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ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編
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ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.13pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全131件 41~60 3/7ページ
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人間性の深奥に肉薄する芸術を生み出すためには、統合失調症的世界に一歩足を踏み入れねばならないが、本格的に統合失調症を発症した場合、その人は永久に人間性から隔離される。この矛盾。しかし、人間性の本質が、人間性を失いつつある人にしか看取せられないことは、おかしなことではない。なにかを深く認識するためには、そのなにかを失いつつあらねばならないからだ。感情を伝えることを志向する者は、感情において少なからず病を抱えていなければならない。自明性の安寧にまどろむことなく、自明性への疑いを提起するためには、少なからず自明性の喪失的事態に置かれていなければならない。 芸術家とは、一つには人間の感情を表現するものであり(それは「人間の」感情である。人間とはなにか、ということが問題である)、一つには自明性への疑いを提起し、現実への惰性的日常的親和的認知に異議を申し立てる(デペイズマン)ものであろう。受け取り手は感情を揺さぶられ、共感し、かつ人間が生きていることはなにか、ということを直接無媒介的に体験し、非日常を体験し、現実にたいする認知を見直すきっかけを得ることになるだろう。これこそが、芸術体験だと思う。たいせつなのは、another aspect of reality である。 | ||||
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まったく問題ありません!期待通りの商品でした。感謝しています! | ||||
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この小説(?)はこれが執筆された時代より、今のほうが、よりしっくりくると思う。基本的に2つの問題を我々に投げかけている。1つは、自他問わず、人間の持つ多面性とどのように付き合うのか、もうひとつは我々が置かれている時代がいったいどうなっているのか、どの方向に進んであるのか、というテーマです。 人間とは、あるいは自分とは何なのか、を見つめることのできる場所が“井戸”であり、主人公が含まれる時代を前に進めるカギが入っているのが間宮中尉が、ノモンハンで一緒だった本田さんから預けられてきた風呂敷包みの中の小さな箱で、・・・・・当然、その箱は空で、その時代に生きる人それぞれが、自分でエンジンをかけ、ギーギーと啼く“ねじまき鳥”のように前に進むしかないのですが・・・・・。 人間の持つ多面性について言えば、主人公トオルは、妻クミコの兄、綿谷のぼるでもあるし、一方、クミコは謎の電話の女でもあるのですが、不思議な姉妹の妹クレタであるとも言えると思います。 この本が執筆された時代が、日本全体が最高潮から下り坂に入りかけた時代(多くの人はそのことに気づいていなかった、或いは、気がつかない振りをしていた)であったことを考え合わせると、村上春樹の先見性に感心させられます。時代が、いったんあるレールの上に乗っかってしまったら、そこから降りるのは容易な事でないということを明示した論理性に、率直に脱帽します(レトリックかもしれませんが・・・)。 ただ、もう少し、この小説の良さを損なうことなく、コンパクトにまとめることができると思います。余計なお話が多すぎ、遊び心、過剰では、と思います。 彼が言うように、「世界に完璧な絶望が存在しないように、完璧な小説も存在しない」 私は、村上春樹初心者です。同じテーマで、同じ実験結果が与えられても、研究者の最終の結末である論文のクオリーティーに天と地ほどの差ができてしまいます。その観点で言えば、村上春樹はこれまで誰も思いつかなかったような小説(の型)を提示したという点で、天才的な凄さを感じます。 | ||||
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他のレビュァーの方の評で、ノモンハンのことでたまたま、興味を持ったとの話があり、興味を持って中古本で一巻目を手にした。 非常に読みやすいので驚いた。 最近の芥川賞の作品などを読むと年をとったからか、つまらぬことをねちねちと、書いてある小説が多いので、基本、本代の無駄なので 読まないことにしている。 ところが、1ページ目から、スーッと読めるし、感情移入もできる。成る程、これは相当なファンがいるはずだなと確信した。 一つ一つの文章が短く、時々、立ち止まるように、寓話や箴言が盛り込まれていて、飽きさせない。 基本、経済史や歴史書しか読まない理由は、事実は小説よりも奇なりだからである。 戦記物がすきなのは、生きるか死ぬかの時に、人はその人格、人間の持てる力を出すから、面白いのである。 なにかこう、頭の中でひねくりだした、凝ったものを読んでもピンとこない。 この小説は、まず、人間の究極な残酷さと空虚さの表現だろう。残酷なロシア人の振る舞いは、実際、シベリアに送られた人々の 感情や、出来事への思いが下敷きになっているようだ。 レモン・ドロップや謎の少女など、小道具もうまい。 | ||||
