【大岡昇平】
事件
評判
事件の評価:
4.48/5点 レビュー 33件。 A ランク
Amazonレビュー一覧
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
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全126件 21〜40 2/7ページ
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| この作品には、二つの貌(かお)があります。一つは裁判小説という貌、もう一つは青春小説という貌です。 作品の全体的な印象は裁判小説としての貌がまさっているのですが、しかし連載開始当初の題名は「若草物語」だったとか。作者の脳裏には、十九歳の男女(宏とヨシ子)が織りなす恋愛悲劇に焦点を当てたいとの思いもじゅうぶんにあったのではないでしょうか。 裁判であつかわれるのは、ささやかな「事件」です。宏が恋人ヨシ子の姉を刺殺した。でも彼は、刺した瞬間を覚えていない。なぜ刺してしまったのかも、よくわからない。気がついたら相手が足もとに倒れていたというのです。 裁判では、殺意の有無、犯行にいたったいきさつ、目撃者や関係者の証言、数々の証拠品などをもとに「真相」を探ります。検事、弁護士、裁判官の心理も、小説のなかでは克明につづられます。 日本の法曹界(昭和三十六年=一九六一年=当時)の実状も、いたってくわしく描写される。驚くほどです。さぞかし大岡昇平さんは調べられたんでしょうね。英米法などとのちがい、また戦前・戦後の法体系の変化についても言及しています。 じっさいこの作品は出版後も、法曹関係者の意見や指摘を受けて、何度も手直しされてきたということです。そのことが「あとがき」に吐露されています。 この作品にふれて、いろいろ考えさせられました。 まず「殺意」の有無について――。殺したいとの意志は、被疑者にあったのか、なかったのか。二者択一で判定することは、おそらく不可能なのでしょう。 そもそも「意志」とは何か。人が実行したことは、その人の意志による、と百パーセントいえるのかどうか。 たとえば、お昼はラーメンにしようか、カレーにしようか、迷っているきみがいる。やがてきみは「ラーメンにしよう」と決めた。その決断は、百パーセントきみの「意志」によるものなのか。 きのうはカレーを食べたので、きょうの胃袋はなんとなくラーメンを欲した。となれば、きみの自由な意志による選択ではなく、胃袋に引きずられた結果といえるでしょう。 あるいは、たまたま昼飯を一緒にすることとなった同僚の思いを、無意識のうちに忖度した結果……ということも考えられる。 ようするに、個人の百パーセント自由な「意志」はありえないということなのです(くわしくは國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』=医学書院=をご参照ください)。 すなわち「あった/なかった」という二者択一で殺意の有無を判定することはできない。厳密に言語化するなら、たとえば意志の濃度なるものを考慮して、それを数値化するしかないのでは? 殺意二五%とか、殺意五六%とか、殺意九七%とか。しかもそれは時間とともに変化するはず。殺意一〇〇%、もしくは殺意ゼロ%の二つのパターンのみがあるわけではない。 宏の行為は、殺人罪にあたるのか、それとも傷害致死罪か、過失致死罪か。 殺人罪は殺意があった場合の罪。傷害致死罪は、殺意の有無に関わらず、傷害の結果として相手が死んでしまった場合の罪。過失致死罪は、暴行や傷害の意図はなかったのに、どうしたはずみか相手が死んでしまった場合の罪。この三つの罪でさえ、正確に判定するのはむずかしいのではないでしょうか。 なぜか。そのむずかしさは、そもそもわたしたちホモ・サピエンスが使っている「言語」に由来するものであると思われます。言語で表現できることは、じつはあいまいなのです。「犬」といっても、人により思いうかべる犬のすがたはさまざまです。言語には虚構性がつきまとっている(このへんのくわしい話は、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』=柴田裕之訳、河出書房新社=をご覧あれ)。 裁判は、いうまでもありませんが、「言語」を使って進行します。しかしことばには、どうしても虚構がまぎれこむ。はっきりいえば、ウソがまぎれこむ。意識的であれ、無意識的であれ、まぎれこまざるをえない。ホントのことばかりを百パーセント語りつづけることは不可能なのです。 ある人は、ウソには「黒いウソ」と「白いウソ」があるといいました。「黒いウソ」とは、自分のためにつくウソのこと。「白いウソ」とは、人のためにつくウソのこと。おそらくその中間にも「灰色のウソ」なるものが、さまざまな濃度をとりながら限りなくある。 仏教用語でウソは「方便」といいます。方便には三種類あるとのこと(法用方便、能通方便 、秘妙方便。