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君の話
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君の話の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.50pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全66件 41~60 3/4ページ
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最後の一文を何度も何度も噛み締めてしまう。 ありきたりな表現ですが、読了後になんとも言えないため息が出ます。 | ||||
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三秋縋さんの作品は今回初めて読ませていただきました。なんて切ないんだろう、と読み進めるほどに胸が苦しくなるような物語でした。本作品のSF要素は“義憶”に関する必要最低限なものだけで、普段SF系の小説は読まない方にもおすすめします(僕がそうなので、最初は少し抵抗がありました)。 少し掘り下げますと、本作品は主人公と、彼の義憶の中に出てくる幼馴染との、二つの視点で構成されています。自分の心の隙間をすっかり満たしてしまうような偽りの記憶が、本当は真実なのではないか。受け入れたら楽になれるのに、しかし、自分はこれが偽りであることを知っている。そんな葛藤のなかで主人公はどのように成長していくのか、そして、偽り(?)の幼馴染の目的はなんなのか。自分の胸を締め付けながら、それでいて心を躍らせながら、是非この本を手にし、読み進めてください。 | ||||
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物語の舞台は、「偽りの記憶(義憶)」の埋め込みなど、いわゆる記憶操作が可能となった世界です。 その世界で孤独な主人公が義憶を埋め込み、義憶にしか存在しないはずの作られた幼馴染と出会い振り 回される物語ですかね。 冒頭から中盤は、孤独であったが故の主人公の人付き合いの不器用さが感じられますが、主人公が幼馴染と接していくうちに無意識に変わっていく様子は読んでいて純粋な気持ちになれました。 最後は決して最大のハッピーエンドではありませんが、最高にきれいな話であったと思います。 私はこの本は「君の膵臓が食べたい」に似た系統のものだと感じたので、そういった類の話が好きな方にはお勧めできる一冊でした。 | ||||
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いつも、儚げな女の子。鬱蒼とした男の子の切ないストリー。いつもの後半からの刹那的な展開。わかっててもすごく好きです。 | ||||
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三秋縋先生の作品は全部読みました。 今回も最高の話だった。 最期のクライマックスは10回以上読み直しました。 次回作も絶対買います。 無理はなさらない程度で頑張ってください。 一つだけ疑問に残るのが、最期は結局どういうことなのかよくわからなかったです。 | ||||
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人工的な運命の出会いですが、ともすると天然物の運命の出会いより暖かな印象を受けました。 作られた愛が本物の愛に劣るなど、誰が証明出来るでしょうか? 誰にも出来ないと、私は思います。 | ||||
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悲しい話なのでしょう、虚無なのでしょう。 そんな者たちが偽物の記憶に縋る様は、悲しく映るのでしょう。 出会ったことのない彼女への恋心も、嘲笑の的でしか無いのでしょう。 けれど義憶を得る、その様はまるで小説を読む読書家のようであり。 物語に出てくるようなヒロインを求め、けれどありえないと否定する私のようでした。 | ||||
