【大江健三郎】
万延元年のフットボール
評判
万延元年のフットボールの評価:
4.17/5点 レビュー 64件。 A ランク
Amazonレビュー一覧
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全207件 121〜140 7/11ページ
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| 大江健三郎の代表作である。 故郷をもたないものの聖典である。 冒頭から、異様な雰囲気と、異常な文章の連続で、読者は混乱するであろうが、全体的な文學的構造は、さほど、複雑ではない。主人公たちの名前が、翻訳家の《根所蜜三郎》、蜜三郎の愛妻でアルコール中毒の《根所菜採子》、蜜三郎の実弟であり、左翼運動に蹉跌して右翼に転向した《根所鷹四》、というように、三人とも《根所》という苗字であることからも、三者三様に、《根っこの場所》=《故郷》を冀求する物語であることが察知される。 冒頭で、主人公である蜜三郎は、自宅界隈に穿鑿された、貯水装置用の空洞に蟄居して、《世界は存在しない》という《期待》に裏切られる。本作の主題が、《アイデンティティの喪失》および《アイデンティティの根源である故郷の喪失》であることが予告されることになる。蜜三郎が空洞に逼塞していたのは、精神に障碍をきたして療養していた翻訳家の友人が、暗澹たる自殺をしたことかららしい。蜜三郎が、翻訳を生業としていたのも、主題にかんがみれば、《世界を自分なりに解釈=翻訳する》という、《現実の世界の否定》と《自分の世界の渇望》という、故郷の問題に帰着するのかもしれない。本作が、現代の日本を舞台としながらも、摩訶不思議なる異国の風景を描破しているような雰囲気に囲繞されているのも、《蜜三郎の翻訳した日本像》とみれば納得がゆく。斯様なる挑戦が、おなじく、翻訳家の友人の自殺で頓挫したわけだ。世界が消滅しないことを認識した蜜三郎は、アルコール中毒の愛妻菜採子のもとへゆく。ふたりのあいだには、脳髄に障碍をもった子供がいて、養育施設にあずけているらしいことがわかる。《根所》を喪失して、みずからが、あらたな生命の《根所》にならんとした挑戦も破綻して、夫婦生活は崩壊せんとしている。 軈て、亜米利加で左翼劇団に所属していた鷹四が帰国し、三人は、鷹四の友人達とともに、物理的な故郷である四国へ邁進する。根所兄弟の故郷では、《天皇》とよばれる在日朝鮮人によるスーパーマーケットが支配的な雰囲気となり、根所家の生家を隴断せんとしている。右翼に転向した鷹四は反撥し、《フットボール・チーム》を結成して、江戸時代後期の《万延元年の百姓一揆》を髣髴とさせるような、《天皇》への叛逆を蹶起する。 同時に、鷹四と《妹》の関係の謎や、在日朝鮮人に殺戮された《S兄さん》をめぐる謎がひもとかれてゆき、クライマックスでは、推理小説的仕掛けによるカタルシスに到達する。つぎなる生命のための《根所》となる決心をした菜採子、作中に登場する寺院の《地獄絵図》を《根所》としたともいえる鷹四、日本に《根所》を発見できず、阿弗利加への羈旅を決断する蜜三郎。此処で重要なのは、一人称の主人公である蜜三郎が最後に《根所》をもとめたのが、《人類の起源の大地》といえる阿弗利加である、ということである。斯様な挑戦が、成功するのか、失敗するのかはわからない。菜採子が本当に《根所》になれるのか、鷹四の闘争は無意味だったのか。大江健三郎の筆致は、戦後日本人の自我同一性の危機をとおして、根源にある現代人類の悲劇を爬羅剔抉している。 《小説は、彷徨者たちの家郷である》といった評論家がいた。 本作は、大江健三郎が大江自身の故郷をもとめた軌跡なのかもしれない。 | ||||
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| 大江健三郎の代表作である。 故郷をもたないものの聖典である。 冒頭から、異様な雰囲気と、異常な文章の連続で、読者は混乱するであろうが、全体的な文學的構造は、さほど、複雑ではない。主人公たちの名前が、翻訳家の《根所蜜三郎》、蜜三郎の愛妻でアルコール中毒の《根所菜採子》、蜜三郎の実弟であり、左翼運動に蹉跌して右翼に転向した《根所鷹四》、というように、三人とも《根所》という苗字であることからも、三者三様に、《根っこの場所》=《故郷》を冀求する物語であることが察知される。 冒頭で、主人公である蜜三郎は、自宅界隈に穿鑿された、貯水装置用の空洞に蟄居して、《世界は存在しない》という《期待》に裏切られる。本作の主題が、《アイデンティティの喪失》および《アイデンティティの根源である故郷の喪失》であることが予告されることになる。蜜三郎が空洞に逼塞していたのは、精神に障碍をきたして療養していた翻訳家の友人が、暗澹たる自殺をしたことかららしい。蜜三郎が、翻訳を生業としていたのも、主題にかんがみれば、《世界を自分なりに解釈=翻訳する》という、《現実の世界の否定》と《自分の世界の渇望》という、故郷の問題に帰着するのかもしれない。本作が、現代の日本を舞台としながらも、摩訶不思議なる異国の風景を描破しているような雰囲気に囲繞されているのも、《蜜三郎の翻訳した日本像》とみれば納得がゆく。斯様なる挑戦が、おなじく、翻訳家の友人の自殺で頓挫したわけだ。世界が消滅しないことを認識した蜜三郎は、アルコール中毒の愛妻菜採子のもとへゆく。ふたりのあいだには、脳髄に障碍をもった子供がいて、養育施設にあずけているらしいことがわかる。《根所》を喪失して、みずからが、あらたな生命の《根所》にならんとした挑戦も破綻して、夫婦生活は崩壊せんとしている。 軈て、亜米利加で左翼劇団に所属していた鷹四が帰国し、三人は、鷹四の友人達とともに、物理的な故郷である四国へ邁進する。根所兄弟の故郷では、《天皇》とよばれる在日朝鮮人によるスーパーマーケットが支配的な雰囲気となり、根所家の生家を隴断せんとしている。右翼に転向した鷹四は反撥し、《フットボール・チーム》を結成して、江戸時代後期の《万延元年の百姓一揆》を髣髴とさせるような、《天皇》への叛逆を蹶起する。 同時に、鷹四と《妹》の関係の謎や、在日朝鮮人に殺戮された《S兄さん》をめぐる謎がひもとかれてゆき、クライマックスでは、推理小説的仕掛けによるカタルシスに到達する。つぎなる生命のための《根所》となる決心をした菜採子、作中に登場する寺院の《地獄絵図》を《根所》としたともいえる鷹四、日本に《根所》を発見できず、阿弗利加への羈旅を決断する蜜三郎。此処で重要なのは、一人称の主人公である蜜三郎が最後に《根所》をもとめたのが、《人類の起源の大地》といえる阿弗利加である、ということである。斯様な挑戦が、成功するのか、失敗するのかはわからない。菜採子が本当に《根所》になれるのか、鷹四の闘争は無意味だったのか。大江健三郎の筆致は、戦後日本人の自我同一性の危機をとおして、根源にある現代人類の悲劇を爬羅剔抉している。 《小説は、彷徨者たちの家郷である》といった評論家がいた。 本作は、大江健三郎が大江自身の故郷をもとめた軌跡なのかもしれない。 | ||||