くわしい説明ははぶきます)。それぞれ存在価値のあるウソなのです。 ウソをただちに「悪」と断定することはできません。ホントのことだけをいって人生を歩んでいくこともできないでしょう。 法曹界には「被告人は弁護士に真実の七分を言う。検事には五分を言う。そして法廷に出るのは三分にすぎない」との言葉があるそうです。 まことに、人の世はウソとマコトの綾綴(あやつづり)なのです。 國分功一郎さんは別の本(対談集)で、こんな体験を語っています。ある講演会でのことだったそうです。 ……最後の質疑応答で、「私は犯罪の加害者なんです」と前置きされてから感想を述べてくださった中年の男性がいらしたんです。僕はその講演で、「自由意志というのは存在しません」という話をしたんですが、その男性はその話を聞いていて、涙してしまったと言うのです。そしてこんなことをおっしゃいました。「自分はずっと罪の意識を持たなければならないと思ってきたけれども、それがどうしてもうまくできなかった。ところが講演を聞いていて、自分ははじめて罪の意識を感じた。自分が悪いことをしたと感じた」とおっしゃったんです。僕はびっくりした。 …………………… 僕は刑務所に行ったこともないし、その方が刑務所でどう過ごしていたのかもわからない。でもその人はずっと「お前は悪いことをしたんだ、反省しろ」と周りから言われ続けてきたのではないか。そしてもちろん自分でも、反省しようとしていたのでしょう。けれども、そう言われたからといって人間は反省できるわけでもないし、そもそもなぜ自分がそんなことをしてしまったのかもわからないかもしれないし、きっとどうやって反省したらいいのかもわからない。 おそらくその方は「お前は自分の意志で犯罪を犯したのだ」と周囲から言われ続けてきたのでしょうし、自分でもそう思っていたでしょう。だから、むしろ逆に「自由意志など存在しない」という話を聞いて、意志が免罪されたときに、逆に自分が犯した罪を引き受けようとする責任感が生まれたのではないか。そう思ったんです。 (國分功一郎+熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』新曜社) 胸にこたえる話です。「責任とは何か」「責任をとるとはどういうことか」を考えさせられました。 主人公の宏も自責の念にさいなまれます。ヨシ子のおなかには新しいいのちが宿っている。「おれみたいな父親を持った子供は、ふしあわせだ」となげくのです。 人を殺してしまったという現実と、責任をどうとればいいのかという気持ち――。その折り合いを、どう付ければいいかがわからない。大岡昇平さんの作品は、その微細かつ微妙な心理をも描いてやみません。 宏が川越の刑務所に収容されたのち、この作品の末尾には恋人ヨシ子のその後が、ほんの数行、記されています。 ヨシ子は面会に行く便宜を考えて、川越に近い飯能(はんのう)丘陵の中腹の、雑木林の中に建った保育園に勤めることにきめた。彼女には子供に歌やダンスを教えるような教養はなかったが、雑役婦として無償に近い給料で住み込んで、自分の子供を育てながら、ほかの子供たちに少しでもいい食事を与え、清潔な部屋で遊んで貰うように努めることに、宏の出所を待つ間の生き甲斐を見付けて来た。…… わたしは涙がこみあげました。ヨシ子、がんばれよ! 宏も、まだ若いんだから、新しい気持ちで人生をスタートしろよ! 生まれてきた子を大切に、立派に育ててね。 祈るような気持ちで、わたしはページを閉じました。 (了) | ||||
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| この作品には、二つの貌(かお)があります。一つは裁判小説という貌、もう一つは青春小説という貌です。 作品の全体的な印象は裁判小説としての貌がまさっているのですが、しかし連載開始当初の題名は「若草物語」だったとか。作者の脳裏には、十九歳の男女(宏とヨシ子)が織りなす恋愛悲劇に焦点を当てたいとの思いもじゅうぶんにあったのではないでしょうか。 裁判であつかわれるのは、ささやかな「事件」です。宏が恋人ヨシ子の姉を刺殺した。でも彼は、刺した瞬間を覚えていない。なぜ刺してしまったのかも、よくわからない。気がついたら相手が足もとに倒れていたというのです。 裁判では、殺意の有無、犯行にいたったいきさつ、目撃者や関係者の証言、数々の証拠品などをもとに「真相」を探ります。検事、弁護士、裁判官の心理も、小説のなかでは克明につづられます。 日本の法曹界(昭和三十六年=一九六一年=当時)の実状も、いたってくわしく描写される。驚くほどです。さぞかし大岡昇平さんは調べられたんでしょうね。英米法などとのちがい、また戦前・戦後の法体系の変化についても言及しています。 じっさいこの作品は出版後も、法曹関係者の意見や指摘を受けて、何度も手直しされてきたということです。そのことが「あとがき」に吐露されています。 