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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全563件 481~500 25/29ページ
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村上春樹の小説は全て読んでいるけど、 読んでいて「涙」が出たのは初めてです。 ネタばれしないように感想を書くのは難しいけれど、 個人的には好きな作品です。 | ||||
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本作は3.11を経た「国境の南」ではないかと思いました。底流にあるのは「それでも生きていく」であり、「ノルウェイ」や「国境」ではうつむきがちだった生への肯定が、「多崎つくる」では顔を上げて受け入れていく姿勢に変わっているように感じます。ミステリのような合理的な謎解きはありませんが、誰の人生にもさまざまな形で起こりうることを、色彩を持った登場人物たちが提示していきます。沙羅はイタリア語の「知る」という言葉の未来形=多崎つくるを先導する役割‥‥というのはうがちすぎでしょうかね。「カフカ」や「1Q84」路線が苦手な人には、すっと入ってくる作品だと思います。そして未曾有の災害を経た日本人への応援でもあると思います。 | ||||
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なぜこうも村上春樹の作品に惹かれるのだろうか。 ずっと理由をうまく言葉にできなかった。 ただただ好き、たまらなく。で、いいと思っていた。 今回、この作品を読んでいて、ふと思いついた言葉がある。 少数派。 多分、村上春樹も、私も、多崎つくるも、少数派の人間なんじゃないかな・・・。 少数派だけど、真面目に人に迷惑かけずに日々生きています。 | ||||
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村上春樹のデビューから一貫したテーマである「喪失」と「再生」。 これに新たなラインナップが加わった。 われわれは、好むと好まざるに関係なく、ある種の行動規範の強制的な変更を強いられてきた。 古くは、第二次世界大戦の戦前と戦後。 70年代は、学生運動の理想と終焉。 80年代は、バブルの崩壊。 それらは、人間の性(さが)によるもので、われわれが責任を負うべきいたしかたない面があった。 次のステップに進むために、運命的に仕組まれたものと考えても納得できる。 しかし、今回の震災は、いかんともしがたい厳しい仕打ちである。 時代を切り拓くために、何かを捨て、もしくは失い、リニューアルすることは、われわれが常に歴史上行ってきた事柄なのかもしれない。 たしかに、個人のレベルでは、それが容易にできる人とそうでない人がいると思う。 しかしいずれにせよ、「過去に蓋をすることができても、歴史を変えることはできない」のだから、向き合って行かなくてはならないのだ。 これまでの作品での「喪失」は一人称の「喪失」であった。 きわめて個人的な、成長過程での喪失と「再生」である。 これが、三人称となると、普遍化する。 自分では訳も分からないままに、全てを失った人間が、どのように過去と向き合いながら「リニューアル」していくか。 そこに答えはないにしろ、一つの方法論を提示されたような気がする。 そう、「まず、駅をこしらえるのだ」。 | ||||
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この作品の中で繰り返し言及されるリストの「La mal du pays」というピアノ曲は、静けさの中にかすかに悲痛な叫びを聞き取れるような曲です。 作品の終わり近くになって、主人公は、かっての友人の一人と話すうち、次のような思いに捕らわれます。 「人の心は痛みと痛みによって繋がっている。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を流さない許しはなく、喪失を通り抜けない受容はない」 たいていの人は、最愛の人を喪うという経験を必ずします。例えば、親を亡くしたり、恋人や友人を失ったりというのは極めて普遍的な経験です。しかし、それを乗り越えるのは難しいし、その乗り越え方は多様です。村上春樹はそのような喪失と回復を繰り返し描いていますが、この作品は極めてダイレクトに、喪失そのものを受容すべきものとして描いています。かっての友人の不幸な死は、決して肯定はできないが、受容せざるを得ないのです。そのような普遍的な真実を、具体的な物語として何度も描いてきた作者に感謝します。 | ||||