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人の魂の奥底に眠るものを善用するか、それとも悪用するか そしてその暗がりに巣くう悪意や暴力を引き起こすものとは一体何か 魂の力を使って人々を癒し、物事を正しい方向へと導く霊能力者たちと、その闇を引き起こす出来事や人たち(歴史上の戦争から、現代へと続くその血塗られた家系まで)の戦い 目には見えないねじまき鳥(世界中のねじを巻く鳥)の鳴き声が、その負の連鎖に晒された人々がふと耳にする声として登場する これはそのねじまき鳥の声を聴いた者たちの年代記(クロニクル)である 人々はいつの時代も水に流されるように、善と悪に流されるようにして生きている 正しさに導かれるにはどうすればいいのか そして呪いを断ち切るには? | ||||
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主人公の住む家の近くに空き家がある。そして、その空き家の庭に井戸があり、主人公はその井戸の底に降りて地上から離れるのだが、この行為は文字通り現実世界からの隔絶を目指した行為ではなかろうか。 そもそも主人公は本作の冒頭から無職であり、行動範囲は近所付近までの小さな世界に限定されている。とはいえ、彼は結婚しており、親族もいて、多少なりとも他者とのつながりは持っている。小さな世界にいようが、現実世界と関わって生きているのだ。しかし、そういった他者とのつながりが求められる現実世界と付き合うとき、自己そのものが周りの影響で知らぬ間に変化してしまい、気がつくと自分自身とはなにかという問い、すなわちアイデンティティの喪失に行き着いてしまう危惧を伴う。主人公が空き家の庭にある井戸の底に入り、地上から離れるのは、そのような他者からの離別であるのと同時に、周囲から感化されたものをからっぽに戻す、自己そのものへの回帰でもあるのだ。いみじくも、からっぽへと至る行為は「空き家」の庭の井戸の底で行われるし、また、主人公が「僕は今ひとつの空き家なのだ」と思索する場面もあり、本作中、からっぽの比喩は多数見受けられる。 | ||||
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冒頭から一気に引き込まれる小説です。 主人公が聴く音楽、作る家庭料理、起こす行動、 どこを切り取っても文句なく面白い。 そして摩訶不思議な世界。 読めば読むほど手放せなくなる1冊です。 やっぱり村上春樹は天才だ。 | ||||
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井戸の底ってところが なんとも息苦しい。 ねじまき鳥のねじを巻く音が聞こえてきそう。 (一気に3部読んだのでずれがあるかも) | ||||
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遅れてきた村上春樹ファンにおすすめ。遅れてきた、村上春樹ファン。文庫本でそろえて読んでいきたいと思います。 | ||||
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これからも一人ひとりの作品を出来るだけ続けて読んでいくつもりです。 | ||||
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本書は単行本から文庫化する際にいくつか手を入れています。 そのため,私は20年前に買った単行本も持っていますがあらたに文庫本を購入し,再読してみました。 村上春樹は,以前に翻訳した作品(たとえばレイモンド・カーヴァーの作品集など)を新たなパッケージとして出版する際に手を入れることはよくあります。 また,短編小説では,もともとの作品からはかなり大胆に手を入れて,バージョン違いとして書き直すということも少なくありません。たとえば最近出版された「パン屋を再び襲う」は「パン屋再襲撃」と比べて新たな比喩が加わるなど,思った以上に手が加えられていました。 さすがに長編小説では,そこまで手が入ることはないですが,こまかな点に手を入れて文体をすっきりさせようとしているように思えます。 具体的に例をあげると 単行本「電話のベルが聞こえたとき,無視してしまおうかと思った」 文庫本「電話のベルが聞こえたとき,無視しようかとも思った」 単行本「受話器をとった。あるいは新しい仕事の口のことで〜」 文庫本「受話器をとった。新しい仕事の口のことで〜」 さて,この第1部「泥棒かささぎ編」で一番好きなシーンが,主人公の僕がイライラしている妻を慰めるシーンです。 「僕が言いたいのは,こうしている今も世界のどこかで馬がばたばたと死んでいるということだよ。それに比べたら,君が誰かにあたるくらいたいしたことはないじゃないか。(中略)死んでいく馬のことを想像してごらんよ。満月の夜に納屋の藁の上に寝ころんで,口から白い泡を吹きながら,苦悶に喘いでいる馬のことを考えてみなよ」 村上春樹の小説に登場する主人公はいずれも忍耐強いです。 村上春樹の作品は,しばらく時間を置いて再読すると,また新たな発見があって,最初に読んだときとまた違った印象を持つこともあり,奥が深いです。 | ||||
