文学部唯野教授

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文学部唯野教授の評価:

4.35/5点 レビュー 60件。 A ランク

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Amazonレビュー一覧

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全122件 81〜100 5/7ページ
No.42
(4pt)

「批評家って人たちは最初から作家に負けてる」

昔からの筒井フリーク以外の方に筒井の名を知らしめたと聞く作品。一読すると文学批評論が載っていて、堅い文学作品に見えたのであろうか。内容は、大学の内情及び文学批評論をカリチャライズして描いたいつもの筒井らしい作品である。

一応、唯野と言う文学部の教授を主人公にした大学教職員間の醜悪な縦関係・昇進争いの暴露や唯野の口を通して語られる文学批評論がメインなのだが、これは筒井の普段の立場からの逆襲と言える。実名がすぐに分かる匿名とは思えない匿名を交えて、印象批評からポスト構造主義までの文学批評論がワザと饒舌かつ格調高く語られるが、筒井がそれらの批評論を全く信じていない事が良く分かる仕組みになっている。私の目には「虚構」と言う文字がヤケに大きく映った。実際、唯野の口を通して、こう語っているのである。

   「批評家って人たちは最初から作家に負けてる」

作中の文壇ジャーナリズム批判も同工異曲である。権威に対する筒井の反発心が良く出ている。そして、これを唯野の周囲の大学の人間に関する哄笑談として描いている所に筒井の本領がある。「文学的日常精神」を基本としているとの設定が可笑しい。また、大学内部の組織や昇進機構や批評論に対する詳しい注釈が付いているが、これは目新しい試みである(特に前者)。日本の小説では、大企業や大学病院の内幕を暴いたものは幾つかあるが、大学機構そのものを描いたものは殆ど無いのではないか。私が思い付つく限りでは、趣きは異なるが、漱石「三四郎」が当時の帝国大学の雰囲気を漂わせている位である。

大学文学部や文学批評論や文壇ジャーナリズムをカリチャライズし、大学機構の紹介小説と言う新しい分野を開拓し、作家としての自負を誇示した筒井らしい作品。
文学部唯野教授 Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授より
4000020153
No.41
(4pt)

「批評家って人たちは最初から作家に負けてる」

昔からの筒井フリーク以外の方に筒井の名を知らしめたと聞く作品。一読すると文学批評論が載っていて、堅い文学作品に見えたのであろうか。内容は、大学の内情及び文学批評論をカリチャライズして描いたいつもの筒井らしい作品である。

一応、唯野と言う文学部の教授を主人公にした大学教職員間の醜悪な縦関係・昇進争いの暴露や唯野の口を通して語られる文学批評論がメインなのだが、これは筒井の普段の立場からの逆襲と言える。実名がすぐに分かる匿名とは思えない匿名を交えて、印象批評からポスト構造主義までの文学批評論がワザと饒舌かつ格調高く語られるが、筒井がそれらの批評論を全く信じていない事が良く分かる仕組みになっている。私の目には「虚構」と言う文字がヤケに大きく映った。実際、唯野の口を通して、こう語っているのである。

   「批評家って人たちは最初から作家に負けてる」

作中の文壇ジャーナリズム批判も同工異曲である。権威に対する筒井の反発心が良く出ている。そして、これを唯野の周囲の大学の人間に関する哄笑談として描いている所に筒井の本領がある。「文学的日常精神」を基本としているとの設定が可笑しい。また、大学内部の組織や昇進機構や批評論に対する詳しい注釈が付いているが、これは目新しい試みである(特に前者)。日本の小説では、大企業や大学病院の内幕を暴いたものは幾つかあるが、大学機構そのものを描いたものは殆ど無いのではないか。私が思い付つく限りでは、趣きは異なるが、漱石「三四郎」が当時の帝国大学の雰囲気を漂わせている位である。

大学文学部や文学批評論や文壇ジャーナリズムをカリチャライズし、大学機構の紹介小説と言う新しい分野を開拓し、作家としての自負を誇示した筒井らしい作品。
文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸) Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)より
4006020015
No.40
(5pt)

