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ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編
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ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.14pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全133件 61~80 4/7ページ
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| 新刊当時の書評で、いくつもの謎が投げ出されたまま解決をみないで終わっているという主旨の苦言が呈されていた記憶がある。が、読んでみるとそんなものはこの小説の瑕ではない、とはっきり言える。長く読み継がれてきた多くの長篇小説がそうであるように、多種多様な解釈が可能であり、多くの隘路には思いがけぬ愉悦と思索が潜んでいる、そのような存在であることによって、意義を得ようとしている巨大で複雑な構築物。この小説はそのような楽しみ多き構築物に成りおおせていて、春樹さんの目論みは、8割方成功しているのではないか。 この作者の得意わざである、「僕」による一人称小説。処女作「風の歌を聴け」以来、この「僕」はあまり年老いることができない。そして、この「僕」はいつまでたっても春樹的モラルの体現者である。春樹的モラルとは、例えば、 1. 窮地に陥っても、いつも気の利いたセリフを言う。 2. 健康な性欲の持ち主だが、お金で女性をを買ったりはしない。(私もそうだ) 3. 保守的で、何故かすでに出来上がっている自分の価値観(それが春樹的モラルだ)から一歩も出ない。 4. その守るべき自己(価値観)を脅かす外敵(それが一つの悪であろう)とは、決然と戦う。 5. いつもスパゲティは自分で茹でる。(私もそうだ) などが、思い付くままに挙げられる。村上春樹は昔ながらの私小説の書き手ではない、と信じられているから、「僕」が現実の春樹氏とシンクロして年令を増していく必要などないが、それにしても、永遠に青春小説を書くのはつらいから、ついにノンフィクションにも手を染めたのか、なんて憎まれ口はさておき、ねじまき鳥と「アンダーグラウンド」では、人間性のもたらし得る悪を、まともに表側から、もちろん春樹式レトリックによって(それ意外に何ができる)描こうとした。 この人はもともと、生々しいものや、どろどろしたもの、重苦しいもの等について、それらに直接触れることを好まず、その痕跡や、それがかつてそこにあったことを伝える余韻のみを、言わば、本体が抜け出たあとの窪みを、スマートに描いて見せることで際立った小説家であったのだ。でもこれからは、どぎつく描いちゃうんだもんね。例えば、小説の末尾近くになって、「皮剥ぎボリス」という綽名が示される赤軍少佐。私は、このロシア人が日本軍間諜の生皮を剥ぐシーンを都営地下鉄三田線の車中で読んで、以後一週間ほど、飯も喉を通らず、夜はうなされて眠れなかった。文字通り悪魔の化身。悪魔の化身の悪魔ぶりがくっきりと描かれた。なんじゃこりゃあ。村上春樹の本を読んでこんな思いをするとは。何と生々しい表現の力。ただし、この「悪」は「ぼく」の身じかにあったわけではなく、その悪の化身によって踏み付けにされ、人生の中身を奪い取られてしまったような経歴をもつ老人の回想として小説中で示されるに過ぎない。すでに存在感の希薄な老人の語る「悪」に圧倒的な存在感が付与されているのは何故なのか。一方、「僕」に具体的な困難を及ぼした張本人とされるワタヤノボルとその悪は、あくまで抽象的、また遠隔的なものだ。 それにしても、今さら何ゆえ「悪」などに着眼したのか。 | ||||
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| どうしてかはよくわからないけれど、かなり惹き付けられる。 物語なんて、まだ始まってもいないようだし、それぞれストーリのかけらみたいなのはところどころに見えるんだけど、それらが全くつながっていない。なんだか写真をとっても近くで見ている感じ。 多分、第2部、第3部と読み進めていくごとに、その全体像があらわになるんだと思う。 でも、もしかしたら最後まで読み切っても、その写真の意味がわからないかもしれない。それぐらい長い序章のように感じます。 | ||||
