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ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編
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ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.13pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全131件 21~40 2/7ページ
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著者の作品は今回が初読み。 比喩表現が気障ったらしいところや口説いところは否めないが、著者の味なのだろう。うまく作品世界にハマっていた。 100ページ過ぎても暗示的示唆的な運びばかりで、物語としては1ミリたりとも進んではいないのだが、不思議と退屈はしなかった。 他の作家の小説であれば、展開のあまりの遅さに不快感を覚えただろう。 そういったところは、やはり著者の読ませる力なのだろう。圧巻の筆致である。 | ||||
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紆余曲折あるが、最後は物理攻撃でなんとかする話。 小説の構成上、序盤は淡々と進むのでやや退屈だが、中盤から物語は急展開をみせる。 間宮中尉とボリスの対決も見もの。 ノモンハンの回想や、蒙古兵の拷問はリアリティ溢れる表現で非常にスリリング。 主人公が色んな人の力を借りつつレベルアップしてラスボスに挑む様は手に汗握る展開でした。 ハードボイルドワンダーランドに次いで是非お薦めしたい村上作品。 | ||||
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主人公の岡田トオルは根源的な悪と対決するために井戸の底に下りていきます。 なぜ根源的な悪と対決するのか・・・愛する人がそれに苦しめられているからです。 なぜ井戸に下りていくのか・・・意識の底に人間の普遍的な心の闇、すなわち悪が存在するからです。 物語は迷路のような展開をくぐり抜けて、夫婦がきずなを取り戻す姿を描きます。 【猫の失踪】 「あなたの身にはこれからしばらくのあいだにいろんなことが起こることになると思います。 猫のことはおそらくその始まりに過ぎません」 猫の失踪をきっかけにして、主人公は謎にみちた人々と出会います。 主人公は彼らが妻のクミコの深刻な問題を示唆していることになかなか気づきません。 【加納クレタ】 「私が十代のいちばん難しい時期にあって、姉の存在をいちばん必要としていたときに、 姉はいつもどこか遠くにいました。」 加納クレタと姉のマルタの関係は、クミコと亡くなった姉の関係に酷似しています。 クレタの辛く孤独な人生は、クミコの過去を投影しているのかもしれません。 そして両者の抱える問題の先に、綿谷ノボルが深くかかわっていることが暗示されます。 【水のない井戸】 「下に行くべきときには、いちばん深い井戸をみつけてその底に下りればよろしい」 笠原メイに井戸の場所を示されたとき、本田老人のこの言葉を思い出します。 さらに間宮中尉の戦地の井戸の底で体験した恩寵の話は、この後の主人公の行動を決定づけます。 【クミコの世界】 「我々は我々がよく知っていると思い込んでいる相手について、本当に何か大事なことを知っているだろうか」 トオルは人生の途上で立ち止まり、自分の知らないクミコの世界があることに思いをめぐらします。 問題の核心に足を踏み入れた主人公は、私たちの無意識の深層が混乱と暴力に満ちていることを知ります。 第二部では、主人公はいよいよ井戸の底に下りていきます。 その場所には主人公が知りたかったこと、そして私たちが知りたかったことが、きっと隠されているはずです。 | ||||
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羊をめぐる冒険で垣間見たもう1つの世界や圧倒的な邪悪と言った著者の作品に通底するテーマが平凡な主人公の日常に起きた出来事と絡みながら話が進む如何にも村上春樹作品。スピリチュアル的な様相もありながら実に読みやすくあっという間に読み終えてしまうのは著者の思惑と計算通りだろう。著者の作品の中で最高傑作かと言えば他の作品を挙げるが村上春樹という安心のブランドの安定した作品なのでしょう。1日1〜2時間程度読めば1週間弱で読み終わるくらいなのも自分の読者層を考えての事だろうか。扱われるテーマの割に通勤の際に読んでも考えさせられる事も無いし肩も凝らない。ライトノベルのスピリチュアル? | ||||
