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叶えられた祈り
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叶えられた祈りの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.76pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全11件 1~11 1/1ページ
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最近は文学全集なんてものは流行らないのだろうか?海外の作家の全集なんて村上カーヴァーくらいしかないよね。 カポの全集とかあったら買うのに。 | ||||
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カポーテイーは観察力鋭い作家です。 | ||||
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1960年代、ベトナム戦争はまだ始まらないけど、戦後の幸福には飽き飽きして、退廃に浸っている。 アメリカの絶頂が音もなくほころび始めるのを、カポーティは身をもって体現したのかも。 | ||||
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分裂症的だが、印象的。まさしく傑作だと思う。未完の大作と言われるだけあって、支離滅裂的な部分がない訳でもない。rich&famous族を実名でけちょんけちょんに扱き下ろす。読んでて爽快に思える時もあるが、カポーティー自身も堕落の底にはまっていく。結局、富と名声とは幻滅及び醜態そのものであり、幻惑にすらなり得ない。荷風の"支那街の記"に登場する糞貧しい人種と本質的には何ら代わりはない。偽善の富に浸るか真実の貧しさに生きるか。そこに何ら差異はない。 "アメリカ文学の本質は無垢とその喪失にある"と解説してるが、カポーティーは無垢であり過ぎるが故に、何かを失った。しかし、この本の中には、その彼の無垢さが色濃く表現されてる。こんな純粋な小説も珍しい。彼は高みを目指し過ぎたのかもしれない。そして何かを失った。否、何か大切なものを自らの手で封じ込んだ。まさしくアメリカ文学の王道ではないだろうか。 | ||||
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カポーティは、『冷血』を頂点に作家としての命脈が途切れたのではないか、とい う見方もできるのではないか。 村上春樹が、新潮社雑誌『考える人』2010年夏号「村上春樹ロングインタヴュー」で 松家仁之の質問に「小説家の資質として必要なのは文体と内容とストラクチャーであ る」と云っている。カポーティは文体はともかく、長篇を完成させるうえでの容器が なかった、もしくは創造できなかったのではないか。ノンフィクションノベルという 新分野を形成した自己満足、世界の評価に甘え、小説家として、より新しい方向を見 出せなかったのではないか。 「文学におけるパガニーニだ」と吹聴している。「私は、言葉の束をつかみそれを 空に放り上げると、それがきちんとした順序できれいに並べられて落ちてくるという 能力がある」。『カポーティとの対話』 しかし、アルコール中毒者、麻薬、薬物常習者、同性愛者、そして天才といって憚 らなかった彼は、作家生活後半、ルポルタージュを除き評価を受ける作品を残してい ない。 本作品は、亡くなる直前の「未完成作品」と云われている。しかし、読者にとって 真実「未完成」だったのか疑問に思えるだろう。「すべての文学はゴシップだ」と豪 語し、「彼ら(セレブリティの)が生きた時代を描いている」と語っている。 逆に解釈すれば、彼にはもうゴシップしか書けなかったのではなかろうか。『犬は吠 える』や『カメレオンのための音楽』からの流れである。 カポーティの「天敵」であった作家ゴア・ウィダルがいみじくも語っている。「彼 には独創性がなく、ルポルタージュでじぶんの声をみつけた」と。天敵であったが故 の評価を差引いても一部正鵠を得ていると思う。 一章・「まだ汚れていない怪獣」(訳者川本三郎があとがきで述べているが、初版 では「まだ見つかっていない怪獣」であった。後者訳の方が、八歳の少女が書いた詩 として自然ではないか)、二章・「ケイト・マクロード」、三章・「ラ・コート・バ スク」の構成である。 内容は、著者の分身らしき男が、パリ、ニューヨークで地元のセレブリティと交際 した、知的とも思われない見聞録や行動記録である。文学作品として、思想的にも考 えさせられる何物もない物足りなさである。 「成り上がりもの」だが、異常に高い知能指数で「天才」と云われた男がのし上が っていく姿は「道化」のようでもある。有名人、俳優、作家、画家、作曲家、政治家 婦人などの社交界やゲイの世界で動き回るカポーティの姿が浮かび上がってくる。 ただ、それだけである。ゴシップ作品が彼の得意分野とするのは情けない気がするが。 「事実」と「虚構」のはざまで彷徨した悲しき作家がみえてくる。 本名で記載されている人たち、本名がすぐ誰かとわかる人たちなど、小説ではなく 「暴露本」である。インタビュアーで有名なローレンス・グロベールがカポーティに 忠告している。 「喧嘩の理由は、あなたが実名をあげてしまったこと、心に思っていることを口に 出したことですね」。『カポーティとの対話』 | ||||
