赫夜
- 遊女 (56)
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澤田瞳子の新作が「富士山噴火を題材にした災害もの」と聞いて「おお、それは迫力がありそうな」と期待したのは一瞬で「ただし舞台は平安初期」と知らされて「何じゃそら」と。災害パニックものといったら「崩壊する近代都市」とか「インフラを失って途方に暮れる現代人」みたいなものを出してナンボじゃないのかと。 物語の舞台は延暦19年(西暦800年)。都が平城京から長岡京を経て平安京に移されて間もない時代。中臣家の家人、要するに賎民で道具的な身分である主人公の鷹取が主が駿河の国に赴任する事になり、そのお供として自身も駿河へ向かう事になった事を嘆いている場面から始まる。 鷹取の愚痴を聞かされる羽目になったのはかつては同じ家人の身分だったが、機会を得て良戸(自由民)の身となった小黒。鷹取を励まそうとする小黒であったが、捻くれた鷹取は自分が賎民のままで小黒は好きな所に住める身分となった事まで持ちだしてネチネチと嫌味を並べる始末。 嫌々ながら駿河に向かった鷹取であったけど、大井川で主の馬を引いて渡ろうとしたら馬の扱いをしくじり馬ともども溺れかける事に。危うく死にかけた鷹取を救ったのは安久利という馬を自在に操る奇妙な少女であった。着任早々に失態を演じた鷹取は主からこっぴどく叱られた挙句に馬小屋での生活を命じられ、駿河での生活は早くも気鬱なものに。 そんなある日、地震に驚いた馬を逃してしまった事で更に東にある岡野という官牧へと向かい新たな馬を入手する事を命じられた鷹取だったが、岡野牧で再開したのは大井川で自分を助けてくれた安久利であった。「国衙へ馬を連れて帰るお前たちの馬の扱いを確かめさせてもらう」という条件が突き付けられ岡野牧の下働きを命じられる鷹取。 しぶしぶ働き始めた鷹取はある日草を刈る刃を折ってしまい近くにある相模と甲斐へ向かう官道の毛ss津店・横走駅の鍛冶屋に赴く事に。冴えない毎日の気晴らしにと賑わう横走へと向かった鷹取だったが、その目の前で起きたのは山体から巨大な煙を吐き出す富士の御山と続いて襲ってきた轟音、激しい稲妻であった。近くにいた老婆から「山焼けだ」と知らされた鷹取は慌てて逃げ出そうとするが…… んー……作者的には富士山の噴火という災害を通じて描く賎民の身から抜け出せない事で世を拗ねてしまった男の成長物語だったのかもしれないけど、個人的にはやっぱり本作は「災害もの」かな、と。むしろ現代とは相通ずる部分が少ない平安時代初期を舞台にしたからこそ現代にも通じる部分が、つまり災害の本質みたいな部分を浮き彫りにした作品になっていたのではと思われた。 確かに主人公の鷹取は本編を通じて成長しているのは間違いない。冒頭で自由民の身分を手に入れたかつての同輩を相手に我が身の不幸を愚痴愚痴と恨みがましく嘆いていた姿と、ラストシーンで賎民にも自由民にも流浪の民にも、それこそ征夷大将軍にも与えられた自分の人生を全うする事こそが全てだと納得する姿の間には大きな開きがある。 災害や戦争という個人の力ではどうにもならない巨大な禍の中にあっては身分の差など大して意味は持たないのだという主張にも頷ける部分は多分にある……だけど、そこは程度の問題というものが絡んでくる訳で被災地であるかどうか、政治的な権力との距離が近い立場にあるかどうかで同じ災害に対する認識や復興に対する思惑もまるで違ってくる。 その差みたいな物が時代は違えども変わらない、場合によっては現代にも通じる「災害の本質」みたいな部分じゃ無いのかと思われたし、何となれば本作の裏テーマとして仕掛けてあったのじゃないだろうか? 本作で描かれる富士山の噴火なのだけど恐ろしいのは噴火直後に襲ってくる噴石や焼けた灰だけに留まらない。時間が経つにつれて降り積もった火山灰が雨とともに泥流へと変じて富士の麓に点在する駅(要するに宿場町みたいなもの)や村を容赦なく押し潰す事に(ご年配の読者であれば1985年のネバド・デル・ルイス火山の噴火や瓦礫に挟まれたまま水の底へ沈んでいった少女オマイラ・サンチェスの姿を思い出す方もいらっしゃるんじゃないだろうか?) 当然少しでも無事な里は、例えば本作の主な舞台となる岡野牧(現在の沼津市北部あたり)なんかは避難民を受け入れねばならないけど、生業である馬の飼育も牧場が灰で覆われてしまえば馬に食わせる草も無くなり立ち行かなくなる始末。