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(短編小説)
海と毒薬
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海と毒薬の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.35pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全84件 61~80 4/5ページ
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面白かった。私にとっては昔々のお話ですが、、生々しく読んでいて時代背景や、人物像が手に取るように理解でき深く引き付けられました。 | ||||
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以前購入した本が行方不明になり、再度購入しました。新たな発見がいろいろありました。 | ||||
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久しぶりに読み返しました。きっかけは映画の沈黙を見たことです。以前はただ暗いと思うところが多かったのですが、どの人物に対してもそういう風に思えないことはない気がしました。 勝呂さんは正直だったのでしょうし、戸田さんも人生の中での選択だったのでしょう。彼の子供時代のエピソードについても納得できる気がしたのは年をとったせいかしら…。 みんなに死んでしまうこの時代だからこその狂気であったろうと信じたいところですr。 | ||||
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九州大学の生体解剖事件を描いた中編小説です。どよーんとした生理的な不快さが全体を包み通しています。誰がみても不条理で重大な犯罪なのに、大学の医学部の派閥とか陸軍との関係とか、敗戦前の投げやりな雰囲気もあるのか、誰も止めようとはしない。 ひたすら小さな日常の出来事の延長線の細かな出来事だ、と参加者たちが思い込もうとしています。もちろん、そんなのウソってわかっていながら、無理に信じようとする小心者たち。一人ひとりの過去の姿も挿入されていますが、特に悪い奴がいるわけではありません。団体行動の中に自分の責任を忘れ込もうとする行動が典型的な悪い形で表れています。企業の不祥事などによくあるパターンですね。 気持ちの悪さの表現が随所にあふれています。例えば、「煙草特有の紙臭い臭いがたちこめ、それが炭火の臭気とまざって勝呂の胸をムカムカさせた。」など。 | ||||
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個人の気持ちの中にある良心もややもすれば、流されてしまいそうになるが、踏みとどまりたい時もある。 | ||||
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小説ではあるが、リアルな昭和史の一片として読み進めた。あの時代を生きた人たちの多くが口には出来ない体験がトラウマになっているのではないかと勘ぐってしまう。 | ||||
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週末の2日間で読み終えた。遠藤周作さんの小説は今までに読んだことがなかったのだが、案外読みやすい文章だった。 小説を読んでいて、現在の私に何かしらのテーゼというか問いかけを感じる作品だった。また、物語の進め方が凝ってあり、読み応えがあった。エンターテイメントとして読むよりは、大きなテーマに向かって自問自答を繰り返しながらの読書でした。 | ||||
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罰とは社会的または具体的な刑であって、それを免れれば無罪放免だと思ってしまう。罪を犯しても良心の呵責に苛まれない自分を不気味だと思ってしまうことは、罪の大小はあれ誰にでもあるのではないかと思います。 日本人の残虐性は神を持たないからなのでしょうか。神を持たないから戦争中のような洗脳を受け入れてしまうのでしょうか。 自分の心の中を美化しない人たちの告白が良かった。 | ||||
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私は韓国人の小説家が書いた「マルタ」という本を読んだことがある。この本のメインテーマは日本陸軍731部隊が満州で行った生体実験であった。この作品は実話に基づいてはいるが、フィクションであるため事実とは異なる部分が多いと思い、私は実際どのような実験が行われたか調べてみた。彼らは1936年から1945年にかけ、中国・朝鮮人3000人ほどを対象に言葉では表現できないほどの残酷な実験を行っていた。しかし、「海と毒薬」をよむまで、このようなことは植民地であるため行うことができたと思っていた。 この本は戦中九州で行われた人体実験をもとに書かれたフィクションである。作中では帝国大学ではなく、F市の大学病院が作品の主な舞台である。作者はこの惨状をおもに三人の登場人物の内面描写、彼らの視線から見る他の登場人物の姿、考えを想像することで生々しく描いている。GHQから解放されて間もない1957年にこの小説は書かれた。今でも日本は自己の歴史を明らかにすることを好まない事実を踏まえてみると、戦後間もないこの時期に戦前・戦中の日本に向かってこのように批判的な眼差しをもったということ自体もとても評価すべき点ではないだろうか。 