万延元年のフットボール

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万延元年のフットボールの評価:

4.17/5点 レビュー 64件。 A ランク

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平均点4.17pt

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※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全207件 61〜80 4/11ページ
No.147
(4pt)

終盤、超展開すぎるほど畳みかけているが、そこが魅力でしょうか?

終盤の超展開はともかく、一度通して読んだうえで、改めて一章の内容と感想を記します。

【内容】
学生運動に巻き込まれて頭部を殴打した親友の狂気じみた縊死、障害を持って生まれた赤子、アルコール依存症の妻と共に家畜さながらの荒んだ日々を送る語り手蜜、そして裏側では学生運動家として思想に傾倒した蜜の弟、鷹のアメリカでの頽廃的な日々の断片が、終盤で語られる「本当のこと(鷹の抑圧ともいえよう)」の上部構造として綴られるイントロダクションである。
死んだ母親による蜜に劣等感を植え付ける一方的な予言、鷹の抑圧の上部構造、最も常識的な感性を持ち合わせまま、それゆえに家族のことで苦悩する妻の頽廃、縊死した蜜の分身たる友人の表象が一挙に描写され、直線的な時間軸と共に語られる二章以降の駆動として濃密に凝縮されている印象をうける。

【感想】
全裸で肛門に胡瓜をさし、頭部を赤く染め縊死した現実離れした親友像は蜜にとってとてもリアルに切迫した問題で、周囲との関係が孤絶され緩やかな死へと至りつつある蜜の内面に、まさに表象としての綜合的な死(吉本『共同幻想』遠野物語)をもたらしており、のちの章で、蜜の自閉的傾向が強まったときたびたびしつこいぐらいに現出してくる。
一方で、社会規範から大きく逸脱した親友の相貌が、小説的な文脈において表象としてしつこく反復されるとき、村上春樹の『1Q84』の冒頭で克明に繰り返し描き出される主人公の記憶<自分の母親と思われる女の乳房を吸う見知らぬ男の像>と同様に、かえってユーモアとしての特性を帯び始めつつあるかもしれない。
精神医学ではトラウマ足りえるイメージが、物語として繰り返し語られることによって、半ば皮相的にユーモアとして結晶化しているとするのはインターネットに毒された私だけの妄想か?
友人の死に立ち会ったときの生々しい腐敗した亡骸にまつわる記憶が、着実にいまなお死にゆく蜜(あるいはまったく反対に社会から離反しすっかり動物的な変貌を遂げ、もはや最も切実に本能的な生を希求した存在ともいえる蜜、それはまるで胚種に猥雑に手足が生えたような自由な個体のようである)に奇妙な親近感をもたらしており、浄化槽のなかで闇と解けあう逸脱した身体的表現は注目に値する。

さて、物語の大きな仕掛けとして明るみになる、悔悛した学生運動家としての役割に透徹する鷹の破滅的な行動の裏にある抑圧が一体何なのだろうか? と読者に思わせることには成功しただろうか?(私は、あくまで読書に不慣れな私はなのだが、あまりにも濃密にすぎるゆえにただ強い抵抗感をもって一章を読まざるを得なかった。)
また鷹だけでなく、蜜に囁かれた母親の予言、「お前は鷹とは正反対にいずれ醜くなるだろう」、が着実に蜜の心象に明瞭な歪みをもたらせていることを、あたかも構造外部の語り手としての蜜自体から読者が超越して感じ取ってやらなくてはならないのだろう。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.146
(5pt)

著者の転換点的代表作

"かれらはこれに参加することで、百年を跳びこえて万延元年の一揆を追体験する興奮を感じているんだ。これは想像力の暴動だ"1967年発刊の本書は60年代、70年当時の安保闘争と共振しつつ、ノーベル賞受賞者の著者にとって"私"から"神話"の創造へ。執筆活動の大きな転換点となった代表作。

個人的には主宰する読書会の課題図書の一冊として著者作は『同時代ゲーム』に続く2冊目として手にとりました。

さて、そんな本書は友人の奇妙な自死、障害児の出産、安保運動など【それぞれに心に傷を負った人物たち】が故郷の四国の村に到着、ある事をきっかけにして100年前の一揆をなぞるように暴動が起こるわけですが。

先に読んだ『同時代ゲーム』同様に観念的な告白やイメージが続く冒頭こそ読みづらかったものの(意図的?)どこか【異様な緊張感のあるフットボールチームの結成】の中盤から後半にかけて次々と反復的、メタファー的な出来事が出現、そしてラストの【悲劇からのどんでん返し、再生】といった流れがフォークナーの影響、昭和的な同時代の濃さ、柳田國男や折口信夫の民俗学的土着さ、そしてサルトルの実存主義、構造主義を取り込むカオスさで【迫力をもってごっちゃ煮的に展開されていて】夢中になって読み終えました。

また、読んでいる時は全然気づかなかったのですが(また本人は否定しているらしいのですが)村上春樹の『1973年のピンボール』が本書のパロディと柄谷行人に指摘されている事を知ったのも小さな驚きでした【全体の印象は全く異なりますが】確かにタイトルだけでなく『本当のことを言おうか』のセリフ、翻訳の仕事や友人の自殺、鼠、そして『穴の中へ降りていく』とパーツ的には重なる部分に(ハルキストの方には悪いですが)【これは確信犯だな】とニヤリとしました。

中上健次や村上春樹、そして中村文則といった作家たちに影響を与えた一冊として、また60年代から70年代の昭和の時代的空気感を追体験したい人にもオススメ。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.145
(5pt)

著者の転換点的代表作

"かれらはこれに参加することで、百年を跳びこえて万延元年の一揆を追体験する興奮を感じているんだ。これは想像力の暴動だ"1967年発刊の本書は60年代、70年当時の安保闘争と共振しつつ、ノーベル賞受賞者の著者にとって"私"から"神話"の創造へ。執筆活動の大きな転換点となった代表作。

個人的には主宰する読書会の課題図書の一冊として著者作は『同時代ゲーム』に続く2冊目として手にとりました。

さて、そんな本書は友人の奇妙な自死、障害児の出産、安保運動など【それぞれに心に傷を負った人物たち】が故郷の四国の村に到着、ある事をきっかけにして100年前の一揆をなぞるように暴動が起こるわけですが。

先に読んだ『同時代ゲーム』同様に観念的な告白やイメージが続く冒頭こそ読みづらかったものの(意図的?)どこか【異様な緊張感のあるフットボールチームの結成】の中盤から後半にかけて次々と反復的、メタファー的な出来事が出現、そしてラストの【悲劇からのどんでん返し、再生】といった流れがフォークナーの影響、昭和的な同時代の濃さ、柳田國男や折口信夫の民俗学的土着さ、そしてサルトルの実存主義、構造主義を取り込むカオスさで【迫力をもってごっちゃ煮的に展開されていて】夢中になって読み終えました。

また、読んでいる時は全然気づかなかったのですが(また本人は否定しているらしいのですが)村上春樹の『1973年のピンボール』が本書のパロディと柄谷行人に指摘されている事を知ったのも小さな驚きでした【全体の印象は全く異なりますが】確かにタイトルだけでなく『本当のことを言おうか』のセリフ、翻訳の仕事や友人の自殺、鼠、そして『穴の中へ降りていく』とパーツ的には重なる部分に(ハルキストの方には悪いですが)【これは確信犯だな】とニヤリとしました。

