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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数694件
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コナン・ドイル財団公認のホームズ譚続編を2作上梓し、もはやパスティーシュ作家として有名になったホロヴィッツが手掛けたのはイアン・フレミング原作の、世界でもっとも有名なスパイ小説007シリーズだ。しかもホームズ作品同様にイアン・フレミング財団直々に007シリーズの新作依頼がされたとのこと。
007シリーズの続編はこれまでもジョン・ガードナーやジェフリー・ディーヴァーなど錚々たる作家が書いており、ホロヴィッツもそのメンバーに名を連ねるようになった。 私が今回感心したのは物語の舞台を現代ではなく、過去、つまりイアン・フレミングが現役で新作を紡いでいた時代に設定しているところだ。しかも時代としてはボンドがプッシー・ガロアと共に組織を壊滅に追い込んだ『ゴールドフィンガー』の直後、つまり1950年代となっている。 ディーヴァーの007シリーズは物語の舞台を現代にし、またボンドも若者に設定しており、スマートフォンのアプリを駆使してスパイ活動する実に若々しい内容になっていた。それはそれで作者としての特色も出ており、興味深い物であったが、どうしても往年の007シリーズを映画でも見ている当方にしてみればどこか違和感を覚えたのは正直なところだった。 しかし本書は当時の時代設定でまだ携帯電話すらない時代だ。逆にそれが007シリーズならではの雰囲気を演出しており、私個人的には映画の007シリーズの世界に一気に引き込まれるような錯覚を抱いて、物語世界に没入することができた。 さてそんなホロヴィッツ流007はまずボンドがレーサーに扮してスメルシュが画策する現在優勝争いトップのアメリカ人レーサー暗殺計画を阻止せよという任務から幕を開ける。 私は007シリーズを映画でしか見たことがないので、敢えてそれをベースに述べるが、今までの007シリーズでも類稀なる身体能力を発揮してプロさながらの腕前を見せてきたボンドだが、流石にこれは無茶ぶりだ。 彼もカーレースが趣味で齧っているということで任務に選抜されたが、明らかに無理がある。そして彼の相手はロシアのトップレーサーで腕前は一流ながらも過去に他のレーサーを故意に事故らせたとして処分された男。更にレースが行われるのはドイツのニュルブルクリンク。 しかし読書というのはどうしてこうも私を導くのか。 このボンドがレースに挑むドイツのレース場ニュルブルクリンクは実在するレース場でしかも世界でも最も難易度の高いレース場として知られており、本書に書かれている様々な悪条件は決して誇張ではない。そしてそれを私はつい先週に観たF1レーサー、ニキ・ラウダとジェームズ・ハントの伝記映画『ラッシュ/プライドと友情』で知ったばかりだ。ニキ・ラウダが全身大火傷を負う大事故を起こしたのがこのニュルブルクリンクだったのだ。まさに本書を読むに最高のタイミングだったと云えよう。 とまあ、知識があればあるほど今回の導入部の無茶ぶりが解ろうというものだ。 その後物語の軸は謎の韓国人実業家ジェイソン・シンことシン・ジェソンへと移る。 レース場でスメルシュの幹部とやり合っていた、1950年代当時ではまだ珍しかったヨーロッパの上層階級の交流場にいるアジア系のこの人物は人材派遣業で一大財を築いた男。 このスメルシュとの関係から繋がった糸はやがて偽札事件を追うアメリカの財務省に属する秘密捜査局の人間ジェパディー・レーンへとボンドを繋ぎ、更にロシアが画策するアメリカの宇宙ロケット打上失敗を絡ませたニューヨークの中心エンパイア・ステート・ビルの直下で地下鉄に乗せた、マンハッタン中心部を壊滅状態に陥らせるほどのテロ計画が発覚する。 つまり本書におけるボンドの敵はスメルシュではなく、韓国人の実業家シン・ジェソンだ。 彼は貴族階級の出で裕福な家庭に生れ、自身もソウル国立大学で経営学と法律を学び、英語もマスターしたエリートとして順風満帆な人生を送っていたが、朝鮮戦争で1950年6月25日に北朝鮮の韓国侵攻で避難生活を余儀なくされた。そして北朝鮮に加勢したアメリカ軍によって自分の家と祖母の命を失くし、ノグンリの橋に差し掛かった時にアメリカ軍用機から苛烈な攻撃を受け、一人命からがら生き延びた男だ。 妹を守ろうと胸に抱えて必死に避難したが、実は助けていた妹に弾が当たって自分の命が助かったという過酷な過去を持つ男だ。 そして去り際に祖母が渡してくれたブルー・ダイヤモンドを元手に人材派遣会社を立ち上げ、今の地位を築いた男だ。 このシン・ジェソン、なかなかの手強い相手でボンドは何度も窮地に陥る。 さて007シリーズの定番と云えばやはりボンドガールの存在だ。今回ボンドは3人の美女と出遭う。 1人目はプッシー・ガロア。彼女は前の任務ゴールドフィンガーの金塊強奪計画で知り合ったゴールドフィンガーの手先で同性愛者組織セメント・ミキサーズの首領で共に計画阻止を行った女性。 その任務の後、ボンドと共にロンドンへ渡り、同棲を続けていたが、ゴールドフィンガーの残党に拉致され危うく殺されそうになる。 2番めの美女はボンドにレーサーになるための訓練を行った女性ドライバー、ローガン・フェアファックス。 最初はボンドのレースへの挑戦を無謀だと思い、彼の運転技術を見くびっていたが、日に日に上達する彼を見直し、食事を共にし、その後一緒の部屋に行くまでになるが、プッシー・ガロアの拉致事件が起きて、ボンドと共にガロア救出へと向かい、なんとその後はガロアと恋仲になってアメリカに渡ることになる。 そして3人目の女性こそが今回のボンドガールだ。ジェパディー・レーン、Jeopardy、即ち「危険」をファーストネームに持つ彼女の正体については既に述べているのでここでは繰り返さないが、彼女の経歴もまた異色だ。 父親を6歳の時に亡くし、母親に捨てられ、路上生活を送っていたところを巡回サーカスに拾われ、そこで数々の曲芸を身につける。母が肝臓ガンで亡くなった後、叔父に拾われ、きちんとした教育を受けてアメリカ政府に仕える身になった。そしてその魅力は午前4時にも関わらずボンドに欲情を掻き立てさせるほどだ―というよりもボンドの性欲の凄さには驚かされるやら呆れるやら―。 そしてそのボンドの内面についても描かれるのが興味深い。 上にも述べたように私はフレミングの作品を読んだことがなく、映画でしか見たことないのだが、そのスーパーヒーロー然としたキャラクターはタフさが強調され、繊細さが描かれるようには感じられなかった。しかし本書ではボンドがスーパースパイであると同時に1人の人間としての弱さを備えていることも描かれる。 彼が色んな女性と色恋を繰り広げられるのは1人の女性と長く暮すことに苦痛を覚えるからで、一時の情熱にほだされるが長くは続かないことが吐露される。 またそれまでの任務が数限りなく悪の手下どもを抹殺してきたことに思いを馳せる。 絶大な権力を持つボスに家族や自身の命を盾にして好むと好まざるとに関わらず悪事に加担し、従わざるを得なかった、それまで普通の暮らしをしていた者もいるだろう、家族もいるだろう手下たちを殺してきた自分は果たして正しかったのかと自問する。“殺しのライセンス”を持つボンドは決して殺人機械ではないと自らを納得させることに成功する。 しかし毎回思うのだが、ジェームズ・ボンドはスメルシュやスペクター、またCIAやKGBにつとに知られた名前、コードネームだろう。 しかし彼はいつも他の職業に扮してもその名を名乗るのだが、なぜ偽名を使わないのだろうか。恰もスパイが来ましたと名乗り出ているようなものではないか。よほどその名前に誇りを持っているのか。 閑話休題。 常々述べてきたがホロヴィッツは本当に器用な作家だと今回も痛感した。先に述べたように時代設定を敢えて007シリーズがリアルに執筆されてきた1960年代にすることでシリーズ特有の雰囲気を味わえるし、また正典のキャラクターやエピソードもふんだんに盛り込まれ、地続き感が味わえた。 しかしやはりそれでもこれまでの作品にはどこか物足りなさが残るのは否めない。 それはやはり既存の有名シリーズのパスティーシュ作品であるがゆえに避けられないオリジナリティの欠如だ。 人気シリーズが作者の逝去によって続編が期待できないことはファンにとっては残念なことであり、その続編を他の作家が書くことは期待と不安が入り混じった物になる。ホロヴィッツはその器用さゆえに水準をクリアしているのが素晴らしいところだが、出す作品がいずれもパスティーシュになると、ましてや1つのシリーズのみならず、他のシリーズも同様に書くとなると、この作家は自身で新たな作品が創出できないのか、つまり既存の設定の上でしか書けないのかと疑いたくもなる。 彼のオリジナル作品である少年スパイアレックス・ライダーシリーズも必ずしもホロヴィッツの独自色が出ているわけではなく、既存のスパイ小説、特に007シリーズの影響が色濃く見え、寧ろ作者がそうすることで解る人には解るマニアックな愉悦を与えているような感さえある。 まさに職人作家とも云える才能と姿勢なのだが、水準は保てても突出したものが生まれないきらいがある。 しかしその懸念を振り払ったのが2018年の海外ミステリランキングを総なめにした『カササギ殺人事件』である。この作品をようやく読むに至った。 それまでの作品で蓄えてきた技能と技巧がどのように結実したのか、じっくり確かめながら読むことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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レンデルの短編集は過去に2冊読んでいるが、長編さながらに短編もレンデル特有の毒に満ちており、一読印象に残る作品が多いのが特徴。従って今回もそんな期待の中、読んでみた。
開巻最初の作品は表題作である夫婦の奇妙な“浮気”を扱った物。 男に対する免疫のない女性。 少し女性っぽく、そして女装をして完璧な女に成りすますことのできる男性。 女性は女性の心を持つゲイやオカマ、いわゆるトランスジェンダーに異性よりも抵抗なく接しやすいと云われるが、まさにクリスティンはその典型だった。 公の貌から私生活の貌へと変貌した男に怖さを覚える世慣れぬ女性の恐怖心がよく描かれた作品である。 次の「ダーク・ブルーの香り」も男と女の関係の話。 かつて愛した女性との再会を求めるのは女性よりも男の方がその思いが強いようだ。私も経験があるが、女性は恋に対して踏ん切りがつきやすく、別れてもすぐ次の恋に向かっていけるが、男は未練が残り、なかなか次に踏ん切れないでいることが多いのではないか。 斯く云う私もその経験者の1人なのだが。 本作の主人公の男もかつて別れた妻への思慕が募り、退職してから再会を望むようになった。彼の中に残る彼女の姿は若かりし頃の元妻の肖像。そして男は年不相応な若々しい風貌をしていることから、相手もそうではないかという錯覚に陥る。 このオチは容易に読めるだろう。 しかし愛は盲目で通常ならばそんな馬鹿な!と思われるようなことも盲目ゆえに信じてしまう。人を狂わせるのもまた愛なのだ。 「四十年後」はそのタイトル通り、回想の物語だ。 田舎の町で男女の不埒な関係がすぐに町中に伝わるような閉鎖された場所に送られた思春期の女性の回想譚。 出征中の夫を待つ美貌の妻。そこに現れた美男のパイロット。それを盗み見て男と女のロマンスと、セックスの妄想に耽る私。 いつの世も不倫に纏わる話の結末はこの上なく苦い。 いわゆる曰く付きの家というのがあるが、「殺意の棲む家」はそんな家を買った夫婦のお話だ。 幽霊が出るとか人殺しがあったとか、いわゆる曰く付きの家に住んだ人々には表面上は気にせずにいても、ふとそれが潜在的に意識され、そして妙な違和感を覚えるものである。スティーヴン・キングはそういう得体のしれない雰囲気を宿した物をサイキック・バッテリーと評したが、ある意味本作のカップルが買った家もそれに類するものだったのかもしれない。 真夜中に勢いよく閉まる窓。この実に些細な厄介ごとが、住民たちの神経を蝕んでいく。 「ポッター亭の晩餐」は一種面白みのあるデートシーンから始まるが、展開は予想外の方向へと移る。 イギリス男児特有のプライドの話。 最初はお財布代わりに誘われた男が、次から次へと高級料理を注文する女性に財布と心が蝕まれていく、半ばコメディな物語と思いきや、因縁の相手の浮気現場を目撃する展開になり、高額の食事代を立て替えられたことに奮起し、なけなしの貯金の中から鼓舞して返還をする若き男のプライドが示される。 原題の意味は「賄賂と堕落」だが、堕落は賄賂に屈したわけではなく、魂を売ったことに起因するのがレンデル流の捻りだ。 「口笛を吹く男」はレンデルでは珍しくアメリカと南米を舞台にした作品。 海外のメイドや使用人は手癖が悪く、すぐに家主の持ち物をくすねるが、本書のジェレミーもまたそんな盗癖を持った若者だ。そして彼がどこかの家の鍵を手に入れ、そこにある物をくすねてしまおうと企む。しかしそれは家主の壮大な復讐計画だったことが最後に判明する。 この復讐者マニュエルはいつも口笛を吹きながらその日暮らしをしている年輩の男性だが、のどかに見える口笛吹きが実は心の中では淡々と遠大な仕返しを練っていたと思うと、心に寒さを感じざるを得ない。 いわゆる老害を扱ったのが「時計は苛む」だ。 仲のいい老人たちが、いつか来るべき時と意識しつつ、また次第にボケが始まっていく恐怖に慄きつつもお互い行き来してそれぞれの生活に変化を与えながらその日その日を暮していく様を語りながらも、突然破局を迎える様がごくごく自然な成り行きで語られる。 欲しいと思った時計が既に売却済みだったことがしこりとなり、店に再び行ってみると店主は居眠りして気付かないので、思わず魔が差して時計を盗み出してしまう。 こんな些細な犯罪がやがて・・・。 特異な性癖を扱ったのが「狼のように」だ。 実に変わった内容だ。 40を超えた男が狼の被り物を着て狼ごっこに興じる。定職にも就かずアマチュア劇団に所属して役者として出演する生活を送る男。 しかしその狼ごっこがやがて彼の中で狼そのものと同化するようになる。 人間の心の狂気を必然性を以って語るレンデルだが、こんな話、レンデルしか書けない。 ちなみに原題の“Loopy”は英和辞典では「狂った」とか「ばかな」という意味が挙げられているが、本書ではラテン語で狼を表すルーパスから派生した言葉であるとされている。 次の短編「フェン・ホール」のタイトルは主人公プリングル達3人の少年がキャンプをしに連れられたリドゥン氏の家の名を指す。 父親の友人宅の近くでキャンプをすることになった彼らが遭遇した事故。それは前日の強風で倒れた木を剪定している時に起きた不意の事故。木を切った時にバランスが崩れ、根っこが穴に落ち、そこにいた妻が下敷きになって死ぬ。 しかしその前夜に夫婦が云い争う声を聞いていた彼らはそれが本当に事故なのか故意なのかが解らない。 不穏な空気を纏って物語が閉じられるのは次の「父の日」も同様だ。 結婚し、子供が生まれて家族が形成され、それは安らぎの場になったり、もしくは疎ましく思う場になったりと様々だが、愛情が強すぎるとそれを失う恐怖感に苛まれるようにもなるようだ。この実に特異な恐怖観念に囚われた男の話だ。 子供を大事にするあまり、外出時もベビーシッターに頻りに連絡を取り、安否を確認する、妻が綺麗になったら子供を連れて逃げやしないかと慄く。勝手な被害妄想だが、旅行最終日に現地の友人と食事に行った夫婦は夫しか戻ってこなかった。 彼の話では妻はその友人とドイツに帰ると云って家族を捨てたと云う。しかし彼の掌にはざらざらした石の表面に押し付けたような小さな穴がいっぱいついていた。それは滑りやすい崖で落ちないように踏ん張ったかのように。 果たして本当に彼の妻は家族を捨ててしまったのか。 それともいつか子供たちを盗られると思って夫が崖から突き落としたのか。 しかしこの結末はもはや自明の理だろう。 そして題名「父の日」には一読後、戦慄を覚える。のどかな言葉が一転して恐ろしさを帯びるところがレンデルらしいと云えばらしいが、それにしても…。 さて最後の短編「ケファンダへの緑の道」はそれまでとは毛色の違った作品だ。 何とも云えない味わいを残す作品だ。 小説家が小説家を語る時、そこには小説家自身が投影されているだろうと思えるが、レンデルは英国女流ミステリ作家としてP・D・ジェイムズと比肩する一流作家であるのに対し、本書に登場するアーサー・ケストレルは新作が発表されても批評家も取り上げない売れない作家であるところが興味深い。 本作はそんな不遇な小説家がヒットを放つ、というような話ではなく、あくまでレンデルはシビアに描く。 ファンタジーのシリーズ小説を発表しながら、決して書評に挙げられることはなく、毎月数多出版される作品群の中に埋没するだけ。従って毎回作品を発表した後は鬱に見舞われ、家に引きこもる。それを繰り返す。 そして初めて書評に挙げられた作品が最後の作品となる。 レンデルの第3集目となる短編集は1985年に本国イギリスで刊行された物で、バーバラ・ヴァイン名義であるの第1作『死との抱擁』が発表される前年に当たる。 ヴァイン名義の作品は犯罪を扱いながらも純文学に寄り添った作風であるのが特徴だが、その志向が滲み出ているせいか、本書収録の作品も純文学に寄り掛かったミステリが多いように思える。内容的には人間の心が思いもかけない行動を起こす物が多いように感じるのだ。 それは各編が男と女の関係の纏わる皮肉な結末を扱っているからだ。 特殊な不倫関係、別れた妻との再会を望む男、出征中の夫を持つ妻の不倫、曰く付きの家を購入した夫婦、父親の敵の浮気現場を見つけた息子、家主に隠れてセックスを交わす若い男女、40を超えたカップルと息子離れしない母親、価値観の違う夫婦、綺麗になった妻に子供と一緒に逃げられやしないかと恐れる夫。 そして内容は自分を変えたと錯覚したがゆえに陥った過ちだったり、幼い頃のトラウマとなったことが年月を経て判明した事実で自分の抱いた推測が確信に変わったり、噂だと一笑していたのにいつの間にかそれに取り込まれてしまったり、プライドを護ろうとしたことが相手に格の違いを見せつけられ、卑しき虚言者に陥る者や相手の寛容さを利用して金を騙し取ろうとしたが逆に罠に嵌る者もいる。 その中でも最も変わったのが「狼のように」に出てくるコリンとその母親だ。 後半に行くと更に真相は曖昧になる。 例えば「フェン・ホール」と「父の日」がそれに当たるだろう。 収録作品中男女の情愛がないのは「時計は苛む」と「ケファンダへの緑の道」だ。 前者は仲の良い老人仲間の話でそこにしかしそこには長らく築いた友好関係が存在するのだが、微罪によってそれが崩壊する、実に皮肉な様が描かれている。 後者は売れない小説家が初めて自作を批評される話だ。 この「ケファンダへの緑の道」が本短編集の中の個人的ベストだ。 全ての作品に共通するのは錯覚であれ、疑問であれ、懸念であれ、それらは最初はほんの些細な火種に過ぎない事だ。それがしかし各人の心の中で肥大し、暴走し、そして取り返しのつかないほどまで成長する。そしてそれが過ちへと繋がる。 それは我々一般読者でも抱くような小さな火種で決して他人事ではない。つまり日常と非日常の境は斯くも薄い壁で遮られているのだということ思い知らされるのだ。 しかし各編ページは少ないながらもなかなか入り込むのに手間取った感がある。長い物でも30ページ前後でほとんどが20ページ前後と実にコンパクトだ。 しかしそれでも読むのに時間がかかったのはレンデルの創作作法にある。 導入部がいきなり渦中から始まるため、各登場人物の設定やシチュエーションが頭に入ってこず、把握するのに何度も読み返す必要があったからだ。しかも案外各編の設定は特殊なため、なかなかその世界に入り込むのに苦労した。きちんと状況は書かれているが、数ページしてようやく設定が判ってくるため、それまでの地の文などに書かれた時間軸や場所、更に登場人物の相関関係、果ては性別までもが後からついてくる形となり、結構手こずった。 しかしそんな困難さが逆に物語の味わいを深めるのも確か。特に最後に収録された「ケファンダへの緑の道」を読むと主人公の口から小説をいかに読むかを示唆され、また悪意ある書評に対する作者への非難も行間から読み取れ、レンデルが目の前で訓辞を垂れているかのような錯覚までに陥る。 そしてこの作品の結びのように作者の思いが読者に届くことこそ小説家の本望だろう。私にはその思いは確かに届いた。 しかし作者の思いが届くには物語が読み継がれなければならない。レンデルの死後、彼女の作品の大半が絶版状態で読めなくなっている。英国女流ミステリ作家の大御所だった彼女でさえ、そんな 悲惨な状況だ。 今なお未訳作品も多いレンデル=ヴァイン。是非ともジョン・ディクスン・カーのようにいつか全作翻訳され、そして新訳復刊されるようになってほしい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ホロヴィッツがコナン・ドイル財団からホームズ譚の正典の続編を書くことを公認された作家であることは『絹の家』の感想に述べたが、本書はそれに続く第2弾の続編に当たる。
