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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数217

全217件 41~60 3/11ページ

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No.177: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)
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昭和、そして平成を生きた人々の人生劇場が幕を閉じる

加賀恭一郎の父親との確執は彼が初登場した『卒業 雪月花殺人ゲーム』の時点で明らかになっており、その原因が仕事に没頭し、家庭を顧みない父の母親の仕打ちに対する嫌悪であったことは書かれていた。しかし父隆正との確執については書かれるものの、離婚した母親のことはほとんど何も書かれなかった。そして今回初めて離婚して消息知れずとなった加賀の母親、田島百合子に焦点が当てられた。

旅行で行った時の印象が良かったというそれだけの理由で何の伝手もなく仙台に身を落ち着けた百合子。瓜実顔の美人ですぐにスナックの経営者に気に入れられ、ママに落ち着き、彼女の評判で店も繫盛し出した百合子の人生はしかし一般女性の幸せとは程遠いものだ。たった1Kの部屋で16年も過ごした彼女の心の謎はいかばかりか。

そして田島百合子の人生に一時のみ交錯した綿部俊一という男性。それが現在加賀の捜査する事件と密接に絡み合う。

謎めいた母親の過去と滋賀の1人の女性の東京での不審死。この何の関係のない事件が16年の歳月を経て交錯する。決して交わることのないと思われた2つの縦糸が1人の謎めいた男性を横糸にして交わっていく。
実質的な捜査担当者である捜査一課の刑事で加賀の従兄の松宮と図らずも母の過去の男と対峙することになった加賀。彼らが事件の細い繋がりを1本1本解きほぐしていくごとに現れる意外な人間関係。次々と現れる新事実にページを捲る手が止まらない。この牽引力はいささかも衰えず、まさに東野圭吾氏の独壇場だ。

物語が進むにつれてさらに人生が織り成す奇縁という深みに捜査の手は入り込んでいく。
犯行の犠牲者となった押谷道子。彼女が訪ねてきた女優の角倉博美。特に角倉博美が背負ってきた人生が実に重い。

気の弱い父親が貰った若い母親は町の小さな洋品店で一生を過ごすことに嫌気が差し、男を作って逃げていく。しかも家の実印を持ち出し、家族に多額の借金を負わせる。もはや店の経営も成り立たなくなった父親は絶望して飛び降り自殺し、角倉博美こと浅居博美は施設に預けられ、そこで観た演劇に感動して女優の道を進むことを決意し、上京して見事夢を成就させ、現代では演出家としての地位も確立しようとしている。

まさに夢のようなサクセスストーリーだ。

しかしそこには隠しておいた苦い過去があった。それは彼女の父親が深く関わっている。

そしてこの変転する1人の奇妙な男の人生の影に原発が絡んでいる。

『天空の蜂』で当時ほとんどの人が注目していなかった原発の恐ろしさを声高に説き、その18年後、改めて東野圭吾氏は原発の恐ろしさを別の側面で説く。
身元不詳の誰もが簡単に原発で働けていたという怖さと彼ら原発従事者が一生抱える後遺症の恐ろしさを。

実は私にはここに書かれなかったもう1つの真実があると思うのだ。
なぜ加賀の母親田島百合子は亡くなったのか?その死因については語られない。彼女の後見人であった宮本康代の話で綿部俊一と付き合うようになってから体調を崩すようになり、店も休みがちになった、そしてとうとう彼女は衰弱死してしまうとだけ書かれている。

私は田島百合子は原発作業者の綿部と付き合うことで自らも被曝したのではないかと察する。しかしこれは職業差別に通じるので敢えてそこまで作者は書かなかったのではないかと思う。

また作中で登場人物の一人が述べる台詞が辛辣だ。

「原発はウランと人間を食って動くんだ(中略)作業員たちは命を搾り取られている」

事件の真相はまたもやなんとも哀しい。

加賀が日本橋署配属となり、そしてそれまでの捜査スタイルから町に溶け込もうとする、云わば地域に根差した巡査のような役割を担っていたのが『新参者』からの特徴だったが、それがまさか亡き母と生前親しくしていた人物を捜すためだったというのは驚きだった。
この辺の構成が実に巧い。

そして加賀シリーズには他の東野作品にない、一種独特の空気感がある。
自身の肉親が事件にも関わっているからか、従弟の松宮も含め、家族という血と縁の濃さ、そして和らぎが物語に備わっているように感じるのだ。だからこそ物語が胸に染み入るように心に残っていく。

この和らぎは加賀が抱えていた父隆正への蟠りが『赤い指』にて解消されたからではないだろうか。
彼は家族の中の問題に踏み込むことこそが事件を真に解決するのだと『赤い指』で述べる。そして父に逢わずに看護師の金森登紀子を介して将棋を打つ。それが彼が父と最後にした「対話」だった。

そして今回もやはりすれ違いが生じた夫婦に纏わる哀しい物語だ。
田島百合子と加賀隆正夫婦、浅居忠雄と厚子夫婦。
その2人が離婚する理由の違いはあれど、どちらも夫婦仲がこじれた結果の悲劇だ。
しかしその2人の道のりに数多くの人間が巻き込まれ、その1人として加賀恭一郎がいた。人生とはなんとも奇妙な旅なのだと思わされる。

そしてこの2人が望んだのは我が子の幸せ。わが子の幸せを願わない親はいない。ただ同じ1つの思いでこれほどまでに境遇が変わる。それもまた人生。

また橋の謎の真相がこれまた泣かせる。
そう、加賀恭一郎シリーズが持っている独特の空気感にはどこか昭和の匂いが漂うのだ。
人形町、水天宮、日本橋、そして明治座。日本橋署に“新参者”として赴任してきた加賀が相対してきたのは過ぎ去りし昭和の風景、忘れ去られようとしている情緒や風情だ。
そして今回の事件の発端となった角倉博美の人生を変えるようになった事件が起きたのは30年前。まだぎりぎり昭和だった時代だ。このシリーズはまだ地続きで残っている昭和の残滓を加賀が自分の家族のルーツと共に探る物語となっている。

今回も東野劇場による演目に感じ入ってしまった。
登場人物たちの人生は傍から見れば不幸にしか見えない。
狭い部屋で必要最低限の物だけを持ち、日々を暮らしてきた。人生を思わぬ形で踏み外した2人が思いもかけない形で巡り合う。そんな不幸な境遇だからこそ悔恨にまみれた中で唯一自分たちの子供の成長を幸せの拠り所になった魂の充足。それ以外何もいらなかった2人。
でもたとえ幸せを感じていたとしても哀しすぎるではないか。そんな割り切れなさが本書の幕が下りた時、残った。

加賀はまたどんな事件と遭遇し、どんな人生とまみえるのか。
いやそれに加え、父の死を看取った金森登紀子を1人の女性として、伴侶として迎えるのか。そしてその時の加賀は?次作への興味は尽きることがない。
暗い事件が多いから、哀しい人々が多いから、父と母の死を乗り越えた加賀の明るい未来に希望を託そう。


▼以下、ネタバレ感想
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祈りの幕が下りる時 (講談社文庫)
東野圭吾祈りの幕が下りる時 についてのレビュー
No.176: 6人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

まさしく“盲が啓かれる”

2014年の江戸川乱歩賞受賞作にしてその年の『このミス』で第3位、週刊文春の年末ランキングで第2位と新人としては望外の高評価で迎えられたのが本書だ。

本書の軸は大きく分けて2つある。

まず主人公村上和久が視覚障碍者であることだ。健常者、本書の表現を借りれば晴眼者である我々が想像できない視覚障碍者の不自由な日常が詳細に語られる。

人間は視覚から約85%の情報を得ているという。つまり一日の大半は目に頼って我々は生活しているのだ。そんな重要な器官が不自由になるとどうなるのか。

白杖で周囲に触れてその音で何があるのかを判断しながら歩く。物を食べる時は健常者の助けを借りる場合は健常者は物の位置をクロックポジション、つまり時計の時刻の位置で示して教える。お札は区別が着くよう、紙幣の種類別に折り畳んで財布に入れておく。またタクシーでは1割引きの控除が得られる。
この辺りの情報は作者の念の入った取材の賜物だろう。

また全盲になったことで起こりうる家族の不幸もまた読み逃せない。
幼き頃の満州の過酷な生活環境による栄養失調が祟り、41歳で突如失明した彼はその後の人生で家族を頼り、ままならない生活に対して周囲に八つ当たりをし、自分を世話して当然だと振る舞う。その結果妻は離婚して逃げ出し、残された娘も甲斐甲斐しく世話をするが、娘に頼り切って生活している和久は彼女の結婚を望もうとせず、悉く追い出す。しまいには娘の精神も限界が来て逃げ出し、現在の一人暮らしに至る。また娘もシングルマザーで一人娘は腎臓を患い、定期的に透析をしなければ生きられない。しかしそれも長くなく、一刻も早い腎臓移植が必要である。この適合者を見つけることが主人公和久の今回の行動の原動力となっている。
実に上手い設定だ。

もう1つの軸は村上和久の家族が満州から帰国した日本人であることだ。中国残留孤児が抱える問題が色濃く描かれている。

満州侵略に乗り出した日本の仇花的存在とも云える中国残留孤児。いわば日本国自身が歴史の汚点と考えているかのように、彼らの待遇、処遇は実に冷たく、今でも中国から帰れない日本人がいる。しかしどうにか中国から戻ってきても既に初老に差し掛かった人々は母国語である日本語が話せず、まともな生活保護も受けられずに不自由な日常生活を強いられているという。そんな窮状が物語全体に亘って随時語られていく。

そしてメインの謎である目の見えない主人公の兄は本当の兄なのかという疑惑は中国残留孤児たちのコネクションを辿って色々な人から話を聞くうちに二転三転する。

ある人は腕に火傷の跡がないのならそれは本人ではないと請け負い、またある人は逢って話したことがあるが記憶もしっかりしており、間違いないと断言する。

ある人は国に対する補償を巡る裁判にとって偽中国残留孤児であるという風評が流れると悪影響を及ぼすから調査を辞めるように説得する。

訪ねる人それぞれの云い分があり、また証言も食い違うことから主人公も戸惑ってばかりだ。

やはり本書の最たる特徴は盲目の主人公が私立探偵張りに兄の素性調査を行うところだ。
主人公和久の一人称叙述で書かれているため、目が見えないことによる情報量の不足がそのまま読者にとっても情報量の不足に繋がり、いつも読んでいるミステリと比べて非常に居心地の悪さを感じた。これが本書における最大の売りであることは解るものの、どうにもまどろっこしさを感じた。

また物語の節目節目に挿入される、匿名の人物から送られる点字で書かれた俳句の内容も暗鬱なものばかり。しかも主人公の身に覚えのないことばかりと、終始落ち着かない気分で読み進めることになった。

そんな居心地の悪さや違和感は物語の最終局面に一気に開放される。

上に書いたように盲目の主人公による調査行は非常にまどろこっしく、また中国残留孤児が現在抱える問題もまた重い物ばかりで正直読んでいる間は辟易する部分もあった。
しかし最後になってみると作者が実に上手くその設定を活かして、盲目であるがゆえに成り立つトリックを巧みに織り交ぜてあることに気付かされる。点字で書かれた俳句についても点字を使った暗号という斬新さが際立つ。
そして最後の真相が明かされると、読者もまた主人公と同化していたかの如く、自らの盲が開かれる思いがした。

本書の核となるミステリはずばり“家族”である。
戦時中の日本政府の政策で満州に移住し、新天地で生きていく希望を与えられた日本人が敗戦によって逆に祖国に帰ることが困難になり、帰りうる者と帰られない者とが引き裂かされた悲劇が生じた家族に生まれた謎だ。
いわば戦争秘話とも云うべき物語だったが、現在なお日中の間に横たわる中国残留孤児問題の中に実際に本書のような話が実在するのかもしれない。

正直自分の中ではかつて喧しく報じられていた中国残留孤児の問題は次から次へと報じられる国際問題、例えば中国慰安婦問題、北朝鮮による拉致被害者問題などに埋没してしまい、もはや過去の出来事となっていた感がある。2014年に乱歩賞を受賞した本書によってこの問題が再び喚起されたのは実に意義深いことだ。

戦後日本はまだ終わりぬ。そんな感慨を抱いた作品だった。



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闇に香る嘘 (講談社文庫)
下村敦史闇に香る嘘 についてのレビュー
No.175:
(10pt)

圧倒的な物語の強さに酔いしれる

2015年は発表されるなり各書評で大絶賛されていた米澤穂信氏の『王とサーカス』がその年の『このミス』で上位を、いやかつて誰もなしえなかった2年連続1位を成し遂げると予想されており、実際その通りになったのだが、その下にある第2位の『戦場のコックたち』という書名とその作者深緑野分氏という全く知らない名前を見て驚いた。それもそのはずで2013年に刊行された本書でデビューしたばかりの新人であり、『戦場のコックたち』はまだ第2作目に過ぎなかったのだ。

しかしその斬新な設定とアイデアは読者の耳目を集め、予想外の好評を持って迎えられた。
私も全くノーマークの作家だっただけにこの結果には衝撃を受け、彼女を作品を読みたいと強く思った。そして私のみならず巷間のミステリ読者の期待の雰囲気が察してか、東京創元社がその願望に答えてくれた。それがこの本書である。

ミステリーズ!新人賞で佳作に輝いた表題作から本書は幕を開ける。
読後思わずため息をつき、茫然とどこかを見つめざるを得なかった。たった60ページで書かれた物語はそれほど中身の濃い、哀しくもおぞましい物語だった。
彼女たちは外部との接触を一切禁じられ、自由はあるものの私設から一歩も出ることはもちろん、手紙を送ることさえも許されていなかった。そして集められた少女たちは一様にどこかに障害を持っていた。
オーブランの忌まわしき過去を語る物語はマルグリットと名付けられた、血液の病気で収容された少女の手記で語られるが、これが後の管理人老姉妹の妹になる。そこで仲良くなったミオゾティスと名付けられた美しい、しかし左足が悪いために鋼鉄の歩行具をつけることを余儀なくされた少女こそが管理人老姉妹の姉にあたる。
何かの秘密を湛えたサナトリウムは私も人身売買のための不具者を集めた施設かと予想していたが、作者はそんな読者の予想に敢えて導いて意外な正体を用意していた。
ゴシック的で耽美な、そして情緒不安定な少女たちのどこか不穏な空気を纏った物語は戦争という狂気が生んだ悲劇へと導かれる。
ここにまた傑作が生まれた。

表題作の舞台は第二次大戦下のフランスだったが、次の「仮面」は19世紀末のイギリスが舞台。
朴念仁で長年女性に縁のなかった不器用な医師アトキンソンを中心に語られる一連の計画殺人に至るまでの顛末は一転して女の情念の恐ろしさを知らされる物語へと転じる。特に社会的弱者として描かれ、傲慢な有閑マダムに折檻されて日々暮らしているという不遇な女性像をアトキンソンへ刻み付けたアミラの隠された生きる意志の強さが最後に立ち上る辺りは戦慄を覚える。
いつの世も男は女性には敵わないものだと思い知らされる作品。
そしてまた女性同士もまたお互いに出し抜き合い、したたかに生きていることを知らされる。特に恵まれない境遇だと思われた醜いメイドのアミラに秘められた過去に興味が沸く。恐らくは美しく人目を惹く風貌であったと思われる彼女がなぜ顔の皮膚を焼き、そして鼻を曲げ、唇をナイフで切り裂いたのか。なぜ彼女は身分を隠してしたたかに生きる道を選んだのか。
彼女の過去は明らかにされないがまたどこかで彼女に纏わる話が語られるのだろうか。非常に興味深い。

翻って「大雨とトマト」は場末の食堂を舞台にした大雨の日に起きたある出来事の話。
3作目の舞台はなんと現代の日本。しかもどこかの町にある冴えない安食堂が舞台。
嵐の中訪れた2人の客。一方は十年以上も通ってくれているが名も知らない常連客。一方は初めてやってきた少女。しかしその少女は一度の浮気相手の女性に似ていたため、男は隠し子騒動に動揺する。
いわゆる日常の謎系の物語だが、判明するのは店主の間抜けぶりと常連客と少女の意外な正体という、ちょっぴり毒気が混じった内容だ。これもまたこの作者の持ち味なのかもしれない。

次の「片想い」も舞台は日本だが、時代は昭和初期で創成期の高騰女学校が舞台となっている。岩本薫子と水野環という2人の女子高生の友情の物語だ。
昭和初期の高等女学校という実にレトロな雰囲気の中、ちょっと百合族的な危うい雰囲気を纏って展開する物語はいわば深緑野分風『王子と乞食』となるだろうか。
本書の主眼は2人の女学生の友情物語であることだ。思春期という多感な時期に同じ屋根の下で暮らす女性2人の間に芽生え友達以上恋人未満にも発展した深い深い友情は切なくも苦く、限られた時間であるがゆえに眩しい。作者の長所がいかんなく発揮された作品だ。

最後の「氷の皇国」は北欧と思しきユヌースクという国が舞台の物語だ。
極寒の小国ユヌースク。そこを統治する残虐な王と彼が溺愛する美しい皇女ケーキリアと無邪気で残酷な王子ウルスク。そしてかつて近衛兵で妻を王の乗せた馬車に轢かれて亡くしたヘイザルと娘エルダトラ。ヘイザルの親友でガラス細工職人のヨンに彼の娘でエルダトラの親友のアンニ。これらの人物たちに訪れたある悲劇の物語だ。
首のない死体が流れ着き、それに涙する老婆というだけで悲劇が約束されたような物語である。冷たい皇女の企みを軟禁状態だった皇后が突如現れ、見事な推理で暴く。しかし公然と彼女を犯人にするわけにはいかず、最も彼女が苦しむ選択を下す。
誰もが多大なる苦痛を抱きながら、最小限の犠牲で皆を救う選択をした皇后はある意味最も政治家として正しいものだったのかもしれない。尊い犠牲の上で安住の地に流れ着いた彼女たちは果たして幸せだったのか。複雑な感傷を抱かせる作品だ。


