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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数889

全889件 541~560 28/45ページ

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No.349: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

まさに神経衰弱をしているかのよう

東野圭吾はただでは転ばない、これが読後の率直な感想だった。
読者を楽しませるのにこれほど貪欲なのかと改めて感嘆した次第。あくの強い押しでぐいぐい迫るクーンツのエンタテインメント性とは違い、淡々と物語を綴りながらも最後に思いもかけない真相が作者の手元から次々と現れてくる。
正にこれはトランプの神経衰弱に似たカタルシスだ。数字の判らない同じマークのトランプを徐々に捲る事で、何がどこに隠されているかが次第に解り、ゲーム終盤、怒涛の如く、バタバタバタと裏返っていく、あの気持ちのよさに似ている。

題名が示すように物語の舞台は十字屋敷と呼ばれる奇妙な作りの館と悲劇を呼ぶピエロの人形が物語を彩る。正に本格ミステリの舞台設定ど真ん中である。
2ヶ月前の不可解な死、四十九日のために一同集まった中で起こる殺人事件。密室でもない殺人事件。しかもピエロの一人称描写の段落で語られる事件の顛末から正直今回の内容は小粒だと思っていた。

しかし、東野圭吾はやはり只者ではなかった。ページ数にして320ページの長さながらもかなりの満腹感を提供してくれた。
特にデビュー以来、何かと作中で登場するピエロの存在を今回は物語の中心に据えたことからも作者の企みに期待していたが、きちんと応えてくれている。ピエロの人形の一人称という奇抜な設定に面食らい、多少の不安は感じたが、雲散霧消してくれたし、この企みがきちんと成功していることを付記しておこう。

数ある東野作品の中において、ベストに挙げられる作品ではないものの、一読忘れがたい余韻が残る良作だ。
出版後、18年以上経って今なお重版されるにはやはりそれなりの訳があるのだ。

十字屋敷のピエロ 新装版 (講談社文庫)
東野圭吾十字屋敷のピエロ についてのレビュー
No.348:
(8pt)

実はホラーも書ける!

タイトルが示すように、エスピオナージュ作家フリーマントルが紡いだ怪奇短編集。これが実にヴァラエティーに富んだ短編集となった。

冒頭の「森」はどちらか云えばオーソドックスな怪奇譚だろう。ルーマニアの小さな集落を舞台にした残虐な領主の圧政に苦しむ村人が復讐を遂げた後に訪れる怪事である。

次の「遊び友だち」もオーソドックスな部類の怪奇譚だ。名声高いブロードウェイの脚本家が買った古い屋敷で起こる怪奇現象。屋根裏の子供部屋に大人には見えない子供がいるという話。

「ウェディング・ゲーム」は英国屈指の名門の2つの財閥のある結婚式の時に訪れた悲劇を扱っている。嫉妬に駆られた花婿の弟の犯行、最後のオチなど、目新しさは無いものの、演出効果は抜群だろう。最後のシーンは映像が目に浮かぶよう。
そして本編で語られる花嫁の惨劇は江戸川乱歩の「お勢登場」を想起させる。死にゆく者の生への執着と死の恐怖を濃密に描いた乱歩に対し、事象を語りつつ、その後の展開に見事なオチをつけたフリーマントルという2人の特徴が出て面白い。

更に続く「村」は第二次大戦にドイツ軍に所属していた主人公が名を変えて身を潜めて余生を暮らした末に、公式記録上で自分が大量虐殺を行ったとされるチェコの村を訪れる物語。

投資家夫婦と降霊術という相反する物を結びつけたのが「インサイダー取引」だ。インサイダー取引で巧みに財を成してきた投資家夫婦のうち、妻の突然死で失意に暮れた夫が霊媒師の力を借りて、亡き妻との交流を果たし、妻の助言で、どんどん投資を成功させ、億万長者となっていくという話。
これと「ゴーストライター」が個人的にはベスト。こちらの方はコメディアン志望の男が死後コメディライターとして名声を成すという話。特にこの2編はタイトルが秀逸で、最後に抜群の切れ味を放つ。
そして株式をテーマにホラーを書くという発想も斬新だが、もっと驚いたのはフリーマントルが「お笑い」をテーマに短編、しかも幽霊譚を書いたこと。まさに脱帽だ。

それに加えてこんなのも書けるのか、フリーマントル!と唸ったのが「ゾンビ」と「洞窟」。前者はカトリック宣教師が布教のために派遣された神父を奪還するためにゾンビを生み出す呪術が支配するカメルーンの奥地の村に乗り込むといった話。
後者はフランスにある世界最大の洞窟でガイドする一族の話。自らの子供と妻が洞窟に入ったまま行方知れずになった男が友人の子供の捜索に乗り出す。
この2編で驚かされるのが宗教や呪術、そして洞窟ガイドという職業の特徴を詳述しているところだろう。この作家の懐はどこまで深いのかと驚嘆した作品だ。

一風変った幽霊譚なのが「魂を探せ」。何しろベルリンでの任務中に暗殺されたCIAとKGBの工作員2人の幽霊が、死後のユートピア<あの世>に行くために自らの魂を探すという物語。しかしこのオチはブラック・ジョーク以外何物でもないな。

「愛情深い妻」、「デッド・エンド」はそれぞれ殺人事件を扱った恐怖譚。前者は病院の院長が不倫相手と再婚すべく妻を不治の病と見せかけて毒殺するが・・・といった話。
後者は場末の宿で発見された女性の刺殺死体の犯人を捜す物語。現場に残された指紋、遺物などから状況的に夫の犯罪と思われたのだが、当の夫は自信満々に自分の犯罪ではないといいきり、逆に警察に犯人のヒントを与え・・・という話。
どちらも幽霊を扱っているのが共通。特に前者は妻の幽霊に苛まれる主人公の苦悶がちょっと理解できなかった。元妻は愛人との交際を認めているのに、なぜ主人公は愛人と愛を交わせないのか?私なら・・・とここで止めておこう。

最後12編目「死体泥棒」はいつの間にか人殺しに加担していた善なる医師の話。生真面目すぎるが故に陥った狂気の領域を皮肉とユーモアを交えて語っている。

ざっと概要を上に書いてみたが、冒頭述べたように題材が実にヴァリエーション豊かである事が解ると思う。自分の得意分野だけで勝負していないところなんかはフリーマントルのストーリーメーカーとしての矜持を感じさせる。もしフリーマントルにお題を提供してホラーを書けと頼むと、何でも書けるのではないだろうか。
そしてこのようなホラー・ストーリーはもはや出尽くした感があり、確かにここに語られる恐怖譚の中には目新しさは無い物もある。では何が読者の興趣を誘うかというとやはりそれは作者の語り口にあるだろう。

そしてフリーマントルが筆巧者であり、その定型化した恐怖譚をコクのある料理に変身させる腕前を備えていることを再認識させられた。
正直云ってこれほどの短編集を絶版のまま埋もれさせるのは勿体無い。どうにか復刊ならないだろうか。

フリーマントルの恐怖劇場 (新潮文庫)
No.347:
(7pt)

色んな要素は詰まっているのだが…

松濤禎という男の波乱万丈人生劇場とでもいおうか。とにかく色んな要素が詰まった作品である。
上越国境での鉱山採掘現場からストーリーは端を発し、酷寒の信州の山中での逃亡行。信州の寒村で鍬形とともに逃げ出した妾のサトの家に辿り着き、そこから北海道の小樽へ移り、そして一路ロシアのウラジオストクへ渡る。しかしそこでも探し求める人物には逢えず、国境警備隊の一員となり、朝鮮独立運動に加担する反乱軍の討伐を頼まれ、やがてソ連内で勃発する複数の民族間闘争の荒波に否応無く飲み込まれていく。

また敵役も移ろいゆく。飯場頭の河西重蔵を皮切りに、特攻くずれの野槌の田岡、軍隊時代の知り合い、清浦謙治、そして敵か味方かも解らぬ国境警備隊の氷川。更には俘虜の1人で松濤に憎悪の視線を向ける同行者辻川。ロシアの中国人組織を牛耳る男、郭大人。
そして松濤の捜索の支援をする人物も移ろいゆく。サトの実家で知り合い、道連れとなった小田切千佳、小樽の町で知り合った香坂蘭子と名乗る中国系の武器密輸行商人、そして「少尉」と呼ばれる千佳の面影を湛えた男。中国人組織に敵対するロシア警察の副署長カマロフと切れ者の部下ゼレージン。そして氷川に協力するブリヤート兵の長テンゲル。

