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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数699件
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短い物は4ページから、長くても10ページで構成されるショートショートならぬ、クイーンの命名によるミニ・ミステリを集めたアンソロジー。
冒頭は「最初のミステリ」と題してニュートン・ニューカークの「探偵業の起源」。これは今では有名となったアダムとイヴの物語を探偵物語に擬えた物。 次は「ミニ犯罪小説」として25編が収録されている。 完全犯罪を企てた男がある幸運から犯罪が瓦解するというサミュエル・ホプキンズ・アダムズの「百万に一つの偶然」を筆頭に、自殺した男をわざわざ自分が殺したと申し出る男の犯した犯罪を描くスティーヴ・アレンの「ハリウッド式殺人法」、毒蛇で浮気相手の男を殺そうとしたが、蛇に噛まれても死なないその男から明かされた意外な事実。だがしかし…というひねりを加えたロバート・ブロックの「生きている腕輪」。 小人がもう一人の小人を殺した理由は実に小人らしい理由だったというのが「検死審問」に、亡き兄の許に謂れのない本の請求書が送られてきたという紳士とひと悶着する「牧師の汚名」、過激な演説で知られる下院議員の阻止すべく、取ったある行動とは?ツイストの効いた作品はロード・ダンセイニの「演説」、アントニー・ギルバートの「わたしの目の黒いうちは」は娘を支配的に扱う母親が結婚の許しをしつこく請う娘に対してした仕打ちが意外なことになる。 最近になって再評価の気運高まっているジェラルド・カーシュの「詐欺師カルメシン」はいかにしてコイン式ガスメーターをただで使用したかを滔々とカルメシンが語る話。昔はコインを投入することで一定のガスが得られ、それを集金にガス会社の人間が来ていたらしい。カルメシンは氷で作ったコインを投入してガスを無料で使用したばかりか、その欠点をガス会社に指摘して1万フランせしめたという話だ。 ネタで云えば長編を一つ書き上げることが出来そうなのがラドヤード・キップリングの「パンベ・セラングの限界」。皆の前で侮辱を受けたマレイ人のパンベがその相手に報復を与えようと執念深くその男を捜し求める話だ。 ジャック・ロンドンの「豹男の話」はライオンの大きく開けた口に頭を入れる曲芸の時になぜライオンがその男の頭を噛みついてしまったのかというお話。 哀しいかな、これは天下の悪書、藤原宰太郎の推理クイズの本で出題されていたトリックで読んでいる最中にどんな話か解ってしまった。ちなみに豹男とは豹のような男といったフリークではなく、豹使いのこと。 フィリップ・マクドナルドの「信用第一」は一介の青年がイギリスの上流階級の娘といかにして結婚するに至ったという立身出世の話だが、父親の信頼を得るための資金を競馬で稼ぐという物。 本書において主人公の青年が他人から金を預かってそれを競馬に賭けて何倍にして返すという賭け屋である娘の父親を利用して資金を獲得する方法が機知に富んでいる。最後に明かされるトリックは恐らく当時流行った方法ではないだろうか? 庭で遊んでいた女の子が2人の肌の黒い大女と一緒に連れられてそれまで自分が出遭ったことのない人々や初めて見る海に興奮するという『不思議の国のアリス』風に展開するが、全てを題名で台無しにしているのがキャサリーン・マンスフィールドの「パール・バトンはいかにして誘拐されたか」だ。 つまりは誘拐されたことを気付かない女の子と彼女を取り巻く人々を一切登場人物の内面を描くことなく書いたところは素晴らしいのに、なぜこの題名をつけたのか、作者の真意を図りかねる。しかし誘拐犯とされている人物たちの少女への接し方は非常に好意的で物語は非常に牧歌的である。 ここで考えられるのは、実はただ見かけた少女に海を見せてあげたかっただけなのが、誘拐と誤解されたのか?それとも牧歌的な風景の背景に誘拐と云う犯罪が隠されていたという後に解る恐ろしさを演出したのか? しかし後者であれば返す返すも題名が全てを台無しにしている。 フェレンツ・モルナールの「最善の策」は匿名の手紙によってある銀行の支店にいる出納係が公金横領を働いていると知らされ、調査に入るが全く問題は見つからなかった、にもかかわらず再度横領の密告文書が届いて…という作品。実にストレートな作品。 オグデン・ナッシュの「殺すか殺されるか」は世に評判の弁護士ブランダー・ギリスが『読心術入門』なる書物を読んで読心術を会得し、そのために誰が自分を殺したがっているかを知ってしまうというお話。そして自分が殺されるよりもいっそ殺してしまった方がいいと考えるが…と唐突なエンディングで呆気にとられてしまった。 恐らくは殺人相手が一歩先に甘んじたということなのだろうか。 奇妙な味の作品もあり、ロバート・ネイサンの「スタジアムに死す」がそれだ。物語は世界一の俳優と称された男が自分の死をスタジアムで公開するということで観客が集まるが、そこでは観客さえも奇妙な状態に陥るというもの。集団が成せる狂気をテーマにした物語か。 誰もが自分をモデルにしたと憤る作品を書いたというのがエルマー・ライスの「良心」だ。 その話とは年老いた父親から搾れるだけ財産の搾り取って家から追い出した2人の娘のお話なのだが、どうやらこれはシェークスピアの『リア王』の骨子らしい。つまりこれは原典を読まないと完全に理解できないのだが、それでも本書で伝えたかったこととはもはや物語は出尽くして新作という物は昔の作家の作品を焼き直した物しか存在しないということなのかもしれない。 いわゆる介護疲れをテーマにしたのがディラン・トーマスの「真実の物語」だ。長年の介護からの解放と老婆の財産を狙っての犯行。しかも毎日訪れる作男を色香で取り込んで…とジェームズ・M・ケインの『郵便配達夫は二度ベルを鳴らす』を髣髴するような話だ。 世間では知られていない業界の常識や作法というものがあるが、アレグザンダー・ウールコットの「Rien Ne Va Plus」はカジノのある風習が物語の鍵となっている。 カジノで大負けした青年が自ら心臓を撃って死んだ。カジノでは文無しの自殺体にある程度のお金を握らせ、厭世感(作中では世界苦と表現されている)から自殺したように見せかけるようだ(今はどうか知らないが)。しかし警察が駆けつけた時には青年の死体は忽然と消えていたという話。 真相は実は当の青年はただトマトジュースをこぼしてシャツを汚しただけであり、思わぬ収入で再度カジノに戻ったところ、今度は大勝してしまう。ちなみに題名の意味は「賭けは締め切りました」。 次は「ミニ・ミステリ」というテーマで7編が収録されている。現代ならミステリは推理小説、サスペンス、冒険小説などいわゆる犯罪や謎を扱った作品を統括する言葉となっているが、本書では本来の意味である超常現象、超自然現象と云った人智を超えた事象を扱った作品が集められている。 まずはゾーナ・ゲイルの「婚礼の池」。町一番の金持で成功した男はなぜ法廷で自分が妻を殺害したことを告白したのか? 事業は上手く行き、将来の不安もない安定した生活が約束された男の心に刺す一瞬の魔。安定しているがゆえに今後数十年間同じ生活を続けなければならないという先の見えた人生に逆に不安を覚える男が描く妻殺害の妄想。人の心の複雑さが本書のテーマか。 ヴィクター・カニングの「壁の中へ」は星新一氏のショートショートを髣髴させる不条理物。 知らなくてもいい事実、真実と云うのがあるが、本書の、ロンドンの住民には幽霊も交じっているという事実が判明した時に訪れる突然の変化。 なかなか面白い1編。 作中に作者が登場する不思議な一編、アンナ・カサリン・グリーンの「青ペンキの謎」は留守中に部屋の塗装を任された職人が部下に命じて依頼人の家へ行かせたところ、番地を間違えて違う家の塗装をしてしまったという話。そして間違った家の家主は近所でも評判の悪い意地の悪い住民で、忠告通りに放っておいたら、どうなったでしょうという話。 オリヴァー・ラ・ファージの「幽霊屋敷」は難破したボートに乗っていた男が流れ着いた先は「幽霊屋敷」の異名で名高いヘイル家の屋敷だった。ボートはすっかり壊れてしまって屋敷に泊めてもらうしかないので家主の夫人と話をすると、一瞬だが彼女の声が聞き取れなくなってくる。そこで彼が気付いたのは…と云うお話。 淡々としながらも一種忘れない話がアーサー・ミラーの「ある老人の死」。 ダイナーで夕食を摂っていた常連の警官がおもむろに話し出したのは若かりし頃に自殺未遂で逮捕した老人がついさっき死んだのだというもの。 警官はその成り行きについて話しだす。自殺未遂で逮捕した人間の罪状を自殺未遂で処理すると釈放か精神病院への送還かどちらかという選択肢があり、釈放して再犯になるとその警官のキャリアの汚点になり、減点の対象になるというのは本当なのかどうか解らないが、自分が若い頃に釈放した老人が10年後に再び会った時は自殺未遂なぞせず、当時よりも格段に貧しく孤独な生活を送りながらもひたすら生きていたことに驚愕する。 それは本当に警官との約束を守るためだったのか定かではないが、一晩のある出来事の話としてはなんとも云いようのない感慨を覚える。 とにかくどこへ向かうのか解らない話が実は見事に着地するのがクリストファー・モーリイの「ダヴ・ダルセットの明察」だ。 実は最初にさりげなく書かれている「退屈のあまりアメリカ合衆国国璽をたっぷり観察することが出来た」という一文が伏線になっているのがミソ。 このカテゴリー最後の1編はサキの「開かれた窓」。 人を待っている最中にその娘から聞かされたその家の開かれた窓に関するある悲劇。しかし夫人が戻ってくると死者が舞い戻ってきて…と一見ホラーかと思わせて、やはりサキ、実に軽妙にひっくり返す。 次は「ミニ・クラシック」というカテゴリーでいわゆる文豪たちの手によるミニ・ミステリが収められている。 その口火を切る一編はなんと作者不詳の「絶妙なる弁護」。 詐欺には詐欺を、と云わんばかりのタイトル通り絶妙な弁護。上手い! ドン・キホーテで有名なミゲル・デ・セルヴァンテスの「サンチョ・パンサの名探偵ぶり」は借金の返済を巡って押し問答を繰り返す2人の老人を見事に裁く物語。 いわゆる「大岡裁き」のような機転の利いた仲裁かと思いきや、最後に借金の在処が解るという趣向。 しかし解らないものかね、この秘密は。音が鳴るだろうに。 ロシアの文豪チェーホフによる「子守歌」は小間使いの女がさんざんこき使われ睡眠不足に襲われる極限状態を語ったもの。 現代の社会問題となっている児童虐待、子殺しの現実とはこんなものなのだろう。 私も子を持つ親の身なので赤ん坊だった頃の夜泣きの辛さは解る。でも殺意にまではやはり至らない。愛情がそれを押し留めるからだ。しかし自分の子ならそうだが、他人の子なら…と一抹の恐怖を感じる。 イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの「手袋」は殺人事件の現場に置いてあった汚れた手袋の所有者を警察が粘り強く探し当てるが…という話。 アレクサンドル・デュマの「ナイフの男」はある部族長が巻き込まれたある詐欺を扱った話。 正直独特の文化と風習を持つ部族の話を理解するのに頭を費やしたので肝心の詐欺の話の妙味には惹かれなかった。 次はモーパッサンが2編続く。まず一つ目の「復讐」は一人息子を殺された老婆が殺人犯に復讐を誓うが、非力な老婆が採った方法とは…と云うお話。 飼い犬を手懐けて殺しの方法を特訓するのだが、その方法が面白い。人間に見立てた藁人形にソーセージのネクタイを掛け、犬を飢えさせた後、飛びつくように訓練するのだ。正直物語の核はこの特訓にあり、息子が殺害された理由や敵討ちのシーンなどは寸描に過ぎない。 モーパッサンのもう1編は「正義の費用」。 モナド公国というモナコをモデルにした地中海沿岸の小国。国民が少ないことからカジノの収益が貴重な国の財源。そんな一都市に過ぎない規模の国で起こった殺人事件。死刑執行が命ぜられるが処刑道具もない国では何をするにもお金がかかる。終身刑を命じても死ぬまで養うのに50年はかかり、脱獄させようと牢屋を開放しても囚人は居心地が良くて逃げようとしない、と実に面白い。 星新一氏のショートショートを髣髴させる1編。 2作とも面白いがやはり後者が私好み。 マーク・トウェインの「私の懐中時計」はお気に入りの時計が停まってしまったので時計屋に修理を出したが今度は時計が進みだした。その後も別の時計屋に修理を出すたびに時計は奇妙な時を刻み出して…と云う話。 『トム・ソーヤの冒険』で有名なマーク・トウェインだが、実は奇妙な作品が多いらしく、本書も懐中時計が修理するたびにおかしくなっていくのが執拗に語られる。肝心の犯罪は物語の最後の7行目で唐突に起こる殺人がそれだが、特に警察の介入無く殺した当人が葬儀費用を出して葬ったとだけなっているのが可笑しい。 しかし現代では時計屋に修理を出すたびに狂い出すというのは信じがたい笑い話のように思えるが、当時はまだそんな技術もなかっただろうから案外本当の話なのかもしれない。 これまた星新一氏の作品を髣髴させるのがヴォルテールの「犬と馬」だ。 見てはいないがどんな物かは推理すれば解ると云えば捕えられ、逆に見たが見ていないと云えばこれまた捕えられ、と困惑する哲学者の物語。 いやはやとかくこの世は住みにくい。 さて5番目のカテゴリーはやはり在ったシャーロック・ホームズ物のミニ・ミステリ。題して「ミニ・シャーロッキアーナ」。 皮切りとなるのが本書で最も長い題名のスティーヴン・リーコックによる「これ以上短縮できない探偵小説、または髪の毛一本が運命の分れ目、または、超ミニ殺人ミステリ」だ。 他殺と断定されているその事件で唯一証拠として残されたのは犯人の物と思しき1本の髪の毛。偉大なる探偵はその所有者を探し求める。 題名は最も長いが作品はたった2ページと最も短い作品。1本の髪の毛が犯人断定の手がかりとして、その持ち主を町中で探し回るという名探偵を揶揄した作品。 真相はただの作品におけるギャグ、もしくはウィットのネタの1つではないか。 このネタで作品を書くとは、いやはや。作中でははっきりとシャーロック・ホームズと書かれていないがこれもパロディなのだろう。 次の「パラドール・チェンバーの怪事件」は実にジョン・ディクスン・カーらしいファルスの効いた戯曲(?)だ。 暑い日に冬の装いをしていたがために熱射病になって倒れた外務大臣はなぜかズボンを履いていなかった。そんな中、当人の娘が大臣のズボンを持参してホームズの事務所を訪れるが、さらにフランス大使が現れ、盗まれたズボンを返してほしいとのたまうという『盲目の理髪師』を想起させるようなドタバタ劇とズボンを盗んだ動機は『帽子収集狂事件』を想起させる。 しかし本編はカーの一連の短編集、ラジオドラマ集にも収録されていない実に貴重な作品。