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(短編集)
五郎治殿御始末
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五郎治殿御始末の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.15pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全68件 41~60 3/4ページ
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明治維新における人々の混乱、別けても武士たちの戸惑いは、大変なものだったんだなあと、強く感じました。 暦の変更、時間の変更などの影響が、これほど大きいとは思ってもみませんでした。 廃刀令や洋化に伴う混乱は当然なのでしょうが、これだけの大きな社会変革の中で、よく明治政府が政権を確立していったなあと思います。 六編の短編が収められていますが、特に「石榴坂の仇討」と表題作は、変化してゆく社会の中で、自らの生き方を定めてしっかりと生きようとする力強さに感動しました。 それともう一つは、この変化の時代に生きた人たちの逞しさを感じ、現代社会に生きる日本人も、当時の人たちに負けない気持ちを持って生きなければいけないと言うことを強く感じました。 | ||||
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数年前に読んだことがありましたが、今回読んでも更に面白く感じました。 臨場感溢れる表現、感情の描写…文句なしです。 明治維新を迎えた武士の苦悩、朝敵になってしまった人の立場、など教科書では知らなかった一面が分かります。特に時計の導入に戸惑う話はなるほどな~こんな苦労があったんだ、と新鮮でした。今でこそ分単位で生活している私達、でも江戸時代まではこんなにゆっくり時間がれていたんだと面白く感じま した。 お勧めです。 | ||||
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時代は江戸から明治へ移り変わる中で、過去を背負いながら生きる元武士たちの思いをほろ苦く描いた短編6編。 表題作の「五郎治殿御始末」は朝敵の汚名を着させられた元桑名藩士の物語。戊辰戦争には出陣せず、明治4年の 廃藩置県に伴い、藩士の整理(リストラ役)を終えた後には、自分の始末をすべき死所を求めてさ迷い歩くなか消息不明に。 数年後の夏のある暑い昼下がりに、五郎治が西南の役で戦死したことを桑名の実家に知らせに訪れたのは、上官だった 若い陸軍少佐。自身のことは一切語ることなく、五郎治の戦死公報と形見を置いていく場面が印象的。 この少佐もまた元桑名藩士で戊辰戦争では官軍に最も恐れられた名将立見尚文(鑑三郎)であることは、物語で語られることは なくとも明らかなのは見事な演出。 「石榴坂の仇討ち」は6編の中では傑出した作品。時は明治6年、新橋駅で車引きの車夫とたまたま乗り合わせた武士風の客。 このふたりが奇しくも遡ること13年前の万延元年3月、桜田門外の変で横死した大老井伊直弼の近習として護衛していたにも かかわらず主君を守れなかった元彦根藩士とこれを襲撃した元水戸脱藩浪士といった仇敵同士のまさかの再会。そしてふたりは・・・ ちなみに今年9月には映画化も決定。主演は元彦根藩士を中井貴一、元水戸浪士を阿部寛。 中井貴一は名作「壬生義士伝」に続いての主演。「石榴坂の仇討ち」はどんな結末が待っているのか・・・ | ||||
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本の中身を読んでいくとだんだんと面白くなり一気に読破しました、大変良かったです。 | ||||
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昔テレビドラマでやっていたのをボンヤリ覚えていて、amzonで見つけて、なんとなく読んでみようと思いました。読み始めたらドンドン引き込まれてながい時代の物語なのに、時間が流れるように読み上げました。 | ||||
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短編6話が載せられています。どれも浅田次郎らしく情の深い話になっています。 じわっと涙が出ます。深く重い話が浅田次郎にかかるとなぜか重すぎずさらっと心に快く感動を与えてくれるのはどうしてでしょう。 | ||||