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| 以下は、ほとんど大江作品に接したことがない不慣れな一読者による率直な感想、という事でご理解ください。 語句が過剰・・・ 推敲のたびに追加したと思しき語句が紙面に膨れ上がり、それが却って書きたてホヤホヤの瑞々しさを妨げてしまっている。直観より意匠重視ということなのでしょうが、明らかに不要と思える語句も散見される。凝り性なのか、それとも読者の放恣な想像力による誤解を危惧しているのかは定かでないが、著者の執筆スタンスに、簡潔明瞭という四文字は皆無らしい。いずれにせよ語句が過剰という事は、裏を返せば、一字一句の重みを損ねることにも繋がりかねない。まさか、語句は多い方がいいと短絡的に考えているわけではないのでしょうが、少なくとも一字一句に情念を込めるタイプではなさそう。 奇妙な修辞・・・ 厖大な修辞が披露されているが、その数の異常ぶりに加え、幾重にも連なる修飾語句の遥か後方に到ってやっと肝心の被修飾語が登場する奇奇怪怪ぶりに目が廻り、慣れないうちは、妙味を堪能する以前に係り受けの解析に手間取ってしまう。この奇妙な修辞の大群に翻弄され、物語の本質的な理解から遠ざけられてしまったような気が・・・。そもそも修辞とは、ここぞという時に披露されてこそ効果を発揮するもので、本書のように大半が修辞というのは、それが個性で当時は画期的だったと云ってしまえばそれまでですが、さすがにやり過ぎの感が否めない。もともと修飾語句が多い海外文学の和訳ならともかく、日本語でつづられた作品でこんなに癖のある翻訳調の文体は初めてなので面食らってしまったと同時に、ここまでこのスタイルを貫く必要があったのかという疑問も湧く。しかも修辞の内容は、既にひどく時代を感じさせ、読んでるこっちが恥ずかしくなってくるほど野暮である。 同じ語句の執拗な繰り返し・・・ 本書は主人公=僕(蜜三郎)のモノローグが多いのですが、「僕」のモノローグであるのが自明な場面でもなぜか「僕」や「自分」という語が頻出し、だんだん鬱陶しくなってきたので試しにそれらをすっ飛ばして読んだところ、ちゃんと文意を汲み取ることができ、逆にスッキリ読めました。他にも、「頭を朱色に塗り ○ ○ に胡瓜をさしこんで首を・・・」とか、もう分かったからいいよ! と思わず叫びたくなる程しつこく登場します。なんかこういう重複語句や要らぬ修辞を削除して、分量を今の3分の2ぐらいに留めても、ちゃんと物語が成立するような気が・・・ 冗漫な文章・・・ 延々と続くわりに読点処理が少ない、贅肉だらけの締りのない文章が多い。それも、次の語句がさらに次の語句へと淀みなく受け継がれる流麗な文章ではない為しょっちゅう突っかかってしまい、その度に、こんがらかった釣り糸を解きほぐすようなもどかしさを感じつつ戻り読みを余儀なくされた。意図的に文意を分断して読者を煙に巻いているのでは? と勘繰ってしまう。文のリズム感や統一感といったものはもちろん皆無で、それはおそらく作者の思惑なのでしょうが、しかし私のような初読者にはひどく奇異に感じられ、ただ斬新奇抜ぶりを誇張しているようにしか見えなかった。 内容が難解というより文章が晦渋・・・ 平板な場面でも敢えて回りくどく描写して小難しく見せているフシがあり、哲学的な意味での難解さとは違うと感じた。何かこの世ならぬ情景や観念の描写であればおいそれと難解な内容にもなるのでしょうが、そういう場面は意外に少ない。ただ文章がかなり入り組んでいるので、内容そのものも深遠で難解と錯覚しがちにはなる。しかしこんな手法が本作の質を高めているとは到底思えず、私にはただのコケおどし、言葉で読み手を圧倒してやろうという魂胆が見え隠れする姑息な手法と映ってしまった。そりゃあ、無くても構わぬ語句までテンコ盛りにしたうえ、本来なら複数に分かたれるべき文を継ぎはぎして長たらしい一文にまとめ上げたりすれば、どんな文章だって晦渋になるでしょう。しかしいくら純文学とはいえ、無理やり晦渋にして高尚さを醸し出そうとするこの種の手法にはもうウンザリである。 動機が薄弱(含ネタバレ)・・・ 意表を突くためなのかも知れませんが、登場人物の行動が唐突すぎて釈然としなかったことが度々。細部の描写や修辞には凄まじいまでのこだわりが見られる一方、前後の脈絡や伏線と云ったより重要なものが乏しかったり不鮮明なため、よけいアンバランスに感じた。スーパーマーケットへの無法行為も、直近に火種らしき事件は起きてはいるが、十分に伏線が張られていたとは言いがたい。なんか首謀者(鷹四)の思想と村の史実(一揆・在日との確執)がこじつけられて予定調和的にどんどん事が運ばれていったはいいが、肝心かなめの動機が弱いし、そもそも集団行為を駆り立てるほどの原動力がこの村にあったのかどうかも疑問。この手の集団行為は、のっぴきならぬ状況に追い込まれなければ起こり得ないはずですが、村がそんな状況に追い込まれていたとはとても思えない。まあ当の主人公が無法行為に参画せず、尚かつ一人称語りの小説なので、その分この辺りの巨視的な描写が手薄になったのは仕方ないし、だいいち動機付けなどこの作品には些事に過ぎぬのかも知れませんが・・・。いずれにせよ、これもすべて血脈、歴史は繰り返す、という事で解決か? でも結局、伝説とは程遠い、かわいい無法行為(それもガキのいたずらレベル)で終わっちゃったし・・・。この作品、史実と思想の絡みが眼目で行為はオマケみたいだけれど、史実も史実で断片的に披露されただけの一過性のものもあり、すべてが現在話とリンクしているとは思えなかった。他にも珍奇な事象や登場人物がふんだんにお披露目されているが、それらはどれも単発のエピソードに過ぎず、新たな展開を生み出す素材ではなかった。詰め込むだけ詰め込んでおきながらあとはそれっきりなので、食材豊富な鍋料理を生煮えのまま食わされたようなもどかしさだけが残った。 言動が不可解(含ネタバレ)・・・ あれだけ独自の破滅論を華々しく開陳したのだから、そのまま村全体をも巻き込むド派手な闘争劇でも演じるのかと思いきや、首謀者(鷹四)自らあっけなく幕引きをしてしまった。その幕引きも、自身の狂気の具現化というより、生来の性的倒錯が原因による窮余の自滅といった印象のほうが強く、結局、わざわざ親衛隊まで引き連れて故郷に何をしに来たんだ、という疑問が残る。いずれにせよ、なんか言っている事とやっている事が違うような気が・・・。しかもこの人物、自分に甘く他人には厳しい人間の典型のようで、それは配下のメンバーが自身と類似の陵辱行為を行った時に激怒していたことからも察せられる。そもそもこういう独善的で内向きな人物の下に、周囲の人間が寄り集まり体よく組織まで形成されるものなのか・・・。あと主人公の妻(菜採子)がまた更に得体の知れぬ人物で、周りには説教じみた事をズケズケ言うくせに、当の本人は下半身に問題アリの無思慮な自堕落女と大差なく、そういう女が、いくら日和見主義的なところがあるとはいえ、果たしてあんな善人じみた結論へと都合よく導かれるものなのか。