いやはやこれまたすごい新人が現れたものだ。
洋の東西を問わず、しかも現代のみならず近代から中世まで材に取りながらも、まるで目の前にその光景があるかのように、さらには色とりどりの花木や悪臭などまでが匂い立つような描写力と、それぞれの時代の人間たちだからこそ起きた事件や犯罪、そして悲劇を鮮やかに描き出す深緑野分氏の筆致は実に卓越したものがある。

プロットとしては正直単純であろう。表題作は美しい庭に纏わるある悲劇の物語で、次の「仮面」は偽装殺人工作。「大雨とトマト」はある雨の日の出来事で「片想い」は女子高生の淡い友情物語。そして「氷の皇国」は流れ着いた死体に纏わるある悲劇の物語。既存作品に着想を得て書かれたものだとも解説には書かれている。

しかしこれらの物語に鮮烈な印象を与えているのは著者の確かな描写力と物語を補強する数々の装飾だ。そして鮮烈な印象を残す登場するキャラクターの個性の強さだ。
従って単純な話であっても読者は作者の目くるめくイマジネーションの奔流に巻き込まれ、開巻すると一瞬にしてその世界の、その時代の只中に放り込まれ、時を忘れてしまう。濃密な時間を過ごすことが出来るのだ。

それはまるで作者が不思議な杖を振るって「例えばこんな物語はいかがかしら?」としたり顔で微笑みながら見せてくれるイリュージョンのようだ。

収録された5編は全て甲乙つけ難い。どれもが何らかのアンソロジーを組めば選出されてもおかしくないクオリティに満ちているが、敢えて個人的ベストを選ぶとすると表題作の「オーブランの少女」と「片想い」の2作になろう。

表題作はオーブランという美しい庭を管理する2人の老姉妹に突然訪れたある衰弱した女性による殺人事件と、後を追うように自殺した妹の死に隠されたある悲劇の物語という非常にオーソドックスな体裁ながらも、かつてそこにあったある施設が読者の予想の斜め上を行く真の目的と、寂しさゆえに取り返しのつかない過ちを犯してしまった主人公が招いたカタストロフィが実に心に深く突き刺さる。

後者の「片想い」はまだ設立間もない東京の高等女学校を舞台にした、長野の病院のお嬢様に隠されたある秘密が暴かれる物語だが、何よりも主人公であるルームメイトの大柄な女性の純心がなんとも心をくすぐる。なんともまあ瑞々しい物語であることか。

この2作に共通するのは女性の友情を扱っている点にある。
表題作は戦火を潜り、まさに死線を生き長らえた2人の女性が決意の上、秘密の花園を生涯かけて守り抜き、そして彼女たちに悲劇を与えようとした女性の長きに亘る復讐という陰惨さがミスマッチとなって得難い印象を刻み込む。

後者は何よりもなんとも初々しい昭和初期の女子高生たちが築いた友情が実に眩しくて、郷愁を誘う。

多感な時期に得た友情は唯一無比で永遠であることをこの2作では教えてくれるのだ。

他の3作も上で述べたように決して劣るものではない。
「仮面」ではわざと美しい顔を傷つけ、身元を隠してしたたかに生きるアミラという女性に隠された過去に非常に興味が沸き、「大雨とトマト」の場末の安食堂の主人の家族に起こるその後の騒動を考えると、嵐の前の静けさと云った趣が奇妙な味わいを残す。掉尾を飾る最長の物語「氷の皇国」の北の小国で起きたある悲劇の物語も雪と氷に囲まれた世界の白さと氷の冷たさに相俟って底冷えするような余韻をもたらす。

そしてこれら5作に共通するのは全て少女が登場することだ。それぞれの国でそれぞれの時代で生きた少女の姿はすべて異なる。

死線を共に潜り抜け、死が訪れるまで共に生き、死ぬことを誓った少女。

美しい妹を利用し、貧しいながらも人を騙して生きていくことを選んだ少女。

一時の好奇心で図らずも妊娠してしまい、居ても立ってもいられずにその自宅に衝動的に訪れたものの、これからの将来が見えずに途方に暮れる少女。

共に学業に励み、恋心に似た感情を抱きながらも隠していた感情を爆発させ、瑞々しい友情を築いていく少女たち。

父親の犠牲の上に自由を得、そして悠久の時間を経て父親と再会した少女。

ある意味これらは少女マンガ的題材とも云えるが、繰り返しになるが一つ一つが非常に濃密であるがゆえに没入度が並大抵のものではない。どっぷり物語に浸る幸せが本書には詰まっているのだ。

物語の強さにミステリの謎の強さが釣り合っていないように思えるが、それは瑕疵には過ぎないだろう。
私は寧ろミステリとして読まず、深緑野分氏が語る夜話として読んだ。ミステリに固執せず、この作者には物語の妙味として謎をまぶしたこのような作品を期待したい。

もっと書きたいことがあるはずだが、今はただただ心に降り積もった物語の濃厚さと各作品が脳内に刻んだ鮮烈なイメージで頭がいっぱいで逆に言葉が出てこないくらいだ。

こんな作者がまだ現れ、そしてこんな極上の物語が読めるのだから、読書はやめられない。
そしてこれからこの作者深緑野分氏の作品を追っていくのもまた止められないのだろう。実に愉しい読書だった。


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オーブランの少女 (ミステリ・フロンティア)
深緑野分オーブランの少女 についてのレビュー
No.174: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

未来版『新宿鮫』と呼ぶに相応しい

シリアスな国際犯罪警察小説に少年たちの心をくすぐるパワードスーツを絡ませたらどんな物語になるか。
それを実証したのがこの『機龍警察』である。まさにこれこそ大人の小説と少年心をマッチングさせた一大エンタテインメント警察小説なのだ。

まず物語のガジェットとして強烈な印象を残す龍機兵、通称ドラグーンは以下の3機。

姿俊之の操る龍機兵は市街地迷彩が施されたアイルランドに伝わる原始の巨人の名に由来する『フィアボルグ』。
ユーリ・オズノフが操るのはイングランドに伝わる妖犬の名が与えられた漆黒の竜騎兵『バーゲスト』。
ライザ・ラードナーのそれは「死を告げる女精霊」である『バンシー』の名を冠せられた一点の曇りもない純白の龍機兵だ。
もうこういう設定だけでも少年心をくすぐって仕方がない。

また各登場人物の謎めいた過去もまた読者をひきつける。

まずは龍機兵に乗り込む雇われ警察官、姿俊之、ユーリ・オズノフ、ライザ・ラードナーの3名にどうしても興味が行く。

早々に苦い過去が判明するのがユーリ・オズノフだ。
元モスクワ民警の刑事でありながら在職中に殺人その他の容疑で指名手配になり、国外へ逃亡しアジアの裏社会を転々とした後、警視庁に雇われる。元警察出身者であるため、考え方は他の2人と比べて警察に対する仲間意識が高く、冒頭の突入作戦で殉職したSATの突入班長荒垣の葬儀に唯一人出席したりもする。
しかし忌み嫌われる特捜部では他の警察官からは罵倒と中傷を浴びされられ、さらに雇われ警察官という立場から特捜部でも白い眼で見られる存在であることが警察官の心を持つことで強いジレンマを抱えている。

姿俊之はかつて『奇跡のディアボロス』、『黄金のディアボロス』と評された超一流の傭兵部隊の生き残り。軽口を叩き、どんな状況においても動ぜず、冷静に物事を見据える男。本書は彼のかつての戦友王富国と王富徳が今回の敵として現れ、彼の過去が断片的に語られる。

そして名を変え、警視庁の雇われの身になっているライザ・ラードナーは元IRFのテロリスト。自身を落伍兵と呼び、特捜部に入ったのも自らの死に場所を選ぶためで、常に虚無感を湛えた表情をしている。

そして龍機兵の整備を担当する特捜部技術主任の鈴石緑は幼い頃に両親をIRFのテロ行為で亡くし、テロリストに対する憎しみを拭えないでいる。

さらに特捜部を仕切る沖津は外務省出身の謎めいた存在で常にシガリロを吹かし、冷静沈着さを失わない。

彼の許に城木、宮近の両理事官と夏川、由紀谷両主任が控える。この両理事官、両主任ともがそれぞれ対照的な性格と人物像を備えているのが特徴的だ。城木と由紀谷が独身でかつ痩身の優男であり、常に冷静に物事を見て判断する傾向がある。しかし由紀谷はかつて荒れていた過去があり、時折氷のような冷徹さが垣間見える。

宮近、夏川は感情を表に出す性格で、宮近は上昇志向が強く、特捜部に配置されたことを快く思っておらず、他の部署へひそかに情報をリークさせる、いわばスパイであり、またお堅い警察組織を具現化したような存在でもある。一方夏川は柔道を嗜む日に焼けた典型的な体育会系の男で、警察官であることに誇りを持つ熱血漢でもある。

これら個性的な面々が揃った特捜部とは実は警察内で仇花的存在となっている。
「狛江事件」という密造機甲兵装に搭乗した韓国人犯罪者によって起きた3名の警察官殉職と人質の男子小学生を亡くすという痛ましい事件。それも神奈川県と東京の県境で双方の縄張り争いも一因だったという不祥事ともいえる事態がきっかけとなって設立された外部の傭兵と契約し、最先端の機甲兵装龍機兵を供与され、銃の携行を許された特捜部SIPD。

しかし外部の、しかも素性が解らぬ犯罪者まがいの傭兵を招聘し、そんな彼らに警察官の誰もが乗りたいと願う最先端の機甲兵装を奪われ、さらには特捜部に入った警察官は無条件で階級を挙げさせられるため、警察内部では異分子扱いされ、特捜部に入った者はかつての同僚のみならず周囲から裏切者扱いされるという孤立した組織になっている。

特に本書では特捜部主任の夏川と由紀谷の2人が馴染みの店に飲みに行くと後から来た後輩や先輩からも疎まれ、さらには店の女将からも迷惑だから来ないでくれと云われるエピソードがあり、それが特捜部員の孤独感を一層引き立てる。

いわばこれは21世紀の『新宿鮫』なのだ。大沢在昌によって生み出された警察のローン・ウルフ、鮫島を組織として存在させたのがこの『機龍警察』における特捜部SIPDであるとも云えよう。

本書の敵は龍機兵の操縦者の1人姿俊之の元戦友、王富国と王富徳。かつての仲間が敵となる。姿はビジネスライクにそれが我々傭兵たちの仕事であり、珍しい事ではないと割り切って応えるが、挿入されるモノローグで語られるかつて同じ戦地で闘い、死線を潜り抜けてきた敵2人との関係はその自嘲的な言葉とは相反する感情を示している。それでも姿という男がぶれないことでこの人物の強さが非常に強く印象付けさせられた。

警察官でありながら、警察から白い眼で見られ、明らさまに罵られたり、行きつけのお店からも追い出される。そんな確執を抱えながらも日々過激化する機甲兵装を使ったテロリストたちと命がけの戦いを強いられる特捜部たちの姿が骨太の文体で頭からお尻まで緊張感を保ったまま語られる。
つまり本書は機甲兵装というパワードスーツが暴れる犯罪者たちを最先端の技術を駆使して生み出した警視庁のパワードスーツが打倒するという単純な話ではなく、このSF的設定が見事に組織の軋轢の狭間で額に汗水たらして捜査に挑む警察官たちの活躍と結びついた一級の警察小説なのだ。
更にその警察機構の中に外部から雇った傭兵、警察崩れ、そして元テロリストという異分子を組み込み、戦争小説の側面もあるという実に贅沢な物語である。しかもそれらが見事に絶妙なバランスで物語に溶け合っている。この1作に注いだ作者の情熱と意欲は見事に現れており、読者は一言一句読み逃すことができないだろう。

ただ嬉しいことに本書はまだシリーズの序章に過ぎない。

そして三人の雇われ警察官、姿俊之、ユーリ・オズノフ、ライザ・ラードナーたちと警察機構の中で忌み嫌われる存在特捜部SIPDの沖津部長、城木、宮近両理事官、夏川、由紀谷両主任、そして鈴石技術主任らのイントロダクションを果たすのに十分すぎる役割を果たす作品である。

さてこれからのシリーズの展開が待ち遠しくてならない。
『機龍警察』は21世紀の『新宿鮫』となるか。
この1作を読む限りでは十分その可能性を秘めて、いや既にその実力を持っていると断言しよう。


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機龍警察〔完全版〕 (ハヤカワ文庫JA)
月村了衛機龍警察 についてのレビュー
No.173: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

本書における本当の恐怖とは

もはやキングの代名詞とも云える本書。スタンリー・キューブリックで映画化され、世界中で大ヒットしたのはもう誰もが知っている事実だろう。

コロラド山中の冬は豪雪のため営業停止する≪オーバールック≫ホテル。その冬季管理人の職に就いたジャック・トランスと彼の癇癪と飲酒癖の再発を恐れる妻ウェンディ、そして不思議な能力“かがやき”を持つ少年ダニー達3人の一冬の惨劇を描いた作品である。

とにかく読み終えた今、思わず大きな息を吐いてしまった。
何とも息詰まる恐怖の物語であった。
これぞキング!と思わず云わずにいられないほどの濃密な読書体験だった。

物語は訪れるべきカタストロフィへ徐々に向かうよう、恐怖の片鱗を覗かせながら進むが、冒頭からいきなりキングは“その兆候”を仄めかす。

ホテルの冬季管理人の職に就いた元教師ジャック・トランス。彼は自粛しつつも酒に弱い性格でしかも癇癪もちであり、それが原因で教師を辞職させられた。

更にその息子ダニーは“かがやき”と呼ばれる特殊能力を持つ少年だ。人の心の中が読めたり、これから起こることが解ったりする予知能力のような力を指し、この“かがやき”はホテルのコック、ハローランも持っており、ダニーは強い“かがやき”を持っているという。
さらに彼にはイマジナリー・コンパニオン―想像上の友達―トニーがおり、それまでは孤独なダニーの遊び相手であったが、≪オーバールック≫へ来ると彼を悪夢へ誘う導き手となる。

この“かがやき”が題名のシャイニングの由来である。いわゆる第6感もそれにあたるようで、理屈では説明できない勘のようなもの、そこから肥大した第7感を示しているようだ。

そして舞台となる≪オーバールック≫ホテルもまた過去の因縁と怨念に憑りつかれた建物であることが次第に解ってくる。
1900年初頭に建てられた優雅なホテルはロックフェラーやデュポンなどの大富豪、ウィルスン、ニクソンなどの歴代大統領も宿泊した由緒あるホテルだが、その後オーナーが頻繁に入れ替わり、何度か営業停止をし、廃墟寸前まで廃れた時期もあった。しかし大実業家のホレス・ダーウェントによって徹底的に改築され、現代の姿になり、いまや高級ホテルとして名実ともに堂々たる雄姿を湛えている。

しかしジャックは地下室で何者かによって作られたこのホテルに纏わる記事のスクラップブックを発見し、ホテルの歴史が血塗られた陰惨な物であることを発見する。

そして決して開けてはならない217号室の謎。そこにはハローランでさえ恐れ、また支配人のアルマンでさえ誰にも触れさせようとしない開かずの間。

それ以外にも≪オーバールック≫には人の死に纏わる事件が起こっている。やがてそれらの怨念はこの古き屋敷に宿り、住まう者の精神を蝕んでいく。

優雅な装いに隠された暗部はやがてホテル自身に不思議な力を与え、トランス一家に、ことさらジャックとダニーに影響を及ぼす。

誰もが『シャイニング』という題名を観て連想するのは狂えるジャック・ニコルスンが斧で扉を叩き割り、その隙間から狂人の顔を差し入れ「ハロー」と呟くシーンだろう。
とうとうジャックは悪霊たちに支配され、ダニーを手に入れるのに障害となるウェンディへと襲い掛かる。それがまさにあの有名なシーンであった。
従ってこの緊迫した恐ろしい一部始終では頭の中にキューブリックの映画が渦巻いていた。そして本書を私の脳裏に映像として浮かび上がらせたキューブリックの映画もまた観たいと思った。この恐ろしい怪奇譚がどのように味付けされているのか非常に興味深い。キング本人はその出来栄えに不満があるようだが、それを判った上で観るのもまた一興だろう。

映画ではジャックの武器は斧だったが原作ではロークという球技に使われる木槌である。またウィキペディアによれば映画はかなり原作の改編が成されているとも書かれている。

≪オーバールック≫という忌まわしい歴史を持つ、屋敷それ自体が何らかの意思を持ってトランス一家の精神を脅かす。それもじわりじわりと。
特に禁断の間217号室でジャックが第3者の存在を暴こうとする件は既視感を覚えた。この得体のしれない何かを探ろうとする感覚はそう、荒木飛呂彦氏のマンガを、『ジョジョの奇妙な冒険』を読んでいるような感覚だ。頭の中で何度「ゴゴゴゴゴゴッ」というあの擬音が鳴っていたことか。
荒木飛呂彦氏は自著でキングのファンでキングの影響を受けていると述べているが、まさにこの『シャイニング』は荒木氏のスタイルを決定づけた作品であると云えるだろう。

しかしよくよく考えるとこのトランス一家は実に報われない家族である。
特に家長のジャックは父親譲りの癇癪もちでアルコール依存症という欠点はあるものの、生徒の誤解によって自身の車を傷つけられたのに激昂して生徒を叩きのめしてしまい懲戒処分となり、友人の伝手で紹介されたホテルが実に恐ろしい幽霊屋敷だったと踏んだり蹴ったりである。自分の癇癪を自制し、苦しい断酒生活を続けているにもかかわらず、何かあれば妻から疑いの眼差しを受け、怒りを募らせる。教師という職業から教養のある人物で小説も書いて出版もしている、それなりの人物なのに、家庭で暴君ぶりを発揮した父親の影響で自身も暴力と酒の性分から抜け出せない。