恐らく東京創元社のことだから、他の文庫で収録済みの作品は独自で編んだ特定作家の短編集には反映しないという社のルールに則ったことなのだろう。もう少し柔軟性が欲しい物だ。 医学博士のローガン・クレンデニングによる「アダムとイヴ失踪事件」はこれまた見開き2ページの作品だ。 実に医学博士らしいウィットの効いた1編。短いのに最後の一行が非常に効果的なまさにショートショートのお手本のような作品だ。 ミニ・ホームズ・パスティーシュ最後の1編はマーガレット・ノリスの「探偵の正体」。久々に再会するホームズに胸躍らせていたワトスン。しかし現れた彼の姿は似つかわしい者だった。しかし彼らにはある秘密があった。 前世がホームズ、ワトスン、モリアーティ教授の3人(?)が一堂に会する。しかしホームズは女性に、ワトスンは犬に、そしてモリアーティはずんぐりむっくりのリンゴほっぺの青年となっている。ホームズ物も本当いろんなものがあるものだ。 さて続いては「ミニ探偵」のカテゴリー。その名の通り、有名作家のシリーズ探偵が登場するミニ・ミステリだ。 その皮切りとなるのがマージェリー・アリンガムのシリーズ探偵アルバート・キャンピオンが登場する「見えないドア」。 これは実に上手い。流石というべき切れ味の作品。これは初めから期待できる。 スパイ小説の重鎮エリック・アンブラーからも1編選出されている。彼の短編集でシリーズ探偵を務めるヤン・チサール博士物の「消えた暖房炉」はスコットランド・ヤードを訪れた博士が事故死として処理された資産家の未亡人の死について他殺説を唱えるという物。 正味9ページのショートミステリながら、実はもっと長めの短編が書ける内容であり、本作はその最後の推理の部分を切り取った物でしか過ぎない。こんなネタを惜しげもなく修飾部分を削ぎ落としてショートミステリとして提供するアンブラーの気風の良さには畏れ入る。 ローレンス・G・ブロックマンの「イニシャル入り殺人」は夜中の電話で起こされ、現場についてすぐに真相判明と云うわずか数分での解決の作品だ。 雨が降った時刻が真相解明の鍵となっているのだが、これはある意味非常に荒い作品だとも云える。数ページ埋めるための小説を頼まれて急きょ拵えたような印象だ。やっつけ仕事のように思えるが逆に云えば本書に収められなければ埋もれていた作品になっていたかもしれない。 SF小説の巨匠アーサー・C・クラークもミニ・ミステリを書いている。SF作家らしく舞台は火星。その名も「火星の犯罪」だ。火星で起きた美術品盗難事件。完璧を期した犯罪だったがそれはあることで呆気なく判明してしまう。 ジョージ・ハーモン・コックスの「ペントハウスの殺人」は共作者の仲違いで起きた殺人事件。一人の女性を巡るさもしい犯罪だ。 エドマンド・クリスピンと云えばフェン教授がシリーズ探偵として有名だが、ノンシリーズの「川べりの犯罪」が収録された。 たった6ページの中に“読者への挑戦”を思わせる幕間を挟んだ作品。幕間で云われているように注意して読めば犯人が解る作品になっている。こういうのは大好きだ。 実にフランスらしい作品なのがC・P・ドンネルJr.の「殺人のメニュー」。 なんと恋の逃避行とは。実にフランス人らしい結末だ。 アンドルー・ガーヴの「ダウンシャーの恐怖」は≪ダウンシャーの恐怖≫の異名で界隈を恐怖に陥れた連続殺人鬼の話。ただその殺人鬼の毒牙はダウンシャーを走る違反車の運転手に限られていた。 果たして殺人鬼の行為は罪だったのか正義だったのか、考えさせられるオチだ。 昨今未訳作品の訳出が進んでいるマイケル・ギルバート。その作品は評価が高く年末のランキングにも選出されているが、その彼の作品が「ティーショップの暗殺者」。 本格ミステリとしてはアンフェア。これはショートミステリとしての意外な真相を愉しむべきだろう。 本書の中で最も密度が濃いのがベン・ヘクトの「シカゴの夜」。 実に贅沢な一編。たった5ページの内容にミニ・ミステリ5編分のネタが盛り込まれている。 刑事がこんな話でいいのかなぁと語る事件が全て奇妙で十分ネタとして通用するし、しかも他の作家の作品と一つも似通った話ではないところがすごい。ベン・ヘクトはアメリカを代表する脚本家なのだが、本作だけでアイデアの宝庫のような作家だったことが十二分に解る。 アメリカの短編の名手O・ヘンリーからも1編選出されている。「二十年後」は20年後に同じ時刻同じ場所で出逢うと誓った2人の男の物語。 正直結末は読めたが、さすがはO・ヘンリー。結末には何ともほろ苦い味わいがある。 ここ数年定期的に著作が刊行されているマイケル・イネスのアプルビイ警部物にもミニ・ミステリはあった。それも「アプルビイ警部最初の事件」だ。 付け髭の男と本物の髭の男の共犯による盗難事件というアイデアは小粒ながらも面白い。ただアプルビイシリーズは未読なのでシリーズならではの妙味が解らなかったかな。 ロックリッジ夫妻の「殺人のにおい」は連続殺人鬼物。 TV番組『奇跡体験!アンビリバボー』で紹介されるエピソードのような話だ。スピーディな展開と簡潔な文章はドキュメンタリーを思わせてネタ以上に読ませる作品だ。 アーサー・ポージスの「ビーグルの鼻」はまだDNA鑑定のない時代において血痕から殺人の証拠を探る物語だが、これはその方法よりも警官がナイフに付いた血から容疑者の絞り込みを依頼する人物の正体がサプライズだ。つまりこれはカーの「パリから来た紳士」と同じ趣向なのだが、判明する人物について詳細を知らないことがこの作品のサプライズを存分に愉しめない要因か。 編者エラリイ・クイーン自身も参加。「角砂糖」はしかし『クイーン検察局』に収録され既読なのでここでは感想は割愛しよう。 昨今旧作の新訳、改訳出版が盛んになされ、再評価がされているパトリック・クェンティンは「土曜の夜の殺人」が採られている。パズルシリーズが昨年の本格ミステリ・ベスト10で3作も選出されたクェンティンだが、これは解りやすかった。ミステリの基本と云うべき作品。 巨匠の作品が続く。クレイグ・ライスはマローン物の「馬をのみこんだ男」が収録された。 これは人の妄想を利用した殺人方法かと、いわゆる人の思い込みで殺す、心を利用して殺す心理的殺人かと思ったが、最後のオチでそんな期待感が一気にひっくりかえってしまう。 確かに心で殺す方法だったが、なんとも結末がしょうもない。 マージェリー・シャープの「ロンドン夜話」はたまたま深夜のコーヒーショップに居合わせた人々が近所で起きた菓子屋の老女殺害事件について話しているうちに犯人が判明するという物語。夜に集う人種も職業も違う面々がコーヒーを傍らに事件について語り合う雰囲気が良い。 真犯人は実に唐突に判明する。単なる客同士の会話を繋ぎあわせて犯行当時アリバイのなかった者が犯人と名指しされるだけで実に根拠薄弱なミステリなのだが、ミニ・ミステリならではサプライズを重視したと肝要に捉えればそれも許せるか。作品の雰囲気のほだされ、ちょっと評価が甘くなったかな。 レックス・スタウトの「サンタのパトロール」はネロ・ウルフ物ではなく、ノンシリーズ物。 物語に唐突感があり、構成がぎくしゃくしていて物語の流れが悪く感じた。警察官のアート・ヒップルこそサンタクロースだというオチを付けたかったのだろうが今いちな出来栄えだ。 ジュリアン・シモンズの「神隠し」は衆人環視の中での殺人事件を扱っている。 匿名の犯人と匿名の被害者。衆人環視の中で消え失せた犯人の正体は意外だがこれも推理するには材料が足らないか。とはいえ実に映像的で推理漫画になっていそうな話だ。 そして最後のカテゴリーはその名も「最後のミニ・ミステリ」と冠してたった1本が収録されている。それはアントニー・バウチャーによる「決め手」だ。 東野圭吾ばりの最後に犯人が明らかにされないミステリだが、これは読者には推理できないだろう。クイーンの唱える「最後のミステリ」とは犯人が判明しないミステリと云うことだろうか? 全67編。 1日1編という縛りでじっくり読むことにした本書だが、流石にこれだけ集まれば玉石混交な印象はぬぐえない。しかしその中にも光る物はあり、個人的にはスティーヴ・アレンの「ハリウッド式殺人法」、ロバート・ブロックの「生きている腕輪」、ロード・ダンセイニの「演説」、フィリップ・マクドナルドの「信用第一」、アレグザンダー・ウールコットの「Rien Ne Va Plus」、ヴィクター・カニングの「壁の中へ」、クリストファー・モーリイの「ダヴ・ダルセットの明察」、作者不詳の「絶妙な弁護」、ギイ・ド・モーパッサンの「正義の費用」、ローガン・クレンデニングの「アダムとイヴ失踪事件」、マージェリー・アリンガムの「見えないドア」、エドマンド・クリスピンの「川べりの犯罪」、ベン・ヘクトの「シカゴの夜」、O・ヘンリーの「二十年後」が良作と感じた。 またミステリプロパーの作家たちのみならず、マーク・トウェインやモーパッサンなど純文学作家、大衆作家からの作品も網羅している。さらには医学博士の手による作品すらもある。まさにクイーンの収集範囲の広範さを思い知らされるアンソロジー。 恐らくは前者の属する作家たちは長編にするには作品を持たせるにならないちょっとしたトリックやアイデアをショートショートという形式で著したのだろう。現代のミステリ作家、特に日本の本格ミステリ作家ならばこれらは恐らく長編でもサブの謎のネタとして用いることだろう。かつては未開の謎やトリックは潤沢にあっただろうが、昨今ではまだ見ぬ斬新なトリックなどはもはや皆無に等しいからだ。だから過去の作品のトリックやロジックを手法や見せ方を変えてアレンジを加えて謎解きとして活用している。 しかしそんな小ネタを用いてきちんと物語として成立させているところに妙味がある。例えばフィリップ・マクドナルドの「信用第一」は後で送った手紙をいかに前の日の消印を得るかというあるトリックが用いられている(大きな封筒の切手を貼る部分を切り取り、その中に自分の住所を書いた小さな封筒を入れてそこに切手を貼って消印を得る)が、これをある青年の身分違いの恋の成立の物語に絡めたという妙味がある。 さらにはようやく現代で一般に知られるようになった事象や知識が60年代以前の作品で既にトリックとして用いられている斬新な作品もある。例えばサブリミナル効果がこの時代に早くも認識されていた現象とは思わなかった。 編者クイーンのまえがきにあるように本書はいつでもどこでも気軽に楽しめるミステリ集である。 しかし私はその読みやすさゆえに一気に読んで内容を忘れるよりも前に書いたように1日1編読むことで記憶に遺そうとした。さすがに全編は覚えていないが、それなりに印象に残る作品があった。 たった10ページ前後でミステリが成立するかと半信半疑だったが、なかなかどうして。立派にミステリしていた。 叙述トリック物から謎を複数も盛り込んだものまで多種多彩。ショートショートを最近読んでなかったのでまた機会があればミニ・ミステリを読みたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野作品初の誘拐物。
誘拐物には過去数々の傑作があり、身代金の受け渡し方法や人質の解放方法などが物語の焦点になるが、東野圭吾氏が書く誘拐物はとにかく普通ではない。 まずシチュエーションの妙とそれを実現させるためのキャスティングの冴え。狂言誘拐を成立させるためにヘッドハンティングされた凄腕のプランナーを犯人としたところに東野圭吾氏の着想の素晴らしさがある。 時間を一切無駄にしない生活を信条にし、情よりも理を優先させ、数字で物事を考える左脳的思考が突出した現実的な男、佐久間駿介。腕立て伏せの回数が解らなくなるから会話には応答しない、煙草を吸う時間が無駄以外何物でもない、と独自の持論の下で生きるこのプライドの高い人物を誘拐犯に仕立てたことで本書はほぼ内容が決まったといっていいだろう。 数ある誘拐物を扱ったミステリの中で本書が特徴的なのは先に書いたように金に困った男が起こした犯罪と云う立脚点ではなく、プライドを傷つけられた凄腕サラリーマンが相手を打ち負かすために起こしたという導入部もさることながら、犯罪者側の視点でのみ語ったことだ。 実はこれは案外危険なことではないだろうか?なぜならこれは一種の誘拐犯罪マニュアルになり得るからだ。そう思わせるほど犯人役の佐久間の計画は一種行き当たりばったりながらも緻密でそつがないからだ。 さらにこの小説がすごいのは狂言誘拐が成功裏に終わった後からだ。 残り約80ページを残して誘拐ゲームは終わる。 そこからは恐らく犯人が気付かなかった小さな綻びから今回の事件が発覚するだろうというのが私の描いた絵だった。 しかしそれは全く違った。 このように東野氏は予想不可能な展開で読者の鼻づらをグルングルンと引っ張りまわす。 255ページ以降はまさにそのような感覚だった。 そして判明する意外な結末。 よくもまあこんなことを思いつくなぁと作者の着想の素晴らしさに今回も感嘆してしまった。 余談だが警察の捜査側の視点がなく、犯罪の当事者側からで描くというのは本書の直前に読んだヴァインの『運命の倒置法』もそうだった。 1991年訳出の本書(原著は1987年刊行)と2002年刊行の本書を同時期に読んだのは全くの偶然だが、なぜか私はこのような奇妙なシンクロニシティに出くわすのだ。片や重厚で陰鬱、片やスタイリッシュで現代的と全くテイストは違うが、この奇妙な符合にはまるで本の方から私が引き寄せられたような感覚を抱いてしまった。 しかし最初のわずか4ページで主人公佐久間駿介の人物像を一人称叙述で読者の心に自然と理解させる東野氏の上手さには全く舌を巻く。読みやすさゆえに見過ごしがちだが、この技術の高さは本当にすごい。すっと流れいくほど自然な文章なのでなかなかその技巧の冴えに気付かれないのが本当にこの作者にとっては不幸だと私は思っている。 しかしジェンダー問題に真正面から取り組んだシリアスな『片思い』、『超・殺人事件』がお笑い満載のパロディ短編集、『レイクサイド』が閉鎖空間における陰鬱な殺人隠蔽劇、『時生』は浪速の人情物、そして本書が知的誘拐ゲームというスタイリッシュな作品とこの作品の前5作までさかのぼってもその作風は実に多彩。 しかも全てが標準以上。売れるには売れるだけの理由が、才能があるのだ。 本書も映画化されたが今後もその映像化は増えるに違いない。まだまだある東野作品を読むのが本当に愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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相変わらず重い作品だ。見開き2ページにびっしりと文字が詰まり、しかも事件当時の回想と現代の生活が入り混じった時制が混同する複雑な文章で久々に読むのに時間がかかってしまった。