しかも、たしか障害児を産んだことで交わりそのものに嫌悪感すら抱いていたはずなのに、この不貞ぶりはいったい・・・。殊にこの二人の主要人物(鷹四と菜採子)については、その気取りまくりの会話内容に反し、行動が余りにも幼稚で刹那的なため、違和感どころか薄気味悪さすら覚えた。 尤もこの作品、登場人物の大半が変な人なので、もうどんな珍事が起きてもおかしくないのですが・・・ 私には、登場人物が起居する母屋も倉屋敷も、最後までお化け屋敷にしか見えませんでした。この人達の言動に論理一貫性がないわそれを補填するための描写もないわで、結局彼らが何を目指していたのかもよく分からないし、確たる人格を持った生身の人間だと見なすのすら困難だった。会話では、やれ属性だのidentityだのといったご大層な言葉が飛び交っているが、総じてインテリ気取りのボンボンに有り勝ちなたわいない遣り取りであり、しかもやっていることが逆に知性を疑いたくなるようなものばかりなのでカッコ悪いことこの上ない。それとも、世間知らずの暇な若者が暴動ゴッコをやらかしたらこうなりますよ、とでも云いたかったのか・・・。いずれにせよ、やたら凝られた登場人物のネーミングとは対照的に、肝心の人物造型はすこぶるテキトーだ。 全体を通せば、たしかに個々の表現に凄みが感じられることはあった。しかしストーリーテラーとしての凄みは全く感じられなかった。特に後半は、当時の流行りなのか、刺激的な描写ばかりが前面に出た反面、筋の粗さと不可解ぶりが目につきなかばカオスと化していた。なにしろ頼みの主人公からして、生涯トラウマになるような屈辱を妻から受けて悶々としていたはずなのに、体よく丸め込まれた上ちゃっかり別人に進化しちゃってんだからもうワケが分かりません。それを予感させるような描写が全くなかったわけではないが、今までの鬱屈をくつがえし新たな心境へと到らしめる程の説得力はなく、これでは御都合主義のそしりを受けても仕方ないだろう。このように正反対の境地に到るまでの心理的過程も詳述されず、「あとは読者の解釈にお任せします」みたいな謎残しをされても不自然なだけだし、第一これじゃあ主人公までもが、信念のかけらもない不気味な風見鶏、という薄っぺらな人物像で終わってしまう。しかもここ、終盤の最重要部分でしょうに・・・ この辺の不可思議ぶりは、ファンの方には逆に妙味ですらあるのかも知れませんが、私のような通りすがりの新参者には、著者が当時の希望的観測を急ごしらえでつづったようにしか見えず、あまりいい気がしなかった。勿論どういう展開に持っていくかは御自由ですが、ある程度つじつまを合わせていただかないと、どんな展開でもありの混沌とした物語、という冷めた見方しかこっちも出来なくなってしまう。尤も、敢えてこういう混沌とした物語にしているのだ、と云われたらもう返す言葉もありませんが、その場合、読者への謎かけと意外性の演出以外に一体なんの意味があるのやら・・・ 支離滅裂な展開をうまく統合しリアリティーを持たせたものが真の傑作、と考える自分には、支離滅裂な展開に終始するだけの本作を、不遜ながら喧伝されるような傑作とは思えなかった。この作品、著者によって入念に練り直されているらしいが、それは個々の文章のことであって物語そのものは隙だらけのままほったらかしのようだ。そのためか最後まで、<細部は緻密、でも骨組みは粗雑>というイメージに付きまとわれてしまった。 以上、大江健三郎に疎いせいもあってケチをつけまくりですが、こんな複雑怪奇な文章表現はもはや前人未到の領域で、少なくとも並の作家には絶対に真似出来ない、という意味では傑出していると思います。またこの文章と摩訶不思議な筋を、読者を出口なき迷路へと導くためのトリックとして駆使していたのであるならば、私も大江マジックに引っかかってしまったという事なのでしょう。実際、大江文学に興味が湧いてきたのも事実であります。 今回はこちらの理解が不十分なまま終わってしまったようですが、もし再読時に深読みまで出来たら、上記のモヤモヤも解消し、また違った評価に変わると思われる重厚な作品ではありました。 | ||||
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| 以下は、ほとんど大江作品に接したことがない不慣れな一読者による率直な感想、という事でご理解ください。 語句が過剰・・・ 推敲のたびに追加したと思しき語句が紙面に膨れ上がり、それが却って書きたてホヤホヤの瑞々しさを妨げてしまっている。直観より意匠重視ということなのでしょうが、明らかに不要と思える語句も散見される。凝り性なのか、それとも読者の放恣な想像力による誤解を危惧しているのかは定かでないが、著者の執筆スタンスに、簡潔明瞭という四文字は皆無らしい。いずれにせよ語句が過剰という事は、裏を返せば、一字一句の重みを損ねることにも繋がりかねない。まさか、語句は多い方がいいと短絡的に考えているわけではないのでしょうが、少なくとも一字一句に情念を込めるタイプではなさそう。 奇妙な修辞・・・ 厖大な修辞が披露されているが、その数の異常ぶりに加え、幾重にも連なる修飾語句の遥か後方に到ってやっと肝心の被修飾語が登場する奇奇怪怪ぶりに目が廻り、慣れないうちは、妙味を堪能する以前に係り受けの解析に手間取ってしまう。この奇妙な修辞の大群に翻弄され、物語の本質的な理解から遠ざけられてしまったような気が・・・。そもそも修辞とは、ここぞという時に披露されてこそ効果を発揮するもので、本書のように大半が修辞というのは、それが個性で当時は画期的だったと云ってしまえばそれまでですが、さすがにやり過ぎの感が否めない。もともと修飾語句が多い海外文学の和訳ならともかく、日本語でつづられた作品でこんなに癖のある翻訳調の文体は初めてなので面食らってしまったと同時に、ここまでこのスタイルを貫く必要があったのかという疑問も湧く。しかも修辞の内容は、既にひどく時代を感じさせ、読んでるこっちが恥ずかしくなってくるほど野暮である。 同じ語句の執拗な繰り返し・・・ 本書は主人公=僕(蜜三郎)のモノローグが多いのですが、「僕」のモノローグであるのが自明な場面でもなぜか「僕」や「自分」という語が頻出し、だんだん鬱陶しくなってきたので試しにそれらをすっ飛ばして読んだところ、ちゃんと文意を汲み取ることができ、逆にスッキリ読めました。他にも、「頭を朱色に塗り ○ ○ に胡瓜をさしこんで首を・・・」とか、もう分かったからいいよ! と思わず叫びたくなる程しつこく登場します。なんかこういう重複語句や要らぬ修辞を削除して、分量を今の3分の2ぐらいに留めても、ちゃんと物語が成立するような気が・・・ 冗漫な文章・・・ 延々と続くわりに読点処理が少ない、贅肉だらけの締りのない文章が多い。それも、次の語句がさらに次の語句へと淀みなく受け継がれる流麗な文章ではない為しょっちゅう突っかかってしまい、その度に、こんがらかった釣り糸を解きほぐすようなもどかしさを感じつつ戻り読みを余儀なくされた。意図的に文意を分断して読者を煙に巻いているのでは? と勘繰ってしまう。