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最近このシェークスピア『マクベス』の有名な科白をよく目にします。 フィリップ・シーモア・ホフマンが完璧に演じて話題となったカポーティ未完の遺作である本書訳者あとがきにも、この科白がありました。 「マクベス」においてこの科白は魔女の価値観が人間のそれとは合致しないということを明示するものでしたが、本書においてのそれは、きらびやかな上流階級の住人(通称セレブ)たちの価値観(特に性癖)がどれだけ低俗でアブノーマルなものかを明示するものです。 この物語は未完のまま終わっているので、カポーティが本来はどのような構成を採るつもりだったのか分かりません。 第1章「まだ汚れていない怪獣」と第2章「ケイト・マクロード」は、P.B.ジョーンズという主人公が、ニューヨークで自身の半生を綴った小説「叶えられた祈り」を執筆している現在と、その小説の中身(つまり過去)が並行して描かれています。 その小説内における回想が自由に時間軸や場所を行き来し、登場人物も多いことから、読むのに結構骨を折りました。 しかも、その時間軸の移動によって生じた空白を埋めたいとする読者の祈りは「叶えられぬまま」。 セレブのゴシップ話に終始する第3章「ラ・コート・バスク」はつまらないとしても、この「トカゲの血のように冷たい」主人公の遍歴や、彼を取り巻く取り込む変態世界が滅法面白いわけです。 私の貧しい読書歴を漁ると、太宰の『人間失格』 のような退廃を味わえるといった感じでしょうか。 なのでことさら美化して描かれているケイト・マクロードの顛末がもっと欲しかった気がします。残念。 | ||||
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村上春樹訳「ティファニーで朝食を」でカポーティに魅かれ、古本屋で見つけたMusic for Cameron(原書)の序文と短編の影響で最後の小説(本書)を手にしました。 カポーティ自身を映す30代の作家志望兼男娼のP・Bジョーンズと彼に関わる欧米エスタブリッシュメント達のゴシップで話が展開します。下卑た男娼話の連続に正直げんなりしましたが、ジョーンズか魅かれたバツ一で独富豪と再婚したケイト・マクロードとの出会いを頼りに読み終えました。 名誉・仕事・お金・性、あらゆる欲の権化「汚れた怪獣」たるエスタブリッシュメント達のゴシップ集の本書は、「冷血」で名誉を得た後、自らも汚れた怪獣と化したカポーティ自身と彼らを巻き込んだ破滅へのプレリュードだと感じました。本書登場人物の一人は掲載後に自殺したそうですが、作家カポーティに興味がある方には、彼をより深く知る上で一読の価値があると思います。 結局、この「叶えられた祈り」が未完のまま1984年にカポーティは世を去りましたが、1章「まだ汚れていない怪獣」の初めに引用された8歳の少女の作文が全てを物語っています。 「もし何でもできるなら私は、私たちの惑星、地球の中心に出かけていって、ウラニウムやルビーや金を探したいです。まだ汚れていない怪獣を探したいです。それから田舎に引越したいです。」 名声を享受した汚れた怪獣カポーティは華やかな表舞台からゴシップを発表し干される(消える)ことで、少女の言う「田舎に引越する」という祈りを叶えました。叶えられなかった祈りよりも多くの涙を必要とする叶えられた祈りを。 | ||||
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買いですが、書かれた前後の作者を取り巻く状況にばかり光を当てられることが多い作品なので、もう何度目かの再読なのですが、読み返すたびになにか寂しさというか、やるせなさというか、必ずしも作品そのものからだけ受け取るのとは違った感想を抱いてしまいます。もしカポーティが生きながらえてこの作品を完成させることができたにしても、生前に大言壮語していたような、文学の流れを変える作品にはなりえなかったでしょうが、それでもまたいくつかはデビューした頃を彷彿とさせる作品を残せたたのではないか、そんな由無いことをこの作品を読むたびに考えてしまうのです。 | ||||
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前作『冷血』で一躍大成功をおさめて時代の寵児となったカポーティがそれ以上の成功を 求めて次に目論んだのは(フィッツジェラルドなどをのぞけば)アメリカ文学にそれまで殆ど 存在しなかった「社交界スキャンダル小説」だった。だが、ラファイエット夫人からカポーティの 尊敬するプルーストを経てコレットに至るまで社交界小説の伝統のあるフランスと違い、 アメリカ社交界は「道化」カポーティを追放し、小説は未完のままカポーティは短い生涯を 閉じることとなる。ある意味では『冷血』さえ上回る悲痛な事情を背景としているにも関わらず 本作は繁栄を極めた50年代アメリカの退廃しながらも豪奢な世界がこの上なく洗練された文体で 余すところなく描写されており、川本三郎の訳文もカポーティの文章特有の「躍動感」を 日本語で表現しているという点においてきわめて秀逸。文学に人生訓や倫理を超えた完結した 世界を求め続けたカポーティの遺作にふさわしい好著である。 | ||||
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アメリカ文学の偉大なる巨匠、トルーマン・カポーティの唯一の未完の作品。彼の遺作となった作品です。 この作品で彼が、自分の人生までも犠牲にして表現しようとしていたものは果たしてなんだったのか、何故、人間は欲望が満たされれば満たされるほどに貪欲になっていくのか。地位、名誉、金、もはや「怪獣」になってしまった人間達を前にして、はたして文学とはなんの為に存在するのでしょう。 社会的に堕落し、友人に裏切られてもなお書き続けた、カポーティの最後の「祈り」は、完成していれば彼の作品の中で唯一のハッピーエンドになるはずでした。 | ||||
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ハードカバーで表紙の絵も綺麗だったので、てっきり中にも挿絵がしてあるものだと思っていたのですが、 全くなかったので残念でした。(挿絵があればもう少しスッと頭に入ったと思うのですが・・・) じっくりと想像しながら内容を整理していくのが苦手な方にはあまりオススメできません。 また、明確できっちりとした結末があるわけではないので、読み終わった後のスッキリした気持ちが得られるかどうかは人それぞれだと思います。 内容も同じで、つらつらとひたすらに書かれている感じがあります。メルヘンが好きだという方は別としてそうでない方は読み疲れることがあるかもしれません。 しかし、少女の行動を通して、読み終わった後に人間の心に‘何か’を感じられるということは確かです。 | ||||
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