影を買う店
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皆川博子さんといえば、高校生のころ傑作「丘の上の宴会」を、阿刀田高氏の編んだアンソロジーで一読してその鋭い感性にノックアウトされ、以後著作を探したがなかなか見つからずそのうちあきらめてしまったという過去があった。 つい最近になってものすごい勢いで著作が出版されているのを知り、まずは「海賊女王」、「少年十字軍」など読破していった。 しかしそれらの作品は名手が描く安定感のある幻想歴史もの(そんな言葉あるか?)としては素晴らしいものだったと思うのだがどうもぴんとこなかった。見果てぬ文学少女の夢というか…ものすごいレベル高めな腐女子系文学といおうか…意味不明で申し訳ないがそんな感想を抱いた。 ところがこちら… 内容は読んでいただければ分かるがおそらく森鴎外の娘、森茉莉さんのことを書いていらっしゃると思うのだがこちらを読んでもうその一線超えまくった感性にまたノックアウトされてしまった。 本気でこんなことを想うんだろうか…いや、本気ではなくても…やはり皆川博子さんは変わっている。 それはもう変人などという俗な言葉を通り越して、……いやはや失敬、完全な「流薔園」の住人である。 中井英夫さんが管理人をしてくださってる「流薔園」に住む住人たちは、横の世界とは繋がれない。 文字を介した縦のつながりに、その細い細い糸を心の命綱にして日々をなんとか生きている。 そんな、「流薔園」に住んでいる人たち、あるいは残念ながらもう一杯で入れませんよと言われて入所待ちをしている人たちの隠れ場所、それが皆川博子さんの著作であったり、森茉莉さんの著作であったりするのだろう。 いいなあ、皆川さんは流薔園の正式な入所資格を持っているのだ、きっと。 私も入りたいと思うが叶わなかった。 おそらく理由は、私が時々 流薔園の人々を裏切るような真似をしてしまうからなんだろう。 普通には全然なれないくせに、普通にあこがれて、普通のふりをしてる。 そんな私の態度が流薔園の人々を時々傷つけてしまう。傷つけたいなんて思ってはいないけれど、自分を偽ることというのは結局誰かを傷つけるのだ。 愛想笑いをやめて、潔く自分はそっち側の人間ですと、いや、少なくとも、自分にひっそりと妄想する場所さえ与えてくれたら、誰も傷つけないように生きていくような、そっち側の人間でありたいのですと、言うことができたら、入所を許されるだろうか。そんな日は永遠に来ないかもしれないが。 それでも優しい中井英夫さんは、時々こっそり流薔園の門の鍵を開けて、薔薇の香りをかがせてくれる。 皆川博子さんの著書との出会いも、そんなようなものだったのかもしれない。 ちなみに私は実は筋金入りの森茉莉さんのファン。(過去にレビューあり) でもこちらの著作は全然悪い気がしなかった。 遠回りしまくっているけれど、おそらくはこちらはきっと森茉莉さんを好きだということなのだ。 どっかの女流エッセイストがしょーもない感性垂れ流しで書いた書いた森茉莉さんに関する随筆なんかより、ずっとこっちのほうがいい。 実は私もあちらの世界に入り込んでいくとき森茉莉さんの文章の力を借りることがある。 なぜだろう・・・?おそらく森茉莉さんは鍵を持っているのだ。あちら側の。 | ||||
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やはり皆川さんの作品は素晴らしいと思います。 こちらの短編集に収録される作品は、すべて死の匂いが漂い、主人公には、その死が纏わりついて離れない。 美しくも不穏な世界。 | ||||
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90年代後半から2013年までの約20年間に発表された単行本未収録作品をまとめた幻想小説集 著者あとがきによれば 消えても仕方のないと思っていた、小さい野花のような、でも作者は気に入っている作品 その場限りで消えることの多い、雑誌などに単発で書いた掌編、短編も収録されている、との事 美しい文章で描かれる日常の隘路に潜む背徳、闇、影 しばし幻想世界に浸りましょう 売れなくても、単行本化されなくても書き続けた幻想小説の数々 このところ刊行が相次ぐ皆川さん 時代が彼女に追いついてきたのか にしても本屋さんでも古書店でも、皆川さんの著書の取扱いが少ないのが残念 売れる本ばかり並べていると、いつかしっぺ返しが来たり、しない? | ||||
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90年代後半から今年までの20年間にオリジナルアンソロジーなどへ収録された作品を集成。 本書収録21篇中8篇は井上雅彦監修のアンソロジー《異形コレクション》初出。当シリーズ10年目に出版された『異形コレクション読本』で作者は「書き手の方たちも、この舞台ではのびのびと、綺想のかぎりを発揮しておられます」と寄稿しているが、そのことばを自ら実践するかのように、タイポグラフィや写真小説、幾何学形詩など小説という枠にとらわれない技法を用いている。では、奇特な技法に淫しただけの、悪くいえば実験小説のための実験小説集なのかといえばそんなわけはない。それら技法を成立させているのは、40年以上にわたって磨き上げてきた文章技巧の粋であり、貪欲なまでの読書歴で培われた小説作法への真摯な取り組みなのである。技術力を土台に描かれたるは、この生きにくい世の中への倒錯を基とす、類まれなる幻視の光景。 ミステリ評論家・千街晶之氏は「真正の幻視者だけに可能な言語錬金術の貴重な成果」と、ショートショート研究家・高井信氏は「ショートショートであるか否か、そんなことは関係なく、上質の幻想小説であることは間違いない」とそれぞれ評している。それは《異形コレクション》収録作にとどまらない。