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村上春樹さんの本を読んだのはこのねじまき鳥が初めてです。 なんで今まで村上春樹を読まなかったんだ自分!ってくらい面白かったです。3冊一気に読んでしまいました。 戦争の描写は読んでて辛いところが多々ありました。あの肉を剥ぐシーンは夢に出てくるほど強烈だったし、井戸の中のシーンも恐怖を煽られました。 登場人物が全員とても魅力的。 キャラクターがすごくたっていて、言い放つ言葉にドキドキしました。 笠原メイとのやりとりが私的に一番好きだったなぁ。井戸の蓋を閉めるシーンがすごく好き。 | ||||
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時間も空間も越えて、物語のなかに引き込まれました。一番好きです。 | ||||
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もう読んでから10年は経つかな、あとはごくたまに出だしの方読み返すか、位なんだが、こないだそれやっても、いいなあ、上手いなあと思った。最初読んだ当時の印象のまま書くと、出だしから違和感、非日常感、これから何が起こりこの小説を読む事で何を得られるのか、といった小説そのものの中味から来る期待感と世間の村上春樹小説への高評価から来る期待感がないまぜになった気持ち、ディテール展開への興味、まあスパを茹でるシーンや何やにサラリーマン生活を送って来ずジャズBarだっけ送って来た生活の特異性が出てるのは初期作品からなんだけど、それやこれや色々期待を持たせながら読み進めさせて、それなり納得いくくくり迄持って行っている、途中で世界観そのものを示唆、暗示するような穴こもりシーン、短編集中国行きのスロウボートの中の午後の最後の芝生に次ぐ村上作品中、私的高評価作品です。 | ||||
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私は今まで村上春樹の作品は何冊か読んできた。そして独創的な作品だな、とは思いつつかといってそこまで好きというわけではなかった。 この『ねじまき鳥』は今まで読んできた村上春樹の作品の中では一番好きだ。少なくとも作品にのめりこみ、分量は多いが苦も無く最後まで読むことができた。その意味で私はこの作品を春樹の作品として他人にすすめるであろう。 しかしその反面、結局読み終わって意味がわからなかったというのも事実である。物語とノモンハン事件の関連性、ボリスの存在、加納マルタとクレタの作品内における存在意義、クミコが結局なぜ去っていったのか、そして最後どうなったのか、結局わからないことだらけだった。 この作品に関する解釈・研究がネット上にもあり、おそらく作者は投げっぱなしにしているわけではないと思われる。私がこの作品を研究し、もう一度読めば見えてくるものもあるに違いない。きっと研究しがいのある作品である。だが、再読することは当分なく、当面私にとってこれらの謎は謎のままであることだろう。 文学解釈・研究が好きな方にはきっと好きになれるだろうが。 | ||||
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読み応えがあった。 初期の作品からは毛色が変わってきたような作品。 春樹作品に出てくる女性は好きです。 | ||||
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発送対応が早く、すぐに届きました。またコンディションも良く大満足です。 言うこと無しです。また利用したいです。 | ||||
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食わず嫌いだった村上春樹。「ハードボイルド・・」に続き第二段です。ノモンハンのことが書かれているということで歴史好きな私はこちらを選択しました。(ノモンハン事件のことはあまり関係なかったです) 二作目までの感想ですが、著者の作が面白いことは認めざるえないです。謎がどんどん出てきてすぐ本の世界に引き込まれました。ただ、読み終わってから思ったのですが、様々な話の関連性が結局不明な物が多いのでは?話が膨らみすぎて収拾できなくなった?と疑問が生じました。例えば笠原メイの視点は結構長いですが、結局個人的思いの範疇を超えないし、新京での話、(顔にあざ、バットで殺す)など関連がありそうで特になし?他にも細かく言えばまだまだあります。 あと、前作でも感じたんですが、この本を読んで自分の生き方や思考に何らフィードバックされるものが無い、また何かを考えさせるものが無いというのが残念です。(私の読み込みが甘いのかもしれませんが)この辺がノーベル賞受賞者との差なのでは?ただの面白い都市伝説的な物語にすぎないのか? | ||||
