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春琴抄
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春琴抄の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.53pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全85件 21~40 2/5ページ
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女王様萌えにはたまらないのか…? よく分からない。ツンデレなのかもしれないが、「デレ」の部分は書かれていない。 | ||||
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谷崎文学の検証 | ||||
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盲目の地唄の名手・春琴は丁稚奉公の佐助と心を通わせていく。そんなある日、お琴が顔に熱湯を浴びせられるという事件が起こる。そのとき佐助は――。異常なまでの献身によって表現される、愛の倒錯の物語。 | ||||
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ノーマルではなくても当人同士が納得できてそれが幸せならば周囲の人の常識なんて関係ない!と思わせるような物語でした。何というか多分、お互いこれでいいんじゃないでしょうか。好きな人と一緒にいられたんだから佐助は可哀そうという人もいるけど自分はこの人は幸せだったんだと思う。 | ||||
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主人と使用人、師弟関係の身分違いの恋愛云々ではなく、崇拝の域に達してもはや愛では語れない男女の物語。 段落なし、句読点もあまり使わずして美しい文章故か。イヤらしくない耽美な世界を一度堪能あれ。 | ||||
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『春琴抄』 春琴と佐助の愛の形。 世間には、愛なんて目には見えないという見方もあろうが、 二人には見えていた。 殊に、佐助の失明後にはよりはっきりと見えていたことであろう。 参照している文献があるため、時折伝聞の語り口になり、二人の世界から離されてしまうのが 個人的には残念であった。 ただ、短い中にらしい美しさが散りばめられ、 心地のよい作品であった。 | ||||
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読者諸賢は首肯せらるるや否や。これが本編の結語である。 特異というべき主人公二人の関係を綾なす語り口で綴り、最後にポンと投げ出すようにして締め括られる。 小説技法の冴えと同時に、谷崎の傑作をものしたという漲るほどの自矜を感じる。 谷崎自身(本作は松子夫人との関係性をフィードバックしていると言われている)だけでなく、今時の世の中では非難されるであろう、こういう芸術至上主義的な生き方を、昔の作家さんはしてたんでしょうなあ。 | ||||
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大文豪・谷崎潤一郎の代表作の1つ。昭和八年(一九三三年)発表。 あまりにも有名な話なので、ネタバレ気にせず個人的な感想を。 私自身は、 「みんないっしょであって、しかもみんなちがう。 これが自然の理であり、また人の世というものであろうか。」 (松下幸之助「続・道をひらく」より)という考え方の人間です。 そんな私からすれば、この「春琴抄」は同化欲の物語です。 まず、佐助について。 「(前略)何かにつけて彼女に同化しようとする熱烈な愛情がなかったならば(後略)」(P24) という記述があることから、佐助には同化欲がある。 では、春琴はどうだろう。 春琴は、佐助の子を身籠ることから、佐助に対して好意を抱いていたのだろう。 また、春琴は、佐助が目を潰した後、こう語っている。 「(前略)よくも決心してくれました嬉しゅう思うぞえ、 私は誰の恨みを受けて此のような目に遭うたのか知れぬが ほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を外の人には見られても お前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました。」(P82) この個所からも、春琴が佐助に好意を抱いていたのが感じられる。 つまり、目潰し前も、目潰し後も、春琴は佐助に好意を抱いていたのだろう。 だが、疑問はある。 なぜ、春琴は佐助を折檻していたのだろう? なぜ、二人の心は通じ合わなかったのだろう?と。 佐助が目を潰してからは、二人の心が通じ合い、話に「愛」らしき雰囲気が漂ってくる。 ということは、春琴は、佐助が目明きであることを受け容れられなかった、 すなわち、違いを受け容れられなかったのだろう。 結局、(佐助が目を潰す前の)春琴も、同化欲の人だったのだと思う。 そう考えると、「同化欲が満たされると、愛が芽生えるのだろうか?」 「高過ぎる同化欲は、愛の妨げとなるのだろうか?」なんて考えたりもする。 人と人とが一緒に何かするには、共通のルールや共通の理解など、 ある程度の共通性は求められ、それは同化と言い換えることもできるだろう。 ただし、過度の同化要求・同化欲求というのは、支配・被支配となり、 不寛容へと繋がり、結局、互いを傷付けることになるのではなかろうか? 谷崎が「彼女に同化しようとする熱烈な愛情」(先のP24の引用)と記しているのには、 「同化欲 = 愛」「同化欲礼賛」という感じがして、怖い。 日本人らしさの結晶のような作品だと思う。 特に、日本人論の本を読んでいる人には、 この「春琴抄」と「蓼喰う虫 (新潮文庫) 」の2点を、強く薦めたい。 | ||||
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初めて谷崎を読みました。 とてつもない、「風景の鮮明さ」ということに尽きます。 文体は独特の読点「、」で刻んでいくモノになっていますが、流れるような美麗体でうっとりします。 春琴の佐助に対する"仕打ち"は、まるで読んでいるこちらのほうに、三味線のバチが飛んでくるよう・・・。 晴れて"同族"となった佐助と春琴のランデブーは、なんとも言えない「人間の極限の愛の姿」を感じます。 | ||||
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大変綺麗な状態でした。汚れ等もなく、価格を考えるとかなりお買い得で良かったと思います。文芸作品がこのような価格で入手出来るのはいいですね。 | ||||
