太陽を曳く馬
評判
太陽を曳く馬の評価:
3.76/5点 レビュー 49件。 C ランク
Amazonレビュー一覧
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全33件 21〜33 2/2ページ
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太陽を曳く馬の評価:
3.76/5点 レビュー 49件。 C ランク
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それは、かの時点の最高傑作『マークスの山』での、宿命の連続殺人犯マークスではなく、狡知なる教唆の弁護士林原に孕まれていたものだ。またあの時の最高傑作『照柿』における、合田の幼馴染の殺人者野田ではなく、殺人容疑者にとどまる博奕狂いの労務者土井がはなっていた謎と通じている。解明不可能な、了解不可能な、さらにいえば思念も知覚も頓挫する、そんな臨界への誘いである。それをどう描けばよいのか、描いてしまっては嘘になるそれを。
不思量底如何思量。『太陽を曳く馬』でこの問答が引かれている。坐禅においてなにを思念するのか。思念しないことだ。思念しないことを(認識に歪まぬあるがまま)をこの身でどう思念したかは、思量=不思量がどう可能かは、只管打坐の坐相(如何)にしかない。正しき坐禅にただただうちこむのみ。
てんかんの発作をもち元オウム信者であった末永は、その坐禅にうちこんだ。正確にいえば、それを越えようとした。坐禅が如何思量という往還を約したものであったのを、ひたすら不思量底をめざした。歩くアラヤ識と自称し、意識の奈落を、身をもって見ようとした。
そのトラックとの衝突死の真相を、捜査一課第二特殊犯捜査第4係長合田は命じられる。捜査は末永が属した、政界や財界とつながって赤坂の一等地を占める宗教法人永劫寺の、別院僧堂の錯綜とした人間関係を解き、宗旨の坐禅の精神と、さらにオウム真理教の思想と、末永一個のそれとの差異、深浅を詳らかにし、かつ末永の精神状態を探るものとなる。それらを総合して法的にどう判断するか。だが尋問(言語化)してゆくなかで、言語化しえないものにどうむきあうのかという難問につきあたる。そのとき物理的な衝突死は、どうじに意識の奈落への墜落死のごときものと変じる。
かように職務を越えた行為になぜ合田は踏みだしたのか。なぜかれは「否!」「如何」と問いつづけたのか。
冒頭から合田は宙づりの実存的感覚、正確にいえば墜落途上の感覚にとらえられている。たえず虚空を仰ぎ、足下を見る。冒頭が高層ビルの場面であるのが象徴していよう。落下する雨粒になぶられるのが、さらに何度も傘をなくすのが示唆していよう。その冒頭で伝えられるのが、福澤秋道の絞首刑という二・四メートルの墜落死であった。さらにその想起のむこうにあるのが、想像を絶して了解不可能な、了解することを意志もち拒絶しているような、アモラルな、もうひとつの四百メートルの墜落死。
「如何」は刑事合田を貫き、「おまえ」への実存的問いとなって迫るのだ。(下巻レビューへ)