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タイトルにある『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』は、1981年に発表された、村上春樹の短編小説。 とても短い話で、かなり古い短編ですが、未だにファンの多い作品。 村上春樹ファンを公言している三秋縋による新作、「君の話」は、この短編を下敷きにしている事に間違いないだろう。 文体や比喩、登場人物の話し方まで、三秋縋が村上作品から非常に大きな影響を受けている事に疑いの余地はなく、また、作者自身どうやらそれを隠すつもりがないのだと悟ったのは、p47の最後の行の「やれやれ、お前には本当に自分の人生というものがないのだな、と自分自身に呆れ果てる」の一文を読んだ時だった。 この「やれやれ」の言い回しは、初期〜中期にかけての村上作品の主人公がよく使っていた表現で、一種の決め言葉みたいに使われていた。 だから、これは三秋縋が意図的に使った表現で、そこから私は潔さみたいなものを感じた。 ここからはネタバレになるが、「君の話」のストーリーは、一種のテンプレに忠実であり、それは同作者による「恋する寄生虫」、住野よる著「君の膵臓をたべたい」、古くは片山恭一著「世界の中心で愛をさけぶ」と同じだ。 ヒロインは死ななければならない。所謂王道ですね。 話の展開は勿論見え見えだし、「ヒロインもどうせまた死ぬんだろうな」と思いながら読んでも楽しめるのは、やはり作者のアイディアと力量あっての事だと思う。 三秋縋同様、村上春樹ファンである私は、もし初期〜中期の村上春樹が当たり障りないエンタメを書いたら、こんな作品になるのかもな、とか別の楽しみ方もできたり。義憶技工士のアイディアは、村上春樹著「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に出てくる、「暗号士」や「シャフリング」から来ているのかなと予想してみたり。 長々と書きましたが、楽しく読めました。次作も期待しています。 次はテンプレでない筋書きの三秋縋作品を読んでみたいです。 | ||||
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心的苦痛を取り除くための架空の記憶、これを物語では義憶という。この義憶を植え付ける薬剤が開発 された時代の青春物語。一体どこまでが現実でどこからが義憶なのか、読者は混乱する。著者はこの混乱 こそが青春時代の特徴だと言わんばかりにエピソードを紡ぎ出す。決して難解な言葉を用いている訳では ないが、豊富な語彙力を駆使しながら韻を踏んだリズム感ある文節、想像を超えた表現の広がりなどが物 語全体に力強さを付与している。 そして著者は、何と言っても十代の青春落ちこぼれ少年の心理描写に長けている。失ってみて始めて本 当に大切なものだったことに気づいたり、好意を無視して傷付けたり徹底的に冷たくあたって、それでも 最後まで自分を好きだと言ってくれる女の子が「究極の彼女」なのだと、うそぶく未熟な男の傲慢さには 身につまされる思いがある。 虚構を嫌い妥協を良しとしない正義感がますます己を孤独へと追い込み、生きにくい世の中にしてしま う様は、何とも歯がゆく悔しい。まるで自分の青春時代の思い出のようで切ない。可能なら★7つくらい 付けたかった。 | ||||
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否応無く心に染み込んでくる物語。苦しくも、悲しくも、儚くも、美しい。たった一つの100%を地獄の底まで。 | ||||
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久々に煙草を吸う間以外は目を離さないで読み切った爽やかな小説でした。 人並みに人生には何か足りないと感じるあなたにこそ是非読んで欲しい。 B面はもう少しテンポを下げてゆっくりと聴き入りたかった点が惜しいですが、余韻が爽やかで良い。 仕事帰りに浴衣のカップルとすれ違って忌々しく感じる季節に読むのがオススメです。 | ||||
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(※既読の人だけがわかります。そして長いです) ①【『いたいの』を超えた】 読み終えて、この作品は僕の中で『いたいの』を超えたな、と理解しました。 特定の作家を愛好している者同士が、 互いに「あんたもそうか」と認識したうえで初めて話をするとき、 必ず話題に上がるのが「特にどれが好み?」という話でした。 僕は今まで、その問いには一貫して『いたいの』と答え続けていました。 その後出版された作品も素晴らしかったのですが、 僕の中では『いたいの』がそれだけ大きなものになっていたのです。 それが今は更新されました。 『君の話』は、現状彼の最高傑作です。 ②【美しい思い出なんて(本当に)ひとつもなかった】 「美しい思い出なんてひとつもない僕たちのための物語」を書いている。 * このツイートが投稿されたのは去年の今頃です。 