博士の愛した数式
評判
博士の愛した数式の評価:
4.32/5点 レビュー 849件。 A ランク
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全1,470件 541〜560 28/74ページ
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博士の愛した数式の評価:
4.32/5点 レビュー 849件。 A ランク
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読んでみて、たしかにこれは素直な本だろうと思った。これまで感じてきた、かすかに毒気をはらんだ謎めいた雰囲気、曖昧さが開いてみせるかもしれない可能性、という感じは、わずかに見受けられるとはいえ希薄である。
だがこの小説は小説で、小川洋子の一つの達成であるのはたしかだろう。それははっきり感じられた。旺盛な創作活動をずっと続けているわけだし、私がまだ知らないだけで、ネットの作品紹介など見てみても、いわば謎や毒の路線の本もいろいろありそうで、それはまたそれで別の機会に楽しむこととして、今はより素直なこの小説を楽しめばいいということだろう。『博士』は、素材自体はいわゆる美談に近い、見ようによってはあからさまなまでに感動的な内容には違いないのだが、そうとしても出来が半端ではないのである。
小川洋子は緻密な作家である。文章は隅々まで磨き抜かれている。いや、磨くというとニュアンスが違う。細やかに心配りがなされているとでもいおうか。プロットもよく工夫されて洗練されたものである。結果的に小川洋子の小説は品がよく柔らかで、かつある種の堅固さに支えられた安心感をもたらすものになる。題材自体は、しばしば困難な、問題意識の強いものだが、それでもどうしようもない不安の中に放り出されるようなことはない。これは大きな特徴ではないかと思う。
ここでもそれはよくわかる。この小説も、優れた数学者でありながら記憶がわずかしかもたないという障がいを抱えた「博士」と、決して恵まれているとはいえない生い立ちの語り手の家政婦とその息子を描いて、設定は重い。だが、それが苦しさよりも明るい希望を展望させることになる。
家政婦という設定にもちゃんと意味がある。変人扱いされる博士に寄り添えるだけの、いわばその資格というべき傷を抱えているということなのだ。
博士の記憶力が衰えていくのは、たとえば『アルジャーノンに花束を』を連想する痛ましさがあって心を打つが、そうした不安要素や、また秘められた人間関係や発見の秘密をめぐって、ミステリーの要素も巧みに作者は使いこなしていて、真実が浮かび上がったときの感動は深い。
独創的なのは、なんといっても数学と、そして、作者自身が熱烈なファンであるタイガースの、とくに江夏豊にまつわるモチーフである。それらによって三人の絆が見事に結ばれてゆく。数学の担う役割は、すでに初期短編にも現れていたが、ここでも同じだろう。要するに数学というのは、その内包する美しいまでの秩序のゆえに、決してやさしくはない生きるという営みの中での、祈りのようなものなのである。そしてその数学とタイガースとが結び合うという、一見突飛な工夫もこの作者ならではの独創であり、これまた数式のように美しい一つのハーモニーを生み出している。
さて、設定の上で最大の問題は、なぜこのように記憶の続かない人物を描くか、ということではないかと思う。むろん答えなどどこにも書いてはいないし、ネタばれというようなことではないから、ここで私が一つの考えを述べても許されると思う。博士の記憶が保たれる80分という時間の枠は、私にはまず、小川洋子がずっと描き続けているともいえる生の不安、その不確かさのようなものを象徴する表現のように思われた。しかしそれは、物語の進行とともに、限られているからこそ、消えゆくからこそかけがえのない、すばらしい時間を意味するものにも見えてくるのである。こうして光と影とを混ぜ合わせる離れ業。その才能にあらためて脱帽である。