かず、銀行が経営に介入するのを阻止するため、必死になって金策に走る。

新興ホテル・チェーンの会長はその勢力を拡大しようとテキサス州の議員から持ち出された誘致の話を自分の有利な形に持ってこようと手練手管を駆使する。そしてサウジアラビアの王子に持ち込まれた名門ホテル乗っ取りを機に世界一のホテル王になる夢を抱く。

あまり詳しく語られていないが、ハリーはかつて買収先の≪バックランド・ハウス≫の旗艦的ホテルであるベリッジ・ホテルで働いていたこともあり、その経験がいつかは自分もこのような由緒あるホテルのオーナーになりたいという原初的な欲求が今回の買収には働いていたのかもしれない。

しかし今まで数々のプロジェクトを成功に導いてきたハリーに今回は様々な危難が降りかかる。


そして女性に対して朴念仁であったハリー自身が予想外なことに買収先のホテル・チェーン会長の妻と不倫関係になってしまう。

また買収工作が発覚すると取引銀行のハッファフォード銀行もカウンター・ビッドを画策する。

そんな金の亡者の集まる魑魅魍魎と化した世界にラッドは文字通り身銭を切って破産寸前にまで追い込まれながら≪バックランド・ハウス≫株の買収を進めるが、最後の6パーセントの壁を超えることができない。そしてその最後の障害は意外な形で解決を見るが、それはネタバレ感想にて述べることにしよう。

さてフリーマントル作品の醍醐味は目の覚めるようなアクションではなく、やはり知と知のぶつかり合いの高度なディベート合戦にある。企業小説である本書では役員会議や非公開の役員同士の密談などが多々挿入されているが、株主総会とラッドが仕掛ける会社登録法違反の裁判が本書の白眉であろう。

まず株主総会ではギャンブルでの損失を会社の小切手で返金し、家族の友人を愛人として会社の所有する宿泊施設で囲っていることを暴かれた≪バックランド・ハウス≫会長イアン・バックランドの解任を求められるが、圧倒的な不利の中、完璧な理論武装と弁護士を同席させるというラッド提案の奇手によって有利に進め、見事提案を退ける。
こういう議論のシーンが実にフリーマントルは上手い。ただそこには大口株主のファンド・マネージャーの支持が少なかったというスパイスも忘れない。ここに一流のジャーナリストだったフリーマントルのシビアな視点を感じる。このような茶番劇では海千山千の投資家の目はごまかせないと暗に示しているのだ。

そしてそれを証明するかのように一転して乗っ取りを仕掛けたラッドによる会社登録法違反の疑義を申し立てる起訴裁判では株主総会で雄弁に切り抜けたバックランドの答弁はメッキが剥がれるが如く、次々と論破されていく。残されたのは由緒ある貴族階級の一族の裏に隠された数々のスキャンダルの山。伝統と格式に飾られたバックランド一族の装束は容易に剝ぎ取られ、ギャンブルと女遊びにうつつを抜かす一人の裸のお坊ちゃんがいるだけとなる。

後半は株主総会、役員会議、裁判のオンパレードだ。企業小説であり、しかもやり手の若手会長が自社と買収先の株価の大幅下落というリスクを負いながらも血眼になって買収を成立させようと東奔西走する作品であるから仕方がないかもしれないが、ディベート合戦がフリーマントル作品の妙味だと云ってもこの繰り返しはいささか辟易した感じがある。

本書のサイド・ストーリーとして仕事一辺倒だったラッドが買収先のホテルの会長の妻マーガレットと道ならぬ恋に落ちる物語が展開する。それは近い将来敵対的存在となる自分にとって決して取ってはならぬ選択肢だったが、若き頃に亡くした妻の面影を見たラッドにとってマーガレットは仕事だけに目をくれていた彼の目を向けさせる運命の女性だった。

そして彼女との逢瀬はやがて彼女との安らかな生活を望むようになる。そんな背景を織り交ぜてフリーマントルがラッドに差し出した究極の選択は彼女を取るか最後の6パーセントの株を取るかだった。

しかし己の上昇志向に任せて踏み切った今回の乗っ取り工作は実に不毛なものだった。彼は得たものもあるが、心の充足はなかったのではないか。
勝者のいないマネー・ゲーム。やはり今回もフリーマントルは決して甘い夢を見させてはくれなかった。


▼以下、ネタバレ感想
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名門ホテル乗っ取り工作 (新潮文庫)
No.726: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

負の遺産に向き合う者もいる

本書でも書かれているが、飲料会社のサントリーが青いバラを開発して話題になったが本書では現在存在しない新種の黄色いアサガオを巡るミステリだ。
そしてタイトルの夢幻花もこの黄色いアサガオの異名から採られている。追い求めると身を滅ぼすという意味でそう呼ばれているらしい。

しかし黄色いアサガオはかつては存在したようで、本書にも取り上げられているように江戸時代にはアサガオの品種改良が盛んで黄色いアサガオの押し花が現存している。
ではなぜ現代では無くなったのか。それもまた興趣をそそる。本書ではその謎についても書かれているが、それについてはネタバレ感想にて。

そんな花にまつわる謎を孕んだミステリは一見関係のなさそうな2つのプロローグから始まる。

まずは東京オリンピックを控えた時代で、1人の生まれたばかりの娘を持つある夫妻に訪れた突然の災禍が語られる。

そして次に語られるのは思春期を迎えた中学生蒲生蒼太が、家族恒例の行事で朝顔市に行ったときに出遭った伊庭孝美という同い年の中学生との淡い恋と失恋のエピソード。
その2つを経てメインの事件である新種の花を巡った殺人事件が語られる。

まず一番胸に響いたのは冒頭のエピソードの中学生蒲生蒼太のエピソードだ。
毎年恒例の家族行事となっている朝顔市で出逢った同い年の中学生伊庭孝美に一目惚れし、メアドの交換を行って頻繁に出逢う様子は私も経験したことで当時を思い出して胸を温かくしたが、父親にメールを見られ、交際を禁じられた直後に彼女から突然の別れを切り出される件はさらに胸に響いた。
これも自分に同様の経験があるからだ。あの時の苦くて苦しい思いが甦り、とても他人事とは思えなかった。

各登場人物の設定も興味深い。とくに本書では2つの家族がメインとなって物語に関わる。

主人公の秋山梨乃はかつてオリンピック代表として将来を有望視されていた水泳選手だったが、原因不明の眩暈に襲われたことで水泳を辞め、大学と高円寺のアパートを往復する無為な日々を送っている。

また冒頭従兄の鳥居尚人は成績優秀、スポーツ万能、多種多芸な、何をやっても一流という理想の人物であり、大学を中退してプロのバンドになる道を選び、その夢も実現が間近に迫っていながら突然自殺してしまう。

さらに彼女たちの祖父秋山周治はかつて食品会社の商品開発の研究部に携わっていたが、そこで新種の花の開発を行っていた。そして退職して6年後、黄色いアサガオの開花に成功した矢先、何者かによって殺害されその鉢を奪われてしまう。

もう1人の主人公蒲生蒼太の家庭も特異な状況な家族構成である。

要介と蒼太という2人の年の離れた兄弟がおり、父親の真嗣は元警察官。そして妻志摩子という典型的な4人家族だが、実は要介は前妻との間に出来た息子であり、蒼太は後妻である志摩子との間の息子であった。従ってどこか蒼太は父親と要介に距離を感じており、それがもとで東京の家を出て大阪の大学に通っている。

更に捜査を担当する所轄署の早瀬亮介も被害者秋山周治とは縁があった。息子の裕太が巻き込まれた万引き事件で冤罪を晴らしてくれたのだ。
しかし彼は自身の浮気がもとで現在は妻と息子とは別居中という身。しかし裕太から自分の恩人を殺した犯人を絶対に捕まえてほしいと頼まれ、それが彼の行動原理となっている。つまり妻に愛想を尽かされたダメ親父の奮起の物語の側面も持っているのだ。

メインの物語はこの早瀬亮介側の捜査と秋山梨乃と蒲生蒼太の学生コンビの捜査が並行して語られるわけだが、とにかく秋山梨乃と蒲生蒼太の人捜しの顛末が非常に面白かった。今どきの学生らしくメールやグーグルなどのITツールを駆使し、友人のネットワークを使って秋山周治の死に関係する黄色いアサガオの謎と蒼太の初恋の女性伊庭孝美の行方を追っていく。特に秋山梨乃の大胆さには蒲生蒼太同様に驚かされた。

高校時代に友人の伝手で伊庭孝美の所属する大学と研究室を突き止めた蒼太がその後の行動に悩んでいたところ、いきなり研究室に行ってドアを開けて孝美のことを尋ねる行動力。
そしてアドリブでテレビ番組の取材だと云いのける不敵さ。
梨乃の突飛な考えと行動はこの物語にある種ユーモアをもたらしている。そしてこの若い2人の探索行が読んでいて実に愉しい。もし自分が彼らと同世代だったらこのように行動できただろうかとそのヴァイタリティに感心してしまった。

そんな2人の探索行も含めて思うのは相変わらず東野氏は物語運びが上手いということだ。次から次へと意外な事実が判明してはそれがまた新たな謎を生み、ページを繰る手が止まらなくなる。
以前私はある東野作品を謎のミルフィーユ状態だと評したが、本書もまさにそうだ。従って上の概要もどこで区切ったらいいのか解らないほど魅力的な謎がどんどん出てきて、ついつい長くなってしまった。

後半になってもその勢いは止まらず先が気になって仕方がない。
祖父の死をきっかけに彼の遺した黄色いアサガオの写真の謎を追うと、謎めいた男蒲生要介と出逢い、捜査を辞めるように忠告され、それがきっかけで蒲生蒼太と出逢い、ひょんなことから彼の初恋の相手を捜すようになる。そして足取りを辿っていくとなんと蒼太自身の母親の出生に関わる連続殺人事件に行き当たるという、まさに謎の迷宮に迷い込んだかのような複雑な様相を呈してくる。