現代文芸批評論はこれでマスター

このお話の「季刊へるめす」への初出が1987年9月というから、当時日本はバブル経済真っ盛りの時期。文学部唯野教授のお話も絶好調バブル経済にあわせるかのように、疾風怒濤の勢いでシュトルム・ウンド・ドランクしまくっている。まさに悲喜こもごもの悲喜劇パロディである。

 唯野教授の文芸批評講義を受講できる我々読者は幸せである。臨場感溢れる早治大学と立智大学での唯野教授の講義の内容は、要領を得ていて、とてもわかりやすい。内容に誤りはなく(多分)、注記も充実していて、いやもう大騒ぎ。

 「芥兀賞」候補になった匿名作家・野田耽二の作品「象牙」と「海霧」を読者は読むことができないのが、残念である。ちなみに本書では、筒井作品につきものの「三和土」が登場してこないがこれも少々残念である。また収録されている講義が前期のみで、後期に予定されているフェミニズム批評とか、精神分析批評が載っていないのも残念である。さらにもっというなら、榎本奈美子が最初と最後にちょこっとしか登場してこないのも少々どころか、非常に残念である。
文学部唯野教授 Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授より
4000020153
No.39
(5pt)

現代文芸批評論はこれでマスター

このお話の「季刊へるめす」への初出が1987年9月というから、当時日本はバブル経済真っ盛りの時期。文学部唯野教授のお話も絶好調バブル経済にあわせるかのように、疾風怒濤の勢いでシュトルム・ウンド・ドランクしまくっている。まさに悲喜こもごもの悲喜劇パロディである。

 唯野教授の文芸批評講義を受講できる我々読者は幸せである。臨場感溢れる早治大学と立智大学での唯野教授の講義の内容は、要領を得ていて、とてもわかりやすい。内容に誤りはなく(多分)、注記も充実していて、いやもう大騒ぎ。

 「芥兀賞」候補になった匿名作家・野田耽二の作品「象牙」と「海霧」を読者は読むことができないのが、残念である。ちなみに本書では、筒井作品につきものの「三和土」が登場してこないがこれも少々残念である。また収録されている講義が前期のみで、後期に予定されているフェミニズム批評とか、精神分析批評が載っていないのも残念である。さらにもっというなら、榎本奈美子が最初と最後にちょこっとしか登場してこないのも少々どころか、非常に残念である。
文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸) Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)より
4006020015
No.38
(5pt)

〈一つの比喩〉――〈潜在夢〉と〈顕在夢〉、強烈なフロイト臭

この作品の一つの流れとして、主人公である唯野教授が、自分の手になる文芸作品――文学賞を受賞した――を出版する、という筋がある。
 唯野教授はペンネームを用い、作品を投稿するのだが、そのペンネームは、自分の本名のアナグラムである。〈アナグラム〉。この時点からしてすでに、フロイトの臭いが、ほのかに漂ってくる。単なる気のせいだろうか?
 筒井さんはフロイトの説を逆手に取った。フロイトは人が夢見る現象を本が出版される過程にたとえた。私たちが目覚めているとき、夜見る夢の材料が潜在意識に蓄えられる。これは<潜在夢>と呼ばれる。この<潜在夢>は<夢の検閲>と呼ばれる一種の<翻訳>によって、元の意味が縮小されたり、拡大されたり、あるいは完全に欠落したり、逆の意味になったりする。これが、〈顕在夢〉である。そもそも人が〈顕在夢〉を見るのは、目覚めているときには味わえない充足感を寝ているときに味わうため、<願望充足>を実現させるためだという。
 筒井さんはこの本を通して、文学を読む際の心構えを説いたのではないかな、と私は思うのだ。小説にはいつも謎があり、謎を解くとなると、起源をたどらなければならない。起源をたどるための方法、批評するための方法が、この小説の形を借りた文芸批評方法論としての『文学部唯野教授』によって示されているのではないか。〈一つの比喩(たとえ)〉を挙げよう。
 この作品には、太宰治の短篇小説「佳日」がパロディ化された一節がある。この「佳日」において大隅と語り手をつなぐのは、二人の共通の恩師瀬川先生である。私のカンでは、筒井さんは、大隅・語り手と、瀬川先生との間にある師弟愛に、キリスト教における師弟愛、キリストとその弟子との間にある愛を見たのだと思う。それが〈夢の検閲〉による〈翻訳〉を経て、『文学部唯野教授』の一節を形作った、と私は見る。この場合、太宰「佳日」が〈潜在夢〉、『文学部唯野教授』の一節が〈顕在夢〉だ。詳述は避けるが、「佳日」は中国と日本とがキリスト教によって友好的に結びつくことを願い、太宰が創作した作品(「惜別」のヴァリエイション)として読める(藤原耕作氏の論が私の〈潜在夢〉として残っていたことを白状する)。
 附記。どなたも触れていないのは、当然過ぎて、書かないのか、あるいは、私の読みがとんちんかんに過ぎるのか、判然としないのだが、――この作品は、一章(講)〜九章(講)の構成になっているけれども、このまとまりは同時に、第十回目の講義ではないのか。私のおぼろな記憶が確かならば、十回目の講義は、フロイトがどうの、というものだった気がするのだ(いや、私の記憶違いか?)。ただしかし、私の印象からすれば、この作品からは、強烈なフロイト臭が漂ってくる、という事実だけは、指摘しておきたい。
 ちなみに、太宰治と筒井康隆氏との類似性は、平野芳信氏により、すでに指摘済みである。