中上健次や村上春樹、そして中村文則といった作家たちに影響を与えた一冊として、また60年代から70年代の昭和の時代的空気感を追体験したい人にもオススメ。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.144
(5pt)

著者の転換点的代表作

"かれらはこれに参加することで、百年を跳びこえて万延元年の一揆を追体験する興奮を感じているんだ。これは想像力の暴動だ"1967年発刊の本書は60年代、70年当時の安保闘争と共振しつつ、ノーベル賞受賞者の著者にとって"私"から"神話"の創造へ。執筆活動の大きな転換点となった代表作。

個人的には主宰する読書会の課題図書の一冊として著者作は『同時代ゲーム』に続く2冊目として手にとりました。

さて、そんな本書は友人の奇妙な自死、障害児の出産、安保運動など【それぞれに心に傷を負った人物たち】が故郷の四国の村に到着、ある事をきっかけにして100年前の一揆をなぞるように暴動が起こるわけですが。

先に読んだ『同時代ゲーム』同様に観念的な告白やイメージが続く冒頭こそ読みづらかったものの(意図的?)どこか【異様な緊張感のあるフットボールチームの結成】の中盤から後半にかけて次々と反復的、メタファー的な出来事が出現、そしてラストの【悲劇からのどんでん返し、再生】といった流れがフォークナーの影響、昭和的な同時代の濃さ、柳田國男や折口信夫の民俗学的土着さ、そしてサルトルの実存主義、構造主義を取り込むカオスさで【迫力をもってごっちゃ煮的に展開されていて】夢中になって読み終えました。

また、読んでいる時は全然気づかなかったのですが(また本人は否定しているらしいのですが)村上春樹の『1973年のピンボール』が本書のパロディと柄谷行人に指摘されている事を知ったのも小さな驚きでした【全体の印象は全く異なりますが】確かにタイトルだけでなく『本当のことを言おうか』のセリフ、翻訳の仕事や友人の自殺、鼠、そして『穴の中へ降りていく』とパーツ的には重なる部分に(ハルキストの方には悪いですが)【これは確信犯だな】とニヤリとしました。

中上健次や村上春樹、そして中村文則といった作家たちに影響を与えた一冊として、また60年代から70年代の昭和の時代的空気感を追体験したい人にもオススメ。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820
No.143
(5pt)

著者の転換点的代表作

"かれらはこれに参加することで、百年を跳びこえて万延元年の一揆を追体験する興奮を感じているんだ。これは想像力の暴動だ"1967年発刊の本書は60年代、70年当時の安保闘争と共振しつつ、ノーベル賞受賞者の著者にとって"私"から"神話"の創造へ。執筆活動の大きな転換点となった代表作。

個人的には主宰する読書会の課題図書の一冊として著者作は『同時代ゲーム』に続く2冊目として手にとりました。

さて、そんな本書は友人の奇妙な自死、障害児の出産、安保運動など【それぞれに心に傷を負った人物たち】が故郷の四国の村に到着、ある事をきっかけにして100年前の一揆をなぞるように暴動が起こるわけですが。

先に読んだ『同時代ゲーム』同様に観念的な告白やイメージが続く冒頭こそ読みづらかったものの(意図的?)どこか【異様な緊張感のあるフットボールチームの結成】の中盤から後半にかけて次々と反復的、メタファー的な出来事が出現、そしてラストの【悲劇からのどんでん返し、再生】といった流れがフォークナーの影響、昭和的な同時代の濃さ、柳田國男や折口信夫の民俗学的土着さ、そしてサルトルの実存主義、構造主義を取り込むカオスさで【迫力をもってごっちゃ煮的に展開されていて】夢中になって読み終えました。

また、読んでいる時は全然気づかなかったのですが(また本人は否定しているらしいのですが)村上春樹の『1973年のピンボール』が本書のパロディと柄谷行人に指摘されている事を知ったのも小さな驚きでした【全体の印象は全く異なりますが】確かにタイトルだけでなく『本当のことを言おうか』のセリフ、翻訳の仕事や友人の自殺、鼠、そして『穴の中へ降りていく』とパーツ的には重なる部分に(ハルキストの方には悪いですが)【これは確信犯だな】とニヤリとしました。

中上健次や村上春樹、そして中村文則といった作家たちに影響を与えた一冊として、また60年代から70年代の昭和の時代的空気感を追体験したい人にもオススメ。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.142
(5pt)

日本史的傑作

なぜこの作品が素晴らしいのか、ということを考えたときに、その素晴らしさを批評的に答えられる人はいないと思う。簡単なのは大江氏自身の歴史的洞察力の浅さ・感情過多な部分を全てだとして、作品価値を貶めることである。
しかし、本当に問題なのは「なぜこれが名作足り得るか」ということである。ノーベル賞の受賞のきっかけ、または戦後日本を文学から語る上で外せない作品となった(そうされた)のは、なぜなのだろうか。

大江氏は「日本文学は特殊なものではないことを世界に伝えよう」と思っていたことが、インタビューでも述べられている。特殊なものとは、すなわち川端康成らを筆頭に肯定された日本観であり、「もののあはれ」の価値観の文学であった。川端は日本人的なかなしみを描いたことが世界で評価された。すなわち、世界基準で見たときの日本人らしさではなく、一種文化遺産としての評価、日本人の文化は世界から異端のものとした上で認められたのである。
そうした「日本人的価値」だけとして終わりかけていた文壇に、大江氏はその潮流を打破しようと世界に通ずる文学を目指したのである。
事実、彼は障害児との共生や自分の血筋をめぐる歴史的考察--結論として言えば、命は一つのところにあり、死んだあとにはそこに戻ること--を描いた現代人の作家として、ノーベル賞を受賞する。
これを日本の文壇に置いてみると、世界基準に日本文学を合わせようとした彼の作品は、全くの駄作、日本的でない文学に見えるかもしれない。それは文学を歴史として受け継いでいくものと勝手に解釈している現代人の傲慢である、ということは置いといても、彼の受賞はすなわち世界人として認められたことであり、世界が日本人を見る目が変わったきっかけになったとも言える。なので、私の拙い考察では述べることが難しいが、万延元年のフットボールは日本文学を世界基準にまで引き上げた作品として、その価値が高いとされるものだと解している。

日本的でないことが、かえって日本を心から考えた結果であるというのは、彼の政治姿勢と似通うものがある。愛国心とは、すなわち己と引き合わせ、冷静に国(文学)を批評した賜物ではなかろうか、と思うのだが、なかなかそうは理解されないのも、大江氏らしい。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.141
(5pt)

日本史的傑作

なぜこの作品が素晴らしいのか、ということを考えたときに、その素晴らしさを批評的に答えられる人はいないと思う。簡単なのは大江氏自身の歴史的洞察力の浅さ・感情過多な部分を全てだとして、作品価値を貶めることである。
しかし、本当に問題なのは「なぜこれが名作足り得るか」ということである。ノーベル賞の受賞のきっかけ、または戦後日本を文学から語る上で外せない作品となった(そうされた)のは、なぜなのだろうか。