そして秋山梨乃と蒲生蒼太側が追いかける謎も殺人事件が解かれると共に蒲生要介によって明かされる。

あまりにスケールが大きすぎて読後の今でも消化できないでいる。

しかし改めて思うが、実に複雑かつ壮大な物語である。一見無関係な要素を無理なく絡ませて読者を予想外の領域に連れていく。実に見事な作品だ。

このような複雑な謎の設計図を構築する東野氏の手腕はいささかも衰えを感じない。識者が作成したリストによれば本書は80作目とのこと。これだけの作品を重ねてもなおこんなにも謎に満ちた作品を、抜群のリーダビリティを持って著すのだから驚嘆せざるを得ない。
特にそれまで東野作品を読んできた人たちにとって過去作のテーマが色々本書に散りばめられていることに気付くだろう。原子力の件では『天空の蜂』が、被害者秋山周治の実直な性格は『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の浪矢雄治の面影を、秋山梨乃と蒲生蒼太のコンビやホテルの描写では『マスカレード・ホテル』の舞台と山岸尚美と新田浩介の2人の影を感じるなど、それまでの蓄積が本書でも活かされている。

本書は特に年末に開催される各ランキングでは特段話題に上らなかったが、それが不思議でならないほどミステリの面白さが詰まった作品だ。
実際、『流星の絆』や『マスカレード・ホテル』、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』など『このミス』ランク外の東野作品の方が面白く感じる。恐らくはあまりに映像的なストーリーゆえに投票者がミーハーだと思われるのを避けて敢えて選ばなかった結果かもしれない。
本書もまたドラマにするのに最適な題材であるが、この面白さはもっと正当に評価されていいだろう。

印象に残るのは蒲生蒼太と伊庭孝美の恋の結末だ。
大人になって謎が全て解かれて、ようやく彼女はそれまでの経緯を話す。中学の時に一目惚れし、突然消えた伊庭孝美。その後も現れては消え、消えてはまた意外な場所で姿を見かける彼女は蒲生蒼太にとっての夢幻花だった。だからこそ2人はお互いの出逢いをいい思い出にしたのだろう。

2014年10月10日、サントリーが青いバラに続いて黄色いアサガオの再現に成功するというプレスリリースがなされた。はてさてこの夢幻花に対して警察はどのように動くのか。
本書を読んだ後では手放しで喜べなくなる。そんな錯覚を覚えてしまうほど面白いミステリだった。


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夢幻花(むげんばな)
東野圭吾夢幻花 についてのレビュー
No.725: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

御手洗の未発表事件を知りたかったら読むべし!

御手洗潔の非ミステリ系短編集。

まず「御手洗潔、その時代の幻」はアメリカに留学中の御手洗が読者からの質問に答える作品。そこで挙げられる質問の数々はそれまでの作品に登場したエピソードに因んだものが多く、まさにファンサービスの1編。
ここで父親について質問が成され、御手洗の父親に関するあるエピソードが語られる。普段飲んだくれの父―これは予想外!―が駅のホームでの若者同士のケンカによって当時5歳だった御手洗潔がホームに転げてしまうというちょっとした事故が遭い、それに激昂した父親の姿が意外だったという話だが、それが次の短編「天使の名前」に繋がっていく。

その「天使の名前」の主人公は御手洗潔の父直俊。
御手洗潔の父親直俊が「御手洗潔、その時代の幻」で飲んだくれ親父だったという衝撃の事実の真相がほんの僅かだが明らかになる本書で最も長い1編。
第二次世界大戦前、外務省に勤める御手洗直俊がどうにか日本とアメリカとの戦争を食い止めようと奔走する姿が描かれるが、周知の事実のように日本の真珠湾攻撃を発端としてアメリカと開戦してしまう。そのゼロ時間までの御手洗直俊の奮闘と愚直なまでに日本国の勝利を信じる軍部との確執。そしてなぜか忠告したとおりに日本の敗色が濃厚になっていくのを不吉なことを云うからだと一手に責任を負わされ閑職に追いやられる直俊の姿は従来島田氏が作品で語っていた日本人の面子を重んじる権威主義の犠牲者である。
やがて直俊は友人を訪ねて神戸の三宮に渡るが、空襲により買い出しに行っている最中に友人一家全てが犠牲になり、教会の伝手でかつて東京で知り合った椎名悦子を訪ね、広島に行くがそこで御手洗は原爆投下直後の広島の姿を見て絶望する。
戦時の日本政府の愚かさと志半ばで挫折した一人の男と戦争の惨たらしい現実を幻想的に仕上げた1編。

次の「石岡先生の執筆メモから」もファンサービスの1編。犬坊里美によるとある雑誌に依頼されたエッセイという体裁だが、書かれている内容は御手洗潔の未発表事件の紹介という、これまたファン垂涎の内容となっている。
本作は「INPOCKET」誌の1999年10月号にて発表された、実に17年前の作品であり、その後実際に発表された作品も挙げられているが、未発表の作品もまぎれており、実に興味深い。
特に『ハリウッド・サーティフィケイト』の最後の一行で言及されている次の事件「エンジェル・フライト」事件に興味を持った。あの陰惨な事件が単なる序章に過ぎないと云わしめたこの事件はどのような物なのか。御手洗が死をも覚悟した事件とはどれほどの物なのかと非常に気になる作品だ。
あと「A Mad Tea Party Under The Aurora」は『魔神の遊戯』だと思われる。その他「ケルトの妖精」事件、「マンモス館の謎」、「伊根の龍神」事件、「ライオン大通り」事件は未発表作品に属するだろう。
全ての事件について今後書かれるかは解らないがまだまだ御手洗物のネタは尽きていないと解っただけでも大収穫の1編だ。
しかし犬坊里美の文章はどうにかならないかね。

続く「石岡氏への手紙」もファンサービスの1編。
御手洗が国外へ飛び出した後、馬車道で一人暮らしを続ける石岡の許に届いた手紙の主は御手洗かと思いきやハリウッド女優として活躍している松崎レオナからの物だった。彼女の近況と御手洗への想い、そして映画の都ハリウッドの現状と映画界の内幕が語られる。
しかし彼女が吐露する内容は一部作者島田氏本人の心情が混ざっているのではないだろうか。本作が発表された2000年は恐らく島田氏がLAに滞在していた時期ではないだろうか。従って松崎レオナによる手紙の体裁を借りて島田氏がLAで感じる異邦人ゆえの孤独感や日本でのバッシングを遠き異国の地で知っても何もできない無力感を覚えたことがこの作品で松崎レオナの言葉を借りて思わず出てしまったのではないだろうか。
「手紙を書くことで自分の気持ちが見えた。他人に誹謗中傷されてもびくともしない心のよりどころ、強く太い柱がほしい」
このあたりの件はまさに作者の本心の表れだと思うのだが。

次の「石岡先生、ロング・ロング・インタビュー」はなんと作者島田本人が石岡和巳に直接逢い、読者からの質問に答えるというメタフィクショナルな1編だ。
インタビューの場所が山下公園のコンビニの前というのが可笑しい。しかも独身の石岡の食事はコンビニ弁当で最初に質問はコンビニに入って好きな弁当の紹介から始まる。その後普段の暇つぶし方法や好きな絵、音楽といった個人的な話から、過去の作品に纏わる話が島田を通じて語られる。
『異邦の騎士』の事件で失われた記憶はまだ戻っていないこと、「数字錠」で登場した宮田君が無事刑務所から出所したこと、「糸ノコとジグザグ」のある場面について、そして外国へ発った御手洗に対する気持ちなどシリーズファンにとっても関心の高い内容が語られる。
しかし全編通じて感じるのは石岡氏が人生を楽しんで生きているわけではないということだ。コミュニケーション障害を持った大人で常に自分の存在を卑下している。何度も島田氏が励ますも効果がないほど人生に諦観を抱いている。女性にとっては母性本能がくすぐられるタイプなのかもしれないが、同性としてはなんとも情けない男だなぁと感じてしまう。
とはいえ、御手洗去った後の彼の境遇が不憫でならない。そんな風に感じさせる1編でもあった。

続く「シアルヴィ」は物語の中に盛り込まれるぐらいのエピソードともいうべき1編。スウェーデンのウプサラ大学の教授となった御手洗が医学系教授の集まりでスウェーデンのメーラレン湖の湖畔に建てられたシアルヴィ館に飾られた異形の十字架に纏わる話を語る。
北欧神話をモチーフにしたシアルヴィ館の意匠に込められたエピソードの数々は設計者の想いを解きほぐすような面白さがある。解る人にはすぐに解る謎解きでちょっとした箸休めのような1編と云えるだろう。

そして最後の「ミタライ・カフェ」はスウェーデンへと発った御手洗のパートナーとなったハインリッヒによる御手洗のウプサラ大学での日々が紹介されるが、いつものようにとも云うべきか、話は御手洗が研究する大脳生理学の研究テーマへ脱線し、その専門的な話に少々辟易した。
また最後に本作の前の短編「シアルヴィ」で登場したシアルヴィ館でのお茶会で御手洗が週末の金曜日に豊富な殺人事件の探偵談を語ることから本作のタイトルとなっている「ミタライ・カフェ」と呼ばれるようになったことが明かされる。つまりこの二作は同じ場所を違う名前で指し示していることになる。
しかしハインリッヒは御手洗のスウェーデン時代の活躍の語り部、つまりスウェーデンの石岡和巳であり、この短編では御手洗は彼の地でも色々と事件を解決しているようなのだが、あまり発表されているようには感じていないのだが。後々これらも発表されるのか、それとも島田氏の頭の中に留まるだけなのかもしれないが。


本書は冒頭に書いたように同文庫で刊行された『御手洗潔と進々堂珈琲』同様、御手洗潔が登場する非ミステリの短編集。シリーズの中心人物御手洗潔と石岡和巳に直接読者からの質問をぶつける、もしくは近況を語らせるというメタフィクショナルな内容がほとんどで、唯一の例外が御手洗の父親直俊が外務省に勤めていた第二次大戦の頃の話が語られる「天使の名前」だ。

