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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数132

全132件 121~132 7/7ページ

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No.12: 8人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

綺麗にダマされました!

シリーズ2作目はいきなり作者からの注意事項が述べられている。それは「容疑者は4人で、さらにその容疑者は減っていく、したがって多くの方はこの事件の真相を見破れるだろうけど、百人に一人は見破れないかもしれない」といった趣旨の文章だ。
もちろん、一ミステリ読者としては見破れらいでか!とばかりに勢い込んで読むながら推理するがいやあ、ものの見事に百人の一人になってしまった。
コメディタッチの軽い文体はクイクイ読み進めてしまうので、推理が組立てられないまま、終わりに向かってしまう。でも本書においては真相を見抜けなかったことが全然悔しくなく、むしろ爽快感が得られる。これほど綺麗に騙されると非常にすがすがしい。読後、誰かに勧めたくなる作品だ。本当はもう一つ付け加えたい賛辞があるが、それをいうと頭のいい人は察してしまうので止めておこう。

しかし思えばこの頃から異色の存在ではあったんだろう、その後の彼のミステリ作家としての道のりはいわゆる新本格作家たちとは違う方向に進む。前述したゲーム『かまいたちの夜』の原作者という他ジャンルへの係わり合い、もう無くなったが電子書籍サイトE-Novelの立上げなど、様々なことにチャレンジしている。他のミステリ作家が本格ミステリの本道を極めんと内側に意識が向かっているのに対し、彼はミステリで何か他に面白いことが出来ないかと本という媒体を越えて興味が外側に向かっているのが特徴的だ。

さて『殺戮に至る病』が未読の私は本作が我孫子氏のベスト。したがって私は躊躇なく10点を献上する。ちょっと最近10点が連発しているが、これはまだミステリ初心者であった私が読んだ作品群であり、その初読の印象に基づいて採点していることによる。つまり島田氏から端を発する綾辻氏、法月氏、我孫子氏、歌野氏の一連の新本格作家達の諸作品が私にとってミステリの黄金体験なのだ。
10点の割には少ない感想だが、これは未読の方はぜひ読んで欲しい。軽~く読んで、スパッと騙されて下さい。

0の殺人 (講談社文庫)
我孫子武丸0の殺人 についてのレビュー
No.11: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

背筋がゾクッとした。

今までの法月作品の解説に頻繁に出てきていたのが本作のタイトル。どの書評家も法月氏といえば本作を俎上に上げていた。そこで目にしたのは「ロス・マクドナルド主題によるニコラス・ブレイク風変奏曲」、「法月綸太郎4作目にして早くも後期クイーン問題に直面」という、ミステリマニアならではの表現。ロス・マクドナルドもニコラス・ブレイクも、そしてクイーンさえも当時読んだ事の無かった私にはどんな物かも想像もつかなかったが、なにやら面白そうな匂いはプンプンしていた。
そんなことから期待して読んだ本書だが、読後、これは確かに傑作だと思った。

物語は娘頼子を亡くした父親の復讐譚という手記で始まる。これがなんとも重い話だ。警察の捜査に納得いかない父親が高校生だった娘の死の謎を探り、それが担任教師との肉体関係にあることを突き止め、彼を殺害し、絶望して自殺を図るが未遂に終る。これだけでも重いが、この真相はさらに重い。学校からスキャンダル隠しのため、父親の警視経由で事件の調査を依頼された探偵法月により、愛憎が入り混じった家庭内の悲劇が暴かれる。どの家庭でも起こりそうなよくある事件が、頼子の家庭に落とした翳が、それぞれの心に渇望感を与え、愛を歪めた結果、悪夢のような結果を招く。

昨今の読者諸氏の感想では、あまりに都合的すぎて、しかもなんだか理解できないところが多い、法月は探偵として力量不足だ、などという批判的なコメントをよく目にするが、私はそうは思わない。無論、本作を読んだ時期は私がまだミステリ読者としてそれほどこなれていなかったせいもあるのだろうし、もし今再読すれば、ところどころに粗が見えて、以前よりも素直に賞賛できないかもしれない。しかし、私は当時の読後感を尊重したい。私は本作で新本格という言葉を意識した。確かにコレは新しい本格だなと。

しかし数年後、私はロス・マクドナルドの諸作を触れるに至り、この認識が過ちだったことに気づく。私が新しい本格だと思った事は既にロスマクによってなされていた。そしてロスマクこそはハードボイルド作家ではなく、本格ミステリ作家なのだという思いを強くする。
しかし本作が法月氏のターニングポイントであると云われているように、私にとっても本作がターニングポイントであった。本作がなければ、私は彼の作品を読み続けようと思わなかっただろう。


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新装版 頼子のために (講談社文庫)
法月綸太郎頼子のために についてのレビュー
No.10: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)
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この凝りようが堪らない!

