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虚言の国 アメリカ・ファンタスティカ
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虚言の国 アメリカ・ファンタスティカの評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.44pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全9件 1~9 1/1ページ
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| 欲とウソにまみれたアメリカ人社会を喜劇的に描いているが、真剣に読めば読むほどその内容に憂鬱になってしまいます。アンジーやエンニの言動をいまいち認識できない人は、同じ作者の前作である『世界のすべての七月』の女牧師とスプークスピネリを併読すると理解が深まると思います | ||||
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| フェイクニュースがはびこる現代アメリカを皮肉った小説という印象を持っていましたが、単なるトランプこき下ろし小説ではなく、深みのある読み応え。場面が次々変わること、主人公が行き当たりばったりでひきおこす犯罪はロードムービーを見ているようです。 | ||||
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| 『虚言の国』は、PART1(第1章—第25章: 6-293頁)とPART2(第26章-第56章: 296-614頁)から構成されています。 主人公のボイドについて、「私の名前はボイド・ハルヴァーソン、『嘘つき中の嘘つき、虚言症の権化』」(62頁)という自己紹介の記述があることをまず押さえておくことにします。 冒頭、ボイドは自身が72,000ドルの預金をしている銀行から81,000ドルを盗みます。実質ボイドが盗んだ銀行のお金は9,000ドルに少し足りないくらいのものでしかなかったのですが、しかし物語はそれを発端に逃避行を続けるボイドとアンジーを中心軸に設置し、アメリカの架空の田舎町フルダにあるコミュニティー・ナショナル銀行の頭取のダグラス・カッタビー、その妻のロイス、その他多数を巻き込んで、物語は虚言の渦巻く出口の見えない“ブラックホール”へと突き進んでいくように見えます。 ざっとその骨組みを見てみます。 まず、「私が言わんとしているのは、銀行そのものが不正を働いているってこと。…」(152頁) というアンジーの台詞は、物語の構造を一つ繰り上げていることに気づきます。ここはPART1のほぼ中間に位置し、構造的に新たな幕が切って落とされた地点といえると思います。つまり、物語は単純なボイドとアンジー二人の逃避行の話ではなくなり、銀行の経営者であるカッタビー夫妻がいかに銀行を私物化してきたか、そして新たに今回の銀行強盗の一件を利用して一儲けしようと目論むようになるかを描くからです。ここではさらに強欲な妻ロイスがトミーというフルダの町の警官と不倫の関係に落ちていることも設定されます。 この後のPART1の展開はぜんぶ飛ばして、PART2に入ることにします。 PART2が始まって最初の第26章は2頁しかないのですが、ここに「自らのついた嘘について嘘をつく」 「そしてまたその嘘について嘘をつく」という意味ありげな言葉が提示されています(297頁)。これを「嘘についての嘘をつくと、その嘘はもはや後戻りできない嘘になる」こと示唆していると解釈するなら、その意味でここは物語のポイント・オブ・ノーリターンに当たると考えました。ここが構造的に物語全体のほぼ中間に位置します。 第33章では、ダグラスの妻のロイスと彼女の不倫相手トミーの無残な死が描かれます。すべてはダグラスの仕組んだ罠だったのです。そしてここから物語に女性警官のワンダ・ジェーンが参入します。ワンダはたちまちダグラスが真犯人であることを見抜きますがその証拠はありません。ワンダの親友ヘッダ・トッドハウザーも加わりますが、彼女には強欲なところがあります。