そして大胆不敵にもホロヴィッツはホームズとワトソンを一切登場させず、脇役であり道化役でもあったスコットランド・ヤードの一警部アセルニー・ジョーンズとアメリカから来たピンカートン探偵社の調査員フレデリック・チェイスを物語の主人公に据えた。 前作『絹の家』はホームズとワトソンによる真っ当なホームズ譚であったが、本書はホームズがモリアーティ教授と格闘の末にライヘンバッハの滝に落ちた直後から始まる。 モリアーティ教授と手を組むためにアメリカからイギリスへ渡ったアメリカの犯罪組織の首領クラレンス・デヴァルーを追ってロンドンまでやってきたピンカートン探偵社の調査員フレデリック・チェイスとモリアーティ教授を追ってスイスに訪れたスコットランド・ヤードの警部アセルニー・ジョーンズがコンビを組んで、ライヘンバッハの滝から上がったモリアーティ教授の物と思われる遺体から出てきた奇妙な手紙を発端に正体不明の犯罪者デヴァルー逮捕に向けて捜査を行うといった趣向で、ホームズとワトソンは一切彼らの捜査には関わらない異色な作品になっている。 そう、本書ではホームズの世界観をバックに2人の主人公が縦横無尽に活躍する内容になっている。 とはいえ登場するのは正典に所縁のある人物ばかりで、本書で主役の1人を務めるアセルニー・ジョーンズは『四つの署名』に登場したスコットランド・ヤードの警部である。 本書では親切なことに訳者による本書で登場するスコットランド・ヤードの面々が正典のどの作品に出たか詳しいリストがついている。 このアセルニー・ジョーンズ、私自身は忘却の彼方であるのだが、実は正典では無能ぶりが強調された警部として描かれているようだが、本書では実に緻密な観察眼と推理力を持つ、おおよそ正典では存在しえない優秀な捜査官ぶりを発揮する。 私は当初彼は滝に落ちて亡くなったと見せかけたホームズが成りすました人物だと思っていた。というのもその推理振りはホームズのそれを想起させるものであり、更に足が悪くて休み休みでないと歩けないという描写があることから、怪我がまだ治り切れないホームズであると思われ、更に彼の台詞「たとえそれがどんなにありそうにないことでも、問題の本質として充分考慮しなければならない」はホームズのあの有名な台詞を彷彿とさせるからだ。 しかし彼が妻による夕食をチェイスに招待する段になってその確信が崩れてしまう。 そしてその妻エルスぺスがチェイスに語る、彼が正典で被った屈辱から徹底的にホームズを研究して彼に比肩する頭脳明晰な捜査官になろうとしていることが明かされる。 つまりは本書においてのホームズはかつてその名探偵とその助手によってコテンパンに揶揄われることに一念発起して切磋琢磨したスコットランド・ヤードの警部である。いわば彼はホームズシリーズにおける「しくじり先生」なのだ。 上記のようなことも含めてシャーロック・ホームズのパスティーシュ作品である一方で批評小説でもある。語り手をピンカートン探偵社の調査員フレデリック・チェイスにすることで部外者の視点からホームズ譚について疑問を投げかける。 例えばライヘンバッハの滝でホームズとモリアーティ教授は対決するが、わざわざ敵の首領自身がスイスくんだりまで乗り込んでホームズと対決することが解せないとチェイスは問う。 更にホームズがこの後身を隠して自分が死んだことに見せかけようとするのも理解しがたいと述べる。 加えてその後セバスチャン・モラン大佐が突如現れて崖を下るホームズに岩を次々と投げ落とすのもなぜモリアーティ教授が格闘している時に加勢しなかったのかと問い質す。 まあこれはドイルが無理矢理ホームズシリーズを終わらそうとしたが、読者の猛抗議に遭って無理矢理再開したことの弊害を指摘しているだけなのだが。 更にスコットランド・ヤードの警察官たちの中にはホームズの推理に疑問を持つ者をいることが描かれる。 曰く、筆跡から書いた者の年齢まで解るものだろうか、歩幅で身長を本当に推定できるのだろうかと云い、今になると彼の推理は何の科学的根拠もない荒唐無稽な代物だとまでこき下ろす。 更には今までさんざんバカにされてきたことに腹を立てたりもする。 つまりホームズに頼ってきたスコットランド・ヤードの警部が物語の中心になることで警官たちのこれまでホームズという奇人に対して募ってきた本音が描かれるのである。 更に毎度同じことばかり云って恐縮だが、ホロヴィッツは読み度に実に器用な作家だなと思わされる。 例えば作中に大文字と小文字の入り混じった手紙が登場するが、それは大方の予想通り暗号なのだが、それを読み解くプロセスは正典の暗号小説「踊る人形」を彷彿とさせるのだ。 また正典の「赤毛組合」で登場した犯罪者ジョン・クレイとダンカン・ロスが本書に登場し、デヴァルー一味の逮捕に一役買う。しかし彼らの末路は何とも哀しいのだが。 しかしつい先月読んだ島田氏の『新しい十五匹のネズミのフライ』でも正典の「赤毛組合」が下敷きになっており、何とも奇妙な偶然に見えざる手による導きを感じざるを得ない。 物語はその後意外な展開を見せる。 それまでスコットランド・ヤードの警部とピンカートン探偵社の調査員の物語だったのが最後になって題名となっているモリアーティの意味が立ち上ってくるのである。 そう、これは緻密な頭脳を持つ犯罪者モリアーティの恐ろしさを知らしめる物語である。 最後に付されたホームズのパスティーシュ短編「三つのヴィクトリア女王像」には再びホームズと共に長屋に住む年輩の夫婦が侵入した泥棒を殺害したことを発端にそこに住む3軒からそれぞれヴィクトリア像が盗まれる奇妙な謎を追うアセルニー・ジョーンズの話が添えられる。 そこに登場するジョーンズは他のホームズ譚同様にホームズの明晰な推理によって事件の解決がなされ、白旗を挙げる典型的なスコットランド・ヤードの警部像があるだけだ。そこにはチェイスが幾たびも感心したジョーンズの姿はない。しかしそれでも彼がホームズに憧れる契機となった若き肖像が写し出されている。 これは全くの私見だが、シャーロッキアン達を筆頭にするホームズ作品の愛好家たちが好むホームズのパスティーシュ作品は正典で名のみさえ出ながらも語られなかった事件や正典の中で触れられた出来事に由来する物語、即ち正典の隙間を埋める作品が好まれ、更にそれらをもう作者の筆によって読めなくなったホームズとワトスンの活躍を再現しているような作品が高く評価されているように思える。 従って本書のようにホームズの世界観をベースに置きながら主人公は別のコンビであるような作品は、例えその一方が正典に登場するスコットランド・ヤードの警部であっても評価が高くならないのではないか。 彼ら読者にとってやはり読みたいのは本家のホームズとワトスンによる新たな活躍なのではないだろうか。 そう思うのは先月に読んだホロヴィッツの『絹の家』や島田荘司氏の『新しい十五匹のネズミのフライ』どちらもホームズとワトソンが主人公になったパスティーシュでどちらも『このミス』でランクインしているからだ。 そして本書の後、ホロヴィッツはホームズのパスティーシュ作品を2020年現在書いていない。それは本書の出来栄えにコナン・ドイル財団がお気に召さなかったのか、それともホロヴィッツ自身の意志によるものなのかは解らない。 本書はホロヴィッツが一ミステリ作家としてのオリジナリティを発揮することを試みた野心的な作品であることは想像に難くない。しかしそれは実にチャレンジングな内容であった。 この結末の遣る瀬無さを世の中のシャーロッキアンやホームズ読者がどのように捉えたのか。それが今なお彼が次のパスティーシュ作品を書いていない(書けてない?)答えのように思えてならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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スカイ・クロラシリーズ4作目の本書での語り手はクリタ・ジンロウ。そう、1作目では既に戦死しており、その機体を引き継いだのがカンナミ・ユーヒチだった。
1作目では明かされなかったクリタ・ジンロウの死と草薙の絶望についてようやくこの4作目で語られるのかという思いでページを捲った。 予想できたことだが、草薙水素は前作にも増して絶望している。彼女は会社のロールモデルとして生きることを強いられ、死と隣り合わせの空中戦闘に参加させられないことにフラストレーションをため込んでいる。 そして物語の終盤で語られる草薙水素の驚愕の秘密。 さてとびとびに読んでいるこのシリーズはそれまでの登場人物が密接に関わり合ってくるのできちんと備忘録として残しておかねばならない。 フーコは1作目から登場する女性で『スカイ・クロラ』では娼婦頭だったが本書ではクリタ・ジンロウの恋人(?)だ。 『スカイ・クロラ』でカンナミのパートナーとなる土岐野も本書で登場し、1作目で語られていたようにクリタのパートナーである。 そして本書のキーを握る人物相良亜緒衣は草薙の知り合いの医者だった人物だ。 また前作で草薙の取材をしていた新聞記者の杣中も登場する。 新たな登場人物としては草薙水素の異父妹でクサナギ・ミズキが登場する。但し風貌はまだ幼い少女だ。 そして情報部のコシヤマという人物も登場する。 これらの人物が今後の物語にどのように関わってくるのかもこのシリーズの興味の1つだ。 戦闘機のパイロットは常に死と隣り合わせだ。出発前に元気だったからと云ってそのまま基地に還ってくるとは限らない。 しかしそれでもなお彼ら戦闘機のパイロットは空を飛ぶことを止めない。その理由が本書には思う存分書かれている。 それは彼らが到達する天上は鳥さえも飛ぶことができない不可侵領域だからだ。その空と宇宙との間の澄み切った世界に入れるのは彼らパイロットの特権だからだ。 彼らが飛ぶのは敵と戦うためだが、そこに命のやり取りという意識はない。 彼らは存分に彼らしか到達できない世界で自由に飛んで戦うことを愉しむことができるからこそ飛ぶのだ。 そこで彼らは地球の重力からも解放され、全き自由が得られるのだ。この自由、そして不可侵の空にいることの無敵感こそが彼らに至上のエクスタシーをもたらす。 その純粋さは恐らく新雪のゲレンデを一番乗りで滑るスノーボーダー達が感じる喜びの数百倍に匹敵するのではないだろうか。 だから彼らは命を亡くすかもしれない戦闘機パイロットの職を辞めない。 例え敵に撃墜され、命を喪うことになっても、何物にも代え難い空での自由の前では死すらも安く感じるのではないか。 もしくは永遠の命を持つキルドレは普通に生活していれば無縁の命の危機をパイロットとなって戦闘に関わることで死を意識するスリルを味わうことができる。 あるいは長らく生きていることでもはや死を望んだ彼らが永遠の眠りを手に入れるために敢えて死地として空を選んだ者もいるだろう。 戦闘機乗りは地上では穏やかだが、空に出ると戦闘的になる者が多いと作中には書かれている。戦うことが礼儀だからだと語り手のクリタは述べる。 つまり彼らは命の駆け引きなしで空を飛ぶことに満足できなくなっているようだ。 敵を撃墜すると気分はハイになるとも書かれている。 人の命を奪ったのに彼らに残るのは“人を殺した”という罪悪感ではなく、敵を撃ち落としたという即物的な喜びだ。 一方で仲間が撃墜されるとその喪失感でしばし呆然となる。そんな時の食堂は閑散としているが、パイロットたちは彼らの死を偲ぶのではなく、寧ろ新しい人員がいつ補充されるかを考えているだけだとクリタは述べる。それはやはり自身も戦闘機に乘る駒の1つに過ぎないと思っているからだろう。 クリタ曰く、草薙水素が笑うのは空の上にいる時だけらしい。その時の彼女は実に愉しそうに、そして嬉しそうに笑うようだ。 そんなエピソードが草薙水素の絶望を更に引き立てる。 そして本書の最大の焦点である語り手クリタ・ジンロウの末路はどうなったのか? 1作目の『スカイ・クロラ』では草薙水素がクリタ・ジンロウを殺したとあり、それは彼が永遠の命を持つキルドレという呪縛から解放されたいがためにクリタが死を選んだとあったが、本書に登場するクリタは永遠の命を持つキルドレであることを寧ろ受け入れ、飛行機に乗りたいからキルドレであることを選び、死にたくないと公言している。 果たしてこの真逆なクリタの心情がいかにして180°変わるのか、興味を覚えながら読み進めた。 Flutter Into Life、“生への羽ばたき”とでも訳そうか。戦闘機乗り達は自分たちの生を実感するために命を喪うかもしれない空の戦場へと向かう。 この大いなる矛盾はもはや理屈ではなく、戦闘機乗り達が持っている共通項なのだろう。 命を賭けてまで辿り着きたい場所がある。その場所でしか味わえない自由がある。 草薙水素もクリタ・ジンロウも、そして黒猫こと元ティーチャも生きるために死地へ向かい、飛びたがっている。 生きている限り、彼らは飛び続けたいのだ。 ハリケーンや台風が訪れる前後の夕焼けは紫色に染まるという。本書の表紙が紫色なのはクリタ・ジンロウと草薙水素に大いなる人生の転換という嵐が、空を飛べなくなった災難が訪れたからだろうか。 願わくば草薙水素をもう一度空へと飛ばしてほしい。 しかしもはや残された空の色は哀しい色しかないのだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2015年、私が最も驚いたのは御大島田荘司氏がホームズ物のパスティーシュを著したことだ。彼のホームズ物のパスティーシュと云えば直木賞候補にもなった『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』が有名だが、それが発表されたのが1984年。
そう、実に30年以上の時を経て再び島田氏がホームズ物のパスティーシュを発表したのだ。 なぜ今に至って御手洗潔シリーズのモデルとも云える彼の原点であるホームズ物のパスティーシュを著したのかが私にとって不思議でならなかったが、BBCドラマの『シャーロック』の放映をきっかけに昨今ホームズ物のパスティーシュが映画、ドラマのみならず国内外で発表されており、そのいずれもが正典をリスペクトした上質なミステリになっていることがもしかしたら御大のホームズ熱を触発して書かれたのかもしれない。 そして私はホロヴィッツのドイル財団公認の“正式な”ホームズシリーズ続編である『絹の家』に続けてホームズ物を読むことになった偶然にまたもや運命の意図を感じてしまった。 さて今回島田氏が紡いだパスティーシュはなんとあの有名な「赤毛組合」の事件がホームズを誤った推理に導くように画策された事件だったというもの。その裏側では更に別の犯罪計画が潜んでいたという、まことに大胆不敵な内容だ。 今までホームズのパスティーシュは数多書かれているが、それらは正典の中から登場人物やら事件やらをエピソードとして語るに過ぎなかったが、短編そのものをミスディレクションに使用した作品はなかっただろう。 島田作品の長編には本筋に関係したサブストーリーが結構な分量で収められているのが特徴だが、上に書いたように今回はそのサブストーリーがなんと「赤毛組合」1編がまるまる収められている。ドイルの生み出したシャーロック・ホームズとワトソンから御手洗潔と石岡和己のコンビの着想を得た島田氏がとうとう師匠の作品を下地に更なる高みを目指した本格ミステリを生み出すに至ったことに私は感慨深いものを覚えてしまった。 また先に読んだ『絹の家』でもそうだが、ホームズ物のパスティーシュには正典からのネタが織り込まれているのが常道だが、本書もその例に洩れず、いや洩れないどころか島田荘司氏の奔放な想像力で読者が予想もしていなかった使い方をしている。 そういう意味では上に書いた赤毛組合の使い方も島田流のアレンジだと云えるだろう。 また『絹の家』でも感じたことだが、私はいわゆるシャーロッキアンではないので本書に織り込まれたネタを十全に理解しているとは云えない。従って本書の中には正典に含まれていたかどうか不明なネタもある。 今回は麻薬中毒で全く使い物にならなくなったホームズに代わってワトソンが事件解決に乗り出すというものだが、本書で描かれるワトソン像は御手洗シリーズの石岡君そのものだ。 ホームズ抜きでホームズ短編を独自のアイデアで書いたことを誇らしげに思えば、今までのホームズ作品の中で一番の駄作と断ぜられ―因みにその作品は「這う人」というもの―、亡くなった兄の妻に交際を申し込めば、貴方にはもっといい人がいると云われて断られ、涙で枕を濡らすいじけぶりを見せる。 また一方でホームズはどうかと云えば『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』でも見られたように、島田氏はシャーロッキアンでありながらも自作で登場させるホームズをヤク中で奇怪な行動が目立つ変人として描く。 特に赤毛組合の事件を解決した後のホームズの体たらくぶりはここまで書いていいのかと思うほどひどい有様だ。 さて本書の最大の謎はタイトルにも冠されている「新しい十五匹のネズミのフライ」が何を意味するのか、そしてどうやって詐欺グループは難攻不落と云われる刑務所から脱獄できたのかの2つだが、この真相はなかなか面白かった。 いやはや作者は当時御年65歳だが、まだまだこんなミステリネタを案出する柔軟な頭を持っていることに驚かされる。 但し幸か不幸かこの一月でホームズのパスティーシュ物を2作続けて読むことになり、どうしてもその2作を比べてみてしまうのだが、ホームズの作風を、いやドイルの作風を忠実に再現しているとすればやはりホロヴィッツの『絹の家』に軍配が上がるだろう。 島田流ホームズのパスティーシュは上に書いたように本家をモデルにして書かれた御手洗シリーズのテイストがどうしても滲み出ており、正典の2人の性格や為人が島田流に料理されている感が否めないからだ。 さて最後に興味深く思った一節にちょっと触れよう。 ワトソンが自ら自信作として放った「這う人」がひどい駄作だと評されて世にも出なかったのに対し、編集者に急かされてホームズの奇行を基に無理矢理書いた「まだらの紐」が大絶賛を受けたことに対してワトソンは読者の好みというのが解らなくなったと漏らす。 それをホームズは全ては嘘八百であり、そんな嘘に読者は真実を見る、だから誰も何が受けるのかは解らないから他人の評価に一喜一憂する必要はないと説く。 これは今まで数多くの作品を放ってきた作者自身が抱き、目の当たりにした傑作と凡作の見えない境についての心情のように思えた。 常に作家は全力投球をしているがどうしても礼賛される作品とそうでないものが現れる。そして作家はどんな作品が受けるのかと研究を重ねるが、渾身の作品が世評が低かったときにショックを受け、落ち込み、もはや何を書いたらいいのかが解らなくなる。それがスランプへと繋がるのだろうが、結局傑作か凡作かは受け手である読者がどのように思うのかによるので誰も解らないのだと作家生活を40年近く続けている島田氏が説いているように思える。 そして今やネットで簡単に本の感想を公共の場で云い合える環境にある中で、作者の創作意欲を喪失させるようなひどい感想が散見されることもあるが、そんなものは気にせず、己の信じた道を進めばよいと諭しているようにも感じた。 本書が島田氏にとってどんな位置づけの作品なのかは解らないが幸いにして発表当時本書は『このミス』に久々にランクインを果たした。恐らく作者自身自信作として放ったが、あまり受けないことをも想定して上のようなことをワトソンの口を借りて話したのかもしれない。 恐らくこの島田荘司という作家は死ぬまで本格ミステリのことを考え、新しい力を支援し、そしてそれに負けじと自らも作品を発表し続けるに違いない。 まだまだこんな作品が書ける島田氏をこれからも私はその作品を買い続け、そして読み続けるつもりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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少年スパイアレックス・ライダーシリーズで日本に紹介されたホロヴィッツが年末のミステリ界のイベントであるランキング本に初めてランクインしたのが本書である。
