■スポンサードリンク
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全284件 21~40 2/15ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
小さい子供みたいに夢見がちで想像力豊かなおっさんが書いた、抑えられない自己陶酔と性欲が溢れ出ている本。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本当に色彩を持っていないのか、持っているけど本人が気づいてないだけなのかわかりませんが、よりいっそう色彩を自身の奥に閉じ込めてしまう契機となった事件の謎解きをしながら、徐々に色彩を放つ?ようになっていく過程が巡礼なのかと思いました。事件自体はさして衝撃的には感じられません。それを引き起こした犯罪についても、主人公の関与は希薄なようです。彼にアドバイスを行う女性も、どちらかといえば色彩は薄いという印象で、全体的に、謎解き自体に、主人公のこれまでの生き方を変えるようなさしたる説得力はありませんが、他人の見方と自身の感じ方は異なるというkぽとに改めて気づいたということはあるかもしれません。 個人的に、私が気になったのはレクサスに関する部分でして、作者はこの車をほめているのかというと、どうもそうではないように感じました。名古屋という土地柄も、色彩という観点からは薄いところなのでしょうか。いったことがないのでよくわかりません。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
僕は村上春樹さんのあまりいい読者ではないと思います。今までに数冊の長編と短編集を読んだだけです。いつも、この話どうなるの?どうなうの?と思いながら読み進めていって、結局どうにもならないで終わってしまうパターンの繰り返しで、読み終わった瞬間、本を抱えながら奈落の底に向かってきりきり舞いで落下していく自分がいます。なんだか半端ない裏切られ感です。だったら読まなければいいじゃんと言われそうですが、やっぱりなんか気になって読んでしまうんですよね。 「多崎つくる」が文庫になったので、性懲りもなく読んでみました。そして、今回は今までにまして「なんじゃ、こりゃ?」の連続でした。なんといっても、無理矢理ややこしくしているとしか思えない理解不能な行動をする登場人物が圧巻です。真実に耳を塞ぎ、勝手に動揺してわざわざ窮地に陥りたがっているとしか思えません。こんな人たちが周りにいたらある意味怖いです。というかすっごい迷惑。あのノーベル賞を待ち望んでいるファンの人たちは、本当にこれが面白いと思ったのかな。そこもなんか理解不能です。これじゃあ、ノーベル賞はとうぶん取れないよなぁ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この小説にも書いてあったが、大衆の8.5割は思考停止していて何も考えていない。という事実に村上春樹は気付いていて、この大多数の流されやすい人をファンにするにはどうしたらいいのかを狙って書いている。 村上春樹という人物はハルキストのように頭にお花畑が咲いた人達に、読んで全く理解することが出来なくても「村上春樹ってすごいですねー」と言わせるにはどうすればいいのかを計算して書いてきた人。だから内容がないのは当たり前。 読者には雰囲気を感じ取ってもらって、何やら凄い事が書いていそうだと思わせたいだけなのだと思う。 今まではイメージ作りと戦略で何とかなったけど、これから先は化けの皮が剥がれる一方なのではないかと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
村上春樹って、生物寿命的にはもう本当の晩年に差し掛かってるのかも知れないね。僕は何でも早くやってしまうのが好きだ、というふうな事をエッセイで書いてるけど、小説家としても、早期から中期にかけて、傑作、快作群を書き残し今は晩年もいいとこなのかも知れない。肉体的にハードなトレや生活を若い時からしたせいで、肉体的には若く見えるけど、全くトレとかしなかった場合の生物寿命というのは短い人なのかもしれない、。今はその作品的反映というところか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
人間関係の難しさを描いた作品で、自分にも当てはまるし面白いなと思ったのですが、終わり方が雑でした。「もう少しで原稿終わるんだけどちょっとトイレ!」つってそのまま出版しちゃった感じ。暇つぶしくらいにはいいんじゃないでしょうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
どうしてこうも弱々しい男ばかりが主人公なのか…。 こんな男達を通して何を伝えたいのか。 伝わったところで、どうすれば良いのか。 人間関係での辛い思いは、少なからず誰にでも有ること。 同性からすると、もっと戦え!と歯がゆいばかりです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