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本棚に長く放置していた新潮文庫版にようやく手を出した。やっぱり面白い。読みやすく、描かれている内容は明快ながらも(少なくとも、何を書いているか判読できない、という難解さはない)、ストーリーはいつも通り奇妙きてれつなまま。なぜノモンハン戦争を体験した元陸軍中尉が出てくるのか、そんな展開に持ち込む物語上の必然性(?)はどこに、みたいな野暮な印象を抱くまもなく、読み手を引きつけて放さない作者の想像力と筆力がそのストーリー構築の不自然さ、作為たっぷりの無理無体さを忘れさせ、むしろ不思議な自由感、自在感を醸し出していく。 固定電話が重要な小道具になる20年以上前の作品ながら、古びたところは窺えず、さて何がどうなっていくのか、期待感をキープしたまま、第2部へ。本棚から引っ張り出したのは、ノーベル文学賞の発表直前。今年こそ受賞するのでは、との「話題性」を意識したためで、第1部を読み終えたころ、ボブ・ディラン受賞のニュースに接した。しかし、こんなふうなユニークな作品(群)が世界中で読み継がれている限り、作者へのノーベル賞授賞の報は近い将来、間違いなく現実化するのでは?、75歳で受賞するボブ・ディランの伝でいけば、あと10年近くのうちに、などと余計なことも考えた。 | ||||
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私は、村上春樹のファンというわけでもなく、著作も、「ノルウェイの森」をかなり以前に読んだだけであったが、最近、近代史で興味を持っている「ノモンハン事件」が取り上げられているということであったので、本作品を読んでみることにしました。 人気作家だけあって、文章も読みやすく、全三巻(三部構成)という長さもそれほど苦になりませんでした。 仕事を辞めて妻の久美子と暮らす僕(岡田亨)。 飼っていた猫が失踪したことから、生活が歪み始め、個性的な人物たちと出会う中、自分の人生というものを強く意識するようになるが…といったストーリー。 【第1部:ノモンハン事件】 この作品を読む動機となった「ノモンハン事件」は、物語の中心ではありません。 しかし、この第1部では、事件を体験した人物が語るシーンがあり、その壮絶な内容は、強烈な印象を残すものとなっていると思います。 【第2部:井戸のエピソード】 第1部でも、ある人物の井戸のエピソードが登場します。 この第2部では、妻の久美子が失踪し、混迷する主人公の僕が、井戸とある関係を持つことになります。 ここが第2部の読みどころでしょう。 【第3部:久美子はどこに】 推理小説のような捜査があるわけではないですが、主人公の僕は、この第3部で、久美子を連れ戻すために、努力を重ねていきます。 果たして、久美子は戻ってくるのか? なかなか面白い展開が待ち受けています。 【ねじまき鳥とは…】 題名にもなっている「ねじまき鳥」とは、一体何なのか? 世界のねじを巻く不思議な鳥、という説明があり、特定の人物のみが、その鳴き声を聞くことができるようです。 主人公は、歪んだ運命に翻弄されていくのですが、この鳥のお陰で、運命の歪み過ぎが防がれているのかもしれません。 | ||||
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毎年、この物語が始まる6月になると読みたくなります。 路地 空き家の庭 生い茂る雑草 レモンドロップ 笠原メイ 駅前のクリーニング店 加納クレタ 水族館 クラゲ 静かに降る雨 どこかで鳴くねじまき鳥 深い井戸・・・。 読むたび一気に引き込まれてしまいます。 わたしたちは多かれ少なかれ歪み・欠落を抱えて生きています。 その歪み・欠落を見ないように蓋をして生きる人もいれば、歪みを矯正しよう、欠落を埋めようと努力して生きるひともいると思います。 でもこの物語を読むと自分の抱えている歪みや欠落をちゃんと視たいという気持ちになるんです。 敵視するんじゃなく、ただ淡々と視てみたい気持ちに。 | ||||
