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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数170件
全170件 161~170 9/9ページ
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アダム・ダルグリッシュ警部シリーズ第1作目にしてジェイムズデビュー作。現在刊行されている彼女の諸作品からは想像がつかないほど、本の厚さが薄いことに驚かされるだろう(大げさか)。本の薄さと相まって物語もシンプルだが、では内容も薄いかというとそうではない。
物語は富豪の旧家で起きたメイド殺しの捜査にダルグリッシュ警部が乗り出すというもの。富豪の家で起きた殺人事件で当然容疑者はその屋敷に住む人間達と従事する人々という、実にオーソドックスなミステリに仕上がっている。で、この事件を捜査するにつれ、表面では見えなかった人間関係の綾、愛憎入り混じった御互いの感情などの相関関係が浮き彫りにされる。このスタイルはジェイムズ作品特有のものであり、すでにデビュー作から彼女の創作姿勢は一貫しているといえるだろう。特にある感想でも既に述べているのだが、元々ジェイムズ作品の舞台となる場所というのは、実は裏側に潜む悪意などで、ぎくしゃくした人間関係が微妙な均衡で保たれており、それが殺人という行為が崩壊の序曲となり、ダルグリッシュが関係者を彼ら・彼女らに新たな方向性を指し示す導き手という役割を担っていることだ。本作でも外から見ると何不自由なく、平穏無事にその暮らしを継続しているような旧家の人々が実は危うい均衡の上で関係を成り立てさせており、その中心に被害者がいたと解る。 そしてジェイムズがこのデビュー作で最もやりたかったことは被害者の人物像を浮き彫りにすることだろう。通常殺人を扱ったミステリならば、動機を探るべく被害者の周辺を容疑者たちの間を渡り歩くことで犯人像を浮き彫りにしていくのだが、本作では被害者となったメイドの隠された本性が捜査によって見えてくる。未婚の母にして富豪の長男との婚約にこぎつけた、シンデレラのような女性が、実は・・・と解ってくるのはなかなか面白い。 だからといって本作が面白いかというとそうでもない。後の長大重厚作品に比べれば読みやすいものの、既に本作からくどいまでの緻密な描写が盛り込まれており、ミステリ初心者にはすんなり読める類いのものではないだろう。ミステリを求める向きの方々よりも濃厚な人間ドラマを求める方の方が性に合うと思える作家だ。 |
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島田氏の御手洗シリーズについては感想を書いたが、その他の作品についてはすっかり忘れていたので、これから触れていくことにする。
さてガチガチの本格ミステリの御手洗物と違い、本作は女性が巻き込まれるサスペンスミステリを扱っている。 しかもなんと導入は主人公の女性がテレフォン・セックスに耽っているという、三文ポルノ小説的な設定なのだから、ビックリした。新境地を開こうと躍起になって島田氏は背伸びをしすぎているのではないかと思ったくらいだ。もはや本作の内容はうろ覚えでしかないのだが、このテレフォン・セックスが趣味という設定の割には官能的ではなかったように記憶している。後の『涙流れるままに』の方が、もっと内容的には官能小説に近かった。この辺は作者がまだミステリ作家になりたてだったこと、そしてミステリに対してストイックであったことに因るのかもしれない。 物語はこの趣味にのめりこんだ女性が夜毎、不特定の人に電話することで、ある日突然人が殺される瞬間の家にかけてしまった事から事件に巻き込まれてしまうといった物だ。人には云えない秘密の趣味がやがて自らを窮地に追い込むという点ではコーネル・ウールリッチの有名な短編「裏窓」を髣髴させる。あれが視覚的だったのに対し、島田氏は聴覚的なサスペンスを狙っているところが工夫した点といえるだろう。そしてさらに島田氏はこの偶然に対してある仕掛けを盛り込んでいる。