大江氏は「日本文学は特殊なものではないことを世界に伝えよう」と思っていたことが、インタビューでも述べられている。特殊なものとは、すなわち川端康成らを筆頭に肯定された日本観であり、「もののあはれ」の価値観の文学であった。川端は日本人的なかなしみを描いたことが世界で評価された。すなわち、世界基準で見たときの日本人らしさではなく、一種文化遺産としての評価、日本人の文化は世界から異端のものとした上で認められたのである。
そうした「日本人的価値」だけとして終わりかけていた文壇に、大江氏はその潮流を打破しようと世界に通ずる文学を目指したのである。
事実、彼は障害児との共生や自分の血筋をめぐる歴史的考察--結論として言えば、命は一つのところにあり、死んだあとにはそこに戻ること--を描いた現代人の作家として、ノーベル賞を受賞する。
これを日本の文壇に置いてみると、世界基準に日本文学を合わせようとした彼の作品は、全くの駄作、日本的でない文学に見えるかもしれない。それは文学を歴史として受け継いでいくものと勝手に解釈している現代人の傲慢である、ということは置いといても、彼の受賞はすなわち世界人として認められたことであり、世界が日本人を見る目が変わったきっかけになったとも言える。なので、私の拙い考察では述べることが難しいが、万延元年のフットボールは日本文学を世界基準にまで引き上げた作品として、その価値が高いとされるものだと解している。

日本的でないことが、かえって日本を心から考えた結果であるというのは、彼の政治姿勢と似通うものがある。愛国心とは、すなわち己と引き合わせ、冷静に国(文学)を批評した賜物ではなかろうか、と思うのだが、なかなかそうは理解されないのも、大江氏らしい。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.140
(5pt)

日本史的傑作

なぜこの作品が素晴らしいのか、ということを考えたときに、その素晴らしさを批評的に答えられる人はいないと思う。簡単なのは大江氏自身の歴史的洞察力の浅さ・感情過多な部分を全てだとして、作品価値を貶めることである。
しかし、本当に問題なのは「なぜこれが名作足り得るか」ということである。ノーベル賞の受賞のきっかけ、または戦後日本を文学から語る上で外せない作品となった(そうされた)のは、なぜなのだろうか。

大江氏は「日本文学は特殊なものではないことを世界に伝えよう」と思っていたことが、インタビューでも述べられている。特殊なものとは、すなわち川端康成らを筆頭に肯定された日本観であり、「もののあはれ」の価値観の文学であった。川端は日本人的なかなしみを描いたことが世界で評価された。すなわち、世界基準で見たときの日本人らしさではなく、一種文化遺産としての評価、日本人の文化は世界から異端のものとした上で認められたのである。
そうした「日本人的価値」だけとして終わりかけていた文壇に、大江氏はその潮流を打破しようと世界に通ずる文学を目指したのである。
事実、彼は障害児との共生や自分の血筋をめぐる歴史的考察--結論として言えば、命は一つのところにあり、死んだあとにはそこに戻ること--を描いた現代人の作家として、ノーベル賞を受賞する。
これを日本の文壇に置いてみると、世界基準に日本文学を合わせようとした彼の作品は、全くの駄作、日本的でない文学に見えるかもしれない。それは文学を歴史として受け継いでいくものと勝手に解釈している現代人の傲慢である、ということは置いといても、彼の受賞はすなわち世界人として認められたことであり、世界が日本人を見る目が変わったきっかけになったとも言える。なので、私の拙い考察では述べることが難しいが、万延元年のフットボールは日本文学を世界基準にまで引き上げた作品として、その価値が高いとされるものだと解している。

日本的でないことが、かえって日本を心から考えた結果であるというのは、彼の政治姿勢と似通うものがある。愛国心とは、すなわち己と引き合わせ、冷静に国(文学)を批評した賜物ではなかろうか、と思うのだが、なかなかそうは理解されないのも、大江氏らしい。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820
No.139
(5pt)

日本史的傑作

なぜこの作品が素晴らしいのか、ということを考えたときに、その素晴らしさを批評的に答えられる人はいないと思う。簡単なのは大江氏自身の歴史的洞察力の浅さ・感情過多な部分を全てだとして、作品価値を貶めることである。
しかし、本当に問題なのは「なぜこれが名作足り得るか」ということである。ノーベル賞の受賞のきっかけ、または戦後日本を文学から語る上で外せない作品となった(そうされた)のは、なぜなのだろうか。

大江氏は「日本文学は特殊なものではないことを世界に伝えよう」と思っていたことが、インタビューでも述べられている。特殊なものとは、すなわち川端康成らを筆頭に肯定された日本観であり、「もののあはれ」の価値観の文学であった。川端は日本人的なかなしみを描いたことが世界で評価された。すなわち、世界基準で見たときの日本人らしさではなく、一種文化遺産としての評価、日本人の文化は世界から異端のものとした上で認められたのである。
そうした「日本人的価値」だけとして終わりかけていた文壇に、大江氏はその潮流を打破しようと世界に通ずる文学を目指したのである。
事実、彼は障害児との共生や自分の血筋をめぐる歴史的考察--結論として言えば、命は一つのところにあり、死んだあとにはそこに戻ること--を描いた現代人の作家として、ノーベル賞を受賞する。
これを日本の文壇に置いてみると、世界基準に日本文学を合わせようとした彼の作品は、全くの駄作、日本的でない文学に見えるかもしれない。それは文学を歴史として受け継いでいくものと勝手に解釈している現代人の傲慢である、ということは置いといても、彼の受賞はすなわち世界人として認められたことであり、世界が日本人を見る目が変わったきっかけになったとも言える。なので、私の拙い考察では述べることが難しいが、万延元年のフットボールは日本文学を世界基準にまで引き上げた作品として、その価値が高いとされるものだと解している。

日本的でないことが、かえって日本を心から考えた結果であるというのは、彼の政治姿勢と似通うものがある。愛国心とは、すなわち己と引き合わせ、冷静に国(文学)を批評した賜物ではなかろうか、と思うのだが、なかなかそうは理解されないのも、大江氏らしい。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.138
(5pt)

大江文学のターニングポイントを示す小説

この小説が出たときすぐに購入して読んだ。奥付には昭和42年9月12日第1刷発行と書いてある。私が二十歳になる直前である。私はこの小説以前の大江健三郎の小説は新潮社から出ていた『大江健三郎全作品』全六巻で全て読んでいたので、すんなりとこの小説に入っていくことができたが、いきになりこの小説を読むと難解さを感じるかもしれない。この小説の前の作品『個人的体験』から大江文学は変わり始め、この作品で大きく変わった。その意味でこの作品は大江文学の中期作品の嚆矢といえるものだ。私は高校生までは作家になりたいと思っていたのだが、大江健三郎を読んで、こんなすごい作家がいるのでは到底敵わないと思って諦めた。この作品が出た当時は世界中でベトナム反戦運動からスチューデント・パワーが爆発しかけている時代だった。大江文学を一番愛読したのは私たちいわゆる「団塊の世代」だったのかもしれない。大江文学の特徴は世界的問題、すなわち近代のもたらした「地獄」を若い世代はどう生きるかを表現していると私は思っている。大江健三郎がその小説で提起した問題は何一つ解決されることなく現在に至っており、むしろ、問題は深まる一方である。安倍晋三のようなクズが日本の首相に居座っている現在、この小説は価値を失っていない。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.137
(5pt)