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まるで抽象画のようなシュールな小説。意識と無意識が連続しているような描写が随所に見られ、主人公は不思議な体験を重ねる。読んでいくうちに、たくさんの「?」が頭の中に山積していく。 対談本『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の中に、本作と関係が深いと思われる以下のような趣旨の発言があった。 1.村上: 僕の従来の小説では主人公が求めたていたものが最後に消えてしまうが『ねじまき鳥』では「取り戻す」ことが重要になる。 2.村上: 主人公たちのとる行動の意味は、僕自身わからないことが少なくない(これに対し河合氏は「作者が全て分かって作ったものは芸術ではない」と述べている)。 3.村上: 日本人は戦争の暴力を相対化できず、誰も内的な責任をとっていない。 4.村上: 小説を書く事で僕の病は癒され、読者も癒されると思う。小説家になっていなかったら僕はおかしくなっていただろう。 5.河合: 現代では多くの家庭で夫や妻が象徴的に「消えて」いるが、そのことに気づいていない人は多い。 村上氏の小説には直接的または間接的に「死」に幾度となく言及したものが多く、本作も例外ではない。これは私見だが、村上氏は深刻なタナトス(死の欲念)に冒されているのではないだろうか。無意識に棲むタナトスを「物語」として具象化・相対化するために小説を書いていく過程で村上氏は癒されているのではないか。いっぽう、読者が彼の小説を読むことで本当に癒されるのかどうか、私は正直、疑問に感じる。むしろ作者のタナトスに感染して精神がキズつく人のほうが多いのではないかと、ちょっと心配になる。 ただし村上氏も述べているように「主人公が失われたものを取り戻していく」という本作の展開には多少なりとも希望が感じられるし、これは後の作品『1Q84』などにも引き継がれているように思われる。 村上春樹は、タナトスを芸術の域まで高めることに成功した稀有な作家なのではないだろうか。 | ||||
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個人的に一番好きな作品であり、客観的にみても彼の最高傑作だと思います。多彩な登場人物とそれぞれの物語。読後に感じたのはカラマーゾフを読んだ時にような深い感銘。ともにまだ終わりではないような印象。クロニクル以後の春樹にはつねにその続編を求めてきたような気がする。スプートニクはボリュームからして満足できなかったし、カフカでは魚が降って欲しくなかったし、1Q84では特に月がふたつなくてもいいのではと思った。 しかし春樹はクロニクルで(僕にとっては)ドストエフスキーと比肩できうる作品を残した作家だと思っている。 初期の三部作であれほどの成長には驚かされた。クロニクルは前兆もなくいきなり高みを示された驚きがあった。春樹と同時代であったことは幸せなことだと思う。思えばクロニクルからはかなりの時間がたってしまっている。もしかしたらクロニクルの最終章が出て、それが春樹の最高傑作になれば最高だ。 | ||||
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第1部は、物語の予兆あるいは前兆にあたるのでしょう。 これまで平穏に流れていた日常にほんのちょっとしたイライラや不機嫌さが加わってゆきます。 日常の中の些細なほつれのような部分。 飼っていた猫が行方不明になったり。 行ったことのない場所に入ってみたり。 妻と口論になったり。彼女に内緒の小さな秘密を持ったりしながら。 これまでであれば消えていったようなことなのかもしれません。 しかし、今度ばかりは波紋は広がり、それまで気がつかなかったようなものにまで波立たせてゆきます。 村上春樹さんならではの趣向だと思っています。 緊張感が増してゆく日常。遂に何か得体のしれない事件にぶつかってしまったようです。 これから一体どうなるのか? 村上さんの語り口に圧倒的な吸引力(迫力)があります。 | ||||