また妻のウェンディも何かと人のせいにする母親から逃れるように結婚し、そのせいかいくら優しくしても父親にべったりな息子に嫉妬し、かつての暴力と深酒による失敗からか愛してはいても十二分に夫を信用しきれない。彼女もまた親の性格による犠牲者である。

そして最たるはダニーだ。彼も“かがやき”という特殊な能力ゆえに友達ができにくく、常に父親が“いけないこと”をしないか心配している。さらにホテルに来てからは毎日怪異に悩まされるたった5歳の子供。

普通にどこにでもいる家庭なのに、運命というボタンを掛け違えたためにとんでもない場所に導かれてしまった不運な家族である。

ところで開巻して思わずニヤリとしたのは本書の献辞がキングの息子ジョー・ヒル宛てになっていたことだ。本書は1977年の作品で、もしジョー・ヒルがデビューしたときにこの献辞に気付いて彼がキングの息子であると解った人はどのくらいいるのかと想像を巡らせてしまった。

そしてよくよく読むとその献辞はこう書かれている。

深いかがやきを持つジョー・ヒル・キングに

つまり『シャイニング』とは後に作家となる幼きジョー・ヒルを見てキングが感じた彼の才能のかがやきに着想を得た作品ではないだろうか。そしてダニーのモデルはジョー・ヒルだったのではないだろうか。
そして時が経つこと36年後、息子が作家になってから続編の『ドクター・スリープ』を著している。これは“かがやき”を感じていた我が息子ヒルをダニーに擬えて書いたのか、この献辞を頭に入れて読むとまた読み心地も違ってくるのではないだろうか。

1作目では超能力者、2作目では吸血鬼、3作目の本書では幽霊屋敷と超能力者とホラーとしては実に典型的で普遍的なテーマを扱いながらそれを見事に現代風にアレンジしているキング。本書もまた癇癪もちで大酒呑みの性癖を持つ父親という現代的なテーマを絡めて単なる幽霊屋敷の物語にしていない。
怪物は屋敷の中のみならず人の心にもいる、そんな恐怖感を煽るのが実に上手い。つまり誰もが“怪物”を抱えていると知らしめることで空想物語を読者の身近な恐怖にしているところがキングの素晴らしさだろう。

そう、本書が怖いのは古いホテルに住まう悪霊たちではない。父親という家族の一員が突然憑りつかれて狂気の殺人鬼となるのが怖いのだ。

それまではちょっとお酒にだらしなく、時々癇癪も起こすけど、それでも大好きな父親が、大好きな夫だった存在が一転して狂人と化し、凶器を持って家族を殺そうとする存在に変わってしまう。そのことが本書における最大の恐怖なのだ。

読者にいつ起きてもおかしくない恐怖を描いているところがキングのもたらす怖さだろう。
上下巻合わせて830ページは決して長く感じない。それだけの物語が、恐怖が本書には詰まっている。


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シャイニング〈上〉 (文春文庫)
スティーヴン・キングシャイニング についてのレビュー
No.172: 7人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)
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我々は人の命を重んじることで実はとんでもない過ちを犯しているのかもしれない。

介護という日常的なテーマを扱った本書で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した著者のデビュー作。新人とは思えぬ堂々の書きっぷりで思わずのめり込んで読んでしまった。

介護。
それは誰もが必ず1度は直面する問題で2000年に我が国も介護保険制度が導入されたが、今なお介護が抱える問題や闇は払拭されていない。

介護ビジネスと云われるように富める者と貧しい者が受けるその制度の恩恵に雲泥の差があるからだ。

資産を持つ裕福な者は高級な老人ホームに入り、24時間体制の厚い介護システムを受け、VIP待遇のように扱われるが、安い老人ホームは定員オーバーで入居待機を強いられ、場所によっては収容所のような環境で虐待もされているという。

さらにそこにも入れない日々の生活をぎりぎり行っている人たちは自宅介護で身のやつれる経験をし、いわゆる介護疲れで精神をすり減らし、明日の見えない日々を送らなければならない。

さらに介護ビジネスに携わる人々の環境も劣悪だ。人の身体を扱う重労働と長時間労働の上に手取りは少なく、今最も離職率が高い事業だと云われている。

本書にはそんな介護の厳しい現実がまざまざと突きつけられる。

作者はそれを介護サービスを施す側と受ける側にそれぞれ対照的な登場人物を配置して介護の厳しい現状を語る。

介護を施す側の人物は佐久間功一郎と斯波宗典。
佐久間はいわば介護ビジネス経営側の人間で政府が施行した介護保険制度の改正で軋みを立てるビジネス経営の苦しみの只中に立たされている。

一方斯波は現場サイドの人間で介護業が抱える苦しさと離職率の高さを実感している。

そしてサービスを受ける側の人間は大友秀樹と羽田洋子。
大友は有料の高級老人ホームの素晴らしさに感嘆し、介護ビジネスの光を垣間見るが、同様に法改正によって岐路に立たされている現実も知る。

羽田洋子は実母の介護で苦汁の日々を送るいわば典型的な介護疲れのロールモデルだ。

この離婚して実家に出戻りした羽田洋子の地獄のような介護生活の日々は最初に痛烈に印象に残る。
最初は帰ってきた娘と孫との暮らしを喜んでいた母親がふとしたことで怪我をして、寝たきり生活を余儀なくされる。次第に悪態をつくことが多くなり、そして認知症が進んで娘と孫すらも認識できなくなる。罵倒されながら実母の世話と糞尿の始末を負わされ、さらには昼夜仕事に出る洋子の生活は実に重く心に響く。

そしてこの介護老人連続殺人事件の真相を暴くのもまた大友秀樹だ。
彼は幼い頃から裕福な家庭で育った彼は性善説を信じる厚いクリスチャンでもある。しかし彼はその原初体験ゆえに人は誰しも罪悪感を抱き、改悛するものだと固く信じてやまない。逆に云えば己の考えが強すぎて融通が利かないとも云える。

一方彼の高校時代の友人佐久間功一郎は常に勝ち続けてきた男だ。
成績優秀、スポーツ万能、何をやらせても一流だった彼は常に人を見下してきた。勝てば官軍を信条とし、勝つためならば何をやってもいいと思っている男。介護事業のフォレストが社会的制裁を受けた時に顧客名簿を盗み出して振り込め詐欺産業に乗り出す。

この大友と佐久間はこの作品における光と闇を象徴している。

このように作者は色んな対比構造を組み込んで物語に推進力をもたらせている。

介護する側される側。
助かる者と助からない者。
富める者と貧しい者。
善人と悪人。

しかし究極の光と闇はやはり大友と<彼>である。これについては後に述べよう。

重介護老人を自然死に見せかけて計43人もの犠牲者を出した<彼> の所業を暴くプロセスが実に論理的だ。

本当のデータによる犯人の特定であった。これをデビュー作で既に独自色を出すとは恐るべき新人である

作者はこの作品を応募するにあたってかなりミステリを読み込み、研究していたように思える。

しかしこの物語は上に書いたように新人作家の一デビュー作であると片付けられないほど、その内容には考えさせられる部分が多い。

介護生活は今40代の私にとってかなり現実味を帯びた問題になっている。実際母親は更年期障害で入退院を繰り返し、義母に至ってはつい先月末に脳梗塞で倒れ、半身麻痺の状態で入院中だ。本書に全く同じ境遇の人物が出てきて私は大いに動揺した。
そう本書に書かれていることはもう目の前に起こりうることなのだ。

また介護制度のみならず、幼稚園の待機児童の問題もある。
なぜこれほど人々の生活を支援するシステムほど理想と現実がかけ離れているのだろうか。社会の歪みと云えばそれまでだがそれは実に曖昧で端的に切り捨てた言葉に過ぎない。
作中で登場人物が云うようにこの社会には穴が空いているのだ。もっと具体的に問題を掘り下げていかないと日本はどんどん廃れていくだけである。

高齢化社会と少子化問題。この2つは切っても切れない問題ではないだろうか。
日本は今自分で作ったシステムの狭間で悲鳴を挙げている。

果たして<彼>は悪魔だったのか天使だったのか。人を殺すという行為は最もやってはいけないことは解っていても心のどこかで<彼>の行為を認める私がいる。

羽田洋子の心の叫び、“人が死なないなんて、こんな絶望的なことはない!”は現代の医療やケアが向上したが故の延命措置のために犠牲となった人が誰しも抱く真の嘆きではないだろうか?

もはや彼ら彼女らは生きていると云えるのだろうか?
実の子供すらも認識できず、罵倒さえする。そんな人たちに病気だから悪意で云っているのではないと自らに念じ、献身的に尽くす家族たち。これが介護ならまさに地獄だ。

そんな地獄に光明を授ける<彼>が名付けるロスト・ケア、喪失の介護、即ち日々の介護で心身をすり減らす人たちを介護の対象を葬ることで解放する介護。それは単なる恣意的な殺人であることは認めるが、それで救われる人が必ずいることは否定できない。

しかし一方で長く我が子を育てるために身を粉にして働いた親たちを自分たちの都合で葬っていいとも思わない。
ただそのために人の尊厳が失われていいとも云えない。
全てはバランスなのではないか。
誰かを生かすために誰かが必要以上に犠牲を強いられ、終わりなき日常に苦しめられる人がいるのなら、それを救済するのもまた必要ではないだろうか。

我々は人の命を重んじることで実はとんでもない過ちを犯しているのかもしれない。

人を殺すことは悪だと断じる大友も実は人を多く殺したから死刑を求刑する自分もまた間接的な殺人者であることを犯人に論破され、動揺する。つまり人を殺すことは悪い事だと云いながら、社会は治安を守るために殺人を行っているのだ。
しかしそれは必要悪だ。この世は単純に善と悪の二極分化では割り切れないほど複雑だ。
しかし実は自然でさえその必要悪を行っている。自然淘汰だ。自然は、いや地球は生態系を脅かす存在を滅ぼすような人智を超えたシステムによってバランスを保っている。
私は本書の犯人の行ったことは自然淘汰に似ていると思った。誰もが最低限の幸せな生活を送る権利があるが、それが実の両親もしくは義理の両親によって侵される人々がいる。
そんなアンバランスはあってはならない。それを生み出した日本のシステムを変えるために<彼>は制裁を行ったのだ。

東野圭吾氏の『さまよう刃』でも思ったが、人は殺してはいけないが死刑のように社会の治安を守る、つまりはシステムを維持するための必要悪としての殺人は存在しうるのではないのだろうか。
実に考えさせられる作品だった。日本の介護制度の想像を超える悪しき実態を知ってもらうためにもより多くの人に読んでもらいたい作品だ。


▼以下、ネタバレ感想
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ロスト・ケア (光文社文庫)
葉真中顕ロスト・ケア についてのレビュー
No.171: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

貴方は何を相談しますか?

時空を超える相談屋ナミヤ雑貨店を舞台にしたハートフル・ストーリーで連作短編集のような体裁の作品である。

とにかくナミヤ雑貨店には色々な悩みが相談される。

勉強せずに百点を取る方法、ガメラはなぜ回って空を飛んでいるのに目を回さないのかと下らない物もあれば、当事者の人生を左右する悩み事まで様々だ。

オリンピック代表選手候補の女性が抱える、難病を患った愛する人を取るべきかそれとも代表選考合宿に臨んでそのまま走り続けるべきか。

ミュージシャンを目指して家業の魚屋を継がずに上京した息子は祖母の葬式で故郷に戻った際、父親もまた心臓を患い、体調が悪いことを知る。長く目が出ないミュージシャンの夢を絶って家業を継ぐべきかそれとも夢を諦めず続けるべきか。

妻子ある男性との道ならぬ恋に落ちた女性はその男の子を孕んでしまい、生むべきか中絶すべきか悩んでいる。かつてその女性は医者から子供を産みにくい体質だと云われていたが。

親の事業が失敗して夜逃げを計画している一家。しかし一人息子は環境の変化を嫌い、また社員を捨てて逃げ出そうとする親に嫌悪を抱いて付いていくべきか辞めさせるべきか悩んでいる。

社会人になったのはいいものの高卒女子では大した仕事を与えられないので水商売でスカウトされたところ、非常に有意義な仕事だと思ったのでどうやって穏便に退社できるか。

さらには何も書いていない白紙の手紙でさえナミヤ雑貨店は回答する。

特段変わった悩みではないが、誰もが自身もしくは周囲の人々の誰かが抱えている普遍的でかつ明確な回答を見いだせないものばかり。

物語は社会の脱落者である3人組の軽犯罪者がひょんなことから成り行きでそんな悩みに彼らなりのスタンスで回答していくものから、元々の被相談者である浪矢雄治自身の真摯に臨んだ回答まである。

3人組の回答は実にシンプルでそのあまりに明らさまで小ばかにした回答ゆえに相談者が憤慨する場面もあるが、逆にその率直さが相談者の迷いに踏ん切りをつけさせることにもなる。

しかし相談したからと云って解決するわけではない。作中浪矢雄治が述べるように、結局そのアドバイスを活かすのはその人自身なのだ。ただ聞いて安心しただけではなく、それをステップにして次にどうするか、もしくは意にそぐわなかった回答を発奮材料にしてどう困難に立ち向かうか、全てはその人たちの覚悟なのだ。

これまた作中の浪矢雄治の台詞になるが、基本的に相談事を持ち掛ける人は自分なりの結論を持っていてそれが正しいのか否かを後押ししてほしいからこそ相談する、つまり同意を求めているわけだ。
しかし案に反した回答、もしくは想像を超えた回答を浪矢氏もしくは3人組から貰うからこそそこにやり取りが生まれる。そしてそれがまた彼もしくは彼らにとってはやりがいを感じる。

元々の被相談者浪矢雄治は妻に先立たれ、生きる気力を失いつつあったところにひょんなことから子供の他愛ない相談に回答したことによってたちまち町の、世間の評判になり、週刊誌にも取り上げられ一躍ユニークな雑貨店として知られることになる。そしてそれは消沈していた雄治に生きる張り合いをもたらした。

一方しがない空き巣狙いを繰り返していた敦也、翔太、幸平の3人組はいわば社会の脱落者だ。彼らは誰からも必要とされず、むしろ見放されて生きてきたのだろう。
そんなときに偶然にも自分たちに相談を持ち掛ける手紙が迷い込んできた。それに応えることは奇妙なことに彼らにとって悪くない出来事になった。

つまり人は誰かに求められてこそ初めて生きる気力を持てるのだ。この4人に共通しているのはそれだ。
誰かを必要とし誰かに必要とされることで人は生き、また生かされている。だからこそ人生を有意義に送れるのだ。

そして相談者、被相談者が紡いだ思いは未来へ受け継がれる。

1章は現代の相談される3人の小悪党側から、2章では時空を超えて小悪党どもに相談を持ち掛ける側から、3章では元祖相談役の浪矢雄治側から、4章ではその浪矢雄治に相談した側が過去と現在にてナミヤ雑貨店を訪れ、そして最後は再び3人の小悪党の側から描かれる。

とにかく小憎らしいほど読者を感動させるファクターが散りばめられている。東野圭吾氏が本気で“泣かせる”物語を書くとこんなにもすごいクオリティなのかと改めて感服した。
上に書いたようにテーマが普遍的であり、読者それぞれに当事者意識をもたらせ、登場人物に自身を投影させる親近感を生じさせるからだろう。

そしてかつて『手紙』という作品では本来貰って嬉しい手紙が刑務所に服役中の兄から送られることで主人公の未来を閉ざす赤紙のような忌まわしい物に転じていたのに対し、本書では悩み事を記した手紙が人の心と心を繋ぎ、実に温かい物語になる。
映画『イルマーレ』も過去と現在の時空を超えた手紙のやり取りの話だったが、その要素を取り入れているからなおさらだ。読み終わった後、しばらくジーンとして動けなかった。

ちょうど今自身も公私に亘って難局に直面しており、叶うなら私もナミヤ雑貨店に色々相談したいとさえ思ってしまった。

とにかく語りたいエピソードの嵐である。が思いが強すぎて何を語ればいいのか解らない。それほど心に響いた。特に浪矢雄治の人柄が実に素晴らしく、なぜこの人はここまで人に対して興味を持ち、また真摯に向くことができるのだろうかと感嘆した。

またもや東野圭吾氏に完敗だ。しかもとても清々しくやられちゃいました。


▼以下、ネタバレ感想
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ナミヤ雑貨店の奇蹟 (角川文庫)
東野圭吾ナミヤ雑貨店の奇蹟 についてのレビュー
No.170:
(10pt)

もはや一大産業となった麻薬ビジネスの厳しい現実

メキシコの麻薬社会の凄まじい現実を見せつけた『犬の力』。あの大長編を要して語ったアート・ケラーとアダン・バレーラの戦いはまだ終わっていなかった。

まず冒頭の著者による前書きに戦慄する。
延々3.5ページに亘って改行もなく連なる名前の数々。この段階で私はこれから始まる物語が途轍もない黙示録であることを想像した。

アダンが捕まった後のメキシコの麻薬勢力地図は数々のカルテルが生まれ、それぞれが勢力を拡大している群雄割拠の様相を呈していた。本書は複数のカルテルをアダン・バレーラとセータ隊の二大勢力が統合していく凄まじい闘争の物語だ。云わば日本のかつての戦国時代の構図であるのだが、それが生易しいものであると思わされるほど、内容は凄惨極まる。

まず物語は復讐の念を募らせたアダンの反撃で口火を切る。そして養蜂家として隠遁生活を送っていたケラーもアダンの復活と共に戦地へと赴く。賞金首になりながらもDEAの捜査官に復帰し、自らメキシコに入り、現地の組織犯罪捜査担当次長検事局(SEIDO)のルイス・アギラルと連邦捜査局(AFI)のヘラルド・ベラと共同してアダン逮捕に踏み切るのだ。

お互いに復讐の念を募らす2人だが、一旦現場を離れた2人の思惑通りにはことは進まなかった。アダンがいない間に勢力を伸ばしたカルテルたちはアダンに対して服従の意志を見せるどころか立場の逆転を誇示する。