明日の敵が今日の味方―正確には松濤を利用する側なのだが―、昨日の味方が狙うべき標的に目まぐるしく変わる。密かに慕う綾乃の、鍬形を捜してほしいというたった一人の願いで、松濤はソ連を取り巻く抗争の荒波に翻弄される。しかし、そんな松濤の行動原理は鍬形の捜索というかつて愛した女性綾乃の依頼よりも途中で出逢った小田桐千佳の存在によるところが大きい。
『君の名は』の如く、逢いたくてもなかなか逢えない2人。そんな2人が困難の末、ようやく逢えたというカタルシスを得られるシーンが少ないのが物足りない。ストイックな松濤がかなり年下の千佳に遠慮して自分の愛情を表に出さず、内心忸怩たる思いをしているのもこの長丁場を持たせるには結構きつい物があった。

上中下巻合わせて総ページ1,500弱の大作。上に述べたように主人公松濤の運命も起伏に富んでいるが、なぜか読後のコクが薄いように感じた。
それは物語の舞台が上越から小樽、そしてソ連国内の各所と次々に移るにしても、全てそれらは極寒の地。つまりそれぞれの追跡行が極寒の山中のシーンばかりなのだ。つまりこれこそが谷氏の得意とする分野なのだが、こう何度も続くと単調さは拭いきれない。発端→極寒の山中→新たな出逢い→極寒の渡海→捜索→極寒の中でのドライブ→極寒の山中での逃走・・・と終始こういった具合だ。

これほどの大作となるとやはりもっと色んなジャンルがミックスされた展開を期待してしまう。いや確かに山岳小説、エスピオナージュ、歴史小説といった側面を備えてはいる。が、上に述べたように本作は似たようなシーンの繰り返しで冗長な感じを受けてしまった。表現も今までの山岳小説に見られたものが使い回されていたのも気になった。

さらに先に述べたが、松濤と千佳との2人のシーンが松濤の内面描写だけで、2人の意思が通じ合うシーンが表立って出てこなかったのもやはり大きい。
私はロマンス小説は読まないが、やはりここまで松濤の一途な思いを描けばそういうシーンを求めるのが普通だろう。作者の照れ故か解らないが、プロローグにあれだけロマンティックなシーンを用意したならば、それに応えるエンディングも必要なのではないか。そうする事で題名の意味も補強されるだろうし。
しかし同じようなシーンが続くとはいえ、これだけ展開の目まぐるしい小説は韓流ドラマのような趣きを感じた。案外テレビでドラマ化すれば受けるかもしれない。

紫苑の絆〈上〉 (幻冬舎文庫)
谷甲州紫苑の絆 についてのレビュー
No.346: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

カタカナ表記の題名はちょっと…

村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』の好評を受けて、早川書房がチャンドラーの全短編集を改訳し、発表順に編纂した独自の短編集第1弾。
創元推理文庫の短編集も併せてチャンドラーの作品は全て読破したと思っていたが、いやいやまだまだ未読の作品があったのだ。こういう作品が入っていないとこういう企画物には手を出さない私。逆に云えば、未読作品があるということで本の虫が騒いでしまった。
それでその未読作品というのが2作目の「スマートアレック・キル」と6作目の「スペインの血」だ。

「スマートアレック・キル」はダルマスという名の探偵が主人公。脅迫を受けているという映画監督の依頼から麻薬の密売と酒の密輸に関するいざこざに巻き込まれるという話。
2作目にして、流れに任せるような形でどんどん物語は進んでいき、これまたどんどん一癖も二癖もある男女が出てくるが、プロットはしっかりしており、明かされる真相は納得がいくし、かなり練られた物だなと思う。禁酒法なんか出て来た日にはもろハードボイルドだなと思った。なお題名の意味は「利口ぶった殺人」。依頼人デレクの自殺を装った偽装殺人を指している。

「スペインの血」はチャンドラーでは珍しく警官が主人公の話。とはいってもやはりチャンドラー、描く警官像が違う。サム・デラグエラという純粋スペイン人を主人公にし、周囲の差別に屈することなく、殺された友人の事件の担当を外されながらも自らの主義に従って捜査を進める。
このデラグエラの造形がいい。スペイン人であることに誇りを持ちながらも組織の中で疎外感を感じている。しかしその事は決して表面に出さない。一人の時には弱さも見せる。人に好かれたいと思っており、女性の罵倒にめげる女々しさもあるが、自らの矜持は絶対に捨てたくない。そして仕事は決して諦めない。しかし正義を盲目的に振りかざすでもなく、他者との折り合いも付ける。自分の目的・利益を損なわない限りでは。
チャンドラーがもし警察物を続けて書いたとしたら、このデラグエラを主人公に添えただろう。それもまた読んでみたかった。叶わぬことではあるが。

残りの4作は再読物。
1作目「ゆすり屋は撃たない」は探偵マロリーが主人公。女優が若かりし頃に書いた手紙がスキャンダルのネタになるとの事でそれを取り戻すよう依頼されたマロリーがその女優が誘拐されると同時に自らもまた悪徳警官に連れられてしまう。

「フィンガー・マン」でようやく我らがフィリップ・マーロウの登場である。市の有力者であるマニー・ティネンがシャノン殺しに関わっていたとされる証言を大陪審にしたかどで、マーロウはティネンの友人であるこの街の影のボス的存在フランク・ドーアに狙われる羽目に。しかし、そんな中、友人のルー・バーガーからボディガードの依頼をされる。カナレスのカジノでぼろ儲けをする手があり、ついては帰りの護衛をしてほしいとの以来を渋々引き受けたフィリップだったが、カジノの帰りに暴漢に遭い、そしてルーが殺されてしまうという最悪の結果を招く。しかしそれはフィリップに冤罪を着せるためにドーアが仕組んだ罠だった。

「キラー・イン・ザ・レイン」の主人公には名がない。単なる「わたし」という名の探偵だ。本作は『大いなる眠り』の原形とされる作品。
トニー・ドラヴェックなる大男から娘カーメンをスタイナーという男から取り戻してほしいという依頼を受ける。スタイナーはポルノ関係の本やフィルムの貸し出しをやっている男だった。わたしがスタイナーの家を訪れた矢先に家中より銃声が響き、スタイナーが死体となって横たわっており、全裸の女がカメラを前にして椅子に掛けていたが、薬中で意識が朦朧としていた。その女カーメンをドラヴェックの家まで届けた私だったが、カメラからカーメンが映っている乾板を回収する事を忘れた事に気付き、再びスタイナー邸を訪れるが、死体は既になく、しかも乾板も無くなっていた。

そして「ネヴァダ・ガス」。ヒューゴ・キャンドレスは自分の車を偽装した毒ガス車に乗り込み、殺されてしまう。それが全ての始まりだった。たれ込み屋のジョニー・デルーズはモップス・パリシを警察に売ったことで命を狙われる事を恐れ、街を離れようとするが、悪漢に連れられてしまう。そしてあの毒ガス車に乗せられてしまうのだった。しかし、咄嗟の機転で難を逃れたデルーズは自分を襲った相手に報復するため、再び街に舞い戻る。
再読してやはり面白いと感じたのはこの「ネヴァダ・ガス」だ。他の短編に比べ、いきなり毒ガス車で人が処刑されるシーンという読者を惹きつける場面から幕が開けるのがまず印象深い。この導入部はハリウッド・ムービーを想起させる。この時既にチャンドラーはハリウッドの脚本家として働いていたのだろう。

そして全ての短編に共通するのはその流れるようなストーリー展開でどのような着地に落ち着くのか全く先が読めないことだ。
正直、1作目の「ゆすり屋は撃たない」は十分に理解できていないほどの複雑さ、というよりもチャンドラー自身も流れに任せて書いているようで、プロット的には破綻しているように思われた。
しかしそれ以外は、最後はきちんと収まり、読後なかなか練られたストーリーだと感心する。その流れるようなストーリー展開から非常に粗筋を纏めるのが難しい作者なのだと気付く。しかしそれでいて読みながら物語と設定が説明なしにするすると入ってくるのだから、やはりチャンドラー、巧い、巧すぎる。

そしてこれらの短編に出てくる探偵マロリー始め、ダルマス、そして「キラー・イン・ザ・レイン」のわたしもまたマーロウの原形だろう。しかし、やはりマーロウ登場の「フィンガー・マン」を読むとやはりマロリーもダルマスもマーロウの原形とは云いながらも、やはりマーロウは彼らとは一線を画した存在だと云わざるを得ない。
自身が命を襲われる事態でありながらも友人の頼みとあらば堂々と世間に身を晒すし、女の涙には騙されない。権力者にも屈しない、苦境に陥っても(表面上は)動じず、脅迫されても主義は曲げない。警察にも一目置かれている(後の作品では警察からも睨まれる存在になるが)。