つまり本書は初めてホロヴィッツがミステリ読者に認知されることになった作品でもある。 日本人というのはなぜかホームズのパスティーシュ作品に目がないようで、いわゆるシャーロッキアンと呼ばれるホームズマニアが多くおり、日本シャーロック・ホームズ・クラブなるものまである。そしてそういう方たちの中には自らホームズのパスティーシュ作品を手掛ける者もおり、本書の解説をしている北原尚彦氏はその第一人者である。彼の作品はまさに正典を読んでいるかのように忠実にシリーズの文脈や雰囲気を再現しているが、本書もまた同様に正典を読んでいるかのような錯覚に陥るほどの出来栄えだ。 それもそのはずで実は本書は通常のパスティーシュに留まるものではなく、コナン・ドイル財団から正典60編に続く61編目のホームズ作品として公式認定された続編なのだ。 そんな大業のためにホロヴィッツは自ら本書を書くに当たり、10箇条を設定し、その中の1つに19世紀らしい文章表現をすることを課していたのだ。 今回ホームズが手がける事件は≪ハンチング帽の男と絹の家≫と呼ばれる事件で時期としては『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』所収の「瀕死の探偵」事件以後に当たる。その内容はアメリカでの取引でギャングにつけ狙われることになった美術商の依頼で彼の身辺をつけ回すハンチング帽の男の正体を探ることに端を発し、その男の行方を探らせたベイカー街別動隊の1人が殺害される事態まで発展し、さらにその捜査の中で浮上した“絹の家(ハウス・オブ・シルク)”なる不明な言葉の謎を探るうちにいつの間にか国際的な陰謀に巻き込まれるという実に壮大な事件である。 ホロヴィッツはそれまでのホームズ物にない、ベイカー街別動隊の仲間の死と“絹の家(ハウス・オブ・シルク)”の謎が英国政府機関からも口止めされるほどの機密事項であることから彼の兄マイクロフトの助けさえも借りられなくなるという大きな試練を与えている。 そしてこのベイカー街別動隊の一員の死がその後作品でベイカー街別動隊が登場しない理由となっている。即ち子供を事件捜査に携わらせて危険な目に遭わせることをホームズは禁じたのだ。恐らく正典ではアクセントとして登場していたに過ぎないであろうベイカー街別動隊の登場について上手く理由づけまでするのだ。 またワトスンの妻メアリの死の前兆などにも触れられていたりと、こんな風に本書ではそこここにシャーロッキアンをくすぐるような演出や情報が取り込まれている。これも作者自身が積極的に正典から主な登場人物を意表の着く形で登場させると10箇条の1つとして入れているからだ。 従って本書の中に登場する数々の人名や事件の数々は正典とのリンクが多々見られ、生粋のシャーロッキアンならばニヤリとするに違いない。私もホームズシリーズは全て読んだものの、あいにくシャーロッキアンほどの記憶力と知識を備えておらず、どこかで聞いたことがあるがどの作品だったのかと記憶を掘り起こしてはみるもいささかも思い出す気配のない始末だった。 そしてワトスンによる序文にこの事件が今まで語られなかったのはホームズの名声を傷つける恐れがあることとあまりにおぞましく、身の毛のよだつ事件であったこととある。 往々にしてこのような話は読者の気を惹きつけるために煽情的に書かれ、実際はさほどと云ったものが多いが、本書はその言葉が示すように確かに今までのホームズ譚にはなかった、刺激的で痛烈な真相が暴かれる。 蓋を開けてみればイギリスの政界がひっくり返るような大スキャンダルと執念深いアメリカ・マフィアの意外な正体、その他色んな事実が判明する痛烈な真相であった。 まさにホームズ生前では語るのを躊躇われる悍ましい事件だった。 しかしホロヴィッツ、実に器用な作家である。複雑怪奇な事件を案出し、更にそこここに正典で語られる事件のネタを放り込みつつ、更に今回の時制がホームズが亡くなって1年後という回顧録の体裁を取っていることで、リアルタイムでホームズの活躍を綴っていた時には語れなかったワトスンの心情が思い切り吐露されており、それがまた実に面白い。 ホームズの引き立て役となったスコットランド・ヤードのレストレイド警部の作中での扱いに対するお詫びにベイカー街別動隊が必ずしも清廉潔白な一味ではなく、貧民窟で育った子供なりに手癖が悪かったことや彼らの生活環境が“最底辺”と呼ぶに相応しい劣悪な環境に逢ったこと、ホームズの兄マイクロフトに抱いた印象とその後の彼について、そしてホームズ最後の敵となったモリアーティ教授との邂逅と彼による刑務所に入れられたホームズの救済への意外な助力と、まさに「今だからこそ云える」話が盛り込まれている。 しかし一番驚いたのがホームズシリーズでも随一の人気を誇る『バスカーヴィル家の犬』のストーリーの流れを擬えたかのような展開だ。 あの作品では一旦ホームズは捜査の舞台から退き、しばらく語り手のワトスンだけの捜査になる。本書もまた同様に捜査の途上で亡くなったベイカー街別動隊の1人ロス・ディクスンの仇討ちとばかりにアヘン窟に乗り込んだホームズがその姉を銃殺した容疑で逮捕され、ワトスンは一人での捜査を強いられる。 『バスカーヴィル家の犬』ではホームズはロンドンでの別の事件の捜査に携わなければならない事態で一旦退場するのに対し、ホロヴィッツは本書でホームズ逮捕、しかも目撃者多数で「ハウス・オブ・シルク」という禁断の領域を侵そうとする彼の殺害計画が進行しているという絶体絶命な状況を演出するのだ。 そして彼が単に器用な作家に留まらず、センス・オブ・ワンダーを持っている作家であることが今回よく解った。 正直私は島田氏の作品を読んでいるかのような錯覚を覚えた。 また冤罪で捕まったホームズが脱獄する手法もホームズが変装が得意であることを上手く活かしてサプライズをもたらしている。また刑務所からホームズが脱走するシチュエーションはある意味ルパンへのオマージュではないかと思ったりもする。 また男娼の施設の名称が「ハウス・オブ・シルク」である理由もよく練られている。 まさに続編と呼ぶに相応しいホームズ作品だった。そしてそんな大仕事を見事にこなしたホロヴィッツはまさにミステリの職人である。こんなミステリマインドを持った作家が日本ではなく、英国に今いることが驚きだ。 さてこの職人、次はどんな仕事を見せてくれるのか、愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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天童荒太氏の名を世に知らしめたのが3作目の『永遠の仔』であることに論を俟たないが、そのブレイクへの大いなる助走となったのが、家族全員を陰惨な方法で殺害する、何とも陰鬱な事件を扱った本書だ。この2作目で天童氏は97年版『このミス』で8位になり、初のランクインを果たした。
本書で扱われる事件はタイトルから想起されるそのものズバリの一家惨殺事件だが、その内容は愛に不器用な者たちの痛々しいまでの物語だ。心から血を吐くほどに狂おしいまでにそれは痛々しい。 それに触れる前に本書で扱われる一家惨殺事件について触れよう。とにかくその内容は想像を超える凄惨さを極めた残酷ショーだ。 最初の一家惨殺事件では全裸にされて手足を縛られ、背中合わせに転がされた夫婦が声を出さぬよう、テニスボールを喉に入れられた状態でノコギリで全身を何度も切り刻まれながら拷問され、最後に喉をノコギリで切られて絶命した様が描かれる。更に母親の方は鋏で右の乳房を抉り取られてもいる。 もう1人老人がいるが、掌を釘で椅子の腕木に打ち付けられ、更に頭を金槌で打ち付けられて頭部が陥没している。 更に発見者の巣藤浚介が見ている最中に左の眼球が零れ落ち、その眼窩から大量の蛆虫が流れ出るという食事前には決して読みたくないような状況が描かれる。 もう1つの家族は更に凄惨を極める。 同じく裸にされ、椅子に針金で縛られた状態で灯油を掛けられ、火を付けられたかと思うと3秒くらいで濡れた毛布で消され、再度灯油を掛けられ、また火を着けられ、毛布で消されを繰り返される。父親は上半身を、母親は下半身を燃やされては消されを繰り返され、この世の物とは思えない苦痛の中で死に絶える。死体はもはや誰かも解らない炭と化した肉塊と成り果てる。 そして最後の生贄になった夫婦は裸で椅子に座らされた状態で首を足首に電気コードで繋がれた状態で、夫は柳刃包丁で皮膚を刮ぎ取られ、妻は安全ピンを深く刺された状態で乳首から臍まで皮膚を引き裂かれる。 こんな常軌を逸した凄惨な事件を捜査するのが杉並署の刑事馬見原光毅。かつては捜査一課のエース的存在だったが、今は所轄署の書類仕事専門の閑職に就いているこの男もまた家族が壊れた男だった。 馬見原は厳格で理不尽な警察官の父親に育てられた。この父親は暴君的な存在であり、母親はそんな父親の横暴ぶり、理不尽な仕打ちにも家長を立てる古風な女性で、些細なことでぶたれても逆に夫に自分をぶたせるようなことをしてしまった自分が悪いと謝る始末。もちろん馬見原自身もぶたれることがしょっちゅうだった。 しかも父親のことを褒め称えた作文が小学校で賞を受け、喜んで父親に報告した馬見原の目の前で下らんと母親を叱り、更にはその作文を破るまでした。それ以外でも長男である彼は弟や妹たちよりも一層厳しく育てられた。 本書で語られる馬見原の少年時代に被った親の躾は度が過ぎており、もはや虐待だ。 そして長じて馬見原は父親と同じ警察官になり、現役時代ずっと巡査長のままで終わった父親とは違うと仕事にのめり込み、実績を上げ、名刑事の名をほしいままにする。 更に息子を厳しく育て、息子もその期待に応えるかのように目上の人間に敬意を払い、礼儀を重んじ、成績も優秀になる。しかし馬見原はそんな息子を褒め称えず、もっと上を目指すよう厳しさを緩めない。それでも馬見原の期待に応えるが、偏差値の高い進学校への入学が決まった中学の卒業パーティーでアルコールを飲み、今までの父親からの抑圧から、鬱屈から一気に解放されたかのようにバイクを乗って暴走し、事故死する。 そのショックで今まであまり目を掛けてもらえなかった娘は馬見原を恨み、非行に走り、暴走族に入って補導され、少年院に入るまでする。その後更生し、結婚して子供も設けるが、父親の馬見原を忌み嫌い、父と呼ばず、「こいつ」と呼ぶ。 そして妻の佐和子は馬見原の母親と同様に古風で従順な女性であり、息子の死と非行に走った娘について馬見原が全て彼女のせいにすることを受け止めたが、少年院で賞を獲った彼女の作文が送られた時、それを夫に読ませたがっていた佐和子は眼前で馬見原がその作文を破り捨てたのがトリガーとなり、とうとうリストカットをして精神を病んでしまう。 しかしそういった不幸な境遇は解るものの、本書における馬見原の行動は決して褒められたものではない。 自分に対して理不尽なまでに育てた父親が自身に行った酷い行動―褒められた作文を破り捨てる―を同様にするように結局自身も忌み嫌った父親と同じ人間に成り下がってしまう。作中児童相談センターの氷崎から親失格の烙印を押されるが、それだけでなく、夫失格でもある。 自分を忌み嫌う娘真弓との接し方が解らず、彼女の夫が自分の子供、つまり馬見原の孫を抱かせようとするがそれを頑なに拒否する。まるで家族の修復を厭うように。 更に精神病院から退院し、薬の影響もあって躁状態にある佐和子の変貌ぶりに戸惑い、以前のような従順さを潜在的に求めて、決してやってはいけない、常に彼女を怒鳴りつける言動を繰り返す。そして彼女がきちんと毎日薬を飲んでいることやリハビリに定期的に行くように面倒を見なければならないのに事件の捜査と、以前の事件で知り合った冬島綾女親子の方を優先し、逃避する。冬島綾女こそが従順であり、そして儚げな美人である馬見原の理想の女性であることから精神不安定で支えなければならない妻を置き去りにして、彼女の息子を入院するまで虐待し、その廉で刑務所へ送り込んだ元夫油井の魔の手から護るためと称して逢瀬を重ねる。 更には暴力団からみかじめ料を請求する悪徳警官でもある。 つまりおおよそ読者の共感を得られない、警察官としてでなく、上に書いたように親、そして夫失格、いや人間として失格な人物なのだ。 その馬見原が世話をする冬島綾女と研司親子は精神病の妻を抱え、息子を喪い、自暴自棄に警察の仕事を続ける馬見原の心のオアシスといった存在だ。 綾女は馬見原が好む従順な古風の女性であり、研司は彼をお父さんと慕う。彼女らは暴力団の元夫油井の家庭内暴力で苦しんでいるところを馬見原に救われ、そして離婚するところまでお世話になった親子でそれ以来馬見原が面倒を見ているが、いつしか馬見原の中で理想の家族となり、また綾女も馬見原を慕い、身体の関係を持つまでになっている。 馬見原はこの親子に昔壊れた自分の家族が戻ってきた、もう一度一からやり直したいという願望を見出しているように思える。そして精神病の妻佐和子の世話から逃れる駆け込み寺のようにも。 その妻佐和子は治療と薬により躁状態だが、かつて自分に従順な尽くす姿を知っている馬見原には別人のように写る。そのため、馬見原は自分で面倒を見ると云いながらも捜査と出所した油井から冬島親子を護るためと口実を設けて次第に佐和子の許から遠ざかっていく。そして佐和子は仏壇から夫が冬島親子と河口湖で取った写真を見つけ、馬見原が自分から離れていくのを知り、再び精神を病んでいく。 また奇しくも一家惨殺事件の生徒たちが自分の学校のせいとだったことで事件に関わりを持つようになる美術教師巣藤浚介は最初は女性との付き合いはするものの、結婚は煩わしいと感じる、恋はすれど愛を軽んじる軽薄な男として登場する。しかし彼は生徒の1人芳沢亜衣と、その後自分の学校の生徒2人が一家心中のような形で惨殺される事件に関わることで自分がもしかしたら事件を早期に発見できたのでは、未然に防げたのではとの悔恨の念を抱き、次第に愛情について、特に親と子のそれについて深く考えるようになる。 児童相談センターの氷崎游子は職務のためには自らの命も投げ出す覚悟を持った女性だ。彼女もまた介護する父親がおり、それが原因なのか独身でいる。 そして芳沢亜衣。親の期待と自分のことを理解されない、愛がほしいのにどうして抱き締めてくれないのかと心の中で叫びながら、表面では口汚い言葉で周囲の人間を罵り、部屋を無茶苦茶にし、自傷行為も行い、どんどん荒んでいく女子高生。 正直私はこの登場人物が一番理解できなかった。 周りがとにかく気に食わないから蔑み、罵倒し、ありもしないレイプの事実をでっち上げ、人を犯罪者に仕立て上げようとする。そしてどんどん心は荒み、夜毎起きては冷蔵庫の前で獣のように食料を漁っては食べ、それらを全て吐き出すことを繰り返す。 彼女がそんな風に心が荒んでいくことになった原因は祖母が原因で喧嘩が絶えなかった夫婦がいざ祖母が亡くなっても仲良くなるわけでもなく、逆に自分がいい子になれば幸せになり、愛してくれると一流校進学を果たしてもさほど変わりがなく、寧ろ目標が無くなったことで虚しさを感じるようになり、自分が価値のない存在だと思うようになったからだ。 しかし私はただこれだけのことで本書に彼女のようにおかしくなっていくのだろうかと疑問に思わざるを得ない。彼女は思春期の女子高生の不安定な心情が極端に振り切った存在として描かれているだけなのだろうか。 物語は連続する一家無理心中事件を殺人事件として追う馬見原の捜査と次第に精神を病んでいき、エスカレートする芳沢亜衣と馬見原佐和子、そして学校を追い出されながらも児童相談センターの氷崎2人で就かず離れずの状態で事件と関わっていく巣藤浚介の日々で進んでいく。 また作中では白蟻と家庭崩壊した家族の類似性について語られる。 白蟻はある日オスとメスで一緒に家に飛来し、そこで結ばれ、たくさんの子供を産む。その生んだ子供たちは食料を求め、家をどんどん食いつぶしていく。やがて一戸の家に飽き足らず、周囲の家へと移り、どんどん被害は拡大していく。 一方で崩壊した家庭の子供も同様だ。親子の関係が上手く行かなくなった子供は幸せに暮らす子供を妬み、虐めを繰り返し、そして自殺に追い込む。または悪い遊びに誘って非行の道へと歩ませる。さながら一軒の家に寄生した白蟻のように、その影響は他の家族へと波及していく。 本書は1995年の作品。つまり28年も前の小説である。 まだファミコンが人気を博し、携帯電話は普及しておらず、ポケベルが出先での連絡手段だった頃の時代の話だ。 しかし本書に描かれる家庭内暴力、児童虐待の痛ましいエピソードの数々は20世紀から21世紀になった今でも、平成から令和になった今でも全く変わらない。 寧ろ改善されるどころか、毎日児童虐待による幼い命が奪われる哀しいニュースが流れる始末。 この世は全く変わっていない。四半世紀を経ても児童の教育は色々な変化を行ったが、親子の抱える問題はいささかも解消されない。 いやもしかしたらそれまで報道されずにいただけであって、最近の高度情報化社会で一億総情報提供者となった現代だからこそ今まで隠蔽されていた事件の数々が明るみに出るようになったのか。 本書の登場人物はどこかみな狂っている。 いつの間にか子供が親に従わず、暴力を平気で振るうようになり、我が子に怯える家庭に、そんな家族を惨たらしい方法で拷問するように殺害する犯人、その事件を追う刑事もかつて自分も厳しく育てた息子を自殺行為の事故で亡くし、その責任を妻に負わせ、狂わせた男だ。 そして理解されず愛情に飢えながらも耳を覆いたくなるような罵詈雑言を浴びせ、事実無根のレイプをでっち上げ、教師一人を辞職に追い込みながらも獣のように足掻き苦しむ女子高生。 刑事の夫になかなか向き合ってもらえないから動物を殺して幸せそうな家の前に捨てる事件を起こして犯人である自分を捕まえるために駆け付けさせようとする妻。 誰一人まともな人間はいない。 社会に適合しようと振る舞いながら、自らの感情をむき出しにして衝動的な怒りと不満、エゴをぶつけ合う人々たちばかりだ。 しかし彼らもまた虐待をされてきた人間だったのだ。 因果は巡る。 親の云うことが絶対だった日本に根付く厳しい家父長制度。云うことを聞かなければ殴る、蹴るが当たり前の時代。それが今なお親から子に引き継がれ、暴力を家庭から拭い去ることができなくなっているのだ。 愛が欲しい、自分の方へ向いてと叫ぶ一方でどうして自分の思い通りにしないのかと突き上げられる憤怒と衝動を抑えきれず、思わず暴力を振るいながらも誰かこんな自分を止めてほしいと願う人々がいる。 普通であることの難しさ、幸せを維持することの難しさ、そして我が子を育てることの難しさが本書には凝縮している。 また物事の表と裏についても考えさせられる。 例えば馬見原が子供を立派に育てるために厳しく接し、それに応え、どんどん人格者として成長していった息子がちょっと羽目を外しただけで実は鬱屈をため込んでおり、暴走して事故死する。 これらは良かれと思ってした行為が実はそれを受ける人々には実は苦痛以外の何物でもなかった難しさを思い知らされるエピソードだ。 しかし最も恐ろしいのはそれら登場人物の中に自らの影が見いだせることだ。 でも私の家族はまだこれほどひどくないと安堵して本を閉じながらも、いやもしかしたら近い将来…と不安になりもする。何とも魂に刺さる物語である。 人生が苦痛と苦難を伴うものだと見せつけ、それでも生きていくことの難しさを刻み込まれる。 今度家に帰ったら子供たちを抱きしめてあげたい。そうする衝動に駆られる心が痛む物語であった。 児童虐待事件が連日報道される今こそ読まれるべき、心が痛む小説だ。 しかしこの作品は『永遠の仔』を経て心境が変化した作者にて文庫版では改筆されているらしい。私はそちらも持っているので読んでみるつもりだが、どんな内容であれ、上に書いた児童虐待に対する強いメッセージが残されてほしいと願うばかりだ。 児童虐待、家庭内暴力。これらが撲滅されるまで我々人類はどのくらいの時間があと必要なのか?いや過去に暴力を受けた大人たちがいる限り、この負の連鎖は無くならないのではと令和になった今でも思わざるを得ない。 その証拠に今日もまたそんな虚しくも哀しいニュースが流れてきたではないか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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カー初期のシリーズ探偵アンリ・バンコランのシリーズ最終作が本書。悪魔的な風貌と犯罪者に対して容赦ない仕打ちを行う冷酷非情振りに皆が恐れた予審判事も本書では既に引退した身であり、温厚な性格になり、しかも洒落者とまで云われた服装は鳴りを潜めてくたびれた服を着ている。