この作品も非ミステリではあるが、元々物語作家としても巧みな筆を振るっていた作者のこと、実に読ませる物語となっている。
日本の敗戦を予想し、首脳陣へ戦線の拡大を留まらせようと粉骨砕身の努力を傾注したにもかかわらず、無視され、謂れなき誹りを受けて外務省を後にせざるを得なかった直俊の不運の道のりが描かれ、胸を打つ。特に島田氏が常々自作で披露していた日本の縦社会に根付く恫喝を伴う権威主義への嫌悪感がこの作品でも横溢しており、その犠牲者として直俊が設定されているのはなんとも哀しい限り。
しかし戦中は報われなかった彼の最大の功績は御手洗潔をこの世に生み出したことであると声を大にして云ってあげたい。それが彼にとっての救いとなることだろう。

それ以外のファンサービスに徹した作品では読者からの質問に回答したり、未発表御手洗作品について触れられていたり、登場人物の近況が報告されたり、御手洗がウプサラ大学教授時代の彼の博識ぶりを彷彿とさせるエピソードがあったりと御手洗と石岡が実在するかのような語り口である。特に作者島田氏自身が石岡に読者への質問をぶつける作品では錯覚を覚えるくらいだった。
しかし石岡君はどうしたものかねぇ。

本書は2016年6月に新潮社にて文庫オリジナルとして編集された作品であるが、収録作品は1999年から2002年に各種媒体で発表されたもので14~7年前と比較的古い話ばかりである。従って収められている話では2016年の今日ではすでに実現されている物もあり、興味深く読むことが出来た。

一例を挙げれば「御手洗潔、その時代の幻」と「ミタライ・カフェ」で語られるある特殊な細胞の話は現在のiPS細胞のことであろう。
御手洗潔シリーズ未発表の事件を列記した短編では現時点でも発表されていない作品もある代わりに「パロディ・サイト」事件や「大根奇聞」、「UFO大通り」などその後きちんと発表された作品名を挙がっていることから99年の段階で構想があったことにも感嘆してしまった。

今では日本を代表する名探偵シリーズにまで成長した御手洗潔が逆にそれほどまで支持されるようになったのは本書のように事件のみに挑む彼の姿以外の素顔を折に触れあらゆる媒体で作者が語ってきたことが要因であろう。一作家の一シリーズ探偵として登場した御手洗潔が今日これほどまでに人気があるのはこのような地道なファンサービスの賜物であろう。一瞬で事件の構造を看破する天才型の探偵という浮世離れした御手洗潔に血肉を与えることに見事に成功している。

しかし作者がすでに還暦を超えており、即ち御手洗もまた同じような世代であることを考えるとこれからのシリーズは御手洗の過去の活躍を紹介するような形になるのではないだろうか。そしてそれらの事件がまだまだ眠っていることが解っただけで本書は読む価値のある1冊なのかもしれない。


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御手洗潔の追憶
島田荘司御手洗潔の追憶 についてのレビュー
No.724: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

科学者が必ず直面する倫理との戦い

探偵ガリレオシリーズ第8作目である本書は一度「猛射つ(う)」という題名で短編として発表されたものに加筆して文庫化の際に長編として発表された。
長編での探偵ガリレオ作品は湯川の葛藤を中心に描かれた物語となっているが、本書もまたその例にもれず、母校の後輩が事件に絡んでいる。

本書の中心人物となる古芝伸吾はかつて高校時代に自分の所属するサークル物理研究会がサークル員が自分1人になったことで存続の危機に立たされて際、新入生の入部勧誘のためのパフォーマンスを行うために先輩たちに助けを求めたところ、学生時代に同じサークルに所属していた湯川が一肌脱いで古芝の手伝いをしたことが縁で、湯川を尊敬し、努力の末に湯川が所属する帝都大学に入学した好青年だ。

さらに彼は両親を亡くし、9歳年上の姉と一緒に暮らしている苦労人でもある。

そんな背景の中で、たった一人の肉親である姉が突然亡くなったことで念願の大学を辞め、町工場に就職するという、既にここで読者の心に遣る瀬無さを誘う設定が織り込まれている。

更に湯川は古芝の入学を喜んでおり、時折彼と連絡を取っていた間柄でもあった。そんな古芝がある事件をきっかけに突然失踪し、東京各所で起きる怪現象にかつて湯川が古芝に授けた部員勧誘のパフォーマンスに使われた技術が関わっていることが判明する。

一人の真面目な青年が身寄りの死によってこれから開けるであろう明るい未来への扉を閉ざされてしまう。本書は初めから人生の皮肉さによって読者の心を鷲掴みにする。

しかしそれが表向きの理由だったことが次第に解ってくる。例えば冒頭に挙げられる偽名を使って東京のシティホテルに宿泊していた女性が翌日に大量の血を流して死体となって発見される。そこに古芝伸吾の許に掛かってくる姉の死を知らせる電話。そして謎の失踪。

作中、科学技術は扱う人の心次第で禁断の魔術にもなると湯川が語るシーンがある。機械の技術者で世界を飛び回っていた亡き父を尊敬し、そして高校時代に出逢った先輩湯川に憧れ、機械工学の道に進んだ彼、古芝伸吾はそのまっすぐな性格ゆえに自分には復讐する武器と知識があることに気付き、復讐の道へ進む。
純粋であるがゆえに人生に折り合いを付けられない。そこに古芝伸吾の哀しさがある。

そして湯川も含め科学者とはその道を究めんとする純粋さが必要なのではないだろうか。古芝伸吾は高校の時に湯川から励まされた言葉

「諦めるな。一度諦めたら、諦め癖がつく。解ける問題まで解けなくなるぞ」

を胸に抱いてきたからこそ難関校である帝都大学に合格した自負がある。つまり求道心が強いからこそそのベクトルが殺人という誤った方向であっても軌道修正が出来なくなるのではないだろうか。
悪は悪であるから裁かれなければならない。
もちろんそうだろう。しかし罪に問われない人物に事情はどうあれ復讐するのはおかしいのだ。求道心は道徳―それが受け入れがたいものであってもーをも凌駕するのかもしれない。

東野氏は『手紙』、『さまよう刃』、『容疑者xの献身』など一貫してこの法律では割り切れない部分を描き、犯罪に走らざるを得ない社会の犠牲者の辛い立場を描いてきた。
古芝伸吾もまたその系譜に連なる犠牲者の1人と云えるだろう。

そしてその古芝が師である湯川から授かった技術がレールガン。これは本当に実在するらしい。米軍で開発も進んでいるという。
私がこの武器の存在を知ったのはゲーム『メタルギア』でかなりずいぶん前だった。確かあのゲームでは連発していたが、実際は一日に1発しか打てない代物で、撃った後も研磨などの整備に何日もかかるらしく、軍事用には向いていないのが湯川の弁だ。しかし数キロ離れたところから標的を捉えられることから実用化すれば恐ろしい兵器になるに違いない。
そんな武器を高校を卒業したての青年が姉を見殺しにした相手の復讐心で完成させる。それは純粋さゆえの過ちだった。

しかし今回最も辛かったのは湯川自身だったのかもしれない。自分が目を掛け、将来を期待した年の離れた後輩が突然の不幸から道を踏み外し、科学を悪用する立場になってしまった。しかも自分が教えた技術で以って。

「科学は世界を制す」が口癖だった古芝の父親はそれが我が子たちに向けたメッセージでありながらも実は科学は使う者によって善にもなり悪にもなる、世界を制するのも豊かな社会にして制する、もしくは軍事的に使われて制するという二律背反性を備えた禁断の魔術師なのだと自身に刻み込んだ戒めの言葉だったことが最後に解る。

300ページ足らずの長編で、元は短編に加筆した作品だったがそこに内包されたメッセージ、とりわけ科学者とはどう生きるべきかという根源的な命題を刻み込んだ作品で中身は濃かった。
そして今までは科学を悪用した相手に博識でトリックを看破してきた湯川だったが、今回初めて自身で授けた技術の悪用と愛すべき後輩に対峙した湯川の心境はいかばかりだったのか。
この事件を経て湯川はさらに人間的な魅力を備えて我々の許に還ってくるに違いない。


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禁断の魔術 (文春文庫)
東野圭吾禁断の魔術 についてのレビュー
No.723:
(7pt)

警察が捜査情報をダダ洩れするのはあまりに現実離れすぎるのだが

Vシリーズ4作目のテーマは夢。かつて結婚を約束した相手を交通事故でその女性の飼っていた愛犬と共に喪った放送会社のプロデューサ柳川の密室殺人事件がメインの謎である。

しかもその柳川は悪夢の中に出てくる女性に殺されたという実に不可解なシチュエーションである。その女性はかつて結婚を約束した女性で交通事故でその女性の愛犬と共に亡くしてしまう。しかしその女性が毎晩悪夢に登場しては自分を殺害し、さらには夢で登場する劇場に誘われ、実際にそこに行ってみると当の本人が踊っていることに驚愕するという非現実的な話が繰り広げられる。

また舞台がテレビ局というのも非日常的であり、一行が那古野を離れて東京で事件に携わるのも新味があり、なかなか面白い。彼らが宿泊するビジネスホテルの描写など何気ないところに妙にリアルな雰囲気があって、共感してしまう。

また彼らが訪れるN放送は駅が渋谷であることからNHKがモデルであるのは間違いなく、そこもかつて自分が訪れたことがあるだけに土地鑑や建物のイメージが出来たことでいつもより物語に没入できた。

しかし物語の展開にはかなり違和感を覚えた。特に事件に乗り出す警視庁の人間が紅子に色々と事件の内容を明かすことが実におかしい。紅子が人の警戒心を解く笑顔を武器に色々と話を聞くのだが、捜査上の秘密を素人にペラペラと話さないことは今では一般読者でも知っていることだろう。そこを作者は「紅子に対面すると男性は妙に素直になる傾向にある」と全く説得力のない答弁で逃げている。