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| 一人の人間が、大きな困難(憎しみ、怒り、不安、焦り、トラウマ)に立ち向かう時、どこにアイデンティティーを求めるべきか? 追い詰められ、パニック寸前の状態で、どうバランスをとればいいのか? 圧倒的に不利な状況の中、求める物を見極め、それをたぐり寄せるには? 主人公オカダトオルがとても静かで、しかし強い力を発揮し、それら難題に答えを出していくお話です。 エキセントリックな登場人物に達に励まされ、物事に対する姿勢を固めていく主人公…彼はユーモアを感じさせるほど淡々としていて、最後まで自分の構えを崩さない。地味なのに凄く格好いい。人間の強さの本質というものを主人公オカダトオルは、体現しているみたいだ。 | ||||
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| 結局これが最高傑作だと思う。 皮剥ボリス。 ストーリーテラーとして優秀すぎる。 ワタヤノボルの描写が類型的な気がするけど、それがどうしたってくらい全体の完成度が高い。 何度読んでもアゼンとする。 自分のことのように感じさせるところが傑作のアカシ。 村上龍や吉本ばななとの距離感がだいぶ広がった感じだけど、比較に意味はない。 村上春樹が勝ち馬だなんて、デビュー当時だれが想像しただろう。 それが才能だけでなく、修練と努力のたまものであるというのは、ある種の人たちには慰めやはげましになるんじゃないかな。 信じられない達成であり、快挙。 って20年後にゆうことちゃうかもしれんけど。 | ||||
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| 三巻読み終えたけど、結局、主要な登場人物(6人くらい)が渾然一体と、話の中で融和してるわけでは無いようだ それぞれが独立していて、でも主人公の目線だけで語られているから、読者の想像に委ねられている部分は大きい こういうのを、「純文学」って言うのかな ぶっちゃけ、「支離滅裂」って言葉の方が正しいと思うんだけど 春樹さんは相変わらず、比喩と、取って付けたような衝撃的なエピソードだけは上手いから最後まで読んじゃったよ! | ||||
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| 「海辺のカフカ」「1Q84」等の長編を読んだ後で本書を読み返してみると、これは「こちら側」と「あちら側」というハルキ・ムラカミが描きたいパラレル・ワールドの世界の前振りといったところに位置するといっていいのではないかということがわかる。 世界は一筋縄ではいかないいろんな物事のせめぎあいであるということを知るためには、多くの登場人物を登場させざるを得ない。その彼らと「僕」が否応のない付き合い方をしなければならないということだ。中でも一番重要な人物としての「妻・クミコ」との関係は最後の最後まで抜き差しならない緊張感を持つ。 「こちら側」と「あちら側」の世界を描くだけなら中・短編小説で十分かもしれないが、間宮中尉と本田伍長のノモンハン体験を描くことで、「あちら側」体験ができ、読者の恐怖心はいやがうえにも掻き立てられる。ターニング・ポイントごとにTVのCFのように現れる笠原メイの「お手紙」も、トイレ休憩のように必要なのだ。「僕」を空き家の井戸の底に閉じ込め、「あちら側」体験をさせるそもそもの発端がこのメイだ。 ナツメグ、シナモンは精神上の「僕」の心の支え。綿谷ノボルは「僕」とクミコの精神上の敵。異形の人物・牛河はその後のムラカミ作品にとっての要注意キャラ・・・・・ | ||||
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| 主人公が、ひょうひょうとしながらも不思議な世界を歩いていく。 相変わらずの性描写の不可思議さ。 村上春樹さんの世界を堪能させてくれます。 その中で、戦地での経験談のくだりは、妙なリアルさを感じさせて印象に残りました。 | ||||
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| 三部作なのですが二部までは序章に感じました。 前になかなか進まない展開にいらいらしましたが三部までの我慢です。 二部でそのまま終わられていたら☆2つくらいでした。 読むなら頑張って最初から三部買ってしまいましょう。 | ||||