止まっていた時間が動き出す。 10年半前、若い彼らが過ごしたウィーヴィス・ホールで起きた出来事。それは関係者だけの胸に秘め、隠蔽して墓場まで持っていこうと誓った忌まわしい記憶だったが、現在の家主が亡くなったペットを埋葬しようとしたことから文字通り秘密が掘り出される。 そして事件は再び動き出す。 その事件そのものが何なのか、なかなか作者は詳らかにしようとしない。解っているのは若い女性と赤ん坊の物と思われる白骨体が掘り出されたことだ。 まあこの手の話には常套手段であるから仕方は無いのだが、無論の事ながらそれは決して表に出すべき事柄ではなく、人の生き死にが関わった件であろうことは容易に推察できる。 最初は若き家主となったアダムが友人の兄ルーファスを誘って当の館を訪れ、アダムとルーファス、彼の恋人メアリーの3人で共同生活が始まり、資金繰りに困ってウィーヴィス・ホールを若者向けのコミューンとすることで次第に共同生活者が増えていく。そこには精神病院から抜け出したと自称する年齢不詳、しかし明らかに20歳未満の若い女性ゾシーが加わり、薬剤師志望のインド人学生シヴァとその恋人ヴィヴィアンが加わった共同生活が始まる。 10年半前はまだ学生だった彼らは今ではそれぞれ社会人として職を持ち、地位もあり、そして家庭を持っている。 アダムはコンピュータ販売会社の共同経営者として名を連ね、まだ幼い娘がいる。ルーファスは産婦人科医として信望も厚い。インド人のシヴァは薬局店員として働いている。 安定ある生活を得た今、今さらながら掘り出された人骨は忌まわしい記憶を掘り起こすだけでなく、日々の安心を脅かす災厄の種にしか過ぎないのだ。 そんな災厄の種に怯えながらしかし、彼らは過去を覗き見る。自分たちが10年前にウィーヴィス・ホールに居た事実を知る、当時出逢った、出くわした人物たちに思いを馳せながら、敢えて彼らが覚えているか訪ねたりもするのだ。 それは怖いもの見たさという心境なのだろうか? いやそうではない。若かった彼らが貧しいなりに一つの屋敷で過ごした時間が今や家庭を持ち、夢よりも現実を知らされる日常に辟易している現状をぶち壊してほしいと心の奥底で願っているからではないだろうか? 過去の汚点である人骨の発生から物語はアダムとルーファスの当時の回想を中心にゼロ時間に向かっての経緯をじっくり語っていく。 通常古式ゆかしい屋敷から身元不明の白骨体が現れるというショッキングな導入部から警察の捜査と当時の関係者たちの動向が描かれるのが定石なのだが、本書では全く警察側からの捜査の状況が描かれない。当事者たちの現代の生活と事件発生当時の状況が事細かに書かれ、捜査の進捗に戦々恐々とする登場人物の姿のみが描かれるだけなのだ。 これは本書のテーマが誰もが犯す若いときの過ちにあるからだろうか。誰もが一生悔いの残る行動や思いをした経験があるだろう。それらはしかし大人になり、日々の雑事に忙殺され、結婚、出産といった人生のステージに上がるうちに忘れられていくが、それがある事件で思い出されたのが本書の登場人物たちだ。 アダムたちが金のない中で若者たちが一堂に集い、共同生活を始めたことで巻き起こった2人の死。ほろ苦いというにはあまりに過酷な過ちに対し、護る者の出来た彼らの行動はしかし若いときの行動力には程遠く、そっと静かにしてもらうよう息を潜めて様子を窺うのみだ。 若い頃の彼らと現代の彼らの対比がかつての日々を眩しく思わせ、なんだか寂しくなってしまった。 そして最初の悲劇が起こった時、ぞわっとした。 それまでアダムが愛娘に対して文字通り溺愛し、ちょっとしたことで何か起こったのではないかと心惑わすのは娘に対してこの上ない愛情を注ぐ父親の姿がちょっと極端な方向に針が触れただけで特段おかしなこととは思ってはいなかったが、381ページで明らかになる赤ん坊の死体の真相を知ったことでアダムの取り乱しようの原因が解ったからだ。 この、実に何気ない普通の人の振る舞いと思わされたことにこんなトラウマが潜んでいたことを実にさりげなく知らされるレンデル=ヴァインの物語の上手さ。この陰湿さはこの作家ならではだ(誉めてるんです)。 本書で描かれる過去の悲劇の中心はやはりゾシーだろう。 精神病院を抜け出したと自称する17歳で子持ちとなったシングルマザー。しかし生活能力のない彼女は自分の子を他人へ預けざるを得なかった。 作中一つ心に止まった一節があった。 アダムは赤ん坊の娘を溺愛しており、少しでもおかしいと感じると大騒ぎするのだが、あどけない娘の姿を見てふいに悟るのだ。それまで娘以外の誰かを本当に愛したことがなかったことに。 今まで誰かを好きになることが単に欲望であり、「恋」であったことを悟り、愛とは何かを悟る瞬間。それは私にもあった経験だっただけに不思議と心に響いた。 そして娘に愛を感じるということはやはり自分のDNAを受け継いだ存在だからだろう。配偶者は好きであっても所詮は他人である。その愛情には自分のDNAを共有する存在に抱くそれとは比べものにならない。 さて題名にある倒置法とは国語の時間で習ったとおり、通常「主語+述語」として構成される文章を、語調を強めたり整えたりするのに「述語+主語」と逆さまに表現する手法だ。つまり「あれは何だ?」とするところを「何だ、あれは!」とする文章表現。しかし本作では主人公アダムが言語学に長けた学生だったことから何事にも独特な名称を付けるのが得意だったことに起因し、物語の舞台となる邸宅ウィーヴィス・ホールを若者たちが集う場所として“どこか(Some Place)”の反転語“エカルペモス(Ecalpemos)”と名付けている。本書ではこの反転語を倒置語と誤訳している所から来ている。 本書の構成やもしくは登場人物たちの織り成す人間ドラマが倒置法のような様相を呈していればこれはまた実に含蓄のある邦題になったのだろうが、原題の“Inversion”を単純に「倒置法」として訳していることがそもそも間違いなのだ。正しくは『運命の反転』とするのが正確なのだろう。 それは最後の結末でその意味が明らかになる。なぜなら作者は見つかった若い女性の死体の正体をはっきりと書かないのだから。 これこそ運命の反転。実に上手い題名をつけたものだ、ヴァインは。 さてヴァイン=レンデルの諸作が訳出されなくなって久しい。このような重厚な物語は現在の読者にはなかなか受け入れ難い作風なのだろう。しかし魂が冷える思いをするのはこの作家の作品の最たる特徴であり、この感覚は実に捨てがたい体験だ。いつか再評価の気運が高まり、訳出の再開と絶版作品の復刊と文庫化の推進がなされることを望みたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン誌上で1945年から1956年までの12年間で年1回行われたミステリ短編コンテストで選出された短編を集めたまさに珠玉のアンソロジー。つまりその年の“トップ・オヴ・ザ・トップス”というわけだ。これは期待が高まるのも無理はない。
さて最初の1編はマンリイ・ウェイド・ウェルマンの「戦士の星」でチッチャア・インディアンの探偵というエキゾチックな探偵役が特徴だ。 独特の文化を築くコミュニティの中でその民族特有の価値観ゆえに起こった犯罪というのが私は自分の想像を超えていて好きなのだが、本作にはそんな化学反応はなかったのが残念。 その点H・F・ハードの「名探偵、合衆国大統領」は実に変わった色合いの作品だ。 中国の頭首が原子力を利用してツンドラを溶かし、ロシアを水没させようとしているという実に破天荒な推理と、それを阻止するために合衆国大統領が採った作戦がグリーンランドの凍土を融解させ、氷塊で抑圧されていた大地を隆起させて助かるというさらに破天荒な作戦だった。 このスケールの大きさは一体何なのだろう。 しかし驚くべきは作品が書かれた1947年に環境問題である地球温暖化による海水面の上昇を予見していたことだろう。当時は荒唐無稽と一笑されただろうが、確かに再録されて評価されただけのことはある。 編者のクイーンは、これは果たして探偵小説なのかという問いにこれもまた探偵小説であり、新たな地平を開いた作品としている。これに関しては私も同意だ。何とも云えない迫力に満ちた1編だ。 イタリアからの参戦、アルフレッド・セグレの「裁きに数字なし」は戦時下のイタリアが舞台。 正直云ってこれがミステリなのか解りかねる不思議な流れの物語だ。 死体がごろごろ転がっている戦時下のイタリアで見つかる首なし死体。しかし第一発見者の主人公は貧しい生活からの脱却を夢見て、富くじに精を出している。そんなオウムを相棒にした主人公の報われない貧しい日々が終始語られ、その日常でふと首なし死体を生んだ犯人が浮かび上がる。 しかしこれは全くミステリを読んでいるという気がしなかった。これがイタリアの風土が生み出す物語の味わいという物だろうか? そしてこれが選出された年の他の応募作品の質って一体…? フランスを代表する作家ジョルジュ・シムノンの「幸福なるかな、柔和なる者」は練達の仕上りだ。 誰かの文章でシムノンは街を描く作家だというのを見たが、まさに本書もそう。街角に一緒に住まう人々の暮らしぶりからまずは入り、そこから彼らの習慣、そして迷宮のような界隈について幻想的に語る。 なんとも不思議な味わいだ。 カーもこのコンテストで第一席を獲っていたとは知らなかった。その作品「パリから来た紳士」は創元推理文庫で編まれた短編集で既読だった。 確か学生の頃に読んだのでかれこれ20年近くも前になるが、いまだに最後の絶妙な真相は覚えていた。2回目に読むとクイーンが解説しているように色んな伏線やヒントがそこここに散りばめられているのが解り、これも新たな発見だった。 シャーロット・アームストロングの「敵」はご近所ミステリとでも呼びたくなる、小さな事件を扱った物だが、その内容は実に濃い。 読後では題名が実に意味深いものになってくる。 トマス・フラナガンの「アデスタを吹く冷たい風」はテナント少佐物の第1作らしい。 本書も隠されていた密輸銃の在処というのがトリックでありながら、本書ではテナント大佐と周囲の、特に物事を穏便に済まそうとする上層部との軋轢、さらには本作では明らかにされなかった降格されたテナント大佐の過去の事件が気になって仕方がない。 本作はちなみにかつて早川書房のミステリマガジン45周年の時の復刊希望アンケートと50周年のそれで双方とも1位に選ばれたのは同題の短編集だった。 スティーヴ・フレイジーの「追うものと追われるもの」はその題名の通り、実にシンプルな物語。森へ逃げ込んだ脱獄囚を捜索隊が追いかける一部始終を語った物。 森の中の追跡劇、追う者と追われる者の知恵比べ、もしくは根気比べは次第に脱獄囚と捜索隊の人物に一種の仲間意識を芽生えさせる。この構成は最近出版されたジェフリー・ディーヴァーの『追撃の森』を想起させる。 迷宮課シリーズ、そして「百万に一つの偶然」で有名なロイ・ヴィガーズの短編の中で第一席に選ばれたのが「二重像」だ。 すわドッペルゲンガーか、二重人格者か、はたまた本当に瓜二つの男なのか?実にミステリに満ちた1編。“もう一人の夫”と夫とが互い違いに彼らの近所に、家に、仕事場に、そして親戚の職場までに堂々と入っていく。それが本物なのか偽者なのか解らない。 「百万に一つの偶然」の作者ならではのスリルに満ちた作品だ。 “奇妙な味”の短編群で有名なスタンリイ・エリンは「決断の時」で第一席を獲得した。 リドル・ストーリーで終わる本書はクイーンの解説にもあるように有名な「女か虎か」のような単純なものではなく、読者自身に「貴方ならどうする?」と読者の人生にいつか訪れた、もしくは訪れるであろう人生の決断を想起させ、単なる物語に終始しない凄みがある。 プライドを採るか予定調和を採るか。はたまた道徳に従うか。 最近になって短編集が編まれ、評価が高まったA・H・Z・カーの「黒い小猫」は親を持つ子なら身に摘まされるような作品だ。妻を喪い、男手一つで幼い娘を育てている牧 師が娘が可愛がっている小猫を誤って踏んでしまい、虫の息だったので止めを刺してやったところを娘に見られてしまう顛末を扱った作品。 正直作品自体はこれだけの話なのだが、なぜかこれが実に読ませる。小猫を殺したのは自分の仕事の邪魔になる娘に対しての当て付けではなかったのか?妙な自虐心に苛まれる牧師の心情が生々しい。 私が本書を読んでいる時、子供らが騒々しくしており、まさにこの牧師のように苛立っていたからこそものすごいシンクロニシティに捉われた。 後年、クイーンの代作者としても活躍したエイブラハム・デイヴィッドスンの「物は証言できない」もある種独特の雰囲気を持った作品だ。 最後まで読むと題名の意味がものすごく辛辣に響いてくる。 まさに自らが蒔いた種。自業自得。 最後は名手コーネル・ウールリッチの「一滴の血」。創元推理文庫で6冊の短編集が編まれているが、これはそのどれにも未収録の作品。 淡々とした物語進行ながらも文章にウールリッチ特有の抒情性豊かな作品。物語は二股男が捨てようとした女性が妊娠したことで邪魔になり、殺してしまうが男は冷静に対処し、証拠を隠滅してしまう。しかし完全犯罪と思われた男の犯罪はある一点で瓦解してしまう。 流石ウールリッチというべき1編で短編集未収録なだけにこれは嬉しい贈り物だった。 しかし本書における恋人殺害の凶器が“サムライ”の刀、即ち日本刀というのが興味深い。ウールリッチは短編にも「ヨシワラ殺人事件」という訳の解らない題名をつけた作品が示すように日本文化に何がしかの興味・関心があったようだ。 冒頭のまえがきに書かれているが、本書はEQMM誌上で募った短編の中から選出されたその年のベスト短編によって構成された実に贅沢なアンソロジー。 その公募はアメリカ本土のみならず、世界中に向けて発信されており、ヨーロッパはもとよりオセアニア、アジア圏から毎年多数の応募があったらしい。そして毎年送られてくる800前後の短編の中からのベスト・オヴ・ベストを選ぶ作業の厳しさと大変さも書かれているが、正直このような極限状態ではもはや正当な判断が出来なくなり、ちょっと変わった物が珠玉の輝きを放ち出す。 またエラリイ・クイーンが選出に関わっているとは云え、本書に収録されている作品はロジックやトリックが優れているというわけではなく、むしろ人間ドラマとしてのミステリが非常に多いと感じた。どちらかと云えばキャラクターの設定の妙や選者たちにとって未知の世界への好奇心、またそれぞれの作者が放つ隠れたメッセージの強さといったミステリ以外のプラスアルファが含まれている作品が傾向として選ばれているように思えた。選者がクイーンだけではないこともその理由の一つかもしれないが、私は逆にエラリイ・クイーン自身がこのような作品を好んだのではないかと推察する。 例えば最初の1編ではネイティヴ・アメリカンのコミュニティで起きた殺人を扱っており、殺害された女性はその口伝で伝わる祭儀の歌謡を書き取るという目的があったという、実に特異な目的があるし、2編目の「名探偵、合衆国大統領」では地球のある怪現象と発覚した某国のある建造物との関連から実に壮大な解決が成されるというスケールの大きさがある。