主な登場人物は人体実験に参加はしているが人道的な罪責感にとらわれてしまう勝呂、幼年時代から多くの悪事を行いながら一度も罰を受けたことのない、罪責感など抱いたことのない戸田、満州移住労働者と結婚をしたが失敗し、再びF市の大学病院にもでってきた上田看護婦である。各々違う価値観を持つ彼らがこの実験の惨状を、当時の日本人の過ちを生々しく伝える。その表現一つ一つがとても斬新で奇抜なものであり、何度も思わず感嘆してしまった。私が一番斬新だと思った部分は勝呂が生体実験に嫌悪感を覚えるが、一個の医学生にすぎない自分無力感を感じ、挫折する場面を描写して部分である。「(生体実験を行っている手術室の中で)できることなら手を上げて前に並んでいる将校たちの肩を突き飛ばしたかった。親父の助骨刀を奪いたかった。だが目を開けた彼の前には将校たちのいかつい肩ががっしりと幅広く並んでいた。その腰に下げた軍刀も鉛色に鈍く光っていた。」軍人のがっつりした肩をどうしようもない自分の弱さを表現するための手段として使ったところが非常に新鮮な描写だと思った。また、話を語る人物が変わるごとに文章の雰囲気が変わり、暗鬱な雰囲気をそのまま我々読者に伝えてくれる。 夏目漱石が国民作家として認められる理由は単に優れた文章力、あるいは素晴らしい文を構成する能力を持っていたからではないと思う。彼は当時の日本を国際的な目線で鋭く批判した。いい作品とは、文章・内容がいいだけでなく社会・政治的に大きな意味を持ってからこそ生まれるのではないだろうか。私はこの作品を迷わず傑作だと言いたい。 | ||||
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遠藤周作の作品は狐狸庵閑話など、一連の軽めの作品を読破した後に本作、「沈黙」等の他のキリスト教関連の 小説に進まれるのがよろしいかと思います。いきなり、「海と毒薬」や「沈黙」から入門すると難解に思われる かもしれません。私の場合、ちょうど大学病院での入院生活を経験した直後に出会ったので、年代の格差はありますが 自分が勝呂医師になった気持ちで入り込めました。 重いけれど、遠藤的な良質の作品です。 | ||||
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実話をベースにしたフィクションである海と毒薬。 これは人体実験というあるまじき行為を糾弾する話ではない。 その人体実験に関わった人間の心模様を通して、 罪とは何か、日本人という人種の呵責の根源とは何なのかという、 意識の所在にスポットを当てた作品である。 我々の社会は罪刑法定主義社会。 確固とした法定刑がなければ、どんなことをしても罪にはならない。 裏を返せば人間社会というものは、刑罰への恐怖や痛み苦しみ、 広くは世間の目や世間の非難などに晒される苦痛などがなければ、 どんな醜悪な事でも平気で行えてしまう残虐性があり、 社会としての秩序も保てないということだ。 殊更日本人は、無宗教無信心であることが正しいことであり、 新興宗教の怪しさの類いですべてを捉え、心の骨子さえ無くしている。 呵責の念というものも、行為自体に目を向けたものではなく、 定型化された社会のルールにはみ出し、 この社会で自分という人間が生きづらくなってしまったという後悔に他ならない。 ニーチェもこう書いている。 「道徳的なふるまいをする人が、本当に道徳的であるとは限らない。 世間体の為だけに、単に従っているだけかもしれない。」と。 海と毒薬は正にその言葉を小説として描き、 神無き人種、日本人の無感動と不気味さを見事に表現した。 遠藤周作というクリスチャンは今、 空からこの国をどの様に見つめ、どの様に思っているだろうか・・・ | ||||
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遠藤周作の「沈黙」を読んだことで本作を読むことにした。 遠藤の作品は狐狸庵物ばかり読んできたので、「沈黙」は新鮮に読めた。続いて読んだ本作で 今更ながら遠藤という作家のシリアスさが良く分かったところである。 本作の表題は「海と毒薬」である。 「海」は本作では繰り返し描かれる。登場人物を飲みこんでいく「暗い海」は本作の主人公の 一人だ。その「暗い海」とは第二次世界大戦の暗喩であるとも言える。また登場人物一人一人の 心象風景かもしれない。「暗い海」をどう読み取るかは読者の自由に任せられている。 それでは「毒薬」とは何なのだろうか。 本作の登場人物に共通しているのは、ある種の「悪意」である。遠藤なら「罪」と表現するのかも しれない。時代や状況に流されて「暴力」をふるってきている姿はどの登場人物にも見られる。 ここでおそらく気を付けなくてはならないのは「本当に時代や状況に流されていることが、かかる 暴力の原因なのか」という点なのだと、僕は思う。一見、強いられて暴力を振るっているかのように 見えるが、本当は時代や状況を利用して、元々人間の心にビルドインされている「暴力」を解き放っている だけではないか。そんな「暴力」を「毒薬」と呼んでいるのではないか。僕にはそう読めた。 本作も怖ろしい作品と言える。遠藤が「沈黙」や本作を通じて何かを凝視している姿が目に 浮かぶ。その凝視には彼が由っていたキリスト教もあるのかもしれない。信者ではない僕には そこは分からない。 | ||||