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| 全巻分の印象になります。村上春樹作品は、本作のみ読んでいます。不遜にも著者の小説能力を試し見るつもりの不純な動機による読書です。読書時より間があり内容の細部には言及出来ませんが、凡そ簡潔で的確な文章力に好感を持ちました。名文を凝らす冗長さに煩わされることのない読書感が心地よいのです。併せて感覚に満たす技に長けた空間、状況、時や季節、もちろん心理等々の描写の巧みにして、同時代作家の定評を確かめます。この作品には、トレンドとしての残虐表現も含みますが、ここに於いても筆力になんらの差を見せることもなく、淡々とした風雅に含むかのような筆写には、なんの衒(てら)いもなく、なるほどと、この辺りに力量を認めざるを得ません。如何なるものも著者にとっては、筆写に難しくないようです。ではなぜ個人的な夢物語に類するような作品群にその表現を終始させるのでしょうか。これらの事情が小説家のそれでなく、現在の小説そのものの困難を示すのではないでしょうか。過去の大家の功績により、おそらく小説というものは、社会的影響力を持ち過ぎた。それが故にテーマ、モチーフ、表現を強いて抑制し、その[言力]の爪も奥深く隠さなければ、ならなくなった。"作品世界の雰囲気以上に、作家の何を言いたいのか分からない"ねじまき鳥によるクロニクルは、その他諸々に併せ、上記の事情も踏まえたものになるのでしょう。1Q84 BOOK 11Q84 BOOK 31Q84 BOOK 2新作の意味深なタイトルにも何気に惹かれますね。 | ||||
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| 現代のノストラダムス、村上春樹氏の作品です。この本も、読者それぞれにメッセージが伝えられているような作品なので、一概に感想は言えませんが、私は次のように解釈しました。・中国、ソ連(ロシア)からの復讐戦を警戒しなさい。・マスコミ(特にテレビのコメンテーター)だからといって、必ずしも立派な人ではないので その言葉に騙されないように!(テレビは、一種のショーとして鑑賞するのがいいかもしれませんね。)わかる人にはわかります・・・。 | ||||
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| 初めて村上春樹さんの本を読みました。なんとなく手に取ったのが『ねじまき鳥クロニクル』でした。 (その時は3部まである長編だとは知りませんでした。) 読み終わったとき何とも言えない感覚に陥り、これが村上ワールドなんだと感じました。 特に第3部がすごいという感想です。どんどん惹きつけられました。 ユニークな登場人物、そしてクールな主人公の戦い、是非読んでみてください。 | ||||
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| 「風の歌を聴け」から始まる4部作では、「羊」で冒険に乗り出し、「ダンス・ダンス・ダンス」でとにかくダンスしながら自分の生きる道、愛する相手を探しました。それは高度資本主義が爛熟へと向かう社会に背を向け、とにかく自分にとっての真実を探す旅でした。そして、アメリカにわたり、今度は背を向けていた社会にコミット(かかわる)しようとしたのが、この小説のようです。そのコミットの手がかりは、著者がプリンストン大学で見つけたという、ノモンハンでの戦闘に関する資料でした。歴史と言うのは、いくら私たちが「個」に徹しようとしてもそこにあるもので、私たちは歴史の中の体験、悪などとは無縁では生きていけないのです(のでしょう)。この巻に出てくる加納マルタ、クレタ兄弟や、綿谷ノボル、本田さん、間宮中尉たちと歴史の旅に向かうのです。 | ||||
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| ねじまき鳥クロニクルの「あの部屋」って「人間の精神の一番ややこしい部分」を描いてるのかな、と最近考えています。気難しい部分というか。どんな人だって「気難しい部分」っていうのを持っていて、例えば、他人との会話の中で、自分の大問題に対して安易な共感をされたり、何かをしようと思うとき「お前はそんなんじゃないやん?」みたいな押し付けをされたり、いろいろあると思うけど、心の奥の方が痛んで仕方がない時がある。自分の中の「気難しい部分」に他人の行動や言葉が触れて、気が狂いそうになる。親や友達とかあらゆる周りの人との関係の中にそういうのってあって、自分も他人に対してしてるかも知らないから、本当に気を付けないとだめなんだけど。 