迷路館。
この題名を見たときにようやく本格ミステリらしい館が出てきたと思った。しかし表紙絵は記念碑のようなオブジェが森の彼方に見えるだけで「あれ?」と思ったものだが、開巻するやいきなり妙に凝った装丁だったのに驚いた。本の中に本がある、しかも講談社ノベルスを何から何まで模倣したそのデザインにニヤリとした。こういうのを作中作という趣向だというのを本書の解説で初めて知ったのだから、いかに私がまだヒヨッコだったのかが解るだろう。
しかも中に収められた館の間取り図はもう生活すること自体を全く無視した本当の迷路が館の中に組み込まれてあり、逆に私は「コレだよ、コレ!」と喜んだのを覚えている。ここまで奇抜な館を用意するとリアリティ云々は吹っ飛んでしまい、もうその異質な世界で繰り広げられる殺人劇を今か今かと不謹慎ながら待ち受けるだけであった。
建築関係の仕事に進んだ今だとこの館を見てすぐに「ありえない」と一笑に付すだろう。なぜなら日本の現行の建築基準法に全く適っていないからだ。しかもこれが日本で名高い建築家の手になる仕事だというのだから、抱腹絶倒、荒唐無稽とは正にこのことである。しかし当時学生だった私はそんなことは露知らず、純粋に物語に没頭することが出来た。これこそその時が私にとって読むべき時期だったのだと今になって思う。ちなみに私の専攻は土木であり、建築学は全くの門外漢であった。しかし就職すれば会社はそんなことには頓着せず、土木も建築も一緒くたでせざるを得なくなる。まあ、でもこれはいい誤算ではあった。

さてそんな館を用意した綾辻氏はさらに本格ミステリ好きの中枢神経を刺激する設定を放り込んでくる。その館の主は宮垣葉太郎という本格ミステリの巨匠であり、そこで彼の弟子とも云える新進作家たちを読んで競作を行い、優れた作品を書いた者には彼の名前を冠した賞と賞金を送るという設定。いやあ、堪らない設定だ。しかもこのシチュエーションは当時の新本格シーンを牽引し、若い本格ミステリ作家を推薦して次々とデビューさせた島田氏、そしてその推薦を受けた綾辻氏、法月氏、我孫子氏、歌野氏の境遇をそのまま投影したようで、フィクションながら一部ノンフィクションのような錯覚を覚えた。だから作中に出てくるそれぞれの作家、評論家、編集者の実際のモデルは誰なのだろうと空想に耽ったりもした。

しかし、これだけミステリ好きをくすぐる設定は冷静に眺めると非常に異様な光景である。なにしろこの競作は宮垣氏が自殺した状況下で行われるし、こんな住みにくい迷路の家にこもって創作すること自体もまた異様だ。そして連続殺人事件が起こるのだが、それでも逃げ出さず、館に居続け、捜索を続ける彼らは狂気の作家達と云えよう。全てが終わり、事が公になったとき、果たして彼らの社会的評価というのはどうなるのか?などという懸念が今更ながらに湧いてくる。

しかし本書を読むのにそんなことを気にしてはいけない。本書は日本に似たどこか別の国で行われた事で捉えるぐらいの寛容さで臨めばかなり楽しめる作品で、私は館シリーズで2番目に好きな作品である。迷路館という特殊な館を存分に活用したトリックに加え、事件が終った後で判明する真相にはかなり驚いた。館シリーズと呼ばれるこのシリーズで初めて館が主役となった作品だと思う。

ちなみにここで出てくる宮垣氏の畢生の大作『華麗なる没落のために』はその実、鮎川哲也氏の未完の作品『白樺荘事件』を指していたのではないかと私は思っている。まだ見ぬ巨匠の作品を一刻も早く読みたい、そしてそれは巨匠最後にふさわしい傑作に違いないという思いが込められているように感じた。

で、ミステリを数こなした今、この3作を振り返ると綾辻氏はトリックとロジックという本格ミステリの王道と思われがちだが、実は叙述トリックの使い手でもあるということ。その分野では折原氏の名が広く知られているが、この館シリーズ3作は全て叙述トリックが仕掛けられていることに気づくだろう。どこかの対談かコラムで作者自身、叙述トリックこそが本格ミステリにおける最後の砦のようなことも云っていた記憶がある。
叙述トリックはその名自体がネタバレという人もいるが、私は一つの意見として受け取るに留めている。なぜなら優れた叙述トリックはそれを意識しても看破できず驚きをもたらすからだ。

とりあえず綾辻作品は本作で一旦休憩。次の作家に移るとしよう。

迷路館の殺人<新装改訂版> (講談社文庫)
綾辻行人迷路館の殺人 についてのレビュー
No.9: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

やはりあの一行でしょう!

さて島田氏の御手洗シリーズで本格ミステリに開眼した私は同傾向の作品を読もうと各ガイドブックなどに手を伸ばすようになったり、『このミス』などランキング本を読み漁ったりするのだが、その中で「新本格」という単語に行き当たった。
色々調べてみると、松本清張以後、本格冬の時代と云われていた日本ミステリシーンにかつてのガチガチの本格ミステリを復興させようという動きを新本格といい、なにも今までにない斬新な本格という意味ではなかった。そしてそのムーヴメントの中心にいる人物こそがなんと島田氏その人だというのだから、これは何がなんでも読まなければならぬとそこに名を挙げられていた綾辻氏、歌野氏、法月氏、我孫子氏4氏の諸作を本屋で探し、一気に買い込んだ。

そしてまずは綾辻氏の本書から手を付けることになった。既に私が本作を買ったときには既に『迷路館の殺人』まで文庫は出ており、しかも「綾辻以前綾辻以後」なる形容詞まで付いているのにはびっくりした。
で、そんな前情報が期待を膨らましつつ、開巻したところ、実はお互いをあだ名で呼び合う登場人物たちにドン引き・・・。しかも彼らのあだ名が全て海外古典本格ミステリの大家のファーストネームで、いかにもミステリマニアが書きましたというテイストに、うわぁ、これ読めるのかなぁとすごく心配したが、物語が進むにつれて慣れてきた。
探偵役として現れた島田潔の名前にニヤリとしつつ、奇想の建築家中村青司が設計したというわりには十角館って普通の建物だよなぁなどと思いつつ、読み進めていった。