文のリズム感や統一感といったものはもちろん皆無で、それはおそらく作者の思惑なのでしょうが、しかし私のような初読者にはひどく奇異に感じられ、ただ斬新奇抜ぶりを誇張しているようにしか見えなかった。 内容が難解というより文章が晦渋・・・ 平板な場面でも敢えて回りくどく描写して小難しく見せているフシがあり、哲学的な意味での難解さとは違うと感じた。何かこの世ならぬ情景や観念の描写であればおいそれと難解な内容にもなるのでしょうが、そういう場面は意外に少ない。ただ文章がかなり入り組んでいるので、内容そのものも深遠で難解と錯覚しがちにはなる。しかしこんな手法が本作の質を高めているとは到底思えず、私にはただのコケおどし、言葉で読み手を圧倒してやろうという魂胆が見え隠れする姑息な手法と映ってしまった。そりゃあ、無くても構わぬ語句までテンコ盛りにしたうえ、本来なら複数に分かたれるべき文を継ぎはぎして長たらしい一文にまとめ上げたりすれば、どんな文章だって晦渋になるでしょう。しかしいくら純文学とはいえ、無理やり晦渋にして高尚さを醸し出そうとするこの種の手法にはもうウンザリである。 動機が薄弱(含ネタバレ)・・・ 意表を突くためなのかも知れませんが、登場人物の行動が唐突すぎて釈然としなかったことが度々。細部の描写や修辞には凄まじいまでのこだわりが見られる一方、前後の脈絡や伏線と云ったより重要なものが乏しかったり不鮮明なため、よけいアンバランスに感じた。スーパーマーケットへの無法行為も、直近に火種らしき事件は起きてはいるが、十分に伏線が張られていたとは言いがたい。なんか首謀者(鷹四)の思想と村の史実(一揆・在日との確執)がこじつけられて予定調和的にどんどん事が運ばれていったはいいが、肝心かなめの動機が弱いし、そもそも集団行為を駆り立てるほどの原動力がこの村にあったのかどうかも疑問。この手の集団行為は、のっぴきならぬ状況に追い込まれなければ起こり得ないはずですが、村がそんな状況に追い込まれていたとはとても思えない。まあ当の主人公が無法行為に参画せず、尚かつ一人称語りの小説なので、その分この辺りの巨視的な描写が手薄になったのは仕方ないし、だいいち動機付けなどこの作品には些事に過ぎぬのかも知れませんが・・・。いずれにせよ、これもすべて血脈、歴史は繰り返す、という事で解決か? でも結局、伝説とは程遠い、かわいい無法行為(それもガキのいたずらレベル)で終わっちゃったし・・・。この作品、史実と思想の絡みが眼目で行為はオマケみたいだけれど、史実も史実で断片的に披露されただけの一過性のものもあり、すべてが現在話とリンクしているとは思えなかった。他にも珍奇な事象や登場人物がふんだんにお披露目されているが、それらはどれも単発のエピソードに過ぎず、新たな展開を生み出す素材ではなかった。詰め込むだけ詰め込んでおきながらあとはそれっきりなので、食材豊富な鍋料理を生煮えのまま食わされたようなもどかしさだけが残った。 言動が不可解(含ネタバレ)・・・ あれだけ独自の破滅論を華々しく開陳したのだから、そのまま村全体をも巻き込むド派手な闘争劇でも演じるのかと思いきや、首謀者(鷹四)自らあっけなく幕引きをしてしまった。その幕引きも、自身の狂気の具現化というより、生来の性的倒錯が原因による窮余の自滅といった印象のほうが強く、結局、わざわざ親衛隊まで引き連れて故郷に何をしに来たんだ、という疑問が残る。いずれにせよ、なんか言っている事とやっている事が違うような気が・・・。しかもこの人物、自分に甘く他人には厳しい人間の典型のようで、それは配下のメンバーが自身と類似の陵辱行為を行った時に激怒していたことからも察せられる。そもそもこういう独善的で内向きな人物の下に、周囲の人間が寄り集まり体よく組織まで形成されるものなのか・・・。あと主人公の妻(菜採子)がまた更に得体の知れぬ人物で、周りには説教じみた事をズケズケ言うくせに、当の本人は下半身に問題アリの無思慮な自堕落女と大差なく、そういう女が、いくら日和見主義的なところがあるとはいえ、果たしてあんな善人じみた結論へと都合よく導かれるものなのか。しかも、たしか障害児を産んだことで交わりそのものに嫌悪感すら抱いていたはずなのに、この不貞ぶりはいったい・・・。殊にこの二人の主要人物(鷹四と菜採子)については、その気取りまくりの会話内容に反し、行動が余りにも幼稚で刹那的なため、違和感どころか薄気味悪さすら覚えた。 尤もこの作品、登場人物の大半が変な人なので、もうどんな珍事が起きてもおかしくないのですが・・・ 私には、登場人物が起居する母屋も倉屋敷も、最後までお化け屋敷にしか見えませんでした。この人達の言動に論理一貫性がないわそれを補填するための描写もないわで、結局彼らが何を目指していたのかもよく分からないし、確たる人格を持った生身の人間だと見なすのすら困難だった。会話では、やれ属性だのidentityだのといったご大層な言葉が飛び交っているが、総じてインテリ気取りのボンボンに有り勝ちなたわいない遣り取りであり、しかもやっていることが逆に知性を疑いたくなるようなものばかりなのでカッコ悪いことこの上ない。それとも、世間知らずの暇な若者が暴動ゴッコをやらかしたらこうなりますよ、とでも云いたかったのか・・・。いずれにせよ、やたら凝られた登場人物のネーミングとは対照的に、肝心の人物造型はすこぶるテキトーだ。 全体を通せば、たしかに個々の表現に凄みが感じられることはあった。しかしストーリーテラーとしての凄みは全く感じられなかった。特に後半は、当時の流行りなのか、刺激的な描写ばかりが前面に出た反面、筋の粗さと不可解ぶりが目につきなかばカオスと化していた。なにしろ頼みの主人公からして、生涯トラウマになるような屈辱を妻から受けて悶々としていたはずなのに、体よく丸め込まれた上ちゃっかり別人に進化しちゃってんだからもうワケが分かりません。それを予感させるような描写が全くなかったわけではないが、今までの鬱屈をくつがえし新たな心境へと到らしめる程の説得力はなく、これでは御都合主義のそしりを受けても仕方ないだろう。このように正反対の境地に到るまでの心理的過程も詳述されず、「あとは読者の解釈にお任せします」みたいな謎残しをされても不自然なだけだし、第一これじゃあ主人公までもが、信念のかけらもない不気味な風見鶏、という薄っぺらな人物像で終わってしまう。しかもここ、終盤の最重要部分でしょうに・・・ この辺の不可思議ぶりは、ファンの方には逆に妙味ですらあるのかも知れませんが、私のような通りすがりの新参者には、著者が当時の希望的観測を急ごしらえでつづったようにしか見えず、あまりいい気がしなかった。勿論どういう展開に持っていくかは御自由ですが、ある程度つじつまを合わせていただかないと、どんな展開でもありの混沌とした物語、という冷めた見方しかこっちも出来なくなってしまう。尤も、敢えてこういう混沌とした物語にしているのだ、と云われたらもう返す言葉もありませんが、その場合、読者への謎かけと意外性の演出以外に一体なんの意味があるのやら・・・ 支離滅裂な展開をうまく統合しリアリティーを持たせたものが真の傑作、と考える自分には、支離滅裂な展開に終始するだけの本作を、不遜ながら喧伝されるような傑作とは思えなかった。この作品、著者によって入念に練り直されているらしいが、それは個々の文章のことであって物語そのものは隙だらけのままほったらかしのようだ。そのためか最後まで、<細部は緻密、でも骨組みは粗雑>というイメージに付きまとわれてしまった。 以上、大江健三郎に疎いせいもあってケチをつけまくりですが、こんな複雑怪奇な文章表現はもはや前人未到の領域で、少なくとも並の作家には絶対に真似出来ない、という意味では傑出していると思います。またこの文章と摩訶不思議な筋を、読者を出口なき迷路へと導くためのトリックとして駆使していたのであるならば、私も大江マジックに引っかかってしまったという事なのでしょう。実際、大江文学に興味が湧いてきたのも事実であります。 今回はこちらの理解が不十分なまま終わってしまったようですが、もし再読時に深読みまで出来たら、上記のモヤモヤも解消し、また違った評価に変わると思われる重厚な作品ではありました。 | ||||
