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【エラリー・クイーン】
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エラリー・クイーンの事件簿の評価:
7.00/10点 レビュー 1件。 C ランク
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クイーンの長編の素
映画オリジナル脚本を小説にリライトした「消えた死体」、「ペントハウスの謎」の2編を収録した中編集。「消えた死体」は推理作家志望のニッキー・ポーターなる女性が登場するが、後期クイーンでパートナーを務めることになる同姓同名の人物とは別人である。この「消えた死体」は長編『ニッポン樫鳥の謎』の原形だろう。同一のアイデアで別の話を作っただけで、物語の構成は全く一緒だ。もう少しアレンジが欲しいところだ。ただなぜ犯人が死体を隠すのかという理由はさすがに秀逸。物語のスピード感といい、適度な長さといい、『ニッポン樫鳥の謎』が無ければ、クイーンの作品としても上位の部類に入っただろう。もう1つの中編「ペントハウスの謎」は「消えた死体」同様、ニッキー・ポーターの友人が絡む。中国の抵抗組織の資金繰りのためにアメリカ人の腹話術師が資金援助のための宝石を密輸する手助けをするが、その情報を嗅ぎ付けた日本のスパイや詐欺師たちとの攻防が発端となり、殺人事件に発展したという、クイーンの作品にしては異色とも云える派手な事件である。腹話術師と同じ船に乗り合わせた身元詐称の人物たち、消えた宝石の謎など色々エッセンスを放り込んでいるが、逆に謎の焦点が曖昧になり、最後の切れ味に欠ける。特に犯人を限定する決め手となったあるしるしの正体は全く解らないだろう。容疑者一同を集めて謎解きという、古典的な手法に則った解決シーンだが、カタルシスは得られなかった。本編で登場するニッキー・ポーターは前のパートナーであったポーラ・パリスとは違い、実に行動派のお転婆娘として描かれている。推理作家を目指し、日夜創作に励むが、かつて熱中したエラリー・クイーンの諸作の影響から抜け切れず、四苦八苦している。彼女が書く作品の題名も『ペルシアじゅうたんの謎』とか『羽飾り帽子の謎』と、どこかで聞いた風なのが面白い。自作がクイーンの諸作に酷似していることを編集者に云われ、エラリーを逆恨みしているというシチュエーション。いがみ合っていた相手に次第に惹かれるというのはラヴ・ストーリー物の定番だが、ポーラの場合はエラリーの一目惚れから始まり、ポーラの外出恐怖症を熱心にかき口説くことで克服させて付き合いが始まる。つまりエラリーは能動態であったわけだが、ニッキーの場合はかつての1ファンであり、謂れのない恨みを買っている側から次第に好かれていくという受動態に変わっているところがミソか。そういえばエラリーは結婚願望はないものの、常に美人に対しては弱かったので、この展開は新しいのかもしれない。特に2編ともロマンスの誕生を思わせながら、ジョークで閉じられる結末からもクイーンが明らかに惚れられるエラリーの立場を愉しんでいるのが解る。そしてニッキーの存在は今まで単なるパズル小説に終始していたエラリー・クイーンの諸作にファルスを持ち込む要素になっている。例えばニッキーが容疑者になってエラリーに匿われた際、新しく雇った家政婦としてした事もない料理に孤軍奮闘するシーンなどはアメリカのホームコメディドラマの1シーンを観ているかのような面白みがある。ニッキーの役割はコメディエンヌで物語に彩りを与えているのだ。これは親しかったカーの影響があるのかもしれない。カーも過剰とも云えるHM卿のドタバタシーンを導入して笑いを自作に取り込んでいた。2人は交流があったからお互いのミステリにあり、自分のミステリにはない物を積極的に取り入れようとしていたのだろう。ところで今回は今までの訳者井上勇氏ではなく青木勝氏であるせいか、エラリーの口調が今までよりもぞんざいである事が気になった。リチャード・クイーン警視を「お父さん」と呼ばず、「おやじさん」と呼び、時には「あんた」とも呼ぶ。話し方も粗野でぶっきらぼうである。なんだか別人を見ているようだ。逆に叙述トリックなのかとも思うくらいの変わりようだ。青木氏にどんな意図があったのか知らないが、個性を出しすぎて逆にイメージを損なっているように感じた。ここまでクイーンの短編集を3冊読んできて思ったのは、短編が長編の原形のように同じアイデアを用いられていることだ。これはチャンドラーやカーでもあったことなので、クイーンに限ったことではないのだが、あまりに多すぎると感じた。当時はペンで生計を立てるためにとにかく作品を数多く書くことが主流だったのだろう。従って短編を無理矢理引き伸ばして長編に仕立てることも常識だったのかもしれない。それが故にかえってこれらの短編が今では作者の創作の足跡を追うような資料となっている感じがする。資料的価値として意義はあるかもしれないが、一読者として独立した作品として楽しめないことに一抹の寂しさを感じる。この後も色々な短編集があるが、同様の失望を感じるのならば、なんだか哀しくなってしまう。 ▼以下、ネタバレ感想
