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(短編集)

神々のワード・プロセッサ: スケルトン・クルー2



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神々のワード・プロセッサ: スケルトン・クルー2の評価: 7.00/10点 レビュー 1件。 Bランク
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(7pt)

物語を書くことの極北か

3分冊で刊行された作品集『スケルトン・クルー』の第2弾。

まずは珍しくキングの手による詩「パラノイドの唄」から始まる。
これはその題名が示すように、強迫観念の強い男の妄想で綴られた詩だ。常に誰かに見られていると思い込み、窓の外にはトレンチコートの男がいて、街を歩けばタクシー運転手も新聞を見ている風に装って見張っている。
食事をすれば塩だと云ってそれが自分を殺すために持ってきた砒素だと思い、電話は誰かに盗聴されていると信じ、決して使わない。

さて次の表題作はなんと書いた文章が現実となるワープロの話。
打った文章が現実となるワード・プロセッサ。それはもはや我々日本人にしてみればドラえもんのひみつ道具のようなお話である。
この子供向けアニメのような題材をキングが書くと実に素晴らしい内容になるから不思議だ。
子供の頃から自分を支配し、屈服させてきた暴力的な兄。しかもその妻ベリンダは元々自分が最初に付き合った彼女でそれを兄が横取りして結婚したのだった。更にそんな粗暴な兄から生まれたジョナサンは機械いじりが大好きで、自分がワード・プロセッサを欲しいと云ったことを覚えており、僅か15歳にして手製のそれを作るほど聡明。しかしそんな家族3人は飲んだくれ兄の飲酒運転による交通事故で亡くなってしまっている。
一方自分の家族を振り返れば作家志望の高校教師である自分をはずれ籤を引いたとばかりに愛想を尽かし、日々太り醜くなっていく妻と勉強せず下手くそなギターの練習に明け暮れ、成績はどうにか落第するかしないかの辺りで留まっている愚息が1人いるのみ。
そんな現状を変えたいと願う彼の許に書いた文章を現実のものとするワード・プロセッサが現れる。
ドラえもんならばそれを使うことでエスカレートするのび太に天罰が下るが如く、痛烈なオチが待ち受けているが、キングはそうした報われないリチャードの決断を叶えて終わる。
これはワード・プロセッサで書いた文章によって変化をもたらされると世界そのものも変わるのがミソで、何かを消し去ればそれ自体が元々なかった世界に置き換えられ、何かが手に入れば同様にそれが最初からそこにあった世界へと切り替わる。
この結末には是非があろうが、今の人生、やり直せるならやり直したいという願望を叶える読者の願望を形にした作品だ。

意志持つ機械というのはキングの恐怖のテーマの1つだが、「オットー伯父さんのトラック」もその系譜に連なる作品だ。
共に事業を大きくしていったパートナーと経営方針の違いから仲たがいするようになり、それが殺意にまで発展して、事業拡大の鍵となった1台のトラックで殺害したことで、そのトラックが自分を殺しに近づいてきていると考えるようになる。
一見パラノイドの狂言のように思える話だが、それは現実となる。ただ彼を殺しに近づいたのはトラックそのものではなく、その幻影のような存在。
機械や雑貨などに霊的な物が宿り、人を殺すというのはキングの作品でたびたび描かれるが、そこではいつも理由はなく、ただそれが起こり、エスカレートしていく様が描かれる。
しかし本作では因果関係も描かれるものの、逆に被害に遭うオットー伯父さんの真意はそれとなく仄めかされる。

次の「ジョウント」はキングにしては珍しいSFホラーだ。
アルフレッド・べスターの『虎よ、虎よ!』に登場するテレポーテーションの名前からそのまま借用されたテレポーテーションシステム、ジョウント。扉を開けるとすぐさま遠方へ移動できる、いわばどこでもドアのような装置だと解釈できる。
ただ発明者のカルーンが無生物では何ら支障なく転送できるのに、なぜか生命体は移動するとすぐさま亡くなってしまうという問題に対して、色々試行錯誤する様が描かれる。
それは覚醒状態であればジョウントをくぐると永い時間を過ごすことになり、一気に老化現象が進んで死に至るのに対し、昏睡状態であればその悠久の時間を経験することなく、通常の状態で移動できるというものだった。
逆にその老化現象を利用して犯罪者の処刑に使われていたという都市伝説めいた逸話があることも紹介される。
ついつい余計なことまで話してしまう父親の性分。
ダメだと云われると逆にやりたくなる、少年の反抗心。
どこにでもいる家族の日常がこんな悲劇を生み出す、キングならではの味付けがなされた作品だ。