また3編目では主人公の貧しい日常が語られる中でふと事件の真相が現れるという実に不思議な流れが特徴であり、4編目のジョルジュ・シムノンに至っては犯人は主人公の直感で判明するというミステリに付き物のロジックによる解明とはかけ離れているが作品そのものの主題は犯人と疑っている人物をいかに警察に証明するかに腐心する主人公の姿であり、またそれゆえに起こる疑心暗鬼の中で主人公の周りを見る目が変わっていく有様を描くことにある。 また既読のカー作品は謎解きも含みながら、最後に作品自体がある作家の作品へのパスティーシュであることが判明する趣向が実に見事。 シャーロット・アームストロングの作品はミステリを愉しむことの作法自体に対し、読者に警鐘を鳴らしているかのようだ。つまり謎解き自体を放棄して物語の流れに身を任せ、そのまま意外な結末へ読み進む方法が果たしてミステリを読んでいることになるのかと訴えているかのように思える。 現代でも東野圭吾氏が同様の疑問を持ち、犯人を敢えて書かないミステリを発表したことは記憶に新しい。 そして後半の3編、エリンの「決断の時」、A・H・Z・カーの「黒い小猫」、そしてエイブラハム・デイヴィッドスンの「物は証言できない」などは読者に対して実に考えさせられる問題を投げかけている。 エリンはリドル・ストーリーと云う形を採って読者自身のエゴか道徳心の強さを測るように「貴方ならどうする?」と問いかけ、カーは牧師が誤って小猫を殺すに至った経緯があまりに一般の人々にとっても日常的な出来事の中でなされたことであることで読者にも起こり得る出来事だとウィンクしているように思える。そしてデイヴィッドスンは悪しき風習であった奴隷制度に対して実に辛辣な結末を用意している。 これらの作品が選ばれたのは1945年から1956年の12年間と5年後の1961年。つまりこの頃のクイーン作品と云えばライツヴィル物の『フォックス家の殺人』から『クイーン警視自身の事件』、そして1961年は1958年の『最後の一撃』の後、2年の沈黙を経て代作者によって発表された『二百万ドルの死者』に至る。まさに作品の傾向はパズラーから人の心へと踏み込んだロジック、探偵存在の意義について問い続けた頃に合致する。それ故選ばれた作品は上に書いたように物語の強さを感じる物ばかりなのかと得心した。 本書における個人的ベストはH・F・ハードの「名探偵、合衆国大統領」、シャーロット・アームストロングの「敵」、ロイ・ヴィガーズの「二重像」、スタンリイ・エリンの「決断の時」、A・H・Z・カーの「黒い小猫」。 特に後半に行けばいくほどその充実ぶり、内容の濃さと行間から立ち上る凄みのような物が感じられる作品が多く、尻上がりで評価は高くなった。 正直クイーンのアンソロジーには期待値だけが高く、肩透かしを食らうことが多かった。増してや本書には「黄金」という仰々しい煽り文句が冠せられるため、一層身構えるような気持ちで臨んだが、予想に反して粒揃いの実に濃い作品が多かったのは嬉しい誤算だった。 また本書に収められた作品の中には現在入手困難な物もあるし、既にミステリ史に埋没してしまった傑作もある(特に「名探偵、合衆国大統領」)。そんな埋もれつつある傑作・佳作を現代に遺す歴史的価値も含めて評価したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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当時角川ホラー大賞に応募し、最終候補まで残るものの、審査員の不評を買い、落選したところを太田出版にて出版され、大いに話題になり、映画化もされた曰くつきの作品、とここまでの事情を知らない人はあまりいないだろう。
その後映画はパート2も作られ、そのノヴェライズは杉江松恋氏の手によってなされた。つまり本書の作者高見広春氏による作品はこの作品のみなのだ。 そんな曰くつきの作品の内容は総勢42人の殺戮ゲーム。そんな群衆劇の中で中心となるのは七原秋也と中川典子の2人。 秋也はリトルリーグで天才ショートとして名を馳せたが、ロックにのめり込んで野球を辞めた、いわゆるクラスでもモテる子。中川典子は彼に想いを寄せる女の子。 そして彼ら2人を中心に三村信史、川田章吾、桐山和雄、相馬光子、杉村弘樹らが中核として物語を彩る。 三村信史は七原が唯一一目置いている男。プレイボーイだが世の中の仕組みを知り、秋也の目を開いてくれる。 川田章吾はクラスの誰とも接しないが体中に傷のある謎めいた男。しかしプログラムで秋也と典子と関わるうちに彼が以前の学校でプログラムに参加し、生き残った男だと知る。そのゲームで彼は親と恋人を失い、この国のシステムをぶっ壊そうと企んでいる。 桐山和雄は頭もよく、スポーツ万能で喧嘩も強く、しかも町の名士の息子で全てを手に入れた男。しかし彼の心はいつも空っぽで満たされない空気に満ちており、自らこのゲームに乗り、容赦なくクラスメートを殺していく。 相馬光子もまた幼少時のトラウマから心を失った女。妖精かと見紛う美貌の持ち主で人の弱さにつけ込んで相手を油断させ、次々とクラスメートを殺していく。それは彼女にとって奪われるよりも奪う側の人間になるために必要な行為だった。 杉村弘樹は秋也が認める男の中の一人。彼は一人の女子を探すため、ひたすら島内を駆け巡る。それは自分の想いを伝えるために。 とまあ、キャラクターそれぞれは個性があるものの、正直云って非常に稚拙だ。本当に素人が書いた文章で、話、設定ともに実にマンガ的。いや文字で書いた漫画を読まされているような気になる。 特に42名の中学生に個性を持たせるために“天才ショートストップ”や“第三の男”なる綽名を付けたり、感情の欠落した人間を設定したり、苦心しているのが解る。 まあこれは法月綸太郎の『密閉教室』の時もそうだったからどうしてもこういったクラス全員を対象にした物語と云うのは一種戯画的にキャラクター設定をせざるを得ないのだろう。 42人の男女入り混じっての孤島での殺し合い。そのゲームに参加する者の動機、殺意は様々だ。 さっきまで友達だったクラスのみんなを信じ、合流して政府の手下を撃退しようと企む者。 誰もかれも信じられなくなって終始怯えている者。 みんなを信じ、殺し合いを止めようと呼びかける者。 一人になるならいっそのことと愛に殉じる者。 自分がやらなければ殺されると恐怖心から殺戮に走る者。 現状を打破しようとシステム自体を壊そうとする者。 そして殺戮に自分のアイデンティティを見出し、修羅道に堕ちる者。 そして中学生が無人島で殺し合うという実に荒唐無稽な話を成立するために作者は日本ではなく大東亜共和国という戦前の軍国主義国家を髣髴とさせる国を設定している。この共和国では準鎖国政策を取って欧米の物の輸入を制限しており、逆に中国をかつての満州のように固有の領土としている。 そしてこの作品の主題である「中学生が無人島で殺戮のゲームを繰り広げる」のはプログラムと呼ばれる、全国の中学3年生のうち無作為に選ばれる50学級によって行われる共和国の専守防衛陸軍が防衛上の必要から行っている戦闘シミュレーションと云う設定。防衛上の必要という、どんな必要性なのか理解不能の設定によって成り立っている。 つまりこのような抑圧された国家の統治下で無理やり殺戮を強いられる中学生たちが国に対して叛乱を起こすまでの人間讃歌というのが本書のテーマなのだが、中学生が無人島でクラスメートを殺し合うというあまりに煽情的な内容が先走り過ぎている感は否めない。この小説にはそのアクの強さがどうしても先に立ってしまう。 本書のように複数の人が限定された場所で殺し合いをするという小説は他にもある。例えば稲見一良氏の『ソー・ザップ』などがその典型だが、味わいは全く違う。『ソー・ザップ』には最強の名を賭けて戦う男の矜持や美学が盛り込まれていた。 しかし本書では単なるゲームとしての殺し合いとしか捉えられない。それはやはり中学生が殺し合うという設定と国が率先して教育の一環として行っているという胸のムカつくような荒唐無稽さにあるのだろう。 恐らく作者自身もそれには自覚的で「やるならとことんB級で」といった気概も感じられる。それに乗れるか乗れないかで本書の感想や物語への没入度は全く異なるだろう。 奇しくも子供が物語に関わる作品を連続して読むことになった。 父親の若き日にタイムスリップした息子が将来の道へと導く『時生』、わが子を虐待せずにいられない刑事が失踪した息子を死に物狂いで追いかける『楽園の眠り』、そして中学生が殺し合う本書。 どんどん親子の絆が弱くなり、また人一人の命が軽くなっていき、娯楽と呼ぶにはあまりに心が荒んでしまう物語になっているのが偶然にしては怖すぎる。 ちょっとここいらで純粋に愉しめる小説に当たりたいものだ。 しかし話題先行型だが本書のような作品が100万部も売れたとは、刊行された1999年とはまさに世紀末だったのだなぁ。いや世紀末だからこそこのような退廃的な作品が受けたのかもしれない。 まさに時代の仇花として象徴的な作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ブロック最初期のシリーズキャラクター、エヴァン・タナー初登場作。
戦時中に頭に受けた銃弾によって一睡もできない体質に生まれ変わった男エヴァン・タナー。その特性を活かしてあらゆる言語を学び、色んな社会の団体や組織に属し、様々な書物を読んで知識を蓄えている。その知識を活かして学生たちの論文を代わりに作成するアルバイトまで行っている。 彼の強みの一つである各国の政治的団体の知り合いの伝手を使って、逃亡生活を送ることになるが、そのために彼は各国を渡り歩くはめになる。 トルコからアイルランド、スペインからフランス、イタリアからユーゴスラビア諸国、ブルガリアから再びトルコへと転々と移りゆく。全ては金貨のためだ。 その道中でタナーは同行者から逃れるために暴行を犯し、逃亡の身になってからは謎めいた男から機密文書の密輸を頼まれたり、ある時は独立の革命の闘士の一員となって戦ったりと波乱万丈だ。これも眠れない特質を活かして数ヶ国語を会得し、さらには世界中の反乱分子の団体に偽名で登録しているタナーだからこそ成しうることだ。 しかし目的はただ一つ。トルコに戻って大量のソブリン金貨をせしめること。見事それはタナーの機転で成功するが、物語はその後、意外な展開を見せる。 さて個人的なことだが現在忙しい日々を送っており、自分の時間を取れないこの時期に24時間全く眠らないエヴァン・タナーが実に羨ましく思った。私なら寝なくて済むならあれやらこれやらやりたいことばかりだからだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾氏の作品には本格ミステリからサスペンス、ユーモアなど多彩だが、本書はタイムスリップ物、つまり『分身』や『秘密』と同じSF物である。
物語はまず遺伝性の奇病によって若い命を喪おうとしている息子を見つめる夫婦の話から始まる。そしてその息子が死んだからが本編の始まりだ。 まさに若き命を喪おうとする息子が過去にタイムスリップして若き日の父をある運命へと導くお話だ。 しかしなんだかいつもの東野作品のような淀みのない展開ではなく、読んでいてとても居心地の悪い思いがした。恐らくそれは主人公の宮本拓実、つまりトキオの父親の性格にあるのだろう。 物語の冒頭で語られる時生の誕生までの物語はなんとも重い話で、子供を産んでもそれが息子ならば20代になる前に死んでしまう奇病に侵されてしまうという明らかに不幸な道のりがあるのに、あえて茨の道を進む父親の決意と息子に対する思いやりや献身が語られるのだが、タイムスリップしてトキオが対面する若き宮本拓実は短気ですぐに暴力を振るい、しかも何事も長続きせず、しかも原因が自分の性格にあるのに環境や他人のせいにしてわが身を省みないという何とも器の小さい男として語られる。 この現在と過去のイメージギャップがなんともすわりの悪さを感じさせるし、まず主人公として共感できない男であることが大きな原因だろう。 そんな宮本拓実が失踪した元恋人の早瀬千鶴の跡を追うのだが、それが行き当たりばったりで、しかもトキオのアドバイスを聞かずに進めようとする。この流れに淀みを感じて、強引に力業で物語を進めているように感じられるのだ。 そして宮本拓実が改心して冒頭のような性格になるのは早瀬千鶴が彼の許を離れた理由を聞いてからだ。 しかしあれほど短気で自分勝手ですぐに暴力を振るう人間が180°変わったようになるだろうかと疑問が残る。そして肝心の妻麗子との出逢いも実に簡単すぎて拍子抜けした。 とまあ、東野作品にしては息子が過去に遡って自分の父親を導くというありふれたタイムスリップ物の、ハートウォーミングになることが約束されているような設定には安直な作りであると感じたのは否めない。 ただ本書と本書の前に発表された『レイクサイド』にはある共通点があることを付記しておこう。 『レイクサイド』では親は子供のためにはどんなことでもやるのだということを歪に、そして陰鬱なムードで語ったが、本書は子供は親にとってどんな存在なのか、そして子供は親をどこまで信用し、慕うことができるのか、と子供の側から親子の絆を描いている。 そういう意味では本書と『レイクサイド』は全く物語の色調は違うが表裏一体の関係にあると云えよう。 主人公宮本拓実は本当の親麻岡須美子が生活苦から育ての親宮本夫妻にゆだねられた子供であり、育ての親も父親の浮気がもとで家庭崩壊してしまう。それを拓実は実の親を恨むことでアイデンティティとしている。 妻麗子もまた自らが遺伝性の奇病に侵されたことで結婚を諦めた女性だ。父親からは決して結婚するなと厳命されたが、拓実の根気強い熱意から結婚をする。 そして時生はその二人から生まれた短命を運命づけられた子。 しかしそんな三者三様の生い立ちはあれど、共通することは親が子に対する思いは一緒だということだ。 本書では親にとって子供とは未来なのだ、どんなに辛くてもこの子のために生きていかねばならないという生への原動力となる存在なのだと高らかに謳っている。 しかし昨今連日の児童虐待の報道を見ると、親が子育てを放棄する自分本位の価値観には呆れ返ってしまう。恐らく本書が刊行された2002年にも既に同様の痛ましいニュースはあったのだろう。だからこそ改めて東野氏はこのような作品で子供の大切さを訴えたのかもしれない。 物語の舞台が1979年とまだ義理と人情と近所づきあいが活発だった時代に設定されているのがある意味哀しいのだが。 本書にはこの他にも失踪した拓実の当時の元恋人千鶴が巻き込まれたある政府直属の企業の贈賄汚職事件を絡めてサスペンス風味を出している。 しかしそれが果たして本書に必要だったのかどうか、よく解らない。 先般読んだ島田荘司氏の『写楽 閉じた国の幻』に配された主人公が息子を失う回転ドアの事故よりかは物語に絡んではいるが、ストレートに父拓実を更生させるために彼のルーツを探る物語にした方がバランスはよかったのかもしれない。拓実の性格を変えるファクターとして千鶴が彼と別れた理由を挙げているが、これも他の何かに置き換えられるのではないか。 今回はどこか東野氏が“泣ける物語”を狙ったのが露骨すぎてあまり愉しめなかった。次作に期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1973年の本書はキングスマーカムという田舎町でロックフェスティバルが催されるというシーンから始まる。1969年に開催され、今や伝説となっているウッドストックからブームになった。レンデルが本書でも扱っているぐらいだから当時の熱狂ぶりは凄かったのだろう。