この作品にふれて、いろいろ考えさせられました。 まず「殺意」の有無について――。殺したいとの意志は、被疑者にあったのか、なかったのか。二者択一で判定することは、おそらく不可能なのでしょう。 そもそも「意志」とは何か。人が実行したことは、その人の意志による、と百パーセントいえるのかどうか。 たとえば、お昼はラーメンにしようか、カレーにしようか、迷っているきみがいる。やがてきみは「ラーメンにしよう」と決めた。その決断は、百パーセントきみの「意志」によるものなのか。 きのうはカレーを食べたので、きょうの胃袋はなんとなくラーメンを欲した。となれば、きみの自由な意志による選択ではなく、胃袋に引きずられた結果といえるでしょう。 あるいは、たまたま昼飯を一緒にすることとなった同僚の思いを、無意識のうちに忖度した結果……ということも考えられる。 ようするに、個人の百パーセント自由な「意志」はありえないということなのです(くわしくは國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』=医学書院=をご参照ください)。 すなわち「あった/なかった」という二者択一で殺意の有無を判定することはできない。厳密に言語化するなら、たとえば意志の濃度なるものを考慮して、それを数値化するしかないのでは? 殺意二五%とか、殺意五六%とか、殺意九七%とか。しかもそれは時間とともに変化するはず。殺意一〇〇%、もしくは殺意ゼロ%の二つのパターンのみがあるわけではない。 宏の行為は、殺人罪にあたるのか、それとも傷害致死罪か、過失致死罪か。 殺人罪は殺意があった場合の罪。傷害致死罪は、殺意の有無に関わらず、傷害の結果として相手が死んでしまった場合の罪。過失致死罪は、暴行や傷害の意図はなかったのに、どうしたはずみか相手が死んでしまった場合の罪。この三つの罪でさえ、正確に判定するのはむずかしいのではないでしょうか。 なぜか。そのむずかしさは、そもそもわたしたちホモ・サピエンスが使っている「言語」に由来するものであると思われます。言語で表現できることは、じつはあいまいなのです。「犬」といっても、人により思いうかべる犬のすがたはさまざまです。言語には虚構性がつきまとっている(このへんのくわしい話は、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』=柴田裕之訳、河出書房新社=をご覧あれ)。 裁判は、いうまでもありませんが、「言語」を使って進行します。しかしことばには、どうしても虚構がまぎれこむ。はっきりいえば、ウソがまぎれこむ。意識的であれ、無意識的であれ、まぎれこまざるをえない。ホントのことばかりを百パーセント語りつづけることは不可能なのです。 ある人は、ウソには「黒いウソ」と「白いウソ」があるといいました。「黒いウソ」とは、自分のためにつくウソのこと。「白いウソ」とは、人のためにつくウソのこと。おそらくその中間にも「灰色のウソ」なるものが、さまざまな濃度をとりながら限りなくある。 仏教用語でウソは「方便」といいます。方便には三種類あるとのこと(法用方便、能通方便 、秘妙方便。くわしい説明ははぶきます)。それぞれ存在価値のあるウソなのです。 ウソをただちに「悪」と断定することはできません。ホントのことだけをいって人生を歩んでいくこともできないでしょう。 法曹界には「被告人は弁護士に真実の七分を言う。検事には五分を言う。そして法廷に出るのは三分にすぎない」との言葉があるそうです。 まことに、人の世はウソとマコトの綾綴(あやつづり)なのです。 國分功一郎さんは別の本(対談集)で、こんな体験を語っています。ある講演会でのことだったそうです。 ……最後の質疑応答で、「私は犯罪の加害者なんです」と前置きされてから感想を述べてくださった中年の男性がいらしたんです。僕はその講演で、「自由意志というのは存在しません」という話をしたんですが、その男性はその話を聞いていて、涙してしまったと言うのです。そしてこんなことをおっしゃいました。「自分はずっと罪の意識を持たなければならないと思ってきたけれども、それがどうしてもうまくできなかった。ところが講演を聞いていて、自分ははじめて罪の意識を感じた。自分が悪いことをしたと感じた」とおっしゃったんです。僕はびっくりした。 …………………… 僕は刑務所に行ったこともないし、その方が刑務所でどう過ごしていたのかもわからない。でもその人はずっと「お前は悪いことをしたんだ、反省しろ」と周りから言われ続けてきたのではないか。そしてもちろん自分でも、反省しようとしていたのでしょう。けれども、そう言われたからといって人間は反省できるわけでもないし、そもそもなぜ自分がそんなことをしてしまったのかもわからないかもしれないし、きっとどうやって反省したらいいのかもわからない。 おそらくその方は「お前は自分の意志で犯罪を犯したのだ」と周囲から言われ続けてきたのでしょうし、自分でもそう思っていたでしょう。