月と太陽の盤 碁盤師・吉井利仙の事件簿
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主役の職業設定が特別だと、話も期待、興味も自然でてきますよね、おもしろかつた | ||||
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. 本書文庫版の解説で、ミステリ書評家の村上貴史が紹介しているように、宮内悠介はデビュー以来、その書く作品の多くが、純文学と大衆文学とを問わず、次々と各種文学賞の候補作となり受賞作となって、たいへんな注目を集めた作家である。まさに、宮内悠介フィーバーと呼んでいいような雰囲気がデビュー後の数年にはあったのだが、その熱狂もここ数年はさすがに落ちついてきたようだ。 無論、宮内悠介がこれほどの幅広く高い評価を受けたのは、彼が小説家としての非凡な才能を持ち、かつたいへんに「器用」な作家で、いろんなジャンルの作品を器用に書き分けて、それらが軒並み、各ジャンルにおける期待水準に達していたからであろう。 しかし、その宮内が、タイトルにも明らかなとおり、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」譚以来の「本格ミステリ」に挑んだ本作は、必ずしもミステリファンを満足させる出来とはならなかったようだ。 前述の文庫解説で村上貴史は、本作がいかに「完成度の高い」「よく出来たミステリ」であるかを、全力を傾注して強調しており、私もそれに異論はないものの、しかし本書はどこか「物足りない」ものを感じさせる。「完成度が高い」「よく出来たミステリ」であるにもかかわらず、どこか「本格ミステリの魅力」に欠けるのだ。 端的に言えば、感心はしても、「本格ミステリとしては、面白くはない」のである。 実際、村上は、その解説のタイトルを『よいミステリ、よい小説、よい宮内悠介入門書』としており、『 というわけで、だ。本書は上出来のミステリ短編集であり、良質な小説であり、そして、紛う事なき宮内悠介本なのである。』とまとめている。 つまり村上はこの解説で、本書を「よく出来たミステリ」「よい小説」だと強調してはいるけれども、「面白い」とは、保証していないのである。 だからこれは、「正直な書評家」である村上貴史の「叙述トリックによる解説」と呼んでも良いのかもしれない。 ともあれ、本書は「よく出来たミステリ」「よい小説」ではあっても、「面白いミステリ」ではない。 では、どのあたりでそうなのかという点については、単行本版のレビュー欄で、レビュアーの「せんべい」氏が、次のように的確に指摘するとおりである。 『文章からはその世界の雰囲気が匂い立つような魅力がある。しかし、単調、平坦で静か。刺激に慣れた者としては少々物足りない。』 「小説」として「文学」としての『匂い立つような魅力』という「上質性」を発しながらも、「ミステリ」としては、特に「本格ミステリ」としては『単調、平坦で静か。刺激に慣れた者としては少々物足りない。』作品になってしまっている。一一これはなぜか? 要は、「謎解きを主眼とするミステリ=本格ミステリ」というのは、基本的に「稚気の文学」だからである。 簡単に言ってしまえば、「本格ミステリ」は、「大人の文学」でも「芸術」でなくてもかまわない。要は「驚かせ」「楽しませ」てくれるならば「それでいい」「それで充分」なのだ。 無論、傑作と呼ばれる作品の場合は、ただ「驚かせ」「楽しませ」るだけではなく、しばしば「大人の文学」としての「深い哲学や人生観や世界観」を提示するし、「芸術」作品としての「洗練され、あるいは突き抜けた美」を提示するだろう。だが、「ミステリ」の本質は、そこにはない。 「ミステリ」の本質は、基本的には「現実逃避の娯楽性」にある。 読者を一時、この「退屈な世界」から救い出すための、「驚かせ」「楽しませ」る眩惑の提供が、まず必要なのだ。すべては、それを提供した上での、「プラスアルファ」として「大人の文学」であったり「芸術」であったりしなければならないのである。 ところが、宮内悠介の作品には、そうした「子供のための娯楽」であることを、善しとできない部分があったのではないだろうか。 . 『「いまの目で見るなら、彼はスキゾイド・パーソナリティ障害という、一種の精神疾患だったのではないかと考えられます。この障害を持つ患者は、人と深くかかわる交流を避け、自らの聖域を守る傾向があります。そして、周囲からは、超然とした、ときに冷淡な人間に映る」』(文庫版 P245) 『「煩悩を避け、石と盤のみの世界を生きる一一それは、一つの生きかたであると思います。でも、わたしがそうするしかないのに対し、あなたには選択肢があります」』(文庫版 P246) つまり、「本格ミステリ」偏愛者というのは、古い言葉で言えば、一種の「スキゾキッズ」だということである。 もちろん、ここでの語り手である「わたし」がそうであるように、そうであるしかない人はいるし、そうであることが悪いと言うのでもない。けれども、もっと自由に生きられるのであれば、わざわざそんな「狭い閉域」に固執する必要もないのだ。 そして、そんな「自由な大人」である宮内悠介は、「ミステリ」という「子供の世界」に惹かれながらも、子供にはなりきれなかった人なのではないか。だからこそ、彼の書いたミステリ作品である本作は、「子供に対する憧れと諦念」に満ちた『平坦で静か』な作品になってしまったのではないだろうか。 . | ||||
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. 本書文庫版の解説で、ミステリ書評家の村上貴史が紹介しているように、宮内悠介はデビュー以来、その書く作品の多くが、純文学と大衆文学とを問わず、次々と各種文学賞の候補作となり受賞作となって、たいへんな注目を集めた作家である。まさに、宮内悠介フィーバーと呼んでいいような雰囲気がデビュー後の数年にはあったのだが、その熱狂もここ数年はさすがに落ちついてきたようだ。 無論、宮内悠介がこれほどの幅広く高い評価を受けたのは、彼が小説家としての非凡な才能を持ち、かつたいへんに「器用」な作家で、いろんなジャンルの作品を器用に書き分けて、それらが軒並み、各ジャンルにおける期待水準に達していたからであろう。 しかし、その宮内が、タイトルにも明らかなとおり、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」譚以来の「本格ミステリ」に挑んだ本作は、必ずしもミステリファンを満足させる出来とはならなかったようだ。 前述の文庫解説で村上貴史は、本作がいかに「完成度の高い」「よく出来たミステリ」であるかを、全力を傾注して強調しており、私もそれに異論はないものの、しかし本書はどこか「物足りない」ものを感じさせる。「完成度が高い」「よく出来たミステリ」であるにもかかわらず、どこか「本格ミステリの魅力」に欠けるのだ。 端的に言えば、感心はしても、「本格ミステリとしては、面白くはない」のである。 実際、村上は、その解説のタイトルを『よいミステリ、よい小説、よい宮内悠介入門書』としており、『 というわけで、だ。本書は上出来のミステリ短編集であり、良質な小説であり、そして、紛う事なき宮内悠介本なのである。』とまとめている。 つまり村上はこの解説で、本書を「よく出来たミステリ」「よい小説」だと強調してはいるけれども、「面白い」とは、保証していないのである。 だからこれは、「正直な書評家」である村上貴史の「叙述トリックによる解説」と呼んでも良いのかもしれない。 ともあれ、本書は「よく出来たミステリ」「よい小説」ではあっても、「面白いミステリ」ではない。 では、どのあたりでそうなのかという点については、単行本版のレビュー欄で、レビュアーの「せんべい」氏が、次のように的確に指摘するとおりである。 『文章からはその世界の雰囲気が匂い立つような魅力がある。しかし、単調、平坦で静か。刺激に慣れた者としては少々物足りない。』 「小説」として「文学」としての『匂い立つような魅力』という「上質性」を発しながらも、「ミステリ」としては、特に「本格ミステリ」としては『単調、平坦で静か。刺激に慣れた者としては少々物足りない。』作品になってしまっている。一一これはなぜか? 要は、「謎解きを主眼とするミステリ=本格ミステリ」というのは、基本的に「稚気の文学」だからである。 