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「西を向く侍」 突っ込みどころ満載の小説である。 まず設定に無理がある。最後の太陰太陽暦である天保暦は西洋天文学の基礎の上に成り立っており、幕末の天文方ともなれば西洋天文学に通じていたはずで、本当に優秀な者であれば文部省に雇われていたであろう。主人公(成瀬勘十郎)が雇われなかったということは、それだけの知識しかなかったということだろう。だいたい「和算術と暦法を修めて云々」とあるがそれはせいぜい寛政暦以前までのはなしで、寛政暦以降は西洋天文学が分かっていないと天文方として仕事ができなかったであろう。 「明治5年壬申11月9日。立冬はすでにすぎた・・」とあるが、この日はグレゴリオ暦12月9日にあたっており、立冬どころか大雪も過ぎている。冬至の12日前である。したがって「大雪はすでにすぎた・・」あるいは「まもなく冬至である・・」としないとおかしい。そもそも筆者は旧暦11月が冬至を含む月であることを知らないのではないか。 主人公が改暦詔書をよんで、「(旧暦は)荒唐無稽の迷信ではない」と心の中で叫ぶする部分があるが、詔書はそれまでの暦の中下段に載っていた「八専」「十方暮」あるいは「受死日」「天赦日」といった暦注を迷信であると言っているだけであり、太陰太陽暦のしくみ自体を迷信だと言っているのではない。トンチンカンな描写と言わざるを得ない。 最後に「西向く侍」の語呂合わせであるが、天保8年(1837)は2、4、6、9、11月が小の月であり、これを覚えるのにできたもので、明治改暦のときにできたものではない。 | ||||
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やっぱり、浅田次郎はセリフまわしがうまいなぁ。 この人の本は、声を出して読みたくなる。 特に、これのような武士、侍言葉を声に出して読むとしびれてくる。 思わず家に一人のとき、感情移入たっぷりに、侍気分でセリフを言い、講談気分で物語る。 効果音にぽぽんとテーブルをたたく勢い(笑) さて、時代は明治維新の後の世。 主人公たちは、いずれも元は侍だった男たち。 ある者は車引きになり、ある者は軍人になり、役人になり、警察官になり。 死に場所を求めてさすらう者もある。 江戸が終わり、明治の時代に移り変わり、すべての価値観が一変したとは、もちろん知っている。 しかし、英雄でもなんでもない、普通の人々、それも武士たちが、どのようにこうした時代の変化に対応したのかを描いた物語は少ない。 西洋暦や時刻に慣れない、いや、それを受け入れることのできない人々の苦悩は、すでにそれらが常識となっている時代に生きる私たちからみれば、その狼狽振りはこっけいですらあるが、体に染み付いたものをはぎとり、新しい価値を組みつけられることは、たまらない経験だったのだろう。そうしてひとつひとつを受け入れていきながらも、「これだけは」と守るものが、それぞれにある。「これ」と具体化されてはいないが、登場人物たちの言葉、行動のひとつひとつに、それは表現されている。総称するとしたら、武士らしさ、になるだろうか。 これからの未来にも、こうした変化は起きるかもしれない。 価値観が一変するような、大きな何か。起きないとは限らない。 そのとき、私たちには、あるだろうか。 彼らのように、頑なに守るべき「何か」を、私たちは、持ち合わせているだろうか。 | ||||
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幕末から維新という時代の変り目に遭遇した侍達に着目した短編集。 フィクションとはわかっているが、きっとこういう不器用だが一途な 侍達もいたのだろうなと、浅田作品特有の読み終わってからの余韻を 残す作品が多い。 けっして読んで損はないと感じた。 | ||||
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明治の新政府の統治下でまだ新時代に染まれていない武士たちの生き様を描いた短編6編。 時代の変化から取り残されている彼らの姿は、時に滑稽であり一抹の哀れさももよおすが、 はたと気づくと、時代の流れに流されない一徹さに今日我々が抱く武士の姿を見て心を動かされている。 軽快な文章でユーモラスでありながら最後にほろっとさせる浅田節にまたもやられた。 江戸から明治への転換期という時代設定がベストチョイスで、人間の悲哀と意地とたくましさが巧みに表現されている。 読後感もすっきりと爽やかな小説。 | ||||