今回の事件はそのロックフェスティバルが開催されている会場で最終日に顔を潰された女性の死体が発見されるというもの。フェスティバルの乱痴気騒ぎの中で殺された者かと思いきや、それが始まる前に殺されたことが判明するが、被害者ドーン・ストーナーは服を二種類持っており、また死ぬ直前に誰かと食べるためと思われる食材を買い込んでいた。しかもドーンはフェスティバルの出演者ジーノと知り合いだった。 この一見何でもないような殺人事件だが、犯行当時の状況にどうにも説明のつかないところがあるという違和感が実にレンデルらしい。 この奇妙な事実と被害者とフェスティバルの出演者との奇妙な繋がりから事件の謎が綻び、全容が浮かんでくる。 本書における犯人は実は物語の5/6辺りで突然犯人による自供によって判明する。しかし本書におけるメインの謎は犯人は誰かではなく、なぜ被害者は殺されるに至ったかというプロセスにある。 本書の原題は“Some Lie And Some Die”。ジーノ・ヴェダストの「レット=ミー=ビリーブ」という歌に出てくる歌詞の一節だ。 「だれかは偽り、だれかは死ぬのか」。 これはレンデルから世の大衆に向けての痛切なメッセージなのだ。 当時ヴェトナム戦争、欧米とソ連との一触即発の緊張関係など荒んでいた政情に反発した民衆が音楽で世の中が変えられると信じ、ロックスターをアイコンにして運動を起こしていた。しかしそのアイコンたちはラヴ・アンド・ピースを叫びながら、実はそれを食い物にし、アイコンに群がるファンたちを弄び、金儲けしていたという事実。 君たちの信じる者は所詮虚栄に過ぎないのだという警句を本書で投げかけている。 本書が1973年に発表されたことを考慮して初めて本書が当時書かれた意義が解る(とはいえ、本書を読み終えた後に冒頭の献辞を読むと母から子への痛烈なメッセージにも取れて苦笑してしまうが)。 ただ単純にロックフェスティバルが流行っているから作品を一つ仕上げたのではない。レンデルはそこに一種の疑問と危機感を読み取り、それを小説として形にしたのだ。 改めてレンデルは世の狂乱の渦とは一線を画した視座で世の中を観ている作家であることを認識させられた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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鮮烈なデビュー作となった『不夜城』も『鎮魂歌』を経て3部作と云う形で本書を以て完結を迎える。足掛け8年に亘っての完結だ。
その完結編となる本書ではまずいきなり前2作で劉健一の悪夢の元凶となっていた楊偉民の暗殺から始まる。つまり前2作の流れを断ち切ってから物語は始まるのだ。 作中でも書かれているように、新宿を生きる中国系マフィアの状況も劉健一がしがない故買屋だった頃からは様変わりしている。北京、上海、台湾といった大きな勢力が組織だって抗争を繰り広げていた頃とは違い、東北や福建から流れてきた連中が4,5人集まっては犯罪を犯し、また方々へ散っていく。 そして劉健一も2作目からさらにその得体の知れなさに拍車がかかる。全てを見通すかのように部屋に籠っては情報を集め、彼に関わる人たちの過去を、秘密を暴いていく。物語の前面に出るわけではなく、あくまで影の存在として情報を操作し、人を、いや物語を操る。 そして物語の中で翻弄されるのは武基裕。中国人でありながら偽りの戸籍を手に入れ、残留孤児二世として日本に入国し、日本人として生きる男。しかし生きるのに不器用な彼は中国東北人グループの下で働き、麻薬取締官の手下となり、またやくざの使いとなって地べたに這いつくばりながら生活している。 武には過去に喪った女性がいる。任美琪というかつて歌舞伎町の顔だった唐真という福建人の情婦だった女だ。武との密会がばれ、命を喪った。 これは他の馳作品によく見られる設定だ。概ね馳氏の主人公にはかつて愛した女を喪った過去を持つ。それは汚れてしまった現在の自分が生まれることになった愛と云う純粋なものを信じていた時代から訣別を意味するのだろう。 ある者は人生から転落し、ちんけなチンピラになってしまい、ある者は愛を捨てることで成り上がった者もいる。しかし共通するのは汚れてしまった人間になってしまったということだ。 馳作品の主人公は過去の女性への喪失感がトラウマになっていることが多い。 武は自分のボス韓豪を殺した連中を探すための一手段として情報屋の劉健一に情報収集を依頼するのだが、それがやがて幼馴染でかけがえのない存在だった藍文慈という自身の過去と対峙し、その過去を隠すために逆に劉健一に踊らされる存在となっていく。利用しようとしていた劉が全てを知り、そして全てを操る存在として武には映り、恐れおののくようになる。 そして武が親しみを込めて小文と呼ぶ藍文慈は、貧村で武が暮らしていた時に大切にしていた妹のような存在。武が日本へ発つ時に必ず迎えに来ると誓ったが、そのまま忘れ去られ、自身の力で日本に来た女だ。 このように相変わらず裏切りと血と暴力の物語で救いがないのだが、今までの諸作とは明らかに変わっているところがある。 まず必ずと云っていいほど織り込まれていた過剰なセックス描写が本作では全くないことだ。ヒロインは必ず複数のやくざに凌辱され、薬漬けにされ廃人と化す。物語の初めに美しく、そしてしたたかな女として描写され、物語の中で血肉を得られた頃に、いきなり公衆便所のように男たちの性欲処理の対象まで貶められるのが今までの馳作品における女性の扱い方だった。 しかし本書ではヒロイン役である藍文慈の扱いは全く違うものになっている。 また馳作品に出てくる女性とは諸作品に共通して主人公を正気に、または現状打破のためによすがとなる存在だった。どんなに崖っぷちに立たされ、逃げ出したいと思っても、最後の光として存在するのが愛する者の存在。 しかしそんな最後の宝石を必死で守ろうとしながらも最後は自分の手で壊してしまうのが馳作品の主人公たち。最後のカタストロフィに向かうためのトリガーがこれら大事なものを失うことだ。 だからこそ私は馳作品に不満を覚える。ボロボロになりながらも守ってきた物を最後には簡単に放棄して狂気に身を委ねてしまう主人公の弱さにどうしても共感できない。それまでの話は一体何だったんだとガッカリしてしまうのだ。 しかし今回における女性、藍文慈の扱いは違う。 通常何もかも喪った人が再生もしくは復活するというのが小説の題材であり、また主題となるが、馳氏は何もかも喪った人がさらに堕ちていく様を容赦なく描いていく。それは異国で生活する下層社会の人間の厳しい現実を知るからかもしれない。 しかしそれでも小説と云う作り物の中では希望のある話を読みたいものだ。こう考える私は馳作品を読むべき人間ではないかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ローレンス・ブロックのごく初期の作品で私にとって本書がこれから読んでいく一連の作品の中の記念すべき1冊目だ。
主要登場人物わずかに4人。詐欺師コンビのダグとジョン、カモにされる男ガンダーマンと2人の協力者でガンダーマンの秘書のエヴィ。こんな少人数で繰り広げられる詐欺と云う名のコン・ゲームが実に面白い。さながらクウェンティン・タランティーノの映画を観ているかのようだ。 土地を買いに来たと見せかけ、逆に二束三文の土地を高く売りつける。それは相手が利口であり、抜け目がなく、そしてプライドの高い人間だからこそ成功する、それがジョン・ヘイドンとダグ・ランスの描いた絵だ。 彼らの標的はガンダーマンと云う土地成金ただ一人。その彼の信用を得るために彼らは実際に株式会社を設立し、また実際に土地を買い漁る。そして秘書のエヴィからはガンダーマンが送ろうとした手紙を確認し、偽の返事を書き、わざわざ当該地の消印で届くように、各地に飛んで投函する。 ちょっとした手間を惜しまず、あくまでリアルと細部にこだわる。相手が詐欺に遭ったと気付かないように罠にかける。それがジョンとダグの流儀。 こんなに入念な準備をされれば、ずぶの素人の私などは絶対騙されたことに気付かないだろう。いやあ、詐欺の手口というのは実に恐ろしい。 そんな2人の詐欺師に加わる1人の協力者の女。しかもその女はとび切りの美人。そんな3人だから色恋沙汰が起きないはずがない。今回の仕事を最後と決心していたジョンが次第にエヴィに惹かれていくのだ。彼の将来の夢にいつの間にか彼女がパートナーとなって加わっていく。 少人数のチームの中に一人だけ異性が加わると、理性の中に感情が加わり、不協和音が響きだす。これはこういったコン・ゲームに不確定要素を加える常套手段と云える。 本書も例によって例の如くだが、特徴的なのはエヴィがこのような物語にありがちな狡猾で勝気な女性として描かれず、退屈な町と社長の愛人としてこの先暮らしていく未来に絶望し、その現状を打破したいともがく一人の女性として描かれる。そして詐欺師として、いや男として完璧なジョンを愛するようになる。 全く男が夢に描くような女性である。 しかしそこはやはりコン・ゲーム小説ゆえの展開。 題名にあるようにこの物語の中心は女性、つまりエヴィになるのだが、ガンダーマンが死ぬ250ページまでエヴィの悪女ぶりは上に書いたように全く解らない。むしろエヴィは初めて大がかりな詐欺の手伝いをする危うげな女性として描かれている。 しかし私は一方でエヴィが陰の主役でありながらも、これは一度人生を諦め、ささやかな夢に賭けたジョン・ヘイドンという元詐欺師の再生の物語だと思わざるを得ない。本書は彼の中に眠っていた詐欺師の血が再燃する物語なのだ。 また1965年の作品だからか、架空の会社を設立してまで行う一大詐欺作戦の割には想定する報酬が7万ドルと実に低いのが終始気になった。当時の貨幣価値に換算すると、7,700万円相当の価値があるようだ。う~ん、それでも微妙な数字ではあるが。 生憎現在でもこの作品の続編は書かれていない。もはやブロックの中では既に記憶にない作品なのかもしれない。 しかし数年前に来日したブロックの話によれば、彼の小説の登場人物は彼の中で生きており、ふと何かのきっかけで甦って、また物語が生まれるとのこと。 もしかしたら…の期待を抱いてしまうなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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レンデル特有の悪意が詰まった短編集。
冒頭の表題作はミステリというよりも、ホラーにも似た1編。 因果応報の物語。本編でアメリカ探偵作家クラブ最優秀短編賞を受賞したとのことだが、候補作のレベルが低かったのか? 続く「誰がそんなことを」は親友が妻を殺した経緯を夫が語る話。本編で怖いのは語り部である主人公の真意が解らないこと。そして淡々とした語り口では主人公の嫉妬心が全く解らない。従ってそれが奇妙な怖さを与えている。 「悪い心臓」は、解雇した部下から夕食の誘いを受けた社長の一夜の物語。 解雇した社員からいくら執拗に招待を受けるとはいえ、果たして受けるものだろうかという日本人ならば抱く疑問はさておき、本書はその居心地の悪さが終始語られる。 妙にぎこちなく進んで盛り上がりに欠ける会話。話題が全て部下の解雇に繋がる等、おおよそその場には居合わせたくないシチュエーションだ。レンデルらしい実に意地の悪いお話だ。 今でいう確認恐怖症の女性を描いた「用心の過ぎた女」。 レンデルお得意の、何かの恐怖感、執着心に囚われている人間が他者が自身の生活圏に関わることで次第に冷静さを失っていく過程を描いた物語。 鍵をきちんと確認するのは私もよくあることだが、レンデルの描く人物は度が過ぎていてすさまじい。そんな精神障害を持つ人間が他者に対して平常心を保とうと無理をすることがすなわち破局への始まりなのだ。 奇妙な味わいを残すのが「生きうつし」だ。 二兎追う者は一兎も得ず。ゾィーに対してピーターはリザとは上手く行っていないと語り、リザに対してはゾィーと逢っていることはおくびにも出さない。そんな二重生活を続けていた中で訪れた皮肉な偶然。ホランド・パークで偶然再会したリザとゾィーは何をしゃべったのか。色んな想像が膨らむ結末である。 2人の老人を主人公に据えたのが「はえとり草」。 とにかくマールの性格の悪さが引き立つ話だ。私も社会に出て色んな人と出逢って気付かされたことがあるのだが、大体独身で30を過ぎた人はどこか子供めいた我儘なところがあるということだ(私の意見です、念のため)。柔軟性に欠け、自分の意見を通さずにはいられないという我の強さが目立つ傾向にある(あくまで私の意見です。念のため)。 マールはそんな人間の典型だ。読んでいる最中、どうしてダフネはこんな女性と友人関係を続けるのだろうかと首を傾げたが。最後の犯人はきちんと読んでいないと解らないようになっている。私はかろうじて解った。レンデルの人間観察眼が際立った1編か。 「しがみつく女」ははたまた精神障害者のお話。 愛と狂気の境界とは一体どこにあるのか。そんなことを考えさせられる1編だ。リディアという相手を愛しすぎるがために一時も離れたくないという女性が登場するのだが、通常ならばそこから結婚生活を送る夫が妻への恐怖を募らせる、と云うのがパターンだろうが、本作では主人公の彼もリディアを愛しており、彼女の希望を叶えようと仕事よりもリディアを取る生活を送る男だ。つまり半ば愛情の度合いが強すぎた男女だからこそ解る2人の間に存在するタブー。それを犯した彼が辿る行く末は実に奇妙な味わいを残す。 「酢の母」はその名の通り、ワインから酢を作り出す「酢の母」なる培養物とマーガレットとモップという2人の女の子の物語が繰り広げられる。2人の女の子が短期に滞在する別荘でモップが体験する夜中に屋敷を忍び込む影。そんな転換点が随所にあるものの、今いち吸引力に欠ける物語であった。 「コインの落ちる音」は不仲状態の夫婦の物語。 セックス嫌いの冷感症の妻に理解を示した夫が自身の性的欲求不満を解消するためにセックスフレンドがいることを告白したことで狂ってしまった夫婦と云う名の歯車。夫は理解を示さない妻に業を煮やして一刻も早い離婚を望み、恥をかかされた妻はどちらかが死ぬまで決して離婚しないという復讐を誓った。 そんな二人が夫の会社の会長の結婚式に出席するために滞在したホテルにあるコインを入れれば一定時間使用できる古いガスストーブ。 状況と小道具が見事に物語の結末に有意的に働いた1編だ。 SFかと思わせたのが「人間に近いもの」だ。 