大江文学のターニングポイントを示す小説

この小説が出たときすぐに購入して読んだ。奥付には昭和42年9月12日第1刷発行と書いてある。私が二十歳になる直前である。私はこの小説以前の大江健三郎の小説は新潮社から出ていた『大江健三郎全作品』全六巻で全て読んでいたので、すんなりとこの小説に入っていくことができたが、いきになりこの小説を読むと難解さを感じるかもしれない。この小説の前の作品『個人的体験』から大江文学は変わり始め、この作品で大きく変わった。その意味でこの作品は大江文学の中期作品の嚆矢といえるものだ。私は高校生までは作家になりたいと思っていたのだが、大江健三郎を読んで、こんなすごい作家がいるのでは到底敵わないと思って諦めた。この作品が出た当時は世界中でベトナム反戦運動からスチューデント・パワーが爆発しかけている時代だった。大江文学を一番愛読したのは私たちいわゆる「団塊の世代」だったのかもしれない。大江文学の特徴は世界的問題、すなわち近代のもたらした「地獄」を若い世代はどう生きるかを表現していると私は思っている。大江健三郎がその小説で提起した問題は何一つ解決されることなく現在に至っており、むしろ、問題は深まる一方である。安倍晋三のようなクズが日本の首相に居座っている現在、この小説は価値を失っていない。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.136
(5pt)

大江文学のターニングポイントを示す小説

この小説が出たときすぐに購入して読んだ。奥付には昭和42年9月12日第1刷発行と書いてある。私が二十歳になる直前である。私はこの小説以前の大江健三郎の小説は新潮社から出ていた『大江健三郎全作品』全六巻で全て読んでいたので、すんなりとこの小説に入っていくことができたが、いきになりこの小説を読むと難解さを感じるかもしれない。この小説の前の作品『個人的体験』から大江文学は変わり始め、この作品で大きく変わった。その意味でこの作品は大江文学の中期作品の嚆矢といえるものだ。私は高校生までは作家になりたいと思っていたのだが、大江健三郎を読んで、こんなすごい作家がいるのでは到底敵わないと思って諦めた。この作品が出た当時は世界中でベトナム反戦運動からスチューデント・パワーが爆発しかけている時代だった。大江文学を一番愛読したのは私たちいわゆる「団塊の世代」だったのかもしれない。大江文学の特徴は世界的問題、すなわち近代のもたらした「地獄」を若い世代はどう生きるかを表現していると私は思っている。大江健三郎がその小説で提起した問題は何一つ解決されることなく現在に至っており、むしろ、問題は深まる一方である。安倍晋三のようなクズが日本の首相に居座っている現在、この小説は価値を失っていない。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820
No.135
(5pt)

大江文学のターニングポイントを示す小説

この小説が出たときすぐに購入して読んだ。奥付には昭和42年9月12日第1刷発行と書いてある。私が二十歳になる直前である。私はこの小説以前の大江健三郎の小説は新潮社から出ていた『大江健三郎全作品』全六巻で全て読んでいたので、すんなりとこの小説に入っていくことができたが、いきになりこの小説を読むと難解さを感じるかもしれない。この小説の前の作品『個人的体験』から大江文学は変わり始め、この作品で大きく変わった。その意味でこの作品は大江文学の中期作品の嚆矢といえるものだ。私は高校生までは作家になりたいと思っていたのだが、大江健三郎を読んで、こんなすごい作家がいるのでは到底敵わないと思って諦めた。この作品が出た当時は世界中でベトナム反戦運動からスチューデント・パワーが爆発しかけている時代だった。大江文学を一番愛読したのは私たちいわゆる「団塊の世代」だったのかもしれない。大江文学の特徴は世界的問題、すなわち近代のもたらした「地獄」を若い世代はどう生きるかを表現していると私は思っている。大江健三郎がその小説で提起した問題は何一つ解決されることなく現在に至っており、むしろ、問題は深まる一方である。安倍晋三のようなクズが日本の首相に居座っている現在、この小説は価値を失っていない。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.134
(5pt)

ノーベル賞級の作品の歴史洞察の射程

大江健三郎のノーベル賞の受賞理由の記された文書に代表作として挙げられているのが本書「万延元年のフットボール」(1967)であり、そのノーベル賞の受賞の記念講演が「あいまいな日本の私」(1994)であるが、もちろん両者は繋がっている。 「あいまいな日本の私」で述べられているのは、日本という国は、万延元年のころ開国を迫られて以来、日本と西欧の両極にアンビギュアスに引き裂かれ、そのことによって条件付けられた歴史を辿り、それ故の傷を(これは勿論日本に侵略されたアジアの国も)負った、ということだが、日本という国の抱え込むアンビギュイティが「万延元年」に縦横に張り巡らされるよう書かれている。 /小説の背景の安保闘争というのがアンビギュアスなものであった。日本の中で激しい意見対立があり、両陣営に分かれて争ったことがそもそも両義性なわけだが、両陣営ともそれぞれ両義性を抱えていた。左翼の安保反対には反米という愛国的情念は拭難くあったであろうし、vice versaで右翼も戦勝国アメリカに屈服する怨恨を抱え込んだ。この両義的なものが複雑にからみあったコンプレックスはいまの日本においても解消されず残っているだろう。/ 主人公たちが帰郷する村には、西欧化の帰結である経済の進展によってスーパー・マーケットが進出している。これには一方において消費経済の魅惑であるが、一方で社会の均質化・地縁共同体の解体という傷をもたらす。グローバライゼーションの問題を大江は既に1960年代に作品に書き込んでいる。/作中、スーパー・マーケットの経営者が在日コリアンであるのも事態を複雑化している。当初は西欧化に抵抗したものの路線転換し「脱亜入欧」し、後進的なものと蔑視していた隣人が、経済的に優位にたっている。そこからもたらされる鬱屈した情念は暴動に発展するわけだが、こういう事態も非常に今日的である。この蔑視の対象が作中「天皇」と呼ばれるのもアイロニカルで含むところは大きいだろう。/こうやってつらつらと書いてきて、作家はいまなおリアルな問題、というよりもむしろ執筆当時以上に、グローバライゼーションの進展、社会的無意識=汚いホンネがダダ漏れに露呈する技術条件であるインターネットの普及、により1990年代後半ごろからよりクッキリと見えてきた問題群を1960年代において完全に視界に入れているのに驚かされる。経済不安の鬱屈のはけ口のヘイトデモやネット書き込み、被害者意識と蔑視感情のコンプレックスの歴史修正主義、そうしたネットウヨク的問題の構造はノーベル賞級の巨人的な作家からすれば「「想像力」的には大昔にとっくに全部見通し済みだぜ」ということなのである。図星を突かれた彼らがネットで血相変えて大江叩きにはしるのも気持ちはわからなくはない。

・・・と、こういう紹介をすると、最近の若い人の政治忌避の流れから「そういう重たい話はちょっと・・・」となってもよくないので付言すると、本書はまことに多面的な世界であり、上記は多面のなかの一面から本書の洞察の深さを語ってみただけであって、ノーベル賞が”fundamentally the novel deals with people’s relationships with each other in a confusing world in which knowledge, passions, dreams, ambitions and attitudes merge into each other.(基本的には、この小説は、知識、情熱、夢、野望、態度が溶け合った混乱した世界における人々の関係を取り扱っている)”と世界に向けて紹介している通り、本作はある国の特殊事情を語っているだけではない誰でも共感できる普遍的な物語である。主人公夫婦には知的に障害を持った子供が生まれ、その失意から関係が崩壊している。彼ら崩壊家族の恢復の物語がこの多面的世界を貫く基軸である。