ミステリにおける登場人物の役割という概念に新しい視点をもたらしているとも云える仕掛けだ。 しかし電話というのは古今東西ミステリによく扱われる題材だ。だから携帯電話が出た時にはあまりの便利さ、汎用性にミステリ作家達はどう処理していいものか、非常に困ったという。固定電話が被害者ならびに容疑者に犯行当時、現場不在の証明として有効に機能していたこと、文字通り顔の見えない相手とのやり取りであるという不確実性、これがミステリの効果を盛り上げていたからだ。しかし携帯電話があると、特にどこでも電話が掛けられるということで、アリバイを簡単に偽装できるし、また拉致された者が簡単に救いを求めることも出来るという利便性がサスペンス性を減じてしまっている。文明の進化とミステリとは常に犬猿の仲なのだ。さすがに最近はミステリ作家も心得ていて携帯電話があっても成立つサスペンス、逆に携帯電話だからこそ出来るサプライズなどを盛り込んだ秀作も出てきている。 脱線してしまったので話を戻すが、上に書いたように平凡なサスペンスに終始しがちな本作のような作品でも彼なりに工夫しているのが、ミステリに対する思いの強さと作家としての志の高さを感じさせるが、やはり御手洗物の後に読むと凡作と感じてしまう。本自体も薄くてすぐに読めてしまう手軽さもその一助になっているようだ。島田氏の作品をコンプリートしたいという人のみ勧める作品だ。 しかしもうそろそろ題名に付けられている「ダイヤル」の意味が解らない人達が出てきていることだろう。そんなことも含めて時代の流れを感じる作品ではある。 |
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歌野氏第2作はクローズト・サークル物、いわゆる“雪の山荘物”だ。しかし本作はほとんど印象に残っていない。確か本作も連続殺人事件で、しかも密室殺人だったようだが、機械的トリックだったので、ガッカリした記憶がある。糸や針金、ロープを使って云々の機械的トリックは説明文で滔々と説明されても理解しがたいし、解りやすく図解されても、なるほどねで終ってしまうからだ。つまり読者に推理する余地がなく、こういうトリックを考えました!という作者の品評会になってしまっているからだ。
そして本書は実にオーソドックスなミステリであるせいか、全く何も残らないという変な特徴を持つ。ほとんど話題に上らない作品でもあるのは、定型すぎて物語にコクがないからだろう。逆に云えば、前作『長い家の殺人』が凡作ながらも読者にある固定した印象を残しているのは、やはり舞台となった「長い家」の特色を活かしたトリックを採用しているからだろう。しかし本作ではそれが全くなく、単なる山中の館で起こる殺人事件に落ち着いてしまっているからだ。つまり極論すれば本作の題名は「白い家の殺人」でも「雪山の家の殺人」でも「木造の家の殺人」でも何でもいいと云える。 またやはり探偵役の信濃譲二も『長い家~』で述べたような、名探偵登場!といった期待感が実に希薄なキャラクターであることも、マイナス要因だろう。 しかし、前作が作家として力量不足を露呈した作品だとすれば、本作は凡作ながらも一連の本格ミステリの方程式に則った作品であるといえ、そういう意味では少し作家として前進したといえるだろう。その後のブレイクを知っている者にしてみれば、その道程を知っている今となっては、これほど作家として成長を作品で見守れる作家も珍しいといえるだろう。 今は変化球が多い彼の作品だが、昔はこういう教科書どおりのミステリも書いていたことを知るにはいい作品かもしれない。 |
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腹話術師が人形を介して推理を披露するという、キャラクターを作りすぎた感が否めない我孫子氏の第2のシリーズ。しかしこのシリーズはなんと読んでいるのだろう?腹話術師朝永嘉夫シリーズ?それとも腹話術人形鞠小路鞠夫シリーズ?ま、どうでもいいか(ここでは人形シリーズとなってますね)。