だから、むしろ逆に「自由意志など存在しない」という話を聞いて、意志が免罪されたときに、逆に自分が犯した罪を引き受けようとする責任感が生まれたのではないか。そう思ったんです。 (國分功一郎+熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』新曜社) 胸にこたえる話です。「責任とは何か」「責任をとるとはどういうことか」を考えさせられました。 主人公の宏も自責の念にさいなまれます。ヨシ子のおなかには新しいいのちが宿っている。「おれみたいな父親を持った子供は、ふしあわせだ」となげくのです。 人を殺してしまったという現実と、責任をどうとればいいのかという気持ち――。その折り合いを、どう付ければいいかがわからない。大岡昇平さんの作品は、その微細かつ微妙な心理をも描いてやみません。 宏が川越の刑務所に収容されたのち、この作品の末尾には恋人ヨシ子のその後が、ほんの数行、記されています。 ヨシ子は面会に行く便宜を考えて、川越に近い飯能(はんのう)丘陵の中腹の、雑木林の中に建った保育園に勤めることにきめた。彼女には子供に歌やダンスを教えるような教養はなかったが、雑役婦として無償に近い給料で住み込んで、自分の子供を育てながら、ほかの子供たちに少しでもいい食事を与え、清潔な部屋で遊んで貰うように努めることに、宏の出所を待つ間の生き甲斐を見付けて来た。…… わたしは涙がこみあげました。ヨシ子、がんばれよ! 宏も、まだ若いんだから、新しい気持ちで人生をスタートしろよ! 生まれてきた子を大切に、立派に育ててね。 祈るような気持ちで、わたしはページを閉じました。 (了) | ||||
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| この作品には、二つの貌(かお)があります。一つは裁判小説という貌、もう一つは青春小説という貌です。 作品の全体的な印象は裁判小説としての貌がまさっているのですが、しかし連載開始当初の題名は「若草物語」だったとか。作者の脳裏には、十九歳の男女(宏とヨシ子)が織りなす恋愛悲劇に焦点を当てたいとの思いもじゅうぶんにあったのではないでしょうか。 裁判であつかわれるのは、ささやかな「事件」です。宏が恋人ヨシ子の姉を刺殺した。でも彼は、刺した瞬間を覚えていない。なぜ刺してしまったのかも、よくわからない。気がついたら相手が足もとに倒れていたというのです。 裁判では、殺意の有無、犯行にいたったいきさつ、目撃者や関係者の証言、数々の証拠品などをもとに「真相」を探ります。検事、弁護士、裁判官の心理も、小説のなかでは克明につづられます。 日本の法曹界(昭和三十六年=一九六一年=当時)の実状も、いたってくわしく描写される。驚くほどです。さぞかし大岡昇平さんは調べられたんでしょうね。英米法などとのちがい、また戦前・戦後の法体系の変化についても言及しています。 じっさいこの作品は出版後も、法曹関係者の意見や指摘を受けて、何度も手直しされてきたということです。そのことが「あとがき」に吐露されています。 この作品にふれて、いろいろ考えさせられました。 まず「殺意」の有無について――。殺したいとの意志は、被疑者にあったのか、なかったのか。二者択一で判定することは、おそらく不可能なのでしょう。 そもそも「意志」とは何か。人が実行したことは、その人の意志による、と百パーセントいえるのかどうか。 たとえば、お昼はラーメンにしようか、カレーにしようか、迷っているきみがいる。やがてきみは「ラーメンにしよう」と決めた。その決断は、百パーセントきみの「意志」によるものなのか。 きのうはカレーを食べたので、きょうの胃袋はなんとなくラーメンを欲した。となれば、きみの自由な意志による選択ではなく、胃袋に引きずられた結果といえるでしょう。 あるいは、たまたま昼飯を一緒にすることとなった同僚の思いを、無意識のうちに忖度した結果……ということも考えられる。 ようするに、個人の百パーセント自由な「意志」はありえないということなのです(くわしくは國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』=医学書院=をご参照ください)。 すなわち「あった/なかった」という二者択一で殺意の有無を判定することはできない。厳密に言語化するなら、たとえば意志の濃度なるものを考慮して、それを数値化するしかないのでは? 殺意二五%とか、殺意五六%とか、殺意九七%とか。しかもそれは時間とともに変化するはず。殺意一〇〇%、もしくは殺意ゼロ%の二つのパターンのみがあるわけではない。 宏の行為は、殺人罪にあたるのか、それとも傷害致死罪か、過失致死罪か。 殺人罪は殺意があった場合の罪。傷害致死罪は、殺意の有無に関わらず、傷害の結果として相手が死んでしまった場合の罪。過失致死罪は、暴行や傷害の意図はなかったのに、どうしたはずみか相手が死んでしまった場合の罪。