自分がレビュアーとして多くの人に本書を手に取って欲しい理由として、本書の魅力として第一に挙げたいのは、本書の破格の文体である。大江の文章は、彼を否定した向きから鬼の首をとったように「悪文だ」などと言われるわけだが「美しい日本の私の美しい日本語」などというのはジョイスやらフォークナーやらを経た後の20世紀の世界文学の課題では全くないのであって、全く批判が届いていない。退屈な美しさなど破砕しながら、イメージの奔流が怒濤のように押し寄せてトグロを巻く本書を母語で読めるということは令和元年、「美しい国へ」とかいうスローガンがいよいよお笑いになってきた、洒落にならないこの国に生きていて得られるすくない僥倖の一つといえるであろう。是非、本屋で手にとって(kindleでもお試しの無料サンプルをダウンロードして)第一章の「死者にみちびかれて」を5、6ページ読んでみて欲しい。
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.133
(5pt)

ノーベル賞級の作品の歴史洞察の射程

大江健三郎のノーベル賞の受賞理由の記された文書に代表作として挙げられているのが本書「万延元年のフットボール」(1967)であり、そのノーベル賞の受賞の記念講演が「あいまいな日本の私」(1994)であるが、もちろん両者は繋がっている。 「あいまいな日本の私」で述べられているのは、日本という国は、万延元年のころ開国を迫られて以来、日本と西欧の両極にアンビギュアスに引き裂かれ、そのことによって条件付けられた歴史を辿り、それ故の傷を(これは勿論日本に侵略されたアジアの国も)負った、ということだが、それが「万延元年」に縦横に張り巡らされるよう書かれている。 /小説の背景の安保闘争というのがアンビギュアスなものであった。日本の中で激しい意見対立があり、両陣営に分かれて争ったことがそもそも両義性なわけだが、両陣営ともそれぞれ両義性を抱えていた。左翼の安保反対には反米という愛国的情念は拭難くあったであろうし、vice versaで右翼も戦勝国アメリカに屈服する怨恨を抱え込んだ。この両義的なものが複雑にからみあったコンプレックスはいまの日本においても解消されず残っているだろう。/ 主人公たちが帰郷する村には、西欧化の帰結である経済の進展によってスーパー・マーケットが進出している。これには一方において消費経済の魅惑であるが、一方で社会の均質化・地縁共同体の解体という傷をもたらす。グローバライゼーションの問題を大江は既に1960年代に作品に書き込んでいる。/作中、スーパー・マーケットの経営者が在日コリアンであるのも事態を複雑化している。当初は西欧化に抵抗したものの路線転換し「脱亜入欧」し、後進的なものと蔑視していた隣人が、経済的に優位にたっている。そこからもたらされる鬱屈した情念は暴動に発展するわけだが、こういう事態も非常に今日的である。この蔑視の対象が作中「天皇」と呼ばれるのもアイロニカルで含むところは大きいだろう。/こうやってつらつらと書いてきて、作家はいまなおリアルな問題、というよりもむしろ執筆当時以上に、グローバライゼーションの進展、社会的無意識=汚いホンネがダダ漏れに露呈する技術条件であるインターネットの普及、により1990年代後半ごろからよりクッキリと見えてきた問題群を1960年代において完全に視界に入れているのに驚かされる。経済不安の鬱屈のはけ口のヘイトデモやネット書き込み、被害者意識と蔑視感情のコンプレックスの歴史修正主義、そうしたネットウヨク的問題の構造はノーベル賞級の巨人的な作家からすれば「「想像力」的には大昔にとっくに全部見通し済みだぜ」ということなのである。図星を突かれた彼らがネットで血相変えて大江叩きにはしるのも気持ちはわからなくはない。

・・・と、こういう紹介をすると、最近の若い人の政治忌避の流れから「そういう重たい話はちょっと・・・」となってもよくないので付言すると、本書はまことに多面的な世界であり、上記は多面のなかの一面から本書の洞察の深さを語ってみただけであって、ノーベル賞が”fundamentally the novel deals with people’s relationships with each other in a confusing world in which knowledge, passions, dreams, ambitions and attitudes merge into each other.(基本的には、この小説は、知識、情熱、夢、野望、態度が溶け合った混乱した世界における人々の関係を取り扱っている)”と世界に向けて紹介している通り、本作はある国の特殊事情を語っているだけではない誰でも共感できる普遍的な物語である。主人公夫婦には知的に障害を持った子供が生まれ、その失意から関係が崩壊している。彼ら崩壊家族の恢復の物語がこの多面的世界を貫く基軸である。

自分がレビュアーとして多くの人に本書を手に取って欲しい理由として、本書の魅力として第一に挙げたいのは、本書の破格の文体である。大江の文章は、彼を否定した向きから鬼の首をとったように「悪文だ」などと言われるわけだが「美しい日本の私の美しい日本語」などというのはジョイスやらフォークナーやらを経た後の20世紀の世界文学の課題では全くないのであって、全く批判が届いていない。退屈な美しさなど破砕しながら、イメージの奔流が怒濤のように押し寄せてトグロを巻く本書を母語で読めるということは令和元年、「美しい国へ」とかいうスローガンがいよいよお笑いになってきた、洒落にならないこの国に生きていて得られるすくない僥倖の一つといえるであろう。是非、本屋で手にとって(kindleでもお試しの無料サンプルをダウンロードして)第一章の「死者にみちびかれて」を5、6ページ読んでみて欲しい。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.132
(5pt)

ノーベル賞級の作品の歴史洞察の射程

大江健三郎のノーベル賞の受賞理由の記された文書に代表作として挙げられているのが本書「万延元年のフットボール」(1967)であり、そのノーベル賞の受賞の記念講演が「あいまいな日本の私」(1994)であるが、もちろん両者は繋がっている。 「あいまいな日本の私」で述べられているのは、日本という国は、万延元年のころ開国を迫られて以来、日本と西欧の両極にアンビギュアスに引き裂かれ、そのことによって条件付けられた歴史を辿り、それ故の傷を(これは勿論日本に侵略されたアジアの国も)負った、ということだが、それが「万延元年」に縦横に張り巡らされるよう書かれている。 /小説の背景の安保闘争というのがアンビギュアスなものであった。日本の中で激しい意見対立があり、両陣営に分かれて争ったことがそもそも両義性なわけだが、両陣営ともそれぞれ両義性を抱えていた。左翼の安保反対には反米という愛国的情念は拭難くあったであろうし、vice versaで右翼も戦勝国アメリカに屈服する怨恨を抱え込んだ。この両義的なものが複雑にからみあったコンプレックスはいまの日本においても解消されず残っているだろう。/ 主人公たちが帰郷する村には、西欧化の帰結である経済の進展によってスーパー・マーケットが進出している。これには一方において消費経済の魅惑であるが、一方で社会の均質化・地縁共同体の解体という傷をもたらす。グローバライゼーションの問題を大江は既に1960年代に作品に書き込んでいる。/作中、スーパー・マーケットの経営者が在日コリアンであるのも事態を複雑化している。当初は西欧化に抵抗したものの路線転換し「脱亜入欧」し、後進的なものと蔑視していた隣人が、経済的に優位にたっている。そこからもたらされる鬱屈した情念は暴動に発展するわけだが、こういう事態も非常に今日的である。この蔑視の対象が作中「天皇」と呼ばれるのもアイロニカルで含むところは大きいだろう。/こうやってつらつらと書いてきて、作家はいまなおリアルな問題、というよりもむしろ執筆当時以上に、グローバライゼーションの進展、社会的無意識=汚いホンネがダダ漏れに露呈する技術条件であるインターネットの普及、により1990年代後半ごろからよりクッキリと見えてきた問題群を1960年代において完全に視界に入れているのに驚かされる。経済不安の鬱屈のはけ口のヘイトデモやネット書き込み、被害者意識と蔑視感情のコンプレックスの歴史修正主義、そうしたネットウヨク的問題の構造はノーベル賞級の巨人的な作家からすれば「「想像力」的には大昔にとっくに全部見通し済みだぜ」ということなのである。図星を突かれた彼らがネットで血相変えて大江叩きにはしるのも気持ちはわからなくはない。