他アンソロジーに収録されたもの、幾何学形詩との両立を目指した『小説すばる』掲載作、そして第16回日本ミステリー大賞受賞に際し特集を組まれた『ジャーロ』掲載の最近作に至るまで、幻視・幻想創成の力はさらに重厚に立ち現れながら、それでいて敏捷に羽ばたいてみせる。 今年一年かけて刊行された『皆川博子コレクション』は作者の原点を知るうえで価値をもつ。前後に文庫化された『鳥少年』『結ぶ』『少女外道』などの傑作短篇集でさえ過渡期であったと思えるほどに、本書は完成された燦めきをもつ。近年出版された長篇と比べればいささか敷居が高い作品集であるが、皆川博子という作家の神髄はここにあり、外部との共有が図れない孤高の感性にある。純粋であるがゆえ異彩を放ち、またそれゆえに危険な淫靡さをもっている――それは本書を読むことで、作家の、長年報われずにきた精神そのものに肉薄することになるからなのかもしれない。 * その危険性とは〈影〉を扱った表題作ひとつとっても明らかだろう。〈影〉とは心理学で言うところのシャドーであり、自らの分身ドッペルゲンガーをも意味する。芥川龍之介、夢野久作、ゲーテなど文豪の末路はよく〈影〉とともに語られる。すなわち〈影〉は死のメタファーであるともいえる。だが、作中の〈影〉は死への恐怖や相対して生きることの価値を謳うためのガジェットではない。そこに性戯を見出し、艶美なる感覚を身に宿す――いうなれば〈影〉との交婚である。 「本当に「死んでいる」と意識したのは……結婚してからですね。結婚する少し前から、自分はもう何もできないんだ、という感じで、何もできないのなら、死んでるのとおんなじだ、と」 (『ホラーを書く!』より) 作者はデヴューする前から心中に死を宿していた。見誤ればすぐに実現してしまいかねないその苦しみを、作品にすることで生きながらえてきた。作品に横溢する暗澹さは、そんな死への親しみによるものでもあろう。しかし時を重ね、作者はやがて本来の死を見据えるようになってくる。 (そのころ。私はまだ生きているだろうか……) 『このミステリーがすごい!』などで近況を記す際、いつからか末尾にそのような弱音を吐くのが常となっていく。御年83歳を迎える作者は、否応にもみずからに衰えと老いを感じるようになっていった。そんななかで幻想小説という分野がわずかながら評価されてきた昨今、絶版に追いやられていた過去作の復刊の嵐、大海嘯のような新刊ラッシュ、そしてきっかけとなった日本ミステリー文学賞受賞。 「物心ついたときは、すでに物語の海におぼれていました。おぼつかない手つきで、自分でも紡ぐようになって、ふと気づいたら、40年を経ていました。八十路に踏みいった生の半ば近くになります。踏み跡は葎に消え、創り出したものの中には、再読に耐えぬ醜いものもあり、そのとき、この大きい重い賞をいただくことになりました。これに勝る励ましがありましょうか。」 (同賞受賞のことば より) その励ましに応えるかのように執筆されたのが本書掉尾を飾る「連祷」である。 * 本書を語るうえでもうひとつ欠かせないものがある。作者の読書歴にちなんだ、先行作品たちへの莫大なる敬意だ。 大雑把に列記すれば、中井英夫、森茉莉、ロートレアモン、コクトー、三島由紀夫、ハウプトマン、泉鏡花、島村抱月、西条八十、横溝正史、ワイルド、日夏耿之介、萩原朔太郎、塚本邦雄、星新一、『稲生物怪録』、国枝史郎、メーテルリンク、小川未明、グリム童話『青髭』、清水邦夫、アントワーヌ・ヴォロディーヌ、そして、矢川澄子。 確証があるだけでもこれだけの先行作品・作家たちをもとにしている。さらに澁澤龍彦、寺山修司、塩谷隆志などの作家を補助線として引けば、より物語の海が深みを増すだろう。 とりわけ森茉莉に始まり矢川澄子に終わるという構図は眼目に値する。《不滅の少女》の系譜は前述の老いに絡んで、さらに別なことを伝えてくれる。 「少女と老女とはこうしたいわゆる「女の一生」のうちの、ほんの両端のはみだし部分にすぎなかったのだ。(中略)今後はよい意味での二度目の少年期、もしくは一生つづくその季節を積極的にたのしむためにこそ、少女というものの本質がもう一度見直されてしかるべきであろう。」 (矢川澄子『いづくへか』「使者としての少女」より) 「連祷」にこのエッセイを投影させて分かることは、本作が――否、本書全体が、作者2度めの少女期を迎えた宣言であるとも受け取れることだ。込められた数々の敬意は、まるで作者が幼少期貪るように手を伸ばしていた書架さながらである。しかしそれは単なる「退行」でなく、老いを受容し「積極的にたのしむ」ようになったことを謂うのだ。 ともに〈老い〉と〈不死〉と〈抑圧〉と〈反乱〉と〈終末〉など共通したテーマが描かれた清水邦夫「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」、ヴォロディーヌ「無力な天使たち」の2作品。時代も国境すらも超えた、まるで奇蹟的な巡り合わせによるカップリング・トリビュートの実現化たる「連祷」。 そんな作品がたったひとり、矢川澄子という自死に屈す末期を遂げた作家へ捧げられていることからも、《不滅の少女》を継承する作者、満を持しての決意が感じられるだろう。 ただしそれは、ほんの少し自嘲的なのかもしれない。 「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」から引用する。 鴉婆 ああ、お前さんたちと一緒だと、あたしのロマンチシズムもだいなし。 いわく婆 八十歳のロマンチシズム。 はげ婆 気に入らないね、そういういい方。あたしたちぁ、たとえ足腰曲って。 かいせん婆 毛が抜けても。 はげ婆 真実生きて。 とむらい婆 死んでいく。 (『清水邦夫全仕事 1958〜1980上』「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」より) | ||||
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