この三つの罪でさえ、正確に判定するのはむずかしいのではないでしょうか。 なぜか。そのむずかしさは、そもそもわたしたちホモ・サピエンスが使っている「言語」に由来するものであると思われます。言語で表現できることは、じつはあいまいなのです。「犬」といっても、人により思いうかべる犬のすがたはさまざまです。言語には虚構性がつきまとっている(このへんのくわしい話は、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』=柴田裕之訳、河出書房新社=をご覧あれ)。 裁判は、いうまでもありませんが、「言語」を使って進行します。しかしことばには、どうしても虚構がまぎれこむ。はっきりいえば、ウソがまぎれこむ。意識的であれ、無意識的であれ、まぎれこまざるをえない。ホントのことばかりを百パーセント語りつづけることは不可能なのです。 ある人は、ウソには「黒いウソ」と「白いウソ」があるといいました。「黒いウソ」とは、自分のためにつくウソのこと。「白いウソ」とは、人のためにつくウソのこと。おそらくその中間にも「灰色のウソ」なるものが、さまざまな濃度をとりながら限りなくある。 仏教用語でウソは「方便」といいます。方便には三種類あるとのこと(法用方便、能通方便 、秘妙方便。くわしい説明ははぶきます)。それぞれ存在価値のあるウソなのです。 ウソをただちに「悪」と断定することはできません。ホントのことだけをいって人生を歩んでいくこともできないでしょう。 法曹界には「被告人は弁護士に真実の七分を言う。検事には五分を言う。そして法廷に出るのは三分にすぎない」との言葉があるそうです。 まことに、人の世はウソとマコトの綾綴(あやつづり)なのです。 國分功一郎さんは別の本(対談集)で、こんな体験を語っています。ある講演会でのことだったそうです。 ……最後の質疑応答で、「私は犯罪の加害者なんです」と前置きされてから感想を述べてくださった中年の男性がいらしたんです。僕はその講演で、「自由意志というのは存在しません」という話をしたんですが、その男性はその話を聞いていて、涙してしまったと言うのです。そしてこんなことをおっしゃいました。「自分はずっと罪の意識を持たなければならないと思ってきたけれども、それがどうしてもうまくできなかった。ところが講演を聞いていて、自分ははじめて罪の意識を感じた。自分が悪いことをしたと感じた」とおっしゃったんです。僕はびっくりした。 …………………… 僕は刑務所に行ったこともないし、その方が刑務所でどう過ごしていたのかもわからない。でもその人はずっと「お前は悪いことをしたんだ、反省しろ」と周りから言われ続けてきたのではないか。そしてもちろん自分でも、反省しようとしていたのでしょう。けれども、そう言われたからといって人間は反省できるわけでもないし、そもそもなぜ自分がそんなことをしてしまったのかもわからないかもしれないし、きっとどうやって反省したらいいのかもわからない。 おそらくその方は「お前は自分の意志で犯罪を犯したのだ」と周囲から言われ続けてきたのでしょうし、自分でもそう思っていたでしょう。だから、むしろ逆に「自由意志など存在しない」という話を聞いて、意志が免罪されたときに、逆に自分が犯した罪を引き受けようとする責任感が生まれたのではないか。そう思ったんです。 (國分功一郎+熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』新曜社) 胸にこたえる話です。「責任とは何か」「責任をとるとはどういうことか」を考えさせられました。 主人公の宏も自責の念にさいなまれます。ヨシ子のおなかには新しいいのちが宿っている。「おれみたいな父親を持った子供は、ふしあわせだ」となげくのです。 人を殺してしまったという現実と、責任をどうとればいいのかという気持ち――。その折り合いを、どう付ければいいかがわからない。大岡昇平さんの作品は、その微細かつ微妙な心理をも描いてやみません。 宏が川越の刑務所に収容されたのち、この作品の末尾には恋人ヨシ子のその後が、ほんの数行、記されています。 ヨシ子は面会に行く便宜を考えて、川越に近い飯能(はんのう)丘陵の中腹の、雑木林の中に建った保育園に勤めることにきめた。彼女には子供に歌やダンスを教えるような教養はなかったが、雑役婦として無償に近い給料で住み込んで、自分の子供を育てながら、ほかの子供たちに少しでもいい食事を与え、清潔な部屋で遊んで貰うように努めることに、宏の出所を待つ間の生き甲斐を見付けて来た。…… わたしは涙がこみあげました。ヨシ子、がんばれよ! 宏も、まだ若いんだから、新しい気持ちで人生をスタートしろよ! 生まれてきた子を大切に、立派に育ててね。 祈るような気持ちで、わたしはページを閉じました。 (了) | ||||