しかし名探偵の最終巻とはなぜこのように似通っているのだろうか。 私は引退し、かつての切れ味鋭さが鳴りを潜めてくたびれた隠居然―地元警官からは「かかし」のような男とまで呼ばれる―としたアンリ・バンコランの描写を読んでホームズやドルリー・レーンを想起した。それらに共通するのは全盛期ほどのオーラは感じられないものの、腐っても鯛とも云うべき明敏さが残っている。つまり老いてなお名探偵健在を知らしめるための演出なのだろうか。 さて死んだ高級娼婦は短剣で刺殺されたはずなのに、事件現場には短剣以外にもカミソリ、ピストル、睡眠薬と3つの異なる凶器が残されている。本書はその題名からもこの奇妙な状況が取り沙汰されているが、もちろん本書の謎はそれだけではない。殺害された高級娼婦を取り巻く人々や背景事情も複雑に絡んでいるのだ。 事件はどんどん色んな方向へと展開し、そして迷走していく。 さてそんな1人の遺体の周囲に4つもの異なる凶器が転がる不可解な状況の真相はまさにカーの特徴であるインプロヴィゼーションの極致とも云うべきアクロバティックな内容だった。 そしてこんな偶然と即興の産物による奇妙な状況をバンコランが名探偵とは解き明かすのはいささか無理を感じずにはいられない。ほとんど神の領域の全知全能ぶりである。 そんな複雑な事件を考案したことを誇らしげに語り、そして作品として発表するカーの当時の本格ミステリ作家としての矜持と野心と、そして気負いぶりが行間からにじみ出ている。 私の中で疑問に残っているのは本書の結末の意味だ。 本書には事件の真相を自分の中に落とし込むための解きほぐす作業と最後の件の意味を考える、読んだ後にも尾を引く要素がある。 あと最後に触れたいのは今やディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズでお馴染みとなったロカールの法則が本書に出てくることだ。 恐らくディーヴァー作品を読む前に本書を読んでいたらスルーしていた内容だが、逆にその後だからこそカーの時代からこの法則が有名だったことが判ったのが収穫だ。 バンコランシリーズは本書で最後になり、私もカー読者になって約四半世紀でこのシリーズを全て読んだことになった。 とはいえ、ジョン・ディクスン・カー及びカーター・ディクスン作品読破にはまだ至っていない。 東京創元社にはこれからも長らく絶版となっているカーの諸作の新訳刊行を続けてもらいたい。大いに期待する。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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少年スパイアレックス・ライダーシリーズ第3作目の舞台はウィンブルドンからコーンウォール、マイアミにキューバ、そしてロシアへと目まぐるしく移り変わる。巻を重ねるごとにそのスケールも本家007シリーズ並みに大きくなってきているようだ。
そして前作に引き続き導入部でのアレックスの最初のサブミッションが含まれているが、前作『ポイントブランク』では学生相手の麻薬の売人を無茶ぶりを発揮して捕まえる内容だったのに対し、今回はMI6のクロウリィからの依頼であることが異なる。導入部から既にMI6の任務となっている。 そしてその内容はウィンブルドン選手権での中国の秘密結社が仕掛けた、オッズを引き上げるための選手への妨害工作を見破るという物。これ1つで既に1話ができるようなハードな任務となっている。更にこの任務がアレックスがあれほど嫌がっているMI6の任務を呑ませるための楔となっている。 アレックスはCIAのスパイと協力してキューバにある元ロシアの将軍アレクセイ・サロフのアジトに潜入することになる。 そう、今回はスパイ小説でお馴染みの共産圏への潜入任務なのだ。弱冠14歳の少年にとってかなりハードな任務である。 そんなアレックスを同行させてまで危険な場所に潜入するCIAの目的はサロフが核爆弾に利用できる濃縮ウランを大量に仕入れたとの情報を受け、その情報の真偽を確認するもの。 ただこういう異色のチームという設定にはありがちなように、CIAのベテラン工作員でアレックスの両親役を務めるトム・ターナーとベリンダ・トロイと14歳の新米スパイ、アレックスの相性は抜群に悪く、CIAの両者は自分たちの実績を誇示してアレックス不要論を唱えるばかりだ。 このようないわゆる犬猿のバディ物ではいがみ合っている者同士があることがきっかけでお互いを認めて、1+1=2以上の効果を発揮する展開になるものだが、本書ではそんな定石通りの展開を見せず、アレックスは機転と持ち前の身体能力を活かして2人の窮地を救うのにも関わらず、彼の欠点である、オーバーワークによる損害を謗られ、なかなか認めてもらえない。 そう、またもやアレックスは孤独な戦いを強いられるのだ。 そしてアレックスは今回拷問に掛けられ、敵から執拗な訊問を受ける。CIAが潜入してきた目的についてコンラッドから問われるが、通常のスパイならば任務のために命を落とすことを選ぶがさすがに14歳のアレックスにそれを求めるのは酷だ。14歳の未熟さゆえに、やりたくもない仕事をやらされている恨みつらみがぶり返し、彼はスパイとしては失格である任務の詳細を嘘偽りなく明かすのだ。 この辺は大人の私から見れば14歳の少年スパイらしい展開だが、少年少女がこのアレックスの行動についてどのように思うかが逆に気になるところだ。 そんなアレックスが挑む相手アレクセイ・サロフの陰謀を読んで慄然としたのはもしこのサロフが云うムルマンスクに無数の―本書によれば100隻―原子力潜水艦が遺棄されており、最も古い物で40年前―本書の原書刊行時2002年時点―の老朽化した、いつ放射能漏れが起きてもおかしくない潜水艦もあるということだ。 もしこれが本当ならば世界は大変なことになるだろう。そしてそれが真実ならばロシアはチェルノブイリの悲劇から何も学んでいないことになる。 またこれらは冷戦時代の遺物であり、いわば負の遺産だ。そしてこれらをきちんと処分するのが国の務めであり、そして世界の務めであるのだ。 このアレックス・ライダーシリーズはジャンルとしては少年少女向けの読み物だが、本書に含まれた世界の危機は大人たちも是非とも知っておくべき事実であろう。 さてこのシリーズはもはや007シリーズのように秘密兵器と特徴ある殺し屋の登場が定番となっているが、前者はアンテナが針のように飛び出し、武器となる携帯電話と唾液と反応して爆薬となるチューイングガム、さらに一時的にショックを与えることのできる閃光弾となるマイケル・オーエン人形―きちんと作者は本人に許可を貰っているんだろうか?―がアレックスに与えられる。 後者はコンラッドというサロフの忠実な下僕だ。ノートルダム寺院のせむし男の如き、醜悪な姿をしたこの男はかつては過激なテロリストだったが仕掛けるはずの爆弾が輸送中に爆破して吹き飛ばされたが、大手術の末に全身を縫い合わされ、どうにか回復し、現在のような風貌になったのだった。 いわばフランケンシュタインのような歪んだ性格の男とアレックスは最後に決闘することになる。 また第1作ではクォッド・バイクでのチェイス、前作がスキーでの雪山チェイスと本家007風味を盛り込んできたこのシリーズだが本書では出るべくして出た海でのスキューバダイビングでの潜入行、そしてお約束通りのホオジロザメとの格闘とやはり期待を裏切らない展開が待ち受けている。 本書では両親のいない、そして唯一の血縁であった叔父のイアンをも喪った天涯孤独の14歳アレックスが親という存在を意識する物語でもある。 ウィンブルドンでの任務中に知り合い、友達以上の仲になったサビーナに旅行に招待されたアレックスは昔からの付き合いであるかのように自分に接する彼女の両親に、自分にもこのような両親がいればと思いを馳せる。 14歳と云えば思春期の只中にあり、反抗期である。従って自我に目覚めつつある彼ら彼女らにとって両親とはいつまでも自分たちを子ども扱いする煙たい存在として映り、疎ましく思うのだ。 しかしアレックスにはそんな反抗をする親がいない。彼が反抗するのはボスの冷血漢アラン・ブラントだ。彼は権力者であり、いつもアレックスを逃げ場のない状況に追い込んで無茶な任務を呑ませようとする。反抗期の少年少女にとって親が越えるべき壁・障害であるならば、アレックスにとっての親代わりは局長のアラン・ブラントになるのだろう。 但し学校と私生活、仕事と私生活での顔が異なるように、なかなかそれが上手く行かないのも事実だろうが。 そして無気力になったアレックスを救うのは今回親しくなったサビーナだった。両親も血縁もいない天涯孤独の身であるアレックスにとって頼れるべき存在は友達もしくは恋人しかいない。アレックスにサビーナという相手ができたことは彼がこの後成長するためには必要なステップだった。 またそれは危険な任務に就かされるアレックスにとって護るべき存在ができたことでもあるのだが。 さて今後サビーナとアレックスの仲がどのように発展していくのかが気になるところだが、次作の『イーグルストライク』は単行本で刊行されているものの文庫化はされてなく、もちろん単行本は絶版状態だ。従って私のアレックス・ライダーシリーズも本書が最後となる。 『このミス』、『本格ミステリ・ベスト10』、週刊文春ミステリーベスト10でそれぞれ『カササギ殺人事件』、『メインテーマは殺人』、『その裁きは死』、『ヨルガオ殺人事件』が1位を獲得し、最新作の『殺しへのライン』も上位を占めるなどホロヴィッツはいまや最も勢いに乗った海外ミステリ作家と云っても過言ではないだろう。 従って今こそホロヴィッツの作品が読まれるのに最適の時であるから、このアレックス・ライダーシリーズもまた再評価の気運が高まるのではないか? そんな期待をしつつ、近い将来次作の『イーグルストライク』が文庫化されることを期待したい。 ただまだまだ助走状態。少年向け007シリーズの域を脱していない本書を以てホロヴィッツの真価を評することはできないだろう。次からが私のホロヴィッツ本体験となるのは必定。 さてどんなミステリマインドを見せてくれるのか、非常に愉しみである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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先日読んだ『ランゴリアーズ』と併せて“Four Past Midnight”と名付けられた中編4編を収めた中編集の後半の2作を収めたのが本書。
まずタイトルにもなっている「図書館警察」も「ランゴリアーズ」同様、約380ページもある、もはや長編の域に達する中編である。 図書館の本を期日までに返さなかったら、図書館警察がやってくる。 キングはこの作品の創作ノートで自分の息子が図書館で本を借りたがらない理由についてそう述べたことから本書の着想を得たと語っている。そしてそれはキング本人もまた子供の頃に云われた、いわば戒めの都市伝説であったと述べている。 この図書館警察の着想から想像した物語はしかしどこか歪に変化していく。そしてそれは私の本作への期待を図らずも裏切る形になった。 読み進んでいって気付かされるのは本書はもう1つの『IT』の物語だということだ。それは主人公サム・ピープルズが少年時代に遭遇し、そして恐怖の対象となった図書館警官という過去のトラウマとの対峙と克服の物語であり、そしてアーデリア・ローツという怪物との戦いの物語であるからだ。 ジャンクションシティがその歴史から葬り去ろうとしている図書館司書アーデリア・ローツは『IT』のピエロ、ペニーワイズのような存在だ。彼女は、いやもはや人ではない“それ”としか呼べない存在だ。 通常は人間の女性の形をしており、しかも実に魅力的な女性の姿であるため、図書館を利用する子供たちのみならず彼女の周囲の大人の男性をも魅了する。そしてその標的に選んだのがサム・ピープルズだった。 彼は図書館に対してトラウマを持つ少年であり、その恐怖こそがアーデリア・ローツには必要な要素だった。 サムが恐れる図書館警官とは一体何者なのか? この図書館警官のトラウマとそれを利用して取り込もうとする怪物アーデリア・ローツの戦いが物語の軸の1つである。 そしてもう1つの軸はサム・ピープルズが1人の女性と結ばれるまでの物語であることだ。 彼の講演を口述から原稿に書き写したタイピストナオミ・ヒギンズはかつて彼がデートし、口説いたものの恋愛まで発展しなかった女性だ。しかしサムと彼女とを再び結びつけるきっかけとなったのが浮浪者のデイヴ。このデイヴがかつてアーデリア・ローツに憑りつかれた男であり、自分と同じ境遇に陥ったサムのために一肌脱ぐ。 それはサムが返却しなければならない本を誤って回収処分してしまった彼の贖罪でもあったわけだが、この奇妙な結び付きがサムとナオミの2冊の本を巡る冒険へと導き、そして2人の仲をより深くする。 このデイヴこそは本作の物語の導き手である。 『IT』では7人の少年少女、そして大人になった6人の男女が怪物に立ち向かったが本作で立ち向かったのは2人の男女と1人の浮浪者の老人。 キングはどうもこの仲間たちで怪物と立ち向かう話が好きなようだ。本作がその系譜に連なるとは思いもしなかった。それが本作の題名の大きな罪なのかもしれない。 長大な中編集“Four Past Midnight”の掉尾を飾るのはキングが想像した街キャッスルロックを舞台にした「サン・ドッグ」だ。 キングの創作ノートによればとうとう自身が創造した街キャッスルロックに向き合い、決着を付ける時が来たと感じ、そして本書の次に刊行する『ニードフル・シングス』でこの街の歴史に終止符を打つことになったようで、それまでに書かれていなかったキャッスルロックの住民たちのエピソードの1つとして書かれたのが本作のようだ。 15歳の誕生日に送られたポラロイドカメラで撮影すると写るのは被写体ではなく、どこかの庭の風景でそこにいる巨大な黒い犬がシャッターを押すたびにどんどん近づいてくる。 本作は極端に云えばたったそれだけの話である。 この巨大な犬は近づいていくにしたがって犬という存在から異形の獣へと変容していく様が写真に写り込んでおり-恐らく地獄の番犬ケルベロスのようなイメージ―、明らかに撮影者に襲い掛かろうとしている。 そしてその犬が写真の中で撮影者に襲い掛かった時に一体何が起きるのか? それだけの話を延々と約280ページに亘って書くのである。 そしてこのワンアイデアに織り込んだのは町で有名な詐欺師の哀れな末路と1人の15歳の少年の精神的成長である。 本書に登場する骨董商ポップ・メリルは高利貸しも商っており、街で最も忌み嫌われた詐欺師とも呼ばれている。彼は不思議な被写体が写るポラロイドカメラを15歳の少年ケヴィン・デレヴァンから騙し取り、そういった曰く付きの品物を好きな連中、<マッドハッター>と呼ばれる心霊現象に傾倒する者達に異界が写るカメラとして売り込もうとするが、案に反して全ての顧客から断られる。 彼にとって確かに写っているのはここではないどこかで巨大な犬が徐々に迫ってくる風景なのだが、それが彼らの欲する心霊現象を表しているわけではないと驚きこそはすれ、大枚をはたいて買おうとまでは思わないのだ。 悪行は必ず報いを受けるという教訓と少年が青年へと成長する乗り越えなければならない壁、そして息子が大人になろうとしている時に父親はどう振る舞い、対処しなければならないのか、異界を写すポラロイドカメラをモチーフにそんな人生訓を盛り込んだと思った作品はそんな読者の予想、いや着陸点を裏切るようにキングならではの来たるべき恐怖を残して幕を閉じる。 中編集“Four Past Midnight”を二分冊化して刊行されたうちの後半部が本書であるのは既に述べたが、世間の評判は1冊目の『ランゴリアーズ』の方が高く、同書は97年版の『このミス』で18位にランクインしているのに対し、本書は圏外にも入っていない。 私はその題名から『ランゴリアーズ』よりも本書の方への興味が高かったが、今回読んでみて世間の評判が正しいことに残念ながら気付いてしまった。 それはやはり「図書館警察」に対して期待値が高すぎたことによるだろう。 正直に云えば図書館警察という題材から想像した物語がこんな話になるとは思わなかったのだ。もっと図書館の大切さを、必要性を絡めたホラーとなることを期待したのだが、キング特有の物語に落ち着いたのがつくづく残念でならない。 それは恐らくこの題名から私は有川浩氏の『図書館戦争』のような物語を創造してしまっていたのだと思う。 そちらは図書館を護る自衛隊のような存在、図書隊がメディア良化法という悪法を強要する同委員会が送る軍との戦いを描いた作品だが、それと同じように図書館のルールを取り締まる警察の話だと思ってしまったからだった。 もう1つは最初に主人公のサム・ピープルズが図書館を訪れた時に、図書館の雰囲気に恐怖し、一刻も離れたい場所だと称したことだ。それはつまりサイキック・バッテリーとしての建物というキングがよく用いる題材として図書館自身が恐怖の舞台であるかのように思ってしまったのも一因だ。 そこが最後まで違和感を拭えなかったのである。 次の「サン・ドッグ」を読んですぐに想起したのはキングの息子ジョー・ヒルの中編集『怪奇日和』に収録された「スナップショット」だ。 記憶を奪うポラロイドカメラを持った男が女性に付きまとう物語だが、「サン・ドッグ」は目の前にない物が写るポラロイドカメラを持った少年の話だ。 両者に共通するのはキングの妻であり、ヒルの母であるタビサがポラロイドカメラを購入したことだ。そこにそれぞれがこのカメラに対してインスピレーションを得て、ポラロイドカメラをモチーフにしながら異なる作品を描いたことに興味を覚えた。 この作品も今振り返ればキングが初期から題材にしている“意志ある機械”の怪異譚である。この異界を写すポラロイドカメラがやがて使い手の心を侵食し、そして異界から怪物を呼び出させる。しかしカメラが写し出す風景に関する逸話については触れられない。 ただ巨大な犬が近づき、やがてその犬が怪物へと変容していく様、そしてこのままいけば撮影者は間違いなく殺されるだろうことがカウントダウン的に語られる。 シンプルな話ほど怖いと云うが、それ故に色んな説明の長さが目立った。単純な話を余計なぜい肉で太らせたような作品になったのはつくづく残念である。 また以前も述べたが漫画家の荒木飛呂彦氏は熱心なキングファンで、自身のマンガでキングの作品からヒントを得たような設定が見られるが、まず「サン・ドッグ」ではクライマックスで写真の中の黒い巨大な犬がそこから這い出ようとしているモチーフは同じマンガの第4部に登場する、息子吉良吉影を写真の中からサポートする吉良吉廣を彷彿とさせる。 あと本書で見られる他作品とのリンクはまず「図書館警察」では『ミザリー』の主人公の作家ポール・シェリダンがナオミ・ヒギンズが図書館で借りる本の作家の1人の名前として登場する。 もう1つ「サン・ドッグ」はキャッスルロックが舞台とあって逆にリンクを意識的に盛り込んでいるようだ。 まずこの作品での悪役となるポップ・メリルの甥は中編「スタンド・バイ・ミー」に登場する不良のエース・メリルであり―彼がその後強盗を行い、ショーシャンク刑務所に4年服役していたことも明かされる―、更には『クージョ』の話もエピソードとして出たりもする。 しかしこのキャッスルロックも次作で幕が閉じられるとのことだ。なんだか勿体ない思いがする。 あとなぜかキングでは玉蜀黍畑が不安を掻き立てる場所として登場する。玉蜀黍畑を舞台としたアンファンテリブル物、その名もズバリの「トウモロコシ畑の子供たち」から「秘密の窓、秘密の庭」でも作中で登場する盗作疑惑の小説で登場するのが玉蜀黍畑。 そして本書「図書館警察」でもデイヴがアーデリア・ローツに誘われ、かくれんぼをして魅了されてしまうのが玉蜀黍畑だ。 それはまさに彼が踏み入ってはならない領域の入口として書かれている。 このように本書はキングの作品のモチーフや実に彼らしい恐怖の対象について描かれているのだが、こちらの勝手な先入観もあってか期待に反して特に面白みを感じなかった。いや寧ろキングの異常なまでの書き込みに途中辟易してしまった。 これからのキングは恐らくどんどん話が長くなっていくのだろう。それは創作の設定材料としてノートに書かれるメモの内容のほとんどを作品に盛り込んでいるからではないか。 私は1冊の本に登場する人物に対してこれほどまでに緻密な性格設定と生活設定を考えているのだと誇示しているかのようにも見える。しかしそれは作家として読者に語るべきではない裏方作業のことだ。 この創作の裏側まで書かれていることに興味を覚えるか、逆にそこまで語らなくてもいいのにと幻滅するかがキングのファンとしてのバロメータとも云える。 今現在の私はここまで書く必要はあるのかと疑問を覚える方なのだが、これが物語の妙味として、もしくはこれぞキングだとキング節として味わえるようになるのかが今後変わっていくのかが私のキング作品に対する評価のカギとなることだろう。 但し本書のような作品を読んだ今は本棚に並べられた各作品の分厚い背表紙を眺めながら、どれだけ私がのめり込めるのだろかと思案せずにはいられない心境なのである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ウールリッチお得意のファム・ファタール物のサスペンス。謎の美女による連続殺人事件を描いた作品だ。