・・・と、こういう紹介をすると、最近の若い人の政治忌避の流れから「そういう重たい話はちょっと・・・」となってもよくないので付言すると、本書はまことに多面的な世界であり、上記は多面のなかの一面から本書の洞察の深さを語ってみただけであって、ノーベル賞が”fundamentally the novel deals with people’s relationships with each other in a confusing world in which knowledge, passions, dreams, ambitions and attitudes merge into each other.(基本的には、この小説は、知識、情熱、夢、野望、態度が溶け合った混乱した世界における人々の関係を取り扱っている)”と世界に向けて紹介している通り、本作はある国の特殊事情を語っているだけではない誰でも共感できる普遍的な物語である。主人公夫婦には知的に障害を持った子供が生まれ、その失意から関係が崩壊している。彼ら崩壊家族の恢復の物語がこの多面的世界を貫く基軸である。

自分がレビュアーとして多くの人に本書を手に取って欲しい理由として、本書の魅力として第一に挙げたいのは、本書の破格の文体である。大江の文章は、彼を否定した向きから鬼の首をとったように「悪文だ」などと言われるわけだが「美しい日本の私の美しい日本語」などというのはジョイスやらフォークナーやらを経た後の20世紀の世界文学の課題では全くないのであって、全く批判が届いていない。退屈な美しさなど破砕しながら、イメージの奔流が怒濤のように押し寄せてトグロを巻く本書を母語で読めるということは令和元年、「美しい国へ」とかいうスローガンがいよいよお笑いになってきた、洒落にならないこの国に生きていて得られるすくない僥倖の一つといえるであろう。是非、本屋で手にとって(kindleでもお試しの無料サンプルをダウンロードして)第一章の「死者にみちびかれて」を5、6ページ読んでみて欲しい。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275
No.131
(5pt)

ノーベル賞級の作品の歴史洞察の射程

大江健三郎のノーベル賞の受賞理由の記された文書に代表作として挙げられているのが本書「万延元年のフットボール」(1967)であり、そのノーベル賞の受賞の記念講演が「あいまいな日本の私」(1994)であるが、もちろん両者は繋がっている。 「あいまいな日本の私」で述べられているのは、日本という国は、万延元年のころ開国を迫られて以来、日本と西欧の両極にアンビギュアスに引き裂かれ、そのことによって条件付けられた歴史を辿り、それ故の傷を(これは勿論日本に侵略されたアジアの国も)負った、ということだが、それが「万延元年」に縦横に張り巡らされるよう書かれている。 /小説の背景の安保闘争というのがアンビギュアスなものであった。日本の中で激しい意見対立があり、両陣営に分かれて争ったことがそもそも両義性なわけだが、両陣営ともそれぞれ両義性を抱えていた。左翼の安保反対には反米という愛国的情念は拭難くあったであろうし、vice versaで右翼も戦勝国アメリカに屈服する怨恨を抱え込んだ。この両義的なものが複雑にからみあったコンプレックスはいまの日本においても解消されず残っているだろう。/ 主人公たちが帰郷する村には、西欧化の帰結である経済の進展によってスーパー・マーケットが進出している。これには一方において消費経済の魅惑であるが、一方で社会の均質化・地縁共同体の解体という傷をもたらす。グローバライゼーションの問題を大江は既に1960年代に作品に書き込んでいる。/作中、スーパー・マーケットの経営者が在日コリアンであるのも事態を複雑化している。当初は西欧化に抵抗したものの路線転換し「脱亜入欧」し、後進的なものと蔑視していた隣人が、経済的に優位にたっている。そこからもたらされる鬱屈した情念は暴動に発展するわけだが、こういう事態も非常に今日的である。この蔑視の対象が作中「天皇」と呼ばれるのもアイロニカルで含むところは大きいだろう。/こうやってつらつらと書いてきて、作家はいまなおリアルな問題、というよりもむしろ執筆当時以上に、グローバライゼーションの進展、社会的無意識=汚いホンネがダダ漏れに露呈する技術条件であるインターネットの普及、により1990年代後半ごろからよりクッキリと見えてきた問題群を1960年代において完全に視界に入れているのに驚かされる。経済不安の鬱屈のはけ口のヘイトデモやネット書き込み、被害者意識と蔑視感情のコンプレックスの歴史修正主義、そうしたネットウヨク的問題の構造はノーベル賞級の巨人的な作家からすれば「「想像力」的には大昔にとっくに全部見通し済みだぜ」ということなのである。図星を突かれた彼らがネットで血相変えて大江叩きにはしるのも気持ちはわからなくはない。

・・・と、こういう紹介をすると、最近の若い人の政治忌避の流れから「そういう重たい話はちょっと・・・」となってもよくないので付言すると、本書はまことに多面的な世界であり、上記は多面のなかの一面から本書の洞察の深さを語ってみただけであって、ノーベル賞が”fundamentally the novel deals with people’s relationships with each other in a confusing world in which knowledge, passions, dreams, ambitions and attitudes merge into each other.(基本的には、この小説は、知識、情熱、夢、野望、態度が溶け合った混乱した世界における人々の関係を取り扱っている)”と世界に向けて紹介している通り、本作はある国の特殊事情を語っているだけではない誰でも共感できる普遍的な物語である。主人公夫婦には知的に障害を持った子供が生まれ、その失意から関係が崩壊している。彼ら崩壊家族の恢復の物語がこの多面的世界を貫く基軸である。

自分がレビュアーとして多くの人に本書を手に取って欲しい理由として、本書の魅力として第一に挙げたいのは、本書の破格の文体である。大江の文章は、彼を否定した向きから鬼の首をとったように「悪文だ」などと言われるわけだが「美しい日本の私の美しい日本語」などというのはジョイスやらフォークナーやらを経た後の20世紀の世界文学の課題では全くないのであって、全く批判が届いていない。退屈な美しさなど破砕しながら、イメージの奔流が怒濤のように押し寄せてトグロを巻く本書を母語で読めるということは令和元年、「美しい国へ」とかいうスローガンがいよいよお笑いになってきた、洒落にならないこの国に生きていて得られるすくない僥倖の一つといえるであろう。是非、本屋で手にとって(kindleでもお試しの無料サンプルをダウンロードして)第一章の「死者にみちびかれて」を5、6ページ読んでみて欲しい。
万延元年のフットボール Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボールより
4061121820
No.130
(1pt)