そして私も驚きましたよ、あの一行に。まさに時間が止まり、「えっ!?」という思いと共に足元が崩れる思いがした。しかもあの一行が目に飛び込んでくる絶妙なページ構成にも唸った。一行に唸ったのは星新一の「鍵」以来だった。
実は犯人はすぐに解った。だから答え合せしたくて早く解決シーンに進みたくて、忸怩しながら読んでいたが、この一行で自分の甘さに気づかされた。というよりも犯人が解ってなお、これほどの驚嘆を読者に与える作品というのがあるのかと心底感心したのだ。そしてまだまだミステリの奥は深い、確かにこれは「新」本格だ、などとミステリをさほど読んでいないのに一人悦に浸っていた。

今でも読み継がれ、新しい読者に驚きをもたらしている本書は歴史に残る傑作といえよう。こうして綾辻氏の名はこの1作で私の脳裏に深く刻まれることになった。

十角館の殺人 (講談社文庫)
綾辻行人十角館の殺人 についてのレビュー
No.8: 6人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

我が読書人生永遠のベスト

今まで焦らすように引っ張ってきたが、本書が私を島田信奉者にした作品である。そしてこの作品は私の読書人生の中で未だに永遠のベストとして燦然と輝いている。

私が読んだのはハードカバー版で、確か講談社の何十周年かの記念書き下ろしシリーズの1冊として刊行されたらしく、えらく豪奢な装丁だったのを覚えている。
特に西洋画で描かれた馬上の騎士の表紙絵が飛び出してきそうなほど迫力があり、果たしてどんな物語かと胸躍らせた。
しかしこの表紙とは全然無関係の話が展開される。物語の舞台は騎士が出てくるような西洋の街やお城ではなく、関東の公園で記憶喪失の主人公が目が覚めるところから始まる。その後彼は周辺を彷徨い、紆余曲折を経て知り合った石川良子という女性と同居するようになる。そしてこの2人の生活が語られるのだが、これが実に私の心をくすぐった。当時学生だった私にとって彼らの年齢が近いこともあり、そう遠くない将来の生活のように見えたからだ。そしてこの2人の生活は貧しいけれど小さな幸せというありきたりなモチーフながら、私の願望を具現化したような形だった。
そして、物語は意外な方向に進む。それは・・・いや詳細を語るのは止めておこう。思いの強さゆえ、微に入り細を穿つように述べてしまいそうで、これから読む方々の興を殺ぎそうだから。ただ颯爽と現れる御手洗の姿にはきっと快哉を挙げるだろう。これは今でも私には全てのミステリの中でも最高のシーンである。そしてなによりも謎解きを主体としたミステリでこれほど胸を打ち、感動するとは思いもよらなかった。本作で御手洗ファンとなった女性が増えたように、私もこれで御手洗、いや島田ファンになり、こんなミステリを書く人はきっと素晴らしい人に違いないと信奉するまでに至った。これは今でも同じだ。

本書で教えてくれたのは人を愛することの温かさ、苦しい時にこそ助けてくれる友人を持つことが人間にとってかけがえのない宝石だということだ。それを教えてくれた島田荘司こそ、私にとって異邦の騎士その人だと思うのである。


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異邦の騎士 改訂完全版
島田荘司異邦の騎士 についてのレビュー
No.7: 7人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

私をミステリ好きにした傑作

私がミステリをここまで本格的に読むようになったのは、この島田荘司との出逢いがきっかけであった。つまり島田のミステリが私にミステリ読者の道へと導いた。だから私にとって島田の存在というのはかなり大きく、神として崇めているといっても過言ではない。一生追い続けると決めた作家、それが島田だ。

とはいっても本作が私にとって初めて触れる島田ミステリであったわけではなく、最初は『御手洗潔の挨拶』であった。その経緯については『~挨拶』の感想に譲るとして、本作はその次の島田作品だった。
実際私は『~挨拶』を楽しく読み、面白いからもっと貸してとその友人に頼んだところ、持ってきたのが本書。まず最初の印象は、題名に引いたというのが正直なところ。いまどき『○○殺人事件』というベタなタイトルと、古めかしいイラストが描かれた文庫表紙は、もし私が本屋でその本を見ても手を伸ばさない類いのものだったし、本屋でその友達に「この作品面白いよ。お勧め。買って読んでみて」と云われても決して買わない代物だった。ちなみにこの時借りた文庫の表紙は新たなイラストでノベルス版(書影がそれですね)が出版されたが、今現在でもそのままだったように思う。私が後に買った文庫版も同じ表紙だ。
ということで、その表紙とタイトルのせいもあり、実は借りるのには前向きにならなかったのだが『~挨拶』が面白かったので読んでみるかと軽い気持ちで手に取った。

本書を途中で断念した読者の中には冒頭のアゾートの話がかなり読みにくい文章だったという人がけっこういるらしい。しかし海外の古典を読んでいた私にとってはこのくらいの文章は全然大丈夫で、むしろ読みやすいくらいだった。前に挙げたブラウン神父シリーズと比べてみれば一目瞭然だろう。

さてこの6人の娘のそれぞれ美しい部位を繋げて至高の美女アゾートを作るというこの冒頭の怪しくも艶かしいエピソードはいきなり私の読書意欲を鷲掴みにし、ぞくぞくとした。昔乱歩の小説で読んだ淫靡さを感じたものだ。
その後、名探偵御手洗登場。この昭和11年に起き、その後何年間も解決できなかったという事件に御手洗が挑む。