そして今作におけるフィリップ・マーロウは「マーロウ」ではなく「フィリップ」の方だ。そう、若いフィリップ・マーロウだ。銃撃戦にも身を投じ、不利な状況も機転と行動力で自ら脱する。これこそフィリップだ。
また表題作にはその後のマーロウの名作の萌芽が見られた。プロットは『大いなる眠り』だが、大男ドラヴェックは『さらば愛しき女よ』の大鹿マロイの原形だろう。全ての長編を読んだ今、こうやって改めて彼の短編を最初から振り返るのはチャンドラーの原点を知る意味では最良なのかもしれない。

そして今回、もっとも痛感したのが、チャンドラーが小説で描きたかったのがプロットではなく、ストーリーだったのだという事だ。彼はロスという街のもう一つの貌を描きたかったのだ。強請りやたかりで生計を立てる卑しき男どもの姿を。そんな男たちがやることなのだから筋が通っていなくて当たり前なのだ。なぜなら彼は彼らの矜持に従って生きている。彼らの主義を貫く事で生きているからだ。そして誰しもが他を出し抜こうと虎視眈々とチャンスを窺っているのだ。だからストーリー展開が先が読めない。これを読んでその面白さが解らない人がいるならば、理解する観点が違うのだ。チャンドラーの小説は理解する小説ではなく、雰囲気を味わう小説、小説世界の空気を感じる小説なのだから。

そしてもう1つ今回発見したことがある。この短編集に収められている作品に共通するのは、主人公である探偵の依頼人は全て最後に死んでしまうという事だ。
彼らは警察にも届けられない厄介事、もしくは誰にも相手にされなかった危険な揉め事を解決する最後の駆け込み寺として探偵の許を訪れる。チャンドラーはそこに救いを与えていない。これら初期の作品群は特にそうだ。
窮境に陥った者は人に頼ってはその運命からは逃れられないのだ、自ら克服していかなければならないのだと云っているわけでもない。みんな弱いのだ、そして探偵さえも、そう述べているように思える。一か八かの最後の賭けに出た者がそうそう成功するわけではない、しかしその印象は非常なまでに切って捨てているように見えないから不思議だ。みな踠きながらも一日一日を生きているのだ、その姿を描いている。
そしてそれは決して美しくない。みな卑しき街の住人なのだから。真っ正直な人間など実は一人もいなく、警察さえもそう。それが本当の世の中なのだ。それをチャンドラーは書いた、その思いがこれらの作品に込められている。

最後に今回の題名について。今回採用されている英単語をそのままカタカナ表記して題名しているというのはやはり、というかかなり抵抗を感じた。
「スマートアレック・キル」は「利口ぶった殺人」の方が、「フィンガー・マン」は「指さす男」もしくは「密告した男」の方が、そして表題作は「雨の殺人者」の方が断然いい。今の日本語で改訳するという今回の試みは非常に好ましく、その志に大いに賛成しているのだが、なぜ題名は「今の日本語」に改訳しないのか、かなり疑問が生じる。それとも英語が珍しくなくなった今、カタカナ表記こそが「今の日本語」なのか。
私はこれに対して断然NOを唱える。だから星は1つ減点。題名も内容の一部と考えるからこそ。

キラー・イン・ザ・レイン (ハヤカワ・ミステリ文庫 チ 1-7 チャンドラー短篇全集 1)
No.345:
(7pt)

山と神との親和性

単なる山岳小説と思って読むと、面食らうような内容だった。発端の導入部は単にマックスという男の特徴を印象付けるためのエピソードだと思っていたが、作者は初めから「これは単なる山岳小説ではありませんよ」と警告を促していた事がわかる。

主人公たちの行動を左右するのは実にスピリチュアルな現象である。主人公である日本人2人、筧井宏と加藤由紀は、イギリス人の2人、ジョージとデニスの「口寄せ」をし、登攀で訪れる悲劇を回避しようとするのだ。この小説はまさにこの非現実的な設定にノレるかノレないかに懸かっているといえる。

私はどうだったかと云えば、微妙だとしかいえない。
それはこういう現象を絵空事として簡単に否定できないからだ。
私の想像の範疇を超えた話だからでもある。

他の作家の山岳小説を読んだことがないので比較にならないが、谷氏の書く山岳小説は長編・短編含めてどこか宗教色が濃いものがあるのが特徴だと思う。
今回扱っているのはシャーマニズムだが、これまでにも輪廻転生や因習、呪いなどがテーマになっている。

それはこの作者が自ら世界の山々を登る登山家であることが大いに起因しているだろう。特にヒマラヤを題材にすることの多いこの作者が、ネパールやチベットの宗教色濃い習慣、考え方、しきたりに少なからぬ影響を受けているのは間違いない。
そして前にも述べたが、彼自身、極限状態のときに神の配剤としか考えられない事象を経験したのではないだろうか?だからこういう作品を何の迷いもなく書けるのだと思う。

迫力の登山シーン(特に唾棄すべき男にあえて唾を吐かなかったのが、貴重な水分を無駄にしたくないという描写には非常にリアリティを感じた)と超自然的現象である「口寄せ」、そして予知視、もしくは幻視。現実と非現実が渾然となったこの作品。
一見アンバランスに思えるが、地球上で最も宇宙に近く、酸素の薄い場所においては何があっても不思議ではないという作者からのメッセージなのかもしれない。

ジャンキー・ジャンクション (ハヤカワ文庫 JA)
谷甲州ジャンキー・ジャンクション についてのレビュー
No.344:
(7pt)

フリーマントルは長編向き

亡命者をテーマにした5つの短編を集めたもの。
最初の2編は男と女に纏わるKGB高官の話。
「パメラの写真」はアメリカ人女性パメラと結婚するため西側への亡命を図っているKGB大佐イワン・セロフが主人公。東ベルリンからベルリンの壁を抜けて西ドイツへと亡命する計画を立てたセロフ。微に入り細を穿ったその計画はまさに完璧と思われた。そしていよいよ実行の日が来た。
続く「二重亡命」はモスクワ勤務を命ぜられてから夫婦仲がぎくしゃくしたススロフ夫婦が主人公。イギリスへ亡命したススロフの後輩の信用失墜のため、アメリカへの偽亡命を計画する。

3編目「革命家」はリビアへ国外逃亡した元日本赤軍のヤマダ・ノブオが主人公。これは上の2編とは違い、平和な国で革命家として名を轟かせたい男の野心の話。パレスチナ解放機構の一員であるアハメドという名のテロリストに接触したヤマダはイスラエル首相とエジプト大統領の暗殺を依頼される。自分の名を売るチャンスとばかりにヤマダはその話に乗るが・・・。
「スパイ教官」は先の2編とは逆にCIAからソ連へ亡命したジョー・リバーズが主人公。アメリカからロシアへ亡命したリバーズはKGBでアメリカへ派遣するスパイの養成を行っていた。しかし、リバーズは今日こそがその日と疑っていなかった。今まで待ち続けたその日が来たのだと。
最後の表題作は2編目の「二重亡命」同様、偽亡命を扱ったもの。自らが手塩に育てたブーニンがアメリカに亡命した事でノスコフは第一管理部長の座を危うくしていた。部下であるパーノフと考え出した策はかつての上司であった自分がアメリカに亡命し、微妙に事実と違った情報を流す事でブーニンの信用を失墜するというものだった。それは同時に東京へ赴任している別の工作員の亡命を牽制する役割を果たしていた。提案はすんなり通され、ノスコフはアメリカへの亡命に成功する。毎月第5の日に故国へ帰ることを夢見ながら、ノスコフは確実に任務をこなしていく。

上に述べたように、内容的に重複する物も多く、この亡命者をテーマにした場合に意外とヴァリエーションが無い事に気付かされる。亡命者が亡命する際の緊張感、どのような緻密な計画を立てるのか、果たして成功するのか否かというのが亡命物のメインとなるのだが、短編である本作においてはその辺が軽く書かれており、フリーマントル自身、短編である事を意識して最後のどんでん返しに主眼を置いて著したようだ。
自らの謀略に溺れる者、自らの野心の炎に焼き尽くされる者、国から見離された者。ここに述べられているのは彼らの姿だ。

偽亡命物が5編中3編と最も多く、特に「二重亡命」と表題作はほとんど一緒といっていい。
前者がスパイの夫婦の確執に主眼を置き、物語がいきなり閉じられるのに対し(あまりに唐突に終わるのでビックリした。結局オチは何なの?)、後者は計画の裏側に暗躍する権力争いを主眼においているのが違う。前者から派生したような物語だ。

また4編目の「スパイ教官」はチャーリー・マフィンシリーズの1編(『亡命者はモスクワをめざす』)にも同様の設定が見受けられた。どちらが卵で鶏かは不明だが。
ストーリーテラーとして名高いフリーマントルだが、短編となるとどうしても似てしまうようだ。彼お得意のどんでん返しも長編の焼き直しのような感じがして、物足りない。
この前に読んだプロファイラーシリーズの短編集『屍泥棒』の時も同様の感想を抱いた。この作者、やはり長編向きだと思う。