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浅田次郎は、幕末モノは実にいい。女性の目から見た 輪違屋糸里 上 しかり、斬新な視点から新撰組を扱った 壬生義士伝 上 文春文庫 あ 39-2 しかり。 本作品は、どちらかいうとこれらの長編とは違って、ほぼ無名の市井の武士(それぞれかなり特殊な技量や職分ではあるが、しかし無名は無名)を扱った短編6作からなっている。 いずれもそれなりに読みごたえはあるが、やはりこの作者の本領は長編の方かな、と言う気がしないでもない。 ただ、その中で、特に素晴らしかったのは、この表題になっている一番最後に収められた「五郎治殿御始末」。 この作品は、私自身の故郷伊勢(三重)の桑名藩の武士を扱ったモノだけに特に興味深かった。 桑名藩は、完全な佐幕の会津藩、親藩でありながらさっさと勤王側にくみした尾張藩、それぞれの藩主と兄弟であった中で、佐幕の姿勢を取って戦いながら(とは言え、会津のように城を枕にしたわけではなく、転戦してしまった)、一方で藩の構成員は勤王側に恭順する姿勢も見せた、複雑な立ち居を示してしまう。 そんな知識は、ふるさとの歴史として多少なりとも知っていたつもりでが、本作にあるような、ドラマが、そこにあっただろうことを想像していなかった。 祖父が孫に聞かせるように話が語られるが、我々が期待する武士の品格、そして商人の力強さ、がとってもいい。 いやぁ、これはなかなか小品でありながら、ずっしりと来る、佳作でした。 | ||||
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明治への激動の時代に人生を翻弄される男(武士)達とその家族や周りの人達の儚く苛烈な生き様を各々の心が透けて見えるような空気感を持って見事に描いた優れた6編の短編小説集。 その時代の薫りがそこはかとなく文中に漂う中、過酷な運命の主人公達と平成の時代の自分を照らし合わせた時、お金ではない大切な何かが心に染み入って来ました。 昨日偶然、16歳の小柳ルミ子さんをリオで撮影した写真家の方と話をしたのですが、五郎治殿御始末の「語ればいつまでも忘れられぬ。語らねば忘れてしまう」という言葉に結びつき、この優れた6編の小説と共に深く印象に残っています。 | ||||
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勝てば官軍。歴史は勝者の記録である。 近代化を伴う大改革として我々は明治維新を認識していた。 欧米列強からの脅威を跳ね除けるには、国をあげて近代化し、欧米化を急がねばならなかったのはたしかだ。 しかし、薩長主体の改革から、妨げられた武士たちにとっては史上最大のリストラとなってしまう結果になった。 武士であることだけに誇りを持っていた侍たちの、歴史に埋められた悲しい物語がここにある。 世界不況に今の時代、なにか共通点があるような気がして仕方がない。 職を失い、生きる糧をも失い、しかし誇りだけは失わなかった侍の姿が悲哀をこめて描かれている。 | ||||
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明治維新後の激しく転変する世の中にあって、引きずってきた過去との折り合いの付け方に苦しむ男たちを描いた六つの短編集。“泣かせの”浅田節ではないが、時代背景を最大限利用しながら、ほろっと来させつつも爽やかな読後感を持たせるという、著者ならではの熟練の技である。いつもながら文章も巧いし。 武家政治の時代から四民平等の世へと急激に移っていった維新直後のこの時期。政治・行政の仕組みが激変したのは無論のこと、服装、髪型、暦、時間の観念、通貨等、暮らしの絶対的な基準と見なされていた様々なものが、わずかな間に目まぐるしく急変した。こうした環境の下で生きていると一体どの様な感覚に襲われるのだろうかと、本書を読み終えてふと思いを巡らせた次第。 | ||||
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明治維新によって、武士の世が終わりあたらしい世の中に。 今まで信じてきたものととってかわったものをどうやって受け止めたら良いか戸惑い、受け入れようとする葛藤を、武士階級だった人たちの目線でやさしく描いた短編集です。 最後の短編は作者の曾祖父をモデルに描いたもの。 自分が曾祖父のひざの上にいて、話を聞いているといった設定で 「わしはおまえの年頃に、いちど死に損なった。」と語ったその体験を書いています。 武士としての矜持と現実の生活の擦り合わせそこにうまれる悲喜こもごも に涙さそわれました。 とても面白い短編集です。 | ||||
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「鉄道員」をはじめ本当に短編小説と言う分野を丹念に熱心に書き続ける作家。 本作は、江戸から明治、髷から散切り頭へ移り行く中での侍の姿を中心に描いている。 付録として付けられている「御一新前後 江戸東京鳥瞰絵図(今尾恵介)」が、 本作を読みながら、あるいは読み終えた時に有り難い。私自身は東京で生まれ育ったものの、 都内の古い地名が今の風景と中々マッチしてこない。 桜田門と彦根の藩邸との距離感なんて説明されても頭の中で配置しきれない。 そんな私には有り難かった! そして、浅田作品に私は毎回泣かされてしまう。飛行機の中で映画化された「地下鉄に乗って」を観ていた時も、 泣いていたし、本作でも何度か実際の地下鉄の中で何度かホロリと来ていて気恥ずかしい思いをしていた。 本作の更に罪作りな事は、解説にまで泣かされた事だ。磯田道史氏の解説は、歴史学の視点から 実に見事に表題作を中心とした解説、浅田イズムの解説をされている。ここで、最後の涙だった。 久々、楽しませて頂きました! | ||||