一方DEA、SEIDO、AFIはアダン逮捕に踏み切ったものの、アダンの勢力がかつてほどでないと知るや否や、他の大きな勢力壊滅に力を注ぐ。すでに時代は2人の物ではなく、アダンとアートそれぞれが昔語りの主人公になってしまっている。
麻薬抗争は権力ある頭目たちが手下たちを使って報復と粛清を繰り返しながら勢力を拡大している構図は一緒ながらもその手下たちが元軍人や元警官もしくは現職警官だったりといわゆる戦いのプロたちによる私設軍となり、さらにエスカレートしている。湾岸カルテルには元軍人のエリベルト・オチョア率いるセータ隊、アダンの朋友ディエゴ・タピアはロス・ネグロス、フアレス・カルテルはラ・リネア。
報復が報復を生み、またお互いの利害が一致すれば敵同士も協定を結んで味方になる。そして利害にずれが生じればその逆もまた然り。
昨日の敵は今日の友であり、今日の友は明日の敵でもあり、さらに部下がボスを殺して自らがのし上がる下剋上が当たり前の世界でもあるのだ。

しかしこれほど麻薬ビジネスが国民と政府機関に浸透した国メキシコで麻薬の取り締まりをすることにどれほどの意味があるのだろうかと読みながらこの思いが錯綜した。なんせお隣のアメリカですら国家安全保障会議とCIAとホワイトハウスがメキシコの麻薬カルテルを利用してニカラグアの新米反共勢力コントラに資金援助しているのだから。
おまけにアメリカとメキシコの間で結ばれた北米自由貿易協定(NAFTA)は両国間を数万台のトラックが行き来することを許可した。それは両国の流通を活発にする目的だろうが、数年来から麻薬大国として知られるメキシコに対してどうしてアメリカはこんな無謀な協定を結んだのか?
NAFTAはもはや北米自由“麻薬”貿易協定とさえ呼ばれているようだ。アメリカとメキシコの背景とはこんなものである。

さらには大統領選の資金までもが麻薬カルテルの売り上げから供与されている。しかもその仲介役がAFIの幹部の1人なのだ。

こんな世界では彼らDEA、SEIDO、AFIの戦いほど空しいものはないのではないだろうか。既にその協同作戦に参加するアート・ケラーは両機関の代表者ルイス・アギラルとヘラルド・ベラに対して不信感を抱いている。

麻薬カルテルに恩恵を受けている市民たちは掃討作戦で潜んでいる最中に周辺住民よりターゲットに通報され、もしくは捜査側にもカルテルの息のかかった連中がいるのを証明するかの如く、作戦を無視してわざと騒音を立てて注意を惹かせる者もいるくらいだ。

彼らはそんなことがバレても共犯として留置所に送り込まれるだけで、逆にカルテルからは情報提供者として報酬を貰える。それも一生彼らが手にすることの出来ないくらいの大金をだ。

そんな犯罪こそがビッグビジネスであるメキシコで何が正義なのかが読んでいるうちに解らなくなってくる。
社会を回しているのは司法の側なのか、麻薬カルテルの側なのか。これこそ単純に正義対悪では割り切れない複雑な社会の構図なのだ。

従って正義の側のケラーもこの善悪が混然一体と混じり合ったメキシコの現状を利用して情報操作をし、アダン側を翻弄する。
上に書いたように昨日と今日、今日と明日で味方と敵が入れ替わる団結力の弱い組織同士の結び付きを利用して、亀裂を生じさせる。身内を重んじるがゆえに他者を軽んじるメキシコ人の気質がどんなに勢力を拡大させようと決して一枚岩になり切れない脆弱さを無くしきれない。そこにケラーの付け入る隙があるのだ。

そして物語の中盤、裏切者が判明する。

メキシコ海兵隊FES指揮官ロベルト・オルドゥーニャ提督と隠密裏にホワイトハウス直下の組織として麻薬カルテル撲滅軍を組織する。敵の首領を索敵し、速やかに襲撃して命を奪う。頭を喪っても次の頭が生まれるだけという論理から、頭を次から次へ襲撃することで成り手を無くすという論理で敵との戦いに臨む。
最も懸念されるのが組織内に生まれるスパイの存在は高報酬と襲撃した敵からの押収品の略奪を合法化して奨励することで賄賂を受け取らない人材にする。つまり毒を以て毒を制する組織と云えよう。

さらにケラーが疑心暗鬼に陥った前協同者たちと違い、オルドゥーニャにはケラーと同じくカルテル達に私怨を持っていることだ。つまり任務を超えて天敵に対する復讐の念が強いこと。それが2人の絆を強固にする。
私怨は使命感を超える。ケラーとオルドゥーニャ、ここに最強のタッグが誕生した。

また本書で忘れてならないのは女傑たちの登場だ。

モデル並みの美貌を持つマグダ・ベルトラン。彼女はかつての情夫の指示で麻薬の運び屋をさせられた際に捕まり、刑務所に入れられたところをアダンに見初められ、彼の情婦となって共に脱獄する。そして情婦からアダンのビジネスパートナーとなって麻薬の元締めになり、ヨーロッパへの密輸ルートを展開する。

ケラーがパーティーで知り合った女医マリソル・サラサール・シスネロス。メキシコシティーで開業していたが、麻薬カルテルとの癒着が強い国民労働党が大統領選挙で勝つと、失望感から故郷のバルベルデに戻り、診療所を開設した後、政治の世界に参加し、町長となってセータ隊と戦う。

マリソルを慕って未成年ながらバルベルデの女性警察署長になるエリカ・バルデス。常にマリソルに付き添い、彼女のボディガードをしながら、セータ隊に蹂躙されているバルベルデの治安を守ろうと孤軍奮闘する。

延々と続く麻薬闘争。1つの大きな組織(カルテル)が壊滅してもまた新たなカルテルが生まれ、しのぎを削り、利益と勢力を伸ばし続ける。これはメキシコの果てることのない暗黒神話だ。

またこの戦いはカルテル対メキシコ捜査機関とアメリカの捜査機関だけでなく、麻薬カルテルの横行を許す政府への警告を発するマスコミたちの戦いでもあるのだ。
シウダドファレスの地元紙≪エル・ペリオディコ≫の編集者オスカル・エレーラを筆頭に新聞記者パブロ・モーラ、アナ、カメラマンのジョルジョは敢然とカルテル達の暴虐ぶりを紙面で非難する。しかし次々とセータ隊はジャーナリストたちの屍の山を築き、その毒牙がジョルジョに及ぶに至ってとうとう報道を自粛せざるを得なくなる。

そしてメキシコ人の母親を持つアメリカ人のケラーはこの混沌社会のメキシコを大いに利用しようとするアメリカそのものを象徴しているようだ。彼は自身に流れるメキシコの血で彼らの考えを理解し、先読みしながら、アメリカ人の頭脳で情報攪乱を生じさせ、手玉に取る。
アダン・バレーラ対アート・ケラーの戦いは実はメキシコ対アメリカの代理戦争を象徴しているのかもしれない。

後半はもう殺戮の嵐だ。

5人が10人、10人が15人、20人、30人、50人…。屍の山が累々とメキシコ各地でセータ隊によって築かれる。もはや死亡者数はメキシコの人々にとって単なる数字でしかなくなり、町中で転がる死者も市民にとっては単なるモノでしかなくなり、死に対する感覚が麻痺し、死体を跨いで出勤する風景が日常的に行われるようになる。何の罪もない一般市民が突然セータ隊に呼び止められ、セータ隊に従うか否かではなく、従うかもしくは死を選ばざるを得なくなる。

主要登場人物もその宴の犠牲になる。

そしてクライマックスのセータ隊を殲滅するグアテマラへの潜入作戦で物語はようやく結末を迎える。

作中でもはや麻薬産業は撲滅すべき悪行ではないと述べられている。世界に金融危機が起きる時、もっとも盤石なのが麻薬マネーだからだ。
軍需産業と麻薬産業。この世界で最も大きな負の遺産が実は経済の底支えをしているという皮肉。従ってアメリカはもはや麻薬カルテルを殲滅しようと考えていない。彼らにとって最も不利益なカルテルを殲滅しようとしているだけなのだ。これほどまでに世界は複雑化し、また脆弱化してしまったのだ。

そして本書の題名“ザ・カルテル”は単に麻薬カルテルを示しているわけではない。作中、無残に殺害された新聞記者パブロ・モーラの言葉を借りて作者のメッセージが伝えられる。麻薬カルテルの横行を許す富裕層、権力者、警察、政府、資本家たち全てが「カルテル」だ、と。あぶく銭で私腹を肥やし続ける者たち全てがカルテルなのだ。

アダン・バレーラが復活してアート・ケラーが現場に復帰した2004年からセータ隊そしてアダン・バレーラがこの世を去るまでの2012年までの、8年間の血生臭いメキシコ暗黒史。メキシコを牛耳ろうとした麻薬カルテル達の戦国時代絵巻。前作『犬の力』にも決して劣らない、いやそれ以上の熱気とそして喪失感を持った続編。
ウィンズロウは前作同様、いやそれ以上の怒りを込めて筆をこの作品に叩きつけた。

しかしアダン、セータ隊死後もなお新たな麻薬カルテルが横行している。メキシコの暗黒史は今なお続いている。
世界は実に哀しすぎる。


▼以下、ネタバレ感想
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ザ・カルテル (上) (角川文庫)
ドン・ウィンズロウザ・カルテル についてのレビュー
No.169: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

そして物語の謎は未知なる海原へ

2010年のミステリシーンに突如現れた新星梓崎優氏。その年末の各種ランキングで上位を獲得した珠玉の短編集が本書。
本書が特徴的なのは全ての短編が海外を舞台にしており、その国の、その土地の風習や文化で醸成された日本人の価値観から離れた尺度での考え方に立脚した論理で構成されている点にある。

彼のデビューのきっかけとなったミステリーズ!新人賞受賞である冒頭の短編「砂漠を走る船の道」だ。
砂漠の民にとって何が大事か。それが本書の謎を解くキーとなる。
人殺しを最凶最悪の犯罪とみなす先進国の考え方は警察も介入することのない砂漠では一切通用しない。迷うと即死に繋がる過酷な状況下では生きることすら困難である。

続く「白い巨人(ギガンテ・ブランコ)」の舞台はスペイン。
冒頭の1作目に比べると謎解きの妙味、論理の斬新さというのは独自性を感じない。
むしろ本作では斉木の学友サクラが失恋を乗り越えていく過程とハッピーエンドに転じる物語に焦点がある。苦い青春の1ページは1年後の幸せのための一種の試練だったのだ。

斉木が取材で向かった先はロシア。「凍えるルーシー」は南ロシアにある修道院に祀られている250年前より変わらぬ姿で眠っているリザヴェータという不朽体を列聖、つまり聖人認定の調査のため、司祭に同行していた。
これも修道院という特殊な環境と風習ゆえに起こる錯誤がうまく物語に溶け込んでいる。
そして一種独特の環境で成り立つ狂気の論理はチェスタトンのそれを彷彿とさせる。重苦しく、ストイックな雰囲気も抜群である。

再び斉木は熱いところへ取材に赴く。「叫び」は先住民族の取材のため、アマゾン川に今なお生息する部族のうち、ボランティアの医師アシュリー・カーソンに同行してデムニという名の人口50人程度の小さな部族を訪れる。
先史時代的な生活を送る部族がアマゾンの地にはまだ複数存在するらしい。本作はそんな部族の1つをテーマにした物語。
これぞまさに梓崎節とも云える日本人の尺度では測れない彼らの価値観によって殺人の動機が看破される。
エボラ出血熱に侵された部族。もう僅かばかりの生存者も感染の疑いがあり、ほぼ全滅することが決定的だ。そんな死を間近に控えた部族の中で生存者が次々と殺される。なぜ待てば死にゆく者たちを敢えて殺すのか?
この発想の違いはかなり斬新だった。これこそが私が本書で求めていた論理なのだ。

そして物語は最後の短編「祈り」で閉じられる。
最後は斉木本人の物語。世界を巡る物語に相応しい1篇だ。


2016年の現在(当時)、たまたま海外に住んでいる私にとってここに書かれている独特の論理や倫理観は全く特別なことではない。日本人の考え方は世界のグローバルスタンダードではなく、先進国となり、儒教の教えが今なお残っている日本の長い歴史で培われた独特の考え方であることを再認識させられる。

本書もまたそうで、国、地域そして宗教の数だけ独特の考え、倫理観がある。

砂漠という過酷な環境で生活せざるを得ない人々にとって何が一番大事なのか?

聖女の存在を信じた修道女にとって聖人とは決して腐敗しない存在でなければならなかった。

強烈な伝染病に侵された部族が滅ぶしかない状況の中で敢えて連続殺人が起こる理由とは?

これらの問いの答えが明らかになる時、我々に刷り込まれた人の命を尊ぶ道徳観が脆くも崩れ去る。先進国に住む平和な我々には想像できないほど明日への保証のない後進国では自身が生きるために他者を殺すことなど平気でするのだから。人の死もまた自分の生活のために利用するのが彼らの論理だ。

また梓崎氏がミステリシーンにもたらしたのはこのような海外の国々で醸成された倫理観や価値観を導入しただけではない。
携帯電話の普及や最先端の科学を応用した警察捜査が横行する現代にあってまだそれらが介在できない状況があることを示したのもまた本書の大きな成果の一つだ。

目の前に広がるのは砂の海ばかりという砂漠の只中や携帯は圏外となるアマゾンの奥地では人が死んでも容易には警察は来られない。この事実には目を開かされる思いがした。
21世紀の今でも警察が介入できない状況があることを梓崎氏は斬新な手法で我々に示してくれたのだ。それはやはり日本だけで物語を繰り広げていては嵐の中の山荘程度の発想しか出来なかっただろう。世界へと外側へミステリを開いていったことがこの成果に繋がったのだ。

そして平和な日本では測れない尺度で物事が進行し、容易に人の命でさえ奪われる環境に身を置いた斉木もまたこれらの物語に取り込まれていく。彼が記憶を無くす物語「祈り」で彼が抱えた心の傷の深さがしみじみと伝わってくる。

そしてこういう作品を最後に持ってきた作者の手腕に感嘆する。
創元推理文庫で上梓される新人の短編集は最後の1編で今までの短編に隠されたミッシングリンクが明かされるのが常だが、それが時にキワモノめいてやりすぎの感が否めないものもあった。
しかし本書では主人公斉木が回復するファクターとして用いられる。

最後まで読むとなぜ本書のタイトルが『叫びと祈り』なのかが解る。
世界を巡る斉木は人間にとって生きることが困難な世界の残酷さとそこで生きざるを得ないために残酷な道を選ぶ人々に対して叫んだのだ。しかしそれでも世界は美しいと信じたいがために祈りを捧げる。明日を信じてまた斉木はまだ見ぬ世界へと旅立つのだろう。

日本の本格ミステリよ、新たな論理を求めて海の外へ繰り出そうではないか。まだまだ未知なる謎と論理の沃野は果てしなく広がっているのだから。
本書を読むとそんな風に思わせてくれる。


▼以下、ネタバレ感想
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叫びと祈り (創元推理文庫)
梓崎優叫びと祈り についてのレビュー
No.168: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

お仕事小説とミステリの美事なコラボレーション

東野圭吾作家生活25周年記念として3冊の作品が2011年に発表された。

1つは加賀恭一郎シリーズ『麒麟の翼』、もう1つは探偵ガリレオシリーズ『真夏の方程式』、そして最後が本書だ。
そして本書は東野作品2大シリーズと並んで新シリーズと謳われている。

このシリーズ第1作は昨今流行りのお仕事小説にこれまた昨今ブームとなっている警察小説を見事にジャンルミックスした非常にお得感のある小説となっているのが特徴だ。

まず導入部で一流ホテルウーマン山岸尚美の有能ぶりを小さなエピソードで読者に紹介し、一方で新田浩介の粗削りながらも一刑事としての有能さをまたもや小さなエピソードで読者に浸透させる。
人を笑顔で迎え、常に感謝の気持ちを忘れないと心がけるホテルウーマンと常に人を疑ってあらゆる可能性を考える刑事という職業のミスマッチの妙を実に上手く物語にブレンドしている。東野氏が書くと実にたやすく感じるが、実はこのような真逆の分野を無理なく溶け込まして物語を進行させる技量の高さを感じさせないところが東野圭吾氏の凄さだろう。いやはや東野圭吾氏の着眼点の鋭さには恐れ入る。

また本筋の殺人事件の捜査とは別に本書ではホテルを舞台にしていることでヴァラエティに富んだ珍客が登場するのがいいアクセントとなっている。

妙齢の老婦人はなぜ目が見えないふりをして、不可解なクレームをつけるのか?