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また『ねじまき鳥クロニクル』を読む、もう何回読んでるかわからない、 特に第1部、第2部が好きですね、そこにこの作品の「初心」が入ってる気がするんです、 たしかに第3部は村上春樹のその頃の新境地とも言えるけれど、まだ生硬というか無理してる感じがある、それも悪くないけれど、それまでの村上春樹世界の到達点が出ている1、2部が好きですね。 なんというか、その作品世界では「僕」は深い森のなかに迷い続けて、ときおり不思議な女性たちから何かの暗示を受ける、しかしそれはどこから来たものなのかわからない、 または不吉な危険が黒い影のように通り過ぎる、しかしそれもどこから来たものかよくわからないのだ、 すべては深く暗い森から来て、よくわからない暗示や危険を残して去る、なにも解決はされない、 そこで「僕」は迷い続け、それらのわけのわからないものたちに翻弄され、失われてゆく・・・ それが1、2部の概略であるように自分は見ます。 よくある読み方として、それらのよくわからないあらわれを、そこに意味があるものとして読む方法がありますが、自分としてはそうした読み方に疑問があるんですね。 この「ねじまき鳥クロニクル」という作品世界の良さは、そのよくわからないあらわれを、よくわからないまま、ばらばらなままに受け取って、それを意味づけたり統合したりしない方が、不思議な快感を味わうことができるんです、 たぶんその快感が無ければ、繰り返し読むことはしなかったと思うんです。 この「よくわからないものたちが、ばらばらのままあらわれてくる」ということは、現実にもあります、が、もしこの作品のようにそれが激しい現れ方をしたら、人は統合性を、ものごとのつながりを失って危険なところに出てしまうでしょう、 私たちが踏みとどまっているこちらがわの、その向こう側を見せてくれるからこそこの作品は魅力的なので、もしこれを統合した意味がわかるものとして、こちらがわの世界として解釈したら、その魔的な魅惑は失われてしまうと思うのです。 だからこの作品を統合された意味として読むのには、自分は反対です。 何よりも大切なのは、自分がまず深い森に入り込んで迷い、多くの不思議なよくわからないものと出会うことだと思います、 そこで「僕」はこちら側の世界から離れた、いわば浮遊したものになり、その浮遊はなにか懐かしいものを感じさせてくれるのです。 (まあ、現時点での自分にとっては、ということですが) その、離れた、浮遊した、懐かしいものとはなにか、と考えてみますと、自分の印象では「幼児から見た母との関係」ではないか、というイメージが浮かびます。 言ってみれば幼児には、母というのがなぜそこにいるかわからないんですね、でもすべてはそこからくる、良いものも悪いものもそこからくる、でもなぜかは幼児にはわからない、そういうものをその浮遊感は思いださせるんです。 いわば判断不能状態での全的受容、のようなものかな、、、 まあ村上春樹の作品について、母との関係をイメージするのは、評論として平凡ではあるけれど、自分としてはやはりどうしてもそこに行ってしまいますね、、、 だから自分にとって『ねじまき鳥クロニクル』を何度も読み返す行為は、深い森のなかに出かけて行って迷い、ふしぎな花や不気味な生き物と出会うこと、または幼児の原体験として全的な母との関係の中に還ることのようなものなのかもしれません。 でもさきに述べたようにそれは第一部、二部でのものであり、それまでの村上春樹世界の到達点を示すようなものではあるけれど、また第三部は違うんです。 そこからは村上春樹自身が転換点だと言うように、いわば深い森から抜け出す道を探る闘いであった、とも思うんです。 でもそれが成功したのかどうか、自分にはよくわからないところがあって、評価に迷います。 ただ、その深い森の中で迷う「僕」を救い出そうとする試みがなされたことはわかります。 そしてそれは自分にはまるで、母から離れる方法を見つけ出そうとしているようにも見えて、、、なんだかそこがよくわからないです。 そうしたことがわからないままにしていたいのかも、どうなんだろうな。 そうしたことを考えて、また読んでみます。 | ||||
