ザ・ガールズ
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マンソンファミリーについて調べていたら、この小説がちらほら記事等で紹介されるので注文。 マンソンファミリーを元ネタにしたコミューンは出てくるものの主軸となるのは、女の子の自意識や不安である。 1969年。主人公のイーヴィーは、両親の離婚、離婚によって恋愛と自然食に傾倒する母親、秘書との情事と投資にばかり夢中な父親の間で疎外感を抱き、さらに幼なじみとの関係もうまくいかなくなり、居心地の悪い日々を送っていた。 そんな中、イーヴィーはおんぼろスクールバスに乗り、ゴミを漁る一員に出会う。その中で一際輝いている蠱惑的な美少女、スザンヌと仲良くなることでイーヴィーの生活はがらりと変わり、ある事件に加担しかけるも、スザンヌから仲間はずれにされたことで辛くも事件の加害者にならずに済む。00年代後半、老いたイーヴィーがその出来事を回想するそんな物語。 正直、マンソンファミリーを元ネタにしたカルトコミューンについての描写は薄い。例えるならアイスにトッピングされたナッツやアラザン程度だ。主軸となるのは、思春期の女の子、特に家庭環境の軸がぶれていたり、友達とうまくいっていない女の子が抱く疎外感やよるべなさ、ぶよぶよとした自意識、不良の女の子への憧れ、そんな子と付き合うときの万能感と後ろ暗さ、高圧的な男性に追従することで空虚さを埋める心情、けれど結局は埋まらない寂しさ。それらがみっしり詰まっている。 なので、当時人物も、イーヴィーやコミューンの女の子たちの姿はまるで会ったかのように鮮やかに浮かぶのに、マンソンをモデルにしたコミューンのリーダー、ラッセルやガイというテックス・ワトソンを元にしたような若者、デニス・ウィルソン、テリー・メルチャー、ロマン・ポランスキーを足して3で割り、晩年のエルヴィス・プレスリーの鋳型に入れたようなミュージシャン、ミッチ・ルイスはまるで思い出したくない異性の顔写真をボールペンで滅茶苦茶に塗りつぶしたかのように彼らの顔は朧気で、なおかつ彼らがイーヴィーやコミューンの女の子を利用し、性的搾取したりする様だけが生々しくビジョンが浮かんでくるのだ。 さらに、老いたイーヴィーが職にあぶれて、友人の伝で別荘の管理人を依頼された時に出会った、かつては可愛らしい少年だったが今は粗暴さを男らしさと履き違えた青年になった友人の息子と、彼のガールフレンドというにはあまりに幼く、主体性がない少女・サーシャと出会うくだりは、イーヴィーが未だにスザンヌと出会い、別れた夏の日を引きずっていることがわかり、サーシャとの関わりによりよるべない女の子のメンタリティは今も昔も変わらないという諦念をイーヴィーが充満させていて痛々しくなる程だ。 マンソンファミリーを題材にした小説として読むと肩透かしを食らうし、少女小説(というには生臭い描写が多々あるが)のようなふわふわ感は読む人を選ぶだろう。しかし、もし、貴方が十代の頃に孤独感に苛まれていたり、あやうく脇道にそれかけた過去があるのなら読んで欲しい小説だ。そこには等身大のそんな女の子たちがいるのだから。 | ||||
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アメリカのティーンエイジャーの女の子たちが秘密のコミュニティで過ごした、1969年のひと夏の物語です。それを、現在、五十代の中年になった「わたし」が回想して描いています。その夏の女の子たちは、現代では「亡霊」たちです。いまもむかしも、おそるべき「女の子たち」のおはなしです。 著者は、「現代の少女サーシャ」を物語の背景として対比的に登場させ、1969年の少女たちの本音を生き生きと色彩豊かに浮かび上がらせ、現代に蘇らせた小説です。 主人公の「わたし」は、十四歳の思春期まっただ中の女の子でしたが、この本で語っている時点で「わたし」は、五十代のおばさんになっています。「1969年に十四歳」ということは、「わたし」が生まれたのは1955年。1955年生まれの「わたし」が、五十代になるのは、2005年以降ということになります。 ちなみに、著者エマ・クラインが生まれたのは、1989年。自分が生まれたときよりも、二十年も前の1969年に生きていた女の子たちのことを想像して、この本を書いたのです。著者は「執筆の参考にしようと、母親が十三歳のときに書いた日記を見せてもらった」(「訳者あとがき」)そうです。人類初の月面着陸の日、記念すべき日の日記だというのに、母親ったら「髪を切ったらひどいことになった」としか書いていなかったので、驚いたそうです。 このことから「女の子にとって興味のあるのはもっぱら、『自分は誰が好きで、誰に好かれて、誰が嫌いで、自分の髪型はどう見えるか』ということなのだと」(344頁)著者は悟ります。そして、「見られたい、知ってもらいたい」という女の子の願望には、昔も今も、なにか時代を越えた普遍的なところがあるように著者は感じたので、そこのところを本書で問いかけたかった、といっています。 本書の56頁には、ボブ・ディランの『寂しき四番街』(Positively 4th Street)が出て来ます。1965年リリースのシングル・レコードです。この古い曲がいまだ、今年2017年の現代でも、二十八歳の若き著者の心の中に生き続けていたことに驚きました。 「わたし」が心を奪われた、黒髪の女の子「スザンヌ」は、十九歳でした。公園で初めて彼女を見たときに「わたし」の「世界は生まれ変わった」(331頁)のです。そして「スザンヌ」は「わたし」のことを「ミス・1969」(169頁)と呼んでくれたのです。 その「スザンヌ」の彼氏「ラッセル」は、農場(ランチ)という秘密のコミュニティに君臨する男です。「スザンヌ」たち若き女の子たちをけしかけて、最後は犯罪行為へと導いていくのです。 「わたし」は「スザンヌ」からなぜか、犯罪現場へ向かう車より降ろされてしまい、犯罪行為には加わりませんでした。そのため「わたしが知っているのは傍から見た中途半端な物語で、わたしは罪を犯してもいない逃亡者だった。誰も捜しにこないことを心の半分では願い、もう半分では恐れていた」(334頁)という、中途半端な自分の立ち位置を総括しているのです。 結局、この作品は「わたしが傍から見た中途半端な物語」で終わっています。 しかし、最後の最後に、「女の子たち」が警察につかまるときには、「女の子たち」のほうが「ラッセル」たち男より強かった、というのが、この本の著者の結論です。 この本の題材は、アメリカで実在した「チャールズ・マンソンらの事件」です。著者は、チャールズ・マンソンが終身刑で獄中にいるということを理解できず、今でもなお、亡霊のように自分の身の回りに生きて暮らしているような気持ちがしているそうです。そういう気持ちで書いたからこそ、この物語は実話のように「リアル」なのでしょう。 今年2017年11月19日、このチャールズ・マンソンは獄中で死亡しました(83歳)。 | ||||
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