更に事件の関係者であり最有力の容疑者である立花亜裕美が小鳥遊練無と共に車で建物から出るのを知っていながら見過ごしていることも実におかしい。普通ならば血眼になって2人の行方を捜すのではないか。そういう緊迫感が警察の口調からは感じられない。
この傾向はずっと続き、さらにエスカレートして紅子が望むままに事件関係者たちに逢わせたりと非現実的な昔の推理小説を読んでいるかのような錯覚を受ける。

それはそのまま踏襲され、警察一同集めての推理シーンまでもが演出されるのだが、その謎解きシーンはいつになく派手だ。なんとクイズ番組収録中に真相に辿り着いた紅子がそのまま犯人まで明かすのだ。そこから出演者、司会者、テレビスタッフ、そして刑事の前で紅子の推理が開陳される。

かつて川柳に「名探偵 みなを集めて さてと云い」というほど事件関係者を集めて推理を披露するのは本格ミステリでは定番なのだが、本書では実に聴衆の多い謎解きシーンとなった。番組出演者が32名だから、少なくとも50人近くはいることになる。またこのような場で推理を臆面もなく披露する紅子もらしいと云えば実にらしい。

しかし今回の物語は実にシンプルというか森氏にしては真っ当なミステリであった。小鳥遊練無が容疑者と失踪し、そしてそのために犯人に狙われるというツイストはあったものの、メインの殺人事件が本編の謎の中心であった構成は実に珍しい。なぜならば森ミステリではメインの事件よりもサブとなる謎の方に大きなサプライズがあるからだ。
例えば本書では保呂草の他に稲沢真澄という探偵が出てくる。このダブル探偵という設定ゆえに何かサプライズがあるのではないかと思っていたが、実に普通であった。いや実際は叙述トリックを色々仕掛けていたのだが、これに関しては後に述べよう。

そうそう、副産物として今回初めて瀬在丸紅子のイニシャルが明かされる。このシリーズがなぜVシリーズなのかが初めて明らかにされるのだ。

さて前述のとおり、本書には色々叙述トリックが仕掛けられていると書いたが、それは実に単純なものでいわゆる男女の錯覚である。小鳥遊練無という実に魅力的な女装趣味の男子が登場することでジェンダーの逆転がこのシリーズでは起きているのだが、それ以外にもこの性別の違いを利用した叙述トリックが本書では多い。

さて本書のタイトルは『封印再度 Who Inside』に次いで日本語と英語の読み方が同一のタイトルである。『夢・出逢い・魔性 You May Die In My Show』本書も同じく夢とショーで死ぬという趣向が一致しており、実に上手く感じるのだが、素直に『夢で逢いましょう』とした方が自然で作為を感じないと思うのだが。
しかしそれではいかにも普通であり、森氏独特の語感を味わえないため、やはり今の題名にした方がよかったのかもしれないのか。しかし『封印再度』とは異なり、あまりダブルミーニングの妙は本書では感じられなかった。確かに題名の通り夢とショーで殺されるという趣向は含まれているのだが、あまりインパクトがなかったように感じた。

しかし今回は阿漕荘メンバー東京出張編ということもあって紅子と犬猿の仲である祖父江七夏と元婚約者で刑事の林が登場しなかったこともあり、男女の痴情のもつれというドロドロした一面がなかったのがよかった。それ故に瀬在丸紅子、小鳥遊練無、香具山紫子、保呂草潤平たちの活躍に余計な騒音がなくて愉しめた。特に小鳥遊練無は大活躍である。ちなみに私の中の練無像は椿姫彩菜である。そして最後に美味しいところは瀬在丸紅子がかっさらっていく。
可哀想なのは香具山紫子だ。今回も三枚目に甘んじている。彼女が一番凡人であるがゆえにどうにか報われてほしいと思うのだが。

やはり西之園萌絵のいないシリーズの方が面白い。キャラもさらに魅力を増し、次を読むのが実に愉しみだ。


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夢・出逢い・魔性―You May Die in My Show (講談社文庫)
森博嗣夢・出逢い・魔性 についてのレビュー
No.722:
(7pt)

究極的に道を究めた者たちはやがて天空の極致に辿り着く

デビュー作にして直木賞候補となった藤原伊織以来の鮮烈なデビューを飾った宮内悠介氏。惜しくも直木賞は逃したものの日本SF大賞を受賞した。

それはどんな作品かと問われれば、盤上遊戯、卓上遊戯、つまりは古来より伝わり、今なお嗜まれている囲碁、チェッカー、麻雀、古代チェス、将棋といったゲームをテーマにした短編集。

まずは第1回創元短編賞で山田正紀賞を受賞した表題作はある女流棋士の数奇な物語だ。
なんという物語だろうか。卒業旅行先の中国で狡猾な罠に嵌って両手両足を喪い、そのまま賭碁師の人買いに買われ、今までしたことのない囲碁を覚え、瞬く間にその才能を開花させ、棋界の上位への階段を昇っていく灰原由宇という女性棋士の奇妙な半生。
物語にはサプライズがあるわけでもなく、この女性が棋士になるまでと短い棋士人生、そして行方不明となったその後がエピソードの積み重ねで語られていく。そのエピソード1つ1つが濃厚でしかも深い。
四肢を喪うことで碁盤と同化し、いつしか囲碁の石が自分の手足となった灰原由宇が極限まで囲碁の世界を上り詰めていくその精神世界が語られる。囲碁という盤上にある天空の世界を彼女は氷壁を昇るかのように上を目指し、やがて言語がその精神世界を表現するのには足らなくなり、彼女の頭の中で飽和し爆発してしまい、とうとう彼女は棋界を去る。
この至高の域に到達しようとする氷壁登攀は実に孤独で冷たく、寂しい。しかし彼女は登るのを止めようとしなかった。
読後、あまりに濃密な2人の精神世界にため息が出て茫然としてしまった。
これを応募作で書くのか。いやはや言葉にならない。

続く「人間の王」ではチェッカーなるチェスの前身とも云うべき盤上遊戯で40年間無敗を誇ったチャンピオン、マリオン・ティンズリーと彼を打ち負かすことが出来たプログラム、シヌークを生み出したシェーファーというチェッカーに命を捧げた孤高の2人の物語。
物語は作者と思しき人物が40年間も無敗を誇ったティンズリーと彼のライバルとなったシヌークを生み出し、2007年にチェッカーの完全解を出したシェーファーという2人の人物の肖像とエピソードを探るノンフィクションの体裁を成している。
このマリオン・ティンズリーとシェーファーという2人は実在し、ここで語られる彼らの対局もまた実際の物である。従って本作はほとんどノンフィクションである。
ただ語り手がインタビューする相手が最後になって明かされる。
チェッカーという今は忘れられつつあるゲームを極限まで突き詰め、そして完全解を出すに至った2人の人間が到達している精神世界の深淵さを語る言葉が見つからない。
シェーファーは棋界が人を超えることを目指し、ティンズリーは神というプログラムを背負って対決に臨む。純粋に勝負をすることを求め、強者と出逢うことで生きる意味を見出し、勝つことで神の座に近づいていくことを実感する。誰もが到達しえない境地に辿り着こうとする天才、いや天才という二文字を超えた至高の存在。
彼らは何を見たのか。それを見ることは我々凡人には適わない世界なのだろう。

次の「清められた卓」も実に奇妙な読後感を残す。
恐らく作者は無類の麻雀好きであろう。この作品における作者の筆致の躍動感は自身の麻雀愛が溢れ出ている証左に過ぎないからだ。
常識破りの打ち方でプロ雀士のみならず天才麻雀少年や歴戦のアマチュア雀士を翻弄する「シャーマン」と呼ばれる真田優澄のキャラクターに尽きる。この4人が対峙する対局を手に汗握る攻防戦として再現する作者の筆致の熱にまた思わず読む方も力が入ってしまった。そして明かされる真田優澄の強さの秘密は実に途方もないものであった。
いやはや誰がこんな真相を見破れるだろうか。いやさらに云えば、よくもこれほど人智を超えた真相を作者は思いついたものである。
全てが想像を凌駕しており、ただひたすらに脱帽だ。

古代インドで生まれたチャトランガは将棋やチェスの起源とされているらしい。「象を飛ばした少年」はそのチャトランガがある人物によって生み出されようとした物語。
その人物とは仏教の祖であるブッダことゴータマ・シッダールタの息子、日蝕や月蝕を意味する<蝕(ラーフ)>と名付けられたゴータマ・ラーフラ。聡明でありながら数学や盤上に思索を重ねるその男は王者の相がないと云われていた。そしてその証拠に彼はインド山麓の小国カピラバストゥの最後の王となる。
元々王になるのではなく、学問に親しむラーフラは状況の犠牲者だ。彼は10歳の時に初めて出席した軍議である遊戯を着想する。その遊戯に思いを馳せるが王であるがゆえにそれを誰かと嗜むことが出来なかった。更には象という駒を2つ飛ばすことが誰しも理解されなかった。これは今なお親しまれ、広く遊ばれている将棋やチェスの原型を生み出した悲運の天才の、王の哀しい物語だ。
史実にこの事実はない。これは恐らく作者の創作であろう。しかしブッダの影にこのような悲運の王がいたことは史実であろう。偉大な父が出家したために王にならざるを得なかった男ゴータマ・ラーフラという男とチャトランガなる遊戯を組み合わせ織り成された物語は途轍もなく切なかった。

次の「千年の虚空」は王道の将棋がテーマだ。予想通り、ある天才棋士の物語なのだが、その生い立ちが実に破天荒なのだ。
未来の、まだ見ぬ天才将棋棋士の物語だが実に想像力に富んでいる。まず思わず眉を潜めてしまう葦原兄弟と織部綾のとんでもない幼少時代の日々が鮮烈な印象を残す。
他とは違う性格ゆえに本能のまま動く3人。やがて自我に目覚めた兄一郎のみがその依存状態から抜けるが、実は彼こそが綾に向いてほしいと願っていた。そして弟恭二は綾が持ってきた麻薬によって覚醒し、類稀なる将棋の才能を開花させるとともに統合失調症を患い、生涯綾の世話なしでは生きられなくなる。
そんな精神状態の中、彼は誰もが到達していない将棋の世界の彼岸を、神を再発明する領域に達しようとする。人は極限に到達するためには人間らしさを、異常性を持たなければならない。常人にとっては悲しいほどの悲劇に見えても彼ら彼女らにとっては望むがままに生きた末の結末だったから、幸せだったのだろう。
とにもかくにも凄絶な物語である。