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| 以下は、ほとんど大江作品に接したことがない不慣れな一読者による率直な感想、という事でご理解ください。 語句が過剰・・・ 推敲のたびに追加したと思しき語句が紙面に膨れ上がり、それが却って書きたてホヤホヤの瑞々しさを妨げてしまっている。直観より意匠重視ということなのでしょうが、明らかに不要と思える語句も散見される。凝り性なのか、それとも読者の放恣な想像力による誤解を危惧しているのかは定かでないが、著者の執筆スタンスに、簡潔明瞭という四文字は皆無らしい。いずれにせよ語句が過剰という事は、裏を返せば、一字一句の重みを損ねることにも繋がりかねない。まさか、語句は多い方がいいと短絡的に考えているわけではないのでしょうが、少なくとも一字一句に情念を込めるタイプではなさそう。 奇妙な修辞・・・ 厖大な修辞が披露されているが、その数の異常ぶりに加え、幾重にも連なる修飾語句の遥か後方に到ってやっと肝心の被修飾語が登場する奇奇怪怪ぶりに目が廻り、慣れないうちは、妙味を堪能する以前に係り受けの解析に手間取ってしまう。この奇妙な修辞の大群に翻弄され、物語の本質的な理解から遠ざけられてしまったような気が・・・。そもそも修辞とは、ここぞという時に披露されてこそ効果を発揮するもので、本書のように大半が修辞というのは、それが個性で当時は画期的だったと云ってしまえばそれまでですが、さすがにやり過ぎの感が否めない。もともと修飾語句が多い海外文学の和訳ならともかく、日本語でつづられた作品でこんなに癖のある翻訳調の文体は初めてなので面食らってしまったと同時に、ここまでこのスタイルを貫く必要があったのかという疑問も湧く。しかも修辞の内容は、既にひどく時代を感じさせ、読んでるこっちが恥ずかしくなってくるほど野暮である。 同じ語句の執拗な繰り返し・・・ 本書は主人公=僕(蜜三郎)のモノローグが多いのですが、「僕」のモノローグであるのが自明な場面でもなぜか「僕」や「自分」という語が頻出し、だんだん鬱陶しくなってきたので試しにそれらをすっ飛ばして読んだところ、ちゃんと文意を汲み取ることができ、逆にスッキリ読めました。他にも、「頭を朱色に塗り ○ ○ に胡瓜をさしこんで首を・・・」とか、もう分かったからいいよ! と思わず叫びたくなる程しつこく登場します。なんかこういう重複語句や要らぬ修辞を削除して、分量を今の3分の2ぐらいに留めても、ちゃんと物語が成立するような気が・・・ 冗漫な文章・・・ 延々と続くわりに読点処理が少ない、贅肉だらけの締りのない文章が多い。それも、次の語句がさらに次の語句へと淀みなく受け継がれる流麗な文章ではない為しょっちゅう突っかかってしまい、その度に、こんがらかった釣り糸を解きほぐすようなもどかしさを感じつつ戻り読みを余儀なくされた。意図的に文意を分断して読者を煙に巻いているのでは? と勘繰ってしまう。文のリズム感や統一感といったものはもちろん皆無で、それはおそらく作者の思惑なのでしょうが、しかし私のような初読者にはひどく奇異に感じられ、ただ斬新奇抜ぶりを誇張しているようにしか見えなかった。 内容が難解というより文章が晦渋・・・ 平板な場面でも敢えて回りくどく描写して小難しく見せているフシがあり、哲学的な意味での難解さとは違うと感じた。何かこの世ならぬ情景や観念の描写であればおいそれと難解な内容にもなるのでしょうが、そういう場面は意外に少ない。ただ文章がかなり入り組んでいるので、内容そのものも深遠で難解と錯覚しがちにはなる。しかしこんな手法が本作の質を高めているとは到底思えず、私にはただのコケおどし、言葉で読み手を圧倒してやろうという魂胆が見え隠れする姑息な手法と映ってしまった。そりゃあ、無くても構わぬ語句までテンコ盛りにしたうえ、本来なら複数に分かたれるべき文を継ぎはぎして長たらしい一文にまとめ上げたりすれば、どんな文章だって晦渋になるでしょう。しかしいくら純文学とはいえ、無理やり晦渋にして高尚さを醸し出そうとするこの種の手法にはもうウンザリである。 動機が薄弱(含ネタバレ)・・・ 意表を突くためなのかも知れませんが、登場人物の行動が唐突すぎて釈然としなかったことが度々。細部の描写や修辞には凄まじいまでのこだわりが見られる一方、前後の脈絡や伏線と云ったより重要なものが乏しかったり不鮮明なため、よけいアンバランスに感じた。スーパーマーケットへの無法行為も、直近に火種らしき事件は起きてはいるが、十分に伏線が張られていたとは言いがたい。なんか首謀者(鷹四)の思想と村の史実(一揆・在日との確執)がこじつけられて予定調和的にどんどん事が運ばれていったはいいが、肝心かなめの動機が弱いし、そもそも集団行為を駆り立てるほどの原動力がこの村にあったのかどうかも疑問。この手の集団行為は、のっぴきならぬ状況に追い込まれなければ起こり得ないはずですが、村がそんな状況に追い込まれていたとはとても思えない。まあ当の主人公が無法行為に参画せず、尚かつ一人称語りの小説なので、その分この辺りの巨視的な描写が手薄になったのは仕方ないし、だいいち動機付けなどこの作品には些事に過ぎぬのかも知れませんが・・・。いずれにせよ、これもすべて血脈、歴史は繰り返す、という事で解決か? でも結局、伝説とは程遠い、かわいい無法行為(それもガキのいたずらレベル)で終わっちゃったし・・・。この作品、史実と思想の絡みが眼目で行為はオマケみたいだけれど、史実も史実で断片的に披露されただけの一過性のものもあり、すべてが現在話とリンクしているとは思えなかった。他にも珍奇な事象や登場人物がふんだんにお披露目されているが、それらはどれも単発のエピソードに過ぎず、新たな展開を生み出す素材ではなかった。詰め込むだけ詰め込んでおきながらあとはそれっきりなので、食材豊富な鍋料理を生煮えのまま食わされたようなもどかしさだけが残った。 言動が不可解(含ネタバレ)・・・ あれだけ独自の破滅論を華々しく開陳したのだから、そのまま村全体をも巻き込むド派手な闘争劇でも演じるのかと思いきや、首謀者(鷹四)自らあっけなく幕引きをしてしまった。