被害者はそれぞれ株式仲買人に年金暮らしのホテル住まいの男、そして普通の会社員、画家に作家とそれぞれバラバラだが、殺人犯のジュリーとだけ名前の判明した女性には彼らが持つある共通項に基づいて殺害を行っている。 それぞれの被害者と謎めいた女性殺人者ジュリーとのエピソードはまさにそれ自体が短編のような読み応えで、これぞまさにウールリッチ・タッチだと存分に堪能した。 まず最初の餌食となる株式仲買人のジョン・ブリスの前に黒いドレスを身に纏った周囲の目を惹く金髪美人として登場し、スカーフをバルコニーから落としてそれを取らせて身を乗り出したところを突き落として殺害する。 次の犠牲者ミッチェルでは彼の住むホテルの部屋を予めチェックし、彼が飾る女性遍歴の写真を見て、彼の理想の女性のタイプを突き止め、赤毛の理想の女性として登場し、お酒を愉しみながら毒を盛って毒殺する。 次の一介の会社員フランク・モランは彼の5歳の子供から家族構成や家庭の情報を聞き出し、彼の妻マーガレットを偽の手紙で実家に帰らせ、その間子供の世話を頼まれた幼稚園の先生に成りすまし、彼の部屋で子供の相手をしながら、かくれんぼに参加するよう誘い込み、一度入ってしまったら外から開けないと出れない階段下の部屋に彼を閉じ込め、窒息死させる。 次の画家ファーガスンには絵のモデルとして登場し、彼が正規に手配されたモデルを断るほど見事に取り入ることに成功する。しかし夜な夜な行われるパーティーで面が割れることを恐れる綱渡りの中、ブリスの友人コーリーが現れる。彼はジュリーに逢ったことがあると思いながらも思い出せないでいると、狩りの女神ダイアナに扮した彼女は矢で彼を射ち殺す。 最後のターゲット、作家のホームズには彼の口述記録のタイピストに成りすまし、暖炉の熱でライフルの弾が暴発してお決まりの位置に据えられている書斎の椅子に座る作家に命中するよう工作するが…。 ある時は金髪の黒衣の女性、またある時は赤毛の理想の美人、またある時は赤みがかった金髪の化粧っ気のない幼稚園の先生、またある時は黒髪の画家のモデル、そしてある時は白髪交じりの髪をした中年の婦人に扮して標的となる男たちの前に姿を現す美と知性と度胸を兼ね備えた稀代の悪女ジュリー。 しかし彼女は決して自分の復讐に他者を巻き込ませようとしない。年金生活者のミッシェルを殺害した後にたまたま彼の許を訪れた彼の恋人メイベルを偽の容疑者に仕立てず、逆に自分が彼をたった今殺害したから、巻き込まれたくなかったらすぐに去るように命じる。 更にモランに近づくために息子の幼稚園の先生ミス・ベイカーに成りすまして殺害し、その後の捜査でベイカー本人が嘘のアリバイを供述したために本当に容疑者になろうとしたところを匿名の電話を警察に掛けて誤認逮捕であることを告げる。 自分の殺人に責任をもって行っている、気高さすら感じる公平さを持っている。 彼女がなぜ彼らの命を取ろうとするのか。 姿を変え、危険を承知で近づき、そして復讐を果たす。 しかし決して被害者周囲の関係のない者達には迷惑を掛けずに、時に自分が殺人を犯したことさえ話して現場から追い払い、または冤罪を掛けられそうになった者を救うために匿名で電話さえもする。 しかし周囲が振り返るほどの美貌を持ち、そして貴婦人、幼稚園の先生やタイピストなど千変万化の変身・変装ぶりを遂げるこのジュリー・キリーンという女が、殺人を犯さない間は何をしていたのか? 現在社会ではこのジュリーの犯行は計画的に見えてかなり危ない橋を渡ったもので、顔も隠していないどころか複数の目撃者もおり、逮捕されるのも時間の問題のように思えてならないだろう。 しかしウールリッチの抒情的かつ幻想的な語り口がそんな偶然性、現実性を霧散させ、まるで復讐を遂げようとするか弱き美女の死の魔法が成功する様を酔うが如く堪能するような作りになっている。 愛ゆえの女性の復讐譚である本書が女性がまだ男から軽んじられている時代に書かれたことを我々は知らなければならない。 作中でもプレイボーイの男がジュリーにあしらわれたのを根に持ち、憤慨する様に刑事は同情し、好感さえ覚える、そんな時代だ。そんな時代に女性の強さを強調した本書は母親と一緒に暮らしていた作者だからこそ書けたのだろう。 それでもこの徒労感漂わせる結末は何とも遣る瀬無い。冬の寒さが身に染みる夜だけにこの女性の虚しさが一層胸に迫った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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14歳の少年スパイ、アレックス・ライダーシリーズ第2作。
今回のアレックスの任務はある実業家の息子に成りすまして、世界有数のエレクトロニクス会社々長と元KGB将軍2人の不審死の謎を探ることだ。 他人の息子に成りすまして謎多き寄宿学校に潜入するというホロヴィッツは今回もこの14歳の少年スパイという特殊設定を存分に活かしたストーリーを用意したというわけだ。 そしてエンタテインメント・ジュヴナイル小説として実に王道を行く内容でそこここに少年少女をくすぐるようなアイテムが織り込まれている。 例えば本家007同様にMI6の武器開発者のスミザーズから今回も秘密兵器がアレックスに渡される。断熱効果抜群の防弾、衝撃吸収機能を備えたスキー・スーツに赤外線暗視機能付きのスキー・ゴーグル。あとCDが電動ノコに変わって何でも切断でき、更にはSOS信号も送れるCDプレーヤー(流石にこれは時代を感じるが)に小型爆弾機能付きのピアス。そしてとどめは麻酔銃になる特装版『ハリー・ポッターと秘密の部屋』だ。 更には007の本歌取りは今回も踏襲されており、上に書いたようにアレックスが渡されるアイテムの中にスキー・スーツがある時点でお馴染みの雪山でのアクションがお約束通り繰り広げられる。スノーモービルを操る警護兵にアレックスがスキーではなく手製のスノーボードで逃げるのは現代風だ。 更にはヘリコプターで逃げるグリーフ博士も007シリーズではもはや定番と云っていいだろう。それを阻止するためにアレックスがジャンプ台を利用してスノーモービルを逃げようとするヘリコプターにぶつけて爆破するのも007のみならず多数のアクション映画で観たシーンであり、この辺りはあまりに定型的すぎるとは感じたが。 また私が感心したのは冒頭のアレックスが麻薬の売人を警察に突き出すのに彼らが麻薬製造に使っている艀を大型クレーンで吊って近くの警察署まで運ぼうとする場面で、きちんと艀の重さがクレーンのブーム長さによって決められる許容吊り荷重を越えていないと書かれている点だ。 単純にクレーンを使って艀を吊り上げて警察署まで吊り上げると云う、いわば物語の掴みの派手なシーンにおいて単純な発想に終始したものでなく、現実的に可能であることを説明している作者の姿勢には感心した。これは専門知識を知っているか、もしくはきちんと取材していないと書けない内容だ。 また007のオマージュと云えばジョーズとかオッド・ジョブやニック・ナックといった個性的な怪人が現れるが、本書ではポイントブランク・アカデミーの女性副校長エバ・シュテレンボッシュ女史がそれにあたる。なんせ女性でありながら風貌はゴリラそのもので5年連続南アフリカの重量挙げチャンピオンである怪力を誇る。つまり通常の男性は格闘では歯が立たず、アレックスもまた手も足も出ないほどに叩きのめされる。 またキャラクターと云えば主人公に仲間が増えていくのがシリーズ作品の面白さの1つであるが前作でアレックスがスパイの訓練のために入ったSASのキャンプで虐め役となったウルフが再登場する。訓練の最後ではアレックスがウルフを救ったことで2人は友情を深めることになったが彼がポイントブランク・アカデミー殲滅作戦の指揮を採る。 またアレックスのいわば目の上のタンコブ的存在のMI6局長アラン・ブラントが相変わらずスパイに対して非情な態度を示すのに対して―アレックスがSOSを送ってもしばらく様子を見ようとして、半ば見捨てるような発言をする―、秘書のジョウンズ夫人がアレックスに同情を示すようになったのが大きな変化だ。今後ジョウンズ夫人がアレックスの隠れた支援者としてどのように関わってくるのかも気になるところだ。 冒頭の麻薬売人の派手な捕物シーン、他人への成りすましのための訓練とそこで出遭ったお嬢さまとの恋愛ニアミス、そして悪の巣窟への潜入捜査、そこからの脱出に巣窟への襲撃と囚われの息子達の救出と敵たちとの戦いと殲滅。更に意外なところで再び現れた敵との戦いと頭から尻尾までぎっしりと餡子が詰まったエンタメ小説。 本当にホロヴィッツは本家007を忠実に擬えてこのアレックス・ライダーの物語を綴っている。読書好き、アクション映画好きの少年少女たちがこのアレックス・ライダーシリーズが思い出の作品になっているのかは不明だが、彼ら彼女らを愉しませようと計算して作られているのは解る。 しかしその教科書通りの展開は水準ではあるが突出した何かを残すものではないのが残念だ。 さて本書のタイトルだがPOINT BLANCというフランス語から来ており、英語のPoint Blankもこれに由来しているとのこと。意味は「至近距離からの直射」、「直撃」、「あからさまな」、「率直な」という意味のようだ。 スパイという身分を偽り、時には非情な判断を下す稼業を14歳という若さで就くことになったアレックス・ライダーがいつまでその実直さを保てるのか。死と隣り合わせのスパイという職業をカッコいいだけでなく、道具のように扱う上司もあしらうことで大人の世界の汚さも見せるこの作品はある意味思春期の少年少女達の大人への通過儀礼の意味合いもあるかもしれない。 いややはりそれは考え過ぎだろう。この明らさまなまでにエンタテインメントに徹したアレックスの活躍をただただ愉しむのが吉だ。 純なスパイ、アレックスの次回の活躍を愉しみにしていよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングの『恐怖の四季』に続く中編集。しかし1編の分量はその比ではなく、例えば1編目の「ランゴリアーズ」は425ページもあり、正直長編だ。
本書は“Four Past Midnight”と名付けられた中編4編を収めた1冊を2作ずつに分けて刊行された作品で本書はその1作目と2作目が収録されている。 まず本書のタイトルにもなっている「ランゴリアーズ」は国内線の中で睡眠から覚めると乗客の大半が消え失せてしまった奇怪事を扱った話だ。 飛行中の飛行機からほとんどの乗客が消え失せ、それだけでなく彼ら10人の乗客以外全米の人がいなくなった世界の中の話。作中にも出てくるが実際にあった有名な怪事件乗客含め、船員たちが恰もついさっきまで働き、また食事を用意中もしくは既に食べている途中の様相を呈して忽然と消え失せたマリー・セレスト号の事件を客船ではなく飛行機に置き換えたような作品になっている。 物語は飛行機の中からメイン州のバンゴア空港へと移るが、そこも無人の空港であることが判明する。つまりこの10人の乗客以外の人間が世界中から消え失せてしまったかのような様相を呈するが、乗客の1人ミステリ作家のロバート・ジェンキンズは空港にある物、マッチやサンドイッチやビールが全く使い物にならない、食べられない、気の抜けた飲み物になっていることから、自分たちこそが乗客の中から消え失せ、異次元の世界に行った人間たちなのだと推理する。 この10人の乗客がそれぞれ個性的で、物語の中心人物はアメリカン・プライドという航空会社のパイロットであるブライアン・エングルであり、彼をサポートするのは自称英国大使館員のニック・ホープウェルで彼は下級館員と云いながら、大きな取引のためにボストン行きを主張するクレイグ・トゥーミーをねじ伏せる敏捷さを持ち、コクピットの鍵のかかったドアを蹴り破る膂力の強さを見せ、更には暴力をも辞さない態度を示す謎めいた男だ。 その彼と恋に落ちるのは女性教師のローレル・スティーヴンスン。彼女は文通相手の男性に逢いに行くために休暇を取ってボストンへ向かっていた。彼女は異次元世界の異様な事態に陥ってる最中にニックに恋心を抱き、触れ合いたいと欲望を募らす恋に飢えた女性である。 アルバート・コスナーは天才ヴァイオリン少年で本格的に音楽を学ぶためにバークリー音楽院に向かう途中だった。彼は自分のヴァイオリンの才能が特別であると自覚しており、そしてそれが彼をあの少年よりも優れた人物であり、腕っぷしも強く、機転も利く万能少年として自らをエースと名乗っている。まあ、いわゆる中二病的キャラクターだが、要所要所で17歳の少年とは思えないほどの機転と知恵を発揮する。 その彼と恋仲になるのはヤク中の少女べサニー・シムズ。なんだかシンディ・ローパーを想起させるキャラだ。 ロバート・ジェンキンズはミステリファンの大会で講演するためにボストンに向かっていたミステリ作家で持ち前の推理力を発揮して、この10人の乗客が陥った異常現象の謎を解き明かし、取るべき行動を示唆する先導者的存在だ。 ボストンで目の手術をするために叔母と一緒に29便に乗ったダイナ・ベルマンは本書のキーを握る存在へとなる。 キングの作品では異常な状況に耐え切れず、そして己のルールに固執するがゆえに狂気に陥るキャラがよく登場するが、本作ではクレイグ・トゥーミーがそれ。彼は大銀行の重役だった父親によって幼少の頃からスパルタ教育で育てられた銀行の重役で常に完璧を求められていた。それ故に常にプレッシャーに晒され、そのプレッシャーを彼はランゴリアーズと名付け、恐れていた。 本書における登場人物はそれぞれに存在意義を備えているが、1人だけそこに加わらない人物がいる。それは終始睡眠中の黒髭の男だ。 但しこの人物もまた意味を持っているようにも思える。後ほど述べよう。 そして彼ら10人がなぜ異世界に紛れ込んだのか、そしてなぜこの10人なのかをミステリ作家のロバート・ジェンキンズが一つ一つ推察していく。 この“トワイライトゾーン”を思わせるB級ホラー的な設定だが、私はこの作品にかなり強い意味合いがあるように思えた。それについては後ほど詳しく述べていこう。 キングには作家物とも云うべき小説家を主人公にした作品があり、実はこの時期『ミザリー』と『ダーク・ハーフ』という長編を続けて出している。 2編目の「秘密の窓、秘密の庭」はこの系譜に連なる中編だ。 作家に纏わる、いわば有名税とも云うべき実害を盛り込みつつ、更にそれを狂気の領域まで発展させた作品だ。 本作に書かれているシチュエーションは作家にとってよくある弊害だろう。 ある日いきなり全くの赤の他人が訪れてきて、貴方は私の作品を盗んだ、正直にそれを世間に告白して私に賠償金を払ってほしい、なんていう輩はキングほどの有名な作家になれば現れてくるに違いない。 あくまで戯言だとあしらっていたが、その人物は自分がオリジナルを書いたと信じて疑わず、認めなければ危害を及ぼすぞと脅し、ペット殺しから放火、そして殺人にまで発展する。この狂えるフリークがエスカレートしていく様はキングの真骨頂とも云うべき作品だが、本作はそこに一味加えている。 それは本作がサイコスリラーであることだ。作家が生み出した人物が狂えるファンを生んだ『ミザリー』や独り歩きするペンネームの別人格が生まれる『ダーク・ハーフ』と双方を併せ持つ狂気が本作には盛り込まれている。 本作もまた当時のキングの創作に対する不安が露見したかのような作品のように捉えることができる。これについては後述しよう。 本書は上にも書いたようにキングの中編集“Four Past Midnight”に納められた4編の内、2編を収めた作品集。 しかしこの先に書かれた中編集“Different Seasons”が『恐怖の四季』として訳されているのに対し、どうして本書は原題のままなのかがよく解らない。直訳すれば「真夜中4分過ぎ」となるが、例えば『未明の悪夢四夜』なんて付けられなかったのだろうか。 本書に付された序文によれば『恐怖の四季』がそれまでに思いつくままに綴った作品を収録した物であったのに対し、本書はキングが不調で引退したと思われていた2年間に書かれたホラーであることが異なっている。 余談だが、映画『スタンド・バイ・ミー』が大ヒットした映画監督のロブ・ライナーは自分の設立したプロダクションを<キャッスルロック・プロダクション>と名付けたらしい。 また本書では各編に創作ノートが付けられているのも特徴だ。そこにはキングはそれぞれの物語の着想を得た時の状況やあるアイデアから物語が膨らみ、各編へと至った経緯が語られており、興味深い。 特に私が驚いたのはキングが「アイディア・ノート」を一切作っていないこと。 彼は良いアイディアはすぐには忘れられるものではないとし、自然消滅するようなアイディアはつまらないものだと思っている。そしてよいアイディアは折に触れ頭に浮かび上がり、次第に形になっていくものだと述べている。 「ランゴリアーズ」では旅客機の隔壁の亀裂を必死に抑え込んでいる女性のイメージが浮かび、ベッドに就いている時にその女性が亡霊であることに「気付き」、そこから物語が出来ていったそうだ。 このようなエピソードを読むとやっぱりキングは全身小説家とも云うべき常に物語が頭にある稀有な作家なのだと思い知らされる。 