最後の「原爆の局」では再び灰原由宇と相田が登場する。
壮絶なる棋士であった灰原由宇が再登場する。海外へ渡った2人を追ってライターの私はプロ棋士の井上と渡米する。


まさに鮮烈のデビューであろう。そして創元SF大賞は第1回の短編賞受賞者にこの素晴らしい才能を見出したことで権威が備わったことだろう。そう思わされるほど、この宮内悠介なる若き先鋭のデビュー短編はレベルが高い。

とにかく表題作に驚かされた。四肢を喪った女性棋士灰原由宇の半生が描かれるこの物語はミステリでもなく、また宇宙大戦やモンスターが出てくるわけもない。ただ彼女の棋士のエピソードが語られるのみだ。
しかしそこには道を究める者が到達する精神世界の高み、本作の表現を借りるならば天空の世界が開けているのである。この天空の世界はまさにSFである。精神の世界のみでSFを表現した稀有な作品なのだ。

特に孤高であった棋士が最後に放つ言葉が実に心地よい。こんな幸せな答えが他にあるだろうか。この台詞は今後も私の中に残り続けるだろう。

そして実在の機械と人との勝負を扱った「人間の王」はいわば伝記である。しかし実在したチェッカーというゲームの天才とコンピューターの闘いは本作以外の作者の創造した天才たちの精神性を裏付けるいい証左になっている。神を頭に宿し、全ての局面を記憶した天才が実在した。だからこそ彼はゲームの極北を見たいと思った。恐らく完全解を知りつつ、それを眼前に再現したいがために敢えて機械と戦った男。そんな人物が実在したからこそ、他の作品で登場する灰原由宇や真田優澄、葦原恭二たちの存在が生きてくる。

また麻雀を扱った「清められた卓」での息詰まる攻防戦の凄みはどうだろうか?
プロ雀士は面子を掛け、予想外の奇手を打つ謎めいたアマチュア雀士真田優澄と戦いを挑む。他のアマチュア雀士も今まで培ってきたキャリアを賭けて挑む。極北の闘い、宗教と科学の闘いと称された対局はそれぞれを今まで体験したことのないゾーンへと導く。
この筆致の熱さは一体何なのだろう。ただでさえ麻雀バトルとしても面白いのに―ちなみに私は麻雀をしないし、ルールも解らないのだが、それでもそう感じた!―、最後に明かされる真田優澄の秘密と彼女が成したことを知らされるに至っては何か我々の想像を遥かに超越した世界を見せられた気がした。

後世に残る、天才たちを生み出すゲームを創作したにも関わらず誰もが相手にしないがために埋没した1人の王を描いた「象を飛ばした少年」が抱いた虚しさはなんとも云えない余韻を残すし、狂乱の人生を生き尽くした2人の兄弟と1人の女性の数奇な人生を語った「千年の虚空」では人智を超えた神の領域に到達するには常人であってはならないと痛烈に主張しているようだ。
ここに登場する葦原兄弟と織部綾の人生の凄絶さは到底常人には理解しえないものだ。それがゆえに己の本能に純粋であり、人間らしさをかなぐり捨てて常に答えを追い求めることが出来た。

これら物語には盤面という小宇宙に広がる極限を求め続けた人々の、我々常人が想像しえる範囲をはるかに超えた精神の深淵が語られる。それぞれ究極を求めたジャンルは違えど、一つのことを探求する人々の精神はなんとも気高きことか。

ここに出てくるのは見えざるものが見える人々だ。その道を究めんとする者たちが望むその分野の極北を、究極を見ることを許された人々たちだ。
しかしそんな彼らは超越した才能の代償に喪ったものも大きい。四肢をもがれて不具となった女性、強くなりすぎた故に滅びゆくゲームの行く末を見据えるしかない男、「都市のシャーマン」となり、治癒に身を捧げる女性、統合失調症になったがために才能が開花した男。
物事を探求し、見えざるものを見えるまで追い求めていく人々の純粋さはなんとも痛々しいことか。本書にはそんな不遇な天才たちの、普通ではいられなかった人々の物語が詰まっている。

なぜこれがSFなのか。
それは上にも書いたように人々の精神の高みはやがて宇宙以上の広大な広がりに達するからだ。また四角い盤上や卓上は常に対戦者には未知なる宇宙が広がる。その宇宙は限られた人々たちが到達する空間である。
本書はそんな異能の天才たちが辿り着いた宇宙の果てを見せてくれる短編集なのだ。


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盤上の夜 (創元日本SF叢書)
宮内悠介盤上の夜 についてのレビュー
No.721: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

単純な科学の探究者から人を正しい道に導く人道的な指導者へ

お馴染み探偵ガリレオこと湯川准教授が活躍するシリーズの短編集。
早くもシリーズとしてはこれで7作目であり、短編集としても4作目となる。さらに本書は当時単行本で『虚像の道化師』と『禁断の魔術』とそれぞれ別の短編集として刊行されたが、後者の3編を合わせて1つの短編集にしたもの。後者の残り1編は『禁断の魔術』として文庫化の際、長編化して刊行されている。

さて初頭を飾る短編「幻惑(まどわ)す」は手を触れずに人がいきなり窓から飛び降りる現象を湯川が解き明かす。
手を触れずに人を動かす、いわゆる気功を扱ったのが本作。一見本当の奇蹟のように思わせられ、今回こそは湯川も解けないのではないかと読者は不安になるがそれでもきちんと科学的に立証する湯川の冴えは健在だ。
また本作を読んで、「もしかしたら…」と思い当たる実在の新興宗教の信者もいるのではといらぬことを案じてしまった。

次の「透視(みとお)す」は透視術に湯川が挑戦する。
今までのシリーズ作とは一風変わった作品。殺人事件は起きるものの、湯川が挑むのは犯行方法ではなく、犯行動機となった透視術の謎だ。
今現代テレビに出ているマジシャンもこの手法を使っているのだろうか。いやまた新たな方法を生み出しているのかもしれない。
よくよく考えると科学とマジックは永遠のいたちごっこを繰り返すようなものなのかもしれない。そんな風に思える作品だ。

「心聴(きこえ)る」では幻聴の謎に湯川は挑む。
最新科学の知識を利用したトリックがこのガリレオシリーズの最たる特徴なのだが、本作に限ってはちょっと行き過ぎの感は否めない。

湯川が直接事件に関わらない珍しい短編「曲球(まが)る」ではなんと野球選手の変化球について研究する。
シリーズとしては異色の作品。上に書いたように湯川は殺人事件には直接関与せず、草薙が事件を通じて知り合った落ち目のプロ野球選手の復活に力を貸すというスポーツ小説の風合いをも持った爽やかな作品となっている。
ただ全く事件に関与しないわけではなく、生前の野球選手の妻の不倫を思わせる不可解な行動について、野球選手の車の錆を手掛かりに真相を突き止めるといういわばサブストーリーに関する謎解きを行う。
「心聴る」でも思ったが、被害者の生前の行動について事件を解決した刑事がそこまで調査を掘り下げるものだろうかと疑問は残る。プライベート侵害として訴えられる恐れもあろうかと思うのだが。

双子には不思議な力があると云われているが「念波(おく)る」は双子の妹が胸騒ぎを感じて姉の夫に連絡したところ、姉が意識不明の重体で自宅で倒れていたというショッキングな幕開けで物語は始まる。
双子の間に不思議なシンクロニシティが働くというのはよく云われており、強弱の差はあれどそのような経験をする双子も実際にいるという。従って本作では敢えてまだ未開の分野である双子の研究にあらかじめ踏み込むのを避けるように物語が作られたようにも感じる。
本当に科学で証明されていないことはまだまだ存在する。それに直面したときには現代科学を熟知する湯川でさえ未開の分野ではまだまだヒヨコのようだ。

刑事と名探偵には常に事件が付きまとう。「偽装(よそお)う」では友人の結婚式に出席した湯川と草薙が殺人事件に出くわし、地元警察の協力をすることになる。
嵐の山荘物のシチュエーションを上手く活用して湯川と草薙が否応なく事件に関わらざるを得なくなったのが特徴的だ。正直事件現場の写真だけでそこまで推理できるかと思うが、湯川の新たな一面が解る1編だ。

最後の「演技(えんじ)る」は初期の東野作品を思わせる実にトリッキーな作品だ。
面白いのは元カノがなぜ彼氏を奪った彼女のためにあえて罪を被って身代わりになろうとするのかという謎。この一見不可解な謎が「劇団の女優」という登場人物の設定で氷解する。
この一種異様な動機は女優という特異な人物にこそ当て嵌まり、腑に落ちる。どこかチェスタトンの論理を思わせる1編である。


ガリレオシリーズ第7作目となる第4短編集。本書では内海刑事の登場以来、疎遠になりつつあった草薙刑事と湯川との名コンビぶりが復活しているのが個人的には嬉しかった。

今回も科学知識を活用したトリックが並べられている。

いずれもどこかで聞いたような物ばかり。生活家電に取り入れられているものもあれば、かつて学生時代に学んだ物もあり、また初めて聞くものもありと今回もヴァラエティに富んでいる。つまり必ずしも最先端の科学技術ではなく、我々の日常生活で既に活用されている技術を駆使したトリックなのだ(一部を除くが)。

また一方で現在研究中の分野についても湯川は踏み込む。
本書では双子の間に働くテレパシーを扱った「念波る」が該当するが、まだその原理が証明されていないその謎については特段新しい研究発表が開陳されるわけでなく、予定調和に終わった感が否めない。双子のテレパシーは現在実際に研究中の分野だが、さすがにこの謎は湯川自身も解けなかったようだ。