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九州大学病院で実際に行われた生体解剖事件を題材にした小説。小説に出てくる人物は架空の人物である。だが、その場の空気に支配され、主体性をもって責任ある行動をとるということができない日本人の特性は実によく描かれている。登場人物の内心の描写こそがこの小説の文学的価値を高めているのだが、これも創作であるとしても、日本人なら誰もが、自分がこういう場に立たされた時に、彼らと同じ行動をしてしまう可能性を感じるであろう。平成の読者にもぜひ一読してほしい小説である。 | ||||
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中学受験に引用されることがあるそうです。 小学生が読むんですね~ | ||||
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人が罪を犯すのはどのようなときか。その例示の一つがこの海と毒薬だろう。勝呂にしろ上田にしろ、もうどうでもいい、という諦めのなかにいる。戦地、空襲、病院、どこも諦念に満ちている。このようなときに、ふと流されてしまうのだろうか。特に、すべてを見ている神の概念が希薄な日本人にとってはなおさらだろう。このどうでもいい、の感覚が社会に蔓延しないようにするのは、政治の大事な役割ではないだろうか。 | ||||
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以前、高校時代になんとなく読んだ記憶があったのですが、四十後半になり、改めて読みたくなり、購入しました。 やはり、重い内容ですが、読んでよかったと思いました。 映画を見るかどうか、悩んでます。 | ||||
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戦後の東京郊外の新開地への引っ越し、その埃っぽい駅前通り、戦時中のそれぞれの過去を胸に秘める住民たち、胸を病む主人公、そこでのある医師との出会い、そういったこの小説の導入部が秀逸だ。米軍捕虜を人体実験で殺した者どもの精神遍歴、その罪と罰については、それに至るまでの事実関係は十分に読み込めるにせよ消化不良気味で中途半端だ。しかし、読者としては健康な捕虜の肉体を切り刻む者たちの精神など聞きたくもないし、その事実関係のみを知ればそれで良いので小説としては成功と言っていい。 | ||||
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遠藤周作の本を探して居たので見つかってとても良かった。気に入って居る。 | ||||
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初めて遠藤周作氏の作品を読んだが、あまりの重苦しさに閉口した。 良心や信仰心のあり方から日本人とは何かを明らかにしようとした著者の意志の力が、胃の中の鉛のように重苦しい描写を産んだのだろうか。 ページをめくるごとに、この短い小説そのものが読者の良心を試す踏み絵のように思われた。 ジョージ・オーウェルの「1984年」以来の胸糞悪い読後感を味わったが、普遍的な人間性のあり方を捉えようとしたという意味で、オーウェル作品と同じように、一級品の文学作品であると感じた。 導入部が全体の構成から浮いていることはご愛嬌だろう。 何故人を殺してはいけないのか、答えが垣間見える読書となるだろう。 是非とも一読してほしい一冊だ。 | ||||
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戦争末期におきた一つの事件を題材にした中編。物語は、複数の人物の一人称による語りと三人称による記述とで構成される。視点の変化によって事件の「風景」が際立つ。 ある年代よりも下の世代のものにとっては、軽い随筆に長けた「狐狸庵先生」だったり、インスタント珈琲のテレビコマーシャルの中の「違いのわかる男」だったりと、洒脱な印象に親しみがある著者の、純文学作家としての作品である。「狐狸庵先生」が、著者が自らのために創造したキャラクターだとすれば、本書は、純文学者としての著者自身の思いを強く投影している。扱われている題材はセンセーショナルであるが、作家性の高い創作性こそに本書の価値はある。 著者は、中盤では親鸞聖人の和讃を引用する。「五十六億七千万 弥勒菩薩はとしを経ん まことの信心うる人は このたび燈をひらくべし」 三木清はその著書「親鸞」の中でこう書いている。「自己を時代において自覚するということは、自己の罪を時代の責任に転嫁することによって自己の罪を弁解することではない。時代はまさに末法である。このことはまた時代の悪に対する弁解ではない。時代を末法として把握することは、歴史的現象を教法の根拠から理解することであり、そしてこのことは時代の悪を超越的な根拠から理解することであり、そしてこのことは時代の悪をいよいよ深く自覚することである。かくてまた自己を時代において自覚することは、自己の罪を末法の教説から、したがってまたその超越的根拠から理解することであり、かくして自己の罪をいよいよ深く自覚することである。いかにしても罪の離れ難いことを考えれば考えるほど、その罪が決してかりそめのものでなく、何か超越的な根拠を有することを思わずにはいられない。この超越的根拠を示すものが末法の思想である。」 時代の中で摩耗する心を暗い闇の物語として作者はどのように描いたのか。その闇の奇妙なリアリティこそが本書のもっとも特質すべき点だろう。 | ||||
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