日本文学が教養であることを放棄した墓標としての作品

初読の際に著者の才能に驚嘆した。文章として際限なく繰り出される想像力。神経の襞に分け入るような繊細な感覚描写。簡単に日常から非現実にまで跳躍する自由度の高い文体
 しかし私は読み進めるほどにげんなりする一方だった。なぜというに著者がそのころ展開していた全体小説論を先に知っていたからだ(本当はそこがあいまいで、野間宏との対談がそのころ多かったと記憶するが、完全にそちら側に立った発言をしていたかどうかはわからない。ただ、大江氏がそういうものとして小説を考えていたという前提でこの作品を読んだという記憶だけがある。野間宏との距離感は改めて検証するべきことだが、流石にその気力はない。その点は申し訳ない)
 それは簡単に言うと人間の総合的知性の最高度に体現された成果として小説がある、ということだ。人間学や科学と並ぶ一つの部門として優れているということではない。正確な科学的知識、正確な政治学社会学的知見を盛り込み、しかしそれらは部分的な知に過ぎないが、小説家の神のごとき全能によって、部分をはるかに凌駕する至高の英知的存在としての小説が生み出される
 野間宏本人の言葉か、大江氏の追従かは忘れたが、「青年の環」の登場人物は描写ではない、本物の神経が通い本物の血肉の備わった人間存在そのものであるという発言があり、これが比喩などではなく事実として語られていた。さすがにそれはない、と思った
 全体小説論は私の記憶違いとして、フィクションを超えた深い意義が自分の作品にはあるという信念は変わっていないと思う。一連のことは作家としてのプライドが言わせる言葉とは思えなかった。それを超えて、他職業への侮蔑、夜郎自大精神の発露として彼らの文学論があるのだと読めた。ヒロシマ・ノートにおける内容の空疎さと、それでいておのれ一人が真実を見抜く慧眼を持つという、あの本全体に漂ううぬぼれぶりに驚き、なぜこんなものを読ませるのかという高校時代の不信感もあって、「万延元年の…」は決定的に不愉快な読書体験として残った
 大江氏の才能には確かに驚いた。しかしそれはアニメにおけるぬるぬる動くということに対する賞賛と同種のものだろう。その部分のみに対する評価から、あの作品はよい、あれはダメ、ということにはなかなかならない。私はそういうマニアではない
 実際に本作でも、最初の三分の一ほど、私小説流の技術を存分に使って読者を巻き込むそのリアリティは、後半の喧騒じみたたわごとを支えきれていない。一つの現実の描写として、説得力のある心理=観念的表現が、寓話としての含みを持たせられた途端、ただ煩雑なだけの技巧になってしまう。主人公が内面を語るそれと同じ感覚描写で他人の内面を語ってしまうことが癇に障ってくる
 以上のことは氏の創作物を丁寧に読むならわかってもらえることと思う

 大江氏の政治的発言などを文学的成果から切り離そうとする人がいる。しかしそういう見方を拒絶してきたのがほかならぬ大江氏自身である。政治的態度と文学は切り離しの出来ない一続きの人間的行為である、というのは氏の心の師匠であるサルトル譲りのものだ。そのサルトルについてあるときから言及がなくなったのは、ノーベル賞が視野に入り始めたころというところが、また彼らしい。いうまでもなくサルトルはノーベル賞の偽善性について散々に酷評していた
 私が言いたいのは、大江氏の政治についての意見は、部外者だから知識が足りないなどという限度を超えていて、ここまで未熟な人間が、例えば人間観察においては天才を発揮するなどということはとても信じられないほどである、ということ。もちろん人間として問題があっても、逆に作家としての魅力ではありうる。全能感を持つことは悪いことではない。しかしそれを作品に美しく閉じ込めることは難しく、必要な客観化は氏の小説において不十分だと私は思う
 大江作品を私小説の発展形態と解釈することが擁護派の共通理解だと思うが、氏の世界性は特権意識と不可分のものである。つまり自分だけが「私」を描いて民俗学的な根源に迫りうる、あるいは世界の構造を体現しうるという病的なうぬぼれが根底にあるのではないか

 改めて読み直して、やはり才能のすごさを再確認した。しかし幼児的な世界だとも思った。小説に可能なことと不可能なことの規を超えた作品ではないか。非常に微妙な言い方になるが、到達目標として全体小説を目指すということと、おのれの全能感から簡単に到達可能であると信じることには、埋まらない溝があるように思う。前者がトルストイやプルーストであり、後者が野間や大江氏である
 本作を近代最高の作に推す作家、評論家の多いことは残念だ。ヒロシマ・ノートやノーベル賞受賞記念講演を読むに、無様なまでの論理性の欠如に唖然とする。それは小説作品にもある程度通底するもので、それが読み取れないのは知識人として致命的な鈍さだろう
 大江氏を見て純文学なんていかがわしいものだと多くの人は感じたはずだ。文学者という社会適応力のない連中が、仲間内で慰めあうだけの極めてレンジの狭い行為であるという、近代文学が頑張って払拭しようとした見方を、大江氏は元の木阿弥に戻した。文学にかかわる知識人は、このうえ、仲間内でのみ通用する理屈で本作を持ち上げている場合ではないだろう
万延元年のフットボール (1967年) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (1967年)より
B000JA7MU2
No.129
(1pt)

日本文学が教養であることを放棄した墓標としての作品

初読の際に著者の才能に驚嘆した。文章として際限なく繰り出される想像力。神経の襞に分け入るような繊細な感覚描写。簡単に日常から非現実にまで跳躍する自由度の高い文体
 しかし私は読み進めるほどにげんなりする一方だった。なぜというに著者がそのころ展開していた全体小説論を先に知っていたからだ(本当はそこがあいまいで、野間宏との対談がそのころ多かったと記憶するが、完全にそちら側に立った発言をしていたかどうかはわからない。ただ、大江氏がそういうものとして小説を考えていたという前提でこの作品を読んだという記憶だけがある。野間宏との距離感は改めて検証するべきことだが、流石にその気力はない。その点は申し訳ない)
 それは簡単に言うと人間の総合的知性の最高度に体現された成果として小説がある、ということだ。人間学や科学と並ぶ一つの部門として優れているということではない。正確な科学的知識、正確な政治学社会学的知見を盛り込み、しかしそれらは部分的な知に過ぎないが、小説家の神のごとき全能によって、部分をはるかに凌駕する至高の英知的存在としての小説が生み出される
 野間宏本人の言葉か、大江氏の追従かは忘れたが、「青年の環」の登場人物は描写ではない、本物の神経が通い本物の血肉の備わった人間存在そのものであるという発言があり、これが比喩などではなく事実として語られていた。さすがにそれはない、と思った
 全体小説論は私の記憶違いとして、フィクションを超えた深い意義が自分の作品にはあるという信念は変わっていないと思う。一連のことは作家としてのプライドが言わせる言葉とは思えなかった。それを超えて、他職業への侮蔑、夜郎自大精神の発露として彼らの文学論があるのだと読めた。ヒロシマ・ノートにおける内容の空疎さと、それでいておのれ一人が真実を見抜く慧眼を持つという、あの本全体に漂ううぬぼれぶりに驚き、なぜこんなものを読ませるのかという高校時代の不信感もあって、「万延元年の…」は決定的に不愉快な読書体験として残った
 大江氏の才能には確かに驚いた。しかしそれはアニメにおけるぬるぬる動くということに対する賞賛と同種のものだろう。その部分のみに対する評価から、あの作品はよい、あれはダメ、ということにはなかなかならない。私はそういうマニアではない
 実際に本作でも、最初の三分の一ほど、私小説流の技術を存分に使って読者を巻き込むそのリアリティは、後半の喧騒じみたたわごとを支えきれていない。一つの現実の描写として、説得力のある心理=観念的表現が、寓話としての含みを持たせられた途端、ただ煩雑なだけの技巧になってしまう。主人公が内面を語るそれと同じ感覚描写で他人の内面を語ってしまうことが癇に障ってくる
 以上のことは氏の創作物を丁寧に読むならわかってもらえることと思う