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著者の文学的な達成と成長をささやかに(しかし芳醇に)匂わせる、硬く小さな果実のような作品だと思いました。 さほどヴォリュームもなければ、物語に劇的な起伏もありません。驚かせるような新機軸も手の込んだ仕掛けもなく、読者をはっとさせるような荒唐無稽なエピソード、著者独特のアイロニーとユーモアに富んだ比喩、洒落た小道具も(比較的)少ないと言えるでしょう。 プロットを細かく設定せず、手なり(手の赴くままに)で書かれたような作風は、これまでの著者の長編作品の中においても、ひときわに強く感じます。しかしそれらの要素は熟達した水泳選手が到達地点をしっかと見定め――あとは水の流れにすっかり身をまかせきって泳いでいるようなシンプルかつ流麗な流れとなって、このミニマムな作品を傑作たらしめているように思います。 今作の主題を「赦しと再生(への理解)」などと、安易に言ってしまうことは容易いのかもしれません。しかし、(仮設された)そのような古典的かつ普遍的な主題の下、「多崎つくる」の物語は、闇の中をひっそりと流れる小川のように淀みなく――畏れるべき神秘(あるいは神秘的な何か)の存在への畏敬を随所に感じさせながら――リアリスティックに、ユニークに進行し――やがて来たるべき結末を迎えます。 読後、「多崎つくる」の凍てついた心と身体を静かに、じわじわと暖めてくれていた小さな炎の存在。それが読者である私自身にも「フィジカルな効用」をもたらしてくれていることに気づき、驚きと感謝の吐息を漏らしました。 ※余談ですが、著者はレイモンド・チャンドラー「プレイバック」を訳しながらこの作品を書き上げたのではないでしょうか。読みながら、ところどころでそのように感じました。そう遠くないうちに早川書房から村上訳「プレイバック」が発売されることに1ヶ月ぶんの給料を賭けようと思います(笑)。 | ||||
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村上さんの作品は、”幾何学”から”トポロジー”、”多次元”に変化してきたと思います。それと同時に徐々に、社会にコミットメントするように変化してきています。 この小説は「1Q84」に続き、すごく構築的な多次元世界をつくるために、ほぼ全てがメタファーと記号になっていて、その意味を固定化させないために、ものすごく平滑な表現になっています。だからすごく読みやすいし、意味不明と読まれてしまう部分もあるように思います。 ある目的(言いたいこと)に向けて描いているのではなく、この小説の構造が目的になっていると思います。 いろいろな部分がいろいろな形でつながります。 この小説は「ノルウェーの森」などとは違い、”今”を観察し分析した小説だと思います。だからこの小説がおもしろくないなら、”今”がおもしろくないのだと思います。 少し違和感があるのは、”ネット”で良さそうなところを”ツイッター”や”フェイスブック”、”グーグル”という単語を使っていたところです。これも記号なのだろうけど。。。 | ||||
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大作と大作の間の「箸休め」のような作品である。 ここではノモンハンも出てこないし、 カルト教団も出てこない。 16年という時間の経過は描かれるが、 月が二つある世界は描かれず、 基本はリアリスティックな物語である。 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、 できが悪くはないが、傑作というわけでもない。 ここには「風の歌を聴け」から今に至る、 欠落の回復を目指す旅、というモチーフが踏襲されている。 構造のシンプルさといい、 初期作品に帰った、と言ったほうがいいかもしれない。 何度も書かれた旅。 今回の旅も含めて、それを「巡礼」という言葉で語り直している、 という印象を受けた。 この小説には、 古い村上春樹ファンにとって、 ホッとさせるモチーフが数多く描かれる。 既視感が多い、 とも言える。 またかよ、 と言いたいような気もする。 しかし、 だからダメだ、とは思えないのだ。 村上春樹自身はどう思っているのだろう。 自己模倣だとは思っていないだろうか。 [・・・] | ||||