ネタバレに感想を書くが何とも味わいのある作品だ。 最後の「分裂は勝ち」は我々の生活に身近な問題を扱っている。 親の介護という誰もが直面する問題を題材に実に人間臭い卑しい考えが横溢した作品となった。自分に忙しいマージョリーは母親の世話を妹のポーリーンにこれまでように任せて今の生活を維持しようとする。そんな中に現れたポーリーンの恋人の医師。冒頭は不器量で変わり者のポーリーンが本書における異分子かと思いきや、マージョリーもまた我儘の強い人物だったことが解る。なんとも救いのない話だ。 数あるレンデルの短編集の中で日本で初めて紹介されたのが本書。 長編でも短編でも書ける作家レンデル。彼女の持ち味は人間がわずかに抱く悪意や不満といった負の感情が次第に肥大していき、あるきっかけがもとになって悲劇を招くことが非常に自然な形で読者の頭に染み込んでいくような丹念な物事の積み重ねにある。 本書でもそれは健在だが、短編と云う決められたページ数のためか扱われる内容は実に我々の生活の身の回りの出来事であることが多い。 やたらとモテる友人への嫉妬心、解雇した部下への苦手意識、潔癖症、独身生活を続けたゆえに生まれた独善的な思考、誰かに愛されていないと生きていられない女、夫婦の不仲、厭世的な人間嫌い、苦労を厭い、できれば身内に面倒を押付けたいという願望。 それらは誰もが周囲に該当する人間であり、もしくは自分の理解を超えた存在ではなく、どこかに必ずいる、ちょっと変わった人たちだ。みな何かに不満を持ちながら、それでも生きているのが現状であり、何もかもに満たされ、毎日が安定して幸せな生活を送っている人たちなどほとんどいないだろう。 従ってレンデルの作品に登場する人物は不思議なお隣さんの生活を覗き見するような趣があり、時にそれはリアルすぎて生活臭さえ感じられるほどだ。 この世に流布する物語の大半がいわゆる日常生活が非日常に転換する何かのきっかけ、すなわちトリガーを切り出した話である。 レンデルはこのトリガーが非常に自然であり、また我々の生活に身近にあるような題材、内容なので読了後なんとなくわが身の将来に起こる不安感を掻き立てられたりするのだ。 本書の原書が刊行されたのは1976年だが、収録されている作品に出てくる人物たちは21世紀の今でも不変的な存在だ。いやむしろ精神障害の種類が細分化された現在だからこそ、40年近くも前にこのような作品が書かれたことに驚く。 それまでは特徴的な性格として捉えられていた内容が現代では名前が付けられ、分類されている。特に最終話に登場する“想像上の友達”に関してはこの時代に既にそんな認識があったこと、そしてそれを小説の題材に扱っていたことに驚かされる。 本書に収録されている物語の結末は全てが数学を解くかのように割り切れるような内容ではなく、何かの余りを残してその後を想像させるものが多い。それがこの作家の、人間というものに対しての思いなのだろう。 だからこそここに出てくる人物たちが作者の掌上で操られているのではなく、自らの意志で行動しているように感じてしまう。作者はそんな彼らに事件と云うきっかけを与えているだけ。そんな風に感じてしまうほど彼らの行動や出来事の成り行きが自然なのだ。 読めば読むほどレンデルの人間観察眼の奥深さを知らされることになる。だからこそ訳出が途絶えたことが残念でならない。どの出版社でもいいのでレンデル=ヴァインの作品を再び刊行してくれることを切に願っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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年々加熱する子供のお受験を上手く殺人事件に絡めた作品。
人を殺そうが子供の受験の方が大事、そのためならば死体の処分なぞ何のその、と子供の将来を思う気持ちが強いばかりに生まれる歪んだエゴが渦巻く物語となった。 そのエゴを引き立てるのは、それぞれの夫妻が何がしかの陰湿な感情を持っている点だ。 他人の妻に色目を使う夫やみんなで私立中学への合格を目指そうといいながら、塾講師の言葉に過敏に反応し、人の息子より自分の息子の合格を願う本音、中学受験を疑問視する親を危険視し、詭弁を弄して説得を重ねる者など東野特有の人間の嫌らしさが物語には横溢する。 同じ年の子供を持つ親といっても年齢は30代から40代後半までと幅広く、その中には妻への愛情は薄れ、人妻に明らさまな興味の目を向ける者がいるなど、どこか淫靡な香りが漂う。 その淫靡さは実は物語の謎の中心だったことが最後には判明する。本書は今までの東野作品の中でも最もドロドロとした人間関係や社会の裏側を描いているように感じた。 そんな中で起きたのが主人公並木俊介の愛人、高階英里子の死。 当初は妻美菜子の、衝動的殺人とされており、居合わせた夫婦皆が死体隠匿に協力的と云う一種異様な雰囲気で展開する。 しかしこんな激化する子供たちの受験戦争とそれによって生み出される競争意識と副産物的に生まれた子供たちの世界でのヒエラルキー的思想を懸念し、ゆとり教育が導入されたがそれはまた子供たちの学力低下と甘えを助長する結果となった。 教育とは本当に難しい。いやそれらシステムを利用して過剰な方向にベクトルを向ける教育を生業とする者たちがこのような歪んだシステムを生み出すのか。 親は子供に一体何をしてやれるのか。いやどこまですべきなのか? 真犯人を知った後では全く物語に対する感じ方が変わってしまった。またもや東野マジックにやられてしまったようだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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島田荘司氏が今まで数多の研究家や作家がテーマに取り上げた写楽の正体の謎に挑んだ意欲作。構想20年の悲願が結実したのが本書。
本書は島田氏の検証に基づく写楽の正体が述べられており、必ずしもそれが正解だとは云い切れないが、本書の感想は通常のミステリのように推理と物証を重ねて辿り着いた真相という形で断定的に語らせていただく。 物語は現代編と江戸編が交互に語られる。 しかしとにかく本編に行くまでが長い!冒頭の現代編で語られるのは東大卒で某会社の社長令嬢と結婚しながらも美術大学の教授から美術館の学芸員、そして塾の講師へと転落の人生を送っている在野の浮世絵研究家の話が延々と語られる。 その話には一時期社会問題となった回転ドア挟まれ事件のエピソードを絡めた浮世絵研究家の、不幸と云う負の螺旋に絡め取られた人生の構図が描かれている。 六本木ヒルズをモデルにした六本木ガーデンという複合施設の茂木タワーの回転ドアで最愛の一人息子を挟まれ事故で亡くし、それによる家庭の崩壊、延々と語られる日本の回転ドアの危険性などおよそ写楽の謎から程遠い話題に終始する(まあ、これは後の写楽考へのキーワード的役割を果たすのだが)。 更には回転ドアの危険性を研究する団体に所属するモデルのような東大の工学美人教授の登場と、果たしてこの物語の方向はいずこにあるのだろうかと考え込むことしばしばだった。 そんな回り道をしながらモデル美人風の東大工学教授と人生のどん底まで落ち込んだ在野の浮世絵研究家が問答を繰り返し、写楽の謎に迫る。 物語性を重視したのか、写楽の謎の本質に迫るまでの枝葉が長く、ぽつりぽつりと新たな見解が展開される。それは専門家が自らの知識を語っていく中で門外漢が自然に抱く疑問が新たな謎解明への扉を開くという構成になっている。 そして江戸編では現代編の論考を裏付けるような蔦屋重三郎と写楽との邂逅の話が語られる。 これが実に写実的で素晴らしい。江戸っ子のちゃきちゃきの江戸弁で繰り広げられる物語は実に映像的で、また生活臭さえ感じられ、眼前に当時の江戸が浮かび上がるようだ。まさに活写されている。 ここは物語作家島田氏のまさに独壇場。実に面白く、色鮮やかだ。 さて東洲斎写楽の正体というのはイギリスの切り裂きジャックと並んで歴史のミステリとして名高い。それはたった10ヶ月で140点もの作品を残し、一世を風靡して姿を消したこの人気絵師について詳細に語られた記録が遺されていないためだからだ。 私は写楽に纏わる作品は本書以外には泡坂妻夫氏の『写楽百面相』しか読んだことがないので、ほとんど門外漢なのだが、数多ある写楽の正体を探った作品や探究書の中でも本書が特徴的だと思われるのは、なぜこれほどまでに記録が遺されなかったのかに着眼している点だと思う。記録そのものに書かれた文章の行間を読み解くのが専らであるこのような研究に対してまずその背景からアプローチしていったのが斬新だったのではないか。 以前私は本格ミステリの巨匠と称されながらも、新本格ミステリ作者たちが求道的に本格ミステリの可能性を深く掘り下げていくのに対し、島田氏は外に目を向け、本格ミステリの可能性を広げていっていると感想に書いたことがあるが、まさに本書はそれだ。 さてミステリ作家が歴史上の謎に挑む。これには高木彬光氏や松本清張氏といった偉大な先達が試み、しかも日本ミステリ史に残る偉業として今も讃えられている。 つまり島田氏自身もミステリ作家ならば一度は自身の推理力を歴史上の謎に発揮し、一つ世に問う衝撃作として著すべきだと考えていたのだろう。 そこで島田氏が選んだ題材が東洲斎写楽の正体という云わば使い古された謎だ。しかしそんなテーマでありながら島田氏は新たな解釈を打ち出し、この平成の世に響く作品を物にした。 そして島田氏は忠実に偉大なるミステリ作家の先達の道程を辿っている。それは自分が彼らに比肩しようと切磋琢磨していることもあろうが、それよりも後続の作家たちに日本本格ミステリの伝統を継承するための創作活動のように思えてならない。 本書が写楽の正体への決定打となるとは断言できないだろう。 しかし少なくとも島田氏は偉大なる先達と肩を並べたと断言できる。 本書は2011年度版の『このミス』で2位という高評価で迎えられた。 その期待値が高かったのか、私は写楽の正体の謎へ迫る面白さがそれを小説とするための在野の研究家佐藤貞三が写楽の正体を探るまでのサイドストーリーがまだるっこしくて半減してしまった感がある。転落するばかりの人生の男の愚痴が長々と続く件は、本書は本当に『このミス』2位の作品か?と思ったりもした。 写楽の正体が斬新だっただけに勿体ない思いが強い。しかし本書はそれも含めて島田氏の特徴が色濃く表れた作品だろう。 齢60を超えてますます意気盛んな島田氏。今後の活躍が楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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女子プロゴルファー、リー・オフステッドシリーズ第5作にして最終巻。
グレアムとリーの関係が前作で急接近し、さらに前作の国対抗のゴルフ大会で大活躍したリーも有名になったことでまさに大団円に向けての最後の1作となった。 前作のエンディングで述べられていたグレアムとの結婚式を兼ねたハワイでのゴルフイベントの参加が本書の物語。 つまりリーはスチュワート・カップで起きた殺人事件に続いてすぐのイベントで殺人事件に巻き込まれたことになる。一介のプロゴルファーが訪れる先々でこんなに頻繁に殺人事件に出くわすなんて、いやあ、これは何でも無理があるでしょ。 とはいえこんなのはシリーズ物には付き物の設定。そこら辺は気にせず読むのが吉。 さて前述したように今回はいつものようにツアーではなくゴルフイベントが舞台となっている。歴史あるハワイのロイヤル・マウナケア・ゴルフ&カントリー・クラブの記念すべき百年祭のイベントの手伝いを任される。そこで行われるイベントがまた実に興味深い。 屋内パット大会はなんとクラブハウス内の廊下やバーなどをパットゴルフの会場に見立てて行われるというもの。それもただ単純にボールを所定の位置からカップへ運べばいいわけではなく、例えば燭台を当てなければならないとか足乗せの下をくぐって箱時計に当てなければならなければ点数が低いとか面白いルールが施されている。特にリーの親友のペグが最初は奇矯なパットゴルフの内容に面喰いながらも大会当日には完璧にルールを理解して参加者に説明している件は実に面白い。 さらにホースレースは33人の女性が全員一度にショットしてカップまで誰が一番に入れることが出来るかを競い、“プロをやっつけよう”大会は参加者全員とプロゴルファーが対戦して4つの基準でプロより少ない打数を競うもの。“ぴかぴかボール”は光るゴルフボールをみんなで追いかけるゲーム。 ロイヤル・マウナケア・ゴルフ&カントリー・クラブは恐らく例によってエルキンズの創作だろうが、上に述べたおかしなイベントはどこかに実在するに違いない。 さてそんないつものエルキンズのユーモア溢れる舞台設定の中に織り込まれた謎はクラブの会長ハミッシュの殺人事件の真相とその犯人捜しに加え、クラブに伝わる誓いの詞の意味、そして“母なる火山の女神ペレの平和会”(<フイ・マル・マクアヒネ・ペレ>)なる団体が探しているカンバーランド・メモリアル・カップの在処だ。しかも誓いの詞がメモリアル・カップの在処を示す暗号になっているという宝探しの趣向が織り込まれている。 この暗号解読の過程はなかなかに面白い。単なる伝統あるクラブの古式ゆかしい呪文のような詩かと思いきや、きちんと意味が通じる暗号になっているのには驚いた。 ところで今回のタイトルは『悲劇のクラブ』なのに読中、なかなかゴルフクラブについて言及されないなぁと思っていたら実は道具のゴルフクラブではなく、カントリークラブの“クラブ”だったのかと3/4を過ぎたあたりで気付いた。これもある意味叙述トリックかも。 そして残念なのは愛すべきサブキャラクターのリーの相棒キャディのルー・サピオが締めくくりの本作に出てこないことだ。 エルキンズの有名シリーズのスケルトン探偵でも名サブキャラクターのFBI捜査官のジョン・ロウの登場が少なくなったりと、魅力あるキャラクター作りに長けているのに、エルキンズはそれを上手く活用できていない感じがする。 しかしたった280ページの作品の分量にミステリ興趣をくすぐるネタをふんだんに盛り込んでいる。 その読みやすさと親しみやすいキャラクターゆえにコージーミステリと軽んじられているエルキンズだが、そのミステリマインドと本格スピリットは筋金入りだ。 どうやら未訳の短編も数あるようだし、いつかまた新作を読めることを期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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狂乱の時代バブル絶頂期を舞台に億単位の金が躍る世界を描いた作品。金を動かし、金の魔力に憑りつかれ、金に溺れる人々の虚構のダンスが繰り広げられる。