文学部唯野教授 Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授より
4000020153
No.37
(5pt)

〈一つの比喩〉――〈潜在夢〉と〈顕在夢〉、強烈なフロイト臭

この作品の一つの流れとして、主人公である唯野教授が、自分の手になる文芸作品――文学賞を受賞した――を出版する、という筋がある。
 唯野教授はペンネームを用い、作品を投稿するのだが、そのペンネームは、自分の本名のアナグラムである。〈アナグラム〉。この時点からしてすでに、フロイトの臭いが、ほのかに漂ってくる。単なる気のせいだろうか?
 筒井さんはフロイトの説を逆手に取った。フロイトは人が夢見る現象を本が出版される過程にたとえた。私たちが目覚めているとき、夜見る夢の材料が潜在意識に蓄えられる。これは<潜在夢>と呼ばれる。この<潜在夢>は<夢の検閲>と呼ばれる一種の<翻訳>によって、元の意味が縮小されたり、拡大されたり、あるいは完全に欠落したり、逆の意味になったりする。これが、〈顕在夢〉である。そもそも人が〈顕在夢〉を見るのは、目覚めているときには味わえない充足感を寝ているときに味わうため、<願望充足>を実現させるためだという。
 筒井さんはこの本を通して、文学を読む際の心構えを説いたのではないかな、と私は思うのだ。小説にはいつも謎があり、謎を解くとなると、起源をたどらなければならない。起源をたどるための方法、批評するための方法が、この小説の形を借りた文芸批評方法論としての『文学部唯野教授』によって示されているのではないか。〈一つの比喩(たとえ)〉を挙げよう。
 この作品には、太宰治の短篇小説「佳日」がパロディ化された一節がある。この「佳日」において大隅と語り手をつなぐのは、二人の共通の恩師瀬川先生である。私のカンでは、筒井さんは、大隅・語り手と、瀬川先生との間にある師弟愛に、キリスト教における師弟愛、キリストとその弟子との間にある愛を見たのだと思う。それが〈夢の検閲〉による〈翻訳〉を経て、『文学部唯野教授』の一節を形作った、と私は見る。この場合、太宰「佳日」が〈潜在夢〉、『文学部唯野教授』の一節が〈顕在夢〉だ。詳述は避けるが、「佳日」は中国と日本とがキリスト教によって友好的に結びつくことを願い、太宰が創作した作品(「惜別」のヴァリエイション)として読める(藤原耕作氏の論が私の〈潜在夢〉として残っていたことを白状する)。
 附記。どなたも触れていないのは、当然過ぎて、書かないのか、あるいは、私の読みがとんちんかんに過ぎるのか、判然としないのだが、――この作品は、一章(講)〜九章(講)の構成になっているけれども、このまとまりは同時に、第十回目の講義ではないのか。私のおぼろな記憶が確かならば、十回目の講義は、フロイトがどうの、というものだった気がするのだ(いや、私の記憶違いか?)。ただしかし、私の印象からすれば、この作品からは、強烈なフロイト臭が漂ってくる、という事実だけは、指摘しておきたい。
 ちなみに、太宰治と筒井康隆氏との類似性は、平野芳信氏により、すでに指摘済みである。