で、この本を読んだ当初、この事件は実際にあった話だったのかというのが友達の間で話題になった。本を貸してくれたO君は実際にあったと云っていたがその真偽は今でも定かではない。その後の島田作品にはこういう虚実を混同させるような叙述があるので、私は創作だと思っている。というのもその後乱歩、海外古典を読んでいくと、本作のように「明敏なる読者諸氏ならばご存知であろう、あの世間を騒がし、国民を恐怖のどん底に陥れた忌まわしい事件」という件が続々と出てくる。さながら探偵小説ならびに推理小説の枕詞として当然付けなければならないコピーのようだ。

さてこのアゾート事件を捜査する御手洗は当初自信満々で、京都の人形師の許を訪れたりとかなり活発な動きを見せる。しかしやがて捜査は行き詰る。この辺の相棒石岡の絶望感をそそる語り口がいい。
そして真相に思い当たり快哉を挙げ、狂喜乱舞する御手洗にかなり笑ってしまった。
そして挿入された「読者への挑戦状」に戸惑ってしまった。なぜなら私はこのとき犯人までしか推理できていなかったのだ。
私は何故かトリックやロジックが解らなくても、なぜか犯人が解るということがよくある。本作もどうしてか解らないが犯人は多分こいつだろうと解った。読んでいる最中に貸してくれた友達が「犯人誰か解った?」と訊いた時に「多分○○だと思う」といった時に、感心したような顔をしていたのを今でも覚えている。まあ、軽い自慢話だが。

二度目の挑戦状でもまだ私は解らなかった。そして明かされるトリックの美事な事。私も思わず快哉を挙げた。これはすごいと本当に思った。
そしてその後も物語は全ての疑問を回収し、決着を付け、犯人の手記で閉じられる。哀感漂う物語の閉じ方はブラウン神父の純粋にロジックとトリックの素晴らしさから得られるカタルシスに加え、物語を読むことの醍醐味が心に刻まれる思いがした。
この作品で私は島田作品をもっと読みたいという衝動に駆られた。そして再び友達に次の島田作品を所望した。

もし本作を読んでいない方、もしくは途中で諦めた方は是非とも読んで欲しい。彼によって新本格は作られ、今の本格ミステリの隆盛の創世となったのが本作なのだから。

その方々に老婆心ながら注意点を云っておく。
まず無造作にパラパラと本書を捲ってはいけない。本書の肝であるトリックの図解が目に入ってしまうから。
そしてこれが一番重要なのだが、マンガ「金田一一の事件簿」は決して読んではいけない。なぜなら本書のトリックを丸ごとパクっているからだ。私はあの時大いに憤慨したものである。幸いにして本書を読むのが先だったが。
しかし私が島田氏を神と崇めるようになったのは本作ではない。それについてはまた別の機会に。

占星術殺人事件 改訂完全版 (講談社文庫)
島田荘司占星術殺人事件 についてのレビュー
No.6:
(10pt)

奇商クラブも凄いがボーナストラックがまたスゴイ!

本書は短編集だが、ブラウン神父物ではなく、この1巻だけ活躍するバジル・グラントが探偵役を務める連作物だ。構成は語り手である私が「奇商クラブ」という誰もがやったことのない商売を手がける人たちと邂逅することで出くわす不思議に挑むという連作物だ。そして本作が出来としてどうかというと、これはかなりイイのである。

ちらっと調べてみると、本作はあの大傑作『ブラウン神父の童心』に先駆けること6年前の1905年に出版されており、先に大絶賛した『木曜の男』と同じ年に出版されている。つまりこの頃のチェスタトンにはかなり語るべき逆説、奇想が頭の中に湛えてあり、その奇想のすごさに驚く。発表後1世紀以上も経っているのに、似たようなネタを見た事がない。とにかく常人には発想できない珍妙な商売ばかりなのだ。
どんな商売なのかをここで明らかにするとネタバレになるのであえて止すが、とにかく21世紀の今でもない商売ばかりだ。つまり云い換えれば、商売として成り立たないであろう物ばかりだと云える。それもそのはず、ほとんど狂人の商売としか思えないものばかりなのだ。

そしてそれら奇妙な商売の謎を解き明かすバジル・グラントという人物もそれ相応に変な探偵なのだ。元裁判官だったが、裁判中に法廷で突然発狂して職を辞したという、エキセントリックな人物。つまり毒は毒をもって制す、ならば狂人には狂人をといった趣向の作品集なのだ。
本作には6編の「奇商クラブ」譚が収録されているが、その中でお気に入りには「家屋周旋業者の珍種目」と「チャッド教授の奇行」が特に秀逸。前者は映像化すれば、最後の真相が実に生えるに違いない1編であり、後者はもうスゴイの一言。云い意味でも悪い意味でもチェスタトンしか思い浮かばないトンデモ商売(?)なのだ。

ただし本作における真価は実はこの「奇商クラブ」にはない。実は創元推理文庫版ではノンシリーズ物の短編「背信の塔」と「驕りの樹」が併録されているのだが、この2編がすごい作品なのだ。
両者とも物語のトーンは幻想小説風だが、最後に明かされる真相はそれが故に実に絵的であるし、戦慄すら覚える。一見不合理だと思える狂える人たちの行為が狂人なりの合理的な理由によってなされていることが解るという趣向では「奇商クラブ」とは同趣向だが、物語の迫力というか風格が違う。「背信の塔」は物語冒頭で語られる主人公の当初の目的を読んでいる最中忘れてしまう熱気に溢れ、最後にそれが予想を超えた真相で知らされる。「驕りの樹」は一本の奇妙な樹を巡る話が二転三転し、これも最後に明かされる真相で汗ばんだ手にさらに汗を握らせる。あえて詳しくは書かないでおこう。
本作を読んだ頃はまだ世間を知らない大学生。今読み返せばその不思議な世界観に包含されたチェスタトンのメッセージが読み取れるかもしれない。それほど深い2編だ。
本作はこの2編があるが故に私の中では大傑作の短編集となっている。