そして、そういうものが人生を通して積み重なっていって、神経症になったり、「自分はダメだ」と閉塞感に陥ったり、突発的な異常行動に走ってしまう。それが、この小説では、主人公とクミコの関係を通して描かれてる。 「井戸」の意味は相手を理解するためには、まず自分の「気難しい部分」と向き合い、見つめ、あらゆる要因(トラウマとか、その人の心が自由になるのを妨げる何か)によって生きることに行き詰っている他者の「気難しい部分」に気付けってことだろうか。ワタヤノボルの存在は、その人の「気難しい部分」を痛めつける象徴だと考えれば、複雑な物語が一気にクリアになる。 結局、「その人のことを理解出来た」と思った瞬間、その人のことを知ろうとする努力をすることを止めて、その人の「気難しい部分」を痛めつけるようなことを知らず知らずの内にしてしまうんだろうし、それだから、家族とか親しくなりすぎた友人との関わり合いって、難しいのだろうな。だから、他者との関係の中では、「こいつはこうだ」とか決め付けるのではなく、もっと「知らないことのほうが圧倒的に多い」という「開かれた心」を持って接しないといけない、と最近、改めて考えています。ややこしい物語だけれど、お薦め。 | ||||
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| 流れに逆らうことなく、 上に行くべきは上に行き、下に行くべきは下に行く。 上に行くべき時には、一番高い塔を見つけてそのてっぺんに登ればよろしい。 下に行くべき時には、一番深い井戸を見つけてそのそこに降りればよろしい。 流れのないときは、じっとしておればよろしい。 流れに逆らえば全ては涸れる。 全てが枯れればこの世は闇だ。 我を捨てる時に我はある。 抜け殻のようにして長く生きたところで、本当に生きたことにはならんのです。 抜け殻の心と、 抜け殻の肉体がもたらすものは、 抜け殻の人生にすぎません。 人生というものは、 その渦中にある人々が考えているよりも ずっと限定されたものなのです。 人生という行為の中に光が差し込んでくるのは、限られた短い期間のことなのです。 あるいはそれは数十秒のことかもしれません。 それが過ぎ去ってしまえば、 そして、もしそこに示された啓示をつかみ取ることに失敗してしまったなら、 そこに二度と機会というものは存在しないのです。 そして、人はその後の人生を救いのない 深い孤独と悔悟の中で過ごさなくてはならないかもしれません。 そのような黄昏の世界にあって、 人はもう、何ものをも待ち受けることはできません。 彼が手にしているものは、あるべきであったものの儚い残骸にすぎないのです。 | ||||
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| この本を読んで、非常に癒やされました。はじめて、本というものを読んだような気がします。また、これ以上危険な本はないような気がします。全身の皮を剥くだとか、バットで頭をカチ割るだとか、そういうのは危険のわかりやすい部分なんです。本当の危険からするとそんなの全然危険じゃないんです。本作では間宮中尉が井戸の底で体験した感覚が一貫して語られているような気がしました。なぜそういったことを表現してくれる芸術がないのか、僕みたいな普通じゃない感覚の人には収まりきらない箇所をこの作品はぽっと埋めてくれたように思います。それは村上さんが読者の代わりに井戸に降りてくれたからだと思います。はじめて、本を読んで感情的に泣きました。芸術なんて私にはわかりませんが、全人格的に関わっていないものは偽物のような気がします。偽物に偽物を足したら本物っぽくなりますが、本当はそれよりも偽物を全力で偽物の方に留めさせておく力に私達は感動するのではないでしょうか。村上さんの自分というか、そういった世界に対する献身的な姿勢が私には見えました。心象や感覚や直感が深い作品だけに、見苦しい感じになってしまいましたが、こうでしか何か表現できませんでした。全芸術を含めて、最も偉大なアーティストだと思います。 | ||||
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| 仕事を辞職し、失業中の主人公の周辺でいくつかの不思議な出来事が生じる。氏の作品において今までに見られなかった暴力性というものを根底に見る事が出来ます。 「これまでの人生で、何かを本当に欲しいと思ってそれが手に入ったことなんてただの一度もないのよ。ただの一度もよ。そんなのってないと思わない?そういうのがどんな人生か、あなたにはきっとわからないわ。自分が求めているものが手に入らない人生に慣れてくるとね、そのうちにね、自分が本当に何を求めているのかさえだんだんわからなくなってくるのよ」 | ||||