第五の日に帰って行った男 (新潮文庫)
No.343: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

「少年団」というほどには…

竹内しのぶ25歳独身。短大卒の大路小学校教師。丸顔の美人だが、ソフトボールのエースで4番を張っていた男勝りの姉御肌。彼女と彼女の教え子らが遭遇する5つの事件を扱った連作短編集。

「しのぶセンセの推理」はいきなり教え子の1人の父親が殺されるというショッキングな事件。
「しのぶセンセと家なき子」からシリーズのサブキャラクター田中鉄平が物語に大いに絡んでくる。
「しのぶセンセのお見合い」は新藤刑事の恋のライバル本間の登場する話。
「しのぶセンセのクリスマス」は本シリーズの中で一番奇抜な状況を扱っている。
そして最後の「しのぶセンセを仰げば尊し」は本作の掉尾を飾るに相応しいハートウォーミングストーリー。

大阪弁が軽快に飛び交うライトミステリ。しかし、小学校教師を主人公に扱っているが殺人事件の中には結構深刻な真相もあるので、子供が読むには高校生以上になってから読むのがいいかも。
しかし、十分大人である私にとっては逆に人間関係の陰惨さよりもノスタルジーを誘う事が多かった。

まず最初の1篇は真相に感心した。なかなか小説では思いつかない真相だと思う。
次の「~家なき子」はクラスに1人はいたゲームの達人というのが琴線に響いた。これもいたよ、やたらとゲームの巧い奴。私の時はファミコンも全盛だったが、ゲームの達人はゲーセンに一日中入り浸っていたんだけどね。
シリーズの折り返し地点の短編「~お見合い」で本間を登場させてシリーズにカンフル剤を打ち込む。逆に云えば、この短編からシリーズに彩りが出てきたように思う。しのぶセンセも恋相手が2人になり、魅力が行間から見えてきたように感じた。
そして個人的なベスト「~クリスマス」は殺人事件と思われる事件の凶器がケーキの中から現れるという謎が非常に魅力的。一見、その奇抜さのみ先行した設定かと思いきや、最後には鮮やかに凶器をケーキに隠した理由を解き明かしてみせる。
最後の「~仰げば尊し」は事件そのものよりもやはりシリーズの幕引きを飾るお話としての感慨が深い。もちろん布団干し中の墜落の真相は逆説めいていて面白いが。

ふと思ったのだがこれはもしかしたら北村薫氏に先行して所謂「日常の謎」系ミステリに成り得た作品集ではなかったということ。ファミコンゲームのひったくりやベランダからの落下の事件は正にそう。
基本的に「日常の謎」系ミステリは人が死ななくて、日常に潜む些細な謎、違和感に隠された意外な真相・思いがけなかった悪意を導き出すのだから、常に殺人が絡む本作品集ではそこが条件的に成り立っていない。そこが非常に惜しい。

そしてシリーズ全体を通してみると、作者が定石に乗っ取って各短編を紡いだ事が解る。
まずは主人公の紹介。次の短編でシリーズ全体を通して出てくるサブキャラクターの紹介。中盤において恋のライバルの登場。最後に締めの1編。正に淀みがない。

そしてこの頃から作者が色んなジャンルへ挑戦しているのが窺える。
デビュー作以降、主に学生時代を舞台に青春ミステリを書いてきた作者だったが、前作『ウィンクで乾杯』ではパーティ・コンパニオンを主人公にしたトレンディ・ドラマ(古いなぁ・・・)風ミステリに、本作では学校の図書館においてある『ズッコケ少年探偵団』シリーズのようなジュヴナイル・ディテクティヴ・ストーリーに挑戦している。そしてそれらにおいてもきちんと水準を保っているのがやはりすごい。

最後の短編で一応のお別れを告げたしのぶセンセ。しかしこのシリーズ、もう1作あるので、この後、どのような展開をするのか楽しみだ。
しかし、前にも述べたが、ホントこの作者、タイトルに対して頓着しない。『浪花少年探偵団』といっても活躍する少年はせいぜい2人である。題名よりも中身で勝負という事か。


▼以下、ネタバレ感想
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新装版 浪花少年探偵団 (講談社文庫)
東野圭吾浪花少年探偵団 についてのレビュー
No.342: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

シリーズ最終作におけるカーの未来の本格ミステリ作家へのメッセージ

HM卿最後の長編。カー自身も最後の長編だと意識していたのか、本作には過去の作品に出て来た人物達が見え隠れする。
依頼人のヴァージニアの友人には『青ひげの花嫁』に出て来た弁護士が出てくるし、HM卿の執事は『青銅ランプの呪い』で出て来た当事者であるヘレン・ローリングに仕えていたベンスンだったりする。そして最後でありながら、実に微妙な謎を扱っており、非常に興味深かった。なんせ密室状態の中で盃の位置がなぜかずれており、なぜ犯人はこの盃を盗まなかったのかというのがテーマだからだ。

そしてその真相は正に本格ど真ん中。手品のようなミスリードを披露してくれる。が、本作のもう1つの魅力である密室の謎は正直がっかり。
そしてもはや恒例となっているHM卿の奇矯な振る舞いは本作においても踏襲されており、なんと今回は教会の夕べの集いにて歌声を披露するためにイタリア人の教師に師事しての歌の稽古中なのだ。そして『仮面荘の怪事件』や『赤い鎧戸のかげで』などでも見られたように、この奇抜な演出が事件の解決に一役買っているのだから畏れ入る。最後の最後まで生粋のエンターテイナーぶりを見せてくれる。

そして本作においてカーは登場人物の口を借りてミステリ論を開陳する。曰く、

(探偵小説は)手のこんだ、洗練された問題を提起して、読者にも謎ときの機会を公平に与えてくれるものでないと(いけない)。

さらに曰く、

問題は謎(中略)。謎が単純だったり、簡単だったり、謎でもなんでもないときは読む気がし(ない)。

まさしくこれこそカーが未来の本格ミステリ書きに託したメッセージではないか!それは2007年の今、まだ連綿と受け継がれている。カーの精神は確かに受け継がれたのだ。

▼以下、ネタバレ感想
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騎士の盃 (ハヤカワ・ミステリ文庫 6-10)
カーター・ディクスン騎士の盃 についてのレビュー
No.341:
(7pt)

後の百鬼夜行シリーズに繋がる作品か

物語は当初黒子が語る東亰に巣食う魑魅魍魎たちの起こす怪奇な事件をあまねく語り上げ、やがてそれらの怪事件を新聞記者の平河新太郎が香具師の万造と共に解き明かす構成を取っている。従って最初に見られた歌舞伎調の語りは次第になりを潜め、普通の文体へと変りゆく。
この歌舞伎調の語りが読み始めは小気味よく、江戸怪談の趣きに溢れており、かなりの力作だなぁと感嘆していたが、読み進むうちに通常の文体に移行するにつれてどうもしっくり来なく感じた。

というのもこの作者があえて明治時代の「東京」を語るのではなく、現在の歴史とは違ったパラレルワールドである「東亰」を設定したのには、これら魑魅魍魎の跋扈する異世界を描きたかったのが狙いだったと思ったからだが、にもかかわらず、出てくる人物名に板垣退助だの井伊直弼だの中江兆民だの歴史上の人物が、此の世界において成した同じ事件の数々の当事者として出てくるからだ。
おまけにそれら怪異の事象は全て人間のなせる業であるという、云わば怪奇小説に見せかけた推理小説だという物語の流れに半ば裏切りにも似た感情を抱いてしまった。

しかし、そこはこの作者。やっぱり解っていた。
ここに来てようやく作者の狙いが判明する。

明治維新後、文明開化の名の下、西洋化が蔓延り、街には瓦斯灯が点りだす日本にかろうじて残っている闇。しかし文明化の足音はこれら闇を排除し、神仏やまじないなどといった実体のない物までも排除する風潮が流れる。こういう伝承こそこと大事なのだと、そしてまだ魑魅魍魎がいても可笑しくない闇の残る明治時代の「東亰」をあえて舞台にした作者の世界観はやがて同年に発表された『姑獲鳥の夏』の京極夏彦に引き継がれることで一つのジャンルとして結実する。
作品自体はやはりまだ完成されていない原石のような肌触りが残るものの、その後、京極夏彦が起こした妖怪小説の大きな流れを思うと、後世に残した功績は大きい。エポックメイキングな作品として残るべき作品だろう。


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東亰異聞 (新潮文庫)
小野不由美東亰異聞 についてのレビュー
No.340: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

