風神雷神 Juppiter,Aeolus
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あらすじ
美術(アート)という名のタイムカプセルが、いま、開かれる――。日本が誇る名画『風神雷神図屏風』を軸に、海を越え、時代を超えて紡がれる奇跡の物語!20××年秋、京都国立博物館研究員の望月彩のもとに、マカオ博物館の学芸員、レイモンド・ウォンと名乗る男が現れた。彼に導かれ、マカオを訪れた彩が目にしたものは、「風神雷神」が描かれた西洋絵画と、天正遣欧少年使節の一員・原マルティノの署名が残る古文書、そしてその中に記された「俵…屋…宗…達」の四文字だった――。織田信長への謁見、狩野永徳との出会い、宣教師ヴァリニャーノとの旅路……天才少年絵師・俵屋宗達が、イタリア・ルネサンスを体験する!?アートに満ちた壮大な冒険物語!(「BOOK」データベースより)
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評判
風神雷神 Juppiter,Aeolusの評価:
10.00/10点 レビュー 1件。 A ランク
風神雷神 Juppiter,Aeolusの総合評価:
8.09/10点 レビュー 65件。
感想一覧
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俵屋宗達が、『風神雷神』を描くところまで到達していない。続篇を期待したい。天正遣欧使節団が、日本に帰国したのが、1590年。天下は秀吉の時代。秀吉は、1587年7月にバテレン追放令(バテレンとは宣教師のこと)を発布していた。秀吉は、宣教師を追放したが、キリスト教を否定していなかった。それで、1591年3月に秀吉に、天正遣欧使節団は、聚楽第であっている。家康は、1612年に「禁教令」を出し、キリスト教を完全に禁止した。日本は鎖国となり、オランダとの貿易だけに限った。
本書を読みながら、天正遣欧使節団の帰国後の行く末が、気になった。
伊東マンショは、大友宗麟の名代。日向国主伊東義祐の孫。司祭に叙階。1612年長崎で死去。千々石ミゲルは、大村純忠の名代。後に棄教。1633年死去。(ただし、長崎、諫早市で墓が見つかり、ロザリオと一緒に埋葬されていたため、棄教ではないという説もある)。中浦ジュリアンは、司祭に叙階。1633年、長崎で穴吊るしの刑により殉教。原マルティーノは、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオにて死去。本書『風神雷神』の物語は、原マルティーノの日誌が元になっている。原マルティーノは、語学に優れ、スペイン語、イタリア語、ラテン語に通じて、通訳の役割も果たす。物語では、俵屋宗達との関係も良好だった。原マルティーノは、マカオの大聖堂の地下に、生涯の師ヴァリニャーノ司祭と共に葬られている。
1583年11月、インドのゴアに到着。ヴァリニャーノ司祭は、ゴアにとどまることになる。イエズス会からインドの管区長に任命された。宗達は、ヴァリニャーノを父と思い、ついてきた。宗達がローマに行けと命令された時、ヴァリニャーノ司祭が立ち会った。また、天正遣欧使節団の許可もとった。また行く途中においてのイタリア語の教師でもあった。ヴァリニャーノは、清廉潔白、正義感強く、こうと決めたら筋を通してやり抜く人だった。宗達は、身を切るような痛みを感じた。「あなたは、ローマまで行くと言われた。嘘をついたのか」を問う。
1584年8月、ポルトガル、リスボンに到着した。歓迎され、宮殿の絵を見るが、初めは珍しさがあったが、同じものに見えてきてがっかりする宗達。2ヶ月後、スペインのマドリードに到着。スペイン国王フェリペ二世と謁見。宗達は、父親が渡してくれた風神雷神の扇を見せる。マルティーノは、ユピテルとアイオロスと紹介する。
1585年3月 イタリアのリヴォルノに到着。トスカーナ大公国で、ピサの宮殿に入る。宗達は。コジモ・ディ・メディチに会う。その威厳に驚く。沢山の肖像画はブロンズィーノが描いた。
フィレンチェに到着。ヴェッキオ宮殿。メディチ家が支配する礼拝堂。キリスト受難のレリーフ。祭壇の聖母子像。聖母マリアと幼子。内側から放たれる清らかな光。絵には命が宿っていた。それを描いたのが、レオナルドダヴィンチ。(ダヴィンチ村の出身のレオナルドという意味だった)その絵に宗達は感服する。
ローマ、カンピドリオの丘のふもと、イエズス会の本拠、ジェズ協会へ。ジュリアンは熱を出し、三人と絵師の宗達しかローマ法皇に謁見できない状況となった。1585年3月23日法皇、グレゴリウス十三世と謁見。グレゴリウス十三世は、ボローニャ生まれ、ボローニャ大学に学び、教鞭を取った経験を持つ。ユリウス暦から新しい暦、グレゴリウス暦を導入した。宗達は、『洛北洛中図』の屏風を渡す。システィーナ礼拝堂の天井画が、ミケランジェロの『天地創造』と『最後の審判』の画を見て、宗達の心に沁みた。宗達は、ダヴィンチ、ミケランジェロに会いたかったが、ダヴィンチは1519年、ミケランジェロは1564年に死んでいた。また、グレゴリウス十三世は、謁見の18日後に亡くなった。コンクラーヴェヶ行われ、シクストゥス五世が選ばれた。
神は世界を光と闇にわかちたもうた。
さらに神は太陽と緑を創りたもうた。
また神は水と大地をわかちたもうた。
天と、地と、光と、緑と、水と。
宗達は、天地創造に惹きつけられ、一切の言葉を奪い去られて、ただただ涙を流していた。
宗達は、この絵をみつために、ローマにやってきたのだった。
宗達は、ミラノにいた。ドミニコ会のサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の厨房を抜けて、食堂の壁画が、ダヴィンチの『最後の晩餐』だった。そこには、裏切り者がともに食卓を囲むことを許しているキリストがいた。宗達は、クリスチャンではなかったので、違和感を感じていたが、ここでキリストの心の広さを感じる。
そして、その食堂に少年が現れた。絵道具を持っていた。その少年が、1571年生まれのミケランジェロ・メリージ・カラヴァッジオで、14歳だった。いやはや。宗達とカラヴァッジオと会わせるとは、すごい。二人は交流し、互いの絵を送り合う。そして、カラヴァッジオが働いていたシモーネ・ペテルツァーノ公の絵画工房で、工房の作業を見るのだった。実際にカラバッジョは、その頃工房にいた。
宗達は、ダヴィンチの絵に出会い、ミケランジェロの絵に向き合い、「描きなさい。まっすぐに。己の信ずるままに」
という声が聞こえたのだった。