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「心の整理がつかないまま放置されている思い出がある」人にオススメします! 主人公の多崎つくるは 仲の良い高校の友人4人からいきなり絶縁され傷ついた経験があり、 36歳になった現在、理由を確認するために、彼らを”巡礼する”物語です。 村上春樹はよく分からないと思っている方も多いかもしれませんが、 パラレルワールドや不思議な世界に向かわないので、とても読みやすい作品です。 私自身は海辺のカフカのような作品が好きなので☆を-1しました。 社会生活は問題ないものの、「心の整理がつかないまま放置されている思い出がある」ことは 決して遠い問題でなく、だからこそ、誰もが主人公の心に引き込ます。 そして、過去の友人と会い、心の整理をしていく過程を読み進めると、 今をがむしゃらに生きるだけでなく、時に立ち止まって対話することの重要さを感じます。 私自身、今だからこそ話せることがありそうな気がして、 読んだ後、意味もなく、高校時代の友達に電話してしまいました。 ちなみに、タイトルに入っている「巡礼の年」は 作品のモチーフに使われている、リストのピアノ曲のタイトルです。 とても旋律が美しい曲なので、本と併せて、オススメします☆ | ||||
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村上春樹さんの作品では、ファンタジー色の強いものと、より現実感の強いものがあるように感じます。前者が『1Q84』や『世界の終わりと…』、後者が『ノルウェイの森』。本作は後者に属するように思いますし、読んでいて『国境の南、太陽の西』を思い出すところもありました。個人的には、前者の方が圧倒的に好きなんで、そういった意味では若干の期待外れではあったのですけれど、一気に読み進めさせられてしまう魅力は健在。出来たら、もっと短いサイクルで新作を発表していただきたい、というのが一ファンとして切なる願いです。 | ||||
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真空とはなにもない状態ではなく、その物理系の最低エネルギー状態として定義される。たとえば電子と陽電子が生成と消滅を繰り返している状態。村上春樹の小説の主人公はいつも真空をかかえて登場します。からっぽに見える人格は真空よりもエネルギ−準位の高いどんな外界のエネルギ−も吸収してしまう。自分では気づかず人々の尖った余計なものを吸収する、人々になにか安心感を与える、ように登場してくる。今回の主人公「つくる」もその一人である。そして、真空が壊れて別のなにかに満たされることができるかどうか、という甦生の物語である。「色彩を持たない、多崎つくると、彼の巡礼の年」。 いつものように、スリリングな暗喩の数々がはじめから炸裂している。「壁にもたれて死について、あるいは生の欠落について思いを巡らせた。彼の前には暗い闇が大きく口を開け、地球の芯にまでまっすぐ通じていた。・・聞こえるのは鼓膜を圧迫する深い沈黙たった。」 なにかが真空の中にしのびよりそのエネルギ−バランスを壊し始めた。 真空の別名でしょうか、深くて遠い疎外感、を補強するための挿話がこの小説でも語られる。人々のもつ色を見分ける能力をもつ人たち、昔主人公の友人だった人たちの現在、娯楽映画MATRIXの有名な言葉のパロディ。"Welcome to the real world"、リアルワ−ルド、リアルライフとはなにか? この小説を引っ張る音楽は今回はリストの巡礼の年第一年スイス。前作で小説のリズムを刻んだヤナ−チェクのシンフォニエッタは小説1Q84の販売とともに店頭からCDが消えたという。今回もそうでしょう。ベルマン演奏。 P343、「あるとき」は「あのとき」の誤植ではないでしようか? そうならば クライマッスでの一文字の誤植は興ざめ。総じて、村上春樹のこれまでのモチ−フの集大成です。 | ||||