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸) Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)より
4006020015
No.36
(5pt)

警世の書

大学学長までがセクハラで捉まるなど、大学教員たちのセクハラや愚行が治まらない。 日本の将来はどうなるのかと心配だ。 退屈と怒りを同時に癒そうとて、もう一度笑いたくて、怒りたくて、本書を読んだ。 教師になる前、若いときに読んだときは、ただあははあははと笑っていたが、読み返すほど、本書は大学人の資質や本性を底の底から予測的に描き出していたのではないかと、慄然とした。 ドタバタナンセンス、せいぜいパロディとして読んだ向きは、今一度本書を警世の書として読み直すことをお薦めしたい。
文学部唯野教授 Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授より
4000020153
No.35
(5pt)

警世の書

大学学長までがセクハラで捉まるなど、大学教員たちのセクハラや愚行が治まらない。 日本の将来はどうなるのかと心配だ。 退屈と怒りを同時に癒そうとて、もう一度笑いたくて、怒りたくて、本書を読んだ。 教師になる前、若いときに読んだときは、ただあははあははと笑っていたが、読み返すほど、本書は大学人の資質や本性を底の底から予測的に描き出していたのではないかと、慄然とした。 ドタバタナンセンス、せいぜいパロディとして読んだ向きは、今一度本書を警世の書として読み直すことをお薦めしたい。
文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸) Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)より
4006020015
No.34
(4pt)

文学評論とは、

文学評論とは何か?に気持ちよく答えてくれて、その上1990年代の大学内の様子も面白おかしく(もちろんオカシクさせる為の誇張した部分と、オカシイために誇張しない部分がフィクションとして混じっていて、その混じり方が最高!)読めます。

パロディとしても、メタフィクションとしても、もちろん小説としても面白くて1度読み始めたら止められないです。

でも、結局のところ、文学に限った話しじゃなく、それ以外の分野でも同じなトコロ、ここ日本が恐くなります。登場する権威ある大学教授やそれに類する人々の、誇張はあるけど、心の底ではそう思っていて言わないだけの様な人々が他の分野でもたくさんいますから。

できたら、いつか(筒井さんはもう書くこと無いと巻末でお話しされていますが)後期の講座分も読みたいです。
文学部唯野教授 Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授より
4000020153
No.33
(4pt)

文学評論とは、

文学評論とは何か?に気持ちよく答えてくれて、その上1990年代の大学内の様子も面白おかしく(もちろんオカシクさせる為の誇張した部分と、オカシイために誇張しない部分がフィクションとして混じっていて、その混じり方が最高!)読めます。

パロディとしても、メタフィクションとしても、もちろん小説としても面白くて1度読み始めたら止められないです。

でも、結局のところ、文学に限った話しじゃなく、それ以外の分野でも同じなトコロ、ここ日本が恐くなります。登場する権威ある大学教授やそれに類する人々の、誇張はあるけど、心の底ではそう思っていて言わないだけの様な人々が他の分野でもたくさんいますから。

できたら、いつか(筒井さんはもう書くこと無いと巻末でお話しされていますが)後期の講座分も読みたいです。
文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸) Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)より
4006020015
No.32
(5pt)

今こそ読まれるべき大学人の化けの皮をはぐ怪著

ちょっとしたきっかけで(「最高学府はバカだらけ」(光文社新書 石渡 嶺司著を読んで)、いったい何年(十何年、いやもっと)ぶりで、本書を手に取った。
前に読んだのは、オーバドクターで(大学教員としての)職に飢えていた頃の気がするから、ここに語られる大学人の実態はショックだった。