そしてダグラスから自供を得るべく彼女は体当り攻撃を開始します。ヘッダが本格的にダグラスに接近を開始するのが第41章で、PART2のほぼ中間のはじまりに当たります。ここはPART1との構造的なシンメトリーを感じさせ、新たな幕が始まったことが伝わってきます。 このあとのPART2の展開は省略します。 このダグラスの軸は、ボイドとアンジーの逃避行の中心軸の上に乗っかった形を取っており、前半ではダグラスと妻のロイスのストーリー、ロイスの亡くなった後の後半は、ワンダとヘッダのストーリーに別れて描かれています。ワンダとヘッダのストーリーは第54章で、「これで一件落着ね、これで刑務所行きは確定」と二人が言うように、ダグラスの犯行の物的証拠を手にしたところで終わっています。その後ダグラスがどうなったかは、次の第55章で短く記述されているのみです。 第55章では、86件の容疑で起訴されていたダグラスは肺炎のために息を引き取ったことが明かされます(604頁)。結局ダグラスは虚言を駆使して人々を欺くことはできても、病気には勝てなかったというのがダグラス・カットビーの末路です。 このように、その他の蜘蛛の巣のように張りめぐらされた大勢の登場人物たちのストーリーを括弧に入れて、構造的視点からシンプルにして見れば、この物語は、大きく二本の軸を中心にして組み立てられている―かなり乱暴なことを言っているのは承知していますが―と言うことができるでしょう。その登場人物たちにも各々に相応しい結末が用意されており、こうして物語は終局を迎え、最終章である第56章がはじまります。 ここまでが『虚言の国』のすごく大まかな骨組みの概要になります。 では最終章である第56章では何が語られたのでしょうか? 冒頭のアンジーの願いはこうです。 つまり― 『私は、「あなたが私という人間のことを少しでも信じるようになってくれているといいと思う」である』 ではボイドは変わったのでしょうか、変わったとすればどう変わったのでしょう? それがこの物語の最終的な焦点になります。 アンジーはボイドに尋ねます。 「まだ嘘をつくのをやめないわけ?」(609頁) ボイドの答えはこうです。 「答えはイエスであり、ノーだ。これは長期にわたるプロジェクトだと言うことができると思う。ぼくはときどき小さな嘘を自分がついていることに思い当たる」。 ここには、冒頭の自己紹介「嘘つき中の嘘つき、虚言症の権化」という過激なボイドは消滅し、それとは別のもっと穏やかなボイドの存在を感じ取れます。 そしてボイドはつづけます。 「息を大きく吸い込み、やり直す」と。 「いいわね。やり直すというのはひとつのスタートだから」、とアンジーもボイドに同意します。 ボイドはアンジーに「やり直す」ことを決意した旨を告げます。そのことはボイドがアンジーを信じるようになったから、―もっと言えばアンジーを愛するようになったから― 決意を伝えたのだということになるでしょう。 この後、「多くの点で、彼らは一緒にいて心地よかった。二人の間の何が変化したのか、それを指摘するのはむずかしかった」(610頁)という記述がきます。 ここで「彼ら」と言っているのは筆者です。筆者が登場し、二人の間に「変化」があったことを認めていることになります。それも、何が変化したのか筆者自ら「それを指摘するのはむずかしかった」と告げます。 この後、筆者はアンジーに「私は伝道師(ミッショナリー)なの」(611頁)と言わせます。 この物語の中心にあるのは「虚言症」という一種の強迫観念に憑りつかれていたボイドのストーリーであり、物語の216頁の言及によれば「それは英雄神話であり、旅の神話であり、贖(あがな)いの神話であり、大いに誇張された、等身大以上の『末永く幸福に暮らしました』式の神話である」ということになります。今一度要約すればこの物語は神話であり、そこではアンジーという伝道師にボイドが虚言症という病から救われ、二人は末永く幸せになるお話、と解釈できるのではないか、と考えました。 アンジーは言います。「あなたはずいぶん良くなったわ、ボイド。地球上でいちばんラッキーな人よ。あなたはもうほとんど独り立ちできる」(612頁)。 「それはラッキーという以上のものだったよ、アンジー」 「そうかな?」 「きみのおかげだ」と彼は言った。 冒頭、第2章ではアンジーはボイドに向かってこう言っていました。