しかしこれらの技術をトリックとして使って恰も超常現象のように振る舞う犯人、もしくは事件関係者たちの姿はもはや特異ではなく、日常的になりつつある。
それはやはりネットの繁栄により素人が容易に手軽にそれらの技術を応用したツールを手に入れ、アイデア1つで奇跡のような事象を生み出すことが可能になったからだ。つまり科学技術が蔓延することは警察にとっても常に犯人と技術的な知恵比べを強いられることになることを意味している。

そんな科学知識を応用して紡がれる短編はとにかく全てが水準以上。シリーズ初期に見られた一見怪現象としか思えない事件を科学の知識でそのトリックを見破るだけでなく、事件の裏に隠された関係者の意外な心理を浮き彫りにして余韻を残す。
そんな粒ぞろいの作品の中で個人的なベストを挙げると「透視す」、「曲球る」、「演技る」の3編を挙げたい。

「透視す」は思っていることは話さないと人には伝わらない、そんなシンプルなことが出来なかったために起きたボタンの掛け違いが切なく胸に沁みる。

「曲球る」は湯川が今注目されているスポーツ科学に携わり、戦力外通告を受けたプロ野球選手の往年のピッチングを復活させるために一肌脱ぐ話であり、直接的には殺人事件に関与しない。野球選手の亡き妻の不審な行動の謎を湯川が看破するが、あくまでも主体はスポーツ科学への関与だ。どことなくパーカーの『初秋』を思わせる温かい物語だ。

本書のタイトルの基となった「演技る」は久々に東野ミステリの技巧の冴えを感じさせた1編だ。女優という特異な職業ならではの歪んだ動機が強い印象を残す。一種狂気にも近い感情でまさに「虚像の道化師」とは云いえて妙である。

さて以前にも書いたが湯川は『容疑者xの献身』以前と以後ではキャラクターががらりと変わっている。特に事件関係者に対して手厚い心遣いを、気配りをするようになった。
「透視す」ではホステス殺人事件の謎のみだけでなく被害者親子の確執に隠された被害者の真意を突き止め、遺族となった継母に魂の救済を与える。
「曲球る」では再起をかけたプロ野球投手に研究としながらも復活に惜しみなく協力し、「念波る」では双子姉妹に秘められた犯人に対する強い疑念を晴らすために嘘をついてまで協力すれば、「偽装う」では心中事件を殺人事件に偽装しようとした娘の痛々しい過去を汲み取り、明日への新たな一歩を踏み出す勇気を与える。

そこには単純な科学の探究者だった湯川の姿はなく、人を正しい道に導く人道的な指導者の姿が宿る。
前作『真夏の方程式』で否応なく事件に関わらされた無垢なる容疑者に直面したことが、今回のように予期せず犯罪に巻き込まれてしまいながらも今の最悪を変えようともがく弱き人々へ手を差し伸べる心理に至ったのだろうか。だとすればこのシリーズは間違いなく事件を経て変わっていく湯川学の物語であるのだ。単なる天才科学者の推理シリーズではないのだ。

以前は加賀恭一郎シリーズの方に好みが偏っていたが、今ではその天秤はこの探偵ガリレオシリーズに傾きつつある。
本書を読んでその傾きはさらに強くなったと告白してこの感想を終えよう。


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虚像の道化師 (文春文庫)
東野圭吾虚像の道化師 についてのレビュー
No.720:
(7pt)

キングがヴァンパイアを書くとこうなる

キング2作目にして週刊文春の20世紀ベストミステリランキングで第10位に選ばれた名作が本書。
そんな傑作として評価される第2作目に選んだテーマはホラーの王道とも云える吸血鬼譚だ。

小さな田舎町セイラムズ・ロットを侵略する吸血鬼対人間の闘いを描いた本書はかつて少年時代に4年間だけこの町に住んでいた作家のベン・ミアーズと彼が町で知り合い恋仲になるスーザン・ノートンを中心にして物語は進むが、原題“‘Salem’s Lot”が示すように本書の主役はセイラムズ・ロットと呼ばれる町である。
メイン州が成立する55年前に誕生した人口1,300人の小さな町。しかしそこには曰くつきの屋敷マーステン館があり、そこに再び居住者が現れる。

上に書いたように本書の主役はこの町であり、その住民たちである。従ってキングは“その時”が訪れるまで町民たちの生活を丹念に描く。彼ら彼女らはどこの町にもいるごく当たり前の人々もいればちょっと変わった人物もいる。登場人物表に記載されていない人々の生活を細かくキングは記していく。

町一番朝早くから働くのは牧場で牛たちの乳搾りを行う18歳のハルと14歳のジャックのグリフェン兄弟。ハルは学校を辞めたがっているが父親の反対に遭ってむしゃくしゃしている。

彼らの搾った牛乳はアーウィン・ピューリントンによってセイラムズ・ロットに配達される。その牛乳は本書の主人公で作家のベン・ミアーズが泊まっている下宿屋のエヴァ・ミラーの許だけでなく17歳で生後10ヶ月の赤ん坊ランディの育児に悪戦苦労しているサンディ・マクドゥガルの許にも届けられる。彼女は日々ランディに対してストレスを溜めている。

ハーモニー・ヒル墓地の管理人マイク・ライアースンは墓地のゲートに犬の死骸が串刺しになって吊るされているのを発見し、保安官のパーキンズ・ギレスビーに届けた。その犬はアーウィンの愛犬だった。

スクール・バスの運転手チャーリー・ローズはバスの中では全知全能の神だった。彼のバスではだから子供たちは行儀良かったが、今朝はメアリ・ケート・グリーグスンがこっそりブレント・テニーに手紙を渡したのを見たので2人には途中で降りてもらい、学校まで歩いてもらうことにした。

エヴァの下宿屋で長年働いているウィーゼル・クレイグはエヴァとかつての愛人だった。
ごみ捨場管理人のダッド・ロジャーズ。
若い男と昼下がりの情事に耽る美しい人妻ボニー・ソーヤー。
学校に新しく入ってきたマーク・ペトリーは学校一の暴れん坊リッチー・ボッディンに因縁をつけられるが鮮やかに一蹴してしまう。

定年まであと2年の63歳の高校教師マット・バーク。
常にマーステン館を双眼鏡で見張っている町のゴシップ屋メイベル・ワーツ。

これらの点描を重ねて物語はやがて不穏な空気を孕みつつ、“その時”を迎える。

このじわりじわりと何か不吉な影が町を覆っていく感じが実に怖い。
正体不明の骨董家具経営者がマーステン館に越してきてから起きる怪事件の数々。キングは吸血鬼の存在を仄めかしながらもなかなか本質に触れない。ようやく明らさまに吸血鬼の存在が知らされるのは上巻300ページを過ぎたあたりだ。それまでは上に書いたように町の人々の点描が紡がれ、そこに骨董家具経営者の謎めいた動きが断片的に語られるのみ。それらが来るべき凶事を予感させ、読者に不安を募らせる。

そしてようやく上巻の最後に吸血鬼そのものと邂逅する。
それは犠牲者の一人で墓堀りのマイク・ライアースン。つまり既にセイラムズ・ロットが吸血鬼の毒牙によって侵食されていることが読者の脳裏に刻まれる。

しかし吸血鬼が現れても一気呵成に彼らの襲撃が始まるわけではない。一人また一人と被害者が現れ、そして彼ら彼女らを取り巻く人々が次々に容態を悪化させ、ゆっくりと、しかし確実に死に至る。しかしそれらの死体はいつの間にか消えてしまう。安置所から、墓穴から。そこでようやく町民たちは気付くのだ。この町には何か邪悪な物が蔓延っていると。

このねちっこさが非常にじれったいと思うのだが、逆にそれがまた恐怖を募らせる。いつ主人公のベンやスーザンに災厄が訪れるのか、読者はキングの掌の上で弄ばれているかのように読み進めざるを得ない。

物語の序盤で丹念に描かれたセイラムズ・ロットの町の人々の風景。それぞれの人々のそれぞれの暮らし。
そこで紹介された彼ら彼女らの生活が、日常が吸血鬼カート・バーローと彼らが増やした下僕たちによって次々と“仲間”にさせられる。

そしてその災厄を頭ではなく肌身で感じた一部の人々はベンやマットに与し、戦いを挑む者もいるが、大半は云いようのない胸騒ぎを覚えて、魔除けになるような物を携帯し、ただ何事もなく夜が過ぎるのを祈る。そして朝が来たら住み慣れたセイラムズ・ロットを離れる者もいる。

吸血鬼に立ち向かうのは主人公のベン以外に高校教師のマット・バーク、彼の元教え子で医者のジミー・コディ、ホラー好きの博学な少年マーク・ペトリー、そして飲んだくれ神父のドナルド・キャラハンらだ。

その中でも特筆すべきはマーク・ペトリーだ。早熟なこの少年は常に物事を一歩引いた視座で観察し、冷静沈着な判断で危難を切り抜ける。学校一の暴れん坊に目をつけられると、頭の中で作戦を立て、返り討ちに合わせて面目をつぶす。

オカルトやモンスターに深い知識を持ち、吸血鬼の出現にも知識を総動員して冷静に対処する。本書においてヒーローを体現しているのは実はこの少年なのだ。

キングの名を知らしめた本書は今ならば典型的なヴァンパイア小説だろう。物語はハリウッド映画で数多作られた吸血鬼と人間の闘いを描いた実にオーソドックスなものだ。
しかし単純な吸血鬼との戦いに人口1,300人の小さな町セイラムズ・ロットが徐々に侵略され、吸血鬼だらけになっていく過程の恐ろしさを町民一人一人の日常生活を丹念に描き、さらにそこに実在するメーカーや人物の固有名詞を活用して読者の現実世界と紙一重の世界をもたらしたところが画期的であり、今なお読み継がれる作品足らしめているのだろう(今ではもうほとんどアメリカの書店には著作が並んでいないエラリー・クイーンの名前が出てくるのにはびっくりした。当時はまだダネイが存命しており、クイーン作品にキング自身も触れていたのだろう)。