しかし、筒井の書きっぷりがあまりに見事で、あまりにおもしろくって、これが全く事実であるとは、みな思わなかったんだな。
あんまりのことで。
この大げさに描かれた所が面白いと。。。

そうして今度、今、大学教員のまっただ中にいる自分にはわかる。
実は、ここに書かれた事は、事実の百分の一にまで薄められているのだと。
それだけ薄めても、こうしてみな驚く、大学人のバカっぷり。

さすがの筒井も控えたのかしら、そのまんまを描くのは。
事実は小説より、バカなり、ってね。
それとも、この20年ほどでもっとすざまじくバカになってしまったのか。世の大学人と大学は。
そこらは、上に書いたの『最高学府はバカだらけ―全入時代の大学「崖っぷち」事情』あたりで検証する事なのかな。

とにかく、本作は20年の時を経てなお、幻想の大学の実態を余す事なく暴く、大学生全入時代の今こそ改めて読まれるべき好著(怪著)だと思われます。
文学部唯野教授 Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授より
4000020153
No.31
(5pt)

今こそ読まれるべき大学人の化けの皮をはぐ怪著

ちょっとしたきっかけで(「最高学府はバカだらけ」(光文社新書 石渡 嶺司著を読んで)、いったい何年(十何年、いやもっと)ぶりで、本書を手に取った。
前に読んだのは、オーバドクターで(大学教員としての)職に飢えていた頃の気がするから、ここに語られる大学人の実態はショックだった。

しかし、筒井の書きっぷりがあまりに見事で、あまりにおもしろくって、これが全く事実であるとは、みな思わなかったんだな。
あんまりのことで。
この大げさに描かれた所が面白いと。。。

そうして今度、今、大学教員のまっただ中にいる自分にはわかる。
実は、ここに書かれた事は、事実の百分の一にまで薄められているのだと。
それだけ薄めても、こうしてみな驚く、大学人のバカっぷり。

さすがの筒井も控えたのかしら、そのまんまを描くのは。
事実は小説より、バカなり、ってね。
それとも、この20年ほどでもっとすざまじくバカになってしまったのか。世の大学人と大学は。
そこらは、上に書いたの『最高学府はバカだらけ―全入時代の大学「崖っぷち」事情』あたりで検証する事なのかな。

とにかく、本作は20年の時を経てなお、幻想の大学の実態を余す事なく暴く、大学生全入時代の今こそ改めて読まれるべき好著(怪著)だと思われます。
文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸) Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)より
4006020015
No.30
(5pt)

大学って恐ろしい・・・と思ってしまう

物語の構成が「大学内部のドタバタ劇」と「唯野教授による文学批評講義」でワンセットになっています。

前半のドタバタ劇と後半の講義のテンションの違いが非常に印象的です。私が読んだのはハードカバー版ですが、本のカバーやレイアウト、注釈の部分まで学術書のパロディになっているところも面白かったです。

講義は純粋な講義としても楽しめるものになっていて、文学部出身の私としては当時の雰囲気を思い出しながら読んでしまいました。

同様に大学に通っていた当時の先生方の顔を思い出しては、「あの人たちもこんな馬鹿馬鹿しいことやってたのかな?」と多少本気で考えました。助手が刃物を持って暴れまわるところや、エイズ差別の部分は多少現実離れしていますが、その他いろいろな細かい部分で妙なリアリティを感じさせます。
文学部唯野教授 Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授より
4000020153
No.29
(5pt)

大学って恐ろしい・・・と思ってしまう

物語の構成が「大学内部のドタバタ劇」と「唯野教授による文学批評講義」でワンセットになっています。

前半のドタバタ劇と後半の講義のテンションの違いが非常に印象的です。私が読んだのはハードカバー版ですが、本のカバーやレイアウト、注釈の部分まで学術書のパロディになっているところも面白かったです。