色んな単語が時代を感じさせます。

2時間サスペンスドラマ用といってもいい軽めのミステリ。読んでいて映像が眼に浮かぶし、実際に一度映像化されているようだ。
一介のコンパニオン・ガール香子が事件を調べる事を可能するにするために彼女のアパートの隣りに軽いノリの若い刑事芝田を引越しさせるという設定もご都合的だが、まあ良しとしよう。

たった300ページ足らずの本書だが、そんな中にでも密室殺人事件が取り上げられている。初期の東野作品は本当に密室物が多い。恐らく素人時代に色々なトリックを案出してストックしていたのではないだろうか。
今回はドアチェーンを使った密室トリックである。このトリックはギリギリ解明シーン前に答えが閃いた。しかし、犯行に至るプロセスはパズルのようなロジックで、しかも第2、第3の真相を用意しているのだから畏れ入る。そして主人公香子とちょっと間が抜けていつつも鋭い閃きを発揮する若き刑事芝田、そして理想の独身男性像を受け持つ高見などなど、キャラクターにも特色があり、単純な推理小説以上の面白みもある。こういった小品にも手を抜かないその姿勢には感心した。

しかし毎回思うが東野のタイトルのセンスにはちょっと疑問が残る。『放課後』、『卒業』、『秘密』、『片思い』など素っ気無い物、『ある閉ざされた山荘で』、『容疑者Xの献身』、『使命と魂のリミット』などすわりの悪い物など数あり、今回も『ウィンクで乾杯』と正にキオスクノベルスど真ん中だなあ。
しかもこれは改題されたもので原題は『香子の夢』なんだからあまりに素っ気無い。
今はネームヴァリューで売れるからいいものの、この頃はまだまだ新人で早く売れたかったろうに意外と淡白だ。それがこの作者らしさなのかもしれないが。

ウインクで乾杯 (ノン・ポシェット)
東野圭吾ウインクで乾杯(香子の夢) についてのレビュー
No.339:
(7pt)

愛のためなら全てが許される?

いつもと変らぬ日が続くものと思っていた矢先の突然の異常事態。
今回のクーンツは怪物が登場するわけでもない、超能力を持った人間が出るわけでもなく、妻の誘拐という日常を襲う突然の凶事をテーマにしているので、逆にいつも以上に逼迫感があった。

クーンツは導入部が巧いとよく云われるが今回もその評判にたがわぬ求心力を持っている。いきなりの誘拐犯からの電話から始まり、そして街を歩いていた人がいきなり撃たれて死亡する。そして現れた警察は明らかに自分を疑っている。のっけからどんどん主人公を追い込んでいく。
そして兄から明かされる誘拐事件の真相。一介の庭師に訪れた凶事が実は犯罪に手を染めていた兄に起因しているとは。しかも偏狂的な教育者の両親に育てられ、半ば性格を歪められた兄弟の中でも優秀で人を惹きつける魅力溢れた兄その人が実は狂える犯罪者だったという事実。ここら辺の畳み掛けはクーンツのもはや独壇場だろう。よくこんな設定思いついたものだと感心した。

その後も主人公ミッチェルは息つく暇もないほど追い詰められる。手の汚れた資産家によって、離れた荒野に連れられ、始末されそうになったり、尊敬していた兄に打ち勝ち、金を得るも、その直前でタガートの訪問を受け、気絶させたり、そしてそのために警察に追われたり、逃亡の際に車を盗もうとしたのがばれて、警察に包囲網を敷かれたりと色んな仕掛けを用意してくれる。
ここまで主人公を窮地に追い詰めながらも、常に物語はハッピーエンドに締めるのがクーンツの特徴なのだが、今回はその物語の収束の仕方があからさまに唐突だったのにビックリした。

奥付を見ると2006年の作品であるから新作であるのには間違いないのだが、この飛躍的な物語の決着のつけ方はかつてのクーンツの悪い癖を彷彿させた。アメリカを代表する作家のやる仕事ではないのではないかと率直に思う。
今回の作品の底に流れているのは、人は愛のためにどこまで出来るのかというテーマだ。物語も大きく3章に分かれており、それぞれ「愛のために何をするか」、「愛のために死ねるか。人を殺せるか」、「死がふたりを分かつまで」という風に愛を至上としてどこまで自己犠牲出来るかと謳っている。

そして今作品のタイトル『ハズバンド』に込められているのは、妻が愛の誓いを立てた者は夫のみなのだという思いだ。これは結婚式によくある誓いの言葉なのだが、これを単なる台詞でなく、主人公の行動の原動力としているところがすごい。あんな常套句を元にこういう物語を考えるのだから、それはそれでクーンツの非凡なところなんだろうけど。
とどのつまり、ひっくり返せば本作においては愛の名の下では、何をやっても許されるのだと開き直っている感じがしないでもない。だから最後に物語を剛腕でねじ伏せたのか。それともこれはクーンツが実の妻に宛てたラヴレターの一種なのか。う~ん、変に勘ぐってしまうなぁ。


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ハズバンド (ハヤカワ文庫NV)
ディーン・R・クーンツハズバンド についてのレビュー
No.338: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

カーの怪盗物

なんとカー作品で怪盗物が読めるとは思わなかった。しかもその怪盗が実に変っている。銃を携帯しているが人は殺さず、唯一2人だけ怪我を負わせた程度。そして最たる特徴は猿の顔の意匠がついた鉄の箱を常に携えているというのだ。
そして本作の謎はこの怪盗アイアン・チェストが何者なのか、そしてコリアーがほんの数秒の間にどうやって鉄の箱とダイヤ原石の山を部屋から消したのかが焦点となっている。

今回のカーはかなりフェアプレイに徹したと思う。文章をよく読めば、アイアン・チェストの正体は解るし―実際、2人に絞っていたが最後の対決シーンで私も解った―、そこから最後に明かされる鉄の箱の真相もなるほどと納得が行くのである。
しかし、それでもやはり怪盗が嵩張る鉄の箱を携えているという設定には無理を感じる。HM卿はそれを怪盗の顔を忘れさせるためのガジェットだと論じているが、盗みに入る者が逆にそんな目立つ物を持ってくるだろうか?ただでさえ、帰りには盗品という荷物が加わるのに。こう考えていくと、本作ではまず鉄の箱のトリックが先にあったのではないかと思う。これを利用したいがために怪盗物の物語を肉付けしたのではないかと思えるのだ。実際、本作においてこの鉄の箱消失トリックはなかなかに面白く、そしてカー以外、考え付かないだろうというバカバカしさも孕んでいるのだ。

今回の物語の舞台はタンジールという北アフリカの国(市?)であり、ここではスペイン語、フランス語、アラビア語が公用語として使われている。英語は教育を受けた人たちでもわずかでしか喋る事が出来ないところであり、警視総監のデュロック大佐の勘違い英語も本作におけるギャグの1つになっている。
そしてHM卿の登場シーンは回を重ねる毎に派手になり、しかもよりドタバタコメディの度合いを強めているが、今回は本当に傑作!なんせお忍びで来たはずの―しかもハーバート・モリソンなる偽名まで使って!―訪れた旅先で、一国の大統領差ながらの手厚いセレモニー付きのお迎えと遭遇するのだから抱腹絶倒ものだ!しかもこれが事件の一連の捜査に密接に関わっているのだから、驚きだ。いやはやカーの隙のない演出に感嘆してしまった。

そしてこの異国の地において、HM卿は新たな一面、いや二面、三面を見せてくれる。まずは出鱈目なアラビア語を駆使してムーア人の心を摑むだけでなく、アラビア人の扮装をして、聖者さながら輿に乗って街を練り歩く。更には暗闇から襲い掛かるアラビア人の刺客を身軽に交わし、何の躊躇もなく、喉を掻っ捌くし、ボクシングの野試合ではレフェリーをも演じると、今まで観たことも、聞いたこともない設定が続々と登場する。特に本作においては従来の滑稽なデブのおっさんではなく、数々の修羅場を潜り抜けた百戦錬磨の人物として描かれている。
今まで述べたように、本作ではHM卿の色々な面を見せつつ、密室からの大きな鉄の箱の消失とたくさんのアイデアが放り込まれているのだが、総じて考えるとやはり全体のバランスに欠いているように感じる。それは前にも述べた怪盗が鉄の箱を携えて盗みに入るという設定に非常に無理を感じるのだ。

更に加えてこの題名。題名に書かれている赤い鎧戸とは怪盗の相棒コリアーがタンジールで借りた部屋の目印として宿主に塗らした鎧戸のことだ。この影で行われた事が謎の中心だとカー自身、断っているのだろうが、ちょっとそぐわない感じがする。
それも含めて考えると本作はやはり佳作の域を出ないだろう。