奇商クラブ【新訳版】 (創元推理文庫)
G・K・チェスタトン奇商クラブ についてのレビュー
No.5: 6人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
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非常に人を選ぶ傑作です。

光文社古典新訳文庫から本書の新訳版『木曜日だった男』が出版されたことを知った時は驚いた(書影もそちらになってますね。私が読んだのは創元推理文庫版)。あれほど癖の強い、あくの強い作品を新訳版で出す光文社の編集部の見識をまず疑った。この光文社のシリーズは商業的にも意義的にも世の読書家に好評をもって迎えられているらしく、その余勢を買ったあまりの無謀な行為ではと疑ったのである。
しかしネットでの書評を読むと意外と良好のようで、不評コメントは私が調べた限りでは見当たらなかった。

で、本作は間違いなく傑作である。しかし残念ながら万人に推奨できる傑作ではない。これを初チェスタトンとして選ぶとしたら、その後その人はチェスタトンと訣別するのではないだろうか。なぜならば一読しても、訳が解らないからだ。

物語はガブリエル・サイムなる詩人が無政府主義者と論争になるところから始まる。主人公詩人!しかも相手は無政府主義者!もうこれだけでクラクラだ。
この「クラクラ」には二種類の意味がある。
1つは文字通り、理解不能という意味でのクラクラ。もう1つはこのチェスタトンならではの人物設定に対する酩酊感のクラクラである。
実は私はこの本を2回読んでいる。したがって上述のクラクラ感は正に私が抱いた感覚なのである。

さて物語はサイムが「日曜」と名乗る人物が議長を務める無政府主義者集団に加わる。実はサイムはロンドン警視庁の公安警察官であり、彼はこの無政府主義者集団を壊滅するために送られたスパイなのだ。
そして彼は「日曜」から「木曜」と名づけられる。そう、他のメンバーにはお察しの通り、「月曜」から「金曜」という委員会がいるのだ。そしてサイムはこのメンバーと接触していくのだが、実に意外な展開が待っている。
そして最後に残った議長「日曜」を追い詰めるサイム。しかしそこで明らかになる驚愕の事実!そして・・・。
このオチ―あえて真相と云わない―を知ったその瞬間、読者はきっと呆気に取られるだろう。そして唐突に訪れるカタストロフィに似た結末に呆然とせざるを得ない。

通常ならば駄作のレッテルを貼られるべき作品なのだが、チェスタトンの作品を読んできた者ならばこの作品は甘美な麻薬の如き魅力に満ち満ちているのだ。
上で述べたプロットを彩るのは全編これ、チェスタトンの哲学、逆説、宗教論とあらゆる思想論だ。サイムをチェスタトンの代弁者にし、事ある毎に登場人物と議論を重ねる。リアリティという観点から極北の位置に存在する人物たちはもちろんそんなサイムを変な奴だと一笑に付せず、論破しようと議論でもって対決する。この議論が実に面白い。いや正直に云えば1回目の読書では全く読みにくくてしょうがなかった。さらにその難解な文章の合間を縫うように展開するストーリーもまた曲者であり、何がなんだか解らないうちに1回目の読書は終ったと云えよう。
しかし2回目に読むとこの難解さが逆に心地よくなってくるのだから不思議だ。恐らくそれは免疫が出来たのだろう。だからチェスタトンが読者に放つ悪夢としか思えないクライマックスシーンも実に愉しめるようになる。特に本書では一般大衆と警察が入り混じって大勢サイムを追いかけるシーンは悪夢さながらも一歩間違えば喜劇である、そんな余裕まで感じられるようになる。

つまりこれはチェスタトンしか書けない奇書なのだ。それを愉しめるかどうかはまず本書を当たる前に「ブラウン神父シリーズ」を先に当たってもらいたい。その後なおチェスタトンを読みたいのであればこれは本当に読むべき作品である。
数少ないチェスタトンの長編という意味でも貴重な1冊。当時私は創元推理文庫版の難解な訳にてこずったが、今は光文社から新訳版が出ている。今からこの作品に遭遇する人はなんと恵まれた人たちなんだろうと私は思わずにはいられない。

木曜の男 (創元推理文庫 101-6)
G・K・チェスタトン木曜の男 についてのレビュー
No.4: 6人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
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極上の本格ミステリ短編集

私がこの本を手にしたのは本当に何気ないことだった。家から自転車で10分くらい離れたところにある書店に大学帰る際に立ち寄るのが日課となっていた私は、いつものように立ち読みを済ました後、コミックコーナーを散策し、ふらりと文庫本コーナーに行ってみると、そこにブラウン神父シリーズ5作が並んでいた。しかも装丁を刷新したようで、なにげに惹かれるものがあった。
久々に推理小説を読むのもいいなぁと思った私はとりあえず1冊手に取り、レジに向かった。A型で几帳面な私はシリーズ第1作が本作であることを調べておいた。
久々に読む推理小説ということで、長編は抵抗あったが、これは短編集だったのもこれを買う動機の一助になっていたように感じる。隣にはアシモフの黒後家蜘蛛の会シリーズも並んでいたが、そちらは興味を沸かなかった。今にして思えばそちらも刷新された装丁であったようで現在も同じ装丁だが、なんだか食指が沸かないイラストだった。このシリーズは今もまだ読んでいない。