簡単に言ってしまえば、「本格ミステリ」は、「大人の文学」でも「芸術」でなくてもかまわない。要は「驚かせ」「楽しませ」てくれるならば「それでいい」「それで充分」なのだ。 無論、傑作と呼ばれる作品の場合は、ただ「驚かせ」「楽しませ」るだけではなく、しばしば「大人の文学」としての「深い哲学や人生観や世界観」を提示するし、「芸術」作品としての「洗練され、あるいは突き抜けた美」を提示するだろう。だが、「ミステリ」の本質は、そこにはない。 「ミステリ」の本質は、基本的には「現実逃避の娯楽性」にある。 読者を一時、この「退屈な世界」から救い出すための、「驚かせ」「楽しませ」る眩惑の提供が、まず必要なのだ。すべては、それを提供した上での、「プラスアルファ」として「大人の文学」であったり「芸術」であったりしなければならないのである。 ところが、宮内悠介の作品には、そうした「子供のための娯楽」であることを、善しとできない部分があったのではないだろうか。 . 『「いまの目で見るなら、彼はスキゾイド・パーソナリティ障害という、一種の精神疾患だったのではないかと考えられます。この障害を持つ患者は、人と深くかかわる交流を避け、自らの聖域を守る傾向があります。そして、周囲からは、超然とした、ときに冷淡な人間に映る」』(文庫版 P245) 『「煩悩を避け、石と盤のみの世界を生きる一一それは、一つの生きかたであると思います。でも、わたしがそうするしかないのに対し、あなたには選択肢があります」』(文庫版 P246) つまり、「本格ミステリ」偏愛者というのは、古い言葉で言えば、一種の「スキゾキッズ」だということである。 もちろん、ここでの語り手である「わたし」がそうであるように、そうであるしかない人はいるし、そうであることが悪いと言うのでもない。けれども、もっと自由に生きられるのであれば、わざわざそんな「狭い閉域」に固執する必要もないのだ。 そして、そんな「自由な大人」である宮内悠介は、「ミステリ」という「子供の世界」に惹かれながらも、子供にはなりきれなかった人なのではないか。だからこそ、彼の書いたミステリ作品である本作は、「子供に対する憧れと諦念」に満ちた『平坦で静か』な作品になってしまったのではないだろうか。 . | ||||
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私は将棋愛好家であるが、囲碁を取り上げた本作も興味深く読んだ。さまざまな味わいを持つ多彩な連作集であるが、滋味溢れる良い作品が多いと思う。 しかしながら、「吉井利仙の事件簿」としてミステリ短編集を期待すると、肩透かしを食うと思う。又、利仙を始め、どのキャラも薄味でそれほど魅力を感じなかった。 結局連作集としてまとめるには、無理があったのではないかと言う印象。何か一つ統一感が欲しかった。 | ||||
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※以下の内容には【ネタバレ】が含まれる可能性があります 見取り図が用意された館ミステリもあれば,聞き取りだけで全てを導く安楽椅子探偵, かと思えば,男と女の悲しい過去,さらには若い二人のラブコメチックなやり取りまで, 帯の文句の通り,『本格ミステリ*人間ドラマ』を描いた五編と番外編を含む全六編です. 全てがミステリではなく,一部の推理への疑問など,期待と違う部分はありましたが, ミステリ寄りではない編の方で,その手法や組み立てが見られたのは却って新鮮に映り, なじみの薄い囲碁の世界や道具の話に,堅苦しくなく触れられているのも悪くありません. 一方で,碁盤師の男より助手役の少年棋士が前に来ているのは意図的なのでしょうが, ライバル的な位置付けとなる,贋作師の男まで『おいしい役回り』になっていたようで, 希望を抱かせる結末ではありますが,彼の最後の願いや終盤に漏らされる思わぬ苦悩など, もう少しそちらに焦点が当てられる流れや,やり取りが見てみたかったようにも思いました. | ||||
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