赤い鎧戸のかげで (ハヤカワ・ミステリ文庫 テ 3-7)
カーター・ディクスン赤い鎧戸のかげで についてのレビュー
No.337:
(7pt)

アニメ化に相応しい世界観とキャラ

いやあ、いいね、この世界観。大友克洋氏の『アキラ』に通ずるものがある。
谷氏のSF小説は初めて読んだが、実に躍動感があり、物語世界の構築がしっかりしている。山岳冒険小説よりもこちらの方が好みだ。映像化するなら押尾学、マンガ化するなら、士郎政宗氏か先に挙げた大友克洋氏あたりだろう。

何よりも登場人物が非常に魅力的だ。
男から性転換したエリコを筆頭に、類い稀なる怪力を誇るエリコの幼馴染みでルームメイトの女、胡蝶蘭(カチョーラス)。20世紀から生きているという噂のある情報屋、源爺。姑との軋轢であえて老婆に変る手術を受けた30歳の“老婆”、咲夜姫。長髪で中性的な容貌を持ちながらも、強引な捜査で危険の香りを漂わせる刑事、愛甲ヨハネ(これはいささか少女マンガ趣味ともいえるが)。エリコのクローンでありながら、残虐な貌とかつての弱かった男性時代の性格を併せ持った慧人ことワイレン。倒錯性交ショーの司会者でありながら、エリコを支援しつつ、寺尾医師との愛に身を投じるミズ・ヤンことシャオチン。風体の上がらぬ風貌で、ぼやきを呟きながらも警察たちを出し抜く探偵、棚橋。
彼らに加え、動物の組織を埋め込む違法な手術を受けた改造人間(フリークス)が横行する。サイの角と怪力を移植された一角獣。犬の鼻と脳を移植された殺し屋、などなど。
そして舞台は大阪、上海、東京から月面研究都市クラヴィウスと移っていく。

谷氏の描く未来像は派手派手しくなく、淡々と描写するからすっと頭に入っていくように感じた。月面へ降り立つシーンからクラヴィウスの景観など、よくある作者独自の逞しい想像力で構築した未来テクノロジー理論を熱く語り、どうだ、すごいだろうといわんばかりに読者をその世界観に引き入れようといった肩肘張った印象がなく、そこにあるかの如く語る筆致には好感が持てた。これは数多存在する少し先の未来を描いた映像が横行しているおかげなのか、それとももはやここに書かれていることが絵空事でなく、そう遠くない未来であるように認識できているからかもしれないが。

この物語において一番意表を突かれたのは主人公エリコ、その人だ。男から性転換した娼婦という設定ならば、通常は美人でありながら腕っぷしも立つ、そう田中芳樹氏のシリーズキャラクター、薬師寺涼子のようなイメージを抱いていたが、谷氏はあえて逆を行った。北沢慧人という男でありながら女性として生きる道を選んだエリコは、虐げられていたひ弱な過去と、どこか自分が普通とは違う違和感に対して正直に向き合った結果であり、女性となり、類い稀なる美貌と絶妙なプロポーションを持ちながらも、逆に元男ということで美女に対して引け目を感じるようになっているのだった。

なるほど、そういえばそうなのかも知れない。男として劣っている事を認め、女性になる事を決意したエリコはいわば、逃避者なのだ。
そして見た目も心も女でありながらも、やはり女ではないことに時折気付かされ、心を痛める。その痛めた心を癒す拠り所は男勝りの腕力を誇る女性、胡蝶蘭の豊満な胸の中に抱かれるその時なのだ。これこそエリコの不完全さを表している。女性でありながらも女性の母性を求める、このアンバランスさはどうだろうか。

谷氏はあえてエリコを強いキャラクターとして描いていない。元男でありながらも華奢なその体はあらゆる敵から自分の身を守る術を知らない。胡蝶蘭、愛甲ヨハネ、シャオチン、棚橋らの助けがなければ全然苦難を乗越えられないのだ。
しかし、物語の終盤、エリコは自分が完全に女性になった事に気づく事で強さを得る。それは正に「母は強し」ともいうべき、精神的強さだ。男が完全に男を捨て去った時に強くなる。本書はエリコにこういう設定を持ってきたことが非常に特徴的なのである。

そして物語の後半に現れる巨敵、弘田という政治家。極端な選民主義者であり、他者を自分の野望を達成するための道具としてしか見ない男―家族までもだ!―。その男が唱えるスローガンに美しい日本人を目指すというのがあり、非常によく似た人がいることに気付き、苦笑した。1999年に書かれた本書において谷氏はこういう政治家が数年後に出てくることを予想していたかのようだ。

最後に、本書に出てくる「クラヴィウス事例」なる設定について。
端的に述べれば、月面都市に移住した各国の子供たちの中で突出した才能を発揮し、リーダーシップと執るのが日本人だというのがこの事例の内容だが、これはなかなかに面白い。過去の歴史と現在の世界を振り返れば、世界に散らばり、成功しているのはユダヤ人と華僑と云われる中国人であるのだが、ここで敢えて谷氏は月面で力を発揮するのは日本人とした。
私はこの設定を読んだ時に、ある話を思い出した。日本人というのは西から流れて最後に極東の地に辿り着く事が出来た民族だから強いのだという説があるそうだ。山岳登山家でもある谷氏がたびたび極限状態に陥ったときに垣間見た日本人の粘りとか強さなどもこの設定には反映されているのかもしれない。

エリコ (上) (ハヤカワ文庫 JA (686))
谷甲州エリコ についてのレビュー
No.336:
(7pt)

こういう路線も行けるんだなぁ!

山岳冒険小説、SF小説の旗手、谷甲州が手がけたホラー短編集。山岳小説をモチーフにしたもの、SFをモチーフにしたものもあるが、この作者には珍しく、日常を舞台にしたものが多かった。

まず作者お得意の山岳やネパールを舞台にしたのが「背筋の冷たくなる話」と「猿神(ハヌマン)」。前者は雪山登山中に雪洞で一夜を過ごす事になった2人の男が怪異譚を語るうちにある物が現れてくる話で、後者はネパールの辺境の村を訪れた男が遭遇する奇妙な風習に男自身が狂気に囚われてしまう話。後者はネパールに伝わる猿神伝説も織り込まれて宗教を題材する作者ならではの短編。

その他はいわゆる純然たるホラー。妊娠や恋愛、または家庭や親族のしきたりなど家族をモチーフにしたものが多い。それらに土俗的な風習や呪いを絡ませてホラーに仕上げているのが目立つ。

特に「武子」は、「武子」と書いて「たけし」と読む名前を与えられた男の日常で困った事の話から、意外な方向へと進む構成は思いもよらない展開だった。

収録作の中では「鏡像」と「三人の小人と四番目の針」が個人的には評価が高い。
まず「鏡像」は恐らく誰もが子供の頃に抱いた鏡の向こうには鏡の世界があるといった原初体験を扱っているのが面白い。
「三人の小人と四番目の針」はよくもまあ、こういうことを考えたものだと感心した。時計の針をそれぞれ家族構成に当て嵌め、語る様は非常にしっくり来ていて面白かった。大人の夜の営みさえも時計の針の動きに擬えるのには笑ったが、そこから最後にぞくりと来るオチに持ってくるのがなかなか上手いと思った。

その他短編というよりはショートショートになる「おとぎ話」、タダ電話を掛ける男に降りかかる都市伝説のような出来事「制裁」―しかしこの中で堂々とNTTという実在の会社名を出しているのにびっくりしたが―が面白かった。

この前に読んだ井上氏の短編集『あくむ』がどこか歪に物語を閉じるのとは違い、谷氏の短編はどれもきちんと閉じられる。
しかしそれ以上に谷氏が山岳冒険小説やSF小説だけじゃなく、こんなのも書けるぞ!と高らかに唱え、証明した事が本短編集における収穫だろう。特に子供を主人公に書かせるとこんなに面白い物が出来るのかと驚いた。この路線の作品ももっと読みたいと思った次第だ。


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背筋が冷たくなる話 (集英社文庫)
谷甲州背筋が冷たくなる話 についてのレビュー
No.335:
(7pt)