それから年が変わり、 先行公開された「01 グリーングリーン」「02 蛍の光」を読んだ僕は、 後述する諸々の魅力を感じると同時に、 ある種の失望、その予感としての一抹の不安を感じていました。 そしてそれは杞憂でした。 僕は当初、以下のような不安を感じていたのです。 「おい待ってくれ。 結局また、ここにいる彼らには『美しい思い出』があるんじゃないのか。 それを持たない人間を、それを持たないままに、 その世界でどうにかしてみせるんじゃなかったのか」 その不安を抱えて発売を待ち、そして今読み終えています。 読んだ人間はもうわかっています。 下で詳述していますが、 今作の二人にあったのは本来「素質」だけで、 もし「超常現象」の助けがなければ出会うことさえ叶っていません。 美しい思い出なんて一つもない男と、 美しい思い出なんて一つもない女が、 迂遠で複雑な、その上とびきり優しい虚構によって 結びつくことに成功していました。 ③【あとがきの不在、〈義憶技工士〉と〈作家〉、そして「あなた」】 出会う前から続いていて、始まる前に終わっていた恋の物語。 * 作品のあらすじや帯、広告など、いたるところで見かけられるこのコピー。 このコピーがどれだけ作品の内容を的確に表し、また重要なものであるか……。 今回はあとがきがありません。 と同時に、物語最終盤には非常に目を引く部分がありました。 「12 僕の話」、308ページ6行目から、次の「*」までの文章です。 Kindle利用者は「呪い」とでも検索を掛ければすぐに見つけられるでしょう。 確認できる人は是非してみてください。 〈義憶技工士〉は物語を扱う職業の中でも、 ファストフード店的なものとして見られているとのことでした。 しかし、ある種の作り手にとっては、 その立場ほど羨ましいものもないだろうと想像します。 〈義憶技工士〉は、ある一人のためだけに物語を作ります。 不特定多数の読み手が想定され、 作り手の意識にかかわらず商業的選別を受けてしまう〈作家〉とは、 決定的に立場が違っているのです。 灯火がやったように、それが真に切実な祈りの産物でありさえすれば、 商業的には許されないような焼き直しや反復、 ご都合主義的で願望充足的な内容など、 そうしたタブーが全く問題にならないのです。 〈義憶技工士〉と〈作家〉の仕事は、その点で完全に異なっていました。 しかし、と思います。 両者、つまりある種の〈義憶技工士〉と、 ある種の〈作家〉とで共通している点もあるのです。 * 人生で出会うべき〝たった一人〟に出会えることの素晴らしさ。 これまでの作品でもずっとそのことを書いてきたのです * 『ダ・ヴィンチ』2015年10月号に掲載された、 『電話』に関するインタビューで彼はこう書いていました。 自分の手掛ける〈義憶〉にとある仕掛けを潜ませている千尋と、 これだけの作品群を書き続け、最新作でこれほどの作品を見せつけた彼とは、 「その行いによって受け手に呪いをかける」という点でよく似ています。 〈ヒロイン〉という義憶に仕組まれた仕掛けと、 彼の作品群が孕んでいる力には、共通した呪いがある気がするのです。 「出会うべき〝たった一人〟」という徹底した信念が、 今回は今まででもっともストレートな形で、 内容と直結して、呆れるほど練りつくされた構成で、 細心の注意と渾身の力とで描き切られていたと思います。 仲間を増やしたいのでも単に読み手を傷つけたいのでもなく、 ただ「その瞬間」の気付きのための意識の余白づくりとして、 「素質」ある人々にかけられる呪い。 僕は、数年前に呪われてしまったのだと思います。 今のところそれは、とても執拗で強靭な呪いとして、 いまだに僕の内側を蝕んでいました。 * 今回彼女(初鹿野唯)を書き、やっと気づいたことがあるのですが、 僕にも〝この子だけは自分のことをわかってくれる〟という幼馴染がいた * こちらも上と同じインタビュー記事での言葉です。 そういう存在が彼にはあって、 そしてそれゆえにあの真理を確信できているのかもしれません。 僕にはいませんでした。だから僕は確信を持てません。 今作は最高でした。次の作品も読みます。 僕は彼の作品を死ぬまで読み続けます。 (※あとは余談です) ④【もう一度「欲しさ」について】 『寄生虫』の時も感じたことです。 あのときは〈虫〉で、いまは〈義憶〉でした。 それをくれ、と思います。 〈虫〉のときは「地獄の具体化」の機能にも惹かれていました。 〈義憶〉も、見方によってはそういう機能もあるかもしれません。 ただ両者に共通しているのは、〈虫〉も〈義憶〉も 「出会うべき〝たった一人〟」との遭遇確率を格段に上げる、 という点でした。 2016年9月25日のツイートにこういうものがあります。 * たとえば僕の場合、 「運命の恋」を描くときは必ず「超常現象」を絡めるんですけど、 それって逆説的には「超常現象でも起きない限り、運命の恋など成立しない」 というシニカルな世界観の表れだとも思うんです。 そういう視点で「秒速5センチメートル」と「君の名は。」を 見比べてみるのも面白いですよ * さて、『夢が覚めるまで』も含めればすでに8冊の本が出ています。 そのすべての作品に「超常現象」があります。 彼にとって、それは自然なことなのでしょう。 やはり、「超常現象」でもなければ、それは起こり得ないのです。 そしてそれは僕たちの生きる「ここ」にはありません。 『ひきこもり』の寄稿文の最後で、彼は出口の話をしていました。 * そしてだからこそ、あの結末を読んだときは、 彼らに置いていかれたような寂しさを覚えた。 でも、たぶんそれで良かったのだと思う。 物事には必ず入り口と出口が無くてはならない、と昔ある作家が書いていた。 この物語に深く入れ込むような人間は、 それゆえに、最後にはこの物語に突き放される必要があったのだ。 じゃないと、いつまでたってもここから抜け出せないから。 * 物事には必ず入口と出口がなくてはならない。 村上春樹『1973年のピンボール』の一文です。 近いことを米津玄師も書いています。 今年の5月16日、LINEブログ「picnic」にて。 * 青春に区切りをつけてきっちり終わらせるような物語は信頼できるが、 風呂敷を畳むのを放棄すれば読者は路頭に迷ってしまう。 幻想の中に人を閉じ込めてはいけない。 ぼんやり疲れる社会の中で、どうやって物語を終わらせて、 どうやって後ろに引き継いでいくか。 そういうのは大事にしたい * 彼らの言葉は間違いなく正しいと思います。 僕たちは「ここ」にいるからです。 その態度は彼らの誠実さの現れでした。 しかし本音を言えば、僕は出口なんて通りたくはなかったのです。 啓太と千草に置いていかれた場所で、そこから出ぬままに、 なんとかして救われてみたかったのです。 そして話は戻ります。 出口を通らない人間の唯一の救済手段が、 「超常現象」であるわけですね。 それは、「ここ」にはありません。 ⑤【社会性のある「超常現象」】 SF性の強化を感じました。 『寄生虫』『覚めるまで』から更に、です。 社会性のある「超常現象」は初めてでしょう。 1冊目3冊目、それから4冊目5冊目は、 その登場人物たちのみが対象となる特権的なものでした。 2冊目と6冊目、7冊目には、 詳細は描かれないなりにそれに関わる「組織」の存在や、 登場人物たち以外にも事例はあるのだということが示されていました。 しかし社会浸透、常識化された「超常現象」はこれまではなかったのです。 この8冊目は違います。常識化された「超常現象」がそこにはありました。 〈義憶〉、その媒介となるナノマシン、脳について……。 科学の進歩、技術開発の水準の塩梅が実にちょうどよいものでした。 彼に言わせれば「今の自分にできる範囲」ということなのでしょうが、 現代との違和感はほぼない中に、 巧みに〈義憶〉という異物が混入され、またそれが自然に浸透しています。 「人間の脳機能の完全解明」「高次脳機能障害への完全な対策」 「エピソード記憶外にも影響を与える〈義憶〉の成立」……、 これらがまだ実現していない世界である、という点が設定上の余白を生み、 ③で語ったような部分以外での作品的魅力を引き出していました。 ところで、『寄生虫』に引き続き、 今回もある程度の専門性を伴う分野が扱われています。 脳、記憶。神経生理心理学と呼ばれる分野です(呼び方色々?)。 これは前回に比べれば、受け手の受容がかなり容易になっていると思います。 記憶という分野はかなり日常性が高く、 テレビ番組などでもしばしば扱われる人気の題材といえるでしょう(テレビ観んけど)。 専門性の伴うそうした情報は、 今回も作品の内容とかなり密に関わっていますし、 やはり彼の中では野崎まど的な「情報への接し方」、 その改革が行われている(いた)のかもしれません。 それにしても、彼の扱う物事(③)と「記憶」とは、 本当に、驚くほど相性がいい組み合わせですね。 少し前までTwitterのプロフィールに「エモキュレーター」 と書かれていましたが(久々に見た実にネットらしい茶目っ気)、 使い殺される前の「エモい」という語の意味と「記憶」との相性は、 まさに抜群の相性の良さだと思います。当然といえば当然ですが。 ……これはいよいよどうでもいい話ですが、 『寄生虫』の漫画を担当されるホタテユウキさんに、 『寄生虫』のための資料をゆずっていましたね。 大変うらやましいです。俺にもくれ、と思います。 ⑥【孤独の背景、孤独の具体】 毎回感じることですが、今回も孤独のための背景が巧みでした。 機能不全の家族、その形が実に多種多様なのです。 