肺都
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前作で知り合った二人が空気の悪いロンドンで身を追われ・・・というお話。 前作、前前作で出てきた登場人物や筋がすべて収斂してこのファンタジーの掉尾を飾る様にカタストロフが訪れるという大団円を迎えるシリーズ完結編。出来れば、二作を読んでから読んだ方がいいです。 このシリーズで物に特化した着想になっている理由を考えてみましたが、人間が作る物には作った人の愛情が込められているので、大切に使いましょうという著者のメッセージではないかと思いましたがどうでしょうか。今現在は物から情報化・電子化に移行しつつあるのし、100円ショップで使い捨てになる物が増えていますが、そんな中で改めて物の大切さ重要性を訴えた作品に思えました。本自体も、装丁や作りに趣向を凝らしてあり、物の持つ楽しみを演出しようとした様に思えます。 という様な事を抜きにしても面白い娯楽小説、或いは寓話に感じました。 シリーズ完結編。出来れば全作読んだ方がいいです。 | ||||
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率直に素晴らしかったです。面白かった。 通勤の行き帰りの電車や家などで1週間もかからず、一気に読み終えました。 1、2巻の物語が前置きだったのかと思えるほど、現実との融合、コミットが為されていて、そこに読みごたえ、さらにはダイナミズムと圧倒的な物語の力、リーダビリティを感じました。 帯にもある通り、ジャンルを超えた小説、物語です。1、2巻は児童書の範疇に収まっていましたが、この3巻目に関しては分類不能です。繰り返すようになりますが、現実とのコミットメント、ソリッドな現実感が奇想天外な物語の中にもしっかりと根づいていて、そこがポイントのような気がしました。それができるのは80年、90年代の村上春樹とエドワード・ケアリーだけかもしれません。 1、2巻で感じていた、いまいち突き抜けないもどかしさのようなものがあってそれが3巻目で見事に昇華されていました。ドストエフスキーの「悪霊」の冒頭にある長い長い前置きのように。 「望楼館追想」にもひけを取らない傑作だと思います。素晴らしい仕事です。 | ||||
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「ああ、今日は世界の終わりだ」(523頁) あらら、物から人間に変えられたクロッドとルーシーのへんてこで不思議な物語(三部作)も、とうとうこの本で終わりです。 この本の「ふんにょう」とごみとガラクタの不潔な夢の世界は、石炭の吐き出す黒煙で空は黒くおおわれたヴィクトリア朝時代のロンドンとよく似ている世界だそうです。 この物語の主人公は、「十シリング金貨」から誕生した少年「クロッド」 そして、話し手(語り手)は、おじいさまに陶製のボタンにされて屑山に投げ込まれた、いじめっ子で赤毛の召使いの少女の「ルーシー」 「クロッド」と「ルーシー」のへんてこで不思議な「愛」の物語。 凄まじいまでの腐臭汚臭悪臭激臭が漂う中、「あなたの栓のにおい」を追うセクシーなものたちの「におい」のファンタジー。 「わたしたち全員がひとり残らず泥まみれ、ごみまみれ、糞まみれだ。女王陛下には馬糞がくっついている」(547頁)という不潔きわまりない御不浄の世界。 <結構毛だらけ猫灰だらけ、お尻のまわりはクソだらけってね>と啖呵を切る日本の誰かさんに似てる世界ですね。 鼠が人に変わる魔法の世界。村上春樹の小説のような世界です。 本書の著者エドワード・ケアリーは、本書カバーのイラストレーションと本文中の挿絵も描いています。グロテスクで可愛げのない絵ですが、不思議と読者が引き付けられ魅せられるコミック風の絵です。 「ヴィクトリア朝時代の大都市は想像以上に汚れていて、本書からは凄まじいまでの腐臭汚臭悪臭激臭が漂ってきた」(訳者あとがき) ケアリーの意図は、文章をグロテスクなイラストレーションと挿絵と一体化させ、一緒になったときに具体的なイメージが読者に湧いてくるように仕組まれていて、この作品独特の「におい」となって、読者に目でも鼻でも感じさせてくれます。 「わたし」の名は、ルーシー・ペナント・ベネディクト。「ベネディクト」の子。「ベネディクト」? 「ボットン?」 ぼっとんべんじょ。 「さまざまな物がかつては人だった」と言います。 著者は、物のひとつひとつから、その物をかつて持っていた人の物語を紡ぎ出すのです。 たとえ物が、「十シリング金貨ひとつ」と「陶製のボタンひとつ」であっても。 その物から、著者はこの本の主人公「クロッド」と「ルーシー」の物語、壮大な三部作を紡ぎ出したのです。 著者の創造力の壮大さは、この本の「裏表紙の見返し」に「アイアマンガー一族の血統図」として描かれています。 なんと、クロッドのおじいさんとおばあさまは、12人もの子どもをもうけていたのです。その最後の12番目の子が、クロッドの父親です。 クロッドは、結末の第33章で、おじいさまの指示で「貴族院のベンチの下に鼠の姿になって隠れている」(489頁)。まるで忍者のように。 この本の結末では、そんな鼠たちが人に変わり、反対に、おじいさまは「二十人の庶民院議員と十人の貴族院議員を物に変え」る、という荒唐無稽な物語です。いったい議員たちは、どんな「物」に変えられたのでしょう。世界一有名な蝋人形制作者マダム・タッソーの蝋人形は、人間が生きたまま蝋で固められてしまったように生き生きとした、不気味な「物」ですよね。 物が人間になり、人間が物にされてしまう、という、そんな「物と人間の間の世界」の物語です。アイアマンガー一族は鼠になって逃げて今も生き延びているような気がするお話しです。鼠もやはり生き物という物なのです。 この本の「表紙の見返し」には、「ロンドンの町」のイラストがあります。 「鳥が空から俯瞰するようにロンドン全体を眺めると、ただのごみの山にしか見えない」という冒頭の言葉どおりの絵が描かれています。 蠅が一匹、空からロンドン全体を眺めている「鳥瞰図」です。空の黒い雲からは、黒い雨がごみの山のようなロンドンの町に降り注いでいます。テムズ川の水も黒く濁っています。「ロンドンの町」というタイトルの枠飾りには、左手に丸々と太った鼠が、右手にはしょんぼりとした表情のサラダ好きのライオンがなさけなく枠につかまって立っています。 この本は、マンガ本や絵本を読むように、絵からも文章からも読者のイメージがふくらむ、楽しい本です。 | ||||
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