さてまずびっくりしたのはこの上ない読みにくさ。シリーズ開幕の1作目「青い十字架」は全編に宗教論が横溢しており、その難解さにいきなり面食らった。最後に明かされる真相はなるほどという域を脱しておらず、しかも半分くらいしか理解できなかった宗教論自体も真相に関与していたことも解り、うわ~、読み通せるかなぁと非常に不安になった。
翌日2作目の「秘密の庭」を読んだ。この真相にはかなり驚いた。久々に推理小説を読んだ当時の私にとってはものすごい真相だった。この真相はもし今初めて読んだとしても驚愕するだろう。この2編目で私の中でこの短編集の評価は一気に高まり、読み続ける決意を固めた。
そこからはもう目くるめく読書体験の連続だった。

ホテルで神父が滞在する部屋のドアの外から聞こえる異なるペースで行ったり来たりを繰り返す足音を扱った「奇妙な足音」。

パーティーで催された劇の最中で盗まれたダイヤモンドの犯人をブラウン神父が見事に当てる「飛ぶ星」。

殺人予告を受けた男は衆人環視の中、なぜ殺されたのかという謎が魅力的な「見えない男」。

領主の居なくなった屋敷を管理する元召使が集める奇妙な品物の数々の意味を探り当てる「イズレイル・ガウの誉れ」。

「狂った形」はブラウン神父とフランボウが訪れた詩人の家で起きた詩人の自殺の裏側に潜む事件を看破する。

決闘を挑まれ、敗れて死んだ公爵の意外な真相が実にチェスタトンらしい逆説に満ちている「サラディン公の罪」。

「神の鉄槌」は庭で殺された男は頭蓋骨を粉砕されるほどの力で頭を割られ、骨の欠片が胸部にまでのめりこんでいたという殺害方法が奇怪だ。まあ、これは今ではちょっと確率的にありえないトリックだと解っているが、当時は面白かった。

エレベーターの開口部に転落死した盲目の女性を殺したのは姉か、それとも被害者の信望する宗教の教祖か。最後にツイストが効いている「アポロの眼」。

なぜ名将名高い将軍は無謀な戦闘を仕掛け、自軍を壊滅させたのかが実にチェスタトンらしい論理が冴える「折れた剣」。

ピストル、ナイフ、ロープ。三つもの凶器が在って、なぜ卿は窓から墜落死したのかを奇想としか云えない論理で解き明かす「三つの凶器」。

この中で心理的に盲目になる錯覚を利用した「見えない男」と「葉っぱを隠すなら森の中。では・・・」のフレーズで知られる「折れた剣」は今でもミステリの王道ロジックとして活用されるくらい有名な作品。
読んだ大学生当初は「見えない男」の論理は、眉唾物のように感じたが、社会人になって出逢う人の数が飛躍的に増えると確かに頷けた。
「奇妙な足音」の実に奇妙な真相にうすら寒さを感じ、「イズレイル・ガウの誉れ」、「サラディン公の罪」、「三つの凶器」の、自分の想像の範囲を超えたロジックにカタルシスを感じ、「神の鉄槌」の宗教的なシチュエーションに目くらまされた思いを感じた。
チェスタトンが逆説の大家であることを知ったのはこの後のことで、とにかく彼の独特の論理は今までの私の既成概念を打ち砕いてくれる思いがした。

本作では最初盗賊として登場していたフランボウが神父に諭されて改悛して、神父の相棒となるという展開も新鮮だった。
本作は冒頭でも述べたように当時超訳に慣れ親しんだ後もあって、実に訳が読みにくかったのが特に印象に残っている。ただその難解な訳文を我慢して読み通すと、間違いなく得られるカタルシスがあった。また難解な話を読むことで自分の知的レベルが向上する思いもした。
あれから数知れず海外ミステリ、国内ミステリを読んでいるが、それでも本作が極上の短編集であることは今でも私の中で揺るぎない。

ブラウン神父の童心【新版】 (創元推理文庫)
G・K・チェスタトンブラウン神父の童心 についてのレビュー
No.3:
(10pt)

続編も含めて傑作です。

それまでのシドニー・シェルダン作品は全て単発物だったが、本作は初めて続編だ。それも個人的ベスト作である『真夜中は別の顔』の続編であるから、これが出た時には「待ってました!」と快哉を挙げたものだ。
ちらっとネットで調べてみたが、シェルダン作品で続編が書かれたのは本作以外ではどうもないようだ。このことからも作者自身もこの『真夜中は~』には手応えを感じ、特別な思い入れがあったのではないだろうか。

さて本作では前作では影の存在として、さほど表立って描かれなかった大富豪コンスタンティン・デミリスが前面に出てストーリーが展開する。なんと前作でショックのあまり記憶喪失となったキャサリンを、自分に対する裏切りの復讐として殺そうと画策しているのだ。とにかくこのデミリスの黒さが全編に渡って描かれている。そしてこいつは本当に悪い!そして金が豊富にあるだけに恐ろしい。しかし悪は栄えず。その権力と財力とで封じ込めてきた復讐劇が、綻んでいき、デミリスの周囲を真綿で首を絞めるようにデミリスもまた窮地に陥っていく。それをたくみに交わすデミリスの奸智もまた見ものだ。