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| 大岡昇平の本は「野火」「俘虜記」をずいぶん前に読み、数年前に戦争について語った本『戦争』、短編集の『靴の話』を読んだ。 この小説は、戦争物ではなく、少年が犯した殺人事件(19歳)を題材にとった裁判小説。事件の概要がはじめに示され、具体的内容については裁判を通して知らされる。 ミステリー、あるいは推理小説とも呼べるだろうが、大岡は非常によく裁判制度について学んで、小説の中でその在り方に対する問題提起も行っている。なので、読者は途中からドキュメンタリーのような気になる。 もともと朝日新聞の夕刊に1961〜62年にかけて「若草物語」という題名で連載された小説。「集中審理方式」の是非、それから「松川事件」の裁判についてはしつこいほど言及される。 文庫で550ページを超える大部の小説だけど、興味深く読み進められた。それはやはり大岡昇平の作家としての力量の確かさによる。過剰な装飾やレトリックを用いずに読ませるのはやはり力があるからだろう。 単行本化されたのは、なんと新聞連載から15年後の1977年。翌78年に日本推理作家協会賞受賞。 | ||||
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| 大岡昇平の本は「野火」「俘虜記」をずいぶん前に読み、数年前に戦争について語った本『戦争』、短編集の『靴の話』を読んだ。 この小説は、戦争物ではなく、少年が犯した殺人事件(19歳)を題材にとった裁判小説。事件の概要がはじめに示され、具体的内容については裁判を通して知らされる。 ミステリー、あるいは推理小説とも呼べるだろうが、大岡は非常によく裁判制度について学んで、小説の中でその在り方に対する問題提起も行っている。なので、読者は途中からドキュメンタリーのような気になる。 もともと朝日新聞の夕刊に1961〜62年にかけて「若草物語」という題名で連載された小説。「集中審理方式」の是非、それから「松川事件」の裁判についてはしつこいほど言及される。 文庫で550ページを超える大部の小説だけど、興味深く読み進められた。それはやはり大岡昇平の作家としての力量の確かさによる。過剰な装飾やレトリックを用いずに読ませるのはやはり力があるからだろう。 単行本化されたのは、なんと新聞連載から15年後の1977年。翌78年に日本推理作家協会賞受賞。 | ||||
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| 大岡昇平の本は「野火」「俘虜記」をずいぶん前に読み、数年前に戦争について語った本『戦争』、短編集の『靴の話』を読んだ。 この小説は、戦争物ではなく、少年が犯した殺人事件(19歳)を題材にとった裁判小説。事件の概要がはじめに示され、具体的内容については裁判を通して知らされる。 ミステリー、あるいは推理小説とも呼べるだろうが、大岡は非常によく裁判制度について学んで、小説の中でその在り方に対する問題提起も行っている。なので、読者は途中からドキュメンタリーのような気になる。 もともと朝日新聞の夕刊に1961〜62年にかけて「若草物語」という題名で連載された小説。「集中審理方式」の是非、それから「松川事件」の裁判についてはしつこいほど言及される。 文庫で550ページを超える大部の小説だけど、興味深く読み進められた。それはやはり大岡昇平の作家としての力量の確かさによる。過剰な装飾やレトリックを用いずに読ませるのはやはり力があるからだろう。 単行本化されたのは、なんと新聞連載から15年後の1977年。翌78年に日本推理作家協会賞受賞。 | ||||
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| 大岡昇平の本は「野火」「俘虜記」をずいぶん前に読み、数年前に戦争について語った本『戦争』、短編集の『靴の話』を読んだ。 この小説は、戦争物ではなく、少年が犯した殺人事件(19歳)を題材にとった裁判小説。事件の概要がはじめに示され、具体的内容については裁判を通して知らされる。 ミステリー、あるいは推理小説とも呼べるだろうが、大岡は非常によく裁判制度について学んで、小説の中でその在り方に対する問題提起も行っている。なので、読者は途中からドキュメンタリーのような気になる。 もともと朝日新聞の夕刊に1961〜62年にかけて「若草物語」という題名で連載された小説。「集中審理方式」の是非、それから「松川事件」の裁判についてはしつこいほど言及される。 文庫で550ページを超える大部の小説だけど、興味深く読み進められた。それはやはり大岡昇平の作家としての力量の確かさによる。過剰な装飾やレトリックを用いずに読ませるのはやはり力があるからだろう。 単行本化されたのは、なんと新聞連載から15年後の1977年。翌78年に日本推理作家協会賞受賞。 | ||||