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村上氏の長編小説の中で何回も読む気になるのは、この作品である。主人公である岡田亨をはじめとして、笠原メイら、悪として登場する綿谷昇も含めて、登場人物も魅力に富んでおいる。またプロットも妻であるクミコが逃げ出すところから始められており、パスタを茹でるところは村上氏らしいが、氏のほかの長編小説同様だが、読者を飽きさせるところがない。 特に印象深いのは、井戸に降りていくところだろうか。氏は、自分は小説を書く時には深く地下に降りていかなくては良い作品がかけない、と語っていたことがあった。主人公が自分を探るようにして、地下にもぐっていくところは、氏が深く地面に潜っていく姿と重なって、情景が目に浮かぶようである。またもう一つは、作中で重要な役割を果たす間宮中尉の目の前で、山本と言う男が悲惨な死を遂げる場面である。この小説では、暴力が大きな比重を占めているようだ。 ところで最近の作品である「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」、「1Q84」を読むと、この「ねじまき鳥クロニクル」に比べるとだいぶ劣る感じがする。「色彩を持たない」は、一般に評判の悪い「アフターダーク」よりも内容に乏しいし、「1Q84」はオーム真理教を想定しているのだろうけれども、単なる読み物でしかないように思われる。村上春樹に対しては、とても甘い評価が多かったのだが、「ねじまき鳥」の頃の村上に比べると訴えるところの貧しい作品が多くなっているような気がする。 | ||||
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奇想天外なストーリイといいシュールぽい場面場面と良い兎に角面白い。 | ||||
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三部通しての感想です。これは、もし完全な悪というものが存在するなら、それが人間の形をしていようと破壊、つまり殺していいと言っているとしか思えなかった。以上。 | ||||
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全三作で結構な分量があるのですが、二日間で読んでしまうくらい惹きこまれました。個人的には、主人公が井戸(id)にもぐりこんで、そこから深層意識?の世界に移動してゆくところがすごくドキドキしました。人によって、色々な受けとり方ができる奥行きの深い作品だとおもいます。個人的には、1Q84よりも繰り返し読み返したくなる中毒性を感じました。何度も読みたくなる、名作だと思います。 | ||||
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村上氏は本著でテーマや意味性を提示していないように思う。氏が我々に現前させたのは「迷路」であるように感ぜられる。全ての人は心の内奥に得体の知れない「悪しき何か」を内包している。その「悪しき何か」は時に暴力を伴う行動或いは言語となって人の表面に発現する。世界中で繰り広げらる目を覆いたくなるような暴力、例えば斬首・絞首・銃殺などは、その「悪しき何か」が猛りを見せたときに現れる最も典型的なものだ。 本著を読んだ後、暴力的な物事が遠い世界の特殊な事象とは思えなくなってくる。私を含め、あらゆる人は心の中に「悪しき何か」を有しており、それを飼いならし発現を抑える人が大多数を占める一方、肥え太らせ猛獣に育て上げる人もいる。「悪しき何か」の凶暴性を極端なまでに心の中で高めてしまった人物の一人が、本著の皮剥ぎボリスであろう。しかし、飼いならし発現を抑えている人であっても、それは諸条件により偶然発現を抑えられているだけであり、誰もが皮剥ぎボリスの如く悪しき精神性を持つ可能性があるのではないか。そう思ったとき、戦慄を感じた。本を閉じ、しばしのメディテーションが私には必要であった。 本著が提示する「迷路」の曲がり角で現れるのは単に「暴力」だけではない。「迷路」には、猫の失踪があり、ノモンハンの謎の文書があり、山本の最期の断末魔があり、井戸の中での恩寵の光があり、間宮中尉の空っぽの形見があり、消えた妻の姿がある。つまり、人類の心の錯綜を体現するかのような不気味なモティーフが「迷路」の随所に現れる。しかも、その「迷路」には出口がない。むしろ、読み始めた時には小さかった迷路が、読み終えた時、想像以上の大きさとなり我々の前に佇んでいる。 本著は我々の心にある「悪しき何か」に思いを至らせてくれる。しかし、良い意味で掴みきれず「何か」としかいいようがない。本著は禅の公案のように私達の目の前に読む度に違う姿を見せるであろう。しかし、その「何か」が何であるのかは、「神のみぞ知る」としかいいようがない。 | ||||
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