「しなやかな銃弾のバラード」は処女作がヒットする幸運に恵まれた若い小説家夫婦の許に集まったエイジェントの夫妻と編集者の間で交わされる、ある若い作家が狂気に至って死に至った物語だ。
「狂気はしなやかな銃弾なのだよ」
このあまりに魅力的で蠱惑的な風合いを讃える一文。この一文のためにこの作品は書かれた、そう思わせる作品だ。
この表現はマリアンヌ・ムーアがしばしば自動車か何かを描写するのに使った言葉だと本作の中で語られている。調べてみるとマリアン・ムーアなる詩人が実在したことは解ったが彼女がこのような表現を使っていたかは解らなかった。
ともあれ、このしなやかな銃弾とは作中で登場する狂気に駆られた作家レグ・ソープ自身が放った弾丸のことだ。
私はこの作品はある意味創作に携わる小説家にとっては真実の物語なのだと思う。たった一度きりの人生しかないのに、その手から生み出されるのは他者の人生であり、また見知らぬ世界の物語だ。そんな物語を日々生み出すのは頭の中のアイデア以外の、人智を超えた何かがあると思っているのではないか。

さて本書の最後を飾るのは原書の表紙に描かれているシンバルを持った猿の人形の話「猿とシンバル」だ。
シンバルを持ち、ゼンマイを巻くとコミカルな動きで音楽に合わせて両手のシンバルを叩く、子供の玩具として知らぬ者もいない猿の人形。しかしそんな愛らしい人形もキングの手に掛かれば恐怖の人形へと化す。通常は壊れているかのようにゼンマイを巻いても動かないこの猿の人形が、まるで意志を持っているかのように突然動き、シンバルを叩くと身の回りの誰かが亡くなるのだ。つまりこの猿の人形は死の宣告者なのだ。そしてそれは猿の意志ではなく、ゼンマイを巻き、シンバルを鳴らすことを持ち主にも強いる。アットランダムに殺人が行われるデスノートのような代物だ。
とはいえ、これはある意味今まで数多書かれたホラーの典型である。この猿の人形が捨てても捨ててもなぜか主人公の近くに戻ってくる怪奇現象もまた同じくホラーの典型で、敢えてキングは典型的なホラーを描くことを選んでいるかのようだ。
それは物語の舞台の1つにクリスタル・レイクを選んでいることからも推測できる―クリスタル・レイクは映画『十三日の金曜日』の舞台―。
ただ最後のオチは予想外だった。


本書は前巻『骸骨乗組員』と次の『ミルクマン』の三冊で構成される原書『スケルトン・クルー』の中の1冊なのだが、共通したテーマを備えた短編集だと感じた。

それは狂気。

本書の各編に登場する人物はなにがしかの狂気を抱いていることだ。

まず最初のキングにしては実に珍しい詩の内容からして狂気が横溢している。何しろ「パラノイドの唄」、つまり被害妄想者の妄想を綴った詩であり、狂気ど真ん中だ。

続く表題作は神々のワード・プロセッサなる夢のような道具によって報われない人生を変えるハッピーエンディングの話でありながら、主人公が取る自身の家族を削除し、自分のお気に入りの甥と義姉を手に入れる、これは願いを叶える道具が未完成ゆえに使用限度があるという設定ゆえに狂気の一歩手前で成り立っているのだ。もしこれが何年も使えるようであれば、主人公は万能な機械を手に入れた狂気の独裁者のような行動を取るだろう。

「オットー伯父さんのトラック」も普通人としての生活を捨て、トラックが自分を殺しに来ると思い、日がな一日家の中の同じ場所に座って待っている妄想者の話だ。これもその妄想が現実化することで一般人にとって狂人に見えるオットー伯父さんがそうならなかっただけの話だ。この作品に収められているオットー伯父さんの所業の数々から人々は次第に「変わっている」から始まり、「奇妙な」、「おっそろしく奇態」、「トチ狂っている」、そして「危険性がある」と彼への評価をどんどん吊り上げていく。つまり他者にとって彼は狂人にしか見えないのだ。