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河合ハヤオとの対談にも出てきたけれど 村上春樹の中でターニングポイントとなったのは 「暴力性」をテーマにしている点。(第一部では 間宮中尉の語るノモンハンでの体験、第二部では 札幌ミュージシャン男を相手にしての野球バット対 空手の戦闘、第三部では綿谷ノボル殺し) 第一部はギャグの様なキャラが登場し続けるが 第二部になると突拍子もない体験談が徐々に リアルな問題へとリンクしてくる。第三部では 主人公も他人事ではなく、当事者として 非日常的経験の連続により「事件の核心」へと迫るが 明確な言語で語りうることは何ひとつとして 明らかにされないまま。 暴力性と憎悪をテーマにした短編は80年代の 作品にもいくつか見受けられたが本作は「四部作」 ほど読みやすくは無い。特に第三部以降の複数世界の 同時進行は読んだ後、読者が組み立てなおす事に。 異世界がひとつだけではなく、主人公の回想も 頻繁にカットインされる。 | ||||
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春樹作品の中で、もっとも映像化して欲しい作品。技術的にもそんなに難しくないはず。 キャスティングして良いなら、主人公は加瀬亮、奥さんが栗山千明、奥さんの兄が堺雅人、シナモンが重力ピエロで加瀬亮の弟役だった子、その母は大竹しのぶ、クレタが杏、マルタはトリックの主人公やった女優さん、あひるの人って言っちゃう子が初代なっちゃん。 どうだろう? かなり見たい! ちなみにねじまき鳥クロニクルは世界の終わりとハードボイルドワンダーランドと背中合わせの作品な気がする。そしてシナモンは、海辺のカフカで、また微妙な役で再生している。 春樹ワールドは、1Q84まで地続きだから、単純に楽しい(^-^) | ||||
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正義と悪、現実と想像など、いろんな意味で境界が揺さぶられる作品です。 特に結末がそうとう不条理です。 主人公は、綿谷ノボルという敵に対して、彼の悪事を(本当にあったかどうかさえ)暴くことが出来ずに、結局敗北しているようにみえます。 そして愛する妻は、兄にである綿谷ノボルに「精神的に」汚された、と言い残し殺人者となってしまいます。これはあまりにも救いが感じられません。そして、そんなサイコな妻でも戻ってくるのを待つという主人公。 またそんな状況にもかかわらず、結末の描写は、アラサー男である主人公がティーンエイジャーの女の子と、のほほんとまったりしている、というものになっています。そしてよく考えると、その女の子も、また殺人者であります。主人公がたどりついたこの「超人的としかいいようがない」能天気な心境は、常人には到底理解できないもので、「やれやれ」とこっちが言いたくもなります。 手放しで、素晴らしいと感じた箇所もあります。これ以前の作者の作品にはなかった「日本文学」的な表現があります。間宮中尉の回想の場面がそれですが、それは圧巻の一言です。日本の文壇に対して批判的な立場を表明している作者ですが、この部分を読めば、その土俵でも抜きん出た実力を持っている作家だということがわかります。 そういう実力がありながらも、あえて徹底した不条理な結末にしたことにより、かつてのフリージャズが目指したような世界観が私には感じられました。 | ||||
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村上作品の中では比較てわかりやすい作品だ。 悪との戦い、それがこの物語のテーマだと私は思う。 ここでの「悪」というのは、人を支配するものだ。主人公である僕はその悪の中心である綿谷昇と対決する。 もっとも、対決といっても殴り合ったりとか、そうした戦いではない。それに、実際のところ綿谷昇がどれほどの悪であるかというのもわからない。 僕の視点で語られるので、独白で綿谷昇は悪いやつだとこちらに印象づけようとするのだが、しかし実際綿谷がどれほど悪いやつなのかはまったく書かれていない。綿谷昇は犯罪を犯しているわけではない。悪といいながらも、その実態は不明瞭である。 しかし、綿谷昇がどのような悪なのかについて書かれていない代わりとしてノモンハン事件がこの物語には登場する。 このノモンハン事件、物語に何か深く関わりがあるのかというと殆ど関係ないといっていい。 そのノモンハン事件のエピソードの中に皮剥ぎボリスというロシア人が現れ、その名前のとおり生きたまま人間の皮を剥ぐという悍ましい人間で、その描写もなかなかの生々しさがある。その皮剥ぎボリスは終戦後、シベリア抑留された日本人を管理する立場になる。その彼のもとで日本人は苦しめられる。虐げられる。しかしだれもボリスに歯向かおうとするものはいない。日本人はもちろん、同じロシア人ですら、歯向かえない。 なぜか? 日本人は捕虜なので当然かもしれないが、その上で彼らはボリスの生み出した恐怖によって雁字搦めで身動きができなくなっていた。日本人の中に裏切り者が潜み、もし謀反なり反逆を企んでいるものがいたら、その裏切り者に密告されて彼らは殺される。それを恐れて日本人はただただ我慢するしかなかった。 人間を目に見えないもので支配し、自由を奪う、それこそがここで描かれている「悪」だと私は思う。 綿谷昇もまさしくそうだった。ボリスは恐怖というわかりやすいものによって人間を支配した。しかし綿谷昇はもっと巧妙でわかりにくい。とてもわかりにくい。