写真の男を決して近づけないようにホテル従業員に強要する女性。

新田を名指しして不可解なクレームをつける年齢不詳の小男、などなど。

これらの謎が解き明かされた時にまた1人1人の客が様々な思いを抱えてホテルという非日常空間に来ていると知らされる。

これらはいわば日常の謎である。
こんなエピソードをちりばめながら水と油の存在だった山岸尚美と新田浩介の関係を近づけていく。そして後々にこれらのエピソードもメインとなる事件に有機的に関わってくるのだからまさに抜け目のない出来栄えだ。

山岸尚美と新田浩介。
この相反する2人がそれぞれのプロ意識をお互いに認めながら次第に打ち解けあうのはこのようなミスマッチコンビ物語の常ではあるが、東野圭吾氏はそこに組織の問題をうまく挟んでそう易々と名コンビを誕生させない。

さて今回山岸尚美と新田浩介という二大主人公のキャラが立っているのが本書の面白みの1つであるが、彼らを支えるバイキャラクターの存在も忘れてはならない。

まず1人目はコルテシア東京の総支配人藤木。
山岸をホテルウーマンになろうと決心させた上司で彼女を一流のホテルウーマンに育て上げた人物でもある。常にお客の安全と満足を考え、今回の捜査で何かが起これば辞職も辞さない決意を持った生粋のホテルマン。

もう1人は能勢という所轄の刑事だ。
最初に起きた品川の事件の捜査で新田と組むようになった中年太りの髪の薄い、一見うだつの上がらなさそうな風体の刑事だが、刑事コロンボのように相手を油断させておいて常に鋭い目で人間を見つめている有能さを備えている。特に若くして捜査一課の刑事の抜擢された新田の本質を見抜き、ヴェテラン刑事が素質ある有望な若手を育てようとする温かみが感じられる好キャラクターだ。

これらのバイキャラクターの存在が山岸と新田の人物像に厚みを持たせ、物語に深みをもたらしている。

さてこのようにまさに面白い小説の良いお手本のような本書であり、まさに完璧だと思われるのだが、1点だけどうしても気になるところがある。

それは監視カメラについて警察があまり言及がなされないことだ。
例えば犯人が毒入り(と思われる)ワインを送った際、警察は購入先を捜査し、コンビニで買ったことを突き止めるが、対応した従業員による聞き込みしかせずに防犯カメラの映像を確認すらしない。そこに違和感を覚えるのである。
他にも監視カメラや防犯カメラを使えばいつどこに誰がいるか、もしくはいたかが解るにも関わらずである。
クライマックスシーンの山岸尚美の行き先についてもそうだ。候補として挙げられた部屋番号が判明しているのだから、当該階にあるホテルの廊下に設置されている防犯カメラを調べればいいのである。
昨今のTVドラマでは防犯カメラの映像が実に効果的に使用されており、また他の警察小説でも同様の手法を取り入れているのに、なぜか東野作品における防犯カメラを警察が活用する頻度が実に低いのである。
特に本書の場合、携帯電話を使った電話番号差し替えのトリックや闇サイトにおける重層的な交換殺人と実に現代的な犯行計画が用いられているのに、捜査側のアナログ感が非常にアンバランスだと感じた。これは作品にとっては瑕疵にすぎないかもしれないが、他の作品でも同様に感じたことでなかなか改善がなされないので今回も敢えて挙げさせてもらった。

さて上にも書いたように本書は新シリーズ1作目ということですでに2作目の本書の前日譚である『マスカレード・イヴ』が発表され、それは本書の事件以前の山岸尚美と新田浩介の物語とのこと。しかしそうそう刑事がホテルと関わり合いを持つことはないだろうから、3作目『マスカレイド・ナイト』がどんな形になるのか気になるところだ。
個人的には名バイキャラクター能勢と新田のコンビの復活を願いたいところだ。まあ男2人の、しかも一方は小太りで髪の薄い中年オヤジだから絵としては実に栄えないのだが。

しかし25周年記念作品で『麒麟の翼』、『真夏の方程式』、そして本書といずれもクオリティが高いのがすごいところだ。一体どこまで行くのだ、この作家は。


▼以下、ネタバレ感想
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マスカレード・ホテル
東野圭吾マスカレード・ホテル についてのレビュー
No.167: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

シリーズ1作目だからこその大トリック!

森博嗣の新シリーズVシリーズ、堂々の開幕である。
先行する短編集『地球儀のスライス』所収の「気さくなお人形、19歳」で既に小鳥遊練無と香具山紫子は既に登場済みだったのですんなりと物語世界に入れた。しかしその短編ではてっきり小鳥遊練無は女子大生と思っていたのだが、なんと女装の男子大学生だったとは!

そして小鳥遊の理解者で関西弁の姉御肌の長身美人香具山紫子に自称探偵兼便利屋の保呂草潤平。彼の憧れの的でバツイチお嬢様の没落貴族の趣がある瀬在丸紅子とシリーズはこの4人を中心に進むそうだ。そしてこの4人が実に個性的で私には好感を持って読むことが出来た。

S&MシリーズよりもこのVシリーズの方が私の好みに合うのはメインの登場人物たちが個性的であるのもそうだが、何よりも西之園萌絵の不在が大きい。あの世間知らずの身勝手なお嬢様がいないだけでこれほど楽しく読めるとは思わなかった。
確かに瀬在丸紅子もお嬢様だが、30歳という年齢もあってか、どこか大人の落ち着きが見られ、不快感を覚えなかった。

さらに保呂草は瀬在丸紅子に惚れているが、紅子は保呂草には全く好意を示しておらず、一方で香具山紫子は保呂草に惚れているが、彼は全くそれに気付いていない。そして紅子は小鳥遊練無を可愛がっている。
この4人の奇妙な関係も物語に彩りを添えている。

さてシリーズ1作目の事件は連続殺人事件。しかも1年に一回起きる殺人事件でどれも共通してゾロ目の日にゾロ目の年齢の女性が殺害されている。
3年前は7月7日に11歳の小学生の女の子が、2年前は同じく7月7日に22歳の女子大生が、そして1年前には6月6日に33歳のOLが絞殺され、そして今年は6月6日に44歳の誕生日を迎えた小田原静江が殺害される。そして凶器はインシュロック、電気工事や最近ではDIYで使われることで有名になったナイロン製の結束バンドだ。

これら無差別殺人だと思われた一連の殺人事件にはあるミッシングリンクがあることが判明する。

そしてそれを見破った瀬在丸紅子もまた天才の1人だった。

まさかまさかの真犯人。しかしこれこそ読者に前知識がない、シリーズ第1作目だから出来る意外な犯人像。タブーすれすれの型破りな真相を素直に褒めたい。

しかしそんな驚愕の真相の割には殺人事件のトリックは意外と呆気ない。

本書は1999年の作品だがこんなチープなトリックを本格ミステリ全盛の当時で用いるとは思わなかった。

さてタイトルの隠された意味は理系の学生ならば皆知っていると書かれているが、私は知らなかった…。

天才同士の戦い、数学的興味に満ちた殺人動機とS&Mシリーズ第1作『すべてはFになる』を髣髴とさせる設定であるのは作者として意識的だったのだろうか。
S&Mシリーズと表裏一体の構成はこれからのシリーズ展開を示唆しているのだろうか。

ともあれ保呂草潤平、小鳥遊練無、香具山紫子、瀬在丸紅子らの織り成す居心地の良い新シリーズはまさに波乱に満ちたシリーズの幕明けとなった。
正直S&Mシリーズは世評高い1作目を読んでもそれほど食指が動かなかったが―多分に西之園萌絵のキャラクターがその原因であったのだが―今度のVシリーズは今後の展開が非常に愉しみだ。

ところで何故Vシリーズって呼ぶの?


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黒猫の三角―Delta in the Darkness (講談社文庫)
森博嗣黒猫の三角 についてのレビュー
No.166: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

もはや理系作家とは呼ばせない!

森氏がシリーズの節目に刊行する短編集。本書はS&Mシリーズ完結の節目に編まれた第2短編集だ。

最初の「小鳥の恩返し」は昔話のモチーフから物語が転じる様子が鮮やかだ。
いきなり心揺さぶられる短編である。
現代の童話とも云うべき小鳥の恩返しと云うテーマから陰惨な殺人事件の驚愕の真相が立ち上ってくる。寓話的な主題が事件の哀しい結末と結びつく、珠玉の1編だ。

「片方のピアス」もまた幻想的かつ切ない印象を残す作品だ。
双子の兄弟の一方と付き合っていながらも他方に魅かれるというあだち充氏の『タッチ』などに代表されるラヴコメの定番のような設定をこれほどまでに叙情的かつ幻想的な1編に仕上げる森氏の技巧の冴えに感服する。
兄に隠れて逢瀬を重ねる2人。決して叶わない恋の行く末に絶望を抱きながらも好きにならずにいられない2人。そしてサトルが選択した究極の決断。

「素敵な日記」は不思議な話だ。
手記で繰り広げられるその内容は被害者がそれぞれ綴った日記だ。
それはある時は詩であり、それはある時は事件の一部始終を語ったものだ。
山荘でひっそりと亡くなった若い男の密室死。それを発見した恐らくはヒモの男もまた付き合っていた女性によって殺害され、その女性もまた殺害される。そしてその捜査を担当する刑事の手記と日記を発明した最初に亡くなった若い男性の父親の手記を経て日記の正体が明かされる。
人から人へ渡り、その所有者が次々と亡くなる呪われた日記というモチーフがこんなにSF的な意外性を持った結末を迎えるとは。こんな発想はまさに森氏ならではだ。

「僕に似た人」はマンションの隣人同士の交流を語った物語。

終了したS&Mシリーズが短編と云う形で帰ってくる。本書には2編収録されており、まず1つ目の「石塔の屋根飾り」は犀川が西之園萌絵とその叔母佐々木睦子と叔父捷輔、そして国枝桃子と喜多に問いかけるのは萌絵の父恭輔がインドで出逢った巨石を掘り込んで作られた石塔の屋根飾りがなぜか塔の屋根ではなくその隣に建てられていたかを生前の恭輔が解き明かした説を推察する話。
所謂日常の謎系のミステリだが、それを陰の存在である執事の諏訪野が解き明かすのが本編の妙味か。

もう1編「マン島の蒸気鉄道」は観光小説とも云える作品。喜多と大御坊と犀川は偶然イギリスへの出張で一緒になり、それをきっかけにマン島にある西之園家の別荘で佐々木睦子を交えてのディナーに招待される。
逆回転の三本脚の真相は実にしょうもないもの。
それよりも作中で大御坊が出した機関車のクイズの答えの方が気になる~!

さて幻想小説が続く。

「有限要素魔法」は不可解な物語だ。
この2つの事件が並行して語られるが、この関係のない事件がどこか次元のずれた世界で起きているように語られ、物語は唐突に終わる。この平衡世界が繋がりそうで繋がらないむずかゆさだけが残される。

次の「河童」はまだ解りやすい作品だ。
多感な高校生の娘亜依子を巡って翻弄される2人の男。突然消えた親友は果たして手首を切って池に飛び込んだのか?
未だに死体が見つからない彼が消えたとされる池に最後に浮かんでくる頭が真相を示している。森氏にしてはオーソドックスなホラーだ。

そして最後の2編は「思い出」の物語だ。

「気さくなお人形、19歳」は19歳の女子大生小鳥遊練無が出くわす奇妙なバイトの話。
森氏にしては実にオーソドックスな物語だ。典型的な人生の皮肉の物語。
しかし本書の主眼はそこにはなく、やはり小鳥遊練無という少林寺を嗜むボーイッシュで男勝りで恐らくルックスもいい女子大生のキャラクターを愉しむことにある。
彼女の一人称で語られる非常にライトな語り口は過剰なまでにふざけているように感じて最初は抵抗感があったが、物語が進むにつれて彼女の優しさが垣間見えて、最後には実に魅力的な小鳥遊練無像が浮かび上がってくるのだから不思議だ。
そして彼女と彼女が住むアパートの隣人香具山紫子と保呂草は次のVシリーズの登場人物であるそうだ。つまり本編は次シリーズのイントロダクション的作品と云えよう。

最後の「僕は秋子に借りがある」は実に切ない物語だ。
この作品には語りたいことがたくさんある。読後、心が秋子で満たされる。それほどこの秋子という女性が魅力的なのだ。後ほど存分に語る事にしよう。


森氏は短編になると情緒が際立つ文系色が出てくると自身でも述べているようで、『まどろみ消去』でもその特徴は顕著に表れていたが、第2集の本書ではそれがさらに洗練さを増している。

とにかく冒頭の3編が素晴らしい。
「小鳥の恩返し」の湛える大事な物を喪った切なさ、「片方のピアス」の禁断の恋に溺れるカップルが迎える悲劇、全編手記で展開する「素敵な日記」の読めない展開が最後に一気に想像を遙かに超えた、そして全てが腑に落ちる驚愕の真相と立て続けに打ちのめされる。

その後には完結したS&Mシリーズが短編で2編収録されているのはファンとしては嬉しいサーヴィスであろう。特にその2編では今まで前作に登場しながらも萌絵の影となり支えてきた執事の諏訪野にスポットを当てているのが興味深い。しかもそれらは日常の謎系のミステリでほのぼのとした雰囲気が心地よい。萌絵の非常識ぶりも抑えられていて、これなら普通に読むことができる。

そして次は幻想小説が続く。

森氏はS&Mシリーズでも感じていたが、どこか幻想小説を好む指向性がある。ミステリでありながら動機にあまり執着せず、トリックと犯人に固執する。シリーズ最終作では殺人事件の犯人や動機よりも真賀田四季の居所が最大の謎だったことからも明白だ。

そんな彼の幻想趣味が短編では存分に発揮されている。「僕に似た人」、「有限要素魔法」、「河童」の3編。幻想強度としては「河童」<「僕に似た人」<「有限要素魔法」の順になろうか。特に「有限要素魔法」は有限要素法とは関係がないように思えるのだが。

そして最後はオーソドックスでありながらもやはり心に強く残る、想い出の物語。
「気さくな人形、19歳」は老人が自分の亡くなった娘にそっくりな女子大生に共に過ごすだけのバイトを頼む。偶々テレビで見かけた自分の娘そっくりな女性を発見したことで適わぬ想い出づくりをしたかったのだろう。そしてその役目を務めた小鳥遊練無の魅力的な事。イントロダクションに相応しい快作だ。

そして最後の「僕は秋子に借りがある」は実に美しい物語だ。
突然現れたいわゆる不思議っ娘、秋子。彼女の話はとりとめがなく、思いつくままに行動し、主人公木元を翻弄する。木元が姉を事故で亡くしたと云えば彼女も兄を工場の爆発事故で亡くしたと云い、家に置くと捨てられるからと大量のファッション雑誌やインテリア雑誌を紐の切れた紙袋に入れて持ち歩く。
面白い所に連れていくと云って亡くなった兄のイラストレーターの友人の家に連れて行き、ただ過ごすだけ。
ある朝突然電話かけてきて近くのミスドに来いと云う。行ってみると木元に逢いたくて30キロもの道のりを徹夜して歩いてきたのだという。

それは木元にとっては迷惑に感じながらもその実とても魅力的でファンタスティックな出来事であったこと。

物語が閉じると同時に木元が感じた思い、つまりそれは題名「僕は秋子に借りがある」と思わされる。
この物語は作者の想い出に似た宝石のようなものがこぼれ落ちて生まれたようなものなのだろう。当然ながらこれが個人的ベストだ。

そして次点はやはり最初の3編「小鳥の恩返し」、「片方のピアス」、「素敵な日記」となる。「僕は秋子に借りがある」がなければ甲乙つけがたく3作同点ベストとなっていただろう。

しかし小鳥遊練無といい、秋子といい、森氏の描く女性は難と魅力的なことか。
西之園萌絵には最初から最後まで辟易し、この短編でも好感度が増すことがなかったので、正直森氏の女性像には失望していたのだが、本書ではその考えを180度変えざるを得なくなった。
いやあ次のVシリーズが愉しみになってきたぞ!


▼以下、ネタバレ感想
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地球儀のスライス (講談社文庫)
森博嗣地球儀のスライス についてのレビュー
No.165: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

いやぁ、もう舞台モロバレでしょう。

S&Mシリーズ10作目にして最終作の本書は1作目の真犯人真賀田四季と再び相見える事件であり、シリーズ中最も厚い文庫本にして約850ページの大作だ。
そしてそのボリュームに呼応するかのように次々と事件が発生し、様々な仕掛けが物語全体に仕掛けられている。

本書の舞台は那古野市から今までで最も離れた地長崎。ハウステンボスをモデルしたユーロパークなるテーマパークで事件は幕を開ける。

数ヶ月前に起きた船員風の男がドラゴンに噛まれたかのような死体の消失事件、通称「シードラゴンの事件」を皮切りにナノクラフト社の社員

松本卓哉の教会での転落死とほんの数分後に腕一本以外が消えうせる死体消失事件。そして自室で密室状態で殺害される新庄久美子。

さらに夜の空を飛ぶ全長5mほどのドラゴンにバーチャル・リアリティの空間で起きる衆人環視の中での密室殺人と森氏はギアを1速からいきなり4速へと加速するかの如く次から次へと事件を謎を畳み掛ける。

森氏は惜しみもせずにアイデアをどんどん放り込み、読者を翻弄する。そしてそれらのいくつかは実に早い段階で犀川と萌絵によって解き明かされる。

果たしてこれはいわゆる世に流布するミステリ全般に対する森氏の皮肉なのだろうか?
一般的に市民が殺人事件に出くわす確率はそう高くはない。私自身、直接的間接的にせよ、殺人事件どころか刑事事件に関わったことはない。
本書でわざわざ長崎まで出向いた西之園萌絵がそこで事件に出くわすことがもはや作り物めいているといえないだろうか。
ミステリを読み慣れた我々にとってそれらが至極当たり前のことになっているが、実際は旅行先で事件が起こるなんてことは確率的にはかなり低いことであり、森氏はそれを逆手にとってわざと事件を起こさせるという真相を持って来たのではないだろうか。

さて本書の本当の謎とは?
それについて述べる前にちょっと気になった点について述べよう。

本書の中ではいくつか誤解を招くような表現もあった。
例えば萌絵が建築学科の学生と云う理由で東西南北を間違えるはずがないとあるが、これは根拠としては薄弱だろう。私は建築学科は出ていないが、初めて訪れた地の、建物の中の方角を認知する方法を大学で教えられるとはとても思えない。

また犀川が塙理生哉の妹香奈芽に海外へ行く疑似体験をしたいなら電脳空間上でバーチャル・タウンを作り出すよりも実物の街を作った方が安いと述べているが、これは現代ならば真逆だろう。
もはや映画はセットを作るよりもブルースクリーンの前で俳優たちに演技をさせて映像を当て嵌めて合成する方が安価で主流となっているからだ。本書が出版された1998年当時ではまだCG技術とコンピューターの処理能力がそこまで追いついてなかったからこその時代錯誤的表現であろう。