恐らくはそれまでの吸血鬼は仲間を増やしつつも本書のように町の人々たち全てを対象にしたものでなく、吸血鬼が気に入った者のみを仲間にし、それ以外は彼らが生き延びるための糧として血を吸った後は死体と化していたような気がする。
しかし本書は吸血鬼カート・バーローがどんどん町の人々を吸血鬼化していき、ヴァンパイア・タウンにしていくところに侵略される恐怖と絶望感をもたらしている、ここが新しかったのではないか。
従って私は吸血鬼の小説でありながらどんどん増殖していくゾンビの小説を読んでいるような既視感を覚えた。

吸血鬼として数百年もの歳月を生きてきたカート・バーローは深い知識と狡猾な知恵を備えており、抵抗するベンやマーク達をその都度絶望の淵に追い込んでは返り討ちにする。そのたびに貴重な理解者たちが亡くなっていく。
圧倒的な支配力の下でしかしベンとマークはこの大いなる恐怖に立ち向かう。

彼らも逃げたいがベンには理由があった。
それはこの町に戻ってくるきっかけとなった妻ミランダの死だ。自身の交通事故で妻を亡くした彼は居たたまれなさからセイラムズ・ロットに逃げ込んだ。そして第2の安住の地としてスーザンという新たな安らぎを得ながらも吸血鬼カート・バーローに蹂躙され、自ら手を下して彼女を救済せざるを得なくなった元凶を彼は今度は逃げずに立ち向かうことにしたからだ。それが彼の行動原理だ。

また本書の恐ろしいところは町が吸血鬼に侵略されていることをなかなか気づかされないことだ。
彼らは夜活動する。従って昼間は休息しているため白昼の町は実に平穏だ。いや不気味なまでに静まり返っている。人々はおかしいと思いつつも明らさまな凶事が起きていないため、異変に気付かない。しかし夜になるとそれは訪れる。
近しい人々が訪れ、赤く光る眼で魅了し、仲間に引き入れる。この実に静かなる侵略が恐怖を募らせる。
これは当時複雑だった国際情勢を民衆が知ることの恐ろしさ、知らないことの怖さをキングが暗喩しているようにも思えるのだが、勘ぐりすぎだろうか?

古くからある吸血鬼譚に現代の風俗を取り入れてモダン・ホラーの代表作と評される本書も1975年に発表された作品であり、既に古典と呼ぶに相応しい風格を帯びている。
それを証拠に本書を原典にして今なお閉鎖された町を侵略する吸血鬼の物語が描かれ、中には小野不由美の『屍鬼』のような傑作も生まれている。

もう1人のモダンホラーの雄クーンツの作品はほとんど読んでおり、私にとってこのジャンルは決して初めてではない。
しかしキングの作品はクーンツの諸作と違い、結末はハッピーエンドではなく、どこか無力感と荒寥感が漂う。
今なお精力的に作品を発表し、そして賞まで受賞しているこの大作家は今後どのような物語を見せてくれるのだろうか。


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呪われた町 (上) (集英社文庫)
スティーヴン・キング呪われた町 についてのレビュー
No.719:
(8pt)

あの頃のあの女性に思いを馳せて乾杯

マット・スカダーシリーズ17作目の本書はなんと時代は遡って『八百万の死にざま』の後の事件についての話。
幼馴染で犯罪者だったジャック・エラリーの死についてスカダーが調査に乗り出す。マットが禁酒1年を迎えようとする、まだミック・バルーとエレインとの再会もなく、ジャン・キーンがまだ恋人だった頃の時代の昔話だ。

AAの集会で再会した幼馴染ジャック・エラリーの死にマットが彼の助言者の依頼で事件の捜査をするのが本書のあらすじだ。

マットは警察という正義の側の道を歩み、翻ってジャックはしがない小悪党となってたびたび刑務所に入れられては出所することを繰り返していた悪の側の道を歩んできた男だ。

かつての幼馴染がそれぞれ違えた道を歩み、再会する話はこの手のハードボイルド系の話ではもはやありふれたものだろう。そしてマットが警察が鼻にもかけないチンピラの死を死者の生前数少なかった友人の頼みを聞いてニューヨークの街を調べ歩くのも本シリーズの原点ともいうべき設定だ。

今回の事件は禁酒者同士の集まりAAの集会で設定されている禁酒に向けての『十二のステップ』のうち、第八ステップの飲酒時代に自分が迷惑をかけたと思われる人物を書き出し、償いをする活動がカギとなっている。ジャックがその段階で挙げた人物たちに過去の謝罪と償いをしていたことからそのリストの5人が容疑者として浮かび上がる。

しかし彼らの中には犯人がいないという意外な展開を見せる。
さらに容疑者の1人の元故買屋マーク・サッテンスタインが殺され、ジャックの助言者グレッグも殺される。マットはジャックの部屋から第八ステップで書いたジャックの全文を見つけ、ジャックがかつて行った強盗殺人の顛末とそこに書かれたE・Sなる相棒の存在に気付く。

そしてマットも意外な形で真犯人の襲撃に遭う。ホテルの部屋に戻るとそこにバーボン、メーカーズマークの瓶とグラスが置かれ、さらにベッドのマットと枕に同じバーボンがぶち撒かれ、部屋中一帯にアルコールの臭いが充満していたのだ。
禁酒1年目を迎えようとする直前でマットはまたもアル中になるのかと恐怖に慄く。禁酒中のアル中を殺すのに刃物も銃もいらないのだ。ただそこに強い誘惑を放つアルコールがあればいいのだ。 本書の原題である“A Drop Of The Hard Stuff(強い酒の一滴)”だけでも十分なのだ。

しかしなぜここまで時代を遡ったのだろうか?
ブロックはまだ語っていないスカダーの話があったからだと某雑誌のインタビューで述べているが、それはブロックなりの粋な返答だろう。

恐らくは時代が下がり、60を迎えようとするマットがTJなどの若者の助けを借りてインターネットを使って人捜しをする現代の風潮にそぐわなくなってきたと感じたからだろう。
エピローグでミック・バルーが述懐するようにインターネットがあれば素人でも容易に何でも捜し出せる時代になった今、作者自身もマットのような人捜しの物語が書きにくくなったと思ったのではないだろうか。

しかしそれでもブロックはしっとりとした下層階級の人々の間を行き来する古き私立探偵の物語を書きたかったのだ。
それをするには時代を遡るしかなかった、そんなところではないだろうか?

そして忘れてならないのは『死者との誓い』で病で亡くなったジャンとの別れの物語だろう。
お互い幸せを感じながらもどこかで負担を感じつつある2人。暗黙の了解であった土曜日のデートが逆に自由を拘束されるように感じ、デートに行けない理由を並べだす。これといった理由もないが、どこかで2人で幸せに暮らす情景に疑問を持ち、避け合う2人の関係。
大人だからこそ割り切れない感情の揺れが交錯し、そして決別へと繋がる。どことなく別れたジャンとマットの関係をきちんと描くのもまたブロックがこのシリーズで残した忘れ物を読者に届けるために時代を遡って書いたのかもしれない。

2013年からシリーズを読み始めた比較的歴史の浅い私にしてみても実に懐かしさを覚え、どことなく全編セピア色に彩られた古いフィルムを見ているような風景が頭に過ぎった。
私でさえそうなのだから、リアルタイムでシリーズに親しんできた読者が抱く感慨の深さはいかほどか想像できない。これこそシリーズ読者が得られる、コク深きヴィンテージ・ワインに似た芳醇な味わいに似た読書の醍醐味だろう。

物語の事件そのものは特にミステリとしての驚くべき点はなく、ごくありふれた人捜し型私立探偵小説であろう。
しかしマット・スカダーシリーズに求めているのはそんなサプライズではなく、事件を通じてマットが邂逅する人々が垣間見せる人生の片鱗だったり、そしてアル中のマットが見せる弱さや人生観にある。

そして物語に挟まれるマットが対峙した過去の事件のエピソード。そして最後のエピローグで本書の物語に登場した人物や店のその後がミックとの会話で語られる。それらのいくつかはシリーズでも語られた内容だ。
とりわけジャンの死は。

古き良き時代は終わり、誰もが忙しい時代になった。ニューヨークの片隅でそれらの喧騒から離れ、グラスを交わす老境に入ったマットとミック2人の男の姿はブロックが我々に向けたシリーズの終焉を告げる最後の祝杯のように見えてならなかった。

しかし私のマット・スカダーは終われない。『すべては死にゆく』を読んでいないからだ。
二見書房よ、ぜひとも文庫化してくれないか。私にケリをつけさせてくれ。


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償いの報酬 (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック償いの報酬 についてのレビュー
No.718:
(8pt)

嗚呼、人生喜劇

今や『このミス』の常連となりつつあるミステリ作家長岡弘樹氏。本書は彼のデビュー作が収められた短編集である。

まず表題作は元市立中学校の校長だった老人のある出来事を綴った物。
物忘れに苦慮する老人が元校長というプライドから周囲にばれないようにどうにか取り繕う日々を送るさまが綴られる。そしてそのプライドの高さがかえって変な気遣いを自らに課せさせ、事態が思わぬ方向へと転ずるというスラップスティック・コメディの様相を湛えながら、忘れ物が見つかったことでふとある事実に気付かされるというツイストが憎い。
ほのぼのと心温まる1編だ。

続く「淡い青のなかに」はシングルマザーと不良の息子というよくある取り合わせの母子の物語。
仕事に専念するがために家庭を、自身では疎かにしていないとは思いながらも以前よりは子供の面倒を見ることが少なくなったシングルマザーの、どこにでもある家庭であろう。
そんな矢先に車で人を撥ねるというアクシデント。その日は課長に昇進した日。キャリアウーマンとして躍進の第一歩を踏み出した彼女が動揺する中、不良息子が身代わりになる、しかも刑法にも引っかからない。
なんともまあ誰もが陥りそうな悪魔の甘い囁きを作者は用意したことか。当事者だったら、息子の提案に従う人もあるのではないか?
しかし私なら息子に罪を負わすよりも正直に警察に届け出ることを選ぶと思う。なぜならばそんな親に子供になってほしくないからだ。
そして本書でも思わぬツイストがある。つまり被害者はいったい何者だったのか?
しかし本書もまた謎の男の正体に読みどころがあるわけではない。この男の正体をファクターとして不和の母子に関係修復の機会が訪れるところがそれなのだ。
またも温かい気持ちになれる作品だ。