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最近の浅田モノでは出色の短編集。 去り行く侍の時代に抗う「武士」の矜持。 「西向く侍」は名作。 是非、人目の無い場所で読まれることを。 | ||||
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800年續いた武士の時代が終焉を迎へた明治維新。 徳川15代將軍慶喜が大政奉還して政治形態が變はり、スムーズに新しい世の中になつたやうな印象がある。 もちろん、鳥羽伏見から五稜郭に至る舊幕府勢力の抵抗はあつたが、人の生活レベルでの變化に附いてはイメージ出來ていなかつた。 淺田次郎は、6つの短篇で、この間の變化を武士の視點から描いてみせた。 かつての武士たちは、御一新の後、どのやうに生きていつたのか。 商人になつた者、官僚になつた者、軍人になつた者、俥曳きになつた者・・・ それぞれの人生に於て、かつての武士としての生涯はどのやうに投影されてゐるのか。 いずれも趣のある作品だが、なかでも印象に殘つたのは、「遠い砲聲」と表題作「五郎治殿御始末」。 「遠い砲聲」の主人公は、近衞砲兵隊の中隊長として勤めながら、かつての主君に仕へてゐる。 西洋時計の使ひ方になかなか慣れられずに苦勞し、演習では大失態を演じてしまふ。 それでも周圍の彼に對する姿勢は暖かい。 軍人はいづれももと武士であり、かつての主君に仕へる彼の生き樣に好意的なのだ。 そして主君は、彼に對して何もしてやれない自分を情けなく思つてゐる。 最後の花火のシーンは壓卷だ。 武士の心意氣が傳はつてくる。 「五郎治殿御始末」は、武士としての身の始末のつけかたを描いたもの。 孫の養育と家の存續に心を碎いた老武士が選擇した道は・・・ すつきりと背筋の通つた生き方をしてきた人は、周圍がその生きざまを見てゐるものだ。 西南の役をもつて、武士の時代は名實ともに終はつた。 これまで知らなかつたこと。 御三家のひとつ尾張家はいち早く薩長の側についてゐたといふこと。 そして、その當主は會津中將、桑名越中守と實の兄弟だつたといふこと。 つまり、尾張大納言は、血をわけた兄弟である二人と鬪つたわけだ。 幕府側からすれば、武士の風上にも置けぬ裏切り者といふことになる。 もともと尾張は將軍家とは仲が惡かつたとはいへ、よもや、といふ感じがした。 | ||||
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明治維新を迎えた武士の生き様が6つの短編で描かれています。維新の英雄の物語は数多く語られていますが、ここに描かれているのは英雄ではなく普通の武士にとっての明治維新です。維新でそれまで脇差を差し髷を結っていた武士の時代は終わります。その終わり方も劇的で一年一年次々とお触れが出され、右往左往する中で時代が変わってゆきます。ここに描かれている侍は、時代の激変の中で武士道を守り通すと同時に自分自身が時代遅れの存在になったことを自覚し武士道の幕引きをする最後の武士の姿です。新たな時代の幕を開ける人がいれば必ずその影で古い時代の幕を閉じる人達がいます。そこに着目した著者の慧眼と共に自分自身の始末をつける武士の姿に感じ入るばかりでした。 | ||||
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江戸時代から明治時代へ。激動の時代の流れの中、孫と二人で 生きる五郎冶。生きることも死ぬこともままならない状況の中、 五郎冶はついに孫とともに死ぬことを決意するが・・・。 表題作を含む6編を収録。 明治維新。この言葉の裏に、さまざまな悲劇が隠されていた。時代の 流れに乗ることのできない人たちの苦悩や悲しみが切々と描かれて いて、読んでいてほろりとくるものもあった。中でも「柘榴坂の仇討」は、 どうしても過去を断ち切れない元武士の心の苦悩がよく描かれていて、 一番印象深かった。どうすれば未来へ目を向けられるのか?男たちの 慟哭が聞こえてきそうだった。時代が変わるということは大変なこと なのだ。そのことをあらためて感じる作品だった。 | ||||
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