本作はその第1弾で4編収録の短編集。軽いイントロダクションといった感じ。 各編のストーリー、真相についてはもう既に忘却の彼方なのだが、それでも2編目の「人形はテントで推理する」は今でも覚えていた。これは発想の転換というか、先入観を利用したミスリードがよく効いている。たしかあとがきか解説でも作者自身お気に入りの1遍であるとの弁が伝えられており、特にチェスタトン張りのトリックが本人はいたく気に入ったようだ。しかしチェスタトンという名前が誇らしげに出てくるところを見ると、やはりミステリ作家はいつかはチェスタトンのような逆説的な作品を物するのが憧れなのかもしれない。 さて元々我孫子氏の作風はライトなのだが、このシリーズではさらにそれが強調されているように感じる。上に述べたように、戯画化が強調された主人公コンビが活躍する点も含め、ライトノベルのようなテイストが強い。だからだろうか、もう一方の速水兄弟シリーズよりもキャラクターが弱いように感じた。設定の割にはあまり残る物がない短編集であった。 |
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急逝した監督の代わりに途中まで制作された映画をスタッフで観て、結末を推理して完成させる。なんとも魅力的な謎ではないか。ミステリにはまだこんなアイデアがあったのかと文庫裏表紙の紹介文を読んでワクワクしたのが本書だ。しかも私は映画好きでもあるので、その期待は否が応にも高まった。
こういう趣向の小説には付き物の、映画に関するトリビア、含蓄はしかし意外とこちらの痒い所に手が届くものではなかった。我孫子氏はクラシック・ムーヴィーのファンらしく、モノクロ映画からカラーに移る頃の映画スターに関する言及が多かった。私はこの時代の映画には疎いのであまり興趣が湧かなかったのが残念なところだ。なんせ本書で初めてフレッド・アステアを知ったくらいなのだから。 そして本書の主眼であるスタッフが推理して完成させた映画の結末は特に意外性も感じなかった。まあ、収まるべくして収まったという感じだ。プロットが抜群だったのに、どんどん尻すぼみしていった、そんな印象の強い残念な作品になってしまった。 やはり映画を題材にしているからには映像ならではのミステリ手法を採用した方が映えるのだろう。本書は特にそう思った。だから私は未完成の映画をみんなで推理して結末を作って完成させるという大枠を生かしたまま、映像化した『探偵映画』を観てみたいものだ。 |
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速水三兄弟シリーズ3作目はミッシング・リンク物。連続殺人が都内各所で行われるが、その被害者はいずれも無関係の他人で、共通点が一切見当たらなかった。果たして速水三兄弟が行き着いた被害者を結ぶミッシング・リンクは常識では考えられない突拍子の無いものだった、と簡単に纏めるとこうなるだろう。
このミッシング・リンクはいい意味でも悪い意味でも、著者の遊び心が出た内容だ。私は前作『0の殺人』が実に鮮やかに騙されたこともあり、今度はどんな面白い仕掛けを見せてくれるのだろうと期待が高まっていたせいか、この真相は肩透かしを食ってしまった。 しかしこの稚気性が高く、非道徳的な真相は逆に云えば、今日性が高いかもしれない。ただこれはあくまで最大限の譲歩であり、やはりワンアイデア物の小品であるといわざるを得ないだろう。 本作以降、この速水三兄弟は我孫子作品にはお目見えしていない。作者のユーモア感覚を代弁するのに最適のキャラクターだっただけに本作で退場してしまうのが惜しまれる。最後に彼ら三兄弟に花道を渡す意味でも、いつかまた再登場願いたいところだ。 |
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現在ではミステリ作家としての名もさることながら、むしろゲーム『かまいたちの夜』の原作者の方が名の通っている感のある我孫子氏。私が彼の作品に触れたのは大学の頃で、まだこのソフトは発売されていなかった。逆に云えば、先に彼の作品を読んでいたからこのソフトに期待し、実際買いもした。