〈義憶〉浸りのあの両親についての部分は特に面白く、 導入として〈義憶〉の説明にも大きく役立っています。 現実でもありうる人間の姿に、〈義憶〉が添えられただけ、 とも言えるでしょうか。 あるいは〈義憶〉によって引き出され、強調されただけの面だとも。 なんにせよ家族なんだよな、とは思います。 発達心理学を学んでいくごとに実感していきますが、 やはり家族の存在は、個人の人格形成において非常に大きなものなのでしょう。 (もちろん肯定的意味ではありません)。 ⑦【乙女心の全力投入】 まず踊る男がいます。 男は自分の状況を上手く把握できておらず、 その状況に対する格闘と混乱とをしばしば繰り返しています。 踊らせる女がいます。 女は男を踊らせながら、しかしその実、 こちらはこちらで踊ってしまっているのです。 踊らせているのが自分自身、自分たち自身であることにはなかなか気づけません。 あるいは自覚していてもどうすることもできません。 そしてやがては女のいない男です。 この、二番目の時点が実に愛しいのです。 『三日間』では「小さな願い」で、 『いたいの』では「第9章 そこに愛がありますように」で、 『覚めるまで』では「side ユキ」で。 『電話』でも『寄生虫』でも、それに類する部分はありました。 台詞、手紙、語り手。 台詞も含めれば1冊目でもそうだと言えます。 すべての作品で、乙女心の全力投入部分がありました。 輝くのは女の子の語り手だと思います。 そこでは、「つまりこういうわけだったのさ」という 物語的役割がたびたびこなされています。 そしてそれ以上に、彼女たちの思考回路そのものが好ましいのです。 (SFマガジンのインタビュー記事でも書かれていた、 「照れのない、無責任な本音」の部分です。乙一も近いことをしていました) もしかすると、僕はそこが一番好きなのかもしれません。 だから『いたいの』が今までの最高で、今回それが更新されたのかもしれません。 ⑧【「敬語さん」の登場】 敬語さんは今回もいました。大変喜ばしいことです。 詐欺師呼ばわりをしている灯火と、桐本希美がそうですね。 僕は敬語さんが堪らなく好きなのです。 ミヤギは終始最高でした。 『いたいの』では思い出す前が好きです。 『電話』は千草が好きでした。 非敬語の女の子も魅力的だと思うと同時に、 この傾性はおそらく、幼馴染の不在からくるものかもな、と思います。 幼馴染的親しみより、むしろフィクション寄りの、 適切な距離感を示す言葉遣いの方に惹かれるのです。 擁護しようのない個人趣味ですね。現実の切なさを隠せません。 (それの何が悪い?) | ||||
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結論からいえば、最高でした。本作は今までの三秋さんの過去作を遥かに乗り越えたと自信をもって言えます。 『君の話』は悲しいです。と同時に、美しいです。三秋さんの過去作が読み手に死と恋に関する質問を投げたとしたら、『君の話』は彼の人生観を優しく教えてくれます。彼が描く世界を一緒に描いていくようにしてくれます。彼が心の中に抱いている希望を伝える媒体になります。 三秋さんが『君の話』に彼自身の話を書き込むために一つの単語、一つの表現まで深く悩みながら心掛けて選択したと感じました。 三秋さんは読者たちに、世界のどこかでは必ず自分と合う100パーセントの相手がいると主張しています。それは毎朝電車でよく見るスーツ姿の女かもしれませんし、夜遅く街の裏側で吐き出している酔っ払いかもしれません。学生時代に一目惚れした女の子かもしれませんし、行きつけの店の店員かもしれません。あんな人に出会ったら懐かしい香りがするような気持ちになります。でも一般的な人たちはだいたいそんな信号を無視します。「運命の出会い」って映画や小説の中でしか起こられないもので、現実の人である自分には起こるはずがないものだと考えるからです。しかし「運命の出会い」を心の片隅で信じている人たちは100パーセントの相手とすれ違った瞬間に振り返る勇気を持っています。それで二人の視線が合ったら、その二人の人生は180度変わります。一生にたった一度も会えるか会えないかすら知らない相手を見つけて、一生に一度経験できるかできないかすら知らない奇跡を起こすのです。 正直言って、私もまた「運命の出会い」を信じる人です。思春期から好んで読んできた恋愛小説のせいかもしれません。でも年を取るに従って時々その思いが揺れたこともありました。「私はいつまでも夢のようなものに囚われて、一人で孤独に生き続けるのではないか」「私は現実を直視することが怖くて、無意識のうちに目を背けているのではないか」という疑心を切り捨てることができなかったんです。でも『君の話』はそんな私に救いの手を差し出してくれました。君は間違っていない、君と合う相手はこの世のどこかに確かに存在する、と言ってくれました。もし私の運命の相手を一生会えないとしても、同じ希望を持って生きている人が私一人ではないということは大きな力になりました。三秋さんに感謝の言葉を申し上げたいです。あなたの人生観を私に教えてくださって、救いの手を差し出してくださって、そして肩を貸してくださって本当にありがとうございました、と。 | ||||