そして前作でも裁判でデミリスの策謀に一役買ったあの百戦連勝の弁護士(名前忘れた!)も登場場面が増えている。
特に冒頭でいきなり毒殺容疑で逮捕された妻の無実を晴らすために公判中、いきなり証拠物件として挙げられているその妻が飲ませた薬品を嚥下し、なんともないことをアピールし、無罪を勝ち取るのだ。もちろんそれは毒薬。そこからどうやって彼は助かるのかというのは本書の興を殺ぐのでここでは詳述を避ける。
ただこの裁判のくだりは後にトゥローの諸作を読んだあとでは、やはり想像の産物と云わざるを得ないほど細部が甘い。恐らく本当の裁判ではこのようなことをして、即無罪という判決には至らないだろう。
検事が出す証拠に対し、いくつも反証を挙げ、それを陪審員の判断に委ねなければならない。1つ1つがつぶさに検証されるわけだ。特にここでの裁判はそれまで弁護側は劣勢であり、最後の巻き返しの切り札であのようなパフォーマンスをせざるを得なかったようだった風に思う。
ただやはりこのシーンは今でもこのように感想に書けるほど鮮烈に残っていた。当時読んだとき、私は既に大学生であったが、実に単純にシェルダンマジックに引っかかってしまった。あれから15年。今この作品を読むと私はどういう風に思うだろうか。

しかし、私の記憶力もここまで。本作は面白かったという感慨は残ってはいるものの、詳細についてはもはや霧の彼方。ただ前作がアンハッピー・エンドだったのに対し、今回はハッピー・エンドだったのは覚えている。やはりそこはアメリカ人なんだろうね。巨悪は滅びないといけないのだ。
しかしあの結末から上下巻もの物語を紡ぎだし、しかも冗長さを感じさせないというのが素晴らしい(詳しく覚えていないけど)。ただ後から振り返ればこの頃、既にシドニー・シェルダンも一時の狂的な売り上げから比べると下り坂であり、人気の高い『真夜中は~』の続編の本書はその右下がり曲線を押し上げるための起爆剤として期待されていたように思う。そして私個人的にもシェルダン作品はここまでという思いがある。

明け方の夢〈上〉
シドニィ・シェルダン明け方の夢 についてのレビュー
No.2:
(10pt)

これはぜひ読んでほしい!

さて私がシドニー・シェルダンの作品の中で何が一番面白かったかと問われれば、本作を躊躇なく挙げるだろう。というよりもシェルダンの作品を読んだ方の多くは『ゲームの達人』か本作を挙げる方ばかりではないだろうか。
当時からシドニー・シェルダンの小説は社会現象になるまでになったと思うが、本作でその頂点を迎えたように思う。日本でドラマ化されたのもむべなるかなと思うくらいストーリーに起伏があり、先が読めない作品だ。『ゲームの達人』もドラマ化されたがあれは当時まださほど普及していなかったNHKの衛星放送であり、万人が見れるものではなかったが、本作は民放局のテレビ朝日がゴールデンタイムにドラマ化したのだ。それからも本作の人気の高さが伺えるものと思う。今でいうならば『ダ・ヴィンチ・コード』を日本の民放局がドラマ化すると同じくらいか(違う?)。しかし私はこのドラマを観なかった。本のイメージが崩れると思ったので、それは家族全員意見が一致し、一度もチャンネルを合わせる事はなかった(たしか当時母がノエル役の黒○瞳をあまり好きではなかったことも一因だったように思う)。個人的には過激な描写(特にノエルのパート)の多い本作をどう映像化するのかと、思春期独特の好奇心があったのだけれど。

まず開巻してすぐに本作のクライマックスから始まる。それは世界中が注目する大裁判が開かれようとしているというシーン。つまりここで物語の収束する先を読者はあらかじめ知らされるわけだ。しかもこの裁判というのが実に大規模。なんせその裁判を傍聴せんがために自家用ヘリや自家用ジェットまで動員して世界中のセレブが我先にとその地を訪れるという派手さ。この時点でもう読者である私は物語に釘付けである。
そこからはシドニー・シェルダンのいつもの作風とも云える主要登場人物の成立ちが語られる。しかし本作の面白さは並行して語られる主人公の2人の女性の対照的な人生に尽きるだろう。キャサリンとノエルの生き様はまさに太陽と月のような趣で繰り広げられる。

いつも天真爛漫で想像するのが大好きなキャサリンと不遇な出自から貧しい人生を運命付けられたノエル。どちらも美貌を備え、持ち前の行動力で自らの人生を切り開いていこうとするヴァイタリティに溢れている点では共通しているが、その生い立ちはかなり異なる。
特に衝撃的なノエルの方。というよりももはや読んだのが20年くらい前でもあることで強烈な印象を残すノエルの方しか覚えていないというのが正直なところだ。
金持ちと結婚することを人生の目標とし、己の美貌を武器にのし上がろうとする彼女は悪女になることも辞さず、体を売ることも厭わない。特に今でも鮮烈に覚えているのは堕胎のシーンだ。確か妊娠の相手は本作の中心人物のプレイボーイのパイロット、ラリーだったと思うが、彼女を裏切った恨みを、憎しみを敢えて体に染み込ませるために堕胎が危険と思われる妊娠月まで子供宿し、医者に掻き出させ、最後にはハンガーのフックを自ら膣に突っ込んで引きずり出すという恐ろしいまでの女の情念を滾らせる。このシーンは魂が冷えたなぁ。