さて彼の作品の最大の特徴は当時ほぼ同時にデビューした綾辻氏、法月氏、歌野氏にはない、コミカルな作風にあるだろう。一読してビックリするのはものすごい軽さ。しかもページ数も他の3人に比べると格段に少ないので、あっという間に読めた記憶がある。 しかしやはり作風は異色とはいえ、最初のミステリは館物と、定型は守っているようだ。気づいてみれば綾辻氏、法月氏、歌野氏のデビュー作は全て館物だ(法月氏は舞台は学校だが、校舎も一つの大きな館だ)。 さて本作では8の字屋敷という、その名そのまんまの8の字の形をした屋敷で起こる2つの密室殺人を扱っている。 で、実は本作は私がもっとも早く犯人を見破った作品でもある。どの段階でと書くと、それだけでもうネタバレになってしまうので書かないが、もうそれはかなり早い段階だった。 だから第1の殺人に関するインパクトは非常に希薄で、逆に第2の密室殺人の方が強く印象に残っている。シンプルが故になるほど!と思ったトリック(?)だった。 この『8の殺人』はシリーズになっており、その後『0の殺人』、『メビウスの殺人』と続く。このシリーズは速水三兄弟という兄が刑事で弟が喫茶店経営、一番下の妹が大学生という3人が探偵役を務めているが、これがまず設定として成功していると思う。ホームズとワトソン2人ではなく、3人、しかも女性を絡めたのがミソだろう。この3人の掛け合いがボケとツッコミ、イジラレ役と絶妙なトリオをなしており、物語の潤滑油となっている。私は笑いこそもっとも難しい技術だと思っているので、我孫子氏が一番作家としては他の三人よりも長けているなぁと思ったものだ。ライトノベルに親しんだ学生がちょっと背伸びしてミステリに手を出そうとした時、我孫子氏の作品はいい入門書になるだろう。 薄さの割にはカー張りに密室講義も盛り込まれており、このへんがやはり他の新本格ミステリ作家同様、マニアであることを自称しているように取れる。この密室講義では古今東西の密室ミステリに触れられているがネタバレまでには至ってなかったように記憶している。 しかし我孫子氏のデビュー作である本書はミステリの水準から云えば、並程度と云えよう。本作はキャラクター性ゆえにこの作家を追いかけようと思った覚えがある。しかしその思いは次の『0の殺人』でいい意味で裏切られる。 |
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法月綸太郎3作目で・・・、いい加減しつこいので止める。
名探偵法月綸太郎シリーズ2作目は新興宗教グループで起こる教祖の殺人を扱った事件。本作ではくどいくらいに探偵法月による推理のトライアル&エラーが繰り返される。このスタイルは当時現代英国本格ミステリの雄だったコリン・デクスターの作風を踏襲したものだ。前作がカーで、本作がデクスター、第1作目は似非ハードボイルド風学園ミステリと作品ごとに作風と文体を変えていた法月氏。よく云えば器用な作家、悪く云えば決まった作風を持たない軸の定まらない作家である。 こういうトライアル&エラー物は何度も推理が繰り返されることで、どんどん選択肢が消去され、真相に近づくといった通常の手法に加え、堅牢だと思われた推理が些細なことで覆され、現れてくる新事実に目から鱗がポロポロ取れるようなカタルシスを得られるところに醍醐味がある。しかしそれは二度目の推理が一度目の論理を凌駕し、さらに三度目の推理が二度目の論理を圧倒する、といった具合に尻上がりに精度が高まるにつれて完璧無比な論理へ到達させてくれなければならない。それはあたかも論理の迷宮で彷徨う読者へ天から手を差し伸べて救い上げる行為のように。 しかしこのトライアル&エラー物が諸刃の剣であるのは、それが逆に名探偵の万能性を貶め、読者の侮蔑を買うことにもなるのと、論理が稚拙で魅力がないと単なる繰言に過ぎなくなり、読者に退屈を強いることになるのだ。そして本作は明らかに後者。繰り返される推理がどんどん複雑化して読者の混乱を招き、もはやどんな事件だったのかでさえ、記憶に残らなくなってしまった。実際私も本稿に当たる前に記憶を呼び戻すために色々当たってみたら、こんな話だったのかと思い出した次第。したがってこの感想を読んだ方はお気づきのように、今まで私が述べてきた内容は本書の中身に関する叙述が少なく、読後の印象しか滔々と述べていない。とにかく読み終わった後、徒労感がどっと押し寄せてきたのを覚えている。 しかし今回調べてみて読んだ当時気づかなかったことが1つあった。それは事件の当事者である甲斐家と安倍家という2つの家族の名前だ。双子という設定も考慮するとこれは聖書に出てくる「カインとアベル」がモチーフとなっている。そういったバックストーリーを頭に入れて読むと、案外理解しやすいのかもしれない。 お気づきのようにここまでの法月作品に対する私の評価というのはあまり芳しくない。しかしこの評価は次の『頼子のために』で、がらっと変わることになる。 |