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| 大岡昇平の本は「野火」「俘虜記」をずいぶん前に読み、数年前に戦争について語った本『戦争』、短編集の『靴の話』を読んだ。 この小説は、戦争物ではなく、少年が犯した殺人事件(19歳)を題材にとった裁判小説。事件の概要がはじめに示され、具体的内容については裁判を通して知らされる。 ミステリー、あるいは推理小説とも呼べるだろうが、大岡は非常によく裁判制度について学んで、小説の中でその在り方に対する問題提起も行っている。なので、読者は途中からドキュメンタリーのような気になる。 もともと朝日新聞の夕刊に1961〜62年にかけて「若草物語」という題名で連載された小説。「集中審理方式」の是非、それから「松川事件」の裁判についてはしつこいほど言及される。 文庫で550ページを超える大部の小説だけど、興味深く読み進められた。それはやはり大岡昇平の作家としての力量の確かさによる。過剰な装飾やレトリックを用いずに読ませるのはやはり力があるからだろう。 単行本化されたのは、なんと新聞連載から15年後の1977年。翌78年に日本推理作家協会賞受賞。 | ||||
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| 古い本なので仕方がないですがもう少しランクが下かなと思いました | ||||
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| ストーリーだけではなく、神奈川県の長後地区の昭和30 年代当時の描写が興味深く、楽しめます。神奈川県民におすすめの一冊だと思います。 | ||||
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| この小説は、推理小説なんだと思うのですが引き込まれていかない。ちょっと古い描きかたなのか、う~んただ単に面白くないかな。つぎはどんな展開が・・・てきなのがなかったですね。 | ||||
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作品の全体的な印象は裁判小説としての貌がまさっているのですが、しかし連載開始当初の題名は「若草物語」だったとか。作者の脳裏には、十九歳の男女(宏とヨシ子)が織りなす恋愛悲劇に焦点を当てたいとの思いもじゅうぶんにあったのではないでしょうか。
裁判であつかわれるのは、ささやかな「事件」です。宏が恋人ヨシ子の姉を刺殺した。でも彼は、刺した瞬間を覚えていない。なぜ刺してしまったのかも、よくわからない。気がついたら相手が足もとに倒れていたというのです。
裁判では、殺意の有無、犯行にいたったいきさつ、目撃者や関係者の証言、数々の証拠品などをもとに「真相」を探ります。検事、弁護士、裁判官の心理も、小説のなかでは克明につづられます。
日本の法曹界(昭和三十六年=一九六一年=当時)の実状も、いたってくわしく描写される。驚くほどです。さぞかし大岡昇平さんは調べられたんでしょうね。英米法などとのちがい、また戦前・戦後の法体系の変化についても言及しています。
じっさいこの作品は出版後も、法曹関係者の意見や指摘を受けて、何度も手直しされてきたということです。そのことが「あとがき」に吐露されています。
この作品にふれて、いろいろ考えさせられました。
まず「殺意」の有無について――。殺したいとの意志は、被疑者にあったのか、なかったのか。二者択一で判定することは、おそらく不可能なのでしょう。
そもそも「意志」とは何か。人が実行したことは、その人の意志による、と百パーセントいえるのかどうか。
たとえば、お昼はラーメンにしようか、カレーにしようか、迷っているきみがいる。やがてきみは「ラーメンにしよう」と決めた。その決断は、百パーセントきみの「意志」によるものなのか。
きのうはカレーを食べたので、きょうの胃袋はなんとなくラーメンを欲した。となれば、きみの自由な意志による選択ではなく、胃袋に引きずられた結果といえるでしょう。
あるいは、たまたま昼飯を一緒にすることとなった同僚の思いを、無意識のうちに忖度した結果……ということも考えられる。
ようするに、個人の百パーセント自由な「意志」はありえないということなのです(くわしくは國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』=医学書院=をご参照ください)。
すなわち「あった/なかった」という二者択一で殺意の有無を判定することはできない。厳密に言語化するなら、たとえば意志の濃度なるものを考慮して、それを数値化するしかないのでは? 殺意二五%とか、殺意五六%とか、殺意九七%とか。しかもそれは時間とともに変化するはず。殺意一〇〇%、もしくは殺意ゼロ%の二つのパターンのみがあるわけではない。
宏の行為は、殺人罪にあたるのか、それとも傷害致死罪か、過失致死罪か。