悪夢も色とりどり

幻聴、幻視、白昼夢、幻覚、正夢といった5つの“悪夢”を集めた短編集。

冒頭の「ホワイトノイズ」はエアバンド・レシーバーという電波傍受機器を購入したぼくが盗聴を繰り返すうちにやがて柳原美嶺子という名の女性が浮気相手からの執拗な電話に困っている会話を傍受し、美嶺子を助けようと一大決心をするが・・・といった話。
次の「ブラックライト」は交通事故に遭った画家が、入院に見せかけた誘拐ではないかと疑い、脱出を試みる話。
吸血鬼を主人公に据えた「ブルーブラッド」は数学教師として普通の人間として暮らす野津原は、血を吸いたいという欲望を夢の中でのみ満たしていたが、同僚の女性教師とデートする長い夢を見るうちに現実と区別がつかなくなるといった話。
「ゴールデンケージ」は財閥の御曹司のエリートの兄と不良の弟を主人公に据えた話。
そして最後の「インビジブルドリーム」はエキストラで日銭を稼ぐ劇団員のカップルに訪れた奇妙な出来事を語る。それは相手の見た夢が正夢となって男に降りかかるのだった。次第にそれはエスカレートしだし・・・。

それぞれの短編はヴァラエティに富んでおり、作者が終始ホラーに徹したのが軸がぶれずによかった。しかし、内容はホラーというよりも“奇妙な味”といった方が正確だろうか。作者の用意した結末やストーリー展開はどこか歪だ。
というのもここに収められた短編の主人公全てが自らに起こった錯覚に対して自覚的ではない。夢や幻覚であることを認めない、もしくは逆に悪い現実を悪夢としてしか認めないのだ。だから作品は全てどこか夢心地のまま、終わる。

特に「ゴールデンケージ」の結末はなんともいえない後味の悪さが残る。
出来のよい兄と不良の弟のよくある設定を据え、不良の弟を主人公に据えながら物語が展開するかと思いきや、一転してエリートの賢介のストーリーが始まる。物語はこの兄に訪れる幻覚がメインなのだが、導入部に据えられたナイフで自傷する血まみれの兄の真相よりもそれがもたらす兄弟たちへの影響が残酷。救いようがないとは正にこのことだ。この作品に本書のタイトル「あくむ」が象徴的に表れているように感じた。

各5編のうち、ベストは「ブルーブラッド」か。いきなり導入部から自身が吸血鬼である事を明かしている事で、その設定を受け入れやすかったのも一因だが、何よりも夢として語られる女性教師とのデートシーンがかつての自分を思い出させ、むずむずするやらワクワクするやらで非常に面白かった。とはいえ、本書のタイトルの方向性を違えることなく、結末は悲劇的なのだが・・・。
「インビジブルドリーム」も設定自体は面白いが、最後の最後で不条理小説になってしまったところに戸惑いを覚えた。

こういったことからも作者の拵えた設定・世界にノレるかノレないかで評価が分かれる作品集だろう。私は五分五分といったところだろうか。

あくむ (集英社文庫)
井上夢人あくむ についてのレビュー
No.334:
(7pt)

主人公たちの苦痛の連続は読むのも苦痛の連続だった

『遥かなり神々の座』から6年。再び滝沢育夫が還ってきた。
しかし、前作の滝沢の人物像と今回のそれとはなんだか異なる印象を受けた。

まず、とにかく冗長というのが上巻を読んだ時の印象だった。
前作『遥かなり神々の座』では一流の登山家からチベット・ゲリラの参謀ニマと共に死線を潜り抜けた事で一人の戦士となった滝沢。しかし、本書では人生の敗北者となってうじうじした男の独り言が繰り返されるようなストーリー展開。特に導入部となっているアイガー北壁登攀の一部始終が意外に長く、また川原摩耶との再会もかなりの筆を費やしてそこに至るまでの経緯が語られている。

小説というのは足し算と引き算のバランスが肝心である。作者が語りたい事を緻密に語り、それがまた読者を未知なる世界へと導き、興趣をそそる訳だが、一方で物語としてのバランス、小説世界内の時間経過に対する匙加減も大事である。
熱く語るべきところは厚く叙述し、かつ物語の進行を円滑にするために読者の想像で補えるところは削ぎ落とす、これが私の云う足し算と引き算なのだが、本書においては、導入部のアイガー北壁登攀はもとより、スイスからネパールへ至るまでの道中、そしてネパールからチベットまで至る道中、これら全てが詳細・緻密に語られているがために、非常に冗長な印象を受けた。

これらは恐らく全て作者の実地体験に基づいているのだろうが、とにかく知っている事全てを語りたいという思いが強すぎて、非常に物語のバランスが悪い。各新人賞に規定枚数があるのも、こういった取捨選択の技術が作家には必要だという事を示しているのだろうから、そういった意味ではこの作品をもし各新人賞へ応募しても規定枚数超過で落とされるだろう。つまり、私にはそれほど無駄が多いなと感じたのだ。

そして今回煮え切らないのが滝沢が頻繁に見せる優柔不断さ。冒頭から導入部にかけての自分のこれからの人生の身の置き所を探すような彷徨、そして摩耶の再会を渇望するが故の焦りからその都度、思いくれ惑う様は納得できるが、しかし滝沢は終始迷うのだ。
ようやく迷いが抜けるのはクライマックスのチョモランマ登攀において戻るかそのまま進むかを選択するところ。しかもそれにはリンポチェの助言無くては出来なかった。
終始、迷う滝沢に関して、私はかなり違和感を覚えた。というのも前作では一流のクライマーとして描かれていた彼なのに、今回ではことごとく方針を変え、そのために仲間を死に至らしめ、そしてまた迷う。この繰り返しだからだ。前作とは別人のような気がした。

しかし、次第に、山を登る事はこういう迷いの連続なのだなという思いが私の中に芽生え出した。一流のクライマーといえども、相手は自然。これが正しいといった方程式はないのだ。
しかも判断を誤ると、自分だけでなく他人の命をも亡くしてしまうのだから、その選択はかなりの重責だろう。そういった意味では前作がニマという教師を得て兵士として覚醒する滝沢を描き、純粋に冒険小説を描いたのに対し、今回は登山家滝沢としてのその心中にまで深く踏み込んで描いたともいえる。

しかし、個人的にはリンポチェのキャラクターに惹かれるものがあった。三人称描写とはいえ、滝沢の行動を通して語られる本書において、彼と別行動をするリンポチェのシーンが少ないのは仕方ないのだろうが、私としては逆に滝沢がこの出逢いを通しての変化を期待したのだが、それが最後の決断だけに留まったのが残念だった。

山岳小説、冒険小説、その両方を兼ね備えた本書。
しかし滝沢のスイスからカトマンドゥ、ネパール国内の摩耶探索行、そこから国境近くでのリンポチェの探索行、中国軍からの逃亡行、テムジン隊との合流行から再度リンポチェたちの救出行、そして再度リンポチェたちとの合流行からチョモランマを越えての越境行と、今回は滝沢の旅程小説といった方がしっくり来るようだ。しかもそのほとんどが自らの足で歩いたものである。だから小説全体を漂うのは滝沢と摩耶の苦行僧のような道行きの描写の連続。つまり何度も同じ話を読まされたような気がしてならない。
前にも述べたが、この辺の足し算・引き算を上手くすれば、これほどの枚数も必要なく、くどく感じなかったのではないか。しかし、その苦痛こそが作者の語りたかった事の1つであるのなら、致し方ないのだが。

神々の座を越えて〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)
谷甲州神々の座を越えて についてのレビュー
No.333:
(7pt)

30歳のハードボイルド宣言

久々に真っ当なハードボイルド小説を読んだ気がした。
香納諒一氏デビュー作の本書はハードボイルド小説を書く事に真摯に向き合っている姿勢が感じられ、作者の作家になることに対する並々ならぬ決意という物を感じた。

第1作目にして、作者は結構複雑なプロットを用意している。暴力団の影がちらつく余命幾許も無い老人の頼みとその老人が記録上、シベリア抑留者の死亡者リストに上がっていること、老人が何故麻薬と金を持ち逃げしたのか、逃亡する老人を複数の暴力団のみならず、ロシア人もなぜ追いかけるのか、などなどなかなか読ませる。
物語の進め方も一つ一つ手掛かりが解るたびに更に謎と新たな関係者が登場し、事件の裾野がどんどん広がっていく構成になっており、飽きさせない。

そしてこの作者の魅力として、しっかりとした描写力と人物像の造形深さが挙げられる。主人公碇田の一人称描写で語られる本書において視線のブレがなく、また時折挟まれる自然描写の雅さなど、物語を形成する風景についても筆を緩める事がない。一つ一つの言葉を慎重に選んでいるのが実によく判る。
そして魅力ある登場人物の数々。付き添いの看護婦の弥生、悪友ともいうべき安本兄弟の兄、兵庫県警の綿貫刑事、敵役の恩田庄一など、それぞれに癖があり、物語に膨らみを与えている。
特に碇田の敵役である安本兄弟の兄と恩田のキャラクターが際立っている。河合組側の人間、安本と敵対する森田組側の人間、恩田。しかし、その2人は吉野老人を中心に動いており、それぞれが違った形で主人公碇田をサポートする(いや正確には、サポートを余儀なくされるのだが)。この辺の敵味方が入り乱れる構成がそれぞれのキャラクターを惹き立てる事に成功している。