しかしそんな温まる話ばかりではない。次の「プレイヤー」はある人物の隠された悪意に気付かされる。
市役所の駐車場で起きた転落死。しかも柵の横棒が外れていたため、事故死と判断される。通常ならば新聞の三行記事にしかならないような事件を警察の側からでなく、当事者である市役所々員の側から描くという着想が面白い。
そしてその所員は春の人事異動で昇進が有力的だったから、自分の不祥事を免れようと必死に事件を独自に調べる。サラリーマンである私にとっても自分の人事のために殺人事件に必死になる主人公という着想はなかった。
そして徐々に明らかになってくる被害者の不自然な行動から、主人公の崎本は自殺ではないかと推理し、それを裏付ける状況証拠を見つけるのだが、唯一の発見者である同じ市役所々員唐木の証言でなかなか事件が覆らない。なぜ唐木は嘘めいた証言をするのか?
公務員の歪みと切なさが漂う作品だ。

「写心」は他の作品とは異なり、誘拐という犯罪を前面に押し出した作品。
誘拐犯が逆に脅迫されるというアイデアが面白い。そこには夫に逃げられた水落詠子が抱える心の闇があるのだが、本作の焦点はまさにその闇の正体を探ることだ。
元報道カメラマンの守下が誘拐計画のために水落詠子の日常を観察しているときに一瞬捉えた彼女の笑顔の正体はいったい何だったのか?
ただ本作のもう1つのサプライズである事実はさすがに気付くのが遅すぎる。この鈍感さは常に被写体に向き合うカメラマンとしては失格だろう。

「淡い青のなかに」では関係が上手くいっていない母と子が主人公だったが最後の「重い扉が」ではしこりを抱えた父と子の物語。
一緒にいた親友が重体になり、敵討ちを誓った息子が突然捜査に協力したくないと云った理由。そして事件現場の商店街の通りを間違えた理由、さらに過去祖父を亡くし、自身もサッカー選手の夢を途絶えさせることになった交通事故の真相がある1つのことですべて氷解する。
それらを承知し、また自分で調べて理解する克己の人格の素晴らしさが際立つ。よくできた高校3年生だ。そしてそれぞれが抱えていた確執が氷解する。実によく出来たストーリーだ。


今や現代を代表する短編の名手ともされる長岡弘樹氏。
彼のデビュー作は読者の町にもいるであろう人々が出くわした事件、もしくは事件とも呼べない出来事をテーマにした日常の謎系ミステリの宝箱である。

物忘れがひどくなった老人が必死にそれを隠そうとする。

自身のキャリアを高めるために必死に働くがために一人息子を問題児にしてしまったキャリアウーマン。

卒なく業務をこなし、出世の道を順調に上がろうとする公務員。

同僚にケガをさせたことで自責の念から職を辞し、実家の写真屋を受け継ぐが資金難に四苦八苦する元報道カメラマン。

ある事件から息子との関係が悪くなった荒物屋の店主。

全て特別な人たちではなく、我々が町ですれ違い、また見かける市井の人々である。そしてそんな人たちでも大なり小なり問題を抱えており、それぞれに隠された事件や出来事があるのだ。

これら事件や出来事を通じてお互いが抱いていた誤解が氷解するハートウォーミングな話を主にしたのがこれらの短編集。
中に「プレイヤー」のような思わぬ悪意に気付かされる毒のある話もあるが。

気付いてみると5編中4編はハートウォーミング系の物語であり、しかもそれらが全て親子の関係を扱っているのが興味深い。

「陽だまりの偽り」はどことなくぎこちない嫁と義父の、「淡い青のなかに」と「写心」は母と子の、そして「重い扉が」はと父と子の関係がそれぞれ作品のテーマとなっている。

それはお互いがどこか嫌われたくないと思っているからこそ無理に気を遣う状況が逆に確執を生む、どこの家庭にもあるような人間関係の綾が隠されていることに気付かされる。
逆に正直に話せばお互いの気持ちが解り、笑顔になるような些末な事でもある。

人は大人になるにつれ、なかなか本心を話さなくなる。むしろ思いをそのまま口にすることが大人げないと誹りを受けたりもするようになり、次第に口数が少なくなり、相手の表情や行動から推測するようになってくる。そしてそれが誤解を生むのだ。
実はなんとも思っていないのに一方では嫌われているのではと勘違いしたり、良かれと思ってやったことが迷惑だと思われたり。逆に本心を正直に云えなくなっていることで大人は子供時代よりも退化しているかもしれない。

作者長岡弘樹氏はそんな物云わぬ人々に自然発生する確執を汲み取り、ミステリに仕立て上げる。恐らくはこの中の作品に自分や身の回りの人々に当て嵌まるシチュエーションがある読者もいるのではないだろうか。

私は特に中学生の息子を持つがゆえに「重い扉が」が印象に残った。
いつか来るであろう会話のない親子関係。その時どのように対応し、大人になった時に良好な関係になることができるのか。我が事のように思った。

しかしこのような作品を読むと我々は実に詰まらないことに悩んで自滅しているのだなと思う。ちょっと一息ついて考えれば、そこまで固執する必要がないのに、なぜかこだわりを捨てきれずに走ってしまう。歪みを直そうとして無理をするがゆえにさらに歪んでしまい、状況を悪化させる。他人から見れば大したことのないことを実に大きく考える。
本書にはそんな人生喜劇のようなミステリが収められている。

全5作の水準は実に高い。正直ベストは選べない。
どれもが意外性に富み、そして登場人物たちの意外な真意に気付かされた。実に無駄のない洗練された文体に物語運び。
デビュー作にして高水準。今これほど評価されているのもあながち偽りではない。
また一人良質のミステリマインドを持った作家が出てきた。これからも読んでいこう。


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陽だまりの偽り (双葉文庫 な 30-1)
長岡弘樹陽だまりの偽り についてのレビュー
No.717:
(7pt)

ドイル最後の作品はヴェルヌ張りの海底冒険物語だ!

ドイル晩年のSF冒険譚。ウィキペディアで調べる限り、これがドイル最後の小説のようだ。
空想冒険小説ではチャレンジャー教授がシリーズキャラクターとして有名であるが、本書では海洋学者マラコット博士が主人公を務め、冒険の行き先は大西洋の深海だ。

潜降函なる金属の箱でカナリア諸島西にある、自身の名が付いたマラコット海淵から深海調査に乗り出したマラコット博士とオックスフォード大学の研究生サイアラス・ヘッドリーとアメリカ人の機械工ビル・スキャンランの3人が大蟹に潜好函が襲われてそのまま海底に遭難してしまうが、なんと独自の科学技術で深海で生活しているアトランティス人たちに助けられるという、ジュヴナイル小説のような作品だ。

もともとドイルは海に関する短編を数多く発表しており、新潮文庫で海洋奇談編として1冊編まれているくらいだ。そして深海の怪物に関する短編もあり、もともと未知なる世界である海底にはヴェルヌなどのSF作家と同じように興味を抱いていたようだ。

そしてそれを証明するかのようにマラコット博士一行が海底でアトランティス人たちと暮らす生活が恐らく当時の深海生物に関する資料に基づいてイマジネーション豊かに描かれている。

まずアトランティス人たちが海底で暮らすために透明なヘルメットを被っており、そこに空気が送られて一定時間活動できるというのは今の潜水服そのものだ。
調べてみると1837年にはイギリス人のシーベによってヘルメット潜水器の原型が発明されており、1871年には日本にも導入されているから本書が書かれた1929年では既に既知の技術だったことは間違いない。

しかし空気や水、食糧、ガラス材料などを作る装置が備わった海底でも暮せる防水建築という概念は今でも新鮮であり、さらに思ったことが映像として出てくるスクリーンなどは今でも発明されていない。

さらに彼らの生活を支えるエネルギー源が海底に豊富に眠る石炭であり、それらを採掘して動力にしているとなかなか抜け目がない。

またドイルが描く深海生物も特筆で博士たち一行を海中に追いやったエビと蟹の中間の大ザリガニのような化け物から、毛布のように人を包んで海底にこすり付けて食べるブランケット・フィッシュ、樽のような形をした電波で攻撃する海ナメクジ、群れで活動し、血の匂いを嗅ぎつけると集団で襲い掛かり、白骨になるまで食い尽くすピラニアのような魚、1エイカーほどの大きさを持つ大ヒラメなど、今なお未開の地である海底にいてもおかしくない生物たちが描かれている。

しかし物語のクライマックスと云える邪神バアル・シーパとの戦いは果たして必要だったのか、はなはだ疑問だ。

この戦いをクライマックスに持ってくるよりもやはり物語の中盤で描かれる、彼らの生還を詳細に書いた方がよかったのではないか。

唯一おかしいのは水圧に関する考察だ。本書では深く潜っても水圧が高くなるのは迷信であるとして彼らの深海行の最大の難関を一蹴している。
今ではそのような理屈だと物語の前提から覆るのだが、ドイルはどうしても深海冒険物語を書きたかったのだろう。最後の作品でもあるのでそこら辺は大目に見るべきだろう。

しかし最後の作品でも子供心をくすぐる冒険小説を書いていることが率直に嬉しいではないか。読者を愉しませるためには貪欲なまでに色んなことを吸収して想像力を巡らせて嬉々としながら筆を走らせるドイルの姿が目に浮かぶようだ。
翌年ドイルはその生涯を終えた。

最後の最後まで空想の翼を広げた少年のような心を持っていた作家であった。
合掌。


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マラコット深海 (創元SF文庫)