あるいは修羅の十億年
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迅速な対応で、商品の状態も良く、とても満足しています。 | ||||
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好きな本についてはあまり過剰に語らないほうがいいような気もして、俳句ぐらいがいいのかもね、 でも言いたいのは、 「13」って好きなんですよね。と、 品川に鯨塚ってのがあるんですけど? ってことで、とりあえずそれで。 たてがみを蓮茶で洗え愛叫ぶ | ||||
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これは、有り得るかもしれない闇の時間軸の群像劇。 劇の舞台は東日本大震災の発生から15年後の日本。震災に伴う原発事故で汚染された地域は「島」と呼ばれていた。「島」に由来する馬を駆る騎手のヤソウ、人工心臓を埋め込まれたウラン、「島」に生息する茸を観察するサイコ。この3人がそれぞれの方法で2026年の東京を見つめ、そして再生を目指していく。 その一方で、「島」を巡り暗躍する様々な者たち。それは、放射能汚染された「島」を観測して貴重なデータを得ようとする諸外国や、擬似テロを目論む結社だったりする。 そして現出する新たな脅威。ポスト3.11に希望はあるのか、人間の愚かさに限度は無いのか・・ そんな問題提起を匂わせながら劇は進んでいく。 東日本大震災を題材にした荒唐無稽なお話。本作をそう捉えるのは簡単だ。 しかし実際に、福島県から他県に非難してきた人がいじめや差別を受けたという事例もある。この前のニュースでは、福島県から他県に転校してきた生徒が暴行や恐喝の被害を受けていたと報道されていた。 そんなニュースを見る度に思うのだ、闇の時間軸はいつでも大きな口を空けて我々を呑もうとしているのだと。しかし一方で、あの震災の時に見ず知らずの人たちが協力し合ったことも事実だ。 東日本大震災を経て、我々はどう生きるのか。闇の時間軸に呑まれるのか、手を取り合う未来を選ぶのか、その覚悟が試されているように思える。 | ||||
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読み始めて直ぐに失望した。東日本大震災を背景に新しい<神話>を創造しようという"陳腐"な構想(こうした構想が成功した試しはない)がミエミエな上に、読者にとって錯綜した(分かり難い)ストーリー展開が文学的だと勘違いしている節が冒頭から顕著だったからである。そこには、福島原発事故を含む東日本大震災の被災者の方への真摯な鎮魂の念はなく、単に作者の偏狭な世界観の押し付けがあるだけ。作者が東日本大震災を"飯のタネ"にしている有象無象の作家の一人だという事が良く伝わって来る愚作である。 読み進めて行く内に新しい視界や希望が開ける訳ではなく、「きのこ雲=原子爆弾」を意識した茸(菌糸菌)のモチーフの繰り返し(映画「マタンゴ」まで出て来る)、被爆して人工内臓で生きている少女をウランと名付ける軽佻浮薄さ(冴子をサイコと呼んだりもする)、意味のない駄洒落(例えば、Here comes the sun→ヒア・カムズ・ユーゲン(世阿弥の事))の繰り返し、内(被爆地域を「島」と称している)と外の表裏一体といった言い古された言辞の借用、カウボーイやフランスのプロバンス地方への言及といったこれまた意味のない無国籍風の雰囲気の醸し出し等々、読んでいてウンザリする事ばかりである。そして、一番の疑問は、自然環境保護の象徴という意味だろうか、「鯨」を全編のモチーフとしている点である。日本人の考える「鯨」と自然環境保護団体なるものが考える「鯨」とは全く異なるものなのに、これを調和の象徴とする辺りは奇異という他はない。 そして、本作には何の収斂もない。最終章では予定調和的事故が起きるが、これまた希望のないものである。なお、本作の時間軸は自在で、本作の内容はサイコのお腹の中の子が書いたという風に取れる仕組みとなっている。その本作が現実を書き換えられるとあっては笑止千万という他はない。読むだけ徒労に終わる真の愚作である。 | ||||
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ストーリーを理解するのさえ困難な小説だ。 大津波によって陸に打ち上げられた巨鯨の肉が土地を作り、その血は川となって海に注ぎ、その骨は建物となる。そうして出来上がったのが東京なのだと、2026年の東京に生きる18歳の谷崎ウランは幻視して、メキシコ人の芸術家とともに「原東京」を再現しようと試みる。 2011年の大津波による原子力発電所の事故で、外部の人間に「島」と呼ばれるようになった「森」から上京した17歳の喜多村ヤソウは、ジョッキーとして人工腱を埋め込まれた馬を駆る。 ヤソウの姉であり従姉でもある19歳の喜多村サイコは、「森」の中で茸の小説を書き、「森」に留まりながらにして、東京の危険な中心地と化した「鷺ノ宮」で生き、行動する。 放射能、テロ、結社、まがまがしいイメージが横溢する近未来SF的な本書はしかし、物語であることを拒む。35に分割されたプロットは有機的には繋がらず、読点と反復言語が多用された現代詩のような文体は、頁を捲る手を渋滞させる。疾走感に溢れた「アラビアの夜の種族」や、「ベルカ、吠えないのか?」とは異なり、この小説はまったく走らない。 ところが、最後のパートでようやく、著者は文字通りに小説を走らす。そしてプロットが一気に重なり合うカタストロフを現出させる。 そこでふと、冒頭の言葉に思いが至る。 「ごきげんよう、本(フィクション)を読む阿修羅たち。」 本書は物語(ストーリー)でも小説(ノベル)でもなく、本(フィクション)だ。これを読む人間は阿修羅でなければならない。そのくらいの覚悟がなければ、一見、荒唐無稽な400頁を読破するのは苦行だ。 それでも、登場人物たちの言葉を通して伝わってくる著者の幻視力、危機意識は、実に今日的な問題を孕んでおり、本書を開くことは決して時間の無駄ではない。 | ||||
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