映画オリジナル脚本を小説にリライトした「消えた死体」、「ペントハウスの謎」の2編を収録した中編集。
「消えた死体」は推理作家志望のニッキー・ポーターなる女性が登場するが、後期クイーンでパートナーを務めることになる同姓同名の人物とは別人である。
この「消えた死体」は長編『ニッポン樫鳥の謎』の原形だろう。同一のアイデアで別の話を作っただけで、物語の構成は全く一緒だ。もう少しアレンジが欲しいところだ。
ただなぜ犯人が死体を隠すのかという理由はさすがに秀逸。
物語のスピード感といい、適度な長さといい、『ニッポン樫鳥の謎』が無ければ、クイーンの作品としても上位の部類に入っただろう。
もう1つの中編「ペントハウスの謎」は「消えた死体」同様、ニッキー・ポーターの友人が絡む。
中国の抵抗組織の資金繰りのためにアメリカ人の腹話術師が資金援助のための宝石を密輸する手助けをするが、その情報を嗅ぎ付けた日本のスパイや詐欺師たちとの攻防が発端となり、殺人事件に発展したという、クイーンの作品にしては異色とも云える派手な事件である。
腹話術師と同じ船に乗り合わせた身元詐称の人物たち、消えた宝石の謎など色々エッセンスを放り込んでいるが、逆に謎の焦点が曖昧になり、最後の切れ味に欠ける。特に犯人を限定する決め手となったあるしるしの正体は全く解らないだろう。
容疑者一同を集めて謎解きという、古典的な手法に則った解決シーンだが、カタルシスは得られなかった。
本編で登場するニッキー・ポーターは前のパートナーであったポーラ・パリスとは違い、実に行動派のお転婆娘として描かれている。推理作家を目指し、日夜創作に励むが、かつて熱中したエラリー・クイーンの諸作の影響から抜け切れず、四苦八苦している。彼女が書く作品の題名も『ペルシアじゅうたんの謎』とか『羽飾り帽子の謎』と、どこかで聞いた風なのが面白い。
自作がクイーンの諸作に酷似していることを編集者に云われ、エラリーを逆恨みしているというシチュエーション。いがみ合っていた相手に次第に惹かれるというのはラヴ・ストーリー物の定番だが、ポーラの場合はエラリーの一目惚れから始まり、ポーラの外出恐怖症を熱心にかき口説くことで克服させて付き合いが始まる。
つまりエラリーは能動態であったわけだが、ニッキーの場合はかつての1ファンであり、謂れのない恨みを買っている側から次第に好かれていくという受動態に変わっているところがミソか。
そういえばエラリーは結婚願望はないものの、常に美人に対しては弱かったので、この展開は新しいのかもしれない。
特に2編ともロマンスの誕生を思わせながら、ジョークで閉じられる結末からもクイーンが明らかに惚れられるエラリーの立場を愉しんでいるのが解る。
そしてニッキーの存在は今まで単なるパズル小説に終始していたエラリー・クイーンの諸作にファルスを持ち込む要素になっている。
例えばニッキーが容疑者になってエラリーに匿われた際、新しく雇った家政婦としてした事もない料理に孤軍奮闘するシーンなどはアメリカのホームコメディドラマの1シーンを観ているかのような面白みがある。ニッキーの役割はコメディエンヌで物語に彩りを与えているのだ。
これは親しかったカーの影響があるのかもしれない。カーも過剰とも云えるHM卿のドタバタシーンを導入して笑いを自作に取り込んでいた。
2人は交流があったからお互いのミステリにあり、自分のミステリにはない物を積極的に取り入れようとしていたのだろう。
ところで今回は今までの訳者井上勇氏ではなく青木勝氏であるせいか、エラリーの口調が今までよりもぞんざいである事が気になった。
リチャード・クイーン警視を「お父さん」と呼ばず、「おやじさん」と呼び、時には「あんた」とも呼ぶ。話し方も粗野でぶっきらぼうである。なんだか別人を見ているようだ。逆に叙述トリックなのかとも思うくらいの変わりようだ。
青木氏にどんな意図があったのか知らないが、個性を出しすぎて逆にイメージを損なっているように感じた。
ここまでクイーンの短編集を3冊読んできて思ったのは、短編が長編の原形のように同じアイデアを用いられていることだ。これはチャンドラーやカーでもあったことなので、クイーンに限ったことではないのだが、あまりに多すぎると感じた。
当時はペンで生計を立てるためにとにかく作品を数多く書くことが主流だったのだろう。従って短編を無理矢理引き伸ばして長編に仕立てることも常識だったのかもしれない。それが故にかえってこれらの短編が今では作者の創作の足跡を追うような資料となっている感じがする。
資料的価値として意義はあるかもしれないが、一読者として独立した作品として楽しめないことに一抹の寂しさを感じる。
この後も色々な短編集があるが、同様の失望を感じるのならば、なんだか哀しくなってしまう。
▼以下、ネタバレ感想