そんなキングが生み出した本書2編に私は作者の作家としての苦悩と恐怖を感じた。 本書の表題作である「ランゴリアーズ」。 読んでいる途中にある既視感を覚えたが、それは登場人物の推測によって確信に変わった。それは東野作品の『パラドックス13』が本書の本歌取りになっていることだ。 3月13日13時13分13秒に死に直面し、異次元の東京に飛ばされた登場人物たちは本作の、LA発ボストン行きの29便でたまたま睡眠に陥り、異世界のアメリカへと飛ばされた10人の乗客と同じである。 キングは本書を『恐怖の四季』とは異なり、全てホラーを書いたと述べた。しかし本書は確かに異世界に迷い込み、そこで発狂する人間が登場し、それによって殺人が起こるパニック・ホラーではあるが、結末は何とも清々しい。 つまりこの「ランゴリアーズ」という作品そのものがスランプを脱し、再びモダンホラーの世界に戻りながらも、それまでの作品とは違った風合いを持った作品を放つ新生キングの誕生の声高の宣言書のように読み取れるのだ。 そしてこの物語で唯一何もしない登場人物がいる。それは終始寝たままの黒髭の男だ。異世界に迷い込み、どうにかそこから生還しようと知恵を絞りながら、迫りくる脅威に怯える他の登場人物たちを尻目に彼はひたすら惰眠を貪る。登場人物の1人アルバート・コースナーは彼のように何の心配もなく眠れたらいいのにと羨望の眼差しを向ける。 これもキング自身の心情吐露のように思える。黒髭の男はいわば一般人だ。スランプで小説が書けなくなったキングが普通の人を見て、私も彼らみたいに悩まされない職業に就けばよかったと云っているかのように思える。 しかし一方次の「秘密の窓、秘密の庭」は逆に小説家という職業に付きまとう根源的な恐怖を描いている。 自分が紡ぎ、世に送り出した小説が実は今まで自分が読んだ他者の小説の影響を潜在意識下で受け、模倣、剽窃したのではないかという恐れだ。 スランプに陥り、新たな出発を誓いつつ、その一方で今から書くものは本当に自分のオリジナルなのだろうかと自らを苛むキングの姿が見えるようだ。 従ってある日知らない人が訪ねてきて、「あなた、私の作品、真似したでしょ!」と糾弾され、次第に狂っていくモート・レイニーの姿はキングの根源的な恐怖の象徴なのかもしれない。 またこの作品では映画化される予定の作品が昔の作品に類似していることから頓挫したエピソードが出てくるが、これもまた作者の実体験のように思われる。 人間が生まれてそれほど数えきれない数の物語が語られ、書かれてきた現在、完全なオリジナルの作品は皆無と云えるだろう。同じパターンの話を設定と語り口を変えてヴァリエーションを増やして生み出しているというのが現状だ。例えばこの「秘密の窓、秘密の庭」の話自体、今やそれほど驚かされる話ではない。しかしこの作品が映画化までされたのはそこに作家キングの影や彼自身が抱く潜在的な恐怖が滲み出ているからだ。 スティーヴン・キングという作家は『ミザリー』で数年後に訪れる自分の災厄を予言し、『ダーク・ハーフ』とこの「秘密の窓、秘密の庭」で作者の頭の中で生み出された人物が作者自身に襲い掛かる、超越した存在を示した。 この時期のキング作品には彼自身の創作意欲が放つエネルギーがもはや虚構に留まらず、現実世界にまで及んでいると感じさせられるほどの凄みがある。 さてこのもはや中編集と呼ぶには厚すぎる作品集の後半『図書館警察』ではどんなキングの懊悩が垣間見れるのだろうか。 もしくは全く異なる、純然たるホラー作品なのか。 本書で感じ取った作家の業を念頭に置きながら手に取ることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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この何とも云えない気持ち、読後感。レンデルのミステリを、物語を読むといつもそんな気持ちにさせられる。さてこの思いをどうやって言葉に綴ろうかと。
殺人衝動を持つ男フィンと独身の会計士マーティン・アーバンの話が並行して語られる本書は最初どのような方向に話が進むのか皆目見当がつかなかった。 特にフィンのパートは不気味で暗鬱である。 幼い頃にポルターガイストを発生させる、超常能力を持つ彼はその後ハシシを吸いだしてその能力を失うがそれでも不思議と常人には見えない何かを見通す能力を持っていた。しかし一方で人間らしい感情が欠けている。 彼の最初の殺人は15歳の時だ。父親を亡くして母子家庭となった自分たちを引き取って持ち家に同居させてくれた母の従妹のクイニーが最初の犠牲者だった。それはまさに思春期の少年が持つ、過干渉が鬱陶しく感じるゆえに自分の前から消し去りたいと願う誰もが一度は抱く思いを実行に移した殺人だった。 しかし普通の人間と殺人者の境は心に抱いているそんな恐ろしい願望を実行するか否かにある。それは理性がその衝動を抑え込んでいるわけだが、このフィンは冷静沈着の感情下で殺人を行う。しかもその最初の殺人を母親に見られ、それが原因で母親は精神を病んでしまう。 そしてその後もその衝動はたびたび起こり、母親は息子がどこかで殺人事件や事故死が起きると息子を疑うようになり、そしてまた狂気の世界へと旅立つのだ。 一方、マーティン・アーバンのパートは全く異なる。 会計士という堅実な仕事に就く彼は事務弁護士のエイドリアン・ヴォウチャーチと不動産鑑定士のノーマン・トレムレット2人の友人がいるが女っ気のない独身者で両親の許を毎週木曜日の夜に訪れ、夕食を食べながら父親と税金対策について議論を交わすのが習慣となっている。この全く以て普通の青年が本書の物語のメインパートとなる。 ある日彼はサッカーくじで約10万5千ポンドもの大金を当てるが、その内の5万ポンドを生活に困っている人たちに寄付することを考えつく。ただそのサッカーくじは「ポスト」紙の記者で友人のティム・セイジのアドバイスに従って買ったのが当たったものだったが、なぜか彼は友人にはそのことを知らせず、しかも誘われたパーティーをキャンセルすることで半ば絶縁状態となってしまう。 そして彼の5万ポンドを使った慈善事業は1組のインド人親子のシドニーでの手術費拠出以外は悉く裏切られてしまう。 突然見知らぬ人から大金を寄付しようと云われれば、確かに詐欺ではないかとか危険な話ではないかと疑うのが常だ。そういった状況を想定せずに自分の善意を押し付けるマーティンは少しばかり世間知らずのおぼっちゃんのようだ。 しかしこの寄付行為、つまりチャリティはイギリス人のみならずアメリカ人も積極的に行うようで、『csi:NY』でも特許で大金を手にした監察医が匿名で1万ドルを不特定多数の人々に寄付するエピソードがあった。 正直ここまでのパートは一体この話はどの方向に向かっていくのかまさに暗中模索の雰囲気があったのだが、フランチェスカという女性の登場で一気に方向性が見えてくる。 ある日彼の許に花束を届けてきた花屋の女性が現れる。届主が誰だか解らないその花束を例のインド人親子からの物だと解釈するマーティンはその花屋の女性に一目惚れしてしまう。その女性こそがフランチェスカなのだが、彼女もマーティンのことが満更でもなく、夕食の誘いに応じるが、彼女は作家のラッセル・ブラウンという夫がいることをマーティンは新聞の記事で知る。 しかしフランチェスカはラッセルとの結婚生活を解消したがっているが、彼女には1人娘のリンジイがいて容易に離婚できないので、マーティンとは彼女の都合のいい時に逢う、不倫の関係が続く。 しかしマーティンはフランチェスカをどんどん好きになり、彼女と一緒に暮すことを考え、自分の家に一緒に暮らすことを提案するが、フランチェスカは彼の狭い家では娘と一緒に暮らせないと云って断る。 この時初めて彼は2人の生活にリンジイが存在することを悟る。そしてその娘も含めた家を提供しなければ一緒になれないことに腹を立てる。 この辺りは苦笑物の自己中振りだが、ますます彼が世間知らずであることを思わせるエピソードだ。 しかし彼は思い直してフランチェスカに娘とも一緒に暮らせる家を与えるように考える。サッカーくじで当てた10万5千ポンドの残金半分をその費用に充てることを思い付く。 一方でなかなか進展しなかった慈善事業も3万5千ポンドまで費やし、あとは1万ポンドを寄付しようと考える。そして母親が今も時折様子を見に行っているかつての掃除婦リーナ・フィンに新しい住まいを提供するために寄付しようと思いつく。 しかしそう上手く行かないのがレンデルの物語だ。 この全く交じり合わないであろう2人がマーティンの母親の言葉で交錯し、そしてマーティンにフィンが関わりいくその様はまさに詰め将棋を観ているような美しさを感じた。 しかしそれはロジックの美しさに感動する類ではなく、運命の皮肉がカッチリ嵌り過ぎて怖くなる物語としての美しさだ。寒気が背中に走るほどの。 これぞレンデル。この容赦なさこそレンデルだ。 よくもまあここまで運命の皮肉という詰め将棋を思い付いたものだ。悪事が大きくなればなるほど払う代償もまた大きくなる。 悪事と代償の作用反作用の法則、もしくは等価交換の原理をまざまざと見せつけられたかのような思いがした。 最後の最後の最後までレンデルの残酷劇場は止まらない。こんな物語を読まされた後では、もはやありきたりな運命の皮肉という言葉ばかりが浮かんでしまう。 しかし私が今抱いているのはそんな5文字には収まらない何とも云えない感情なのだ。 そう、もはやこの世は純真では生きていけないのだ。強かさを備えていないと生きていけないほど世界は汚れてしまっているのだ。 新聞記者のティムが云う。 「新聞記事なんて人間が書くものさ。正真正銘の真実を伝えているわけではない」 人の書くものはその人に意思が宿る。それが公に出て、そして売れていく。 このティムの言葉の新聞記事を小説に置き換えると、レンデルの言葉そのままにならないだろうか。 これは小説さ。人間が書くものさ。正真正銘の真実を伝えているわけではない。 つまりここに書かれている悲劇は人の書いたものだから、そんなに世を悲観するのではないよと読者に向けた慰めの言葉なのではないか。 だからこそ彼女は数々の皮肉を書く。人が救われない、報われない物語を書くのは正真正銘の真実を伝えているわけではないのよ、と云いながら。 本書のタイトル『地獄の湖』は原題も“The Lake Of Darkness”とほぼそのままだ。それはつまりこの世はこの地獄の湖ばかりであるという風に取れるのである。そしてその湖こそがレンデルが覗く闇であり、描く人の闇なのだ。 たった286ページに凝縮された残酷劇場。またもレンデルにはやられてしまった。 絶版作品は無論のこと、まだ見ぬ未訳作品が将来読めることを強く望む次第だ。 年を取るとレンデル作品はかなり面白い。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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疎遠になっている弟の妻と名乗る女性から連絡があり、夫が失踪したと知らされる。しかしその妻は積極的に夫を捜すわけではなく、本来夫がすべき親族の紹介をする手伝いをするようになる。そして自分が縁を切った金満家の矢神家に関わるうちに、次第に亡くなった母親の見知らぬ一面に接し、謎が深まっていく。
弟の妻と名乗る女性が突然現れる。 このウールリッチの諸作を思わせる展開は実情を知らなくてもその対象となる人物のことをネットなどでリサーチすれば成りすませることが可能となる昨今だからこそ妙にリアルに感じる設定だ。 そして不思議なのは夫矢神明人が失踪したのにも関わらず、積極的なのは夫の捜索ではなく、矢神家の過去や因縁を探ろうとする妻楓の存在だ。彼女は夫が相続することになっている矢神家の全財産を不在の明人に代わって宣言し、既に家族の縁を切って疎遠となっている手島伯朗をパートナーにしてどんどん矢神家の過去へ迫ろうとする。 特に殺人事件が起こるわけでもなく、失踪した異父弟の新妻のために行動し、そして少しばかり複雑な事情の自分の親族たちと向き合うという地味な話なのになんと読ませるのだろう。 その要因としてまず挙げられるのは主人公手島伯朗の親族の複雑な関係だ。手島伯朗の父一清は売れない画家で生計はほとんど妻の禎子の看護師の仕事で賄っていた。しかし彼が脳腫瘍を発症し、しばらく治療を続けていたが、間もなく死に至った。 その後は母親との2人暮らしで、彼女が働いている間は近くに住む禎子の妹順子の兼岩家に預けられるという生活をしばらく続いていた。順子は専業主婦で夫の憲三は大学で数学の教授をしていた。 そしてしばらくして禎子は病院などを経営する名家矢神家の一人息子康治に見初められ、再婚し、そして2人との間に明人という子供、即ち伯朗の異母弟が生まれるが、矢神家の当主康之介は彼を矢神家の跡取りとして育て、禎子の連れ子である伯朗にはますます見向きもしなくなる。そして彼は20歳の時に矢神姓ではなく手島姓を選び、そして矢神家とは縁を切ることにしたが、母親の禎子は伯朗が大学4年の時に実家の風呂で転倒して頭を打って湯舟で溺死してしまう。 つまり伯朗と矢神家にはもはやしがらみはないのだが、そこに明人の失踪が絡むことで彼は否応なしに明人の妻矢神楓に半ば振り回されるような形で矢神家に関わるようになる。その過程で彼は今まで知らなかった親族の一面を垣間見るのである。 複雑に入り混じった親族の、しかも矢神家という伏魔殿の如きプライド高い名家の軋轢に伯朗が惑わされる、いわば東野版『渡る世間は鬼ばかり』とも云うべき作品だ。 しかし伯朗を見下すそんな名家の人々が出てきながらも読んでいる最中はさほど不快感を抱かない。 それは矢神楓という女性の存在が際立っているからだ。美人で元JALのCAをしていた彼女は臨機応変に物事を対処する機転の持ち主(ただ真の正体は最後に明らかになるのだが)。そして自分の容貌が武器になることを理解して、男たちに媚を売って籠絡させることを全く厭わない。 十分に強かな女性なのだが、陽気かつ親しみやすさを感じる性格ゆえに嫌味を感じない。最も女性の目からは憧れの存在だった明人を独り占めした女性という敵のように映る一方で、海千山千の人物を見てきたクラブのママを務める矢神佐代からは只者ではないと感じさせる。 更に彼女が偽りの妻ではないかと疑問が頭をもたげるような事実が発覚し、それを問い質しても実に淀みなく説得力のある回答をすらすらと立石に水の如く応える頭の回転の速さ。30手前の女性で間延びした言葉遣いから相手は彼女を下に見がちだが、それも計算の内のようだ。 独身貴族で結婚願望なしの主人公手島伯朗も次第に彼女に魅かれ、彼女が他の男性と楽しく談笑しているのを見ると嫉妬し、そして彼女に頼られたいとまで思うようになる。傍から読んでて手玉に取られていくのが解っていて、笑えて来てしまう。 一方そんな彼女に翻弄される手島伯朗の人物像が次第に何とも頼りない男に見えてくる。一緒に行動するうちに楓のことが気になって仕方なくなり、笑顔を見せられたり、同情されたりすると気分が良くなり、彼女に頼られたいと思うようになる。その思いは次第にエスカレートし出し、終いには逐一行動をチェックするようになる。 弟の妻であることを半ば忘れて、自分の恋人のように彼女が他の男と仲良く談笑するのを、自分ではなく他の男性と一緒に過ごすのが我慢ならなくなってくるのだ。 機転の利く矢神楓と鈍感男の手島伯朗2人が辿る今や没落の一途を辿りつつある名家矢神家の面々と過去の因縁が謎が謎を呼ぶ展開を見せ、ページを繰る手を止まらせない。 また主人公の手島伯朗は獣医師という設定だが、本筋である失踪した異母弟の妻矢神楓の夫捜索と彼女の謎めいた様子が語られる一方で並行して伯朗の生い立ちと獣医としての日常が語られるが、後者のエピソードが実に愉しく読めた。特にペットの飼い主が連れてくる様々な動物たちに纏わるエピソードに加え、ペットを通じて憶測するペットを飼っている人間たちの私生活の話などが実にリアルで面白く、物語のアクセントになっている。 例えば珍しい猿を飼っている女性はパトロンになっている男性がいるクラブのママであることが多いとか、猿用の餌にモンキーフードなるものがあること、ミニブタを飼うとやがて80~100キロまで成長して手に負えなくなることなどといったペットトラブルあるあるに加え、また獣医は動物だけを相手にするのではなく、その飼い主とも付き合っていかなければならない、などと興味深い教訓めいた話も織り交ぜられる。 これらは取材していないと書けないリアリティがあり、『ミステリーの書き方』にも色んな事に興味を持ち続けていることが作家の秘訣だと述べていたが、今も実践しており、そしてそれが作品の幅を広げ、ベストセラー作家の地位に胡坐をかいていないことが解る。 またトリビアだが、本書の登場人物の1人、矢神家の異母弟の矢神牧雄は泰鵬大学医学部の神経生理学科で研究をしているが、この泰鵬大学、実は東野作品ではやたらとここの関係者が登場し、実はかなり微妙なリンクがあることに気付く。 しかし題名『危険なビーナス』はちょっと浅薄でピント外れな印象を受ける。題名が示すビーナスは矢神楓のことだろうが、彼女は確かに口頭では目的のためには女を武器にして籠絡させると公言したが、それでも危険な香りはしない。寧ろ彼女の魅力に主人公手島伯朗が勝手に魅了され、そして翻弄されただけなのだ。 そう、危険だったのは伯朗の惚れっぽい性格なのだ。 しかし開巻時からは思いもかけない着地点を見せつけてくれた。 まだまだ当分彼の作品の水準は下がりそうにない。まさに品質保証の東野印。ベストセラー作家として数々の読者の財布を緩ます東野作品こそ危険な魅力に満ちている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2018年のミステリシーンの話題をかっさらい、年末の各詩で行われるベストランキングで第1位を総ナメにした『カササギ殺人事件』。その作者の名はアンソニー・ホロヴィッツ。その後現在に至ってまで年間ミステリランキングを制している、今や海外本格ミステリの第一人者の趣さえある。