 大江氏の政治的発言などを文学的成果から切り離そうとする人がいる。しかしそういう見方を拒絶してきたのがほかならぬ大江氏自身である。政治的態度と文学は切り離しの出来ない一続きの人間的行為である、というのは氏の心の師匠であるサルトル譲りのものだ。そのサルトルについてあるときから言及がなくなったのは、ノーベル賞が視野に入り始めたころというところが、また彼らしい。いうまでもなくサルトルはノーベル賞の偽善性について散々に酷評していた
 私が言いたいのは、大江氏の政治についての意見は、部外者だから知識が足りないなどという限度を超えていて、ここまで未熟な人間が、例えば人間観察においては天才を発揮するなどということはとても信じられないほどである、ということ。もちろん人間として問題があっても、逆に作家としての魅力ではありうる。全能感を持つことは悪いことではない。しかしそれを作品に美しく閉じ込めることは難しく、必要な客観化は氏の小説において不十分だと私は思う
 大江作品を私小説の発展形態と解釈することが擁護派の共通理解だと思うが、氏の世界性は特権意識と不可分のものである。つまり自分だけが「私」を描いて民俗学的な根源に迫りうる、あるいは世界の構造を体現しうるという病的なうぬぼれが根底にあるのではないか

 改めて読み直して、やはり才能のすごさを再確認した。しかし幼児的な世界だとも思った。小説に可能なことと不可能なことの規を超えた作品ではないか。非常に微妙な言い方になるが、到達目標として全体小説を目指すということと、おのれの全能感から簡単に到達可能であると信じることには、埋まらない溝があるように思う。前者がトルストイやプルーストであり、後者が野間や大江氏である
 本作を近代最高の作に推す作家、評論家の多いことは残念だ。ヒロシマ・ノートやノーベル賞受賞記念講演を読むに、無様なまでの論理性の欠如に唖然とする。それは小説作品にもある程度通底するもので、それが読み取れないのは知識人として致命的な鈍さだろう
 大江氏を見て純文学なんていかがわしいものだと多くの人は感じたはずだ。文学者という社会適応力のない連中が、仲間内で慰めあうだけの極めてレンジの狭い行為であるという、近代文学が頑張って払拭しようとした見方を、大江氏は元の木阿弥に戻した。文学にかかわる知識人は、このうえ、仲間内でのみ通用する理屈で本作を持ち上げている場合ではないだろう
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)より
4061960148
No.128
(1pt)

日本文学が教養であることを放棄した墓標としての作品

初読の際に著者の才能に驚嘆した。文章として際限なく繰り出される想像力。神経の襞に分け入るような繊細な感覚描写。簡単に日常から非現実にまで跳躍する自由度の高い文体
 しかし私は読み進めるほどにげんなりする一方だった。なぜというに著者がそのころ展開していた全体小説論を先に知っていたからだ(本当はそこがあいまいで、野間宏との対談がそのころ多かったと記憶するが、完全にそちら側に立った発言をしていたかどうかはわからない。ただ、大江氏がそういうものとして小説を考えていたという前提でこの作品を読んだという記憶だけがある。野間宏との距離感は改めて検証するべきことだが、流石にその気力はない。その点は申し訳ない)
 それは簡単に言うと人間の総合的知性の最高度に体現された成果として小説がある、ということだ。人間学や科学と並ぶ一つの部門として優れているということではない。正確な科学的知識、正確な政治学社会学的知見を盛り込み、しかしそれらは部分的な知に過ぎないが、小説家の神のごとき全能によって、部分をはるかに凌駕する至高の英知的存在としての小説が生み出される
 野間宏本人の言葉か、大江氏の追従かは忘れたが、「青年の環」の登場人物は描写ではない、本物の神経が通い本物の血肉の備わった人間存在そのものであるという発言があり、これが比喩などではなく事実として語られていた。さすがにそれはない、と思った
 全体小説論は私の記憶違いとして、フィクションを超えた深い意義が自分の作品にはあるという信念は変わっていないと思う。一連のことは作家としてのプライドが言わせる言葉とは思えなかった。それを超えて、他職業への侮蔑、夜郎自大精神の発露として彼らの文学論があるのだと読めた。ヒロシマ・ノートにおける内容の空疎さと、それでいておのれ一人が真実を見抜く慧眼を持つという、あの本全体に漂ううぬぼれぶりに驚き、なぜこんなものを読ませるのかという高校時代の不信感もあって、「万延元年の…」は決定的に不愉快な読書体験として残った
 大江氏の才能には確かに驚いた。しかしそれはアニメにおけるぬるぬる動くということに対する賞賛と同種のものだろう。その部分のみに対する評価から、あの作品はよい、あれはダメ、ということにはなかなかならない。私はそういうマニアではない
 実際に本作でも、最初の三分の一ほど、私小説流の技術を存分に使って読者を巻き込むそのリアリティは、後半の喧騒じみたたわごとを支えきれていない。一つの現実の描写として、説得力のある心理=観念的表現が、寓話としての含みを持たせられた途端、ただ煩雑なだけの技巧になってしまう。主人公が内面を語るそれと同じ感覚描写で他人の内面を語ってしまうことが癇に障ってくる
 以上のことは氏の創作物を丁寧に読むならわかってもらえることと思う

 大江氏の政治的発言などを文学的成果から切り離そうとする人がいる。しかしそういう見方を拒絶してきたのがほかならぬ大江氏自身である。政治的態度と文学は切り離しの出来ない一続きの人間的行為である、というのは氏の心の師匠であるサルトル譲りのものだ。そのサルトルについてあるときから言及がなくなったのは、ノーベル賞が視野に入り始めたころというところが、また彼らしい。いうまでもなくサルトルはノーベル賞の偽善性について散々に酷評していた
 私が言いたいのは、大江氏の政治についての意見は、部外者だから知識が足りないなどという限度を超えていて、ここまで未熟な人間が、例えば人間観察においては天才を発揮するなどということはとても信じられないほどである、ということ。もちろん人間として問題があっても、逆に作家としての魅力ではありうる。全能感を持つことは悪いことではない。しかしそれを作品に美しく閉じ込めることは難しく、必要な客観化は氏の小説において不十分だと私は思う
 大江作品を私小説の発展形態と解釈することが擁護派の共通理解だと思うが、氏の世界性は特権意識と不可分のものである。つまり自分だけが「私」を描いて民俗学的な根源に迫りうる、あるいは世界の構造を体現しうるという病的なうぬぼれが根底にあるのではないか

 改めて読み直して、やはり才能のすごさを再確認した。しかし幼児的な世界だとも思った。小説に可能なことと不可能なことの規を超えた作品ではないか。非常に微妙な言い方になるが、到達目標として全体小説を目指すということと、おのれの全能感から簡単に到達可能であると信じることには、埋まらない溝があるように思う。前者がトルストイやプルーストであり、後者が野間や大江氏である
 本作を近代最高の作に推す作家、評論家の多いことは残念だ。ヒロシマ・ノートやノーベル賞受賞記念講演を読むに、無様なまでの論理性の欠如に唖然とする。それは小説作品にもある程度通底するもので、それが読み取れないのは知識人として致命的な鈍さだろう
 大江氏を見て純文学なんていかがわしいものだと多くの人は感じたはずだ。文学者という社会適応力のない連中が、仲間内で慰めあうだけの極めてレンジの狭い行為であるという、近代文学が頑張って払拭しようとした見方を、大江氏は元の木阿弥に戻した。文学にかかわる知識人は、このうえ、仲間内でのみ通用する理屈で本作を持ち上げている場合ではないだろう
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1) Amazon書評・レビュー: 万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)より
4061310275