講義は純粋な講義としても楽しめるものになっていて、文学部出身の私としては当時の雰囲気を思い出しながら読んでしまいました。

同様に大学に通っていた当時の先生方の顔を思い出しては、「あの人たちもこんな馬鹿馬鹿しいことやってたのかな?」と多少本気で考えました。助手が刃物を持って暴れまわるところや、エイズ差別の部分は多少現実離れしていますが、その他いろいろな細かい部分で妙なリアリティを感じさせます。
文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸) Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)より
4006020015
No.28
(5pt)

後期分も読んでみたいものだ

本書を再読して感じるのは、本書が発表された当時の日本は

麗しくもおぞましい「バブルの時代」真っ只中にあり、

本書の採り上げる「知の世界」もその只中にあったということだ。

当時のキャンパス(人文系)では、ポスト構造主義なんだよと前フリして

カタカナ(その多くはフランス語だった)のテクニカルタームを

矢継ぎ早に吼えていれば知的人物だと見られていたフシがある。

(もちろんそんな軽チャーを相手にせず、地に足をつけて

研究に励む若者もいたが、その多くは変わり者とみなされていた)

そんな知的引きこもりと退廃に、

強烈な嘲笑と批判を浴びせているのが本書である。

もちろん西洋思想史を完全に理解された上で

パロディ化・作品化する手腕は

知の巨人、筒井康隆ならではのものだ。

真面目な部分はためになり、

かつ抱腹絶倒の上質エンターテイメントである。

講義は前期で終わってしまっているのであるが、

後期分も読んでみたいものだ。(書かないだろうけど)
文学部唯野教授 Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授より
4000020153
No.27
(5pt)

後期分も読んでみたいものだ

本書を再読して感じるのは、本書が発表された当時の日本は

麗しくもおぞましい「バブルの時代」真っ只中にあり、

本書の採り上げる「知の世界」もその只中にあったということだ。

当時のキャンパス(人文系)では、ポスト構造主義なんだよと前フリして

カタカナ(その多くはフランス語だった)のテクニカルタームを

矢継ぎ早に吼えていれば知的人物だと見られていたフシがある。

(もちろんそんな軽チャーを相手にせず、地に足をつけて

研究に励む若者もいたが、その多くは変わり者とみなされていた)

そんな知的引きこもりと退廃に、

強烈な嘲笑と批判を浴びせているのが本書である。

もちろん西洋思想史を完全に理解された上で

パロディ化・作品化する手腕は

知の巨人、筒井康隆ならではのものだ。

真面目な部分はためになり、

かつ抱腹絶倒の上質エンターテイメントである。

講義は前期で終わってしまっているのであるが、

後期分も読んでみたいものだ。(書かないだろうけど)
文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸) Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)より
4006020015
No.26
(4pt)

野望は果たされか

本書は、いうまでもなく、テリーイーグルトンの代表的著作のひとつ「文学とは何か」の模倣である。いわゆる「文学」には固有の領域があるわけではなく、政治的社会的文脈をもつイデオロギーなのである。「ポスト構造主義」におけるデリダとその追従者たちとの評価の区別という、ポストモダン評価・批判の論点してはいまやあたりまえのイーグルトンの主張をもほぼ踏襲しているが、1987年という「ニューアカ」全盛期にこれが一体どう受け取られたのか興味深い。多分日本のポストモダニストは、気付かなかったろう。なにしろいまだにイーグルトンを「ポストモダニスト」と思っているむきもあるんだから。

 イーグルトンの文学批判・批評は、もちろん大学アカデミズムに対してもむけられていて、本書における「文学部」にたいする冷笑的批判もそれはそれであたっていないわけではないが、「古典的」文学者像に批判が集中していて、ニューアカ的文学者像に対しては甘いといわざるをえない。イーグルトンの批判派その両方に対して向けられているのであって、その点、本書とは一線が画される。

 そのことともかかわるが、本書はイーグルトンに依拠しすぎていて、日本の文脈が全く反映されていない。欧州と日本では、文学が果たしてきたイデオロギー的な機能はかなりちがっている。「後発資本主義」「天皇制」「戦後」というキーワードだけでも、その違いは鮮明である。もちろんこれは著者の責任ではなく、日本でこうした文学整理がほとんどやられてこなかったからだ。わずかな重要著作としては、津田左右吉、加藤周一があげられるだろうか、というか日本のアカデミズム文学批評は一体なにをやってきたんだろうか・・・。