変な小説です。36にもなってウジウジしてる男が2歳年上の、これまた変な女に励まされる話しですね。この女の変さ加減は異常です。主人公の男は過去に5人グループから絶好されてウジウジした人生を送っています。そのウジウジ男とセックスしてる38の女が異常な人格でウジウジ男くん問題を解決しなよ。などと余計なお節介を焼くわけです。人の精神にズケズケ切り込む無神経さに鳥肌がたちます。おまけに現在の5人グループの残り4人を探し出して会ってきなよと大きなお世話までします。しかも、ひとりひとりの人生を事細かに調べあげてます。パパラッチも真っ青です。こんな変な女がででくる小説は変な小説です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
恵まれているくせに死にたがり、の話 昔は好きだったけど、いまは、読むと、生きるエネルギーを奪われるように感じる | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
簡単に言えば、中年男性の冒険小説。中盤からは楽しく読み進め、クライマックスを期待していたのに、なんという尻切れ感。 終盤は序盤に書いてあることをそっくりそのままコピーペーストしたのでは、と思うぐらい同じことの繰り返しです。ページ数の残りでそんな気はしていたものの、残念でした。 謎を残す作品ならではのよさもあるかと思いますが、わたしとしてはただモヤモヤして読了後の満足感が得られませんでした。 今年の新作はどうなるのでしょう…? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
内容は、最後のギリギリ迄はかなり面白かった。 が、しかしだ、最後のページを読むと、え!?もう終わり!?となりました。 推理小説等の様に、はっきりした終わりかたでなくて良いし、それが良いのだが、この作品の終わり方は、作品自体から筆者は目を背き、丸投げにした様に感じた。 売りの、独特のファンタジー感はない。 問題は、伏線を多く出した為に収拾がつかなくなり放棄した様なエンディングにある。 もっと長編にしても構わないので、ある程度内容を詰めて治めて欲しかった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
じ・ぶ・ん・だ・い・す・き な作品にしか思えない とはいえ恥ずかしくないのだろうか それに陳腐化(村上春樹作品の中において)もひどい。どの作品を読んでるのかわからなくなる。村上春樹小説の傾向というか手法を悪い方に爆発させた作品。もはや作者のブラックユーモアではないかとも取れる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
出版直後に村上氏の新作とのことで話題だったので買いましたが、やはり村上作品はあまり好きではありませんでした。 読みやすいのですが、あまり印象に残ったり感動したりというのがありません。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
主人公の性格がどの本でも一緒だよね。 村上春樹を久しぶりに読んで(アフターダーク以来)、 「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」がピークだったんだと再認識出来ました。 多感な時期に読んだ過去の作品以外、もう読むことはない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ここまで散らかした伏線(のようなもの)は、半分くらいは回収しないと 消化不良になるでしょうよ・・・・。 読後のモヤモヤ感が気持ち悪い作品です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
相変わらずの絵画的な巧みな形容で、 冒頭の掴みも流石で、キタかな!と期待したのだが、 いちいちステイタスをくすぐるように、 流行誌に特集されるような登場人物の関係を描いていく。 嫉妬され疎まれる気分、嫉妬し疎む気分をあえて味あわせるみたいに。 登場人物に色付けしている表現は面白い。その点が星2つ。 配色による錯覚で色そのものの明暗も彩度も違って見えてしまうように、 結局、人が確固たる自己を確立しているとしても、 ある事象の中に自分を置いたとき、比較されて見えかたが変わり、 面白いはずのことも面白く無くなるのはよくあること。 それが嫉妬になったりするから人は気を使う。 ただ ”名古屋にいる友達に、東京にただ一人出た”僕”が、頻繁に東京での出来事を報告する。” そんなの気を使える男ならしない。 配色を無視しマイペースで人の気持ちに鈍感で気の使えない”僕”は疎まれる。 歯が浮くようなキザったらしいセンスにうんざりしているアンチたちに 作家は疎まれまくってるわけで、 嫉妬を「世界で最も絶望的な牢獄」と表現するあたり、嫉妬する側に復讐でもしているかのような重さを感じる。 初見でピアノを弾きまくる夢の中で叫びが爆発している。 「色彩を持たない」としながらも”僕”の名字から連想してしまう「多崎つくる」→田崎→真珠→「すべての色を反射する」というまさかの駄洒落みたいな暗喩。 しかも自分については嫉妬は無縁というような表現がまた反感をかうのだろう。 そういうもつれが”僕”たちを健康でない状態にし、 それでも生き延びた”僕”たちは希望を持って生きていこうという話。 シロの理由があるにせよ、”僕”以外の全員が結託するには、それぞれが”僕”に感じていたやりにくさがあったからだろう。 ”僕”が巡礼に戻ってきた時には、それぞれが比較に耐えられる実績や生活力を持っっていたから受け入れられたのだろう。 