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32歳、女です。 今回の新作の発売で印象深かったのは、世間のミーハーな人たちがぜんぜん食いついていなかったことです。前作の1Q84の時は、村上春樹作品を読んだこともないような人が、ベストセラーだからとか、ノーベル賞候補だからとか、すごく売れてるからとか、意味深な出版社の売り方が目立っていてとにかく買ってみたとか、とりあえず買っとけば知的ぶれるとかいう輩が多かったと思います。そういう人たちは、途中で読むのを放棄した人が大半ではないでしょうか? 読んでも理解できない人が大半だと思います。村上作品は大衆文学ではない。読み捨てされるような作品ではありません。 ファンにとっては、とても個人的で大切な作品です。 だから今回の売り方は、とても好感をもてました。一気に読みましたが、孤独感、人と深くかかわることで得られるものや失ってしまったこと、色を持つということなど、読後も心の中に残っています。 つくるの孤独感の描写がよかったです。以前、心の闇という言葉を簡単に使われたくないと、春樹氏が言っていらっしゃったと思いますが、不気味な闇を感じました。これは心の闇なのでしょうか? 主人公はとても好きです。村上作品らしい主人公です。春樹氏に似ているのか? わたしに似ているところもあるのかもしれない。 もう少し深く人物のことが知りたかったかなと思います。心に迫るフレーズ、感動が欲しかった。けれど、この読後感こそ春樹作品の醍醐味かもしれない。 別に、春樹氏は、わかりやすい感動や、お涙ちょうだいを狙っているわけではないのだから。春樹氏が伝えたいこととはなんだろう。 もしかしたら、この作品にメッセージはないのかもしれない。春樹氏が生み出した作品は、確かに私の心をゆさぶり、話の世界へと連れていった。そして読んだ後も、今も考えている。 それでいいと思う。 | ||||
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他の方が仰っているように、ある意味村上氏のこれまでの仕事のラップアップみたいな感じを抱きます。最近の長編化傾向に若干面倒さを感じていたところですし、私は好感持ちました。他方、大事な人を失い、再度生きることを立て直すという、青春期的で明確な喪失感と再生の物語だけではなく、高村薫氏的な、中年が磨り減っていく喪失感や、再生もへったくれもない袋小路感を、この村上氏が書き始めたらどんな作品になるのだろうという期待も、読者になって25年、そろそろしてしまいます。 | ||||
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発売前から異常に盛り上がっているので、もしアフターダークのような小説だったら、かなりバッシングを受けるだろう、と心配していたのだが、思ったより普通の小説なので胸をなでおろした。珍しく村上春樹は明確な主張を明示してるのに、この本に戸惑う人が多いようだ。 村上春樹の小説は料理的であり音楽的であると思う。レストランの客は美味しければいいのであって、新しい料理じゃないから怒る人はいない。またコンサートを聴きにきた人には感動する演奏すれば優れた音楽家であり、今迄にない曲を書けないから二流の音楽家だという事はない。音は昔からあっても音の響きは自分しか出せないものを作りたいとエッセイにあった。 この小説は東日本大震災で喧伝される事になった絆について書かれてると思う。表面的な繋がりでなく真の絆とは何かが書かれている気がする。それに同意出来るかどうかは別にして。 それにしても登場人物の家族の話が多くて驚いた。初期の頃は主人公の家族すら殆ど書かれてなかったのに。家族が隠れたテーマかもしれない。 | ||||
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読み始めてすぐに、 ジョナサン・キャロルの「黒いカクテル」を思い出しました。 「黒いカクテル」は、 人の魂は神によって5つに分けられている 5人が揃って完全体になると、色のある光を放つ という設定のダークファンタジーで、悪意に満ちた作品です。 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」と 「黒いカクテル」には、 主人公は30代男性 主要登場人物は男3人女2人の5人組 高校時代の人間関係が彼らの人生に決定的な影響を及ぼしている 人(あるいは5人1組の人)は色を持っている などの共通点があります。 また、どちらの作品でも、 人間の指はなぜ5本なのかということを、 登場人物がことさら言及しているシーンがあり、 これも印象的でした。 | ||||