その幕引きも、自身の狂気の具現化というより、生来の性的倒錯が原因による窮余の自滅といった印象のほうが強く、結局、わざわざ親衛隊まで引き連れて故郷に何をしに来たんだ、という疑問が残る。いずれにせよ、なんか言っている事とやっている事が違うような気が・・・。しかもこの人物、自分に甘く他人には厳しい人間の典型のようで、それは配下のメンバーが自身と類似の陵辱行為を行った時に激怒していたことからも察せられる。そもそもこういう独善的で内向きな人物の下に、周囲の人間が寄り集まり体よく組織まで形成されるものなのか・・・。あと主人公の妻(菜採子)がまた更に得体の知れぬ人物で、周りには説教じみた事をズケズケ言うくせに、当の本人は下半身に問題アリの無思慮な自堕落女と大差なく、そういう女が、いくら日和見主義的なところがあるとはいえ、果たしてあんな善人じみた結論へと都合よく導かれるものなのか。しかも、たしか障害児を産んだことで交わりそのものに嫌悪感すら抱いていたはずなのに、この不貞ぶりはいったい・・・。殊にこの二人の主要人物(鷹四と菜採子)については、その気取りまくりの会話内容に反し、行動が余りにも幼稚で刹那的なため、違和感どころか薄気味悪さすら覚えた。 尤もこの作品、登場人物の大半が変な人なので、もうどんな珍事が起きてもおかしくないのですが・・・ 私には、登場人物が起居する母屋も倉屋敷も、最後までお化け屋敷にしか見えませんでした。この人達の言動に論理一貫性がないわそれを補填するための描写もないわで、結局彼らが何を目指していたのかもよく分からないし、確たる人格を持った生身の人間だと見なすのすら困難だった。会話では、やれ属性だのidentityだのといったご大層な言葉が飛び交っているが、総じてインテリ気取りのボンボンに有り勝ちなたわいない遣り取りであり、しかもやっていることが逆に知性を疑いたくなるようなものばかりなのでカッコ悪いことこの上ない。それとも、世間知らずの暇な若者が暴動ゴッコをやらかしたらこうなりますよ、とでも云いたかったのか・・・。いずれにせよ、やたら凝られた登場人物のネーミングとは対照的に、肝心の人物造型はすこぶるテキトーだ。 全体を通せば、たしかに個々の表現に凄みが感じられることはあった。しかしストーリーテラーとしての凄みは全く感じられなかった。特に後半は、当時の流行りなのか、刺激的な描写ばかりが前面に出た反面、筋の粗さと不可解ぶりが目につきなかばカオスと化していた。なにしろ頼みの主人公からして、生涯トラウマになるような屈辱を妻から受けて悶々としていたはずなのに、体よく丸め込まれた上ちゃっかり別人に進化しちゃってんだからもうワケが分かりません。それを予感させるような描写が全くなかったわけではないが、今までの鬱屈をくつがえし新たな心境へと到らしめる程の説得力はなく、これでは御都合主義のそしりを受けても仕方ないだろう。このように正反対の境地に到るまでの心理的過程も詳述されず、「あとは読者の解釈にお任せします」みたいな謎残しをされても不自然なだけだし、第一これじゃあ主人公までもが、信念のかけらもない不気味な風見鶏、という薄っぺらな人物像で終わってしまう。しかもここ、終盤の最重要部分でしょうに・・・ この辺の不可思議ぶりは、ファンの方には逆に妙味ですらあるのかも知れませんが、私のような通りすがりの新参者には、著者が当時の希望的観測を急ごしらえでつづったようにしか見えず、あまりいい気がしなかった。勿論どういう展開に持っていくかは御自由ですが、ある程度つじつまを合わせていただかないと、どんな展開でもありの混沌とした物語、という冷めた見方しかこっちも出来なくなってしまう。尤も、敢えてこういう混沌とした物語にしているのだ、と云われたらもう返す言葉もありませんが、その場合、読者への謎かけと意外性の演出以外に一体なんの意味があるのやら・・・ 支離滅裂な展開をうまく統合しリアリティーを持たせたものが真の傑作、と考える自分には、支離滅裂な展開に終始するだけの本作を、不遜ながら喧伝されるような傑作とは思えなかった。この作品、著者によって入念に練り直されているらしいが、それは個々の文章のことであって物語そのものは隙だらけのままほったらかしのようだ。そのためか最後まで、<細部は緻密、でも骨組みは粗雑>というイメージに付きまとわれてしまった。 以上、大江健三郎に疎いせいもあってケチをつけまくりですが、こんな複雑怪奇な文章表現はもはや前人未到の領域で、少なくとも並の作家には絶対に真似出来ない、という意味では傑出していると思います。またこの文章と摩訶不思議な筋を、読者を出口なき迷路へと導くためのトリックとして駆使していたのであるならば、私も大江マジックに引っかかってしまったという事なのでしょう。実際、大江文学に興味が湧いてきたのも事実であります。 今回はこちらの理解が不十分なまま終わってしまったようですが、もし再読時に深読みまで出来たら、上記のモヤモヤも解消し、また違った評価に変わると思われる重厚な作品ではありました。 | ||||
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| 黒船が来たころ、サッカーをやった人たちの話かと思ってたから、違和感アリアリ。 自分でもよく最後まで読んだと思う。 つまんないな~などと思いつつ、途中やめしなかったということは、それなりだったのかも。 胸を張って言えるよ、「万延元年の・・」読んだと。 読まないとどんな話なのかわからないよね。 それくらい説明するのが難しい展開だよ。 フットボールが日本に来たのは確かにもっと後だね、言われてみれば。 | ||||
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| 黒船が来たころ、サッカーをやった人たちの話かと思ってたから、違和感アリアリ。 自分でもよく最後まで読んだと思う。 つまんないな~などと思いつつ、途中やめしなかったということは、それなりだったのかも。 胸を張って言えるよ、「万延元年の・・」読んだと。 読まないとどんな話なのかわからないよね。 それくらい説明するのが難しい展開だよ。 フットボールが日本に来たのは確かにもっと後だね、言われてみれば。 | ||||
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| 黒船が来たころ、サッカーをやった人たちの話かと思ってたから、違和感アリアリ。 自分でもよく最後まで読んだと思う。 つまんないな~などと思いつつ、途中やめしなかったということは、それなりだったのかも。 胸を張って言えるよ、「万延元年の・・」読んだと。 読まないとどんな話なのかわからないよね。 それくらい説明するのが難しい展開だよ。 フットボールが日本に来たのは確かにもっと後だね、言われてみれば。 | ||||