一見して好青年で、賢く、有能。しかし彼の奥底には人間を支配しようとするものがある。 それは綺麗な言葉であったり、学歴であったり、カリスマ性であったりと。そうしたものを見せつけて人を支配して意のままにしようとしている。 主人公の僕はそんな綿谷昇を倒して自由を得ようとする。その自由の証拠が、出ていった妻になる。 この物語はそもそもいなくなった妻を探す物語なのだが、その妻は兄である綿谷昇のもとにいる。つまり、妻を取り戻すこと=自由を取り戻すことなのだ。 そしていざ戦うのだが、精神の世界での戦いだ。実際に殴り合いをするわけではない。人の心を支配しようとする綿谷昇。その心に住み着いた綿谷昇と戦うのだ。 オウム真理教がそれなりに影響されているというこの作品。それを考えると綿谷昇は麻原彰晃になるのかもしれないが、麻原彰晃だけが綿谷昇というわけではない。人を支配して自由を奪おうとするものはそこら中にいる。そして、私たちはそうした相手と絶えず戦い続けなければならない。そのためにも他人の言葉にすぐに影響されてしまうような人間ではない、自分という存在の明確化、それが必要である。それが私がこの小説を読んで感じたものだ。 | ||||
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新刊当時の書評で、いくつもの謎が投げ出されたまま解決をみないで終わっているという主旨の苦言が呈されていた記憶がある。が、読んでみるとそんなものはこの小説の瑕ではない、とはっきり言える。長く読み継がれてきた多くの長篇小説がそうであるように、多種多様な解釈が可能であり、多くの隘路には思いがけぬ愉悦と思索が潜んでいる、そのような存在であることによって、意義を得ようとしている巨大で複雑な構築物。この小説はそのような楽しみ多き構築物に成りおおせていて、春樹さんの目論みは、8割方成功しているのではないか。 この作者の得意わざである、「僕」による一人称小説。処女作「風の歌を聴け」以来、この「僕」はあまり年老いることができない。そして、この「僕」はいつまでたっても春樹的モラルの体現者である。春樹的モラルとは、例えば、 1. 窮地に陥っても、いつも気の利いたセリフを言う。 2. 健康な性欲の持ち主だが、お金で女性をを買ったりはしない。(私もそうだ) 3. 保守的で、何故かすでに出来上がっている自分の価値観(それが春樹的モラルだ)から一歩も出ない。 4. その守るべき自己(価値観)を脅かす外敵(それが一つの悪であろう)とは、決然と戦う。 5. いつもスパゲティは自分で茹でる。(私もそうだ) などが、思い付くままに挙げられる。村上春樹は昔ながらの私小説の書き手ではない、と信じられているから、「僕」が現実の春樹氏とシンクロして年令を増していく必要などないが、それにしても、永遠に青春小説を書くのはつらいから、ついにノンフィクションにも手を染めたのか、なんて憎まれ口はさておき、ねじまき鳥と「アンダーグラウンド」では、人間性のもたらし得る悪を、まともに表側から、もちろん春樹式レトリックによって(それ意外に何ができる)描こうとした。 この人はもともと、生々しいものや、どろどろしたもの、重苦しいもの等について、それらに直接触れることを好まず、その痕跡や、それがかつてそこにあったことを伝える余韻のみを、言わば、本体が抜け出たあとの窪みを、スマートに描いて見せることで際立った小説家であったのだ。でもこれからは、どぎつく描いちゃうんだもんね。例えば、小説の末尾近くになって、「皮剥ぎボリス」という綽名が示される赤軍少佐。私は、このロシア人が日本軍間諜の生皮を剥ぐシーンを都営地下鉄三田線の車中で読んで、以後一週間ほど、飯も喉を通らず、夜はうなされて眠れなかった。文字通り悪魔の化身。悪魔の化身の悪魔ぶりがくっきりと描かれた。なんじゃこりゃあ。村上春樹の本を読んでこんな思いをするとは。何と生々しい表現の力。ただし、この「悪」は「ぼく」の身じかにあったわけではなく、その悪の化身によって踏み付けにされ、人生の中身を奪い取られてしまったような経歴をもつ老人の回想として小説中で示されるに過ぎない。すでに存在感の希薄な老人の語る「悪」に圧倒的な存在感が付与されているのは何故なのか。一方、「僕」に具体的な困難を及ぼした張本人とされるワタヤノボルとその悪は、あくまで抽象的、また遠隔的なものだ。 それにしても、今さら何ゆえ「悪」などに着眼したのか。 | ||||
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どうしてかはよくわからないけれど、かなり惹き付けられる。 物語なんて、まだ始まってもいないようだし、それぞれストーリのかけらみたいなのはところどころに見えるんだけど、それらが全くつながっていない。なんだか写真をとっても近くで見ている感じ。 多分、第2部、第3部と読み進めていくごとに、その全体像があらわになるんだと思う。 でも、もしかしたら最後まで読み切っても、その写真の意味がわからないかもしれない。それぐらい長い序章のように感じます。 | ||||
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