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星の巡礼
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星の巡礼の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.02pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全6件 1~6 1/1ページ
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アルケミストを読み終わり、次はこれと思ったら、予想より全体が汚れ気味で臭いもあり、本に罪はないのですが、残念ながら古書で二度目のお蔵入りです。 | ||||
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読み始めた本はなるべく最後まで読む主義ですが、この本は半分くらい(半分の少し手前だったかも)のところでついに挫折した珍しい本です。 全然入り込めませんでした。 | ||||
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星の道に興味があり手に取りましたが、作者が信仰するキリスト教団の話がメインです。 現代ながら、剣だの魔術だの中世のような言葉が飛び交い、どういうシチュエーションなのか理解をするのに時間がかかりました。 巻末のエピローグ、あとがきから読むことをお薦めします。 背景がよくわかり、物語りの理解度がグッとあがります。 | ||||
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こうまで宗教色が強いというか、あまりに世間離れした世界観に入っていけず、読み進むのが辛かった。 私は自転車でパウロ・コエーリョと同じ道を巡礼中である(サンジャンピエドポーからブルゴスまで終了)。 来年、ブルゴスから再スタートの予定で、サンチャゴ巡礼をするのなら読んでおこうと手にとった。 しかし、あまりに違和感が強く最後までやっと読み終わったというのがホンネで、 自分の中で何かを感じるようなことは出来なかった。 アルケミストで感じた違和感がより深まったといっては言い過ぎかもしれないが、 この本で心救われる人もいるというのがよくわからない。 お読みいただいて不快感を持たれた方、不信心な私をお許し下さい。 | ||||
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読み始めは、こどものための本だと思いました。そして、途中で、スピリチュアリズム系の本だと気づきました。 十分理解しているわけではありませんが、キリスト教教義の解釈は、カトリックでも、プロテスタントでもないと思いました。わたし個人としては、コエーリョの解釈に賛成できないところがありました。山川夫妻の解説を読んで、コエーリョがRAM教団に属しているということで、納得できました。 ところで、この頃つよく思うことがあります。それは、あまり自由に聖書を解釈して読む、また神を自由に解釈して理解するというのは、時として危険ではないかということです。私も含めてですが、神と人との関係を、人の側の勝手な論理で捉えるのは好ましくないと思います。聖書を読めば分かるように、そうは人側の勝手な理屈ではすまないわけです。 もちろん、本書は、RAM教団の解釈に基づいているものでしょうから、それはそれでいいと思います。本書を読まれて納得された方は、RAM教団の宗教心情に近いということになるのでしょう。いや、そうではなく、この物語の〈心へのアプローチ〉だと言われるとしたら、この作品のバックボーンである宗教性はどうなるのでしょうか。本書は、小説のような形式をとった宗教書であることは間違いないと思います。 この作品には、2つの疑問が起こりました。1番目は―― コエーリョが説く、自分の幸せを何のために使うか、またその目的のために日々努力して生きる。それは誤った考えとは思いませんが、本書に見られるような技術や感傷的な想いでは手にすることのできるものではないと思います。 えてして、スピリチュアリズムは、感情移入しやすいものです。感情が先立ってしまう。その感情を確実なものにする、または検証してくれるものは、自らの知性ではないでしょうか。ですから、感情移入していく自分を感じたら、自らの知性でその感情を見直してみることが大切だと思います。安易に〈知〉を否定するのではなく、しっかりとした〈知〉の助けを得て、世界と自己との関係を冷静に捉えることが大切なのではないでしょうか。コエーリョも、知の力を借りて本書を作り上げたのですから。 次に、2番目の疑問です。これは、作品の仕掛けにかかわることです。本書の魅力にもなっています。 まず、人の心の弱さを捉えて、それを起点にして人を引きつける。それから、その弱い心を克服するのに、手軽で、それほど自己を傷つけることなく納得させていく手法(心の持ち方)を示す。それで、もう感動の世界へ。 ちょっと意地悪な見方を示しましたが、それには理由があります。それは、この感動の世界は、自分だけの世界であるあいだは、さしたる問題は起きないからです。つまり、自分だけの世界にとどまっている限りでは、「私はまだ未熟なのだ」と反省することですむからです。ところが、他の人も関わる世界になると、様相は異なってきます。ついには、相手を誹謗することになったりしかねません。というのも、コエーリョの描いた世界は、敵対するものを除けば、ほとんど主人公の分身、もっと寛大に見ても、身内のような人物ばかりなのです。ですから、本書を読み誤ると、非常に独善的にならないかという心配があります。 ところで、本書はサンチャゴへの巡礼でしたが、レフ・トルストイ にも巡礼にまつわるお話「二人の老人」があります。行き先は、エルサレムです。 この作品では、トルストイは巡礼者として2人の老人を描きました。ひとりは巡礼を終えることができましたが、もうひとりは途中で帰らなければなりませんでした。しかし、本当に神さまのお近くにいたのは、どちらの老人であったのか、ということをトルストイは示しました。 トルストイの作品は、自分ばかりに捕まってはいない。自分と同じく他者も存在している世界で、人とはどうあるべきなのか、また、まったく異なった立場などにある他者から学ぶ、そして神さまのみ心はどうなのだろうか、と考えて作られたものです。トルストイの作品と比較すると、コエーリョのこの作品は、非常にせまい世界ー自分中心の世界ではないでしょうか。これに関して、ジャン・ピアジェ(Jean Piaget)のある本が思い出されました。 ということで、本書は、原則的には、他者が不在の世界です。このような自己しか見えない世界の中で、本書を読んで、主人公とともに巡礼を終えたと感じる。その上、心の問題もこれで解決すると思う。現実の世界では、本書にあるような心地よい言葉で酔えるほど、人の心や、人の歴史は単純とは思われないのですが。 さて、本書の組み立てに関しては、宝(=剣)探しと、巡礼というロードムービー的手法を用いて、スピリチュアリズムが説かれています。しかし、その組み立ての材料である、オカルトも中途半端なら、カルロス・カスタネーダ(Carlos Castaneda)が師としたドン・ファン(Don Juan Matus)についても、まったくお粗末な扱い方でした。小説としても描写は稚拙、展開もうまいとはいえない。〈死〉の章も、たしかに同調できるでしょうが、それは所詮、こどもが仏教寺院の地獄絵を見て怖れるようなものです。(これも、自己中心的にしか見ない結果です。)そこには、ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl)や、プリーモ・レーヴィ(Primo Levi)のような、生と死をきびしく見つめる眼差しがかけています。 わたしの結論としては――、 本書は、教養小説でもなければ、文学作品でもない。コエーリョの人間観・宗教観、そして失礼な言い方になってしまいますが、中途半端な知識を読まされただけ、というのが、私の読後感です。よく読まれているとのことで、しっかりした内容の本だと思っていただけに、落胆は大きかったです。 しかし、これは私の個人的感想であって、本書で力づけられる方には、それはそれで良いことだと思います。私の感想は、このような読み方もあるという一例に過ぎませんから。 最後に、黛まどかさんには、まったくがっかりしました。これで「解説」なのですか? | ||||
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宗教色が強すぎて物語として楽しめなかったす。途中に「○○の実習」というのが入ってて、これは小説でなくてトレーニング本だったのか?と思った。とにかく、なんか、全体的にチンプンカンプンでよくわからなかった。 | ||||
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