「ジョウント」は細やかな誰にでもある、狂気だ。

云わなくてもいいことをどうしても云ってしまう父親とダメだと云われると逆にやりたくなる好奇心旺盛な少年が辿る不幸な結末だ。
これは性(さが)なのだ。やってはいけないと頭ではわかっているがそれを抑えきれないのだ。

「しなやかな銃弾のバラード」は純粋に狂人の物語だ。狂人と付き合ううちに自らも狂気の渕に立ち、そして陥りながらも一歩手前で死を免れた人が目の当たりにした狂人の末路の物語だ。

最後の物語もまた狂気、いや凶器の物語か。動くとそのたびに人が死ぬ、恐ろしい猿の人形。しかもその人形に魅入られるとその人は自らゼンマイを回して猿を動かし、誰かを殺さずにはいられない。狂気を呼びこむ凶器の物語だ。

ただこれらの狂気は誰しもが抱えている狂気のように思える。決して特別な狂気ではない。ストレス社会と云える現代ではこれら登場人物が囚われる狂気は我々もまた持ちうるのだ。

常に誰かに見られているのではないか?

こんな現状を誰か変えてほしい!


他者にとってはおかしいと思われようが自分の過ちを報わなければならない。

どうしても喋らずにいられない。

ダメだと云われたら余計したくなる。

自分の才能以外の不思議な何かが今の自分を支えているのではないか?

俺の周りに不幸が訪れるのはあのせいだ!

そんな我々が抱く不平不満やエゴを肥大化させたのが本書の登場人物であり、彼らが抱いている負の感情は実はほとんど大差ないのだ。

またキングの作品にはキング自身が色濃く反映されているといつも思う。

例えば表題作ではゆくゆくは作家として生計を立てたいと考えながらヒットに恵まれず、高校教師を続けているリチャードと云う人物が出てくるが、これはベストセラー作家にならなかったキングを反映したものだろう。彼はチャンスを手にし、そしてそれを物にしたことで今の人生があるのだが、それが出来なかった場合の人生をリチャードに投影しているように思える。

また「しなやかな銃弾のバラード」ではデビュー作が大ベストセラーになった作家の狂気が描かれているが、これはまさにキング本人そのものではないか。もしそれが起こったら?という創作者自身が常に抱いているスランプへの恐怖を色濃く表しているように思えた。

それを裏付けるのが最後の結びの部分だ。

小説家は、<言葉>というものが本当はどこから生まれるのだろう、といぶかることが時々―いや、しばしば―あったのだが、きっぱり言ってのけた。「(妖精なんて)絶対にいないよ」

創作に携わる者はどこか自身の理解を超えた別の場所からアイデアが降ってきて、それを自分と云うフィルターを介して書かされているのだ、それはどこから来るのか、そんな葛藤が垣間見れる一文である。

また本書でも例に漏れず、他作品とのリンクがある。

もはやキング作品ではお馴染みとなった町キャッスル・ロックが「オットー伯父さんのトラック」では物語の舞台となっている。おまけにあの『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドも名のみ登場する。本書ではその父親ビリー・ドッドがオットー伯父さんと親しいレッカー業者として登場するが、語り手は「いかれたフランク」とフランク・ドッドを評している。後の事件に繋がるさりげないが見過ごせない一文だ。

随所にキング本人とそしてキングがこれまで紡いできた「キング・ワールド」の断片が覗けた短編集だった。

そして私もまたこうやって感想を書いているわけだが、後日読むと、まるで別人が書いた文章のように感じられることがままある。それは自分がその作品を読んで抱いた感想が思いも寄らなかった内容だったり、もしくは自分の才能以上のことを書いていたりすることに気付かされる時があるのだが、もしかしたら私のパソコンにも本の感想を書く手助けをしてくれる妖精が潜んでいるのかもしれない。

そう考えるとあながち本書に収められている狂気の物語は単に作り話として通り過ぎるのが出来ないほど、心に留まり続ける、そんな風に思えてならない。


▼以下、ネタバレ感想

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