それではと近くにある(といっても甲斐の国だけど)水市牧に大切な馬を預けたら今度はそこが溶岩流に襲われたりするのだから泣きっ面に蜂とはまさにこの事。 こうなれば人間脆いもので一致団結して災害に立ち向かうどころか同じ避難民でありながら里の戸籍に名を連ねない流浪の民である遊女なんかには辛く当たる人間が出てきたりする。この辺り近年では関東大震災における朝鮮人虐殺が発生した経緯などを想えば災害時におけるマイノリティの立場という部分では大いに重なる所があるかと。 が、被災者の身に起きる不幸はこれだけに留まらない。生活がにっちもさっちも立ち行かなくなれば平時には軽くない税を納めている支配層が助けを寄越す筈だと藁にもすがる思いで公権力を頼るのだけど、京の都から届いたのは救援の米じゃなく「征夷大将軍様が陸奥の地で蝦夷と戦うから弓矢を作って納めろ」という追い打ちなのだから笑えない。 歴史の教科書では確かにこの桓武天皇の御代に坂上田村麻呂が蝦夷の首領である阿弖流為を相手に戦い、奥州を平定したという記述ばかりが残るのだけどもその裏ではこんな踏んだり蹴ったりの被災民たちがいた事は記録にさっぱり残されないのである。 そこで再び被災民たちが一致団結し、朝廷に、あるいはその出先機関である駿河国衙に抗議しようと立ち上がれば救われるのだけど人間どうしようもないものでマイノリティに辛く当たるどころか自分たちの故郷を復興するかまた別天地を探すかで仲間割れを起こし始めるのだから目も当てられない。 しかもこの仲間割れを公権力が宥めるかと思えば、まさに権力者というのはこういった諸民の間での揉め事や分断に付け入ってくるのである。仲間割れを始めた地元民を前にオロオロするだけの鷹取たちをよそに駿河の国衙から提案されたのは「平定した奥州を開拓する必要があるので入植民にならないか?」という話。 もうね、歴史の裏面で何度このパターンが繰り返されたか分からない。北海道であれ、満州であれ、ブラジルであれ災害や人口増で食い詰めた人間が出てくると必ず権力者は「豊かな新天地」を示して移住を提案してくる。提案はしてくるが決断は当然「自己責任」であり食い詰め者が旅立てば「あとは自分の力で何とかしてね」と知らんぷり……要するに棄民政策である。 貧しい頃の日本であればいざしらず、そんな事は現代では置き得ないのではと思う方もいらっしゃるかもしれないけど、原発事故が起きた福島では地元に残って風病被害に曝されながら故郷を再興しようとする人と「この土地はもう駄目だ」と自主避難という形で地元を離れた方の間に分断が生じ、はたまた奥能登では「こんな土地を復興しても『コスパ』が宜しく無いから諦めろ」と外野から見捨てる様な言葉を投げ掛ける手合いが後を絶たない事をご存じの方もいるだろう。 要するに時代を隔てても何一つ災害がもたらすものは変わっちゃいないのである。 終盤でそれまで駿河と相模を結ぶ足柄峠ルートが閉鎖され、変わって箱根が開削される場面が描かれるのだが、これが地元民の救済の為どころか阿弖流為を都へ連行する坂上田村麻呂をお迎えしようとする駿河国司の阿りの為に行われるのだから徹底している。苦しむ被災地の民を放棄してやれオリンピックだ万博だと自分たちの利に繋がるお祭り騒ぎに興じる今日の政治家たちと何の違いがあるのかと……読めば読むほど現代と重なる部分が浮き彫りとなってゲンナリさせられた次第。 読む前は「災害の怖さなんて読者の生きる現代社会を舞台にしないと小説で描いてもピンと来ないのじゃなかろうか?」と不安になったのだが、時代を隔てているからこそ現代と変わらぬ部分が次から次に浮かび上がって辛くなる事もあるのだとページを捲るほどに思い知らされた様な気がした。 このレビューを投稿するのは9月1日、防災の日なのだけれども「苛政は災害よりも猛なり」という言葉を思い浮かべてしまう、そんな読書経験であった事はここに記録しておく。 | ||||
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すごいっ、全冊が澤田瞳子さん直筆サイン入り本。 800年(延暦19年)とその2年後の富士ノ御山、山焼け。 ”巨大な雲、紫の輝き、刻々と蠢く赤気”が迫る。 ”災いは人を選ばない。この世とは畢竟、賤民と良戸の区別なぞ、何の意味もない”と。 ”赫夜を切り開き、かそけき輝きに、ただひたすらに今この瞬間を懸命に生き続けるべきだ”と力説する。 | ||||
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