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本作のこれまで作品との決定的な相違点は、主人公が職業を得て、その職業が仮のものでなく天職だという点にある。これまでの主人公も職業に就いてないことはなかったが、その職業は便宜的に設定され、ほぼ形骸化していた。主人公は、たとえば予備校講師にしろ、学校の教師にしろ、一応職業に就いてはいたものの、その職業に大して関心を持つことができずにいるし、その所属する組織なり共同体に本質的には所属することができずにいる。村上春樹の物語は、そもそもその所属することへの不可能性、違和感が推進力として作用してきたわけだが、本作の主人公多崎つくるは、駅をつくるという職業を、天職として、それ以外にはあり得ないものとして保有し、また、その職業として必要不可欠な組織上の関係をそれなりに健全に全うしている(全うしようとしている)。 ここでポイントになるのは多崎つくるの「駅をつくる」という職業だが、村上春樹がその職業に暗喩として込めた意味を読み取るとすれば、それは、村上春樹における「小説を書く」という職業を寓意してると読み取るのが、素直な読み方だろう。 「駅」が、目的地へ人を運ぶために必要不可欠だという合目的的存在であること、あるいは建造物としての個性が必要以上に求められない(駅という機能を最優先する必要がある)点、なによりターミナルとして交通を整理する点、駅という存在は、思考において小説の果たす役割をかなり率直に比喩している。 そういう理解で物語を理解しようとすれば、本作は「多崎つくるの巡礼」にまつわる物語でありつつ、ある意味では「村上春樹の巡礼」の物語として読むことも可能だ。 そのことは、主人公多崎つくるが、ある日とても仲のよかった友人達に、一方的に理不尽に関係を切られるというプロットからも読み取れる。村上春樹は「風の詩を聴け」でデビューし「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」と完成度の高い3作品を上梓するが、芥川賞の選考ではほとんど箸にも棒にもかからず、その後、彼の代表作となってしまう「ノルウェーの森」では、要約すれば「チープで悲劇的で気取ったリアリズム小説」として、大々的に批判され、決定的に日本の文壇から疎外されてしまう。彼は、文壇に一切関与しようとしなかったが、あるいはそれが一因ともなって、当時の文壇関係者に徹底的批判される。それは、本作において理不尽に一方的に関係を切られる多崎つくるの置かれた心境に、重ねて読むことが難しくない。(このときの心境は、例えば「考える人」2010年夏号のインタビューに詳しい)知っての通り、村上春樹は批評的な側面においては、世界的な評価を得て日本に返り咲いた作家だ。 つまり多崎つくるの物語は、ある時期の村上春樹の物語として読むことができるのだ。 ネタバレを含んでしまうので、これ以上本作とこれまでの作品との相違は明示しないが、本作における多崎つくるの問題との対峙の仕方は、これまでの村上春樹作品が有することのなかった、力強いポジティヴィティを有している。 「神のこども達はみな踊る」は、村上春樹にとってターニングポイントを迎えた作品だったが、そういった視点において、本作はもうひとつのターニングポイントとなる作品ということもできそうだ。 「神の・・・」以降の作品で、彼は「責任」について言及し、社会にコミットすることを問うてきたが、本作では「責任」ではなく「意思」によって社会に関与し、そのために自分を変革することを模索している。変われない自分に諦念しながら「やれやれ」などと社会を呪ったりしてはいない。多崎つくるは、幾人かの友人に支えられて、自らの意思によって、社会にしがみつこうとする。 それは、今までにない突き抜け方だ。 色彩を持たず、仲間はずれになった多崎つくるは、いかにして自分と向き合い、自分を、色彩を取り戻すのか。その、過程には現代人が普遍的に見失いつつある、魂の葛藤が描かれている。 | ||||
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主人公である多崎つくるが、人生のある一点を経てから、「自分の本当の気持ち」に蓋をして生きるようになる。蓋をしている間は、主人公自身、そのことに気付かない。 しかし、ある女性との出会いをきっかけに、蓋をしている自分の姿に気が付いた。 そうして彼の「巡礼の旅」が始まる。旅に出るのは、主人公自身が望み選んだことだ。旅の行く先は、ネタバレになるので本書を読んで確かめてほしい。後悔はしないはずである。いや、しないでほしいというのがレビュアーの希望だ。 | ||||