しかし健康でない状態の人物を悪霊が憑いているような表現をしているのは救われない。 他にも色が薄くなった人、あっち側の人、終わった人、死んでいる人というような印象で表現してしまう。 基本健康で生活力のある”僕”たちが凹んだり立ち直ったりする青春への応援にはなるだろうが、 回復力もなく生活力もなく社会的に弱い中ででも「生きている」人へは、なんというか侮辱に等しい。 洗練された雑誌を読むような情報と芸術的な言葉のセンスに誘われるものの、 アフターダーク、スプートニック同様、最近はいつもなんだか嫌な気分にさせられて終わるので残念だ。 恒例の2つの世界に分けて描いていく手法だが、 単純に割り切りすぎていて無理があるんじゃないかと思う。 ”僕”が切られた理由は、はぐらかされる。 結末も風の歌を聴けとばかりに、ぷっつりと筆が置かれる。 ”僕”が切られた時みたいに。 読者に想像させる手法は嫌いではないが、この本には歯切れの悪さを感じてしまった。 どこを回ってもそんな後味の悪さを残す迷路みたいだ。 でもそれは、読者も”僕”の気持ちを味わうように想定されているように思える。 だとしたら、星2つの評価は作家の思う壺なのかもしれない。 そういう意味でこの作品は成功なんだろうなと思う。 後からじわじわいろんなことを思う作品。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
いままでで一番つまんなかったです。「名前」にとらわれ過ぎている気がするし、話が強引。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この作品もまた、結末が??状態で終了しました。 作者は、自身の作品群について ”読者が想像し、それぞれの結末を解釈すればよい” みたいなことを仰ってますが、作者なりの結末を提示しないのは ”逃げ”に思えます。 一つの結末を提示するのは勇気がいります。その結末に共感できなかった読者たちは納得しかねるし、なにより 作品が固定化されてしまい、チープな印象を与えかねません。 曖昧にしておけば、誰からも、何時でも 一定の共感は得ることができます。また、作品が壮大なもののように勘違いすることもできます。 (作者が意図していなかった または考え付かなかった素晴らしい解釈も生まれるか もしれません) また、似たようなエピソードの使いまわしも それらが最期まで放置されることにも鼻についてきました。 そろそろこの手法ではなく、作者が提示した結末のある作品が読みたいと思います。 短編や紀行文・エッセイの方が、私は はるかに好きです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
熱狂的信者の方にはこれがいいんでしょう。 1Q84は現実と空想の狭間のような浮遊感を楽しみました。 が、これはつまらん。 意味も盛り上がりもない文章の羅列にしか感じられませんでした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
マイセンのコーヒーカップ&ソーサーのようにしゃれた形と上品な色彩、でも中身は空っぽ、だから自分で好きなものを入れてね、といういつもの作品。コーヒーカップを眺めているだけで満足できる人にはお勧め。でも私はコーヒーが飲みたい。「IQ84」は、買った本を手元に置いておく私が唯一古本屋に売った本だ。三冊目を読みたいとは思わなかった。知らん曲の紹介と知らんブランドのコーディネイトの描写に飽きた頃にセックスでつないでいくという姑息なやり方には釣られるが、コビトが出てくると私はもうダメ。そこで読むのをやめてしまう。必然性を納得する自信がなくなってくる。「色彩〜」は私が最後まで読んだ村上作品の二つ目だ。終わりの方で「森の妖精」なんて口走るから危なかったが、姿を現さなかったので最後まで読めた。それにしても仲間はずれにしながら、加害者が後悔していないのが不思議だ。他の方法があったのではないかと普通は苦しむだろう。ずっと引きずるだろう。そこを描くべきだろう。また仲間はずれの理由も全く説得力がない。一緒に解決するべき問題だ。レイプも深刻な問題なのに、小道具として使われている。被害者の内面を掘り下げることもなく、加害者を描くこともない、悪魔の仕業のように臭わせてカタをつけている。この冷たさが村上春樹なのか。自分がこの世で最も恐ろしい存在だなどというようなことを彼はどこかで書いていた。「色彩〜」にもそれらしい一文があった。でもそう書きながらも頭で思うだけで実感していないのではないか。だから冷たい作品が書ける。しかしその冷たさは村上の心の中にある恐ろしさを追求した結果から来るものではなく、テーマになりそうなものをつまみ食いして中途半端に投げ出すことによるものなのだ。 昨年度ノーベル文学賞受賞のアレクシエービッチの「チェリノブイリの祈り」は読むのがつらくて、私は何度もページを閉じた。恐ろしい人間がいて、美しい人間がいることに圧倒された。私は村上を思わずにはいられなかった。ノーベル文学賞の候補者として秋になれば毎年マスコミに挙げられる。しかし両者には単にノンフィクションか否かという差ではなく、根本的な違いがある。熱いかそうでないかである。村上には熱くなるのを拒むものがある。どこまでも上品な空のコーヒーカップなのである。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!