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| 旅行中、新幹線の中で読んだ。前から何度か挑戦していたが、読みづらさに挫折していて、これは時間をとらないと無理だな、と思っていた。 三時間後、読了した僕は興奮していた。こんなスケールの大きい小説が日本にあったとは、という驚き。僕は、大江健三郎がノーベル賞を受賞したのは安倍公房が早くに死んだからだと思っていた(今でも思っている)が、これに至っては認めざるを得ない。とんでもない作家である。 さて、大江健三郎の文章は読みにくい。日本語を英文法の型にあてはめて書いているということもあるが、これはむしろ六法全書や数学の論文の読みにくさに相通ずるのではないだろうか。つまり、法律や証明は解釈に幅があっては困るのだ。全体を敷衍すると、この小説は「筋が豊富」(大岡昌平)→「イメージが豊富」な小説である。天皇、歴史、小さな共同体、血の確執、差別感情、神話多くのイメージをはらみつつ、それを意味によってねじ伏せてやろうとする姿勢。ともすれば混沌とする種々の要素を解釈でもって捕まえてしまうのだ。その点、日常的な言葉で奇妙な混沌を混沌のまま描き出す安倍公房と対照的かもしれない。 そうしてみると、冒頭で語られる友人の縊死体は、踏み絵のように思えてくる。解釈されることを拒みながら、我々の想像力をかき立てる存在である。 全体として、あえて政治的な解釈を素通りするならば、この小説は想像力と現実の関係を描いているように感じた。 やはり、「蔓延元年」は大江健三郎の頂点かもしれない。多様なイメージを解釈によってねじ伏せながら、同時に立体的な広がりを見せるのが素晴らしい点なのだが、これ以降の小説は豊富なモチーフを含んでいるのに、結局「大江健三郎」に帰着してしまい、私小説的側面が目立って浅く感じてしまう。作家の興味が推移したというより体力の衰えではなかろうか。 | ||||
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| 旅行中、新幹線の中で読んだ。前から何度か挑戦していたが、読みづらさに挫折していて、これは時間をとらないと無理だな、と思っていた。 三時間後、読了した僕は興奮していた。こんなスケールの大きい小説が日本にあったとは、という驚き。僕は、大江健三郎がノーベル賞を受賞したのは安倍公房が早くに死んだからだと思っていた(今でも思っている)が、これに至っては認めざるを得ない。とんでもない作家である。 さて、大江健三郎の文章は読みにくい。日本語を英文法の型にあてはめて書いているということもあるが、これはむしろ六法全書や数学の論文の読みにくさに相通ずるのではないだろうか。つまり、法律や証明は解釈に幅があっては困るのだ。全体を敷衍すると、この小説は「筋が豊富」(大岡昌平)→「イメージが豊富」な小説である。天皇、歴史、小さな共同体、血の確執、差別感情、神話多くのイメージをはらみつつ、それを意味によってねじ伏せてやろうとする姿勢。ともすれば混沌とする種々の要素を解釈でもって捕まえてしまうのだ。その点、日常的な言葉で奇妙な混沌を混沌のまま描き出す安倍公房と対照的かもしれない。 そうしてみると、冒頭で語られる友人の縊死体は、踏み絵のように思えてくる。解釈されることを拒みながら、我々の想像力をかき立てる存在である。 全体として、あえて政治的な解釈を素通りするならば、この小説は想像力と現実の関係を描いているように感じた。 やはり、「蔓延元年」は大江健三郎の頂点かもしれない。多様なイメージを解釈によってねじ伏せながら、同時に立体的な広がりを見せるのが素晴らしい点なのだが、これ以降の小説は豊富なモチーフを含んでいるのに、結局「大江健三郎」に帰着してしまい、私小説的側面が目立って浅く感じてしまう。作家の興味が推移したというより体力の衰えではなかろうか。 | ||||
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| 蜜、鷹四、菜採子、障害児 この関係を表すのにこうも気難しい言葉で読みにくい文体にしなければ説明ができないのだろうか? これが第一印象である。 次に「勃起したペニス」、「あふれ出る豊な血」、「嘔吐」。 などおなかに入れて気持ちの悪い表現を相変わらず入れてくる。 人との体温を測る、人間の生き様を叙述するのにこういうグロな 方向性に持っていくというのは、著者自身よほどの個人的な体験があったと見受けられる。 それは、子供の頃の適応障害や自閉気味な神経質の少年が 奥深い四国の森で邂逅する生と死、つむぎだされる大江固有の世界の顕現なのであろうか? 「シトロエン」、「闘争・逃走」、「吐き気」などは、いかにも60年代的だ。 いずれにしても、深い作品のモチーフとの格闘と<乗り越えられた点>という ひとつのメルクマールを打ち立てた文学作品だとは思う。 しかし、私との相性が悪いのか、読んでいて気持ちが悪い。 おそらくほとんどの読者も 大江の作品には「在日」と「障害者」、「黒人」などよく登場してくるが、事実を隠そうとする 日本の社会に対し、事実は事実としてそれを小説というフィクションの中に絡ませていこうとする姿勢は、 個性があり、すばらしいと思う。 純文学ならではの個人の創造の自由さは十分伺える。 しかし、如何せん、もう一度読み直したいとは思えないことが、彼の作品を読むたびに 思うことである。 個人的には四国の奥深い裏側の南米文学や、 気難しい文体なら安部公房の方が私にとっては受け入れやすい。 現在の大江の文体もそんな感じなのであろうか? もう少し素直な文章を読んでみたい。 | ||||
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| 蜜、鷹四、菜採子、障害児 この関係を表すのにこうも気難しい言葉で読みにくい文体にしなければ説明ができないのだろうか? これが第一印象である。 次に「勃起したペニス」、「あふれ出る豊な血」、「嘔吐」。 などおなかに入れて気持ちの悪い表現を相変わらず入れてくる。 人との体温を測る、人間の生き様を叙述するのにこういうグロな 方向性に持っていくというのは、著者自身よほどの個人的な体験があったと見受けられる。 それは、子供の頃の適応障害や自閉気味な神経質の少年が 奥深い四国の森で邂逅する生と死、つむぎだされる大江固有の世界の顕現なのであろうか? 「シトロエン」、「闘争・逃走」、「吐き気」などは、いかにも60年代的だ。 いずれにしても、深い作品のモチーフとの格闘と<乗り越えられた点>という ひとつのメルクマールを打ち立てた文学作品だとは思う。 しかし、私との相性が悪いのか、読んでいて気持ちが悪い。 おそらくほとんどの読者も 大江の作品には「在日」と「障害者」、「黒人」などよく登場してくるが、事実を隠そうとする 日本の社会に対し、事実は事実としてそれを小説というフィクションの中に絡ませていこうとする姿勢は、 個性があり、すばらしいと思う。 純文学ならではの個人の創造の自由さは十分伺える。 しかし、如何せん、もう一度読み直したいとは思えないことが、彼の作品を読むたびに 思うことである。 個人的には四国の奥深い裏側の南米文学や、 気難しい文体なら安部公房の方が私にとっては受け入れやすい。 現在の大江の文体もそんな感じなのであろうか? もう少し素直な文章を読んでみたい。 | ||||