さて本書の最大の謎とは「真賀田四季は一体どこにいたのか」だ。

いやはやこの最終作でシリーズに散りばめられた仕掛けが解り、森氏の構想力に脱帽した。
まさにシリーズの締め括りに相応しい大作だった。


▼以下、ネタバレ感想
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有限と微小のパン―THE PERFECT OUTSIDER (講談社文庫)
森博嗣有限と微小のパン についてのレビュー
No.164: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

1人の死に介在する人々もまたそれぞれの事件を抱えている

2010年度『このミス』で堂々1位に輝いた本書は加賀恭一郎シリーズでも異色の構成で物語は進む。

日本橋署に赴任したばかりの加賀が携わるのは小伝馬町で起きた1人暮らしの女性の殺人事件。その捜査過程で彼は被害者三井峯子の遺留品を手掛かりに捜査を進めていくのだが、彼が訪れる先々ではそれぞれがそれぞれの問題を抱えており、加賀はそれらに対しても対処していく。
その問題は市井の人々ならば誰しもが抱える問題で、いわばこれらは殺人事件が起きない日常の謎なのだ。つまり殺人事件の謎を主軸に加賀恭一郎は日常の謎を解き明かしていくのだ。

まず1章の「煎餅屋の娘」では被害者宅に残された保険のパンフレットを手掛かりに保険外交員の足取りを追うが、そこに空白の30分があることに気付く。
その外交員が最後に訪れたのが人形町の甘酒横丁にある煎餅屋だった。加賀はその空白の30分が外交員が殺人を犯す時間だったのではと疑うが、捜査をするうちに煎餅屋が抱えるある哀しい真実に行き当たる。

第2章「料亭の小僧」では被害者宅に残された人形焼き、しかも餡入りと餡抜きが混在した奇妙な構成から人形町の料亭に加賀は行き当たる。
その容器に残された指紋は3つあり、1つは人形焼き屋の店員、1つは被害者の女性だが残る1つは不明だった。主人の愛人への手土産にいつも同種の人形焼きを買いに行かされる修行中の小僧はその愛人こそが被害者なのではと疑うが、その人形焼きの1つにわさび入りの物が含まれていたことから、料亭の女将のある仕返しが浮かび上がる。

第3章「瀬戸物屋の嫁」では三井峯子が最後に送ったメールの宛先が商店街の瀬戸物屋『柳沢商店』の嫁麻紀だったことから加賀は彼女を訪ねる。
そこはひょんなことから嫁と姑の仲は最悪で、息子の尚哉はその板挟みでいつも苦しんでいた。麻紀は顔馴染みの客だった三井にキッチンバサミを数件先の刃物専門店『きさみや』で買うように頼んだのだった。なぜそんな不可解な事を客に頼むのか。調べていくうちに加賀は男には解らない女心の裏腹さを知らされる。

第4章「時計屋の犬」では三井峯子のパソコンに残された書きかけのメールに彼女が小舟町の時計屋の主人にあったと記されたことからその時計屋を訪れることになる。
何の変哲もないそのメールの内容はしかし時計屋の主人が彼女に逢ったと云っている浜町公園では主人以外誰も見かけた人がいないという奇妙な状況があった。しかし生粋の江戸っ子である頑固親父の時計屋の主人は頑として自分の証言を覆さない。加賀は犬の散歩コースを一緒に辿ることであることに気付く。

第5章「洋菓子屋の店員」では三井峯子が過去に離婚した経験があり、彼女には既に成人した息子弘毅がいることが明かされる。
彼は俳優になると家を飛び出し、その後夫の清瀬直弘とは離婚したのだった。加賀は三井峯子の小伝馬町の家を訪ねてきた弘毅に彼女がつい最近になってここに引っ越してきたことを知らせる。そして彼女の部屋には育児雑誌が置かれていたが、彼女が妊娠した節はなかった。三井峯子が突然小伝馬町に引っ越し、そして育児雑誌や安産で有名な水天宮を訪れていた理由について加賀は知ることになる。それは哀しい錯誤であった。

第6章「翻訳家の友」では三井峯子の死体の発見者で友人の吉岡多美子がそれ以来自責の念に駆られる日々を送っている。
家庭に不満を持っている三井峯子を翻訳業へ誘い、離婚させたのが彼女であり、その自分が今度は恋人と結婚してロンドンへ移住しようとしているのだ。無論のこと、峯子は彼女に対して不平と不安を表出し、再度の話合いに向かった日、恋人と指輪を買うために約束の時間を1時間遅らせたために峯子が死んだのだと吉岡は思い込んでしまった。そんな時に彼女の許を訪れた加賀から三井峯子の隠された吉岡への思いを知らされる。

第7章「清掃会社の社長」は三井峯子の元夫、清瀬直弘に焦点が当てられる。
それは三井峯子が友人の翻訳家が海外へ移住することになったため、収入が不安定になることから慰謝料の請求を弁護士と相談していたことが発覚する。そして最も有力な方法は離婚前に直弘が浮気をしていたような証拠を突き止める事だった。そして直弘には最近になって若い秘書を雇入れていた。その女性宮本祐理は実は元ホステスだった。つまり周囲は社長の愛人だと噂していた。しかし加賀はある点に気付き、直弘の意外な過去を導き出す。

8章「民芸品屋の客」は最終章に向けての布石の章だ。
甘酒横丁の民芸品屋『ほおづき屋』を訪れた加賀はそこに売っている独楽を買った客について訊き込みをしていた。訝る店員に小伝馬町の事件と何か関係があるのかと尋ねられた加賀はこの店の独楽が関係ないことが重要だと謎めいた言葉を残す。清瀬直弘の会社の税理士をしている岸田要作は息子夫婦の許をしばしば訪れていた。加賀はその家を訪れ、事件のあった6月10日にも岸田が訪れたかどうかを訊くと、義理の娘は確かに家を訪れ、独楽を置いていったというのだが、その独楽は『ほおづき屋』のそれとは違っていた。

そして最終章「日本橋の刑事」で事件は解決される。

突然の癌発症、主人の浮気、嫁姑問題、勘当した娘、生き別れた息子との再会、友人の死、若い頃の過ち、クレジットカード借金の滞納、愚息の尻拭いと各章で明かされる各家庭が抱える秘密や問題は我々市井の人間にとって非常に身近で個人的な問題だ。そんな些末な、しかし当事者にとってはそれらはなかなか深刻な問題である。
普通に暮らしている人々の笑顔の裏には誰もがこのような問題を抱えている。それは表向きは当事者以外にしか解らない。従ってその問題がひょんなことで表出した時に謎が生まれる。そんな謎を加賀は細やかな観察眼と明晰な推理力で解き明かす。それらは家族の中でも一部の人間しか知らされていない、実に人間らしい家庭の秘密である。

1章では店の前を往来するサラリーマンのある特徴から保険外交員の空白の30分の真相とそれを招いた煎餅屋の哀しい事実を解き明かす。

2章では事件現場に残された人形焼きの中にわさび入りが1つ混じっていたことから、気丈夫の料亭の女将が抱える女性ならではの苦悩を解き明かす。

3章では犬猿の仲のように見えた瀬戸物屋の嫁と姑が他人に頼みごとをする嫁の不可解な行動からそれぞれが秘める互いを気遣う気持ちを表出させる。

4章では駆け落ちして高校卒業と共に家を飛び出した娘に対して憤懣やるかたない時計屋の主人が殺人事件の被害者の遺したメールの内容から実は密かに娘の動向を確認していた優しさを知る。

5章では三井峯子の母親としての優しさを知る。

6章では死体の第一発見者であり、彼女を離婚させ、翻訳業の道に誘った友人吉岡多美子を通じてさらに三井峯子の人間としての優しさを浮き彫りにする。

7章では被害者の元夫に焦点を当てられる。

8章では解決編となる最終章に向けての布石が語られる。

そして最終章では親の子を思う、愚かなまでの愛情が明かされる。
そしてそれは加賀の捜査の相棒となった捜査一課の上杉が抱える苦い過去をも浄化させることになる。

このどれもが人間の心の不可解さを表している。それは他者を思う気持ちを表面に出さない江戸っ子の人情ゆえの歪んだ愛情とも云えよう。
日本橋署に赴任したばかりの“新参者”加賀恭一郎にとってそれらは殺人事件の捜査の過程で出逢った謎でありながら、実に興味深い物であったことだろう。

しかし全てが明かされると、この世界は人間の優しさや人情で出来ているのだと温かい気持ちになるから不思議だ。

小伝馬町のワンルームマンションの一角で起きた離婚歴のある45歳の女性の孤独な死。その真相に至るまでに煎餅屋、料亭、瀬戸物屋、時計屋、洋菓子屋、翻訳家、清掃会社、役者志望の若者、税理士、建設コンサルタントの面々が直接的、間接的に事件に関わっていることが物語の最終で明らかになってくる。この構成が素晴らしい。
そしてそれらの事件を通して被害者三井峯子の人物像が浮き彫りになってくる。たった1人の女性に対してこれだけたくさんの人たちの人生が交錯し、またすれ違っていることを教えられる。

また特筆なのはこの事件を通してシリーズキャラクターとして読者にはお馴染みである加賀恭一郎の人となりが今まで以上に鮮明に浮き上がってくることだ。

日本橋署に赴任したばかりの一介の刑事が人と人の間を練り歩き、事件とは関係のない謎を解き明かすことで1人の人間の死が及ぼしたそれぞれの小さな事件を知り、1つの大きな絵が見えてくる。それを飄々とした態度で、明晰な観察眼と頭脳で解き明かす加賀の優秀さ、いや清々しさがじんわりと読者の心に満ちてくるのだ。

特に第7章で被害者の元夫である清瀬直弘と対峙した時に加賀が清瀬に告げた家族の力の強さは、以前の加賀からは決して出なかった台詞だろう。これはやはり長年確執があった父の死を超えた加賀だからこそ云えた言葉だった。

本書は家族への愛を色んな形と角度から描いたミステリだ。人の心こそミステリだと宣言した東野氏がこんなにも心地よい物語を紡いだのは一つの到達点だろう。
『秘密』、『白夜行』、『容疑者xの献身』が彼にとって単なる通過点に過ぎなかったことを改めて知らされた。
いやはやどこまで行くのだ、この作家は。


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新参者 (講談社文庫)
東野圭吾新参者 についてのレビュー
No.163: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

おかしくもやがて哀しき文壇の面々

東野圭吾氏のユーモア小説集『~笑小説』シリーズ第4弾。
前作『黒笑小説』の冒頭で4作の連作短編となっていた出版業界を舞台にしたブラックユーモアの短編が1冊丸々全編に亘って「歪んだ笑い」を繰り広げる。いわゆる出版業界「あるある」のオンパレードだ。

初っ端の「伝説の男」は数々のベストセラーを生み出した伝説の編集者、獅子取の話。
伝説の編集者獅子取の過剰なまでのサービス精神が全くフィクションに思えないのが怖い。とにかく売れる玉を得るためならば編集部もここに書かれていることくらいやるだろうと思ってしまう。そう、獅子取が決して書かないと毛嫌いしているベストセラー作家に対して取ったプロポーズ作戦もまた、あり得そう!

「夢の映像化」は作家なら一度は夢見る自作の映像化。
自作の映像化を喜ぶ新人作家の浮かれた気持ちと自作を大事にしたいという思いの狭間でジレンマに迷う作家の物語…とまでならないのが熱海圭介という男の底の浅さだ。前作では作家デビューしたことで勘違いし、会社を辞めてしまうし、ドラマ化されたことでベストセラー作家への仲間入りと勘違いして夢想に耽る。
この物語を今や発表すれば映像化の東野氏が書いたことに意義がある。熱海の浮かれようは永らく不遇の時代を過ごした彼の当時のそれだったのかもしれない。

「序ノ口」は新人作家唐傘ザンゲの文壇ゴルフデビューの物語。
これは少しいい話。私はゴルフをしないが、会社と云う組織に属さない自営業の作家が他の作家たちと一堂に会してゴルフをする。その初めての時とはこんなものなのだろう。いろいろ出てくる作家の名前が実在の作家の姿とダブる。
最後の大御所作家の話が実にいい。

「罪な女」は男なら一度は陥る間違いでは?
男はバカな者で若くて綺麗な女性の前ではついつい警戒を緩めてしまう。しかもその女性が自分の作品に好意を持っているなら尚更だ。
しかし今回ばかりは熱海を笑うことが出来ない男性が多いのではないか。ほとんどの男性は恐らく熱海の姿に自分を重ねることだろう。

作家を目指す者には臨場感を一層感じるだろう。「最終候補」は閑職に追いやられリストラ寸前のサラリーマンが浮いた時間を利用して創作し、新人賞に応募し、最終候補に残る話である。
主人公の石橋堅一の境遇はどこかの会社にいるであろうサラリーマンの姿であろう。
会社ではたった一人の部署に追いやられ、周りの同僚たちにも蔑まされ、家庭では給料が上がらないのかとため息をつかれる。早く会社を辞めて専業作家になろうと努力する。

今回の作品群の中でもっとも業界のタブーに触れたのが「小説誌」ではないか?
定期刊行物の小説誌がどの出版社も売れていないのは実は周知の事実で、出版社は赤字を承知で小説誌を刊行している。それはそこに掲載している連載の長編や短編を後に単行本化して売るためであり、さらに作家との繋がりを続けるためでもある。
しかし商品として考えた場合、この小説誌というのは一体どうなのか?と東野氏は本作の中でどんどん切れ込んでいく。
曰く、連載物を読んでいる読者はいるのか?
連載から手直しして単行本化するならばそれは出来の悪い下書きではないか?
そんな不良品を消費者に提供していいのか?
作家を大切にして読者を大切にしてないのではないか?とその舌鋒は限りなく鋭い。
これは誰もが思っていても大人であるからこそ云えない質問の数々を会社見学に来た中学生の口からどんどん触れてはいけないと思っていたタブーに切れ込んでいく。その正論がいちいち納得できるのだから面白い。

「天敵」では再び唐傘ゾンゲ登場。
ここで語られる作家の奥さんのパターンが面白い。
作品には無関心だが売れ行きには関心のある無関心タイプ、夫の捜索活動に触発されて自らも芸術的活動に着手する目立ちたがりタイプ、夫の作風に心酔し、最も身近なファンとして作品に細かく指示を出すプロデューサータイプ。

「文学賞創設」は灸英社が新たな賞を創る話。
本書では大衆文学の最高賞直木賞、その前哨戦とも云える吉川英治文学賞や山本周五郎賞を想起させる賞の名前が出てくる。この2巨頭に対抗する賞を創ると云うのは他の出版社にとっては彼岸なのだと云う事が解る。
今では数々の賞があり、乱立といっても過言ではないが、なぜそれほどまでに出版社が賞を創設したがるのかが少し解った気がする。そしてどんな賞でも受賞すれば作家は嬉しいものだとほんのり心が温かくなる話だ。

「ミステリ特集」は小説誌で短編ミステリ特集を組むことになったが参加作家の1人が原稿を落として、代役を立てなければならなくなる話だ。その白羽の矢が立ったのは例の熱海圭介。この勘違いハードボイルド作家への依頼は本格ミステリだった。
本書に登場する長良川ナガラ、糸辻竹人といった実在のモデルを髣髴とさせる創作秘話のコメントが実に「らしく」て面白い。

「引退発表」では『黒笑小説』の第1作目「もうひとりの助走」で登場した作家寒川心五郎が登場する。
本書を読んで即思い出したのは海老名美どりの女優引退会見だった。何事かと思って集められた記者たちの前で当時女優だった海老名美どりが打ち明けたのは女優を引退してミステリ作家になるということだった。正直微妙な空気が会見場に流れたのを今でも覚えているが、本書も寒川も決して名の売れた作家ではなく、正直引退会見を開くほどの大物ではない。しかし担当していた編集者たちにとって作家に最後の花道を授けることは編集者冥利に尽きるようで、案外真摯に受け止め、どうにかしてやりたいと思っていることが興味深かった。

売れない作家を売る方法教えます、とでも副題がつきそうなのが次の「戦略」だ。
イメージ戦略、サイン会のサクラ投入と金を掛けずにベストセラーを生み出そうと四苦八苦する獅子取の作戦は果たして功を奏しないのだが、結末はどこか晴れ晴れとしている。

最後は「天敵」で登場した須和元子と唐傘ザンゲこと只野六郎の結婚話がテーマの「職業、小説家」だ。
作家稼業が必ずしも安定した生活基盤を築くかと云えば決して、いやほとんどゼロに近いだろう。
今までの作品の中でコアなファンを持つ、灸英社が期待する新人唐傘ザンゲも、出版業界ではそこそこの売れ筋になるだろうが、実際の収入は20代のサラリーマンのそれよりも劣るくらいだということを詳細に本書では語る。そんな相手に大事な娘を与えることが果たして娘の幸せに繋がるかというのは娘を持つ親ならば誰もが思うことだろう。そんな恐らく同じような境遇の娘を持つ男親の気持ちを実にリアルに語っている。
そして結婚を許す後押しとなるのは作家ならばやはり自分の作品で語るしかないのだ。金ではなく、応援したいという気持ちをいかに持たせるか。厳しい作家たちの結婚問題が本作では垣間見える。


おかしくもやがて哀しき文壇の面々を描いたユーモア連作短編集。前作『黒笑小説』の「もうひとりの助走」から「選考会」までの4作品の世界を引き継いでいる。

売れない若手作家で勘違い野郎の熱海圭介。いきなりデビュー作が売れて話題になった唐傘ザンゲ、出版社灸英社サイドは前作ではちょい役だった小堺がレギュラーで登場し、神田も随所で顔を出し、さらに第1作の「伝説の男」でベストセラーを連発する伝説の編集者獅子取が新たに加わる。

出版業界に携わる者たちの本音とタブーを絶妙に織り交ぜながら今回も黒く歪んだ笑いを滲ませる。その内容は前作よりも明らかにパワーアップしているから驚きだ。何度声を挙げて笑ったことか。
特にモデルとなった実在の作家を知っていれば知っているほど、この笑いの度合いは比例して大きくなる。