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三秋さんの最新作ということで早速読んでみましたが簡潔にいうと、とてもよかったです。明るい話のようで暗い話、暗い話のようで明るい話、優しい嘘にまみれた美しい作品です。これまでの作品に共通するような点がありますがそれはただの焼き写しではなく、わかっていても愛しくなります。 | ||||
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装丁の雰囲気がガラッと変わり、読む前から特別な感じがしていたが、これもまた予想を上回る素晴らしい作品でした。三秋先生本人が「自分の作品にしては良い出来」と評していたように、読む人によっては最高傑作ともいえるのではないでしょうか。少しひねくれているけど、切ない恋を紡ぐのが本当に上手だなと改めて思いました。 少しあとがきが無かったのは残念でしたが、そこは目を瞑ります笑 お金を出して読む価値のある本です。 | ||||
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この話は三秋縋の過去作同様かなり人を選ぶ作品です。 人によっては読んだことをかなり後悔するのではないのでしょうか? この物語は孤独を知る2人の2人のためだけの話です。 ただもしあなたがもしこの<君の話>とある種の親和性を持つ人間ならば、この話はフィクションを超えて<ヒロイン><ヒーロー>同様の呪いを貴方に掛けるでしょう。 | ||||
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価値観と呼ばれる何かが多様化してるらしい。もしそうだとしたら「孤独」の種類も百味ビーンズみたいにたくさん用意されてるのかもしれないね。 だとしても本著は「ある種の孤独」を残酷なくらい鮮明に描きだしてると思うよ。 自分の生き方に対して悩んでいて、【アドバイス】よりも【赦し】を求めてる人なんかにオススメしたいな。 | ||||
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この作品を読んだら後悔する、かもしれない。 「素行や性格に問題のある子供」・「自殺未遂を繰り返していた麻薬中毒者」に対する〈グレートマザー〉・〈スピリチュアル〉(作中に登場する記憶改変用ナノロボット)のような、ある種の親和性が「読者」と〈君の話〉の間で生じた場合において、この作品は小説というフィクションの枠を超えて、ノン・フィクションを生きる我々「読者」に一種のウイルスを感染させ得る。 “ひとたびウイルスが発症すると、感染者はこの世界のどこかに〈ヒロイン〉(あるいは〈ヒーロー〉)がいるという幻想に取り憑かれる。今まで自分が手に入れてきたものは全部偽物で、どこかにある本物を手に入れない限り永久に幸せになれないという感覚を常に抱き続けることになる。” | ||||
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読む手が止まりませんでした。登場人物と年齢が近く、より感情移入ができたからかもしれません。 夏の日の、切なくも幸せな物語。 ぜひ、今の季節に読んで欲しい1冊です | ||||
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私は人間不信、女性不信です。それでありながら心のどこかで運命の人がいるんじゃないか 心の中ではそう思ってしまうことがあります。どれだけ辛い思いをしてもやはり思ってしまうものです。 今回のストーリーは今までの作品でいうといたいのいたいの、とんでゆけに似ています。 似ているといっても雰囲気というか、例えるのが難しいですが読んでいただければわかると思います。 ここ数年は涙を流す事、泣こうと思う事すらできませんでしたが、この作品を読んで当時を思い出し、目が潤みました。 小説を読んでいるという自覚があるから泣くことはできませんでしたが、 この話を記憶として思い出そうとしたとき、きっと自分は泣いてしまうと思います。 | ||||
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