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| 大江先生の文章の難解さは、読んでいるうちに次第にわかってくると思う。 他のレビューを見たら、色々な書き込みあるのでそちらを参照にされたい。 私が、不思議に思うのはこの小説で、大江「蜜」三郎が、いかにどのような作用を しているかである。それは読んでからのお楽しみであります。 序盤で出てくるヘンリーミラーの「何でもいいから陽気にしていようじゃないか!」 から始まり、 驚愕のクライマックスへ。 「さあ、星のシトロエンに向かって出発だ!」 しかし、私は考えた。小学生に小石を投げられて片目が極度の近眼になったシーンを 何かしらの「太陽族」に対しての敬意なのか侮辱なのかがわからないという意味合い。 読み終わった後、本人が丸渕眼鏡かけて、幽かに微笑んでいるのもわかる気がした。 | ||||
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| 大江先生の文章の難解さは、読んでいるうちに次第にわかってくると思う。 他のレビューを見たら、色々な書き込みあるのでそちらを参照にされたい。 私が、不思議に思うのはこの小説で、大江「蜜」三郎が、いかにどのような作用を しているかである。それは読んでからのお楽しみであります。 序盤で出てくるヘンリーミラーの「何でもいいから陽気にしていようじゃないか!」 から始まり、 驚愕のクライマックスへ。 「さあ、星のシトロエンに向かって出発だ!」 しかし、私は考えた。小学生に小石を投げられて片目が極度の近眼になったシーンを 何かしらの「太陽族」に対しての敬意なのか侮辱なのかがわからないという意味合い。 読み終わった後、本人が丸渕眼鏡かけて、幽かに微笑んでいるのもわかる気がした。 | ||||
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| 大江先生の文章の難解さは、読んでいるうちに次第にわかってくると思う。 他のレビューを見たら、色々な書き込みあるのでそちらを参照にされたい。 私が、不思議に思うのはこの小説で、大江「蜜」三郎が、いかにどのような作用を しているかである。それは読んでからのお楽しみであります。 序盤で出てくるヘンリーミラーの「何でもいいから陽気にしていようじゃないか!」 から始まり、 驚愕のクライマックスへ。 「さあ、星のシトロエンに向かって出発だ!」 しかし、私は考えた。小学生に小石を投げられて片目が極度の近眼になったシーンを 何かしらの「太陽族」に対しての敬意なのか侮辱なのかがわからないという意味合い。 読み終わった後、本人が丸渕眼鏡かけて、幽かに微笑んでいるのもわかる気がした。 | ||||
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| 過剰な修飾、あふれ出る語彙、圧倒的な小説である。 現在の流行作家にも、饒舌体めいた文体を使う人はいる。 だが、本書は描かれたがっている内実が、次から次へと言葉を求めているかのようだ。 言葉の奔流が、無駄ではなくぜいたくと感じられる。 戦後からの脱却、地域社会の自立、地域文化の再発見と再評価、障害児という個人的な困難、学生運動のベクトルの矛先 … 時代と個人の問題が渾然一体となり、読者を巻き込んでゆく。 大江文学の最高到達点の一つだと、今回再読して確認した。 ただ、文学と世界の関わり方が、現在はこの地点から遠く変容しているのだ。 | ||||
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故郷をもたないものの聖典である。
冒頭から、異様な雰囲気と、異常な文章の連続で、読者は混乱するであろうが、全体的な文學的構造は、さほど、複雑ではない。主人公たちの名前が、翻訳家の《根所蜜三郎》、蜜三郎の愛妻でアルコール中毒の《根所菜採子》、蜜三郎の実弟であり、左翼運動に蹉跌して右翼に転向した《根所鷹四》、というように、三人とも《根所》という苗字であることからも、三者三様に、《根っこの場所》=《故郷》を冀求する物語であることが察知される。
冒頭で、主人公である蜜三郎は、自宅界隈に穿鑿された、貯水装置用の空洞に蟄居して、《世界は存在しない》という《期待》に裏切られる。本作の主題が、《アイデンティティの喪失》および《アイデンティティの根源である故郷の喪失》であることが予告されることになる。蜜三郎が空洞に逼塞していたのは、精神に障碍をきたして療養していた翻訳家の友人が、暗澹たる自殺をしたことかららしい。蜜三郎が、翻訳を生業としていたのも、主題にかんがみれば、《世界を自分なりに解釈=翻訳する》という、《現実の世界の否定》と《自分の世界の渇望》という、故郷の問題に帰着するのかもしれない。本作が、現代の日本を舞台としながらも、摩訶不思議なる異国の風景を描破しているような雰囲気に囲繞されているのも、《蜜三郎の翻訳した日本像》とみれば納得がゆく。斯様なる挑戦が、おなじく、翻訳家の友人の自殺で頓挫したわけだ。世界が消滅しないことを認識した蜜三郎は、アルコール中毒の愛妻菜採子のもとへゆく。ふたりのあいだには、脳髄に障碍をもった子供がいて、養育施設にあずけているらしいことがわかる。《根所》を喪失して、みずからが、あらたな生命の《根所》にならんとした挑戦も破綻して、夫婦生活は崩壊せんとしている。
軈て、亜米利加で左翼劇団に所属していた鷹四が帰国し、三人は、鷹四の友人達とともに、物理的な故郷である四国へ邁進する。根所兄弟の故郷では、《天皇》とよばれる在日朝鮮人によるスーパーマーケットが支配的な雰囲気となり、根所家の生家を隴断せんとしている。右翼に転向した鷹四は反撥し、《フットボール・チーム》を結成して、江戸時代後期の《万延元年の百姓一揆》を髣髴とさせるような、《天皇》への叛逆を蹶起する。
同時に、鷹四と《妹》の関係の謎や、在日朝鮮人に殺戮された《S兄さん》をめぐる謎がひもとかれてゆき、クライマックスでは、推理小説的仕掛けによるカタルシスに到達する。つぎなる生命のための《根所》となる決心をした菜採子、作中に登場する寺院の《地獄絵図》を《根所》としたともいえる鷹四、日本に《根所》を発見できず、阿弗利加への羈旅を決断する蜜三郎。此処で重要なのは、一人称の主人公である蜜三郎が最後に《根所》をもとめたのが、《人類の起源の大地》といえる阿弗利加である、ということである。斯様な挑戦が、成功するのか、失敗するのかはわからない。菜採子が本当に《根所》になれるのか、鷹四の闘争は無意味だったのか。大江健三郎の筆致は、戦後日本人の自我同一性の危機をとおして、根源にある現代人類の悲劇を爬羅剔抉している。
《小説は、彷徨者たちの家郷である》といった評論家がいた。
本作は、大江健三郎が大江自身の故郷をもとめた軌跡なのかもしれない。