「あなたには精神的障害がある」(15頁) それが終わりでは「あなたはもうほとんど独り立ちできる」に変わりました。そしてボイドは、「きみのおかげだ」とはっきりアンジーに感謝を示してさえいます。 感謝を示すボイドの「きみのおかげだ」の一言に、「あなたが私という人間のことを少しでも信じるようになってくれているといいと思う」というアンジーの願いが報われたことが伝わってきます。 そしてボイドはすでにアンジーを信じ、愛しはじめていることも伝わってきます。 あなたは教会に通うつもり? そのつもりだ。教会は大嫌いだけどね。それは見事な罰なんだ。(612頁)。 もともとアンジーは自らこう言っていました。 「私はアンジー・ビング。私は教会に通っている。お祈りの仕方も知っている」(300頁)。 少なくともアンジーは登場したときからずっと、この物語の他の登場人物たちのように、「虚言症」という病に冒されている「嘘つき」ではありませんでした。アンジーの言う言葉は本当のことでした。ボイドは、そのことがわかったから一緒に教会に通うことを約束したことになります。 これはボイドがアンジーを愛するように変わったことの証といえます。いやそれ以上に、この言葉は「見事な罰」を認め、その罰を受け入れたボイドからアンジーへのプロポーズにさえ聞こえます(「アンジー、お前一人だけに教会に通わせないよ。これからは一緒に教会に通うことにしよう」、という「見事な罰」を受け入れたボイドの意図が伝わってくるからです)。 この物語は、愛は虚言の対極にあることを示しています。虚言者は相手をリスペクトしません。だから平気で嘘をつけます。しかし口先だけの愛ではなく、魂のレベルの愛―これを本当の愛と呼ぶなら―は、双方のありのままに信じ合う気持なしには生まれません。そこに嘘が入り込む余地はありません。物語はそのことを教えているのです。 | ||||
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| 難しい | ||||
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| 日々唖然とさせられるアメリカ、世界一の経済力、軍事力を背景に「脅し」で世界を蹂躙、屈服させようとしているアメリカ。 ヒットラーやスターリンがやったことと変わりないか、それ以上か?!(戦争自体は儲からないし、ノーベル平和賞や史上最も偉大な大統領という尊敬、崇敬が得られないので興味がないようですが) 冷酷全体主義の習近平が賢人に見えてくる。 「節度や慎み深さ」など吹き飛ばされ、「嘘だど知りつつ、その嘘を受け入れる」現在アメリカの病理を抉り出していきます。 「嘘八百リスト」ができるほどの主人公が、「頭がいかれている」小さくてかわいい自称伝道師と、銀行強盗から出会い、長い長い旅へと・・そして再生していきます。奇妙なゆるい冒険活劇。雑多な登場人物たちが活き活き、リアルに描かれ、飛び回っています。 久々に傑作を読みました。 圧倒的な現実の狂気を前にしては、ただの戯言と嘲笑われるだけでしょうが、爪痕は残せるかと思います。ポピュリストたちは興味もなく見向きもしないでしょうが。 | ||||
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| 614ページのボリュームだったけれど長編小説というよりドラマのノベライズのようで逃避行と追跡劇がぐるぐると巡りめぐりスピーディーで読みやすい。ドゥーニーに復讐しなくてよかったのか?ランディーとの対決は必要ではなかったか?と強く思う。 最後、アンジーと強烈に交じり合ってもよかったと思うけどそれだと村上春樹作品になっちゃうか。 | ||||