本作で忘れてはならないのはコンスタンティン・デミリスという大富豪の存在。彼は本作では影の主人公というべき存在になっている。貰った恨みは決して忘れずに、復讐する。それが何年経とうが、相手が忘れようが必ず行うという大富豪だ。金持ちは寛容であるという定説を覆すかのような人物設定に、当時は映画『アンタッチャブル』でデ・ニーロが演じたアル・カポネを重ね合わせていたが、作中では確か小柄ながらも髪はふさふさで中肉の体型だったように描写されており、全然イメージが違う。
で、最後に立ち上るのはデミリスという男の恐ろしさ。彼はやはり復讐を忘れなかったというのを最後に読者の眼前に叩きつける。詳細を書くとネタバレになるので云わないが、この結末で本作は傑作と呼ばれるようになったように思う。そしてシェルダン作品では珍しく続編を匂わす閉じられ方をしており、事実、『明け方の夢』という続編が書かれる。

本作でおなかいっぱいになり、これ以上何を書くことがあるのかと思いきや、その続編もまた読ませる内容になっており、巻措く能わずを約束してくれる。それはまたそのときに感想を述べたいと思う。

真夜中は別の顔〈上〉
シドニィ・シェルダン真夜中は別の顔 についてのレビュー
No.1: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

初めて海外ミステリを読むならコレ!

小学校の頃は雑多な物を読み、特にケイブンシャとか学研から出ていた『~大百科』、『~入門』なる一連のシリーズ本、あと『マンガで読む日本の歴史』といった図書館に陳列されていた本を無作為に読んでいた覚えがある。元々本を読むことが好きで、なおかつ色んな知識(トリビア?)を吸収するのが好きな子供だった私はこれらの本が妙にあっていた。

で、中学になると図書館にずらっと並んだポプラ社の江戸川乱歩の少年探偵団シリーズに没頭し、はたまた教科書に作品が掲載された星新一氏のショートショートにも傾倒し、さらには当時ドラクエに代表されるRPG全盛の時代に出版された『ロードス島戦記』に歓喜していた毎日を送っていた。
で、今回この感想を書くにあたり、さてどこから始めようかと思案した。最初は敬愛する星新一の諸作から感想を述べていこうと思ったが、その大半の書籍は九州の実家に今も眠っており、どのショートショートがどの作品集に収録されているか、手元に本がない今となっては不明でもあるため、挫折した。
そこでここは一般に大人が本屋で手に取る作品から感想を挙げるべきだろうと誠に自分勝手な基準を設け、まずその端緒として本書を挙げることとした。

本作について、現在40歳以上の方々をおいて知らぬ人はいないだろう。当時TV朝日だったか「はなきんデータランド」なる週一の各ジャンルの売り上げランキング番組があり、その書籍部門で毎週ランクインしていたのが本書だった。
『ゲームの達人』という煽情的なタイトルは当時ゲームっ子だった私を刺激したが、表紙を見るに、どうも自分が想定しているような、ハドソンの高橋名人のような1秒間に16連射できるシューティングゲームの達人といった内容でないことは子供心でも解った。したがって毎週この本売れているようだけど、どんな本なんだろう?と思っていたにすぎなかった。
本書を手に取るきっかけは高校の同級生の勧めだった。当時クラス、いや学年でも常に1,2位の成績を取っていたK君が私に貸してくれたのだ。当時からK君は大人びており、外国の作家の小説などは親が買ってくれた世界文学全集ぐらいしか読んだことなかった私は、さすがK君は一歩抜きん出ているなぁと感心したものだった。

で、本書だが、売れるだけのことはあり、すごく面白かった。小説とはこういう物を指すのかと初めて意識した作品だったように思う。
親子4代に渡る大会社経営者の波乱万丈人生の顛末は普通の人生を生きてきた自分にとって想像を超えた世界だったし、ジェイミーがなんども窮地に陥りながらも、とうとうダイヤモンドの原石を見つけ出し、その後手ひどい裏切りを受けながらも、会社を設立するまでの苦難の数々にアメリカン・ドリームを見、またそれが単に「棚ぼた」でなしえる物でなく、九死に一生を得るほどの苦難を乗り越えないと成功は手に入れられないことを知った。

またその娘ケイトが物語の中心となるが、その気性の激しさに女性の恐ろしさを、さらには彼女の孫娘達をシェルダンがまばゆいばかりの美貌で描写するがために、どれほどの美人なのかと想像も掻き立てられた。そして私にとっては少々、いやかなりハードな濡れ場の描写に思春期特有の興奮を覚えたものだ。
またケイトの会社が社会的成功を収め、着実に帝国を築いていきながらも、家族の関係は常に泥沼であり、志半ばで斃れる者も数多あり、本当の幸せとは一体なんなのだろうかと考えさせられもした。

このようにこの小説は私にとって小説を読むことを多面的に教えてくれた作品だった。この本はその後、うちの家族の中でも回し読みされ、普段本を読まない弟さえも手に取り、2人で色々内容について話し合った記憶がある。こんな小説は本当に珍しい。
その後私はシドニー・シェルダンの新刊が出るたびに、購入することになる。当時ハードカバーで1冊2000円近かったと思うが、高校生・大学生と金のない時期にもかかわらず、自分の小遣いで買っていた。
アカデミー出版社が当時売りにしていた超訳という、翻訳家が訳した文章を作家がさらに小説として文章を練り直し、書くという手法は確かに翻訳本としては読みやすく、日本の作家のそれと違和感なく入り込むことが出来たのも、本作が広く読まれた一因だろう。しかしその功罪が解るのはかなり後になってからの話である。

ゲームの達人 <上>
シドニィ・シェルダンゲームの達人 についてのレビュー