さて、結局のところ、本作は『血の収穫』を思わせる構成となっている。
『血の収穫』といえば、ハードボイルドの始祖ダシール・ハメットの代表作である。このことからも作者が、自分はハードボイルド作家としてこれからやっていくのだと宣言している風にも取れる。俺はこういう小説が書きたいのだ!と声高に叫ぶ声が聞こえてくるかのようだ。

傑作とはまで行かないまでも佳作であることは確か。語弊があるように聞こえるだろうが、正に典型的なハードボイルド小説、プライヴェート・アイ小説である。
しかし、これがデビュー作であるのならば上出来の部類だろう。この時、作者香納諒一氏30歳か。また一人応援したくなる作家が出来てしまった。



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夜の海に瞑れ (角川文庫)
香納諒一夜の海に瞑れ についてのレビュー
No.332:
(7pt)

ドイルの古代宗教への造詣の深さを知る

東京創元社のコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ以外の隠れた短編を集めた傑作集もこれで3冊目。
しかし前巻が出たのが2004年の12月であるから2年半後の刊行である。正直なところ、発行部数が伸び悩んで打ち切りになったと思っていた。
1,2巻は以前読んだ新潮文庫の傑作集と重複する物もあったが、本作に収められた5作の中短編は手元にそれらの文庫が無いのではっきりしないが、記憶に残っている限り、初めて読む作品群だ。

今回の中短編にはある一貫したテーマがある。それはアジアを中心とした諸国に古くから信仰されている古代宗教に伝わる呪術をモチーフにした怪異譚であること。
まず冒頭の「競売ナンバー二四九」はオックスフォード大学近くにある下宿屋に住む学生の1人がエジプトで発掘したミイラをある秘法によって操る話。
次の「トトの指輪」は不死の能力を手に入れた古代エジプト人が永遠の死を模索する話。
「血の石の秘儀」はイギリスはウェールズの山奥の村である夫婦が体験したドルイド教の生贄の儀式の話で、続く「茶色い手」は彷徨えるインド人の霊魂の話。最後の表題作はインド高僧を殺害したかどで夜毎死の恐怖に怯えるイギリス将校の話。

上記に述べたようにこれら作品に使われているモチーフは21世紀のこの世においてもはや手垢のついたテーマ以外何物でもない。実際、読後した今、これらを読んだ事で新たなる驚き、衝撃が走るような物は1つも無かった。
しかし、これら中短編群はドイルという作家の一側面を語るのに貴重である事は確かだ。

この中に語られている古代宗教に対するドイルの考察は19世紀後半当時、かなり刺激的ではなかったのではないだろうか?特に欧米人にとって未知の領域とされていたエジプト文化、インドのヒンドゥー教に関する記述に関してはかなり詳細に記載され、それを怪異譚に結びつけ、作品へと結実したところにドイルという作家の価値があると思う。
特に最後200ページ弱の分量で以って語られる表題作「クルンバーの謎」は将校が何に怯えて堅牢な城郭を拵えるのかという物語の主題よりもその物語を飾り立てるインド宗教に関する薀蓄の詳細さに驚いた。しかも本作では他の作品が怪異を怪異のままで終わらせているのに対し、何故そのような怪異が起こりえたのかを当時得られたであろう最高の研究成果を基に叙述している。それがこの物語の成功に寄与しているか否かは別として、この中身の精緻さはドイルが如何にこの分野に興味を深く示し、また造詣が深かったかを表している。

そういえば晩年のドイルは心霊学に傾倒し、神秘研究に没頭していたと聞く。何年か前にフェイクである事が発覚したコティングリー村の妖精騒動もドイルがその信憑性を補完する発言を行ったことでつい最近まで真実だと信じられていた。そういった背景も考えるとやはりドイルは古代宗教の研究においても権威であり、当時この作品群は読者たちの注目を集め、またドイルの名を高める一助になっていたに違いない。
2巻目までの感想は単なるコレクターアイテムとしてこの作品に付き合っていこうというぐらいの気持ちでしかなかったが、本作を読むとなかなか面白いし、まだまだドイルの未読作品も捨てた物ではないなと感じた。出版元の東京創元社には根気よくシリーズの刊行を続けて欲しいものだ。

クルンバーの謎―ドイル傑作集〈3〉 (創元推理文庫)
No.331:
(7pt)

愛すべきマンネリズム

スケルトン探偵ギデオン・オリヴァー・シリーズ12作目の本作は従来のシリーズキャラクターである妻のジュリーはもとより、FBI捜査官でギデオンの友人であるジョン・ロウも登場する。
このシリーズにおいて一ファン、一読者として期待するのは新たなシリーズ展開だとか転機だとかではなく、いつもように骨に纏わる出来事が発生し、それにギデオンが関わる事で意外な事実が発覚していくというマンネリズムだ。このマンネリズムこそ、本作が安心して読めるシリーズ物の王道である事を表しているといえる。

今回の舞台はハワイのハワイ島。確か以前にも舞台になっていた記憶がある(『楽園の骨』だったかな?)。ハワイの地で牧場を始め、一財を成したスウェーデン移民の子孫の間に残された遺産問題が今回のテーマになっている。
前作『骨の島』の時には骨を検証する事の必然性と事件との関係が乖離しているかのような印象を受けたが、今回はそれは解消されていたものの、かつての作品に見られた骨から解る事実は過去の事件を疑うきっかけとなっているだけで、メインではない。まあ、骨をテーマにした本作であるからネタにも限界があるのだろう。シリーズ物の宿命として受け止めるしかない。

本作は年末に行われる各誌のベストテンやオールタイムベストに挙げられるような派手さのある作品ではない。
しかし、一読者としては前にも述べたように、このマンネリズムが心地よいのだ。出版社が刊行を止めない限り、私は読み続けていこうと思う。

水底の骨 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
アーロン・エルキンズ水底の骨 についてのレビュー
No.330:
(7pt)

力作なのだが、意外にも残らない

山岳小説、そしてSF小説を得意とする谷氏が書いた歴史小説。
扱われる時代は日露戦争終了間もない頃。日本が軍事色を色濃く出していた頃の3人の元軍人らが満州、ロシアを股にかけて時代の荒波に揉まれていく姿を描く。

雪山での熊の格闘から日本軍人がロシア討伐の予備工作としてロシアに潜入し、叛乱分子を煽動させようとするスパイ活動、極寒の中の逃亡劇に、狂気を湛えた男の追走劇、これらの要素を約600ページの本書にぎっしり詰め込んだ本書は、その内容についても仔細を極め、濃い味付けが成されている。
しかし、坂東眞砂子氏の『山妣』を読んでいなかったら、冒頭に展開する美川とマタギの佐七による熊ミナシロの狩猟劇はかなり楽しめたものだろう。またマタギの佐七が狩猟中に美川に教えるマタギの流儀も『山妣』より詳しく、しかもかなり興味深い話ばかりだった。
しかし、物語の熱量としては『山妣』の方が上。そしてプロローグで登場する日露戦争のワンシーンに登場する各登場人物が運命の糸に絡められるかの如く、彼の地満州で邂逅するのも面白いのだが、こういった人間関係の皮肉な繋がりでさえも業の深さを感じさせる坂東作品の方が印象強く残っており、足枷になった。

とはいえ、これはかなりの力作であるのは間違いない。極寒の山中での狩り、列車襲撃シーン、逃亡劇などはこの作者の十八番で、その寒さを肌身に感じさせられるものがある。

しかし、なぜか煮え切らない。

それは恐らく、美川の宿敵と想定された庄蔵の役割があまり物語に寄与していないからだ。武藤を中心に語られる本書では、むしろ美川と庄蔵との因縁対決はエピソードの1つという地位にまで落ちてしまっている。
その自己中心的で傲岸不遜、自己顕示欲の強い庄蔵というキャラクターを本作では十分に活かしきれていない。それは最後の決着のつけ方があまりに一方的に終わっている事からして明らかだし、作中時折挟まれる庄蔵の追跡行は笑劇の体すら漂わせている。
恐らく作者は美川と庄蔵の対決よりも書いていくうちに武藤の話の方に興味が移ってしまったのではないだろうか。『遥かなり神々の座』で息詰まるほどの、身が凍えるほどの緊張感を湛えた追走劇を提供してくれた谷氏だけにちょっと興趣が削がれた思いがした。

上にも述べているように、色々な趣向が凝らされた本書が力作である事を重ねて断言しよう。
しかしなぜか意外にも残る物がないのだ。まあ、こんな時もあるのだろう、不思議な事だが。

凍樹の森 (徳間文庫)
谷甲州凍樹の森 についてのレビュー