莫大な金を手に入れるには人を騙し、嘘を平気でつけられるようにならなければならない。善意のお手伝いと見せかけ、二束三文で土地を買占め(とはいえ、バブル期の二束三文は億単位なのだが)、その10倍、100倍の利益を上げる。 作中お金を儲ければ儲けるほど感覚が麻痺してくるものだと齋藤美千隆が述べる。かつて感動した美味しい食事が味気なくなり、高級な服やバッグや宝石も驚きをもたらさなくなる。途方もない金額のやり取りが数字としてしか見えなくなってくる。それに従い、嘘をつくことにも全然罪悪感を感じなくなってくる。 つまり金を儲ければ儲けるほど人は外道に堕ちていくのだ。 そんな金の亡者たちの物語の中心にいるのは4人。 1人目は齋藤美千隆。30半ばにして新進の不動産会社で気焔を吐く不動産業界の寵児。 人に対して決して本心を見せず、利用する者は利用し、役に立たない者は容赦なく切り捨てる。謎めいた魅力はカリスマ性を伴い、周囲を引き付ける。人間を見る目に長け、穏やかな表情と口調で人心操作を容易にするが、地上げの神様と呼ばれる波潟を失墜させようと虎視眈々と隙を窺っている。 2人目は波潟昌男。東北弁が残る田舎者の風貌ながら地上げの神様と云われ、政財界のみならず日本を陰で牛耳る極道にも太いパイプを持つ。 最近業績を急速に上げている齋藤美千隆を警戒視しながらも表面上は友好的で、彼の腹心堤彰洋を自社に限定社員として取り込む度量も見せる。風体の上がらない親父然としながらも周囲の人間に対して冷徹に評価し、自分の足手まといになる者、将来強大な敵となり得る者、そして自分に歯向かう者に対して凄まじいまでの報復を行う。 3人目は堤彰洋。しがないディスコの黒服をしていたところ、幼馴染でかつて恋人だった麻美と再会し、彼女に齋藤美千隆を紹介してもらったところでバブル全盛期の金の亡者どもが跳梁跋扈する不動産業へ乗り込む。 若さとよく回る頭を駆使し、心酔する齋藤美千隆と共にいつか創る「王国」を夢見て。21歳の若さゆえの純粋さと情熱、そして祖父から繰り言のように叩き込まれた誠実であれ、正直であれという家訓に縛られながら、齋藤美千隆のスパイとして波潟の会社に潜り込み、さらにその娘早紀に惚れてしまうことで運命の糸に自縄自縛に絡め取られていく。 4人目は三浦麻美。貧しい母子家庭に育ったことでお金に対する執着が強く、お友達の父親である波潟の愛人となるに至る。 その美貌と身体を武器にどんな男でも陥落させるが、美千隆だけは思い通りに操ることが出来ず、実は彼に惚れていることに気付きながらも“バブルと寝る女”を演じる。常に自分が一番でなければならないという性分の持ち主で、自身を貶めようとする人物には一生消えない傷を肉体的・精神的に付ける。その反面、自分が波潟にいつ捨てられるのか不安に思っている。 この一癖も二癖もある人物たちの関係が複雑に絡み合い、欺瞞と憎悪と裏切りの黒いゲームが繰り広げられる。 それは人心操作のヒエラルキーとでも云おうか。 麻美は波潟を操り、美千隆に操られる。美千隆は麻美と彰洋を操り、波潟に真意を悟らせない。波潟は美千隆に大いに疑念を抱きながら彰洋を受け入れ、利用する。その3人に翻弄される彰洋。わずかに残っていた純粋さはすり減り、自己嫌悪の沼にずぶずぶと嵌っていく。自我崩壊が進んでいく。 さらに後半関わってくる関西の地上げ屋金田義明にも弱みを握られ、波潟と美千隆の動向を常に報告するよう脅される。 今までの馳作品の主人公と同じように堤彰洋は全てが悪い方向に働き、どんづまりに陥ってしまう。 ただ彰洋が他作品の主人公と違うのは彼が若輩者で齋藤美千隆に魅せられて一緒に成り上がっていきたいという若者であり、詐欺紛いの手法で老人たちから土地を巻き上げてはいるものの、犯罪者とまでは行かない人物だということだ。 おまけに混血児でもない。一つだけ特徴的なのは敬虔なクリスチャンであった祖父から常に嘘をついてはいけない、人を騙してはいけない、人から物を盗んではいけないと云いきかされていたということだ。幼き頃に叩き込まれた教訓は相反することをしている現在の彰洋の心に歪みを少しずつ、だが着実に生じさせていく。それが彼にとっての呪縛なのだ。 馳作品の主人公たちは心の奥底に持っている生い立ちに由来する心の暗黒を持っているのが特徴だが、彰洋のそれは彼らに比べてもさほど重い物ではない。 逆に彰洋が自身を食い物にしている奴らを出し抜くために地面に這いつくばって犬のように振舞うところに彰洋がいつか成功することを夢見ていた普通の若者だったことが強調される。 成り上がっていく者たちは元々の出自が貧しいだけに真の富豪たちのような余裕や度胸がない。つまり自分が稼いだ金の上に胡坐をかき、それを崇める者たちに傲慢に振舞うばかりなのだという事実に気付いた彰洋の強さ。それがこの物語の大きなターニングポイントだ。 上下巻合わせて1,050ページ強の大作。 彼ら4人が破滅に至るまでのプロセスがじっくりと事細かに語られる。それぞれを縛るための因果をところどころに織り込ませ、それらが物語の最後に一気にカタストロフィとして連鎖反応的に爆発していく。 しかし果たしてこれだけのページを費やす必要があったのかとも思う。巨万の富を得ながら、金のために金を遣い、金を稼ぐ者たちの終わりなき修羅の道行。 全てが破滅へと収束していくように紡いだ物語はしかし、いつもながらの呪詛の連続で途中だれてしまったのは否めない。恐らくこの半分の分量で同様の物語を紡ぐことはできたのではないか。 そしてバブル全盛期の不動産業界を舞台にしたとはいえ、とどのつまり物語を彩るのは金、暴力、セックスだ。 こうまでテーマが同じだと、馳氏はこの3つのテーマが必要不可欠なモチーフを探して物語を書いているようにも思える。 そしてバブル全盛期の不動産業界を舞台にしたことで結末が解っているだけに波潟、美千隆、金田、市丸ら地上げ屋、株屋のひりつくような金のやり取りが途中空虚になっていく。誰が成功しても全てが砂上の楼閣のように灰燼と化していくことが解っているからだ。 文字通り命と魂の削り合いのような駆引きを一歩引いて眺めている私がいた。 しかし前述のようにもう金と暴力とセックスまみれの話は読み飽きた。もっと違う一面の馳作品を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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一言では云い表せない作品だ。
今まで元グリーンベレーやCIA工作員、はたまた秘密結社の凄腕テロリストと、殺しの技術を極めた男を主人公に据える物語を作ってきたマレルが今回選んだのは一介の戦場カメラマン。 このカメラマン、ミッチェル・コルトレーンが自分が撮ったイスラム教徒大量虐殺者ドラゴン・イルコヴィッチの魔手から逃れるという、まさにマレルの真骨頂とも云うべき作品なのだが、実は本書ではそこに至るまでにコルトレーンが伝説のカメラマン、ランドルフ・パッカードの遺志を継いでロサンゼルス各地の家々を撮影しに回るエピソードに面白さを見出していた。 そしてアクション小説家のマレルのこと、大量虐殺者イルコヴィッチの魔の手から逃れるためにコルトレーンが色んな策を凝らすという構図を想定していたが、意外にもこの宿敵との決着は上巻の300ページ辺りであっさりと着いてしまう。 私は思わずこの時本書が上下巻だったことを再確認し、さてこの後下巻1冊かけての展開はどうなるのだろうと訝ったものだ。 なんとそこから物語は購入したパッカードの家の資料室の隠し部屋で発見した絶世の美女の正体、そしてその家の元オーナーたちの失踪の謎を探る物語になるのだ。 そしてそこからまた物語は絶世の美女に瓜二つの女性ターシャとの邂逅から彼女に付き纏うストーカーとの戦いになる。やはりアクション作家マレルが落ち着くところはアクションだったということか。 しかしそこからまた物語は色を変える。ストーカーとの戦いから謎の失踪を遂げるターシャの捜索の物語へと。それはそれまでターシャの身の回りの人々が彼女のことを知らされなく、また身辺保護をしていた警官たちも知らぬ存ぜぬを貫く。まるでアイリッシュの『幻の女』のようなサスペンスへと転じるのだ。 そして最後になってターシャ・アドラーと云う女性がそれまでたびたび名前と住居を変えては彼女の周囲に死体の山を築く、いわゆる魔性の女であることが明かされる。つまり行く着くところは悪女物サスペンスなのだ。 しかし冒頭のイルコヴィッチとの戦いといい、途中から登場するナターシャに付き纏うストーカーといい、そしてコルトレーンがナターシャとの愛欲に溺れ、彼女の行先を執拗に追い求める行為といい、本書はストーカーとの戦いの物語と云える。 奇しくもこの前に読んだ東野氏の『片思い』もストーカーが物語に関係していた。特に意識して作品を読む時期を選んでいるわけではないのだが、えてして読書と云うのはこのような不思議な繋がりを読み手にもたらす。 今まで息の詰まるような緊張感溢れるアクションを売りにしていたマレル。それは一躍彼を有名にした『ランボー』のようにどこか映画化を意識した作りだったのは否めない。 しかし本作ではそのアクションテイストを前菜にし、遺志を継いだ伝説のカメラマン、ランドルフ・パッカードの痕跡を追い、また彼に縁のあった絶世の美女のその後と人の過去を探る物語へ変わる。つまり極論すれば人を殺すだけの物語から、人そのものを浮き彫りにして描く物語に変わったのだ。 それは名もなき死者を大量に生み出す物語ではなく、個としての人間に向き合う物語へと変わったと云えよう。そこに本書の最大の特徴があるように思う。 しかし最後にマレルはターシャを次々と男たちを手玉に取っては命を奪う稀代の悪女に仕立て上げ、最終的にサスペンス小説に仕上げてしまった。 これが非常に残念でならない。コルトレーンというカメラマンが尊敬する伝説のカメラマンの足跡を追う人生の物語に仕上げればこの作品は印象深いものになっただろう。 というのも作中、次のような忘れられない言葉があったからだ。それはコルトレーンがカメラマンを志すきっかけとなった経緯を語るシーンでの次の言葉だ。 カメラは何も奪わない。それどころか永遠を与えるものだ。 本書はマレルが実の息子を亡くしたことを語ったノンフィクション作品『蛍』の10年後に発表されたものだが、この言葉は彼が亡き息子を思い出すためのよすがとなった写真への思いではないだろうか。肉体を伴った息子は既にないが、その姿形は写真の中では永遠であり、そしてその肖像は心に残る息子を永遠に留まらせてくれる。私はコルトレーンのこの言葉に私はマレルの本心を見た。 狂える大量虐殺者との戦い、伝説のカメラマンの過去の捜索、その最中に巡り合う絶世の美女とのロマンスに、その女性に付き纏うストーカーの正体の謎、さらにその美女と伝説のカメラマンとの奇妙な関係、そして突然失踪する美女の行方、最後に男を狂わす悪女の物語と、実に多彩な展開を見せる本書。 題名はダブルイメージ、つまり二重像と云う意味で、恐らくこれは後半物語の中心となる絶世の美女ターシャ・アドラーの二面性を指しているのだろうが、物語としては二重三重、いやそれ以上の像を浮かび上がらせる。いやあ、こんな物語だったとは全く予想がつかなかった。 特に深く愛し合ったターシャがメキシコの件から戻るといきなり住所と電話番号を変えてコルトレーンの目の前から消えていなくなり、更には新しい男と愛し合う場面を目の当たりにするコルトレーンの信条などはかつて私が遠距離恋愛で失敗した苦い思い出を想起させ、非常にいたたまれない気分に陥った。 男は本気で愛している時、その愛は永遠であると思うのだが、その実女性はあるところで冷めていていつでも袖にすることが出来るのだ。いやはや女性とは本当に恐ろしい。 コルトレーンの痛切な過去―夫の暴力に耐えかねて逃亡生活を送った母親が居所を突き止めた父親に目の前で射殺され、そして父親自身も自殺する―が彼が写真家を目指すきっかけになったエピソードなど読みどころもあったが、短い章の連続が物語を味わう余韻を損なっているのを今回も感じてしまった。テンポよく進む作品の功罪だろう。 発表当時全く話題にならなかった本書だが、意外にも物語としてはヴァラエティに富んでいて一種忘れられない何かを残す。それだけに物語の方向性を読み誤った感が否めない。 実に惜しい作品だ。 |
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今回東野圭吾氏が扱ったテーマはトランスジェンダー。まず大学のアメフト部の女子マネージャーが男に性転換して現れるところから始まる。
つまり彼女、日浦美月は性同一性障害だったわけだが、他にも男性の性器と女性の性器を併せ持つ真性半陰陽や女性なのにY染色体を持つ女性がいることなどが語られる。 これには2つのケースがあって、1つは精巣性女性化症。これは精巣を持っていながらもそれを受け入れる受容体がないため、男性ホルモンは出ても肉体が男性化しない女性のことだ。 もう1つは性腺形成異常症。これは胎児期の早い時期に精巣が死んでしまう病気で、逆に男性ホルモンが分泌されないが染色体は男性であるというもの。特に両性具有体である真性半陰陽が実在するとは驚きだった。 そしてそれらの女性がスポーツ界で男性顔負けの体格を得てオリンピックなどに出場している事実。確かにアメリカや中近東の選手に男かと見紛うような選手がいるが、もしかしたらこの類かもしれない。いやあ、実に勉強になるなぁ。 そしてこれらの人間の謎こそが今回のミステリと云えよう。最初は男として生活していた日浦がストーカーを殺した事件を探る話だったが、哲郎たちの捜査は性同一障害者たちのある壮大な計画へと繋がっていく。 男と女。 二つの性があるからこそ愛が生まれ、またお互いの考え方が違い、文化が生まれる。男には男の、女には女の世界があり、価値観がある。 だからこそ世界は面白いのだが、一方でその狭間で苦しむ人間たちもいる。男の身体に宿る女の心を持つ者。女の身体に男の心を宿す者。遺伝子は女なのに両方の生殖器を持つ者。そんな彼ら彼女らに男と女の定義は空しい限りだ。しかしその定義が彼ら彼女らの世界を縛り付けている。 それ故彼ら彼女らは過去を消し去り、新たな自分を、真になりたかった自分の人生を生きようとする。お姉系キャラとして性同一障害者がTVで堂々と振舞っている現在からみれば、隔世の感を覚えるかもしれないが、本書が発表された2001年は確かにまだ認知度が低く、異端として見られていた。 物語に幾度となく登場する、知らない方がいい、そっとしておいてやれ、という言葉はまさに本来取るべき方法だろう。 しかし本書はミステリ。謎は解かれなければならない。読んでいる最中、行き着く結末は決してカタルシスをもたらすものではなく、寧ろやはり知るべきではなかったという思いが去来する結末に向かうだろうことは予想できた。 毎回東野作品の結末は何とも云えない切なさを感じてしまうが本書もまたそうだった。 そして男だからこうだとか、女だからこうだとか、また男の心を持っているから女を好きになるだとか、その逆もまたそうだとか、単純に二元化できないのも事実。