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| とにかく長くて難解なストーリーだ。 最後にたどり着くまでに何度も「やれやれ」と思う。 クリーニングに出しておいたワンピースとともに突然姿を消した妻を探し、岡田トオルの果てしない苦闘が始まる。 その妻探しの過程で幾度となく登場し、行く手を阻むのが義兄の綿谷ノボル。 学者にして、その後衆議院議員となる彼はまったくつかみ所がないが、読む者の心の奥になにやら「イヤ」な感じを残し続ける。 家の裏にある路地を抜け、空き家の井戸に降りるところから物語は様々な方面に波及し、つながっていく。 空き家の向かいに住む笠原メイ。 いなくなった猫を探す加納マルタと妹のクレタ。 預言者の本田さんとノモンハンで一緒だった間宮中尉。 謎の事業を行なうナツメグと話すことが出来ないシナモン。 長編かつ展開が複雑であるために、何度読んでもこの物語の主題がわからない。 間宮中尉から送られてくる長い長い手紙は、何を暗示しているのだ。 井戸の中と右頬に出来たアザには何の関係があるのか。 ギターを持った男とバットと綿谷ノボルに何の関係があるのか。 最後にはすべてのツジツマが合うかのように物語は終わる。 そして、読んだ者の心の中にはある種のうまく説明できない違和感が残る。 いつかまた読んでみたら、ふと謎が解けるのではないかと考えてしまう。 何か重要なことを読み落としているのではないか、と不安になる。 こんな気分になるのは村上春樹の作品の中で「ねじまき鳥」だけである。 きっといつかまた読み返してしまう。 | ||||
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| 良い小説は、目次を眺めているだけでも面白い。『ねじまき鳥クロニクル』(の目次)は最高の小説だ。 最初僕は、これは村上春樹はじめての詩集だと思っていたけど、やがてそれは間違いだと気がついた。だって『ねじまき鳥クロニクル』(の目次)にはプロットがあって、伏線があって、キャラクターがあって、文体があるからね。これは紛れもない小説なんだ。 たとえば第2部15章《正しい名前、夏の朝にサラダオイルをかけて焼かれたもの、不正確なメタファー》なんて、ことあるごとに口ずさみたくなるし、第3部の冒頭でいきなり《笹原メイの視点》だなんて、カッコ良すぎて思わず文庫本を置いて部屋の中をうろついちゃった。だって《笹原メイの視点》だぜ! どうしたらこんなにカッコ良いことばが思いつくんだろう? たぶんこの世で一番悦ばしいことは、カッコ良い言葉を一方的に浴びせられることだ。官能状態で息も絶え絶えの僕たちに、続けざまに第7章《よくよく考えればわかるところ》第11章《それでは次の問題》のコンビネーション、そして第40章《ねじまき鳥クロニクル#17》で完全にノック・アウトさ。「こんなに面白くていいのかい?」と何度も訊ねたくなったよ。ほんとに、『ねじまき鳥クロニクル』(の目次)夢みたいな読書体験だったな。本編の後ろには長々と自作解説がくっついてるけど、でもそういうのはちょっとやぼで好きじゃないな。 みんな、『1Q84』なんて読んでる場合じゃない。僕はもう20回も『ねじまき鳥クロニクル』(の目次)を読んだぞ。 | ||||
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| 全三部からなる、長大な長編ですが、一気に読ませる文章力が凄いです。この作品が文学と呼べるかどうか、そして村上春樹が近代文学の旗手かどうかの議論はさておいて、同年代、近年の小説家達とは一線を画す文章がこの作品では楽しめます。それほど凄い作品です。 三冊一気に読む事をお勧め致します。 | ||||
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| あることで非常に悩んでいたとき、むさぼるように本を読んでいて、この一冊に出会い、ぐいぐいと引き込まれるように読みました。その後、今までの悩みがふっ切れたようになり、また現実に戻ることが出来た。といった、出会えて本当によかったと思える本です。 | ||||
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