本書はそのホロヴィッツが本邦初紹介された時の第1作目の作品であり、少年スパイ、アレックス・ライダーシリーズの第1作目である。 ホロヴィッツの特徴はかつての名探偵や名作ミステリの舞台を中心とした数々のパロディ作品が多いことで、本書もまたその例外に漏れない007シリーズの少年版とも云うべきハイテクスパイ小説になっている。 ちなみに007シリーズを大いに意識していることを示すためか、アレックスがスパイの訓練のために入隊するSAS(英国陸軍特殊部隊)で付けられる綽名はダブルオー・ゼロである。 銀行員だった叔父が交通事故で亡くなったが、その死は明らかにおかしかった。そして判明した事実は実は叔父はMI6の工作員で潜入捜査中に殺害されたことを知らされる。弱冠14歳のアレックス・ライダーはその叔父の後釜として若きスパイとして育てられる。 そして叔父を消したコンピュータ会社セイル・エンタープライズを経営する大富豪ヘロッド・セイルが自社で開発した最新鋭コンピュータ、ストームブレイカーの全英の中学校を対象にした無料配布の影に隠れた野望を暴き、阻止するのが与えられた任務だ。 例えかつて凄腕の工作員だった叔父から将来のために鍛えられていた14歳の中学生がMI6のスパイになるとは実に荒唐無稽な話で、これは児童向けの娯楽小説として読むのが正しいだろう。 そしてホロヴィッツはそれを意識して色んな仕掛けを施している。それはさながらスパイ映画を観ているかのような映像的演出に溢れている。 例えば007のQに当たるスパイの秘密道具を開発するスミザーズという技術者が登場する。アレックスに与える秘密道具は特別なナイロンの紐が出てモーターによって巻き取ることの出来るヨーヨーであり、ニキビ治療用のスキンクリームに見せかけた金属溶解剤にニンテンドーならぬブリテンドーのゲームボーイではなく、プレイパームでゲームソフトを入れ替えると通信機器になったり、X線カメラや集音マイクに盗聴機器に発煙装置になったりすると子供が好きそうなアイテムが登場する。 またこれも潜入捜査のお約束で敵の本拠地は個人の軍隊とも云うべき武装集団によって護られているかと思えば、敵の自宅には大きな水槽があり、そこには巨大なカツオノエボシという毒クラゲが泳いでいる―確かにスパイ映画の悪党にはなぜか巨大水槽が付き物だ―。 また潜入捜査中にクォッド・バイクに乗った警備員に追いかけられるシーンもあり、007シリーズの映画を観たことがある人ならばすぐに映像が浮かぶほど、本家のストーリー展開に実に忠実に物語は運ぶ。 とはいえ、ホロヴィッツは単なる勧善懲悪物にしていなく、例えばアレックスが叔父の跡を継いでスパイになるのも自ら望んでではなく、唯一の肉親を喪って天涯孤独の身となったアレックスにMI6の特殊作戦局長アラン・ブラント、即ち叔父イアンの上司はそうせざるを得ない条件を突きつける。 ライダー家の家政婦でアレックスの身の回りの世話をしているジャック・スターブライト―ちなみに彼女は女性である―をビザの有効期限が切れると同時にアメリカに強制送還させ、家も売り払い、児童養護施設に入れると脅すのである。 つまり正義の側は時刻を脅威から救う任務を追いながらも必ずしも清廉潔白ではないこと、また悪の側にもそれを実行するための背景が織り込まれており、単純な二極分化するような構造としていない。 このヤッセンのようなキャラクターは例えるならば『機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブルのような存在でクールで危険な雰囲気を纏った人物であり、押しなべて少年少女の人気を掴むのが常で、調べてみるとこのヤッセンを主人公にしたスピンオフ作品まで書かれているようだ。 但し少年少女向け娯楽小説であることを意識してホロヴィッツはこのアレックス・ライダーとヘロッド・セイルの境遇を同一化して、その心の持ちようで人生が変わることを示している。 実はアレックスもまた何不自由なく育てられたわけではない。叔父イアンは小さい頃からアレックスを一流のスパイにするためにありとあらゆる訓練を施していたし、彼をスパイとして引き入れるMI6も苛酷な条件を突きつければ、SASでの入隊訓練で彼は周囲の大人の退院達、特にウルフと呼ばれる隊員から様々な嫌がらせを受ける。最たるものは弱冠14歳の少年に全英の危機から国を救えと任務を与えるMI6の無茶ぶりだ。 しかしアレックスは時折減らず口と愚痴を交えながら、どうにか状況を打破しようとする。一方ヘロッド・セイルは蓄えた巨万の富で壮大な仕返しを行おうとし、それをアレックスによって阻止されるのだ。 つまりこれから君たちは人生において様々な困難や逆境に出遭うだろうが、セイルのように捻じ曲がるのではなく、アレックスのようにどんな苦難にも立ち向かってほしいとホロヴィッツは述べているのだ。 このメッセージ性こそ美女と拳銃に彩られた娯楽物の本家007シリーズとこのシリーズの大きな違いではないだろうか。 しかしそれはこのように本書の感想を書く時に物語を振り返ってみて気付くことだろう。本書を読んでいる最中はただただアレックスの冒険に没入して読むだけでいい。 確かに眉を顰めるような御都合主義的な展開もある。それはたかが14歳の小僧だと敵が見くびった結果と捉えて看過すべきだろう。 先にも書いたが14歳の英国スパイという荒唐無稽さゆえに上に挙げたような瑕疵も見られるが、このシリーズは2011年まで書かれており、全9作のシリーズとして完結したが、日本では6作目の『アークエンジェル』までで訳出は止まっている。 昨年の『カササギ殺人事件』の高評価に続き、今年出版された『メインテーマは殺人』が続けて好評であればもしかしたらシリーズの続きが訳出されるかもしれないがそれはそれ。 まずはホロヴィッツ初紹介となったこのシリーズを読んで彼の作品に馴染んでいこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ジョー・ヒルの久々の作品集。
各編ページ以上のボリュームがある中編であり、4編が収録されているが、総ページ数730ページと実に分厚い。従って各編にヒル独特の世界観が濃厚に盛り込まれていると期待して巻を開いた。 最初を飾る「スナップショット」は1988年が舞台のある奇妙なカメラを巡る話だ。 昔写真機が出て間もない頃、まことしやかに写真に写されると魂が盗られると云われていたと聞くが、この作品もそんな噂話から生まれたのではないように思える。 フェニキア文字を刻んだタトゥーを両腕に施した男が持っていた“ソラリド”と聞いたことのないブランドが銘記されたポラロイドカメラはそれで写真を撮られた時に浮かんだ人の記憶が写真に吸い取られる災いのカメラだった。その人のある人に対する記憶が写真に“撮られる”ことで“盗られる”のだ。 デジタルカメラが生まれ、そしてカメラ付き携帯電話が生まれ、そして今スマートフォンで写真を撮り、ウェブサイトにアップする我々。それは“その時”を記憶だけでなく記録に留め、そして半ば自己顕示欲を混在させて世界に向けて発信させたいがために行っている。 しかしこのソラリドというポラロイドカメラは撮られることで記憶が無くなるのだ。記録は写真のみに留まり、その人の記憶からは消し去られる。 ポラロイドカメラというツールを使って認知症の老人が日々物事を忘れ、老いさらばえていく哀しさと消したい記憶を持つ男と記憶を残したいのに奪われる恐怖と哀しさを描いた本作はジョー・ヒルらしい切なさに満ち溢れた好編だ。 次の「こめられた銃弾」は本書で最長の物語だ。 何とも救われない話だ。 妻への家庭内暴力を振るった廉で差し止め命令が下され、妻と我が子と連絡を取ることと150メートル圏内に近づくことを禁じられていた警官志願の警備員が宝石店で起きた痴情絡みの殺人事件で、誤って人質を殺害したのにも関わらず、そしてそれを目撃した人間をも射殺したにも関わらず、一躍市井の英雄に祭り上げられる。 彼は湾岸戦争に従軍し、その後警官になろうとしたが選考から落ちて警備員に落ち着いた男。彼は白人でその時マイノリティ問題で警察が白人よりも黒人をはじめとする有色人種の国民を積極的に警察官に採用していた時期で、その余波を受け彼は落選した、と思っている。 それだけではなく、黒人であるだけで蔑み、そして虐げられる人々と白人との間にある深い溝が物語の根底にはある。 更に本作で頻りに飛び交うのは銃だ。誰もが銃を欲しがり、そしていつか憎たらしい相手にそれをぶっ放すことを夢見ている。そして銃がないと不安を感じて仕方がない。もはや銃なしで生きることに恐怖を覚えるようになったアメリカ人の病理がここには描かれている。 題名の「こめられた銃弾」とは即ちこのサイコパスがいつも抱えながらも社会生活を送るために忍耐強く秘匿していた殺戮への渇望を表している。しかし何とも報われない話だ。 さて次の「雲島」はファンタジーとセンチメンタルを孕んだ一品。 雲の中に現れた雲で出来た島。思わず不時着してしまった男オーブリー・グリフィンが孤独の中でバンド仲間の女性ハリエットとジューンとの出逢い、評判が良くなり、忙しくなる中、やがて恋い焦がれるようになったハリエットとの関係、そして亡きジューンが遺したアドバイスなどが断片的に語られる。それはまさに青春と呼ぶべき青さと若さと純粋さに満ちている。 そして物語の焦点はやがて雲島の正体とオーブリーがどうやってそこから脱出するかへと向かう。孤独なオーブリーの前に現れる雲で出来たハリエットは彼が望んだことをしてくれ、そして彼のことを気にかけてくれるが、それでもそれは本物のハリエットではない。 奇妙な漂流譚に若いバンド仲間の青春グラフィティを絡めるとは、ジョー・ヒルならではの発想だ。 最後の一編はまたもや怪異現象を扱った「棘の雨」。 タイトルが示すように突然棘が降る雨に見舞われたアメリカをデンヴァーに住むレズビアンのハニーサックル・スペックという女性の視点で描いた作品。 いきなり降ってきたのはただの雨ではなく棘の雨。主人公の女性ハニーサックル・スペックはレズビアンでその日彼女のヨランダが引っ越してくる記念すべき日だったが、その最愛の恋人は目の前で棘の雨に打たれ、亡くなってしまう。 そして彼女を送りに来た彼女の母親も同様に亡くなり、主人公は連絡の取れない彼女の父親に妻と娘の死を伝えるのと同時に安否を確認するため、デンヴァーへと旅立つ。その旅路で彼女は色んな人と出会い、そして別れる。 棘の雨に打たれて虫の息の愛猫を抱えて泣き叫ぶ総合格闘家マーク・デスポット。ハニーサックルは彼の代わりに愛猫の首を捻って安楽死させるが、彼の怒りを買ってしまう。 その後なぜか彼女をつけ狙う新興宗教<七次元のキリスト教会>の信者たちに襲われる。彼らは教祖エルダー・ベントが今回の雨のことを予言したこと、雨が降ることを知っていたのをハニーサックルがFBIに報せに行こうとしていると思い込み、それを阻止しようと彼女を付けていたのだった。しかしその窮地に先ほどのマークが現れ、彼らを一網打尽にする。 ハニーサックルが次に出逢ったのは大家を殺した囚人ティーズデイル。彼は亡くなった人々を乗せたトラクターに警官と同乗し、処分場へ着いた途端に隙を見せた警官を襲い、トラクターを強奪して逃走する。自由を掴むために。 しかし人間とは不可解な生き物ではある。 災害に巻き込まれた家畜の安否を気遣いながら、それを牛肉や豚肉、鶏肉を食べながらテレビで観るような矛盾を平気で行うからだ。このアーシュラの行いは自分がしたことで起こりうる無垢な人間の死には心を痛めるが、一方でアメリカ人全てを一つの悪として罰を与える断固たる決意を持ち、そして息子のシッターを頼んでいた隣人のハニーサックルが恋人の父親の許を訪ねに旅立つのを見て、自分の行為がFBIに発覚するのではないかと恐れ、新興宗教の信者に襲わせようとするのだ。 寧ろこれが人間の不可解さであることを逆に理解させてくれるアーシュラの行動原理だとも取れる。 雨が我々の生活を脅かし、そして死者まで出る。この棘の雨が降ることでアメリカ人が出くわす光景はさながら今我々日本人が出くわした台風19号、そして追い打ちをかけるように襲った豪雨によって被災した人々の境遇を想起させる。 彼らはお互いに助け合い、また時にこの非常時に便乗して罪を犯そうとする、もしくは平時では隠していた感情を爆発させ、本能の赴くままに行動する。気に食わない輩を殺そうとし、金品を奪おうとする。また困難に乗じて台頭しようとする宗教家が出てくる。少しでも平穏というバランスが崩れるとそこに本性が現れる。それはもはや少しばかりの理性を残した獣なのだ。 そして主人公のハニーサックルもまた人間として清廉潔白であろうとしない。自分の身を守るために彼女は相手を傷つけることを厭わない。殺すまでのことはしないが、後で自分を追ってこないよう戒めを施すまではする。 やったらやり返す。やられる前にやる。 ハニーサックルはデンヴァーまでの旅路で人の優しさと人の理不尽さの両方を知り、そして生きるためには容赦しないことを学んだのだ。 先に書いた台風被害の被災者たちの振る舞いを考えるとこの始末の付け方は隔世の違いを感じる。やはり我々は日本人であり、彼らはアメリカ人なのだ。そう、これがアメリカなのだ。 元々私は本邦初紹介となった短編集『21世紀の幽霊たち』に魅せられてヒルの読者になったが、その後訳出された長編はいずれもさほど高い評価が得られておらず、『このミス』のランキング外であった。 そして本書は好評価を得た『21世紀の幽霊たち』以来の中編集。ヒルの本領は長編よりも短編や中編にあると思い、そんな期待を込めて読んだ。 そのカメラで写真を撮られた人はその写真に写った人の記憶を無くすポラロイドカメラ、“ソラリド”に纏わる話を描いた「スナップショット」。 湾岸戦争帰りのサイコパスが出くわした事件で犠牲者を最小限に留めたとして英雄として祭り上げられ、その真相を探る地方紙記者の話「こめられた銃弾」。 ひょんなことで雲で出来た島に独り取り残された男が、もう1人のバンド仲間で恋をしてしまったハリエットとの関係を、バンド仲間のジューンが亡くなるまでの足取りを回想する「雲島」。 棘の雨により多数の死傷者を出す大惨事になったアメリカで引っ越して来た恋人とその母親が棘の雨によって亡くなったことを彼女の父親に伝えに行くレズビアンの女性ハニーサックル・スペックが遭遇する人々との出逢いと別れ、そして棘の雨の真相までを描いた「棘の雨」。 怪異譚、悲劇、青春恋物語にロードノヴェル。種類は違えどそのどれもにジョー・ヒルならではのテイストが満ちている。 被写体にカメラを向けるとそこには被写体ではなく、別の人物が写るがその人物の記憶が被写体から取り除かれるポラロイド・カメラに空に存在する雲島、そして突然降ってきて無数の死傷者を出した棘の雨。それら奇想のアイデアを用いてヒルは人間ドラマを紡ぐ。ありもしない、起こりもしない道具や現象に出くわした時の人の心の在り様を丹念に描く。だからヒルの小説は文章量も多く、そして長くなるのだ。 邦題『怪奇日和』は正確ではない。本書に書かれているのは怪異ではあるが怪奇ではないからだ。 各編に織り込まれるのは人の心の奇妙さ、生々しいまでの人間たちの本音。他者を犠牲にしてまでも自分を守ろうとする、もしくは自分勝手な理屈で他者を攻撃する人々の姿や心情だ。 原題は“Strange Weather”、即ち『異常気象』だ。 そう、ここに書かれているのは人々の異常“気性”なのだ。 ヒルはこれまでの作品で我々が心の中で、奥底で抱いている不平不満、本音を我々読者に曝け出してきた。それらはあまりにストレート過ぎるので時々目を背けたくなる。なぜならそこにある意味“自分”を見出してしまうからだ。 常日頃は仮面を被って隠している本心が非日常へと誘う出来事に直面することで仮面が外れ、剥き出しの自分が零れ出す。 例えば「スナップショット」では記憶を消去されるポラロイドカメラによって痴呆症のようになっていく妻のサポートを面倒見切れなくなった夫の嘆きが出てくる。その夫は妻を世界中の誰よりも愛して止まないが、愛だけでは克服できない限界を悟らされ、涙する。 「こめられた銃弾」は、もう人間の生々しい本性のオンパレードだ。 自分のミスで誤った黒人の容疑者を撃ち殺してしまった白人警官はあらゆる言い訳で自らの行為を正当化する。黒人への嫌悪を隠さず、彼らが対等に振る舞うことはおろか、過ちを犯した自分の行為を暴こうとする憎き存在として侮蔑し、嫌悪するサイコパスが出るかと思えば、街の警察署長は有色人種差別の中傷被害を免れるため、一般の黒人を警官と偽らせて積極的に多様な人種から警察官を採用しているかのように振る舞う。 「雲島」では仲間からやがて異性と意識する男女混成バンドのメンバー間のすれ違いが描かれる。まあ、これは典型的だけど、やっぱり男女の間は友情だけに留まらなくなってくる展開は痛々しいものがある。 そして「棘の雨」は未体験の災害に見舞われたアメリカ人の姿とそんな危機的状況で露呈する本性にレズビアンの主人公が出くわす。 本書におけるベストは該当作品無しだ。どれもがどこか哀しく、清々しさがないためだ。但しどの作品もなにがしか心に残るものはあるが、それらは喪失感であり、虚無感である。そんな感情が心の中を揺蕩う。 このモヤモヤとした心の中に留まるどんよりとした重い雲のような感慨を素直に文章にするのは何とも難しい。深い霧の中で一片のメモを見つけるような感じだ。 本書の感想を的確に示す晴れ間までしばらく時間がかかりそうだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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文庫裏の粗筋を読んだ時、キングはなんということを考えつくのだろうと、その奇抜さと着想の斬新さに驚いてしまった。
まさか作家の別のペンネームが独り歩きして現実世界に現れ、作家周辺に脅威を及ぼすとは。しかもその<邪悪な分身(ダーク・ハーフ)>はおおもとの作者と同じ指紋、声紋を持つ、全くの生き写しのような存在なのだ。 キング版『ジキル博士とハイド氏』とも云える1人の人物から生まれた2つの人格の物語はしかし本家における二重人格とは異なる、全く新しい趣向で語られる。 まず本書の着想の基となったのがキング自身の経験によるものだ。キングはその迸る制作意欲を止められず、当時出版業界にまかり通っていた1作家は1年に1冊だけ出版するという風潮からリチャード・バックマンという他のペンネームを使って作品を2作以上発表することにしたのだが、やがてバックマン=キングという説が流れ出し、公表するに至ったという経緯がある。 本書の始まりもその実体験をそのまま擬えたかのようにワシントン市の法科学生がたまたま売れない作家サド・ボーモントの作品とベストセラー作家ジョージ・スタークの両方の作品を読んでいたことでボーモント=スタークではないかと疑問を持ち、暴露されそうになったところを敢えてサド・ボーモントの方からジョージ・スタークの葬式を行う、つまり今後ジョージ・スターク名義の作品は書かないという宣言をした記事を『ピープル』誌に載せたところから始まる。 本書はある意味メタフィクションと云っていいだろう。なぜならサド・ボーモントを通じてキングがバックマンとして作品を書いていた時の心理が描かれているように捉えることのできる描写が見られるからだ。 サド・ボーモントがジョージ・スターク名義で犯罪小説を書き始めたのは自身がすごいスランプに陥って新作が書けなくなった時に全く逆の、自分が書かないであろう作品を書いた時にそれが上手くカチッとハマったこと。 サドがスタークの作品を書いている時、自分が本当は何者か解らなくなること。 またジョージ・スタークの名の由来となった実在の作家ドナルド・E・ウェストレイクの別名義リチャード・スタークのエピソードを交え、彼のように自分の中のジョージ・スタークが目を覚まして自ら語り出したということ。 最初は単に金を稼ぐために生み出したもう1つのペンネーム。しかしその正体を秘密にすることで作者はばれないよう、文体を変え、そして書くテーマも変える。しかしそううすることで次第に自分の中で別の人格が生まれてきた、つまりキングの中でバックマンは単に名前だけの存在ではなくなったことが暗に仄めかされるのだ。 そこから出たアイデアがもう1つのペンネームが別人格となって実在し、本家の作家の脅威となるというものだ。本書はこのワンアイデアのみだと思われがちだが、色んなテーマを内包している。 まずは双子の奇妙な繋がりだ。 物語の冒頭は主人公サド・ボーモントの少年時代に起きた偏頭痛の手術のエピソードが描かれている。その頭痛の原因は脳に出来た腫瘍による圧迫だとされ、緊急手術が行われるが、なんとそこで出てきたのは目玉と鼻の一部と歯だった。生まれるであろうもう1人の双子の片割れが消滅し、サドの頭の中に断片が残っていたのだ。 そして大人になって結婚したサド・ボーモントには双子の兄妹が生まれる。片方が泣けばもう一方も泣き、その逆もまた然り。そして奇妙なことにもう一方が転んで痣を作れば、もう一方も同じような痣が同じ場所に出来る。その妙なシンクロニシティはそのままサド・ボーモントとジョージ・スタークにも繋がっていく。 スタークはサドの少年時代に処分された双子の断片であり、サドが作家になってもう1つのペンネームで捜索をした時が再生のきっかけであり、そしてスタークを葬るのに架空の葬式を行ったことで彼が具現化したのだ。そしてサドはトランス状態に陥ることでスタークと精神的に繋がる。 未だにこの双子特有のシンクロニシティもしくは親和性については研究が行われている。我々の世界にはまだ解明できない生命の不思議があるようだ。 もう1つはたびたび登場するスズメの群れ。 私は最初このフレーズを読んだ時、ヒッチコックの『鳥』を想起した(作中にも同様のことが書かれている)。 とにかく理由もなく突然町に蔓延する鳥の大群。やがてそれらは大きな1つの意志を持つかのように次々と人間たちを襲っていく。なぜ彼らはそうするのかは解らないまま、映画は終わる。 サド・ボーモントの夢、幻覚に現れるスズメの群れもまた何かの象徴で、それは物語の半ば過ぎで言及される。 そして物語の最終局面の舞台、サドの妻と双子の子供をさらったスタークがサドを待ち受けるキャッスル・ロックの別荘には何億羽というスズメの大群に覆われる。