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この作家の、人と人との繋がり方、男女の繋がり方が 自分自身には極めてリアルで、苦しいような感情に流されるように 読みました。 個人個人の生は、かけがいのないものであるけれど、 絶対的な孤独を抱えながら繋がろうとするそのこと自体から、 人生や世界とのかかわりの真実が現れてくると感じました。 大文字の言葉から小文字を見るのではなく、 小文字の生きていく軌跡から大文字の真実を浮かび上がらせていく。 恋愛をするとき、男性はこのように行動し、女性はこのように言葉を選び行動する。 そのリアルさにどんな恋愛小説よりも震撼した。 この作家は、やはり只者ではない。 唯一の存在である。 ドストエフスキーのような作品を書きたいというその思いが、 この時代とシンクロして、朧に形を現していく。 スリリングな作家と作品である。 | ||||
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しかし、これは不吉な作品である。 「1Q84」をbook3まで読んだとき、私は何故か三島由紀夫の「豊饒の海」が連想されてならなかった。したがって、もしbook4が発売されるならば、それは聖書的世界に、さらに日本性を強く打ちこんだものになるだろうとも思った。 その予感は、ある意味当たったと言えると思う。 現代日本に生きる我々は、仏教とキリスト教に挟み撃ちされて生きている。 ・・・しかし、春樹氏の場合、(出生のためなのか?)理由はよくわからないけれども、 この作品で、無意識に仏教世界への回帰を果たしているように思える。 そこにはもはや、現代文学が問題とするビルドゥンスクと言ったような問題は、存在しないかのようにすら思える。 ただ、人は人として、ものはものとして、性は性としてそこにあるだけなのだった。 もし、読者が赤、青、白、黒、そして沙羅の仏教的意味合いを解読できないのであれば、この作品の面白さはわからないだろうと思う。 この作品は、ミステリーとしては不十分と言うか破綻しているけれども、そもそも日本において、ミステリーとはなんぞや?とすら思わせる「怪談」なのである。 が、ただよくない予感がするのは、才能に疲れたピアニスト緑川が、「あと1か月の命だ」とはっきり予告するくだりと、最後に沙羅に去られた(?)主人公が死を思うシーンである。 この「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」が、村上春樹のスワン・ソングとならないよう心から祈る。 | ||||
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『国境の南、太陽の西』や『ノルウェイの森』の路線に連なる、リアリズム小説で、おそらく『1Q84』で非リアリズム方向にかなり傾いた彼の意識を揺り戻すために書かれたような気もする。そういう意味では、初めて村上作品を読む人にとっては非常に読み易いかもしれないし、単純に感動して涙(過去作品で流し得る涙とは別種の)を流すような読者ありうる作品だろう。ただし、この本でファンになったところで『ねじ巻き鳥』で井戸に放り込まれて行き場を失うだろうが・・・。 確かに、初期4部作ファンも、ねじまき・世界の終わり・カフカ系統のファンも、期待を裏切られる形にはなるとは思うが、あくまでも小説は書かれた瞬間に小説家からは独立したものだとするのならば、この小説は優れた小説だと断言して良いと思う。 ただ、これだけ注目され、騒がれ、過去に大量の傑作があることによって、妙な先入観が入り、純粋に作品単体を評価できなくなっている読者は多いだろう。 しかし、少なくともこの小説で表現されていることは、3.11以降の日本、あるいはグローバル化・価値観が多様化し、混迷化する世界の中で我々自身の心に「駅(=ターミナル)」を「つくる」必要があるということだろう。少なくとも私はそう読んだ。 | ||||
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