殺人罪は殺意があった場合の罪。傷害致死罪は、殺意の有無に関わらず、傷害の結果として相手が死んでしまった場合の罪。過失致死罪は、暴行や傷害の意図はなかったのに、どうしたはずみか相手が死んでしまった場合の罪。この三つの罪でさえ、正確に判定するのはむずかしいのではないでしょうか。
なぜか。そのむずかしさは、そもそもわたしたちホモ・サピエンスが使っている「言語」に由来するものであると思われます。言語で表現できることは、じつはあいまいなのです。「犬」といっても、人により思いうかべる犬のすがたはさまざまです。言語には虚構性がつきまとっている(このへんのくわしい話は、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』=柴田裕之訳、河出書房新社=をご覧あれ)。
裁判は、いうまでもありませんが、「言語」を使って進行します。しかしことばには、どうしても虚構がまぎれこむ。はっきりいえば、ウソがまぎれこむ。意識的であれ、無意識的であれ、まぎれこまざるをえない。ホントのことばかりを百パーセント語りつづけることは不可能なのです。
ある人は、ウソには「黒いウソ」と「白いウソ」があるといいました。「黒いウソ」とは、自分のためにつくウソのこと。「白いウソ」とは、人のためにつくウソのこと。おそらくその中間にも「灰色のウソ」なるものが、さまざまな濃度をとりながら限りなくある。
仏教用語でウソは「方便」といいます。方便には三種類あるとのこと(法用方便、能通方便 、秘妙方便。くわしい説明ははぶきます)。それぞれ存在価値のあるウソなのです。
ウソをただちに「悪」と断定することはできません。ホントのことだけをいって人生を歩んでいくこともできないでしょう。
法曹界には「被告人は弁護士に真実の七分を言う。検事には五分を言う。そして法廷に出るのは三分にすぎない」との言葉があるそうです。
まことに、人の世はウソとマコトの綾綴(あやつづり)なのです。
國分功一郎さんは別の本(対談集)で、こんな体験を語っています。ある講演会でのことだったそうです。
……最後の質疑応答で、「私は犯罪の加害者なんです」と前置きされてから感想を述べてくださった中年の男性がいらしたんです。僕はその講演で、「自由意志というのは存在しません」という話をしたんですが、その男性はその話を聞いていて、涙してしまったと言うのです。そしてこんなことをおっしゃいました。「自分はずっと罪の意識を持たなければならないと思ってきたけれども、それがどうしてもうまくできなかった。ところが講演を聞いていて、自分ははじめて罪の意識を感じた。自分が悪いことをしたと感じた」とおっしゃったんです。僕はびっくりした。
……………………
僕は刑務所に行ったこともないし、その方が刑務所でどう過ごしていたのかもわからない。でもその人はずっと「お前は悪いことをしたんだ、反省しろ」と周りから言われ続けてきたのではないか。そしてもちろん自分でも、反省しようとしていたのでしょう。けれども、そう言われたからといって人間は反省できるわけでもないし、そもそもなぜ自分がそんなことをしてしまったのかもわからないかもしれないし、きっとどうやって反省したらいいのかもわからない。
おそらくその方は「お前は自分の意志で犯罪を犯したのだ」と周囲から言われ続けてきたのでしょうし、自分でもそう思っていたでしょう。だから、むしろ逆に「自由意志など存在しない」という話を聞いて、意志が免罪されたときに、逆に自分が犯した罪を引き受けようとする責任感が生まれたのではないか。そう思ったんです。
(國分功一郎+熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』新曜社)
胸にこたえる話です。「責任とは何か」「責任をとるとはどういうことか」を考えさせられました。
主人公の宏も自責の念にさいなまれます。ヨシ子のおなかには新しいいのちが宿っている。「おれみたいな父親を持った子供は、ふしあわせだ」となげくのです。
人を殺してしまったという現実と、責任をどうとればいいのかという気持ち――。その折り合いを、どう付ければいいかがわからない。大岡昇平さんの作品は、その微細かつ微妙な心理をも描いてやみません。
宏が川越の刑務所に収容されたのち、この作品の末尾には恋人ヨシ子のその後が、ほんの数行、記されています。
ヨシ子は面会に行く便宜を考えて、川越に近い飯能(はんのう)丘陵の中腹の、雑木林の中に建った保育園に勤めることにきめた。彼女には子供に歌やダンスを教えるような教養はなかったが、雑役婦として無償に近い給料で住み込んで、自分の子供を育てながら、ほかの子供たちに少しでもいい食事を与え、清潔な部屋で遊んで貰うように努めることに、宏の出所を待つ間の生き甲斐を見付けて来た。……
わたしは涙がこみあげました。ヨシ子、がんばれよ! 宏も、まだ若いんだから、新しい気持ちで人生をスタートしろよ! 生まれてきた子を大切に、立派に育ててね。
祈るような気持ちで、わたしはページを閉じました。
(了)