 80年代にはこういうアカデミズムの重みはまがりなりにもあった。そういう時代にはこうした批評は意味があったが、イーグルトンもいっているように、こうしたものも「ないよりはあるほうがまし」だった。いまや文芸批評・「文学」は完全に死んだ。通俗的批評の海にとけ込んでしまったいま、なにものこっていない。最後にみせた唯野教授の野望は果たされていないのだ。
文学部唯野教授 Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授より
4000020153
No.25
(4pt)

野望は果たされか

本書は、いうまでもなく、テリーイーグルトンの代表的著作のひとつ「文学とは何か」の模倣である。いわゆる「文学」には固有の領域があるわけではなく、政治的社会的文脈をもつイデオロギーなのである。「ポスト構造主義」におけるデリダとその追従者たちとの評価の区別という、ポストモダン評価・批判の論点してはいまやあたりまえのイーグルトンの主張をもほぼ踏襲しているが、1987年という「ニューアカ」全盛期にこれが一体どう受け取られたのか興味深い。多分日本のポストモダニストは、気付かなかったろう。なにしろいまだにイーグルトンを「ポストモダニスト」と思っているむきもあるんだから。

 イーグルトンの文学批判・批評は、もちろん大学アカデミズムに対してもむけられていて、本書における「文学部」にたいする冷笑的批判もそれはそれであたっていないわけではないが、「古典的」文学者像に批判が集中していて、ニューアカ的文学者像に対しては甘いといわざるをえない。イーグルトンの批判派その両方に対して向けられているのであって、その点、本書とは一線が画される。

 そのことともかかわるが、本書はイーグルトンに依拠しすぎていて、日本の文脈が全く反映されていない。欧州と日本では、文学が果たしてきたイデオロギー的な機能はかなりちがっている。「後発資本主義」「天皇制」「戦後」というキーワードだけでも、その違いは鮮明である。もちろんこれは著者の責任ではなく、日本でこうした文学整理がほとんどやられてこなかったからだ。わずかな重要著作としては、津田左右吉、加藤周一があげられるだろうか、というか日本のアカデミズム文学批評は一体なにをやってきたんだろうか・・・。

 80年代にはこういうアカデミズムの重みはまがりなりにもあった。そういう時代にはこうした批評は意味があったが、イーグルトンもいっているように、こうしたものも「ないよりはあるほうがまし」だった。いまや文芸批評・「文学」は完全に死んだ。通俗的批評の海にとけ込んでしまったいま、なにものこっていない。最後にみせた唯野教授の野望は果たされていないのだ。
文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸) Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)より
4006020015
No.24
(5pt)

ただ者ならざる唯野教授の異常な日常

大学版『大いなる助走』、今度のターゲットは大学教員=文学評論家。 文芸批評理論の講義と、講義外での生活が同時進行的に叙述される。 講義は面白く為になり、大学でのドタバタ劇は相変わらず楽しい。 しかしながら研究そっちのけで大学での権力闘争にうつつを抜かす大学教員というのは、当時はどうだったか知らないが、少なくとも今ではあり得ない。 大学が痴者の楽園であった時代は終わったのだ。 しかし大学教員のマスコミ・コンプレックスというのは、ある程度は当たっていると思う。
文学部唯野教授 Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授より
4000020153
No.23
(5pt)

ただ者ならざる唯野教授の異常な日常

大学版『大いなる助走』、今度のターゲットは大学教員=文学評論家。 文芸批評理論の講義と、講義外での生活が同時進行的に叙述される。 講義は面白く為になり、大学でのドタバタ劇は相変わらず楽しい。 しかしながら研究そっちのけで大学での権力闘争にうつつを抜かす大学教員というのは、当時はどうだったか知らないが、少なくとも今ではあり得ない。 大学が痴者の楽園であった時代は終わったのだ。 しかし大学教員のマスコミ・コンプレックスというのは、ある程度は当たっていると思う。
文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸) Amazon書評・レビュー: 文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)より
4006020015