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昭和8年6月の「中央公論」に発表された、谷崎の最も人口に膾炙した作品です。 句読点、漢字や仮名の表記についてすこし抵抗感を覚えるかもしれませんが、慣れてしまえば却っていわゆる普通の文章よりスムーズに読め、あらすじではなく、その文章に由来する、ゆったりした波にたゆたうような浮遊感がこの上なく心地よく感じられます。気に入った箇所を反芻しつつ読んでも3時間ほどで読み了えることもあって、谷崎の中で最も繰り返し読んだ作品です。 | ||||
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サディスティックな師匠、春琴に献身的に仕える佐助。愛し合う男女が必ずしも結婚という形態を取らずとも、このような愛の形があってもいいと深く納得できた。燃え立つような想いを胸に秘めながら、相手に己の欲求を伝えることなく生涯を終えた佐助。私も1度でいいからこういう愛を貫いてみたい。ただ、佐助が自分の目を針で突き刺して、師匠の醜くなった顔を見ないようにする場面は、少々行き過ぎた行為かな? と疑問を持ちました。もちろんこれは小説なので、あくまでもフィクションとして読むにはいいのですが、ちょっと現実離れしている。 | ||||
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明治初期の物語だから、今ではもう廃れてしまった(と思われる)風習などが 出てくる。例えば、春琴の趣味である鶯道楽。鶯を師匠の鶯につけて鳴き方を稽古 させるらしい。春琴の飼っていた鶯「天鼓」の美声などは、 ・・居ながらにして幽邃閑寂なる山峡の風趣を偲び、渓流の響きの潺湲たるも・・ と表現されている。潺湲(せんかん)とは水がさらさらと流れる様子をあらわし、 今日日なかなかお目にかかれない言葉である。そう言えば、谷崎の京都での住居は 潺湲亭と名づけられていたから、谷崎はこの言葉が好きだったようだ。家にこもって 芸事に励むあでやかな春琴のすがたを谷崎は鶯に仮託したのかもしれない。 物語は、大きな墓とそれによりそう小さな墓の記述から始まる。大きな墓は 三味線の師匠春琴の墓。小さな墓はその門人の温井佐助のもの。この二つの墓は 春琴の尊大さ、佐助の卑小さを象徴している。 ・・それを見ると生前検校がまめまめしく師に仕(つか)えて影の形に添う ように扈従していた有様が偲ばれ恰も石に霊があって今日もなおその幸福を 楽しんでいるようであった。・・ 実に思わせぶりな表現。有名なこの本は幾様にも読むことができる。 男と女の愛、師匠と弟子の愛、嗜虐者と被虐者の愛などいろいろ考えられる。 春琴(=鶯)のあでやかさにだまされて、春琴がこの本の主人公と思いがちだが、 私は(この冒頭の墓の大きさとは逆に)この本の主人公は圧倒的に佐助であり、 春琴は添え物にすぎないと感じた。 佐助は不思議な男である。若いころから春琴とはからだの関係があるが どうもそのことを、自分の主筋にあたる憧れの存在の春琴を自分のものに しているということをそれほど嬉しく感じていないようだ。むしろこの本のなかで 佐助が「楽しさ」(=愉悦=魂のオルガスム)を感じるのは、 例えば、暗闇で三味線の練習をするシーン ・・こいさんも亦此の闇の中で三味線を弾きなさるのだと思うと、自分も 同じ暗黒世界に身を置くことが此の上もなく楽しかった・・ それと自分の目を針でついて盲目になった直後のシーン、 ・・佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思していた 佐助は此の世に生まれてから後にも先にも此の沈黙の数分間程楽しい時を いきたことがなかった・・・ 佐助は春琴になりたかったのではないか。谷崎のまったりとした粘液質の文体で、 春琴と佐助は(ダリの絵のように)とろとろに溶けて一体化する。 春琴はひとりの平凡な女性にすぎず、佐助はひとりよがりの「しあわせな」人生を 実現するために春琴を利用した究極のエゴイストではないのかと思ったりもした。 | ||||
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純愛ってこういうこと、だろうなって思う。強烈にエロいです!谷崎潤一郎の作品の中でもサクッと読める。 | ||||
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一見、小説風ですが、独特の雰囲気があり、ポーなんかを思わせるものがあります。目を潰す、というのも、小説としてはモーションが大きいですが、ミステリーやおとぎ話と考えた方が嫌みはないし、しっくりときます。 | ||||
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もう何十回も読んでいます。そのたびに感嘆します。今回は春琴が佐助に操られている人形のように読めて、かわいそうでした。 | ||||
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平成20年出版の中古本ですが、まるで新本のようで、本の形容を全く気にせずにじっくりと読みふけることができました。感謝感謝です。 | ||||
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句読点を極力使わない流れるような文章は読みやすく美しい。 もっと難しく書くこともできたはずだが、完全にコントロールした形で あえて日本語の美しさを表現して見せた究極の小説ということができるかもしれない。 内容よりも谷崎の底知れない文章力に驚嘆する作品であると思う。 | ||||
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ほんとうの愛とはこういったものか、と思わせる物語でした。一気に読み終えました。 | ||||
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『春琴抄』は本文が100ページにも満たない短い小説ですが、谷崎文学の中でも屈指の傑作だと思います。 この小説は、三味線の才能に恵まれた盲目の春琴と、苛烈な性格の春琴に仕える佐助の深い愛の物語です。師弟関係や盲目という設定を活かして、献身やプラトニックな愛の醍醐味が巧みに表現されています。愛する女性に従属する苦しみと、愛する女性に身を捧げることによって得られる悦びが、短いページの中に凝縮されています。 私はこの小説を読んで、肉欲にまみれた「性」ではなく、目に見えない精神的な「愛」の美しさに感動しました。目に見えるものが壊されても、滅びるどころか一層輝く愛や幸福の素晴らしさに気付かされる感動的な物語だと思いました。 | ||||
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