この実に際どい内容を売れない作家が書けば、単なるグチと皮肉の、負け犬の遠吠えに過ぎないだろう。
しかしこれを長年売れずに燻っていたベストセラー作家の東野氏が書くからこそ意義がある。彼は売れた今でも売れなかった頃の思いを決して忘れなかったのだ。だからこそここに書かれた黒い話がリアルに響いてくる。
そして本書を刊行した集英社の英断にも感心する。特に本書は東野氏がベストセラー作家になってからの刊行で、しかもそれまで単行本で出していたのを文庫オリジナルで出したのである。
つまり最も安価で手に取りやすい判型でこんな際どい業界内幕話を出すことが凄いのである。

そしてここに挙げられているのは単なる笑い話ではなく、現在出版業界を取り巻いている厳しい現実だ。

様々な新人賞が乱立する今、国民総作家時代と云われるほど、毎年3桁ほどの新人作家がデビューしては消えていく。

内容が素晴らしいからといって売れる本とは限らない。

作品が映像化されたからといって売れ行きがよくなるとは決してない。

作家も個人経営だけれども編集者や他の作家との人脈は今後の作家活動にとっていい影響をもたらす。

常に赤字の小説誌が抱える矛盾とジレンマ。

デビュー作がヒットした作家が陥る読者を意識し過ぎた創作活動という罠。

年に2冊新刊を出し、小説誌の連載を抱える、ごく一般な作家の年収のモデルケースは350万程度だ。

そんな教訓と出版業界のリアルが笑いの中に見事に溶け込んでいる。
本書は笑いをもたらしながらも、これから作家を目指す人々にやんわりと厳しく釘を差しているのだ。

さらに最後の「職業、小説家」で登場人物の1人が話す、買わずに図書館で借りたり、正規の書店ではなく、売れ残った本が流れて行く大型新古書店で購入する読者の対して主人公の光男が怒りに駆られるシーンは東野氏の心情が思わず吐露したシーンだろう。
1冊の本にかける作家の思いと労力を思えば1,500円や2,000円の値段は決して高くはないのだ。そんな苦労も知らずに手軽に愉しむ読者がいる。そんな歪んだ仕組みに対して警鐘を鳴らしているのだ。

東野氏のユーモア小説集『~笑小説』シリーズの一ジャンルに過ぎなかった出版業界笑い話は本書で見事1つの大きな柱と昇格した。
そしてそれらは実に面白く、そして作家を目指そうとする者たちにとって非常に教訓となった。
願わくば次の作品群を期待したい。これは長年辛酸を舐めてきた東野氏しか書けない話ばかりなのだから。


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歪笑小説 (集英社文庫)
東野圭吾歪笑小説 についてのレビュー
No.162:
(10pt)

犯人の中に自分の一部を見た

マット・スカダーシリーズ12作目の本書では「三十一人の会」というランダムに選出された男性によって構成された、年に一度集まっては一緒に食事をして、その1年の事を語り合うという実に不思議な集まりのメンバーが最近次々と殺されていると疑いを持つ会員の依頼に従って真相を探るという、本格ミステリの味わいに似た魅力的な謎で幕を開ける。

この「三十一人の会」のように他者にとっては取るに足らない目的のために集まる奇妙な会のメンバーが次々と亡くなっているという謎はエラリイ・クイーンの短編「<生き残りクラブ>の冒険」を髣髴させる。この作品は作中エレインが動機の1つとして語る「トンティン」、つまり会員で募られた出資金を最後に生き残った者が独占できるというシステムを扱った短編だが、カバー裏に書かれた梗概を呼んですぐにこの短編が思い浮かんだ。

とにかく死が溢れている。
ニューヨークには八百万の死にざまがあると述懐したのはマット=ローレンス・ブロックだったが、本書にも様々な死が登場する。恐らく今までのシリーズで最も死者の多い作品ではなかろうか?

自動車事故で家族と共に死んだ者。
ヴェトナム戦争に出兵して還らぬ人となった者。
天寿を全うした者。
倒錯的な趣味が高じて亡くなった者。
ガンや心臓発作など病死した者。
強盗と鉢合わせ、殴り殺され、妻はレイプの挙句に絞殺された者。
タクシーを運転中に撃たれて亡くなった者。
自分の店に入った強盗に撃たれた者。
仕事中に自分のオフィスのビルから飛び降りた者。

このように実に様々な死が描かれる。
『八百万の死にざま』以降、新聞の片隅に書かれた三行記事のような死がマットの口から語られ、それらのうちいくつかはどこにでもあるような死でもあり、大都会ニューヨークが侵されている社会の病に魅せられた人間によって成された残酷な所業による死もある。

そんな基調で語られる物語だから古き昔から続く秘密の会のメンバーがいつの間にか半数以下になっており、誰かが会員を殺害しているのではないかと云う魅力的な謎で始まる本書でも正直私は意外な真相は期待していなかった。

ここ数年の作品ではマットが捜査の過程で出逢い、また語らう人々から得た情報や彼の捜査と云う行為が口伝で巷間に知れ渡ることで物事が動き始め、犯人が炙り出るという、いわば社会を形成する人間の心理的行動が事件の解決にマットを導き、それによって得られる犯人は全く被害者とは縁がなく、社会の病巣によって起きてしまった事件の当事者であることが多かった。
つまりミステリの興趣である犯人捜しという謎解きの妙味よりもマットの捜査の過程を愉しむ作品という都市小説的色合いが濃かったため、本書もその流れに沿うものだと思っていた。

しかし本書にはサプライズがあった。
そして驚くべきことにその犯人はきちんとそれまでに描かれ、犯人に行き着く手掛かりはきちんと示されていたのだ。しかもそれらが実にさりげなく、大人の会話の中に溶け込んでいるのだ。これぞブロックの本格ミステリスタイルなのだと私は思わず唸ってしまった。

このような恵まれない人物が犯した犯罪を探るマットの生活は実は一方でどんどん向上していっているのだ。
エレインとの仲はさらに深まり、TJは2人にとって良き相棒に成長した。

さらに驚くべきことに前作『死者との誓い』で知り合った被害者の妻リサ・ホルツマンとの肉体関係がまだ続いていたことだ。
ジャン・キーンというマットの心の一角を占有していた女性が病で亡くなり、エレインとの結婚に向き合う節目が訪れたと思ったら、一時の気まぐれと思っていた情事をいまだに引き摺っていたのにはある意味ショックだった。
警官時代、誤って少女を撃ち殺し、自責の念を抱えてアルコールに溺れていたマットの姿はどこにいったのか?齢55になっても女性に対して欲望を抱き、エレインと云う魂で通じ合ったパートナーを得ながら、浮気を重ねるマットの姿に失望を禁じ得なかった。
冒頭にエレインとの関係が訥々と語られ、その中に同棲しながらもまだ結婚には踏み切れないでいるとの述懐にマットの心の傷の深さを読み取ったのだが、単純にリサとの関係を浮気から不倫に発展させたくないがための愚かな抵抗と勘繰っても仕方がない所業だ。

そんなマットもとうとうAAの助言者となる。事件の調査で出逢ったジェイムズ・ショーターという男をAAの集会に参加するよう誘い、断酒の相談に乗るのだ。

死体の発見者となった精神的ショックから酒に溺れ、警備員の職を辞めざるを得ない状況に追いやった彼の姿にマットはかつての自分を重ねる。ジム・フェイバーが彼を救ってくれたように、マットもまたショーターを救おうと行動を起こす。

そしてまたマットもこの事件で変わる。
前述のようにここにはもうかつての負け犬、人生の落伍者であったマットの姿はもう、ない。55歳にしてようやく彼は幸せを掴みつつあるのだ。

しかしマットとエレインとの仲睦まじいやり取りが次第に多くなるにつれ、かつての暗鬱な生活からはかけ離れていくのが少し寂しく感じてしまう。しかしこの話が9・11以前のニューヨークでの物語であることを考えると、それもまた来るべくカタストロフィの前の休息のように思えてくる。
このマットの生活の向上は物語に描かれているニューヨークの街並みの移り変わりが多くの闇が開かれ、かつてのスラムがハイソな界隈に変わっていく姿と歩調を合わせているかのようだ。それ故に9・11が及ぼすマットの生活への影響が恐ろしく感じる。本書が発表された1994年に9・11が予見されていたことがないだけに。そしてこのシリーズが9・11後の今も続いているだけに。

さて今まで無免許探偵として彼の助けを求める人々のために働いていたマットが高級娼婦を辞め、コンドミニアムの所有者でありながら、個人美術商と云う新たな事業を始めて、それもまた成功させて着々と人生を切り拓いているエレインに夫としての吊り合いを保つために、いや少しばかりの男の矜持のために探偵免許を取得しようと決意するマット。
変わりつつある彼の性格と環境に今後どのような物語が待ち受けるのか。
もはや暗鬱さだけが売りのプライヴェート・アイ小説ではなく、ニューヨークと云う巨大都市に潜む奇妙な人間を浮き彫りにする都市小説の様相を呈してきたこのシリーズの次が気になって仕方がない。
なぜならこんなサプライズと味わいをもたらしてくれたのだから。
そして恐らく彼が死者の長い列に並ぶ日はまだかなり遠いことになるのだろう。ブロックの作家生命が続く限り。


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死者の長い列 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック死者の長い列 についてのレビュー
No.161:
(10pt)

凄惨な事件の末の安寧

『倒錯三部作』の掉尾を飾る本書では2人組のレイプ・キラーをマットが見つけ出す物語。レバノン系の麻薬ディーラー、キーナン・クーリーの妻フランシーンを誘拐し、40万ドルの身代金をせしめた後、バラバラ死体として送り返した倒錯者だ。

彼らは常習犯で過去に起こした事件も凄惨を極めている。マリー・ゴテスキンドという女性は度重なる性暴行を受けた後、無数の致命傷となる刺し傷を受け、切断された指を膣と直腸に突っ込まれた状態で発見された。

レイラ・アルヴァレスという女性は切られた指を尻に突っ込まれ、おまけに乳房を切り取られていた。

そしてこの悪魔の2人組から唯一生きて逃れたパム・キャシディも片方の乳房を切除されるという残酷極まりない仕打ちを受ける。

そんな陰惨な事件に今回は前回登場したスラムに住む少年TJが大活躍する。電話会社から公衆電話の番号を訊き出す方法だったり、ジミー・ホングとデイヴィッド・キングという凄腕ハッカーを紹介して犯人の行動範囲を限定したりとする。

特に次の誘拐事件が起きた時には犯人の顔と車のナンバーを抑えるなど八面六臂の活躍を遂げる。
正直前作に登場した時はただの小生意気なスラムの少年だとしか思えなかったが、この活躍で一気に彼が好きになった―特に400ページのTJの台詞はこの暗鬱な物語の中で思わず笑い声を挙げたほど爽快な一言だ―。

今回ミック・バルーは警察からの嫌疑を免れるため、アイルランドに逃亡中で不在であったため、物語の面白味が薄れるかと思いきや、TJがその代役を果たしてくれた。
マット・スカダーを取り巻く世界はますます濃厚になっていく。

これら三部作で語られる事件は魂が震え上がる残酷な事件ばかりだ。従って事件も展開もアクティブになっていく。
私は『墓場への切符』の感想で“静”のスカダーから“動”のスカダーに切り替わったと述べたが、それはただ人に便宜を図る程度の捜査ではこれら社会に蔓延る強烈な悪意の塊のような輩には到底立ち向かえないからだ。だからこそマットも動き、人と人との間を歩くのではなく、駆けずり回らなくてはならない。特に本書ではハッカーを使ってまで犯人の行動を摑んでいく。これは以前のスカダーシリーズでは全く考えられなかったことだ。

そしてもはやこれほどまでに強大な悪には1人の力では立ち向かえない。前作ではミック・バルーと云う犯罪者の力を借りて敵を討った。そして今回は麻薬ディーラーの持つ闇の繋がりを以て敵と相見える。
悪を以て悪を征する構図は本書でもまた引き継がれたのだ。

原題の“A Walk Among The Tombstones”とは即ちマット達被害者である悪党たちの混成チームがこの2人組と対峙する場面を表したものである。それはさながら西部劇に見られるガンマンたちの決闘シーンを髣髴させる。
しかし決定的に違うのは西部劇では悪党たちが金や町の支配権を握りたいという比較的単純な動機を持っているのに対し、発表当時の20世紀ではもはや理解し難い動機を持った怪物となっていることだ。

快楽殺人主義者である彼らのうち、首謀者であるレイモンド・カランダーはマットがこんな殺人を繰り返すのかと云う問いに次のように答える。
彼らにとって女と云う物は己の欲望を満たす存在にすぎず、おもちゃなのだ。従って彼らの手中に陥った時はもはや人間ではなく、単なる肉塊に過ぎないのだ、と。

こんな考えを持つ人間が実際に存在する世の中はもはや狂ってしまっている。“狂気の90年代”とはクーンツが当時盛んに取り上げたテーマだったが、1992年に書かれた本書もまた同じだ。
『倒錯三部作』とは時代が書かせた作品群だったのだろう。

もはや一人で生きていくのが危険になった時代に見せた一筋の光明。それは長らく独り身だったマットがついにエレインと結婚する決意を打ち明けることだ。
離婚の後、連れ合いを求めることなどなかったマットの前に現れたジャン・キーンという女性と『八百万の死にざま』で別れて、しかもアルコールとも訣別して以来、マットの傍にいたのはエレイン・マーデルだった。彼女はシリーズの最初からいたが、マットの物語が進むにつれて疎遠になっていた。しかし『墓場への切符』でエレインに訪れた災禍を機にマットとエレインは急接近していく。
私はこれら3作が『倒錯三部作』と日本の書評家たちが勝手に名付けたことがどこか心に引っかかっていたが、それはこれらの3作品が性倒錯者による陰惨な犯罪にマットが立ち向かう作品群であり、個の戦いから仲間と巨悪との戦いへの変遷であると書いてきた。しかし本書を読んでからはエレインとの再会で始まり、エレインへのプロポーズで終わる三部作でもあるのだと気付かされた。

全ては地続きで繋がっている。このマット・スカダーシリーズを読むとその感慨が一層強くなる。
1作目から読んできたからこそ味わえるマットに訪れた安寧を我が事のように思いながらしばし余韻に浸りたい、そんな気分だ。

獣たちの墓―マット・スカダー・シリーズ (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック獣たちの墓 についてのレビュー
No.160: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

悪を裁くための悪は果たして悪なのか

前作『墓場への切符』に続く『倒錯三部作』の第2作。
前作ではマットとエレインがかつて刑務所に送り込んでいた殺人鬼との決闘を描いたが、本書ではスナッフ・フィルム、即ち殺人の一部始終を映したポルノフィルムが扱われている。その内容も過激で思わず怖気を震ってしまった。

それまでしっとりと町の片隅で生きる人々に起こった警察にとっても捜査する価値のない社会の落伍者たちの死や人捜しを描いてきたシリーズが一転して殺人鬼と対決したり、殺人を映したフィルムとディープな世界に入ったりと動のシリーズに変わったのがこの『倒錯三部作』と云われる所以だ。

事件は2つ。
1つは妻を強盗によって殺されたリチャード・サーマンが計画的に妻を殺害したとしてその妻の兄から事件の真相を突き止めることを依頼される。

もう1つはAAの集会のメンバー、ウィル・ハーバマンから渡されたビデオテープに収録されていたスナッフ・フィルムの犯人を、そのリチャード・サーマンが主催したボクシングの試合で見かけたことから探し求める。

そしてこの2つの事件は繋がる。それもとてもおぞましい内容を伴って。

とにかくこのスナッフ・フィルムの犯人バーゲン・ステットナーとその妻オルガの造形が凄まじい。世の中にこれほどまで人格が捻じ曲がった夫婦がいるのかと思えるほど、理解し難い人物だ。

自分の欲望と快楽の追究のため、少年や娘をさらっては強姦して殺害し、普通の夫婦をスワッピングし、倒錯した性の世界へ誘い、それまでの価値観を、常識を失くさせていく。彼ら2人の取り込まれた者は背徳の世界にのめり込み、禁忌の興奮を得、エクスタシーを求め狂うようになるのだ。
こんな世界をブロックはマット・スカダーの叙情的で淡々とした筆致で描いてなお、読者の心の奥底に冷たい恐怖を植え付けていくのだから畏れ入る。

そしてとにもかくにもマット・スカダーの世界は実に円熟味が増してきている。『聖なる酒場の挽歌』で登場した殺し屋ミック・バルーはもはやマットの相棒であり、なくてはならない存在だ。
そして『八百万の死にざま』で登場したコールガールの元締めチャンスも本書で再登場し、ますます広がりを見せている。それは恰も我々読者がマット・スカダーであり、彼の世界の広がりを自身のそれと重ねあわせているかのように錯覚してしまうほど、鮮やかだ。

それを象徴するのが物語の中盤、13章のミックとマットとの会話だ。延々33ページに亘って繰り広げられる一夜の語り合いは実は物語には全く関係がないことばかりが2人の間で取り交わされる。
しかしこれはこの物語にとって必要であった語らいなのだ。
殺し屋と元警官という奇妙な関係がその親交をさらに深め合うために、そしてこのシリーズが更なる深みと奥行きを増していく。2人がそれまでの人生に経験した数々のエピソードは即ち2人それぞれの流儀を我々読者の心にじんわりと浸透させていく。
この章を読み終わった瞬間、我々の心にはミック・バルーという男とマット・スカダーという男が実存性をもって住み着いていることに気付かされる。
もはやこのシリーズを読むことは読者にとって行きつけの酒場に行くような、いつまで経っても変わらずにそこにあり続ける物語であり、人たちとなったのだ。そしてこの実に芳醇な会話が物語の終盤にマットの取る行動原理に密接に結びついてくるのだから驚かされる。