ハリー・ポッターの映画の一シーンのように実に映像的だ。 ところでこの頃のキングは物語の主人公を作家にしたものが目立つ。 『ミザリー』は狂的なファンによって監禁されたポール・シェリダン、次の『トミーノッカーズ』でもウェスタン小説家のボビ・アンダーソンを、そして本書ではサド・ボーモントと連続している。 更にいずれも作中で『ミザリーの帰還』、『バッファロー・ソルジャーズ』という作中作が断片的に織り込まれており、本書でももう1つのペンネーム、ジョージ・スターク名義の作品『マシーンの流儀』、『バビロンへの道』、更にサド・ボーモントのデビュー作『ふいの踊り子』の抜粋が各章の冒頭で引用されている。更に物語の終盤ではスタークとサドが共に書く新作『鋼鉄のマシーン』が断片的に挿入される。 これら3作続いて架空の作家による架空の作品について文章まで挿入しているのは溜まりに溜まった創作メモを一旦整理するためだったのだろうか? 80年半ば、キングはスランプ状態に陥り、前作『トミーノッカーズ』は自身のアルコールと薬物依存を基に書かれている内容が多々あり、それに当時起こったチェルノブイリ原発事故を宇宙人の影響による怪事に見立てた非常に冗長な作品であった。 『ミザリー』の時に既にスランプ状態にあり、その後前作を経て書かれたのが本書である。 そんな状態だったからこそ、今まで書き溜めてきたアイデアを作品にするまでに自信がなかったのでこの際、作中で消費してしまおうと考えたのではないか? 特に『ミザリー』における作中作『ミザリーの帰還』の分量は意外なまでに多かった。このファンタジー系の作品はもしかしたら直前に発表された『ダークタワー』シリーズ2作目の後に構想されていたアイデアかもしれないが、当時のキングにはそれを基に続きを書く自信がなかったのではないだろうか。 そして本書におけるジョージ・スタークの小説は内容としてはかなり残酷な犯罪小説で純文学作家のサド・ボーモントの作風とは全く異なる、真逆の作品らしい。 しかしこれもまたキングの内から出でた作品の断片なのだ。 とにかくとことんのワルを書くために温められてきたアイデアを本書のジョージ・スタークが行う数々の殺人描写に使ったように取れる。それほどまでにこのスタークの殺人シーンは映像的迫真性に満ちており、陰惨で生々しくそして痛々しい―特に被害者の一人が剃刀で喉を切られそうになるところを左手で庇ったために3本の指が根元から切れて、折れ曲がり、薬指だけが付けていた指輪のために被害を免れたせいで、まるで中指を立てて相手を侮辱するのに立てる指を間違えたかのようだと云う描写はユーモアと痛々しさが同居したキングしかできない表現だ―。 この一連の作品群において作中作を盛り込んでいるのは迸る創作への意欲とアイデアがありつつも一作品として仕上げるにはアイデアが煮詰まっていないもどかしさ、つまりスランプに陥ったキング自身の足掻きが行間から見えるようだ。 そして“書く”ことへの業を作家は背負っているのだと仄めかしているようにも思える。 書かない作家はただの人であり、そしてほとんどの作家は存命中にその功績を認められ、ベストセラーになったとしても、死後ずっとその作品が残り続けるのは非常に稀だ。 それはまさに歴史に埋もれていった没後作家たちが人々の記憶から風化していくかのように。 人は誰しも二面性を持っている。陽の部分の陰の部分だ。 「ダーク・ハーフ」とは即ち誰しもが備える陰の部分、暗黒面であり、それは別段異常なことではない。 普通我々一般人は犯罪や戦争などとは無縁の生活を送り、朝起きて仕事に行き、夜帰って家族と束の間の時間を過ごし、休日は家族サービスや趣味に興じる。 しかしその一方このキング作品のようなホラー、本格ミステリ、その他犯罪小説、サスペンスといった殺人やまたそれを行う殺人犯の物語を好んで読む人もいる。 それはある意味それら普通の人々に中に潜む悪を好む部分、≪邪悪な分身(ダーク・ハーフ)≫なのかもしれない。 つまり全てが清らかで普通であることは実に退屈であり、人は常に何かの刺激を求める。しかし犯罪に手を染めることができないからこそ、人はその代償を物語に求める。 己のダーク・ハーフを充足させるために。 現在我々はネット空間という新たな場所を手に入れ、そこでは日中、学校や職場では見せない別の自分の側面をさらけ出す。そしてネット空間は匿名性ゆえに自分の内面をより率直に露出することができるのだ。 そんな匿名の世界にはしばしばネット社会でのマナーを逸脱して素の自分をさらけ出し、ダークな一面を見せる人たちもいる。 全ての人が常に善人であるわけではない。しかしその暗黒面は他者に迷惑を掛けず、我々作家が紡ぎ出すミステリで満たしなさい。 そんなことを作者が告げているような気がした。 朝起きた時、スズメがいつもより多いと感じたら、自分のダークサイドが多めに出てないか、気に留めるようにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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篠田節子氏の初期のホラー作品で第8作目に当たる本書は完璧な美を手に入れた整形美人と完璧な美を愛でるデザイナーの異常な関わり合いを語った作品だ。
登場人物はわずかに2人というまさにぜい肉をそぎ落とした作品で僅か220ページにも満たない中編とも云える作品だが、なかなか読み応えがあった。 まず主人公の名は麗子。苗字はない。幼い頃から器量が悪いために恋人はおろか、実の親からも疎まれてきた女性。 自分を生んだことで心臓病を患い、寝たきりの生活を強いられるようになった母親。それによって独立の夢を捨てた大手建設会社に勤めていた父からは「お前さえ生まれてこなかったら」と呟かれる。 高校2年の時に美術科教員に恋し、友人の一人がモデルをして抱きしめられたと聞き、自分も同じようにしてもらおうと教員の許を訪ねるが碌に見られもせずに相手にされなかったこと。 30を目の前にしてバンド仲間から求婚されるがその時の言葉が「俺もぜいたく言っていられない歳になった」だったこと。 そんな誰からも相手にされず、相手にされても常に見下されていた存在だった彼女は一念発起して大整形に踏み切り、完璧な美人顔を獲得する。 しかしそれがあまりに完璧すぎたため、人間味がなく、逆に畏怖と困惑の表情で迎えられてきた。とにかく何をしても裏目に出てしまう幸運に恵まれない女性、それが麗子だ。 その麗子を初めてまともに見てその美しさを礼讃したのが平田一向。新進気鋭の若手デザイナーで世間の注目を集めている彼は医学部を中退し、工学部に入り直し、在学中にイタリアのデザインコンクールで入選したことをきっかけに工学部も中退してデザイン事務所に就職し、今は独立して仕事を直接受けている。 彼はしかし完璧な美を愛でる男性だが、彼にはそこに生命の美しさを求めない。彼にとって人間の血や涙と云ったものは汚らわしいものであるため、即物的な美を常に求めるのだ。それには幼い頃に伯父がベネチアで買ってきた『解体できるヴィーナス』と呼ばれる完璧な美女を模した医学用の人体模型に魅せられたからだ。 それはまるで生きているかのように精巧かつこの世の中で最も美しいと思われる顔と姿を持ち、しかも人体模型であるから肌が外れ、その中にはきちんと内臓も備わっており、更に子宮と胎児すら収まっているという代物だ。それは血も膿も流さず、全く綺麗にその中身をも手で触れ、愛でることができるため、いつしか平田はそんな完璧で汚れなき美の存在だけを愛でるようになった。 しかし彼の前に現れたのが整形された麗子だった。彼は今まで人形だったその人体模型がリアルな人間として現れたと感じ、彼女に興味を持つ。 一方で麗子はそれまで畏怖と困惑でしか自分を見てくれなかった人たちばかりの中で初めて自分を見つめ、愛でる平田こそ自分が求めていた男だと思い、全てを擲ってまでも彼と一緒にいることを決意する。 平田はしかし麗子を求めはするが、求められると冷たく突き放す。 それは平田にとって麗子は完璧な美の存在であり、生きた人形であっていたかったからだ。彼にとって麗子が自分を愛すると云う感情は不要だった。彼は麗子の美に興味があり、そして金髪の腎臓模型のようにその中身に興味があったのだ。こんな完璧に美しい女性の中身をどうしても見たくて堪らなかったのだ。 はっきり云って平田は大いなる矛盾を抱えた存在である。 完璧な美を追求し、そんな人間を見つけて興味を覚え、その中身を見たいと熱望するが、そうすることで人体から出血し、生臭い臓物が出て、しかも食べた物が発する悪臭を最も嫌悪するのだから。 それはつまり好きな物は欲しくて、好きなことはやりたいが、汚れるのはいやという実に子供じみた我儘と大差ないと云える。 一方麗子もただ屈辱に甘んじていた女性ではない。 高校の時に全く相手にもされなかった美術科教員を逆恨みし、その教員と身体の関係を持ったと嘘をつき、その噂がもとでその美術科教員は転勤を余儀なくされ、その後もその噂が消えず、とうとう教員を辞め、婚約破棄になり、アルコール中毒で入院することになる。 また平田が夢中になっている人形に嫉妬し、平田を自分の物にするために地下室でその人形の服をはぎ取り、配管工事に来た人間にわざと見させ、平田の評判を貶めさせることを企むが、修理屋はそれをダッチワイフか何かと勘違いして性行為にまで及ぶのだ。 そう麗子もまた独占欲の強い人間なのだ。彼女は自分の手に入らないと思ったら嘘を平気でつき、更に運命と思えた男を手中に入れるためにはどんな手を使ってでも自分の方に目を向けさせるために罠を企むことをする。 それは彼女が平田一向との出逢いに運命を感じ、彼を最初で最後の男性だと強く思っているからだ。従って彼と世を捨てて2人だけで暮すことや、もしくはこのまま雪の中の山荘で2人で死ぬことも厭わない女性だ。 つまり彼女もまた盲目的に1人の男性を愛してしまう、ストーカー気質の危ない女性であるのだ。 この正常から逸脱した男女2人の出逢いはしかし最後価値観の違いからすれ違ってしまう。 ところで不気味の谷というのを御存じだろうか。 人型ロボットやCGアニメなどの技術が発展し、より人間に近い造形にしていくと人は徐々に好感を増していくが、あるところに達すると嫌悪感を覚えるようになる。その領域のことを不気味の谷と云うが、麗子の容姿はまさにその不気味の谷に位置する領域にあった。 それは彼女が単に外面的な美しさに囚われ、内面を磨かなかったからだ。いつも劣等感を抱き、時に強い嫉妬を抱いて復讐行為をする彼女は云わば心の無い人形に過ぎなかった。 人は見た目が9割だと云う。そして現実に美人の方が得するようになっている。 従って人は自分の容姿をできるだけよく見せることに努力をする。恵まれた容姿を持つ人の、自分の容姿に対する思いは様々だが、容姿に恵まれない人の思いは常に一緒で、より美しく、より端正になりたいと願う。だからこそ美容産業は衰退せず、今なお隆盛であり、毎年新たな化粧テクが生まれ、今や男性用の化粧品も市場が拡大してきていると聞く。 斯く云う私も美人が好きであることは正直に認めよう。 だがやはり人が惹かれるのは性格である。その人が纏う雰囲気こそが一緒にいたいと思わせるファクターであり、それが愛なのだ。容姿は出来れば美人であることに越したことがないという程度の方がいい。 とはいえ毎年世界各所ではミスコンテストが行われ、美を競い合う。また芸能界でも次から次へその世代を代表する美しい女性たちが現れ、世を魅了する。歴史の中でも1人の美人によって滅んだ国や美人によって身持ちを崩した偉人も数多くいる。 美の追求、それは永遠に終わらない世の理だ。 ただ幸いにして私は自分の人生を擲ってでも一緒にいたいと思った美人に逢ったことがない。それこそが幸せなことなのかもしれない。それほどまでに美は人を狂わせるのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々にウェクスフォードシリーズを手にした。シリーズ14作目となる本書は比較的コンパクトなシリーズの中でも比較的長めの460ページに亘る作品だ。
事件自体はショッピング・センターの駐車場で見つかったごく普通の夫人の絞殺死体の犯人を巡る地味なものだが、なんとウェクスフォードは途中で爆弾事故に巻き込まれて重傷を負うという派手な展開を迎える。 しかもそれが女優である次女のシーラのポルシェに仕掛けられていた爆弾だったことから一転して不穏な空気に包まれる。折しもシーラは自身が主演を務めるドラマが好調であったが、≪反核直接行動演技者連盟≫なる反核を推し進める俳優たちで構成された10人からなる小集団の活動の一環で英国空軍基地のフェンスのワイヤーを切ったことがニュースになっており、また離婚騒動の渦中でもあった。 さらにその後も彼女に手紙爆弾が送られ、更に不穏な空気は募る。 しかし爆発に巻き込まれながらも—というよりほとんど直撃と云ってもいいくらいだが—ウェクスフォードはタフな不死身ぶりを見せる。なんとその週の週末には退院して仕事復帰しているのだ。ページ数にして僅か80ページ。いやはやどれだけ頑丈なんだ。 そしてもう1つ大きなエピソードがあり、それは遺体の第一発見者でありながら、警察に通報せずに現場から逃走したクリフォード・サンダースと彼を容疑者とみなすマイク・バーデンの捜査を巡るうちに異様な方向へと向かう意外な展開だ。 このバーデンのクリフォードに対する執着は初めてウェクスフォードとの対立を生み出す。それについては後述しよう。 またメインの事件も実はウェクスフォードは目と鼻の先に遺体があったことを見逃す。事件現場であるショッピング・センターに妻のドーラの誕生日プレゼントを買いに行き、遺体の見つかった地下駐車場と同じ階に車を駐車していながら、そのまま素通りして家路につくのだ。つまりウェクスフォードはその時間に犯人に出くわした可能性もあるのだ。 遺体発見者と被害者を調べていくうちにそれぞれ特殊な事情を持っていたことが解る。 被害者のグウェン・ロブスンは関節炎持ちで自宅療養生活中の夫を抱えながらせっせと働く献身的な妻の様相を見せるが、これが次第に変わっていく。 彼女が働く理由は身体の不自由な夫の生活のためで、その世話好きの性格を買われ、隣人たちから色々所用を頼まれていた。足の爪を切るだけで5ポンドもの大金を与える老人もいれば逆に週100ポンド払うから家の面倒を見てくれと頼む金持ちの老人もいたが、その依頼は断っていた。 一方ですごいゴシップ魔でご近所の話をのべつまくなしにしゃべっていたという者もいれば、さほど近所付合いもしなかったのにある富裕な老人が遺言で自分に3000ポンドを譲ると云っていてそれには証人が3名必要だからサインしてほしいなどと厚かましく要求する。 これらの話からバーデンは被害者のグウェン・ロブスンが金に汚い人間であり、亭主のためだという口実でその行為を正当化していたと断じる。そして遺体の第一発見者のクリフォード・サンダースがかつて学生時代にフォレスト・ハウスという屋敷で庭師のバイトをしており、その同時期にグウェン・ロブスンがその家の世話をしていたことを知り、接点を見出す。 遺体の第一発見者であるクリフォード・サンダースはグウェン・ロブスンの遺体を発見したことで動転して自分の車に積んであったカーテンを掛けてそのまま車を置いて逃走し、家まで歩いて帰ってしまう。その理由はそれを母だと思ったからだという。 一方遺体の発見者として近所の老人に警察へ通報することを要請したその母ドロシーはカーテンで隠された遺体を息子の遺体ではと思ったという。 バーデンの捜査を通じてこの親子が少し変わった人物であることが判ってくる。 クリフォードはいわゆる大人になり切れない大人で心理療法士の診断を定期的に受けている。そして母親ドロシーは元々名家であったサンダース家に掃除婦として働いていたところを見初められ、玉の輿に乗ったのだが、その夫は実母と共に息子と妻を残して屋敷を出て離婚し、実母もほどなく病死した後、ドロシーはその後女手一つで息子を育て上げたのだった。 しかしそれは息子を寂しさゆえに自分の許へ繋ぎ留めておく執着が強くなったためにクリフォードは母親から自立できない大人になってしまった。 また被害者ロブスン家に世話をしに来る姪のレズリー・アーベルもまた捜査が進むにつれて不審な点が出てくる。 イギリスで広く読まれている雑誌≪キム≫で人気の人生相談のコーナー、サンドラ・デールの秘書をやりながら、関節炎を患った伯父さんの世話のために毎週ロンドンから通う姪。一聴すると実に献身的な娘を想起させるが、その外見は派手派手しい服装を好む美人で、おおよそ料理も得意でなく、料理に邪魔になるであろうマニキュアを塗った長い爪をした、当世風の娘である。 しかも事件当時のアリバイも綻びが出てくる。更に事件直前に彼女らしき若い女性と被害者がショッピング・センターで話しているのを目撃した店員や客が出てくるに当たり、そのメッキが剥がれていく。 とまあ、レンデルの人間に対する眼差しの強さはいささかも衰えない、実に読ませる作品に仕上がっている。 さて本書の原題“The Veiled One”は作中に出てくる容疑者の1人クリフォードの心理療法士サージ・オールスンが話す“ヴェールで顔を隠した人”、≪エンケカリムメノスの虚偽≫というエピソードに由来する。即ちいつも見ている人物もヴェール1枚包めばその人と認識できない別人になるという意味だ。 カーテンを掛けられた遺体はそれを発見した親子はそれぞれそれが母親だと思い、息子だと思ったと述べる。 人は皆仮面を被って生活している。いやここは本書のタイトルに合わせてヴェールを被っていると表現しよう。 外向けの貌と内向けの貌。外向けの顔が虚構に彩られたさながらヴェールを被った貌は自宅に戻るとそのヴェールをはぎ取り、本当の貌をさらけ出す。 いや、さらに秘密を持つ者は自宅においても他の家人たちに外向けのヴェールの下にもう一枚被ったヴェールのまま、相対する。これはそんな物語だ。 レンデルの紡ぎ出す物語はさながら様々な因果律が描くタペストリーのようだと今回も感じ入った。それぞれの人物が糸のように絡み合い、編み物のように丹念に織り込まれながら、惨劇という大きなタペストリーを見せるのだ。 ショッピング・センターの駐車場で起きた1人の婦人の死。 そこは様々な種類の店が並んだ複合施設。いわば複数の店という糸が寄り集まって出来たタペストリーだ。 そこにはいろんな店があるがゆえに色んな人も集まっていく。 それらの人たちが糸のように寄り集まり、やがて駐車場での絞殺死体へと収束する。 そしてその場に居合わせた人たちにはそれぞれ隠している過去があり、秘密がある。ヴェールを被って外に出ながら、そのヴェールを無理矢理剥がそうという人がいる。それが被害者のグウェン・ロブスンだった。 そしてそれらの過去や秘密によって新たな因果律が生まれ、惨劇へと発展していく。 この事件の容疑者について426ページからウェクスフォードが様々な事件関係者を容疑者に見立てて開陳する推理は誰もが動機があったことを思い知らされる。因果律の応酬だ。 それらを全て感想には書かないでおく。 事件とは即ち人生の変化点だ。それに関わった人物はもうそれ以前の人生とは異なる何かが起きるのだ。 勿論その関わり方の深さによってその何かの大きさは異なるだろう。 しかしそうであってもどうにか普通の暮らしを続けていた者たちにとってその些細な変化が多大なる影響を及ぼし、大きく人生を狂わせていく者もいる。 失敗を恐れ、自分自身のみの必然性に従ったために起きたのが今回の事件だ。いや、事件とは押しなべてそのように起きるものなのだが、レンデルの筆致はその当たり前のことを鮮烈に思い知らされる。それだけ登場人物たちが息づいているからだろう。あ ああ、やはりレンデルは読ませる。まだまだ未読の作品があり、そして未訳の作品がある。 人生劇場とも云えるレンデル=ヴァインの諸作がいつの日かまた復刊され、訳出されることを願う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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