男が男らしさに憧れ、理想に近い同性に惚れるように性同一性障害の人々もまたそうなのだ。 本書で男と思っていたら実は女だった、または女だと思っていたら実は男だったというジェンダーが反転する趣向が繰り返されるにつれ、一体男とは女とは何なのだろうと思わざるを得ない。 さらに東野氏が上手いのはこの男と女の話を、すれ違いを繰り返して夫婦生活が冷え切った主人公西脇夫妻のサイドストーリーと絡めていることだ。 お互いの職業を尊重しながらもいつしか夫婦として機能しなくなり、ただ一緒に暮らしているだけになった2人。その心の行き違いが実は二人が付き合いだした大学生の頃のある事件から起因していたことを明かされる部分はお互いがそれぞれ抱いていた男性観、女性観にいかに縛られていたのかをまざまざと思い知らされる。 これが本書の主題と上手く絡み合って実に上手いなぁと感じるのである。 そしてこの西脇夫妻は当時女性の社会進出が台頭し、結婚適齢期が遅くなり、また共働きで子供を作らなくなった夫婦の典型でもある。それが今に至り、少子化問題に繋がっているわけだが、これも当時の世相を反映していて興味深い。 その他巨乳ブームなども触れられていて実に懐かしくも感じたのだが。 そして本作の題名『片想い』の意味。正直云って物語の序盤は全くこの題名が頭を過ぎらなかった。つまりこの言葉とは無関係の内容で物語が進むからだ。しかしその意味は物語の1/3辺りで唐突に出てくる。 東野圭吾は何とも切ないテーマを持ってきたものだ。 また特徴的なのは本書で頻繁に挿入される哲郎たちアメフト部のエピソード。大学を卒業して13年にもなるのに毎年11月の第三金曜日に集まっては酒宴を開いている。そんな仲間たちのエピソードと、美月の問題に何時でも駆けつける絆の深さが心に響く。 つまり彼らは同じ時間を共有し、ともに汗を流し、苦楽を共有した者たちだけが持つ繋がりを随所に感じさせてくれる。 哲郎はフリーライターで決して捜査のプロではない。そんな彼を助けるのが元アメフト部の仲間たち。そして哲郎の捜査の前に立ちはだかるのもまた同じ仲間の1人であり、さらに事件の中心人物も仲間なのだ。 選手とマネージャーと云う関係で付き合っていた哲郎と理沙子、そして中尾と日浦。一歩引いた立場で哲郎を手伝う須貝。日浦の窮地を救う哲郎たちに立ちふさがるのが早田。 最後まで読むに至り、この物語は帝都大アメフト部たちの物語なのだと解る。 だからこそこの物語は始まりも終わりもOBたちの飲み会なのだ。 心の解放と一抹の寂しさ。得た物の代償として喪った物は大きく、そして喪っただけの者もいる。 男と女の幸せとは一体何なのだろうか? そんな他愛もないことを読後考えてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クイーンはクイーンでも本書の主役はエラリイではなく、父親リチャード・クイーン警視だ。
まず驚きなのがリチャード・クイーン警視が結婚したという幕開けだ。退職した警視のお相手は『クイーン警視自身の事件』で慕うようになったジェシイ・シャーウッド! いやあ、あの結末から7作目で結婚だとはまさに想定外。その間の作品でジェッシイとの付き合いが書かれていなかっただけに驚きだ。 その妻ジェシイにハネムーンから帰ったところに送られていた招待状。それは全く面識のない老富豪からの招待状だったという実に魅力的な導入から始まる。 一方のエラリイは世界中を股にかけた豪遊旅行中の身でトルコにいた。 この奇妙なシチュエーションの謎を解き明かそうとクイーン警視は退職警官の元同僚たちを雇って老富豪ブラス氏の素性調査を行う。ここら辺はさながらホームズのベイカー・ストリート・イレギュラーズを髣髴させる。 さてこのリチャード・クイーン警視とその仲間たちが挑む謎は3つ。 1つはヘンドリック・ブラス氏は何故面識のない6人の人物に遺産を相続しようと決めたのか? 2つ目はブラス氏が云った600万ドルの遺産とはいったい何処にあるのか? 3つ目は一体誰がブラス氏を殺したのか? そして今回鳴りを潜めていたエラリイは最終章で登場し、一気に事件の真相と真犯人を突き止める。 『クイーン警視自身の事件』ではエラリイの登場無しで警視のみで解決していただけに今回も同趣向だと思っていただけにこれには驚いた。つまり作者はシリーズそのものをミスディレクションに用いたとも云える。 そう思うと本当にクイーンは本格ミステリの鬼だな。 さて本書のタイトル『真鍮の家』。原題では“House Of Brass”とそのままだが、実は色んな意味を含んだ題名である。題名通りまさに真鍮尽くしの物語なのだが、“brass”には本書の冒頭に引用されているように色んな意味がある。 さらに物語終盤、集められた人々の意外な一面が明かされる。そんな意味からもなかなか深いタイトルだと云えよう。 ただ識者による情報によれば本書もまた代作者の手による物らしい。『第八の日』、『三角形の第四辺』を手掛けたエイブラハム・デイヴィッドスンが書いたとのことだが、全く違和感を覚えなかった。 プロットはダネイを纏めているとはいえ、リチャード・クイーン警視を主役に物語を進める技量はよほどクイーンの諸作に精通していないと書けないだろう。特に『クイーン警視自身の事件』のエピソードを膨らませてクイーン警視が本作で結婚をするという長きシリーズの中でも大きなイベントがあり、しかも終章でようやくエラリイが登場して事件の真相を解き明かすという憎い演出など晩年期のクイーン作品の中でも非常に特徴ある作品だと思う。 また5Wで表現される各章の章題もまさにクイーンならではではないか。 個人的にこの作品は魅力的な導入部といい、エラリイでなくリチャードを物語の中心に据えているところといい、そして最後にエラリイが登場して一気に解決する演出といい、また事件や扱っているテーマ―特に最後解散せざるを得ない退職警官たちが直面している、働きたくても職がないという社会的側面なども含めて―から見ても、クイーン諸作の中でも上位に来る作品である。 もはやライツヴィルシリーズを読み終えてこれからの作品は全作読破に向けて、消化試合的読書になるかと思っていたが、こんな佳作があるからクイーンは全くもって侮れないと思いを新たにした作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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当時週刊少年ジャンプ誌上でも募集がされていた「ジャンプ小説・ノンフィクション大賞」を若干16歳の若さで受賞したのが乙氏の「夏と花火と私の死体」だった。その作品を含んだ2作の中編集が本書。
さてそのあまりに鮮烈なデビューとなった表題作はどこかの田舎町を舞台に繰り広げられるあるひと夏の出来事だ。 一言、上手い! いわゆるアンファンテリブル物だが、ことさらに恐ろしさを強調するわけでもなく、あくまで静かに淡々と語ることで恐ろしさを助長しているのがすごい。わずか16歳でこの文体で子供による死体遺棄事件の顛末を語る着想に至った乙氏の才能に戦慄する。 とにかく弥生の兄健の造形がすごい。いつも笑顔を絶やさず、周りの大人からはいい子として認知されている人気者。しかしそれでいて人が死んでも眉一つ動かさず、度重なる窮地に動揺する素振りは一つも見せず、寧ろその状況を愉しみ、いかにやり過ごすことが出来るかを考えている。つまり健にとってこれらはゲームに過ぎないのだろう。 当事者でありながらも第三者的に物事を見据え、冷静に判断する頭脳と胆力の持ち主。まさに恐るべし16歳が描いた末恐ろしい10代だ。 そして周到に散りばめられた伏線が最後の何とも云えない虚無的なラストに繋がる。私は子供の企みなぞは目端の利く大人にしてみれば全てお見通しなのだという戒めを説いた皮肉な結末を予想していただけにこの結末は意外だった。 しかし語り手である犠牲者の五月とその母親が何とも浮かばれない。 それらを淡々とした描写で語る乙氏の文体。正直語り手となる私こと犠牲者の五月が知りえないことも地の文で語るなど、文体としてはおかしな部分も散見させられるが、それを若さゆえの過ちと寛大に捉え、ここは素直にその才能を称賛したい。 なお、小野不由美氏の解説、五月の一人称叙述が彼女が亡くなることで神の視点になったという解釈はこの文体の欠点を補った素晴らしい名解説と云えるだろう。 もう1編は「優子」という。 あまりに淡々と語る文体は本編でも健在で、あくまで静かに狂気を描く。 相変わらずその筆致は時間の流れをゆっくりと感じさせる独特の雰囲気に満ちている。 しかし本書では逆にそれが物語の深さを減じているように感じた。 坂東眞砂子氏ならばもっと土着的な濃厚な物語を繰り広げただろう。主題と文体が結びつかなかった、そんな印象を受けた。 2002年の『GOTH』でいきなりミステリシーンに躍り出た乙氏の驚異のデビュー作所収の中編集。 当時週刊少年ジャンプ読者だった私はリアルタイムで乙氏のデビューを目の当たりにした。今は亡き栗原薫氏が審査員を務め、絶賛の上、強烈に推挙したのを鮮明に記憶している。 その話題作を16年を経てようやく読んだ。 いやあ、天才は本当に存在するんだなぁと思わされた。繰り返しになるがとても16歳が書いたとは思えない着想と文体。 するする読めるがもっと味わいたくなる抒情性に溢れている。誰もが心に抱く風景を事細かに、しかしくどくなく適度な量で映し出す。私が読んでいた終始浮かんだのは夕焼けの色だった。 そんなノスタルジイを感じさせながらも語られる話はサスペンスだったり、ホラーだったりと実は穏やかではない。 しかし実は世の中の出来事とはこのように我々がいつも見ている風景の中で、人知れず行われているのだということを再認識させられる。ふと足を踏み外すとそこにはある種の狂気が潜んでいる。マンションの住民の一人がある日姿を見せなくなってしまうように、犯罪はドア一枚隔てた、なんとも薄っぺらい防御の外で起きている。笑顔の中に隠された企みや秘密を知られないように、明日もまた同じような日が始まると思わせておいてその背後では死体が一つ隠蔽されようとしている。 つまり我々の日常の紙一重の場所で犯罪や狂気は存在するのだと知らされるのだ。そんなシチュエーションが乙氏は面白く感じるのだろう。 この後乙氏は作品を着々と発表し、『GOTH』に至るわけだ。そしてその後の『ZOO』でその実力を不動の物とし、次々と旧作が映像化されていく。 久々に語るべき物語を持った作家に出逢った思いがした。 現在40歳の乙氏。次に我々に見せてくれるのはどんな物語なのだろうか。 同郷の者として実に誇らしく思うこの作家のこれからの活躍に注目していこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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女を陸路でバンコクからシンガポールへ連れて行く、この設定を読んだ時にこれは馳版『深夜プラスワン』かと思った。
作者がまだ坂東齢人名義で書評家だった頃、新宿ゴールデン街でバーテンをしていたのが、内藤陳がオーナーの『深夜プラスワン』というバー。やはり彼としてはこのテーマは避けては通れないものだったのではないかとまで想像したが、物語はそんな風に簡単にはいかず、主人公の十河将人とメイはバンコク内を迷走する。 やがてメイの持つ仏像に隠された地図の正体を探るにあたって、本作のメイン・テーマは女をシンガポールに送ることではなく、実は仏像に隠された日本軍が遺した莫大なお宝を探し当てるというものであることが解る。 つまりこれは馳版『マルタの鷹』なのだ。歴史に残る冒険小説2作を相手にするあたり、馳氏のしたり顔が目に浮かぶようだ。 さて冒険小説の名作のモチーフを国産ノワールの雄が料理するとどうなるかというのが専ら私のこの作品を読む上での焦点であった。つまり舞台と登場人物を変えただけで、いつも物語は破滅に向かうという構成がこの味付けでどう変わるのかを注目していた。 しかしやはり馳氏は馳氏。変わらない。 一度落ちぶれた人間がどうにか安楽の地を、生活を求めるために大金を手に入れようと足掻き、這いつくばる物語。人生の落伍者と貧困の犠牲者、2人の男女が日本軍の遺した宝を求める道行きに屍が転がっていく。 こんな2人だから出てくる台詞は怨嗟の連続。セックス、金、暴力、そして時々ドラッグ。馳作品の諸要素が今回も織り込まれている。 タイトルのマンゴー・レインとは現地タイで雨季の訪れを伝える夕立のことを指す。つまりはスコールなのだが、マンゴーと云えばタイよりもフィリピンの趣がある。しかしフィリピンではこのようには呼ばなかった。 馳氏はこのマンゴー・レインを罪を、過ちを、全てを洗い流してくれる激しい雨だと語る。かつての幼馴染たちが大金を目に、裏切り、命を奪い合う、そんな凄惨な状況をマンゴー・レインは洗い流す。 さて冒険小説の設定をモチーフにノワールを語った本作で最も印象に残る人物は十河が幼馴染の富生からシンガポールまでの移送を頼まれる女メイ。中国からさらわれて娼婦として生きてきて、エイズを患ってから男どもを、全てを憎悪し、信用しなくなった女だ。 彼女は人を殺すことも躊躇わないし、平気で嘘をつき、仲間でさえ欺こうとする。騙される方が悪いのだ、と云わんばかりに。それはメイの行動原理が至極単純だからに他ならない。それは自分が幸せになること。そのために利用する者は利用し、自分を脅かす存在は撃ち殺す。 作中十河は彼女の眼を魔女の眼と評し、その眼で睨まれると異様の無い恐れを抱き、従わざるを得なくなる。人買いとしてタイから日本へ若い女を何百、何千と密入国させてきた十河だったが、メイだけはいつものように振舞えない。修羅場を潜り抜けてきた者の覚悟の前にタイと日本を人買いのために往復する浮世暮らしのような十河は頭を垂れるしかないのだ。 このメイの存在を象徴するように、今回の物語はメイによって終止符が打たれる。これは実に珍しい。 今までの馳作品では登場する女性はおろかな男たちに翻弄され、利用され、圧倒的な暴力に屈して凌辱されるだけの存在としてぞんざいに扱われてきた。本作のメイも境遇としては過去の馳作品に登場してきた女性とは変わらない。おまけに彼女はエイズまで患っている。 しかしメイには強靭な精神を持っていた。別に男を捻じ伏せる腕力があるわけではなく、逆に街を歩けば10人のうち8人が振り返るほどの美貌とスタイルの持ち主だ。そんな彼女が他の女性と違ったのは己の不幸をバネにのし上がろうとするハングリー精神があったことだ。つまりこの作品はメイの物語だったのだ。 読後に残るのは荒廃感、寂寥感とでも云おうか、燃え尽きてしまった狂気の果てだ。 そう、今回も次々と死人が生まれた。またもや遣り切れなさが残る作品であった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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