バーゲン・ステットナーという快楽殺人者を目の前にしながらも、警察が司法の手に委ねることのできないことを知ってとうとうマットは一線を超える。彼は法で裁かれない悪人を自らの手で裁くため、ミック・バルーと組み、この倒錯者と対峙する。

しかしなんとも息苦しい世の中になったものである。罪なき者を冤罪から守るために作られた法律が罪深き者を裁きから守るために壁となって立ちはだかる。

人々が安心して暮らしていけるように整備された法がいつしかそれぞれの正しいことを成すために障壁となっている、この社会の矛盾。
この認めざるを得ない暗鬱な現実が己の正義を貫こうとするマットに一線を超えさせた。法が悪を裁かないなら、逆に法を上手く逃れている者たちと組んで自分の法の執行者になろう、と。
この決断をマットは酒に溺れることなく、素面で下したところに驚愕がある。

ここで今までのシリーズを振り返ってみると、『聖なる酒場の挽歌』までのマットは依頼者の災いの種を頼まれるがままに探り、問題を解決してきた。時には己の正義に従って鉄槌を下すこともあったが、それはあくまで彼が関わってきた他者のためだ。またそれらは依頼者の過去に向き合い、忘れ去られようとしている事実を掘り起こして白日の下に曝す行為であった。それはまた物語に謎解きの妙味を与え、意外な犯人、意外な真相と云ったミステリ趣向も加味されていた。

そして前作『墓場への切符』では一転して彼の過去の亡霊が現代に甦って自身とエレインに立ち塞がり、それを打破するために立ち向かう物語だった。
つまり彼自身の事件であり、彼を取り巻く世界に現れた脅威との戦いの物語だった。従ってそれまでとは違い、敵は明確であり、物語はどのようにマットが決着を着けるのかが焦点となった。

そして本書はそれまでのシリーズの持ち味を合わせた内容となっている。過去に見たスナッフ・フィルムが今マットが依頼された事件と交錯し、意外な像を描く。そして彼の眼の前に明確な敵が現れ、マットはそれと対峙していく。

しかしこの敵はマット個人とはなんら関係がない。むしろ関わりを持たずに暮らすことも全く可能だった。しかしマットはたまたまAAの集会のメンバーから渡されたビデオテープで見てはならない社会の醜悪な病理を知ってしまい、その根源と出遭ってしまったことで、無視できなくなってしまった。そう、本書でマットが向き合った相手は複雑化する社会が生み出したサイコパスだったのだ。
この社会の敵に対してマットは最後、次のように吐露する。

世界を善人と悪人に分けたら、彼は悪人の部類にはいるだろう。しかし、そもそも世界を善と悪とに分けることが出来るかどうか―私も昔はできたよ。でも今はそれが昔よりずっと難しくなった

もはや法でさえ裁くことのできなくなった一見善人と見えるシリアル・キラーを目に前にしてマットはミック・バルーと云う悪人の手を借りる。もはや彼個人では解決できなく悪に対し、もう1つの悪を以て制裁を下すことにしたのだ。

自分の正義に従ってきたマットが本書で行き着いたのは社会で裁かれない悪を悪で以て征することだった。そしてマットは決して傍観者に留まらず、自らもその渦中に飛び込み、そして自身も手を血に染める。それは自身の正義の為に友人のミックだけを血に塗れさせないために彼が選んだ行為だった。

このようにマット・スカダーシリーズは作を追うごとに新たなる試みと進化と深化を遂げていく。
『八百万の死にざま』でアル中探偵マットが酒を止めるという大きな変化に到達し、その後マットの古き良き時代の物語『聖なる酒場の挽歌』を経て、シリアル・キラーとの対決と云う新たなる進化を遂げた『墓場への切符』をさらに本書で越えてみせたブロック。
1作ごとに新たなる高みに向かうこのシリーズが次にどこに向かうのか、その答えが本書の最後の1行にある。これこそ作者自身にも解らないほどの物語を紡いでしまった感慨の表れだろう。
しかし幸いなことに我々はこの後もなおシリーズが進化していくのを知っている。私はローレンス・ブロックと云う作家の凄みを目の当たりにして歓喜に震える自分を感じている。
さて三部作の最終作『獣たちの墓』でどんな物語を見せてくれるのだろうか。とても愉しみでたまらない。


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倒錯の舞踏 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック倒錯の舞踏 についてのレビュー
No.159:
(9pt)

起こった後、我々は何をすべきか

マット・スカダーシリーズが今日のような人気と高評価を持って迎えられるようになったのはシリーズの転機となった『八百万の死にざま』と本書から始まるいわゆる“倒錯三部作”と呼ばれる、陰惨な事件に立ち向かう“動”のマットが描かれる諸作があったからだというのは的外れな意見ではないだろう。

本書が今までのシリーズと違うのはマットの前に明確な“敵”が現れたことだ。
彼の昔からの友人である高級娼婦エレイン・マーデルをかつて苦しめたジェイムズ・レオ・モットリー。錬鉄のような鋼の肉体を持ち、人のツボを強力な指の力で抑えることで動けなくする、相手の心をすくませる蛇のような目を持ち、何よりも女性を貶め、降伏させ、そして死に至らしめることを至上の歓びとするシリアル・キラー。刑務所で鋼の肉体にさらに磨きをかけ、スカダー達の前に現れる。

これほどまでにキャラ立ちした敵の存在は今までのシリーズにはなかった。
確かにシリアル・キラーをテーマにした作品はあった。『暗闇にひと突き』に登場するルイス・ピネルがそうだ。しかしこの作品ではそれは過去の事件を調べるモチーフでしかなかった。

しかし本書ではリアルタイムにマットを、エレインをモットリーがじわりじわりと追い詰めていく。つまりそれは自身の過去に溺れ、ペシミスティックに人の過去をあてどもなく便宜を図るために探る後ろ向きのマットではなく、今の困難に対峙する前向きなマットの姿なのだ。

それはやはり酒との訣別が大きな要素となっているのだろう。
過去の過ちを悔い、それを酒を飲むことで癒し、いや逃げ場としていたマットから、酒と訣別してAAの集会に出て新たな人脈を築いていく姿へ変わったマットがここにはいる。警察時代には敵の1人であった殺し屋ミック・バルーも今や心を通わす友人の1人だ。

平穏と云う水面に石を投げ込んでさざ波を、波紋を起こすのが物語の常であり、その役割はマットが果たしていた。事件に関わった人物たちがどうにか忌まわしい過去を隠蔽して平穏な日々を過ごしているところに彼に人捜しや死の真相を探る人が現れ、彼ら彼女らに便宜を図るためにマットが眠っていた傷を掘り起こすのがそれまでのシリーズの常だった。
しかし本書ではさざ波を起こすのがモットリーと云う敵であり、平穏を、忌まわしい過去を掘り起こされるのがマットであるという逆転の構図を見せる。マットは自分に関わった女性を全て殺害するというモットリーの毒牙から関係者を守るために否応なく過去と対峙せざるを得なくなる。

じわりじわりとマットに少しでも関わった女性たちを惨たらしい方法で殺害していくモットリー。AAの集会で何度か顔を合わせることで馴染みになり、たった一晩仲間たちと一緒に食事に行ったトニ・クリアリーもその毒牙に掛かり、さらには単純にスカダーと云う苗字だけで殺された女性さえも出てくる。
そしてマット自身もまたモットリーに完膚なきまでに叩きのめされる。さらには法的に人的被害を訴えることでスカダーを孤立無援にさせる邪悪的なまでな狡猾さまで備えている。
そんなスリル溢れる物語なのにもかかわらず、シリーズの持ち味である叙情性が損なわれないのだから畏れ入る。

特に過去に関わった女性に対して思いを馳せるに至り、マットは自分には常に自分の事を想う女性がいたと思っていたが、実はそんな存在は一人もいなかったのではないか、ずっと自分は孤独だったのではないかと自身の孤独を再認識させられる件には唸らされた。実に上手い。

そして追い詰められたスカダーはとうとうアルコールを購入してしまう。自ら望むがままに。
果たしてマットは再びアルコールに手を出すのか?
この緊張感こそがシリーズの白眉だと云っても過言ではないだろう。
そしてこのアルコールこそがまた彼の決意を左右するトリガーの役割を果たす。酒を飲めば元の負け犬のような生活に戻ってしまう。しかしそれを振り切れば、正義を揮う一人の男が目覚めるのだ。この辺の小道具の使い方がブロックは非常に上手い。

話は変わるが本書ではそれまでの作品に登場した人物たちが物語に関わってくる。
まずはシリーズ1作目から登場していたエレインの久々の登場に『聖なる酒場の挽歌』からマットにとってもはや相棒のような存在とも云えるバー・グローガンのオーナー、ミック・バルー、『八百万の死にざま』に登場した情報屋ダニー・ボーイ・ベル、名前は出ないがチャンスもまたカメオ出演を果たし、さらにはマットの警官時代の旧友ジョー・ダーキン、AAの集会で助言者となったジム・フェイバーなどなど。
それはようやく8作目にしてシリーズの基盤となるキャラクターが揃い、マットを取り巻く世界に厚みが生まれたように思う。

また象徴的なのは『聖なる酒場の挽歌』で店仕舞いしたとされていたスカダーの行きつけだったアームストロングの店が場所を変えて新たに開業していることだ。これこそ恐らく一度はシリーズを終えようとしたブロックがリセットして新たなスカダーの物語を紡ぐことを決意した表れのように私は感じてしまった。

本書にはある一つの言葉が呪文のように繰り返される。それはAAの集会で知り合ったマットの助言者であるジム・フェイバーによって勧められたマルクス・アウレリウスの『自省録』という書物の一節、「どんなことも起こるべくして起こるのだ」という一文だ。

これが本書のテーマと云っていいだろう。
どんなに用心していようがいまいが起こるべきことは起こるのだ。

しかしその後にはこう続くことだろう。
起こってしまったことは仕方がない。問題はそのことに対してどう振舞い、対処していくことかだ、と。

マットが住む世界ほどではないが、我々を取り巻く世界とはいかに危険が満ちていることか。地震や津波であっという間にそれまでの生活が一変する事を我々は知ってしまった。
しかしそこで頭を垂れては何も進まない。そこから何をするかがその後の明暗を分けるのだ。
本書で描かれた事件はそんな天変地異や大災害のようなものではないが、書かれていることはいつになっても不変のことだ。

困難に立ち向かい、己の信念と正義を貫いたマット。今後彼にどんな事件が悲劇が起こっていくのだろうか。


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墓場への切符―マット・スカダー・シリーズ (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック墓場への切符 についてのレビュー
No.158:
(9pt)

本書を読めば世界が色づく

待ってました!
現代の数寄者、佛々堂先生が一風変わった風流を求めて全国を巡り、それに関わった人々のちょっといい話が並ぶ極上の短編集第2弾。いよいよとばかりにページをめくった。

本書では春夏秋冬の四季をテーマに4編収められている。まず始まりはやはり春。「縁起 春 門外不出」は奈良が舞台。
東大寺のお水取り、伊豆の韮山の氷割れの竹、利休竹など初っ端から風流が横溢する世界が繰り広げられ、佛々堂ワールドに一気に引き込まれる。

「縁起 夏 極楽行き」では佛々堂先生は全国を駆け巡る。
田辺に秘密の花園を見せるために仕組んだ佛々堂先生の物々交換の旅は宇都宮のサービスエリアで移動養蜂家かられんげの種を手に入れ、それを基にれんげ米コシヒカリなるれんげを鋤き込んだ米をつくる魚沼の農家からワラを仕入れ、さらにそのワラを金沢の畳床の職人と魚籠に交換し、それを福井の山中で石屋を訪れ、石と交換し、その石を松江のいま如泥と呼ばれる名工に渡して、伝説の盃と交換するという、実に愉しい行脚の旅を佛々堂先生と愉しめる贅沢な作品となっている。
そして田辺の亡き妻が夫に見せたかった場所とは白蓮が咲き誇るとある沼だった。花開く音は田辺のみが聞いた生命の力強さの象徴だったのかもしれない。

「縁起 秋 黄金波」は箱根の山中で植物と戯れる。
箱根の雄大な自然は実は人の手が悠久の時を経て作った風景であり、自然が創り上げたものではないことがまず驚きだ。
特に薄の話は実に興味深い。なるほど昔の移動手段であった馬が道中で活力を得るための餌として人為的に植えられたものだったとは。
箱根に生育する植物を愛でるあまり、外来種を毛嫌い、在来種の保存に精を出す友樹の母知加子はその熱意が高じて人の敷地に入っては手入れのされていない草木を失敬していた。彼女の夢である自然をありのままに再現した広大な原野が欲しいという望みとその持ち主である樺島浪美子の息子の願望を一気に解決するこれしかないという案は佛々堂しか成し得ないことだっただろう。

さて最後の短編「縁起 冬 初夢」では骨董界1年の締めくくりである納会が絡んでくる。
いやはや世の中にはまだまだ知らぬことがあるものだと感じ入った。鳩に図画の認識能力があるとは。視覚の優れた鳩は訓練で一流の鑑定士となるのである。粋人風見龍平が娘に託した鳩は利休の真筆を長年見させて真筆と右筆の違いを見分けることを可能にした鳩だった。
しかし利休の書状に右筆、つまり代筆が多数存在するというのも知らなかった。350通以上にも上る書状が市場に出てくるたびにその真贋が話題になっていることも。
さらには大福帳についての薀蓄も面白い。元々は商人の帳簿で取引記録を残す物だが、それゆえに揉め事が起きた時の貴重な証拠となり、大福帳は至極大事に保管されていた。それがために生半可な用紙で破れたり記録が水で読めなくなってはいけないため、長く消えずに残る墨で気球の材料にも使われた西ノ内和紙で書かれていた。そんな日本人古来の知恵と技を自己流で学んで遺した風見龍平という人物もまた一流の職人だといえよう。


“平成の魯山人”、佛々堂先生は今日も古びたワンボックス・カーで全国各地を駆け巡り、東に困っている人いればアドバイスを与え、西に悩んでいる人がいれば、粋な仕掛けを施していく。しかも自分も愉しみ、また消えゆく逸品を後世に遺すために。
そんな本書は四季折々の風流を織り込んだ日本の美意識を感じさせる短編集。

それぞれの短編が昔話をモチーフにされているのが面白い。
「門外不出」は『かぐや姫』こと『竹取物語』を、「極楽行き」では『わらしべ長者』が、「初夢」はなんとノアの方舟で有名な『創世記』である。

2作目ながらも全くその興趣溢れる彩り豊かな和の世界は衰えず、まさに文字で読む眼福といったところ。

東大寺の春の一大法要、お水取りに始まり、夏は蓮の開花、秋は箱根の山中、そして一年の締めくくり冬は骨董商の納会に除夜の鐘。
そんな四季折々の風景や祭事に織り込まれるのは正倉院で写経に使われていた円面硯、利休竹にれんげ米、如泥の盃、利休の書状、鏑木清方作の羽子板、西ノ内和紙などなど、ここには書ききれないほどの日本の技と美の結晶が隅々まで紹介され、物語を彩る。
特に本書は利休に始まり、利休に終わる。それはやはり風流人である利休の功績ゆえだろうか。

また前作にも負けず衰えず興味深い薀蓄が散りばめられているのが本書の素晴らしい所。
例えば東大寺のお水取りの松明にはそのための松明山が伊賀にあること、山椒は花山椒、実山椒、青山椒、割山椒に粉山椒と花から実まで1年を通じて味覚を楽しませてくれること、水底の土中に埋まっている種子は埋土種子といい、数十年経っても日の目を見れば発芽すること、寺の鐘には黄鐘(おうしき)、双調(そうじょう)、平調(ひょうじょう)、壱越(いちこつ)、盤渉(ばんしき)と5つの音色があること、などなど。
我々が何気なく使っている日用品や観ている景色、草木や花1つとっても実に深い世界が古来より備わっている。前述したように薄1本でさえ、歴史に裏付けされたその時代を生きた日本人の事情と知恵が由来している。そんな忘れ去られそうになる知識をトリビア、つまり役に立たない知識に風化させないためにも服部氏は佛々堂を生み出したのかもしれない。

しかし衣服に書架、食に植物、骨董だけでなく、色んな事物に詳しく理と真を知る佛々堂の博識ぶりには毎度頭が下がる。いやこれは作者服部氏の博識ぶりでもあるわけだが、今回もまた知らない世界を見せてくれた。
そしてこのような知識を得ることで今まで我々がいかに物を知らずに生きてきたかを痛感させられる。知識があるのと無いのとではこれほどまでに物が違って見えるのか。知らず知らず我々は無知ゆえに失礼な事や取り返しのつかないことをしているのかもしれないと思うと、恥ずかしくなる。
そしてそんな理を知る人が確かにいるのである。そんな世界を知らなかったことがなんとも悔しいではないか。

また本書では4編中3編に人の恋沙汰が隠し味となっている。「門外不出」では会社の上司の秘められた恋心が一連の課題に、「極楽行き」は亡くなった妻の隠された恋の話と、亡き妻が夫に託した思いが、「黄金波」ではプロポーズされた未亡人のある秘密とそれぞれの抱えた秘密や事情を佛々堂が意外な方向からアプローチし、解決する。
そしてまた風流人たる佛佛堂もそれに乗っかって自分の欲しいものを手に入れるのである。そして表題に掲げられた縁起とはすなわち仏教用語でいう因果論を指しつつも、あることが起こる兆しと云う意味を指す。つまり佛々堂こそが縁起“者”なのである。

さて本書では前作『清談 佛々堂先生』の1話目で登場した雑誌編集者の木島直子が登場するのだが、これは物語として輪が閉じることを暗示しているのだろうか?
1ファンとしては筆の続く限り、このシリーズを書き継いでほしいものである。

そして一人でも多くの読者が本書を読んでくれることを願いたい。読んだ後、身の回りの風景が1つ変わって見える事、保証しましょう。


▼以下、ネタバレ感想
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極楽行き 《清談 佛々堂先生》 (講談社文庫)
服部真澄極楽行き: 清談 佛々堂先生 についてのレビュー