赤い橋の殺人
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訳者の鼻息は荒いが、それほど面白くはない。もうクレマンが人殺しだというのは作者も読者も作中人物も知っているのに気づかないふりしてグダグダするところ、短い小説なのに退屈しました。大した小説でもないのにまえがきやらあとがきやら解説やら多すぎます。ボードレールにポーを紹介した(かもしれない)人物という文学史的小ネタだけは有難く読ませていただきました。 | ||||
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薄い本なのであっという間に読めました。 後書きが充実していました。忘れられたフランス人作家を日本人(訳者)が発見したくだりは探偵小説のようで、そちらも興味深く拝読しました。 物語は、極貧の人物が突然金持ちになり、名士が集まるパーティーすら主催するのですが、何かが怪しい、というお話です。 登場人物が激白するところがフランスっぽいなあ、と感じました。サスペンスというか、怪奇小説というか、不思議なお話でした。 被害者に全く同情できませんでしたが、それでもあの展開なんですね。罰が当たるところが違う気がしました。 | ||||
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「これぞフランス版『罪と罰』だ!」と言う帯の謳い文句に惹かれて手にしました。 ところが、「解説」を読むと時代的にはこちらが先で、この作品にドストエフスキーが触発されて『罪と罰』を書いたのかも知れないとのことです。 確かに、読後感は『罪と罰』を読み終わった後の衝撃と非常に近いものがありました。 それは、内容もさることながら、「哲学的な心理小説」と言うところに大きな要素があるように思います。 「この小説は悪徳と神、殺人と良心に関する形而上的問題が重要なテーマをなしている」訳で、「神が存在しなければすべてが許される」と言う主人公の言葉で語り尽くされていると思います。 とは言うものの、本作品は中編と言う事もあって、『罪と罰』ほどの重苦しさを感じずに読むことが出来ました。 エドガー・アラン・ポーにも精通していたと言う作者のミステリー的な書き方や、音楽家でもあったことからくるリズム感的なものがそうさせているのかも知れません。 それにしても、日本人がフランスでも忘れ去られていたバルバラと言う作者を掘り起こしたと言うことは、凄いことだと思います。 訳者でもある亀谷乃里さんに、素晴らしい小説をありがとうと謝辞を送りたいと思います。 | ||||
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バルバラと云う作家は全く耳にしたことが無かったのだが、訳者が30年程前に発掘して以来、日本への紹介は丸切り行われて来なかったと云うからさもありなん。ボードレールの盟友と云うから(本作中には『悪の華』に発表される以前のボードレールの詩もされている)さぞや難解な文体なのかと思いきや、文章は至って普通。非常に読み易い。 無神論を信奉し、自らが入り込んだ世間の欺瞞を痛烈に軽侮つつも、絶えず何かに怯えている様な主人公、果たしてその過去にはと云うストーリーで、真相が明かされるのは終盤になってからなのだが、別に大した謎が隠されている訳でもなく、鈍い読者でも早い段階で何が起こったのか推測するのは難しくない。倒叙ものの心理小説と読めないことも無く、その意味ではドストエフスキーの『罪と罰』の先行作品とも言える。ロシア的な大地に代わってここで倫理を保障するのは神であり、神の不在に慣れ切ってしまっている現代人からするとこの辺は感情移入し難いところかも知れないが、当時神の否定が具体的にどうした影響を齎したのかを知る資料として読めば面白い。また貧しいインテリ青年が常識に反逆する、と云うモチーフ自体は今日でも通用するものだろう。エピローグは如何にもカトリック教圏らしさを窺わせるが、この辺の趣向は今日のサスペンス小説等では見られない。人生を全体として描くと云う、19世紀フランス小説の良さが出ている。 超自然的な恐怖小説的要素(主人公の赤ん坊の顔が何故か死んだ男の顔に)や、空想科学的要素(タイトルにもなっている「赤い橋」は鉄の鎖を使用した吊り橋だが、これは当時まだ存在していなかった)も登場し、何だこれではまるでポオではないかと思うのだが、ボードレールと親しかったすれば、実際ポオの影響も考えられる。作中には当時のボヘミアン達の交友関係が描かれているが(毎週開かれる音楽会の場面が興味深い)、現実にこうしたサークルの中で当時の文壇や芸術界の風潮は胚胎して行ったのだろう。まだ未紹介の傑作が何点も有るそうなので、今後の展開に期待したい。 | ||||
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フランス本国で忘れられた作家だったシャルル・バルバラが、本書の訳者の研究が契機となって復活したという。作家の生年もその研究によって改められた。研究を発表した1980年代前半にはフランス語圏でインターネット検索しても、誤った記述を含む短い文書が2〜3件ヒットするに過ぎなかったらしい。今ではネット上の情報も増え、仏国の教科書にも載っているとのことだ。2000年代になるとスペイン語訳と英語訳が出た。(「訳者あとがき」) 本作品は日本では初訳となる由。訳文は硬めで、それがいかにもヨーロッパの夜な雰囲気を出しているようだ。 「訳者あとがき」で「次作の出版に向かって精進するつもり」と記している。楽しみに待ちたい。 詩人のボードレールとの親交もあったバルバラは、エドガー・アラン・ポーの翻訳をしたとのことだが、恐怖小説、探偵小説の要素を本作品に取り入れている。 また、同時代の作家にロシアのドストエフスキーがいる。帯の推薦文でロシア文学の亀山郁夫が「これぞフランス版『罪と罰』だ!」と言っている。(ちなみに『赤い橋の殺人』は安政年間、『罪と罰』は慶応年間) 確かに、道徳なんか妄想に過ぎないと自我を肥大させる一方で、犯罪の発覚にヒステリックに怯える性格は、ラスコーリニコフを先取りしている。 ベートーヴェンの交響曲が耳元で鳴り響くような長広舌もドスト的。 しかし、主人公クレマンはラスコーリニコフよりも皮肉な運命をたどる。フランスには、身を投げ出して接吻すれば受け入れてくれるようなロシア的な大地はないのだ。 とりわけ、「全き告白」の章に描かれる男と女の孤独さはきわめて象徴的。神の死を宣告したニーチェやハイデガーが捉えた、人間の寄る辺のなさを示している。 その感覚は映画「パパってなに?」をニセ父親の視点で見たときの感じに似ているかもしれない。 いろんな意味で、159年の時を経て届いた風が身を引き締めてくれる。 | ||||
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