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| ある男が、銀行を強盗し、人質を取って逃亡し・・・というお話。 登場人物が多く、互いに絡まったり、絡まなかったり、発言も真実かどうかよく判らなかったり・・・という判読するのに骨の折れる作品でしたが、そういう風に互いが信用できない、自分も信用できない、誰を信用すればいいか判らない時代を総括して、「虚言の国」というテーマやタイトルにした作品に思えました。最後の方に出てくる、コロナも人によっては謀略とか、ワクチンも効かない、という啓発活動をしている人も駅などで見ましたが、アメリカやそのほかの国でも、そういう問題を孕みつつ、結局効果的な対処法が見つからずに収束するのを待つ・・・という感じだったので、政府や国家も信用できない、という現代の問題をテーマにした作品とも思いました。 前の大統領が嫌いで、今更に嫌がられる人が大統領に再選されましたが、アメリカの場合、国が絶対に正しい、最強と思いたい方も多いみたいで、「トップガン」という映画も、アメリカがよその国を、主権を侵害して爆撃するという内容でしたが、アメリカが正しいので、爆撃するのも正しい、という内容で大ヒットしたみたいで、大統領も国粋主義っぽい人がなるのも、さもありなん、という感じですよね(ただ、爆撃する国の名前がはっきりでてこないのが、ポリティカリィコレクトみたいで)。 今までのこの人の作品で、ベトナム戦争をネタにしたものが多かったので、戦争の事しか書かない、書けないとおもっておりましたが、この作品はあまり戦争の話しが出てこないので少し意外でしたが、普通に面白かったです。 著者のオブライエンさんは、加齢か他のことで手に問題があり、これが最後の作品らしい、と村上さんのあとがきに書いてありますが、まだ活躍してもらいたいですね。健康上の問題なら、しかたないですが。 この作品を読む人で、①村上さんのファン、②オブライエンさんのファン、③海外小説のファン、という風に大雑把の分かれるかもしれませんが、私の場合は三つとも含めて読みました。オブライエンさんは「カチアートを追跡して」が面白かったので、これで興味がでた方にお勧めしておきます。 嘘が渦巻く世界を俯瞰した感じの作品。是非ご一読を。 | ||||
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| これまで日本語に訳されたオブライエンの作品をすべて読み、すべての作品に大きな感銘を受けてきた者にとっては、待望の新作である。前作「世界のすべての七月」から約20年。数年前にノンフィクション作「戦争に行った父から、愛する子供たちへ」(名作!)が刊行されてはいるが、本当に久しぶりの長編だ。しかも、本国での出版から約1年後に、村上春樹氏の名訳で本書を読めることは、本当にうれしいことだ。 しかし、読み始めてすぐ、オブライエン氏の文体の変化に大いに戸惑うことになった。全体が56の章に分けられており、興味深い幾つかの事件が起こり、登場人物の抱えている秘密が徐々に明らかになっていく。読みやすい。新作は、会話主体、しかも気の利いた印象的なセリフを主体にして物語が進む。まるでスティーブンキング作品のようだ。文章を読むスピードと物語が展開するスピードが同じで、ドキドキの読書体験が得られる。 しかし、違うのだ。これまでのオブライエンの文体の特徴は、会話よりも、グダグダとした登場人物についての説明や描写の書き込みにあった。その記述の間は、ストーリ展開は停滞するが、その文章にひたることによって読者は独特のオブライエン的な世界にどっぷりと浸ることができた。今回の新作には、それがない。 そもそも、本作は村上氏もあとがきで指摘している通り「シリアスな喜劇」として書かれているようだ。物語は、銀行強盗や殺人、金融犯罪を軸にしながら進んでいくが、ご都合主義的に破滅が回避されたり、逆にあっさりとした死が訪れたり、リアリティを無視した「喜劇」として描かれている。そもそも現実のアメリカで起こっている様々な悲惨な事件が、ある意味で非リアルな喜劇と化していることを反映しているのかもしれない。 新たなオブライエン作品を読めた喜びと、その変化に戸惑いを感じた読書体験であった。文章の密度を楽しむのではなく、「セリフ」の面白さに着目した、また別の味わい方をすれば、評価も変わっていくのかもしれない。軽めではあるが、世界になじめない者に寄り添うような物語であり、一読の価値は十分ある。 | ||||
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| なかなか分厚い本ですね | ||||
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