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法月綸太郎2作目で名探偵法月綸太郎初登場作品(ややこしい)の本書は実にオーソドックスなミステリ。本格ミステリの趣向の1つにクローズドサークル物を称して“雪の山荘物”と呼ぶが、これは正にそのど真ん中の設定だ。
雪山のペンションに集った人たちにはそれぞれ思惑を秘めており、そして離れの密室で殺人が置き、そこには犯人と思しき足跡が残っているのみだったという、これまた定型中の定型だ。本書は開巻してまもなくエピグラフに確か「白い僧院はいかに改装されたか」なる一文が記してあった記憶がある。これは都筑道夫のエッセイ集『黄色い部屋はいかに改装されたか』の語呂合わせだが、このエピグラフは法月氏が新本格という単語に過敏に反応していたようにも取れる。黄金期の名作を換骨奪胎して新たな本格を、という作者の意気込みが込められていると読み取るのは穿ちすぎだろうか。この時はまだ本家を読んだ事が無いので比べようが無かったのだが、後に本書の原典となっているカーター・ディクスンの『白い僧院の殺人』を読んだ時はそのシンプルな真相に思わず「あっ!」と声を上げるぐらい驚いた。しかし本書についてはそれは全く無かった。ふ~ん、なるほどねというくらいだっただろう。本稿を書くのに、色々調べたのだが、“読者への挑戦状”が挿入されていたことさえ忘れていた。 薄いので記憶を刷新するためにも一度読み直して原典と比べてみるのもいいかもしれない。 |
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題名どおり、この作品の主人公は詩人で画家のガブリエル・ゲイルが狂人が起こす事件を解き明かすというロジックに特化した短編集。しかし『木曜の男』に引き続いて主人公の職業が詩人。本当にチェスタトンは詩人が好きだ。
90年初頭にトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』が起爆剤となって、サイコホラーが一大ブームを巻き起こしたが、いわゆるそれは人間の心こそ怖いということに気づいたからだった。そしてそれは今まで理解不可能であった狂人の行動・心理が狂人にも彼らなりの理論と哲学の下で行動していることがこれらの作品群で解り出した事も一因だろう。本作はそれに先駆けること60年も前に発表された狂人が狂人の不可解な行動を狂人の視点で解き明かすという非常にエキセントリックな短編集なのだ。 しかし本作はその過剰なエキセントリックさゆえに私の中ではもっとも評価の低い短編集になっている。ブラウン神父、ガブリエル・サイム、バジル・グラントと今までチェスタトンの主人公は非常に個性的で、普通に付き合うには遠慮したい人物ではあるが、一般的な常識は備えている人物ではあった。しかし本書における主人公ゲイルは彼自身が狂人であるため、彼の言動には面食らってしまい、ついていけないことが多かった。 これに拍車を掛けるように各編もこちらの常識・理解の枠外を振り切っていて、もう訳が解らんわぁと何度もなってしまった。 これを読んだのはやはり大学生の時でそれなりの知識はあった頃だったが、そのときの印象は上述のようにすこぶる悪い。しかし他者の感想ではなかなか興味深い趣向が盛り込まれているとのことなので(この趣向についてはもはや頭に一片も残っていない)、機会があればもう一度読み直してみたいなぁとは思っている。機会があれば、ね。 |
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